秤の重み 裁判員制度10年  ①死刑 迷い今も「本当は」 2019/5/16

2019-05-18 | 裁判員裁判/被害者参加/強制起訴

秤の重み 裁判員制度10年  ①死刑 迷い今も「本当は」 

2019/5/16 中日新聞 朝刊

 

   死刑判決が下された裁判の判決の一部

 「被告人を死刑に処する」。裁判長の低く太い声が聞こえ、気付くと目が覚めている。

 愛知県蟹江町で2009年、家族3人が殺傷され、現金などが奪われた強盗殺人事件。名古屋地裁の裁判員裁判で裁判員を務めた30代の男性は、15年2月の判決から4年以上経った今も、寝ている時にあの声が聞こえて起きてしまうことがある。    興味本位で選任手続きに行った。裁判員に選ばれてしらべてみると、刑は無期懲役と死刑のみ。躊躇したが、「何かの縁だから、一度やってみるのもいいか」と敢えて辞退はしなかった。勤め先も「経験してみたら」と休ませてくれた。

 評議の内容は、守秘義務があるため明かせない。裁判員たちは最初のうち、「仕事休めた?」などと雑談を交わしていたが、1か月に及ぶ審理が進むにつれて会話が減り、顔から表情が消えていった。おとなしそうな若い女性裁判員はどんどん暗くなり、体調不良として途中で辞任した。

 法廷で被告は、泣きながら手紙を読んだ。反省こそ感じなかったが、後悔している印象は受けた。被害者の交際相手は証人尋問で「生きて償って」と述べた。「死ぬのはむしろ楽なのでは。一生苦しんで、罪を背負って生きていってもらうこともできるんじゃないか」。そう悩み続けたことを覚えている。

 検察側の求刑は死刑。東海3県の裁判員裁判で初めてだった。そして2週間後の判決の日。「本当に死刑でいいのか」。裁判長のあの声を聞いた瞬間も、男性にはまだ迷いが残っていた。それでも控訴、上告されるはずで「頭が良くて、専門知識のある裁判官が決めたら、それが最終的に正しいんだ」と、自分を納得させていた。

 予想どおり、最高裁まで持ち込まれ、昨年10月に死刑が確定した。だが、すっきりするはずだった心はちっとも晴れない。

 テレビで死刑判決が出たとか、芸能人の訃報で「死」という言葉を聞くたびに「本当は死刑を選びたくなかった。殺人に、加担してしまったのでは」と自問するようになった。

 裁判員制度について、男性は「続けない方がいい」という意見を持つ。素人ではどうしても、法廷で被告として連れて来られた人を、悪人としか見られない。「何年も勉強したわけでもない素人が、死刑とか無期とか、多数決で決めていいものじゃない」。素人感覚を取り入れるための制度だと分かっていても、あの声が消えない身には「素人より、裁判官を増やした方がいい」と思える。

 極刑を決めたことで、被告の家族から報復される不安も続く。「おれだったら恨むよな、と」。自宅リビングの電気は常につけっぱなしにしている。

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 殺人など7重大な刑事事件の裁判に一般市民が携わる裁判員制度が始まってから21日で10年。裁判に「市民感覚」を反映させ、司法への信頼を高めることが目的とされ、これまでに9万人以上が裁判員や補充裁判員を勤めた。法を象徴するギリシャ神話の女神テミスは、公正さを表す天秤を持つ。その秤と、市民はどう向き合ったのか。裁判員経験者や辞退者、被害者遺族らへの取材を通じて、制度の課題について考える。

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36人に死刑判決、確定20人

 最高裁によると、裁判員裁判では、制度が始まってから今年2月までに全国で36人に死刑判決が言い渡され、うち20人が確定した。中部6県(愛知、岐阜、三重、長野、福井、滋賀)の6地裁2支部であった裁判員裁判で、死刑判決が言い渡されたのは名古屋地裁2人、長野地裁3人の計5人だった。

 死刑判決が予想される事件を裁判員裁判の対象にすべきかを巡っては、「裁判員の心理的負担が過重だ」などの反対意見があるが、裁判員制度に詳しい大城聡弁護士(東京弁護士会)は「重大な事件の審理に市民が直接携わることで、チェックする意味がある。死刑は重い刑罰だからこそ市民が参加する必要性は高く、対象にすべきだ」と話す。

 最高裁はホームページで、法律の専門家でない国民が裁判に加わることについて「法律的な判断はこれまで通り裁判官がする。さまざまな人生経験を持つ裁判員と裁判官が議論することで、これまで以上に多角的で深みのある裁判になることが期待される」との見解を示している。

 ◎上記事は[中日新聞]からの書き写し(=来栖)

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〈来栖の独白〉

「生きて償って」と述べた。「死ぬのはむしろ楽なのでは。一生苦しんで、罪を背負って生きていってもらうこともできるんじゃないか」

 私は、この考えをとらない。死刑を突きつけられて初めて、殺人という己が行為の重大であること、恐ろしさが身に染みて分かるのではないか。幾人かの死刑囚と無期懲役囚を見て私は、<一生苦しんで、罪を背負って>という生き方の不可能性を確信せざるを得ない。人は<一生苦しんで>という生き方など、出来ぬものだ。心で<一生苦しんで、罪を背負って>生きてゆく人が果たして何人いるだろうか。

 何の資格もない一般人が裁判員などと、裁判員制度にも首を傾げるが、もう10年も存続したのなら、定着するのだろう…、ヘンな世の中だ。

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【裁判員制度のウソ、ムリ、拙速】 大久保太郎(元東京高裁部統括判事)  『文藝春秋』2007年11月号  


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