光市母子殺害事件差し戻し審
【速報】「自白の殺害方法と違う」光母子殺害で弁護側鑑定人
中国新聞'07/7/25
一九九九年四月に光市で起きた母子殺害事件の差し戻し審の公判が二十五日、前日に引き続き広島高裁であった。弁護側の依頼で法医鑑定をした二人の専門家が法廷に立ち、一人目の日本医科大大学院の大野曜吉教授は「捜査段階で男性被告が自白した殺害方法は遺体に残さ れた損傷と整合しない」などと証言、差し戻し審での被告の証言と一致するとの考えを示した。
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認定事実への疑問証言=弁護側の法医学者、光市母子殺害-広島高裁
2007/07/25-21:08 時事通信社
山口県光市の母子殺害事件で、殺人などの罪に問われ、最高裁が一、二審の無期懲役判決を破棄した当時18歳少年で元会社員の被告(26)の差し戻し控訴審第6回公判が25日、広島高裁(楢崎康英裁判長)で開かれた。弁護側証人の法医学者2人が、被告の捜査段階の自白は遺体の鑑定結果と整合しないとして、最高裁が認定した犯罪事実を否定する証言をした。
大野曜吉日本医科大教授(法医学)は、殺害された会社員本村洋さん(31)の妻弥生さん=当時(23)=について「首に両手で絞められた跡は見られない」と説明。あごに残る円形の傷は、被告が背後から腕で首を絞めた際、作業着袖の金属製ボタンが当たったと考えられるとした。
長女夕夏ちゃん=同(11カ月)=を床にたたき付けたとする点には「(事実なら)脳に損傷があるはずだ」と否定。「首の後部でひもを強く絞めた跡はない」とも述べた。
上野正彦元東京都監察医務院長(同)は、右手を逆手にして弥生さんの首を押さえたなどとする差し戻し審での被告の供述は「(遺体の状況と)一致する」と指摘した。
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「首の傷 自白と合わず」 光母子殺害事件で法医学者証言
中国新聞 '07/7/26
光市母子殺害事件で殺人などの罪に問われ、最高裁で無期懲役の判決を破棄、審理を広島高裁に差し戻された犯行時十八歳の男性被告(26)の差し戻し審の公判が二十五日、広島高裁であった。弁護側が法医鑑定を依頼した専門家二人が証人として「(被告が捜査段階で自白した)殺害方法は遺体の状況とは合致しない」との見方を示し、いずれも差し戻し審での弁護側の主張に沿う証言をした。 日本医科大大学院の大野曜吉教授(法医学)と法医学者で東京都監察医務院の上野正彦元院長。
弁護側の尋問で、二人は遺体の状況や司法解剖の鑑定資料に基づく自身の鑑定結果を踏まえ、本村洋さん(31)の妻弥生さん=当時(23)=の首に残された傷に「不自然な点がある」などと説明。傷の位置や形状が「馬乗りになり、全体重をかけ両手で首を絞め続けた」とする捜査段階の被告の自白と合わないと述べた。
上野元院長は「右の逆手で押さえたと推測できる」などと主張。大野教授も、押さえたのは片手だったとの見方を示し、「大声を出されて右の逆手で口をふさごうとした際、首にずれて誤って死なせた」とする弁護側の主張に沿う発言をした。
二人は本村さんの長女夕夏ちゃん=当時11カ月=殺害に関する被告の捜査段階の自白にも矛盾点があると説明。「頭上から床にたたき落とした」との自白は「脳に重い症状が出ていない」などとして疑念を呈した。
大野教授は「夕夏ちゃんの首に巻いたひもを力いっぱい引っぱって絞めた」との自白も「強く引っ張ったような所見はない」などと説明した。
公判は二十六日も続き、弁護側が申請した精神鑑定の証人尋問などがある。
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人格発達は極めて遅れており、他の18歳と同様の責任を問うのは難しい
中国新聞 '07/7/26
光母子殺害事件の差し戻し控訴審公判が二十六日、広島高裁(楢崎康英裁判長)であり、元少年(26)=事件当時(18)=を精神鑑定した精神科医の野田正彰・関西学院大教授が弁護側証人として出廷、犯行は「計画的とはいえない」と証言した。
野田教授は、元少年の人格は、父親の暴力や依存関係にあった母親の自殺などが原因で極めて幼いと指摘。本村弥生さん=当時(23)=を「パニックに陥り押さえ込んだ」と述べた。
元少年が夫洋さん(31)に拘置所での作業の報酬を送金したことは「謝っているのは本心だが、一方で許されるという甘えもある」と説明した。
元少年は面接の際「弥生さんはまだ生きている」「来世で(弥生さんの)夫になる可能性がある」などと話したといい、野田教授は「本当の意味で二人を殺した認識ができない」と分析した。
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元少年の精神鑑定医証言 「人格発達遅れ」
(毎日新聞 - 07月26日 12:43)
山口県光市で99年、母子を殺害したとして殺人や強姦(ごうかん)致死罪などに問われた当時18歳の元少年(26)の差し戻し控訴審第7回公判が26日、広島高裁(楢崎康英裁判長)で開かれた。弁護側の依頼で元少年の精神鑑定をした野田正彰・関西学院大教授の証人尋問があり、野田教授は「人格発達は極めて遅れており、他の18歳と同様の責任を問うのは難しい」と述べた。
1、2審判決によると、元少年は99年4月14日、光市の会社員、本村洋さん(31)方に排水検査を装って上がり込み、妻の弥生さん(当時23歳)を強姦目的で襲い、抵抗されたため両手で首を絞めて殺害。傍らで泣き続けていた長女夕夏ちゃん(同11カ月)を床にたたきつけ絞殺した。
野田教授は、元少年の父親が妻と元少年に繰り返し暴力を振るっていたことが、元少年の内面に大きな影響を与えたと指摘。その上で「事件当時までの人格発達は極めて遅れており、更に母親の自殺で停滞した」と述べた。【安部拓輝、大沢瑞季】
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光市事件差し戻し審 鑑定書3通・全供述調書を証拠採用
元少年の供述変遷、解明へ=光市母子殺害、差し戻し審-広島高裁(時事通信)
1999年4月に起きた山口県光市の母子殺害事件で、殺人などの罪に問われ、最高裁が一、二審の無期懲役判決を破棄した当時18歳少年の被告(26)の差し戻し控訴審第7回公判が26日、広島高裁であり、楢崎康英裁判長は、被告の供述の変遷を把握するため、逮捕時からの全供述調書を証拠採用した。
また、最高裁の認定事実に疑問を呈する法医学者らの鑑定書3通なども証拠として認めた。
この日の証人尋問で、野田正彰・関西学院大教授(精神病理学)は「父親の虐待や実母の自殺で被告の精神発達は未成熟」と指摘。18歳と同等の刑事責任を問うことは困難だと証言した。[2007年07月26日 16時10分]
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「週刊ポスト」2007,8,17・24
弁護団の依頼により元少年被告人の精神鑑定を行った野田正彰氏(関西学院大学教授・精神科医)の話
広島拘置所の面会室。透明なアクリル板をはさんで、山口県光市母子殺害事件の被告人Aと私が初めて対面したのは、今年1月29日のことです。
Aの口調はボソボソと頼りなく、内向的な印象を受けました。感情も表にほとんど現わさない。拘置中に『広辞苑』をすべて読んだというだけあって、難解な言葉も使うのですが、概念をよく理解していない。およそ26歳とはほど遠く、中学生、否、小学生のような印象を最初に抱きました。
しかし、淡々と話していても、ひとたび父親のことが話題にのぼると、Aは心底怯えた表情を見せる。Aは「捕まったとき、これで父親に殺されなくてすむと思った」とすら語った。それは、父親の暴力がどれほどAの心を傷つけていたのかを物語っていた。
その日を機に、2月8日、5月16日と、計3回合計360分超に及ぶ面談が始まったのです----。
ここにきて、Aの主任弁護人である弁護人安田好弘弁護士ら21人の弁護団に対して、脅迫や嫌がらせが続発しています。日弁連や朝日新聞社あてに送られた脅迫文には、弁護人安田氏を「抹殺する」と脅し、銃弾のような金属片まで同封されていたと報じられています。
安田氏の依頼でAの精神鑑定をした私に対しても、<(野田は)犯人を擁護し、遺族を深く傷つける証言を行った。また、シンポジウムでは遺族本村洋に対し、「社会に謝れ」などの脅迫・侮辱的な暴言を吐いた>などと、まだ公判で証言もしていないのにデマが意図的に流されていた。さらに、勤務先である関西学院大学には、電話やメールで「辞めさせろ」「大学の恥」などの抗議がありました。ネットには、私が死刑廃止論者であるとして、Aの死刑を阻止するために弁護団に協力しているとの書き込みもありました。
私は精神科医として病気の診断をするのであり、刑の判断は司法が行うものです。
しかしマスコミ、とりわけテレビは偏向報道で大衆裁判の風潮を煽った。「凶悪犯を弁護するとは何事だ」とばかりに、弁護団を犯人と同一視し、憎悪の感情を扇情的に煽り続けた。
*「父に殺されると思った」
そもそも、安田弁護士が依頼してきたのには理由があります。
Aの述べることがよく理解できず、またあまりの幼さに驚いた。その上、家庭裁判所の調査官(3名)による詳細な「少年記録」には「AのIQは正常範囲だが、精神年齢は4,5歳」と書かれていた。また、生後1年前後で頭部を強く打つなどして、脳に器質的な脆弱性が存在する疑いについて言及していました。
さらに広島拘置所では、Aに統合失調症の治療に使う向精神薬を長期多量に服用させていました。当惑した弁護団が精神鑑定を求め、裁判所が認めたのです。
精神鑑定では、Aへの直接面談以外にも、Aの父親、実母方の祖母、実母の妹、Aの友人にも話を聞いています。Aの生育歴、人格形成の経緯を多角的に調べました。結果、私は「Aは事件当時、精神病ではなかった。しかし、精神的発達は極めて遅れており、母親の自殺時点で留まっているところがある」という結論を下しました。
なぜ、Aには精神的発達の遅れがあったのか。理由を知るためには、Aの幼少期まで遡らねばならない。
Aは1981年、山口光市で、地元の新日鉄に勤務する父と、母の間に長男として生まれました。2歳年下の弟とともに育てられましたが、家庭は常に「暴力」と「緊張」そして「恐れ」に支配されていました。
父親は、結婚直後から、母親に恒常的に暴力を振るっていたようです。これは実家の母や妹が外傷を見ています。
父親から暴力を受け続ける母親の姿は、Aにはどう映っていたのでしょうか。
Aはやがて、母をかばおうとするようになります。これを契機に、父親の暴力の矛先は押さないAにも向うようになった。「愛する母を助けてあげられない」という無力感にも苛まれる。幼児期、父親に足蹴にされ、冷蔵庫の角で頭を打ち、2日間もの間朦朧としていたこともあったそうです。
小学校1~2年生ごろに海水浴に行った際には、父親は、泳げないAが乗ったゴムボートを海の上で転覆させ、故意に溺れさせた。また、小学3~4年生ごろには、父親に浴槽の上から頭を押さえつけられ、風呂の水に顔を浸けられたといいます。この時、彼は「殺されると思った」と感じている。
父親の暴力は、些細なことから突然始まるために、Aは、どう対応すればいいのか分からなかった。
Aが母親を守ろうとすると、父から容赦ない暴行を受け、逆に母親がAを守ろうとすると、父は母に対して暴力を加えた。
「どうしようもなかった、何もできなかった、亀になるしかなかった。僕は守れなかった」
面接中あまり感情を表現しないAですが、母のことになると無力感に顔を歪めていました。
このようにAは、常に父親の雰囲気をうかがってびくびくするような環境で育ちました。本来、愛を与えてくれるはずの親から虐待され続けたA。そして、彼の人間関係の取り方、他人との距離の置き方は混乱してゆくのです。
*「母の首つり遺体」の記憶
父親の暴力に怯える母とAは、ともに被害者同士として、共生関係を持つようになります。
母親は親族からも遠く離れ、近くに相談相手もおらず孤立した生活を送っていた。その中で、長男のAとの結びつきを深めていった。母親はAに期待し、付っきりで勉強を見た。Aも、母親が自分の面倒を見てくれることが本当にうれしかったと語っています。
そしてAが小学校の高学年になると、2人の繋がりは親子の境界をあいまいにする。母子相姦的な会話も交わされるようになりました。
母親から「将来は(母とAとで)結婚して一緒に暮らそう。お前に似た子供ができるといいね」と、言葉をかけられたことがあったといいます。
「母の期待に応えられるかどうか、本当に似た子が生まれるのか不安だった」と、Aは当時の心境を振り返っています。
Aは私との面談で、母親のことをしばしば妻や恋人であるかのように、下の名前で呼んでいました。それほど母親への愛着は深く、母親が父親の寝室に呼ばれて夜を過ごすと、「狂いそうになるほど辛かった」とも話しています。
母親は虐待により不安定になり、精神安定剤や睡眠薬にも頼るようになり、自殺未遂を繰り返しました。そして、Aが中学生(12歳)の時に38歳で自殺します。その際、自宅ガレージで首を吊った母親の遺体を、Aは目撃している。
Aにその時の状況を聞くと、求めてもいないのに詳しい図面を描き始める。それほどその時のショック、精神的な外傷体験は鮮明に記憶されている。Aは「(母親の)腰のあたりがべったり濡れていた。その臭い(自殺時の失禁)も覚えている」と語りました。
彼はまず、「父親が愛する母を殺したのだ」という念を強くします。これには二重の意味がある。
「父親の虐待で母が死を選んだ」という思い。さらに、父親が第一発見者を祖母から自分へ変えたことから、「父親が直接殺したのではないか」という疑いです。
母を殺した父を殺そうと包丁を持って、眠っている父のもとに行ったこともあったが、かわいそうで実行できなかったともいっています。弟と2人で殺すことを考えたが、まだ負けると断念したともいっています。
同時に、Aは「母親を守れなかった」との罪悪感も募らせていった。後追いして自殺しない自分を責めてもいます。
こうした生育歴と過酷な体験により、Aの精神的発達が極めて遅れた状態になったと考えられる。理不尽な暴力を振るう父親を恐怖し避ける。一方、母親とは性愛的色彩を帯びた相互依存に至った。父親の暴力がいつ始まるか、怯えながらの生活は他人との適切な距離感を育むことを阻害した。Aは、他人との交流を避け、ゲームの世界に内閉していった。
そして、母親の死の場面は、強烈な精神的外傷としてAの心に刻まれた。この精神的外傷は、以後、何度となく彼の心の内を脅かすこととなりました。
*死刑になれば「弥生さんの夫に」
検察はAの犯行を、計画を立て、女性だけの家に入り込んで強姦しようとした、としています。ところが、犯行当日、Aはなんとなく友人の家に遊びに行って過ごし、友人が用事があるというので、たまたま家に帰った。そして、何となく時間を潰すために近くのアパートで無作為にピンポンを押していった。そこに、緻密な計画性は認められない。
たまたまドアを開けた本村弥生さんが、工事用の服を着ていたAを見て、「ご苦労さま」と受け入れた。その時、Aは弥生さんの先に、かつてすべてを受け入れてくれた亡き母を見ていたと考えられるのです。
弥生さんの抵抗に驚いたAは、殺害に至る。プロレス技のスリーパーホールドで絞めた行為をAは、「ただ、静かにしてもらいたかっただけ」と語っている。殺害後、ペニスを挿入したことについては、母親との思い出がフラッシュバックしたと考えられます。理由は首を絞められた弥生さんが失禁したこと。その異臭で母親の自殺の光景が蘇った。そこで母親と一体になろうとした思いに戻っていったのかもしれません。
ただし、A本人は、このセックスを「死者を蘇らせる儀式。精液を注げば生き返ると思った」とも主張していますが、これはどうか。当時、本当にそう考えていたかは疑問も残り、後付けの可能性もあります。
夕夏ちゃんを殺害して、遺体を押し入れの天袋に入れた行為はどうか。本人は、「押入にはドラえもんがいて、何とかしてくれると思った」
と話していますが、彼は夕夏ちゃん殺害について私に「思い出せない、分からない」と答えている。ですから、犯行時にドラえもんの存在が思い浮かんだかどうかはわかりませんし、これも後付けの可能性がある。
ただし、彼が、自分の中に閉じこもり、ファンタジーの世界に生きていたということは事実でしょう。
また、彼は、自分の母親や弥生さんが死んでしまったこと、死は無であることを認識しているかどうか。「死んでいるが、生きている」と二重の思いを語ります。
「もし僕が死刑になって、先に弥生さん、夕夏ちゃんと一緒になってはいけないのではないか。再会すれば、自分が弥生さんの夫になる可能性があるが、これは本村さんに申し訳ない」と語るA。世間は反省の気持ちもない傲慢な主張と受け取るかもしれませんが、実際の本人は十分に反省する能力もないほど幼稚だからこそ、弁護団でさえ戸惑うようなことを平気でいうのです。
繰り返しますが、彼は事件当時、統合失調症や、妄想性障害のような精神病ではありません。しかし、精神的発達は母親の自殺の時点で停留しており、18歳以上の人間に対するのと同様に反省を求めても虚しい。本人も混乱するばかりです。さらにいえば、父親の暴力への恐怖、母親への感情を分析していけば、Aの発展を促すことは十分に可能だと考えられる。
例外なく、殺人は最悪の行為です。しかし、事件は事実に向かって調べられなければならない。精神鑑定は、精神医学に基づいて、多元的に診断されるものです。
もちろん、妻と1歳にも満たない子どもという最愛の2人が殺されている被害者遺族が、Aへの怒りと憎悪を強めていくことは痛いほど理解できます。
しかし、その感情をさらに煽るようなマスコミ報道は許されない。
Aが死刑になるかどうかは、裁判所、司法が決めることです。解明された事実を正しく伝えることが、マスコミの役割ではないか。どのメディアも、犯人憎しの報道で同じ方向を向いて、事実を追う媒体はまったくありません。これは「ジャーナリズムの放棄」を意味するのではないか。
さらにいえば、Aが苦しんできた家庭内暴力のような不幸な現実に光をあてることも、マスコミの使命ではないか。
公判の最後、「事件を通して、いったい何を考えなければならないのでしょうか」との問いが投げかけられた。私は「社会は、(Aを)殺せというだけでなく、彼がこれほどの家庭内暴力に対し誰にも助けを求めることができなかったことへの反省はないのでしょうか」と答えた。二度とこのような不幸な事件を繰り返させないためにも、皆が冷静に考えることを望むばかりです。
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