〈来栖の独白〉
報道によれば
真宗大谷派(本山東本願寺、京都市下京区)の安原晃宗務総長は27日、今月25日に仙台地裁で言い渡された裁判員裁判による少年への死刑判決に対し、死刑制度反対と裁判員制度見直しを求める声明を発表。「更生することが難しいなどと断ずることは、私たち人間が生まれ、育ち、学ぶ可能性を奪う」とし、「罪を自覚し償う機会は、少年であればこそ十分に与えられるべき」(産経ニュース2010.11.28)
としている。
真宗大谷派は、私の記憶では、一貫して死刑制度反対を表明なさっている。裁判員裁判についても当初から、市民が死刑の判断を求められる可能性もあり「死刑について真剣に考えるきっかけにしたい」との動きも見られた(と記憶する)。
このたびの石巻3人殺傷事件の被告少年に対する死刑判決にも、敏感に反応し、危機感を表明した。立派な行為であり、心から尊敬する。
それに引き換え、カトリック中央協は、教会法を盾に真っ当な議論を尽さず、早々に逃げを打った。更生可能性を秘めている少年の命が奪われようと(死刑判決が下されようと)、塵ほども関与しない。裁判員が命の前に塗炭の悩みを悩み、迷おうと、何の指針も与えようとしない。
以下は、カトリック司教協議会が昨年発布した裁判員制度に関する声明文である。
-------------------------------------------
「裁判員制度」について
- 信徒の皆様へ - 2009年6月17日、日本カトリック司教協議会
日本カトリック司教協議会は、すでに開始された裁判員制度には一定の意義があるとしても、制度そのものの是非を含め、さまざまな議論があることを認識しています。信徒の中には、すでに裁判員の候補者として選出された人もいて、多様な受け止め方があると聞いています。日本カトリック司教協議会は、信徒が裁判員候補者として選ばれた場合、カトリック信者であるからという理由で特定の対応をすべきだとは考えません。各自がそれぞれの良心に従って対応すべきであると考えます。市民としてキリスト者として積極的に引き受ける方も、不安を抱きながら参加する方もいるでしょう。さらに死刑判決に関与するかもしれないなどの理由から良心的に拒否したい、という方もいるかもしれません。わたしたちはこのような良心的拒否をしようとする方の立場をも尊重します。
良心的な判断と対応に際しては、以下の公文書を参考にしてください。
1.「信徒は、地上の国の事柄に関してすべての国民が有している自由が自己にも認められる権利を有する。ただし、この自由を行使するとき、自己の行為に福音の精神がみなぎるように留意し、かつ教会の教導権の提示する教えを念頭におくべきである」(教会法第227条)と定められています。また、第二バチカン公会議が示すように教会は、キリスト者が、福音の精神に導かれて、地上の義務を忠実に果たすよう激励します。地上の国の生活の中に神定法が刻み込まれるようにすることは、正しく形成された良心をもつ信徒の務めです。キリスト教的英知に照らされ、教導職の教えに深く注意を払いながら、自分の役割を引き受けるようにしなければなりません(『現代世界憲章』43番参照)。
しかし裁判員制度にかかわるにあたり、不安やためらいを抱く場合は、教会法212条第2項で「キリスト信者は、自己に必要なこと、特に霊的な必要、及び自己の望みを教会の牧者に表明する自由を有している」と述べられているように、司牧者に相談することもできます。裁判員として選任された裁判については守秘義務がありますが、裁判員であることや候補者であることを、日常生活で家族や親しい人に話すことは禁止されていません。
2.死刑制度に関して、『カトリック教会のカテキズム』(2267番)では、ヨハネ・パウロ二世教皇の回勅『いのちの福音』(56番)を引用しながら、次のように述べています。「攻撃する者に対して血を流さずにすむ手段で人命を十分に守ることができ、また公共の秩序と人々の安全を守ることができるのであれば、公権の発動はそのような手段に制限されるべきです。そのような手段は、共通善の具体的な状況にいっそうよく合致するからであり、人間の尊厳にいっそうかなうからです。実際、今日では、国家が犯罪を効果的に防ぎ、償いの機会を罪びとから決定的に取り上げることなしに罪びとにそれ以上罪を犯させないようにすることが可能になってきたので、死刑執行が絶対に必要とされる事例は『皆無でないにしても、非常にまれなことになりました』」。また、日本カトリック司教協議会も、司教団メッセージ『いのちへのまなざし』(カトリック中央協議会、2001年2月27日)の中で、「犯罪者をゆるし、その悔い改めの道を彼らとともに歩む社会になってこそ国家の真の成熟があると、わたしたちは信じるのです」(70番)と述べ、死刑廃止の方向を明確に支持しています。
なお、聖職者、修道者、使徒的生活の会の会員に対しては、教会法第285条第3項「聖職者は、国家権力の行使への参与を伴う公職を受諾することは禁じられる」の規定に従い、次の指示をいたしました。(修道者については第672条、使徒的生活の会の会員については第789条参照)
1.聖職者、修道者、使徒的生活の会の会員が裁判員の候補者として通知された場合は、原則として調査票・質問票に辞退することを明記して提出するように勧める。
2.聖職者、修道者、使徒的生活の会の会員が裁判員候補を辞退したにもかかわらず選任された場合は、過料を支払い不参加とすることを勧める。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
◇ 白柳誠一枢機卿帰天 「鬱」の時代 命がこの上なく軽いものとなった 2010-01-03
昨年、司法の世界でも、裁判員裁判やそれを睨んでの公判前整理手続き、被害者参加制度、附帯私訴等、司法改革と云えば聞こえは良いが、「省エネ」という「鬱」の時代が始まった。時間・労力・体力を費やす精密司法から、短期決着を旨とする核心司法へ舵を切った。事件が如何に複雑で重大なものであっても、事件の背景等、被告人の養育環境にまで遡っての原因解明、鑑定は極力省略される。
事件の因ってくるところ(つまり社会や人間)について考え、それを参考に我々人間が未来をどのように生きてゆくのかを考えるよりも、起きてしまった結果を重視し、目の前(被害者参加制度)の感情に応えることが優先されるようになった。命よりも大切なものがある、命をかけて償うことが正義である、と言われるようになった。かつては「命は地球よりも重い」などと言われた命だが、この上なく軽いものとなった。人間存在を軽く扱う「鬱」の時代は、年間3万人超の自殺者を生み続けてもいる。
時代の申し子のような裁判員制度であるが、日本カトリック中央協議会(司教団)も昨年、見ごと鬱的対応で終結させた。
躁の時代を過ぎ、すっかり体力がなくなったカトリック官僚の実態を垣間見た気がした。「世界中に福音を宣べ伝えよ」と言われたイエスに背を向け、教会法を楯に保身を決め込んでいる。過去のエントリと重複するが、いま一度考えてみたい。
〔1〕文書によれば、「聖職者」「一般信者」という区分けをしているが、これは妥当か
福音を生きるのに、聖職者・一般信徒の区別などあり得ない。人は、神からの呼びかけによって福音を生きる。神からのものに、区別など存在しない。例えば歎異抄にも、次のような記述がある。
(五木寛之氏の私訳より)
親鸞さまが「わたしの信心も、法然上人の信心も、同じひとつのものである」とおっしゃったに対し、法然の弟子の中から「いくらなんでも善心房(親鸞)と法然上人との信心が同じだというのはおかしいではないか」と声があがった。親鸞さまはこたえられた。「法然上人の広い知恵や学識と、わたしのそれが同じだなどと申しているのではございません。ただ、仏のちからで浄土に往生させていただく信心についてはまったくことなることはない、と申しているのでございます」上人の前でそれぞれの主張を説明したところ、法然上人はおおせになった。「善心房の申すとおり、両者の信心は同じものである。なぜなら、もともとわたしの信心は、阿弥陀如来から賜ったものだからだ。わたしの信心も、善心房の信心も、ともに阿弥陀如来から賜ったもの。そのことになんのちがいはない。それゆえ、わたしとちがう信心をもつという者は、法然が参ろうとする浄土と同じところへ行くことはまずできないだろう」
〔2〕「教会法」か?イエスのメッセージか?
司教団は裁判員制度への関与につき、「良心的な判断と対応に際しては、以下の公文書を参考にしてください。」として以下を挙げている。
“死刑制度に関して、『カトリック教会のカテキズム』(2267番)では、ヨハネ・パウロ二世教皇の回勅『いのちの福音』(56番)を引用しながら、次のように述べています。「攻撃する者に対して血を流さずにすむ手段で人命を十分に守ることができ、また公共の秩序と人々の安全を守ることができるのであれば、公権の発動はそのような手段に制限されるべきです。そのような手段は、共通善の具体的な状況にいっそうよく合致するからであり、人間の尊厳にいっそうかなうからです。実際、今日では、国家が犯罪を効果的に防ぎ、償いの機会を罪びとから決定的に取り上げることなしに罪びとにそれ以上罪を犯させないようにすることが可能になってきたので、死刑執行が絶対に必要とされる事例は『皆無でないにしても、非常にまれなことになりました』」。また、日本カトリック司教協議会も、司教団メッセージ『いのちへのまなざし』(カトリック中央協議会、2001年2月27日)の中で、「犯罪者をゆるし、その悔い改めの道を彼らとともに歩む社会になってこそ国家の真の成熟があると、わたしたちは信じるのです」(70番)と述べ、死刑廃止の方向を明確に支持しています。”
裁判員裁判が死刑をも選択しなければならない案件を抱えることを司教団は承知している。ならばなぜ使徒職は、「犯罪者をゆるし、その悔い改めの道を彼らとともに歩む社会」のために、裁判員裁判を福音宣教の場としないのか。
かつて日本カトリック教会をリードした相馬司教の口癖は、「お役にたてるなら」であった。死刑確定を目前にした勝田清孝との縁組に際し、保証人となってくださるようお願いにあがったときも喜んでくださり「俺、役にたっているかな」とおっしゃった。「明日のない人(の命)をもだいじにする、それがマザー・テレサのしたことだ。あんたは、彼女と同じことをしているよ」と、とんでもない(勿体ない)ことまでおっしゃった。相馬司教の信条は、いつも「人の役に立ちたい。小さくされた人の役にたちたい」だった。「役に立ちたい」、それは、イエスの「仕えられるためではなく、仕えるためにきた」とのメッセージそのものだ。
相馬司教を喪った私は、昨年暮れ、またも敬愛する大司教を喪った。混迷の時代、闇が一層その濃さを増した。玄冬である。
===============================================
◇ 石巻3人殺傷事件 検察側、少年(事件当時18歳)に死刑求刑 (⇒2010年11月25日、判決言渡し) 仙台地裁
◇ 石巻3人殺傷 少年事件「死刑判決」 賛否/短い評議、制度に課題/処罰感情/裁判員の負担/更生 2010-11-27
◇ 石巻3人殺傷(事件当時18歳被告の裁判員裁判)死刑判決…「理解まるでなく、心底がっかり」井垣康弘弁護士