死刑 悩み深き森/千葉景子さん「執行の署名は私なりの小石」

2010-11-25 | 死刑/重刑/生命犯

耕論 死刑 悩み深き森
「執行の署名は私なりの小石」 前法務大臣 千葉景子さん
 死刑執行命令書に署名するかどうか。そうしない道はあったと思います。でもやっぱり、ただ「やりませんでした」では、死刑制度の是非をめぐる議論は消え入ってしまうのではないかと思ったのです。
 法務大臣にご指名頂いて、受けるときに最初に考えました。必ずつきつけられてくる問題だろうと。
 でも、国会開会中は政治とカネや指揮権、取り調べの可視化の問題などがあり、大きな問題に踏み込むのは、なかなかしにくかった。選挙の時は、色々な集まりで「廃止論をやめてほしい」といった声も多かった。非常に目に見えない雰囲気、というか。それを何かの理由にすることはないが、そういうことは正直言ってありました。
 選挙に落ちてしまって、このまま私も離任、というところもなきにしもあらずでしたが、区切りまでという話になった。じゃあその中で、私が何かやっぱりやる必要があるだろうな、というのが自分の流れかなと。
 法務官僚の説得に折れたというわけではありません。そういう方がわかりやすいですが。ただ、そういう見方を「ひどいなあ」とは思いません。
 これは私の矛盾ですが、過去に執行された時は国会議員として「なぜやるんですか」「廃止の方向で行くべきじゃないですか」と当時の法相などに申し上げたのも事実です。しかし考えてみると、結局は国会として十分な議論と何らかの法案をまとめる、というところまで行っていない。どこかで本格的に議論をもう一度打ち立てていくことがないといけないのかなと。
 執行と、議論を始めることは、セットじゃない。だけど、(死刑)廃止を言っていた人間が、執行することもなく議論しましょう、となると、「廃止論の流れを作ることだ」という風につながりやすいところはある。私は廃止論なんだと言って一直線で行くというのも確かに1つの道ではあるかもしれないのですが、それによって逆のとんでもない存続論が非常に強くわき起っていく、というのも感じます。
 被害者に光を当てる流れがどんどん強まっている。被害者を大事にするのはもちろん否定しませんが、国会などが、ずっと忘れることなく議論をし、被害者のことも含めて、きちっと流れを作っていく、そういう場になっていく必要があると思います。
 法務省内でも両論あって、内心ではどちらかというと廃止論の人もいる。「これからは廃止の方向に行かざるを得ないんじゃないかと思うが、今ただちには難しい」という話をしたりしていました。
(死刑廃止をしたフランスなどと比べて)日本では、司法や刑罰に関心を持つ人が考えているだけで、時の政権なり、トップリーダーがどういう意見を持っているかが明確ではない。だから、これまでも、その時の法相がやった、やらない、という問題になってしまっているように思います。
 署名後、死刑執行に立会いました。死刑に肯定的な気持ちになることは、やっぱりないです。厳粛だとよく言いますよね。厳粛・・・厳粛・・・。ああいうものを厳粛というんだろうか。皆さわりたくない、やりたくない、そういうものを厳粛さみたいなものをもって、なんとか気持ちを肯定させている。えらくあっけないといえばあっけない。でも何か、とってもこう、美しくないというか、何か醜悪というか、でも形の上では厳粛。そこのなんとも落差というか、ある意味で自己嫌悪みたいなものもありました。
 自分が立ち会っているってことはいったいなんなんだと。最後の責任者、という整理はつかないことはないが、自分の中で自分を責めるものがあって。いろんな理屈はあっても、国の権力をもって、あの人の命をそこで絶つ、ということはできるんだろうか、というのは改めて感じました。
 そう感じるだろうということは、まったくわからなかったわけではありませんが、やっぱり何となく、観念的に整理していたんです。ただ現実を見ると、命という究極なものについて、国という抽象的なものをもって奪うことの残酷さ、醜悪さを実感したような気がします。うまく整理できませんが。死刑廃止の考えが変わったということはありません。今後どうしたらいいのかという自分の活動の方向は、まだ手探りの状態です。
 (執行の場面の)記憶は、自分の中で薄れさせてはいけないという意識が強いです。ただ、執行後のことはあまり記憶がはっきりしていない。現実から違うところに自分がいるような状態だったんじゃないかと。
 議論はみんなに引き継いでもらいたい。スタートはしたので、今後も続けて議論して頂ければいいのかなと。
 裁判員裁判での死刑判決でも、裁判長が控訴を勧めました。死刑については二重、三重に考えてもらわなければいけないという悩みだったのかなあと思いもします。制度導入時にあまり深く論じられませんでしたが、死刑を前提にするのであれば、死刑判決は全員一致を要件にすべきではないか。
 (署名したことについては)どう言おうとも、自己弁護みたいになるところはあると思うんです。私一人でたいそうなことができる人間でもない。思想家でも何でもない。死刑という問題について一つ、小石を投じることはできるかもしれない。こういう役目をもらった意味、私なりの遂行の仕方として何ができるだろうか。そういうことかもしれません。(聞き手・山口進)朝日新聞2010/11/20Sat.
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〈来栖の独白〉
 千葉さんの死刑執行命令を、私は一貫して、政治(家)が官僚主導に負けたことだと考えてきた。今、その考えの全てを撤回する気持ちは、ない。この国を治めてきたのが国民(の代表たる政治家)ではなく官僚であったことを、(死刑という問題のみならず、外交や防衛等々に)感じてきた。
 8月下旬、「あ、今、千葉法相と官僚は、至極うまくいっているんだな」と感じさせる場面を見かけた。給費制維持を訴える集会を終えて千葉法相を訪ね陳情する弁護士さんたちの真剣な表情を伝えるTV画面でのことだ。「私も給費制度のお陰で弁護士になりました」と応対する法相は、尋常な表情に見えた。が、続けて法相は言った。「色々と壁がありまして、制度の維持は難しい」。それは、官僚の顔であった。微塵の迷いも窺われなかった。すっかり省のトップになられたな、と感じたのだった。
 ただ、ここでは、官僚支配についてではなく、心情的に共感してしまった千葉さんの言葉について、私の極めて私的な気持ちを綴ってみたい。
 千葉さんは、次のように言われている。

 (死刑)廃止を言っていた人間が、執行することもなく議論しましょう、となると、「廃止論の流れを作ることだ」という風につながりやすいところはある。私は廃止論なんだと言って一直線で行くというのも確かに1つの道ではあるかもしれないのですが、それによって逆のとんでもない存続論が非常に強くわき起っていく、というのも感じます。

 113号事件勝田清孝が名古屋拘置所において刑死してから、この11月30日で10年になる。千葉さんの言葉は、私に勝田との往時を思い起こさせた。〈これから書くことは「論理」ではなく「心情的」なものであることを、いま一度記しておく。〉
 勝田の生存中、私は「死刑廃止(論)」を標榜しなかった。死刑廃止思想や運動(体)に対して距離をおいた。千葉さんの言われる「廃止を言っていた人間が」というニュアンスが常に私を死刑廃止に対して距離を置かせた。
 世間から「死刑囚の姉」という立場で言動を判断されることを私は警戒したし、死刑囚に縁故のある立場で死刑廃止を口にしても説得力はないだろうと考えた。
 そういうニュアンスから、私には、法相に就任した千葉さんが早期に死刑廃止議連から脱会された経緯がよく理解できた。「深謀遠慮」と感嘆した。
 死刑廃止議連の法務大臣なら死刑執行命令書に判を押さずとも、偏向思想の持ち主ゆえ仕方ない、と世間はあっさり諦めるだろう。しかし、死刑廃止を言わず、良識人の法務大臣が判を押さないとしたら、世間は押さない理由に興味を持つのではないか。「良識」法務大臣の考える死刑について聞いてみたい、と思うかもしれない。
 「廃止論なんだと言って一直線で行くというのも確かに1つの道ではあるかもしれない」が、それでは、人々を議論の輪に取り込んだり、まともな人間の言説として耳を傾けてもらうことは不可能ではないか。
 古い古い記憶であるが、勝田と出合って「主婦です。フツーの、なんでもない主婦にすぎない者です」と自己紹介をしたところ、勝田は大層喜んだ。後になって喜んだ理由を手紙に書いてきた。「獄中に囚われている者に面会を求めたり手紙をくれたりするのは、フツーの人間ではありません。死刑廃止運動の輩だったりマスコミの人間だったり、そんな人ばっかりです。私は、普通の感覚の人と普通の話がしたい」、そんなことが書かれてあった。〈---面会票の職業欄には、無論「主婦」とは書かなかった。「無職」と記入した〉
 またある時は、「綺麗にしていて下さい」と言った。死刑囚なんかと関わっているような人間なんて、化粧もせず、なりふり構わぬ、所詮「変人」なのだと世間から侮られる、そういう状況を勝田は哀しんだ。普通の、常識人であってほしいと望んだ。
 そういえば千葉さんは、常に化粧にも着る物にも十分すぎるほど気配りをされていたように記憶する。死刑執行の前後も、そのようだった。執行命令はどんなにか重圧だったろうと推察するが、乱れていなかった。「廃止を言っていた人間が、執行すること」を法務大臣拝命の瞬間から考えに考え、ご自分を打ち叩いて命令を出されたのだった。
 苦悩の中、千葉さんは、どうぞ自分のわざが死刑廃止に一石を投じるものとなりますよう、祈られたに違いない。執行に立ち会った千葉さんの張り詰めた心を、私は彼女の身繕の背後に見る。「法相がやった、やらない」と批判だけしていれば済む一般民間人とは画然として違う、指揮官だけのどす黒いまでの孤独を見る。〈この種の孤独は、千葉さんだけに限らない。「指揮官」の任の人、おしなべてそのようである。〉
 市井の一主婦に過ぎない私だが、そんな私でも勝田の死刑執行の一報に接し、勝田に恥ずかしい思いをさせぬよう身繕して(無論、心は平静ではなかったが)車を拘置所へ走らせた。偏向思想の持ち主ではなく、尋常な家族(市民)として所長に対した。
 あのような時、あのような場で、「死刑はいけない。執行反対」などと一方的に叫んで、何になったろう。死刑囚の姉になるような人間は「やっぱり」変人なのだと、いいようにあしらわれただけだったろう。
 死刑制度の問題に限らない。いかなる分野の話題であれ、膝突き合わせて議論するには、相手(社会)にこちらを認めさせる最低限の良識の装備が必要ではないかと思う。

 厳粛・・・厳粛・・・。ああいうものを厳粛というんだろうか。皆さわりたくない、やりたくない、そういうものを厳粛さみたいなものをもって、なんとか気持ちを肯定させている。えらくあっけないといえばあっけない。でも何か、とってもこう、美しくないというか、何か醜悪というか、でも形の上では厳粛。そこのなんとも落差というか、ある意味で自己嫌悪みたいなものもありました。

 この文脈に関しては、他のエントリでも言及したが、いま一度なぞってみたい。
 千葉さんは「厳粛・・・厳粛・・・」と繰り返し、「ああいうものを厳粛というんだろうか」と言われる。その口吻が伝わってくるようだ。刑場の厳粛について戸惑いながら、口にしておられる。「厳粛さみたい」と言い、遂に「美しくないというか、何か醜悪」と結論される。
 千葉さんをして「美しくない」「醜悪」と結論させたもの、それは其処が、人間を人間でなくする場であったからに他ならない(と、私は直感する)。国家権力という名の下に、一人の人間の尊厳を剥奪する場であったから、千葉さんは醜悪と感じたのではないか。
 ところで本日(2010/11/25)、仙台地裁の裁判員裁判において、少年事件で初めての死刑判決があった。これについては、「石巻3人殺傷事件 検察側、少年(事件当時18歳)に死刑求刑 (⇒2010年11月25日、判決言渡し) 仙台地裁」で述べているので、千葉さんも感じられた「醜悪」との関連で補足をかねて書いてみたい。
 私も含めて殆どの国民は、死刑の何であるかについて知らない。刑場は永く開かずの扉であったし、処刑は非公開である。そこへ法務大臣として初めて入り、死刑執行に立ち会った千葉さんは「醜悪」だったと感じたのである。
 裁判員裁判となり、裁判員(国民)は、本日、その醜悪なものを選択した。刑場についても死刑執行が如何なるものかも知らぬまま、少年に死刑を宣告した。宣告したからには、いずれその醜悪なものは形を現す。刑務官の悲しい苦役のもとに形を現す。
 私も、あれは醜悪だと感じる。人としての尊厳を奪うから醜悪なのだと思う。何処をもって「尊厳を奪う」というのか。それは、「後ろ手錠」だからだ。前手錠ではない。他所は知らないが、名古屋拘置所における死刑執行の形態は「後ろ手錠」であった。以下に、後ろ手錠を尊厳を奪うものと感じる所以を書いた拙エントリを引用したい。
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刑場〈厳粛な場〉と死刑執行の姿〈後ろ手錠〉 2010-08-29 
 三審制の裁判により刑確定した死刑囚を受刑の日まで厳重に管理するのが行刑の役割である。それを、最後の仕上げ(死刑執行)でしくじってはならない。死刑囚を前手錠ではなく後ろ手錠で執行するのは、そういう企図でもあるのだろう。
 前手錠であれば、合掌の形をとることも可能だが、後ろ手錠では、人生の最後に到ってなお「犯罪者の形(姿)」をとらされた、と私は感じてしまう。愚弟藤原清孝が、それ(後ろ手錠)を悲しんだように思えてならない。このように思ってしまうのは、私が「後ろ手錠」という言葉を初めて知ったのが、犯罪者勝田清孝の手記だったことにもよるかもしれない。逮捕の瞬間を描いている。“
騒ぎに駆けつけた人達によって、折り重なるように押さえ込まれた私は、その重みで胸を圧迫されて失神してしまい、逮捕される瞬間は自分がどうなっていたのか分かりませんでした。気がついたのはすでに後ろ手錠をはめられ引き起こされる時でした。『冥晦に潜みし日々』
 そういえば、連合赤軍事件坂口弘死刑囚(東京拘置所在監)は次のように詠っている。
後ろ手に 手錠をされて 執行を される屈辱が たまらなく嫌だ”(1996年4月発行『しるし』)
 公開された刑場について、「厳粛な場」とのワードも含まれて報道された。しかし、私は(私の感性は)、「死刑は人の尊厳を満たしているものか」と反問しないではいられない。人間としての尊厳を剥奪し、「希望」という名の最後の一滴まで奪い尽す究極の暴力が死刑ではないだろうか、と考えずにはいられない。
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 千葉さ
んに依れば、「死刑という問題について一つ、小石を投じ」「スタートはした」。その人柱にされ、尊厳を奪われた人がいた。「今後も続けて議論して頂ければいいのかなと」千葉さんは言う。
 が、議論よりもずっと早く裁判員制度が走り出してしまった。死刑の何たるかも知らず、死刑について昨日まで考えてもみなかった人が、人間の尊厳と命を奪う位置に座る。不遜な時代だ。
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石巻3人殺傷事件 検察側、少年(事件当時18歳)に死刑求刑 (⇒2010年11月25日、判決言渡し) 仙台地裁
死刑が国民と親しく同居する風景=裁判員制度 「横浜 電動のこぎり切断事件」「鹿児島 夫婦強殺事件」
The Death Penalty 死刑の世界地図 [1] The Death Penalty 死刑の世界地図 [2] 
人権と外交:死刑は悪なのか


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