光市事件 「生命の大切さは、人が人として扱われ、その人の生命が大切にされて初めて分かることです。」

2008-08-07 | 光市母子殺害事件

『光市事件 弁護団は何を立証したのか』(インパクト出版会)

p142~

弁護人の最終意見陳述

 〈本稿は2007年12月4日、広島高裁で行われた弁護人弁論の陳述に引き続いて行った最終意見陳述である〉

 弁護人の弁論は、以上述べた通りです。

 私たちは、この裁判で、被告人が何をやったのかを明らかにしてきました。

 そしてまた、私たちは、彼のパーソナリティ、つまり彼がどのように生きてきたか、そしてどのように生かされてきたかを、明らかにしてきました。

 しかし、残された課題があります。

 それは、彼が今後どう生きていくかという問題です。これは被告人自身の問題であると同時に、私たち大人の問題であり、この裁判で問われているもっとも重大な問題です。

 被告人は、幼い頃から父親の激しい暴力にさらされ、12歳で母親を自殺という不幸なことで失い、18歳1ヶ月で事件を犯して以降、8年間あまりの間、山口刑務所と広島拘置所の独居房で拘禁されてきました。

 その間に、祖母を失い、弟は行方知らずとなりました。父親の面会はわずかに5回、彼はずっと孤独の中で放置されてきたのです。結局、被告人が社会人として生活したのはわずかに14日間でした。

 この間、誰も、被告人に生きることの大切さを、言い換えれば生命の大切さを教えて来ませんでした。生命の大切さは、人が人として扱われ、その人の生命が大切にされて初めて分かることです。

 しかし、被告人には、そのようなものは、いっさいありませんでした。

 このような孤独な中で、被告人を支えたのは、ただ一人、プロテスタントの牧師である教誨師でした。しかし、現在は違います。岡山刑務所で無期懲役で服役している先輩、謝罪と贖罪に生きる人生も人生としてしっかりと存在することを教えてくれた先輩、毎日のように面会し身元引受人となり、時には彼を激しく叱りつけるもう一人の牧師、そして東京から仕事を放り出しててでも面会に来てくれる法律事務所の職員、そして、何よりもまず、事件をしっかりと受け止め、反省と贖罪の中で生きていくことを決意できるまでに成長した被告人がいます。

 繰り返します。このような状態の中で、残された課題はただ一つ。

 彼は、今後どうやって生きていけばいいのか。

 私たち弁護人は裁判所に求めます。

 彼に生きる道しるべを指し示す判決を強く求めます。

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関連; http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/adagio/unk-12menkai.htm

〈来栖のつぶやき〉

 再び、光市事件裁判についてエントリ。

 光市事件差戻し控訴審判決から3ヶ月以上が経過した。

 本件裁判をこの判決に押し上げたもの・・・・。判決とは、実に多くの様々な背景・事情を背負って下されるものであると実感させられた。一方、裁判長の一存によって、事実認定に始まって全てが決定されることの危うさも、痛感する。

 第三者にすぎないのに、私に、空虚と深い失望があった。事実認定も量刑の理由も量刑も、到底了解し難い。この裁判に拘泥するのは、「命」が問われているからだ。「正義」が問われているからだ。真正面から口にするのは矢張り気恥ずかしいが、「愛」(孤独)が問われているからだ。人間存在の悲しみが、問われている。

 綿井健陽さんはご自身のブログで、次のように言っている。http://watai.blog.so-net.ne.jp/2008-04-26

 “さらに何よりも、私はこの判決内容を受け入れることができません。事実関係の認定で客観的に見ても明らかに誤りがあります。したがって、私は法律上ではないが、道義上のうえで世論に対して「上告」して、もう一度自分の取材活動を通じて、事実関係を「争う」ことにしました。私の引退を期待・待望された多くの方(?)には本当に申し訳ないが、今後も私は取材活動を続けます。”


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