アウシュヴィッツは「ホロコーストの代名詞」か? 惨劇を理解するための5つのポイント 2018.11.13

2018-11-15 | 文化 思索

2018.11.13 現代ビジネス
アウシュヴィッツは「ホロコーストの代名詞」か? 惨劇を理解するための5つのポイント  
 田野 大輔 甲南大学教授 プロフィール
 第二次世界大戦中、ナチス・ドイツによって遂行されたユダヤ人の大量虐殺、これを「ホロコースト」と呼ぶ。600万人にも上る犠牲者を出したこの未曾有の惨劇について考えるとき、私たちはすぐにアウシュヴィッツ強制収容所での組織的・機械的な殺戮を想起しがちである。
 だがこうした一面的なイメージにとらわれすぎると、アウシュヴィッツに行き着くまでのホロコーストの紆余曲折に満ちた展開を見落とすことになりかねない。
 実のところ、ユダヤ人犠牲者の大多数はこの収容所での殺戮がピークを迎える以前に別の場所で殺害されており、殺害の経緯や方法もアウシュヴィッツでのそれとはかなり異なっていたのである。
 本記事では、そうした重要な論点を5つのポイントにまとめ、それらを中心にホロコーストの大きな流れを整理することで、この史上類を見ない惨劇を理解するのに必要な基本的視角を提示したい。
①アウシュヴィッツがホロコーストのすべてではない
 何日もかけて収容所に到着する乗客満載の貨車の列、荷降場で親衛隊員が行う労働可能か否かの選別、苛酷な状況下で強制労働に従事する被収容者、残虐な看守による日常的な暴行や虐待、恐怖に怯えながらガス室に向かう犠牲者の群れ……。
 映画『シンドラーのリスト』をはじめ、数多くの映画や小説でくり返し描かれてきたこのような情景は、主としてアウシュヴィッツから生還した人びとの証言を元にしたものである。だがそれがいかに恐怖に満ちたものであっても、ユダヤ人が被った災禍の一端を照らし出したにすぎないことを忘れてはならない。
 アウシュヴィッツ強制収容所(アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制・絶滅収容所)は単体では最大の犠牲者(110万人)を出した収容所であり、ガス室と焼却炉を兼備した火葬場(クレマトリウム)による流れ作業式の殺害を完成させた点で、突出した冷酷さを示していることはたしかである。
 そうした点から、アウシュヴィッツは「ホロコーストの代名詞」のように見なされる向きがあるが、実際にはむしろこの惨劇の最終的な到達点を画した施設であって、その意味では氷山の一角にすぎないといえる。
 アウシュヴィッツの特徴の一つは、犠牲者の出身地がヨーロッパ全域にまたがっていたことである。最大のグループはハンガリーのユダヤ人(56万人)だが、ドイツ本国をはじめフランス、オランダ、イタリア、ギリシアにいたる広大な支配地域全体からユダヤ人が移送されている。
 それはこの収容所が殺戮の中核を担うようになった1943年半ばの段階で、ポーランド系ユダヤ人の殺戮がすでに終盤を迎えていたこととも関係している。
 アウシュヴィッツのもう一つの特徴は、それがもともと強制収容所として設立された後、規模拡大に伴って絶滅収容所の機能が追加されたという複合的性格にある(はるかに規模は小さいが同様の施設としてマイダネク強制収容所がある)。
 一般にはあまり区別されていないが、強制収容所と絶滅収容所は別物だ。絶滅収容所が「ユダヤ人の殺害」のみを目的とした施設であるのに対して、強制収容所は政治犯や犯罪者を中心にユダヤ人やロマの人びと、同性愛者、そして戦時中には捕虜や外国人を収容して、懲罰目的で強制労働を行わせた施設である。
 アウシュヴィッツはドイツ国内の6箇所に次ぐ7番目の強制収容所として、当初はポーランド人の政治犯を収容する目的で1940年6月に開設された。この収容所の門に掲げられた「労働は自由にする」という有名な標語は、ドイツ国内の収容所と共通である。
 だがその後、周囲に進出した工場に安価な労働力を提供する目的で拡張される一方、1942年前半になると、各地から列車で移送されてくるユダヤ人の殺害のための施設(ビルケナウ絶滅収容所)も増設される。
 強制収容所での被収容者の扱いは苛酷を極め、その死亡率も非常に高かったが、それでも到着後ただちに殺害される絶滅収容所に比べれば、生き残るチャンスはまだ比較的ある方だった。
 アウシュヴィッツが「ホロコーストの代名詞」となったのも、そうした極限状況を生き延びた被収容者が戦後その体験を証言できたことが大きい。
②長らく忘却されていた絶滅収容所があった
 これに対して、ユダヤ人犠牲者の大多数は強制収容所を目にすることもなく、すでに別の場所で組織的に抹殺されていた。その恐るべき殺戮が遂行された場所こそ、1942年前半にポーランド東部に設立されたベウジェツ、ソビボル、トレブリンカの3つの絶滅収容所である。
 この3収容所の冷酷さを際立たせているのは、それらがもっぱらユダヤ人の殺害のみを目的とした施設だったことである。
 貨車で収容所に到着した人びとは、殺戮業務を補助する特務班(ゾンダーコマンド)の要員に選ばれたごく少数の男性を除いて、ほぼ全員が荷降場からガス室に直接誘導され、即座に殺害された。こうした迅速な殺戮プロセスは、犠牲者が労働力としての価値すら認められていなかったことを意味している。
 さらにまた、この3収容所で殺害された人びとの大部分が、周辺の「ゲットー」から移送されてきたポーランド系のユダヤ人だったことも見逃せない。
 ゲットーとはドイツ占領下のポーランド各地の都市内に設けられたユダヤ人の隔離居住区域のことで、映画『戦場のピアニスト』でも描かれているように、1941年後半には飢えや病気により多数の死者を出すなど壊滅的な状態にあった(ゲットーでの死者は100万人に上る)。
 こうした状況のなか、ドイツ当局はゲットーを完全に解体してユダヤ人住民を立ち退かせるとともに、行き場を失う彼らを抹殺するための施設として絶滅収容所の建設を開始する。
 このいわゆる「ラインハルト作戦」で設立された3収容所により、最終的に175万人が犠牲になったといわれる。
 いずれの収容所も殺害専用でほとんど生還者がおらず、1942年末から43年後半にかけて順次閉鎖・解体されたため、その存在は戦後長らく注目を浴びることがなかった。このため、そこで大量殺戮が行われたという事実そのものが、人びとの記憶から消し去られてしまったのである。
 こうした事情から戦後のイメージのなかで、犠牲者の中核をなすポーランド系ユダヤ人の相対的な重要性が低下した面があることは否定できない(ちなみに映画『ショア』はこの3収容所の存在にも目を向け、その実態の掘り起こしを行っている)。
③移住政策の破綻が絶滅収容所を生み出した
 だがそれにしてもなぜ、ユダヤ人はゲットーに集住させられたのか。これを理解するためには、ナチスのユダヤ人政策の紆余曲折を押さえておかなければならない。その経緯は以下の通りである。
 1939年9月に戦争がはじまるまで、ナチスはユダヤ人への法的差別や経済的圧迫、さらには露骨な暴力行使を通じて、彼らの国外移住を促進することに重点を置いていた。
 その最大のあらわれが、1938年11月にナチ党の扇動によって全国各地で発生した反ユダヤ暴動、いわゆる「水晶の夜」である。
 だがこのような政策はかえってユダヤ人を困窮化させ、出国を停滞させる結果となっただけでなく、開戦後まもなくドイツがポーランドを占領し、その地でさらに大量のユダヤ人を抱え込むと、完全に行き詰まることになった。
 そうしたなかで浮上してきたのが、「東方」(ポーランド東部およびソ連)への強制移送という方策である。
 これはポーランド占領地域のユダヤ人やポーランド人の住民を立ち退かせ、そのかわりにドイツ本国のドイツ人や在外の民族ドイツ人を入植させて、この地域全体を「ゲルマン化」しようという壮大な計画の一環をなすものだった。
 この民族浄化を目的とする政策は1940年初頭にポーランド西部のドイツ編入地域から実施され、まずその地域のユダヤ人の一部がポーランド東部の属領とされた「総督府」に強制移送された。
 この強制移送を円滑に進めるため、当面の措置として各都市に設けられたのがゲットーである。それはあくまで一時的な中継地にすぎず、恒常的な定住地ではなかった。
 ユダヤ人の移送先と考えられていたのは当面の間はソ連と境界を接する総督府だったが、1940年半ばのフランス占領後に一時マダガスカル島への追放が検討された後、41年6月の独ソ戦開戦後にはソ連の領内への追放が現実味を増していた。
 ところが1941年末に独ソ戦が膠着状態に陥ると、こうした計画も行き詰まってしまった。その間にもドイツ本国からのユダヤ人の移送がはじまり、各地のゲットーが極限状況に陥るなか、行き場を失ったユダヤ人の処遇が焦眉の問題となってくる。
 こうして総督府に3つの絶滅収容所が建設され、ユダヤ人の大量殺戮がはじまることになった。1942年1月にベルリンで開かれたいわゆる「ヴァンゼー会議」は、ユダヤ人の追放から絶滅へという政策の転換を確認し、その対象をヨーロッパ全域に拡大するものだった。
④独ソ戦をきっかけに大量虐殺の技術が「進化」した
 しかし実はこの会議が開かれるよりも早く、ソ連占領地域ではすでに別の形でユダヤ人の大量虐殺がはじまっていた。
 1941年6月、ユダヤ=ボルシェヴィズム(ユダヤ人と共産主義を同一視するイデオロギー)の殲滅を旗印にはじまった独ソ戦は残虐きわまる絶滅戦争だったが、その情け容赦ない殺戮を担ったのが親衛隊や警察のメンバーで構成される移動虐殺部隊(アインザッツグルッペンなど)だった。
 これらの部隊の任務は前線の後方で人種的あるいは政治的な敵とされた人びとを殺害することで、その対象には共産党委員やパルチザン、そして何よりもユダヤ人が含まれていた。
 独ソ戦開始後にドイツ軍が破竹の勢いでソ連への侵攻を開始すると、移動虐殺部隊はバルト諸国からベラルーシ、ウクライナ、ロシアの一部にいたる広大な地域に侵入し、地元住民の協力のもとユダヤ人の住む先々に出向いて虐殺を実行していった。
 当初は主にユダヤ人の男性に限定されていた殺戮は、やがて女性や子どもにも無差別に降りかかるようになり、町や村のユダヤ人コミュニティを根こそぎ壊滅させるなど、その苛酷さを増していった。
 この殺戮の被害は恐るべきもので、1941年末までの半年間で犠牲者は50万人に上った(最終的な犠牲者数は130万人に上る)。各町村のユダヤ人は集団で郊外の処刑場に連行された後、そこに掘られた穴のところで銃殺され、そのまま埋められた。
 なかでも最大の犠牲者を出したのが、2日間で3万人以上のユダヤ人を殺害したウクライナのバビ・ヤールでの虐殺である。
 だがこうした大量射殺はきわめて非効率で、執行者の精神的負担も大きく、不必要に残虐なものと考えられた。
 そこで別のもっと効率的で負担の少ない殺害方法が検討され、いくつかの実験をへて、最終的に排気ガスによる方法が採用されることになった。
 これは1939年9月のポーランド侵攻後、占領地域およびドイツ本国ではじまっていたいわゆる「安楽死」作戦(コードネーム「T4」)の技術を踏襲したものだった。
 この作戦では「生きるに値しない命」とされた障害者を殺害するのに主に排気ガスが用いられたが、1941年8月に作戦が中止されたのと入れ替わりに、同じ技術がユダヤ人の殺害に利用されるようになったのである。
 まず開発されたのは移動式のガストラックで、荷台に乗せた人びとを排気ガスで殺害する設備を備えていた。このガストラックはソ連占領地域で射殺と並行して運用された後、1941年末にポーランド西部に設立されたヘウムノ絶滅収容所に導入された(ただしこの収容所はまだ実験的性格が強かった)。
 次に登場したのが固定式のガス室で、1942年前半にポーランド東部の総督府に建設された3つの絶滅収容所で殺戮に用いられた。しかも注目すべきことに、その建設では「安楽死」作戦に従事したスタッフが中心的な役割を担っていた(なおアウシュヴィッツでは排気ガスのかわりに殺虫剤ツィクロンBが用いられた)。
 こうして殺害技術が段階的な進化をとげ、ユダヤ人殺戮の効率を飛躍的に高めることになった。ホロコーストの中核をなす3収容所は、移住政策の破綻と殺害技術の新機軸の悪魔的な出会いの産物だったのである。
⑤ホロコーストは「行き当たりばったり」の結果だった
 アウシュヴィッツでのユダヤ人の組織的・機械的な殺戮は、それがあたかも明確で綿密な計画の産物だったかのような印象を呼び起こしがちである。
 だが以上で見てきたように、ナチスのユダヤ人政策は当初から一貫して大量殺戮をめざしていたわけではなく、むしろ状況の変化に応じて軌道修正をくり返しながら、徐々に絶滅政策へと近づいていったのだった。
 ホロコーストの展開がかくも行き当たりばったりなものになったのは、何といっても戦争の帰趨によるところが大きい。
 もっともそうした紆余曲折のどの段階でも、ナチスがそのつど直面する問題を「合理的」に解決しうる方策を選択していたことを見逃してはならない。
 物理的抹殺の選択でさえ、ユダヤ人の排除という目標に対する最も実現可能で効率的な方策だったといえる。
 方針が決まってしまえば、後はもうこれをいかに実現するかの問題だった。そのための最も適切な手段として選択されたのが、ガス室を備えた絶滅収容所にほかならない。
 さらにまた、ユダヤ人の排除は戦争の目的と衝突しないどころか、戦争の目的そのものでもあった。「東方」に獲得されるべき「生存圏」には、ユダヤ人の存在の余地はなかったからである。
 それゆえ戦争の勝利が遠のき、領土の拡大が見込めなくなったとき、本格的な大量殺戮がはじまったのも偶然ではない。それは戦争の目的における優先順位の変更であり、別の形での戦争の継続でもあったのである。
 ホロコーストを理解するための鍵は、そうした目的と手段の関係における「合理性」をどうとらえるかにあるといえるだろう。
<筆者プロフィール>
田野 大輔 DAISUKE TANO
 1970年、東京都に生まれる。京都大学大学院文学研究科博士後期課程(社会学専攻)研究指導認定退学。京都大学博士(文学)。現在、甲南大学文学部教授。専門は、歴史社会学、ドイツ現代史。著書に、『魅惑する帝国――政治の美学化とナチズム』(名古屋大学出版会)、『愛と欲望のナチズム』(講談社)がある。Twitter

 ◎上記事は[現代ビジネス]からの転載・引用です
――――――――――――――――――――――――
ユダヤ人はなぜ、ナチス・ドイツの標的にされたのか アウシュビッツで身代わりとなったコルベ神父 「PHP online 衆知」

   

-----------------------
コルベ師は「最も大切なお仕事をして下さっている人の部屋です」と云って、或る病人の部屋に案内した〈来栖の独白2017.9.14〉


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。