日本は北の打ち出の小槌に、原罪は平壌宣言にあり
「非核化」なき資金提供、北の刃は日本列島に
2018.6.16(土) 手嶋 龍一
シンガポールで幕が上がった「マーライオン劇場」は、主役のドナルド・トランプが「会談はパーフェクトだった」と大見得を切ったが、観客たちの表情は凍りついたままだった。米朝首脳会談の最重要のテーマは「非核化」だったはずだ。だが、北朝鮮に期限を区切って核を放棄させ、検証措置を呑ませることはできなかった。
その一方でトランプと金正恩は、先に南北首脳会談で合意した「板門店宣言」を再確認する形で、朝鮮戦争に事実上終止符を打ち、朝鮮半島の永続的な平和体制を築くと謳いあげた。こうしてトランプ政権は、北朝鮮の強権体制を保証してしまった。さらに交渉関係者によれば、米朝の対話が続く間は米韓合同演習を行わないことを伝え、資金提供の可能性まで示唆したという。
交渉が進展すれば、資金が流れ込んでくる――。そう金正恩は期待したはずだが、アメリカの懐が痛むわけではない。トランプは「アメリカ・ファースト」の旗を掲げてホワイトハウスに入ったのであり、北への資金提供でもアメリカの納税者にぴたりと寄り添っている。
「必要な資金は日本、韓国、中国が支援してくれるだろう」
トランプは納税者のカネは一銭たりとも使わないと言い切った。米朝交渉のチーフ・ネゴシエーターたる国務長官のポンペオも北への援助絡みの小切手帖は日本などに回すつもりだ。
■ニッポンは「打ち出の小槌」
シンガポールの米朝首脳会談を控えた6月7日、安倍・トランプ会談がワシントンD.C.のホワイトハウスで行われた。拉致問題に何としても突破口を開きたい安倍晋三はトランプにひざ詰めで次のように迫った。
「日本としてはあなたの対北交渉をできる限り支えていくつもりだ。交渉が進展して北朝鮮が正しい方向に歩み出すなら、経済協力を考えてもいいと思う。だが、拉致問題の前進が絶対に欠かせない。北が拉致問題は解決済みだと頑なに拒み続けるなら、日本政府が北に資金を出すなど国民の理解は到底得られない」
安倍晋三はこのように述べたうえで、拉致問題さえ解決すれば、2002年に日朝間で交わした「平壌宣言」に基づいて、北への経済協力も考えてもいいと伝えた。交渉上手を自認するトランプは深く頷いたという。
「日米両国は北に最大限の圧力を加えていくことで完全に一致した」
昨年(2017年)4月、トランプが日本を初めて訪れた際、安倍・トランプの両首脳が記者団を前に語った合意である。だが、シンガポール会談を前に、日米の首脳は対北宥和路線へ大きく舵を切ったのである。
■「日朝平壌宣言」の内実
小泉純一郎内閣の官房副長官として、安倍晋三も関与した「日朝平壌宣言」こそ、いまの安倍政権が「圧力」から「宥和」へと転じる大義名分になりつつある。そして、その拠り所こそが「平壌宣言」であり、ニッポンは北の「打ち出の小槌」になるのだろう。
トランプはセントーサ島のホテル・カペラで、金正恩に次のように語りかけたという。
「アメリカとしては、完全な非核化が実現されれば経済制裁は解除するつもりだ。だが、本格的な経済支援を受けたいと考えるなら、日本と協議するしかないだろう」
同時にトランプは、その日本とは直接会談して拉致問題を解決しない限りは、経済支援に応じないだろうとくぎを刺すことを忘れなかった。「拉致問題は解決済み」と強硬な姿勢を崩してこなかった北朝鮮は依然明確な反応を示さなかった模様だが、トランプの説得はそれなりの効果を上げたとみていい。
今後の日朝交渉の出発点とされる「日朝平壌宣言」とはいかなるものだったのか、いま一度検証してみよう。2002年9月、当時の首相、小泉純一郎は電撃的に平壌を訪れ、当時の国防委員長、金正日と会談して、「日朝平壌宣言」に署名した。
「双方は、核問題及びミサイル問題を含む安全保障上の諸問題に関し、関係諸国間の対話を促進し、問題解決を図ることの必要性を確認した。朝鮮民主主義人民共和国側は、この宣言の精神に従い、ミサイル発射のモラトリアムを2003年以降もさらに延長していく意向を表明した」
その後、北の核・ミサイルの開発・実験が日本やアメリカを射程に入れるまで進んだ事態を考えれば、この「日朝平壌宣言」なる文書が、どれほど脆弱で落とし穴だらけのシロモノだったか明らかだろう。筆者は後知恵でそう指摘しているのではない。ワシントン特派員として孤立無援でそう指摘した。現に日本の最優先の課題だった「拉致」の文言はどこにも盛り込まれなかった。北朝鮮が宣言へ書き込みに強く抗ったからだ。加えて、核・ミサイル問題も解決を図る必要に触れたに過ぎない。ミサイル発射も当分見合わせるという曖昧な表現にとどまっている。しかも、すべてはやがて反故にされてしまった。
「平壌宣言」の原作者は誰か
かかる杜撰な外交文書がなぜ紡がれたのだろうか。戦後日本外交の汚点となるこの文書は特異な交渉の過程で秘密裏に編まれたものだった。小泉純一郎の電撃的な平壌訪問は、北朝鮮のトップに連なる「ミスターX」とアジア大洋州局長、田中均の間で密かに進められた。
常ならこのような重要な交渉と文書の取りまとめは、地域局だけでなく、条約当局が隅々まで目を通して、国際法の観点や従来の政府見解と齟齬がないか、徹底した検証が重ねられる。条約官僚こそ「日本外交のゴールキーパー」だからだ。
だが、この時は、交渉から条約官僚は排除され、交渉の記録も肝心な部分は文書として外務省に残されていない。電撃的訪朝と拉致被害者の一時帰国が優先され、このような共同宣言の草案が出来上がってしまったのだ。
その果てに「拉致」はどこにも記されず、核・ミサイルの廃棄も謳われていない。その一方で「人道主義に基づく経済支援」は明記されたのだった。宣言には支援の具体的な金額こそ記されていなかったが、当時の交渉関係者は揃って支援は少なくとも「1兆円」を前提に折衝が進められていたという。そのまま事態が推移していれば、2003年初めには日本と北朝鮮は国交を樹立し、戦後補償も含めて1兆円という巨額の資金が北朝鮮に流れ込んでいたはずだ。宣言は「人道主義」を麗々しく謳っているが、核・ミサイルへの歯止めを欠く以上、日本の納税者の1兆円は、核・ミサイル開発に流用されたことは明らかだろう。
■ウラン型核爆弾の破壊力
多くの問題を孕む「日朝平壌宣言」を葬り去ったのは、日本の最重要の同盟国アメリカだった。当時の小泉内閣は、日朝の極秘交渉をブッシュ政権にも明かさず、小泉訪朝を告げたのは直前だった。
当時のブッシュ共和党政権の怒りは凄まじかった。アメリカの外交・国防・情報当局は、北朝鮮がプルトニウム型の核爆弾に加えて、新たにウラン濃縮型の核爆弾の製造にも手を染めている事実を暴露して、日朝の接近に「ノー」を突きつけた。訪朝直前に急遽訪米した小泉に国務長官、コーリン・パウエルは北の核開発に厳しい調子で警告を発した。
実際、「平壌宣言」からおよそ4年後となる2006年7月、金正日率いる北朝鮮は、アメリカ独立記念日に狙いを定め、7発の中距離ミサイルを日本海に打ち込むように下令した。さらに2カ月後、日本、アメリカ、さらには中国、ロシアの制止まで振り切って、核実験のボタンを押すよう命じたのだった。
金正恩政権は、いまの日本から「人道支援」を名目に1兆円から2兆円という巨額の資金提供を期待しているという。永年の苦難に耐えた拉致被害者を祖国に取り戻すためにはそれ相当の代償が必要だ。
だが同時に、日本からの資金が核・ミサイルの開発・製造に使われる事態は断じて阻まなければならない。日本の納税者もそれを許さないだろう。シンガポールで交わされた「米朝宣言」にも、核・ミサイルを廃棄に導く明確な道筋は描かれていない。こうした情勢下で日本からの巨額の資金が北に流れれば、日本の納税者は自らを標的にする核・ミサイルの資金を自ら賄う愚を犯してしまうことになる。 (文中敬称略)
◎上記事は[JB PRESS]からの転載・引用です
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◇ 日本人拉致問題「すでに解決」 北朝鮮が報道 2018/6/16
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