五木寛之×立松和平『親鸞と道元』 裁判員制度 悩んで立ちすくむ / 葛藤が大事

2011-01-03 | 裁判員裁判/被害者参加/強制起訴

『親鸞と道元』対談<五木寛之×立松和平> 祥伝社刊
p209~
 裁判員制度を親鸞流に読みとく
立松 ところで、裁判員制度が始まりまして、日本の裁判員制度というのはアメリカと違って量刑にまで踏み込む判断をしないといけません。そのときに、宗教者として人を裁くということができないとなると、死刑の判決を出せない、甘い刑を下さざるをえない、そういう葛藤がやがて訪れる。
五木 原理主義的イスラム教徒とか、原理主義的真宗とか、そういう人たちにとって、この制度はちょっと難しいような気がしますね。つまり原理主義で言えば、いまアメリカでも、たとえば9・11の事件の遺族の中にも、報復は絶対しないという主張をかかげてグループとして活動している人たちがいるんです。
 ブッシュが報復すると言ったときに、「『復讐するはわれにあり、われこれを報いん』とバイブルにもある、報復というのは神の仕業であって人間のなすべきことではない」と頑張っている人たちがいるわけですね。
 それはそれですごく立派なことですけれど、そのように原理主義的に解釈すると、一歩も動けなくなってしまう。ですからむしろそこは葛藤というのが大事だと思うんです。現実の自分の置かれている状況と、それからたとえば聖書とか、あるいはイスラム教のコーランであるとか、あるいは『歎異抄』であるとか、そういうこととの間の矛盾と対立の中に身を置いて、その中で翻弄されるのが人間ということだと思いますね。
 「右の頬を打たれたら左の頬を殴り返せばいいんだよ」という現実的な主張に対するブレーキとして大事なのであって、僕は原理主義的な解決というのは危ういところがあると思いますね。
 そうすると、そこで問題になってくるのは、結局こうしましょうというノウハウを1つのテキストとして出すことではなくて、個人が悩むという問題になってくる。結局、仏とわれ1人のためというのは、その人と自分の思想との関係ですから、1人ひとりが悩むしかない。
 現実の問題として人が人を裁けるか。たとえば罪なき者、この女を石もて打てと言われると誰も打てないということになるわけですから、誰も打ってはいけないというのが原理主義なのであって、そうではなくてやっぱり俺はこの女を打てるかということで悩んで立ちすくむ。その中で、打つか、打たないかと言われれば、打ちませんと答えるか、打つと言うか。でもそこで何の逡巡もなく、ストレートに善悪を簡単に決めて判断し、行動するのはいけないということを教えているんじゃないですか。
 人を裁くということは人間にできるかというと、何を言っているんだ、裁くのは当たり前じゃないかというのが世間の常識でしょう。
立松 そうですね。
五木 悪いことをしているんだから死刑にすればいいじゃないかというのが世間で、そのときに一歩立ち止まることが実は宗教の持っている意味だと思いますね。法律は宗教と相反する立場のものですから。
立松 たとえば極端な例ですが、戦前、宗教者という立場で、兵役を拒否した場合に、当然それは権力からすると許されないことでしたから、信仰と権力との間で常に悩むことになったと思うんですが、もしかしたら今度の裁判員制度というのは、新しい悩みのきっかけになるというか、1つの悩みの装置が提案された可能性があるのではないかと。
五木 ただ問題は、世の中の99%までが、そういう問題で悩まないんです。いまの世間は、もう当然だろうと頭から決めて、そして大きなメディアと政府が一体となって裁判員制度のパブリシティを進めていけば、100%の大勢は、そちらに流れていくことになる。
 そういう中で、本当に人間はそれでいいのかというごく一部の少数者の意見、疑問を提出するのが『歎異抄』であったり、宗教の役割なので、それが100%そのままになっていったら、「北朝鮮がミサイルを撃とうとしている。じゃあ、その前にやっつければいいじゃないか」となっていくわけです。じゃあ、撃たれっぱなしで日本民族は亡びればいいのか、と反論がでてきます。
 僕は宗教というのは、ある意味で無力の力というか、そういうものだと思うのは、現実の世界では、われわれはいまこんなことを論じていますけれど、人の善悪を簡単に決めるということが世の中の常識ですよ。その世の中の常識に対して1%の人間の抗議の申立というのがやっぱり大事なのであって・・・。
立松 文学だから、宗教だから聞いてくれるのであって・・・。ですから僕は文学なんかがなくてはいけないと思うんですけれどもね。何か社会との関係において逆転した発想がないと、みんなが正義で、本願ぼこりみたいになったら本当に怖くなる。
五木 そうだと思いますね。やはり無力の力というか、そういうものなので、そういう声が、もしもなかったとしたならば、とんでもない時代になっていくだろうと。
立松 しかし浄土真宗の歴史なんかを見ても、やっぱりものすごく苦労して、戦争のときも人を殺していいのかどうか、議論が相当あったようですね。
五木 それで一殺多生(いっせつたしょう)という理屈を考え出すわけですよ。百人を救うために一人を殺すことは正しいことだという理屈をこねくり出して、それに従うわけですが、それは考え方としては無理です。親鸞の立場でいうと、たとえば代官とか領主とかが念仏を弾圧してどうしようもない、いくら説明してもだめだ、どうするかというときに、逃散せよ、その場を逃げろと言っているのです。
 それは難しいことなんです。村を離れるということは、戸籍台帳から抹消されて無宿人になるわけですから、それは当時にあってはアウトカーストになることを意味します。それでも、一揆を起こして、みんな殺されてしまうよりも念仏を大事に守って逃散せよと。
立松 それはすごい世の中ですね。
五木 でも先日の、戦前の横浜事件の顛末なんかを見ていても、そういう戦時色というか翼賛体制の下では、本当に自由にものは言えないですからね。それは『歎異抄』なんかも当然禁書になりますよ。「よきことをなすも悪しきことをなすもその人の宿業」だなんて言った日には。
 ファシズムというのは、全員が一致しなければいけない、全員が同じ方向へ行けというのが根底の思想です。全体主義というのはそういうことです。そうすると『歎異抄』とか何とかというのは、百に一つとか千に一つとかいう声ですから、それがなくなった世界がファシズムなんです。
 ブッダの思想もそうだし、『歎異抄』の思想もそうなんだけれども、そういうファシズム、全体主義というものに対する一つの厳しい警告の書というか、それがなくなったら、もうおしまいだと思います。
p214~
 戦場で『歎異抄』をどう読むか
五木 こんなエピソードがあります。ある兵士が戦場で悩んでいた。明日は激戦のなかで敵兵を殺すことになるかもしれない。しかし、自分にそれができるだろうか。そのとき『歎異抄』のなかの「人一人を殺すことができないのは、心が善いから殺せないのではない。ときによって人は苦もなく千人殺すこともありうるが、それも、心が悪いわけではない。これらは宿業のなすところであって、自分で善悪を判断してはならない」というくだりを思い出して、心が落ちついたという。
 しかし、それで心が落ち着けるのだろうか、と僕は感じるのです。親鸞はどう語ったのだろうか、と。
立松 自分は大きな運命の中に、宿命の中に放り込まれたから仕方がないというふうな解釈ですよね。
五木 要するに「心がよくて殺さぬにはあらず」だから、宿業によって殺すこともある、殺さぬこともある、それはおまえの・・・。
立松 せいじゃないということですね。
五木 せいじゃないということになってしまうので、僕はこの話に接して、感動よりも疑問を感じるんですね。
立松 いや、そうですね。安心して、心悩ませることなく戦闘行為に没頭していいということになりますね。
五木 極端にいえばそこまで行く。成り行きに任せようと。
立松 他力の悪しき利用というか、任せたので自分にはもう責任がないというみたいな感じですよね。
五木 でもこういう読まれ方をするのが、ふつうかもしれません。
 ひと言いえば、秋葉原事件であれ、オウムの麻原であれ、その人が悪いんじゃない、その人の宿業を恨め、宿業を嘆けということになる。
立松 個人が無視されていますね。
五木 そこで先ほどの裁判員制度の話になりますが、自分は親鸞聖人を信じて共鳴している人間ですから、善悪という価値基準がありませんと言えば、裁判員から外されることになるでしょう。
立松 外されるんですか。
五木 現在の制度では、法律についてそういう偏見を持っているとみなされて、外されるんじゃないかな。だけど外されて、それでいいのかという問題ですね。外れればそれでいいのか。ただ、そこでやはり親鸞は、じゃあこういうふうに行動せよとは言っていないんですよ。ただ念仏せよと言っている。
立松 この兵隊さんは、本当に苦しいところに追い込まれてしまっているんだと思うけれども、ちょっと都合のいい解釈をしていますね。
五木 そうだと思います。何かそういう気がする。この言葉をそういうふうに解釈してしまって、そこで自分の心の支えになったというのでは、正直言ってわからない。
立松 この解釈だと何でもありになっちゃうじゃないですか。しかし、これは地獄ですね。
五木 ですから、何度かお話したように、僕は、地獄は現世にあると思っているんです。たとえば自分がドイツ国民に生まれて、あの戦時色の中で育って、ヒトラーを崇拝して、それでユダヤ人を一掃すべきだという意見に従って、それでアウシュビッツの看守か何かに回されて、毎日毎日、人を物理的に処理する仕事に従事させられる人間になったときに、それを拒否して軍法会議に立てるかどうか。
立松 たとえば戦時中の日本人で、兵隊に取られた多くの人が、それを矛盾と感じるかどうかはともかく、戦場に行くことに対する大いなる思考を迫られたわけでしょう。そうでもないのかな。
五木 僕は、大半はそうではなかったと思いますね。善悪というのを簡単に決めて、「支那は悪いやつ、やっつけてしまえ」というメディアと国のプロパガンダに乗せられる面も多かったのではないでしょうか。僕は子どもの頃、4つか5つだと思いますが、「南京陥落」と、新聞にプロレスのような大きな見出しが出て、それで花電車が出て、町は提灯行列で沸き返って、もうみんな万歳、万歳といって日本中の人が町に繰り出して、「南京陥落、やった、やった」と言って大騒ぎしているそのさまを見て、日本国民こぞって全部が喜んでいたなという感じがするんです。
 ですからそういうふうに戦場に行って、こんなふうに悩むよりは、まず飯がまずいとか、今日命が危ないんじゃないかということで悩む人はいても、そういう問題で人間的に悩んだ人というのはそれほどに多くないような気がします。
立松 僕の父は満州で兵隊に取られて亡くなったんですけれど、小さな手記を残してくれたんです。それを死ぬまでに小説にしようと思っているんだけれど、父は普通の会社員をしていて関東軍に取られたんです。兵営に入ったらめちゃくちゃに殴られた。普通の市民ですよ。ところが何回もビンタをくらっているうちに、もう何が何だかわからなくなったということも書いてありましたね。やはり思考させないんでしょうね。
五木 ほとんどの日本国民は思考停止の状態にあったと思います。
立松 怖いですね。
五木 自分は大丈夫と思ってはいけない。私たちは、自分が絶対大丈夫と思っていても、いつファシストになったり、人を殺したりするかもしれないんですから。
立松 そういうふうに考えれば、そうですね。
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◇ 五木寛之著『人間の運命』=人間すべて悪人という反ヒューマニズムの自覚 2009-11-12 | 仏教・・・/親鸞/五木寛之
p171~
 真の親鸞思想の革命性は、
「善悪二分」
 の考え方を放棄したところにあった。
「善人」とか「悪人」とかいった二分論をつきぬけてしまっているのだ。
 彼の言う「悪人正機」の前提は、
「すべての人間が宿業として悪をかかえて生きている」 という点にある。
 人間に善人、悪人などという区別はないのだ。
 すべて他の生命を犠牲にしてしか生きることができない、という、まずその単純な一点においても、すでに私たちは悪人であり、その自覚こそが生きる人間再生の第一歩である、と、彼は言っているのである。
『蟹工船』と金子みすゞの視点
 人間、という言葉に、希望や、偉大さや、尊厳を感じる一方で、反対の愚かしさや、無恥や残酷さを感じないでいられないのも私たち人間のあり方だろう。
 どんなに心やさしく、どんなに愛とヒューマンな感情をそなえていても、私たちは地上の生物の一員である。
 『蟹工船』が話題になったとき、地獄のような労働の描写に慄然とした読者もいただろう。
 しかし、私は酷使される労働者よりも、大量に捕獲され、その場で加工され、母船でカンヅメにされる無数の蟹の悲惨な存在のほうに慄然とせざるをえなかった。
 最近、仏教関係の本には、金子みすゞの詩が引用されることが多い。
 なかでも、「港ではイワシの大漁を祝っているのに、海中ではイワシの仲間が仲間を弔っているだろう」という意味をうたった作品が、よく取り上げられる。
 金子みすゞのイマジネーションは、たしかにルネッサンス以来のヒューマニズムの歪みを鋭くついている。
 それにならっていえば、恐るべき労働者の地獄、資本による人間の非人間的な搾取にも目を奪われつつ、私たちは同時にそれが蟹工船という蟹大虐殺の人間悪に戦慄せざるをえないのだ。
 先日、新聞にフカヒレ漁業の話が紹介されていた。中華料理で珍重されるフカヒレだが、それを専門にとる漁船は、他の多くの魚が網にかかるとフカヒレだけを選んでほかの獲物を廃棄する。
 じつに捕獲した魚の90%がフカ(サメ)以外の魚で、それらはすべて遺棄されるというのだ。しかもフカのなかでも利用されるのはヒレだけであり、その他の部分は捨てられるのだそうだ。
 私たち人間は、地上における最も兇暴な食欲をもつ生物だ。1年間に地上で食用として殺される動物の数は、天文学的な数字だろう。
 狂牛病や鳥インフルエンザ、豚インフルエンザなどがさわがれるたびに、「天罰」という古い言葉を思いださないわけにはいかない。
 私たち人間は、おそろしく強力な文明をつくりあげた。その力でもって地上のあらゆる生命を消費しながら生きている。
 人間は他の生命あるものを殺し、食う以外に生きるすべをもたない。
 私はこれを人間の大きな「宿業」のひとつと考える。人間が過去のつみ重ねてきた行為によってせおわされる運命のことだ。
 私たちは、この数十年間に、繰り返し異様な病気の出現におどろかされてきた。
 狂牛病しかり。鳥インフルエンザしかり。そして最近は豚インフルエンザで大騒ぎしている。
 これをこそ「宿業」と言わずして何と言うべきだろうか。そのうち蟹インフルエンザが登場しても少しもおかしくないのだ。
 大豆も、トウモロコシも、野菜も、すべてそのように大量に加工処理されて人間の命を支えているのである。
 生きているものは、すべてなんらかの形で他の生命を犠牲にして生きる。そのことを生命の循環と言ってしまえば、なんとなく口当たりがいい。
 それが自然の摂理なのだ、となんとなく納得できるような気がするからだ。
 しかし、生命の循環、などという表現を現実にあてはめてみると、実際には言葉につくせないほどの凄惨なドラマがある。
 砂漠やジャングルでの、動物の殺しあいにはじまって、ことごとくが目をおおわずにはいられない厳しいドラマにみちている。
 しかし私たちは、ふだんその生命の消費を、ほとんど苦痛には感じてはいない。
 以前は料理屋などで、さかんに「活け作り」「生け作り」などというメニューがもてはやされていた。
 コイやタイなどの魚を、生きてピクピク動いたままで刺身にして出す料理である。いまでも私たちは、鉄板焼きの店などで、生きたエビや、動くアワビなどの料理を楽しむ。
 よくよく考えてみると、生命というものの実感が、自分たち人間だけの世界で尊重され、他の生命などまったく無視されていることがわかる。
 しかし、生きるということは、そういうことなのだ、と居直るならば、われわれ人類は、すべて悪のなかに生きている、と言ってもいいだろう。
 命の尊重というのは、すべての生命が平等に重く感じられてこそなのだ。人間の命だけが、特別に尊いわけではあるまい。
 金子みすゞなら、海中では殺された蟹の家族が、とむらいをやっているとうたっただけだろう。
 現に私自身も、焼肉大好き人間である。人間に対しての悪も、数えきれないほどおかしてきた。
 しかし、人間の存在そのもの、われらのすべてが悪人なのだ、という反ヒューマニズムの自覚こそが、親鸞の求めたものではなかったか。


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