〈来栖の独白 2020.11.04 Wed〉
再び、いや三度、四たび、…いや、何度目になるかわからない。今朝も、犬養道子さんの『新約聖書物語』を手に取った。聖書は永久不変の書であるが、私には犬養さんのこの著書も、永久不変に近い。幾度読んでも心に響く。教えられる。犬養さんにして、17年という歳月の上に成った著書。どの頁を開いても、深い意味を読むことが出来る。
新約聖書物語 犬養道子著 新潮社 1976年2月10日 発行
p81~
「霊はただちにイエスを荒野に送った」と、福音史家マルコは記す。同じ福音史家でも、マルコがユダヤの習慣や旧い律法・歴史書――すなわち旧約聖書――ローマ人改宗者を読者と想定して書いたに反し、ユダヤの旧い教えからの改宗者めあてに書いたマタイは、「霊によって荒野に導かれ、四十日四十夜断食された」と、とくにはっきり記す。
この記録によってマタイは、新薬が旧約の流れの延長であり、旧約のいわば芽の開花であり成就であり、同じ素材の変革であったことを読者に告げようとしたのである。
「四十日、
四十夜」
旧き教(ユダイズム)からの改宗者なら、この伝統的な六文字で、多くを想起することが出来た筈である。すなわち――
太古、エジプトの虜囚から約束の地に導かれて旅して行ったユダヤの民の祖先たちが荒野をさすらった歳月が四十年。その旅の途上、神の十戒を受け、神と契約をとりかわしたモーセが、神と語らいつつシナイの山頂に籠ったのが四十日と四十夜。旧約の歴史を通してモーセ以外にただひとり「神、います」ことを「見る」べく選ばれた第二ののモーセと言うべき預言者エリアが、神の啓示を受けるため呼ばれてシナイの山まで行った旅路が四十日と四十夜。いや、そもそも、モーセも、父祖アブラハムもあらわれぬ、はるかなる以前、いまだ氷河時代と呼ばれたころ、義人ノアは、箱舟に乗って、四十日四十夜降りそそいだ大雨と四十日四十夜地表をあまねく洗いつくした洪水を生きのびたではなかったか。
四十の数は、さらに、夜も目覚めて神意を待った「四十の日と夜」は、つねに、新生と新しい啓示の、言わば序文的な意味を帯びる数となって、ユダヤの民に記憶されたのであった。だから、新しい約束を告げるべき公生活の開始に先がけて、「神は救う(イエス)」もまた、四十日四十夜を必要とした。
開かれた天から、「よろこびを満たす神の子」の、すなわち神性の、啓示のあったすぐあと、神性は後退して人性だけが前面に押し出され、四十日四十夜の苦悩と飢餓と貧と、惑いの誘いの試みを「人の子」は耐えねばならなかった。多かれ少なかれすべて人間と名づけられる者がそのくびきのもとに何らかの形で苦しむ闇の力の重さと大きさを「人の子」イエスは味わわねばならなかった。
* 『新約聖書物語』犬養道子著 「網を打て。魚を捕れ」(ルカ 5.1~) 2020.5.3
* 犬養道子著『新約聖書物語』 新たな!感動を覚えながら、多くを教わるように読んだ〈来栖の独白〉 2020-04-04
* 『ツナグ』という映画で、ホイヴェルス神父の「最上のわざ」が、紹介されているらしい