トランプのふしぎな勝利 (上)顰蹙発言・行動に米国人は惹かれた (下)“危険な賭け”人々は革命を求めた 大澤真幸 2016.11.16

2016-11-20 | 国際

トランプのふしぎな勝利(上)顰蹙発言・行動に米国人は惹かれた 大澤真幸
THE PAGE 2016.11.16 13:42 | 大澤真幸 社会学博士
*なぜ選挙予測は外れたのか
 開票が始まったときには、まだほとんどの人がクリントンの勝利を疑っていなかった。開票後、数時間を経ったときでさえも、アメリカのテレビ番組は、クリントンが最終的には勝つことを前提にして、情勢を分析していた。どうして、ほとんどの人は、クリントンが勝つと予想していたのだろうか。
 その理由は簡単である。直前の意識調査の結果で、クリントンが優位にあることが示されていたからだ。いや、開票開始のときでさえも、クリントン優勢だとベテランのジャーナリストが伝えていたのだから、出口調査の結果を加えても、クリントンが優位にあるという予想は覆らなかったのである。
 トランプの勝利も驚きだが、もっと驚くべきは、選挙結果の予測が外れたことである。どうして外れたのか。大統領選挙は、今回が初めてではない。これまでの経験、これまでのデータの蓄積によって、誤差の分も含め、普通だったら、十分に精度の高い予想ができたはずだ。日本の選挙速報でもわかるように、まともな民主国家では、選挙結果はきわめて正確に予想することができる。
 ところが、今回は予想が外れた。どうしてなのか。すでに何人もの評論家が指摘しているように、かなりの数のトランプ支持者が、調査の段階では嘘をついたからだ、と考えなくてはならない。トランプに投票するつもりなのに、あるいはトランプに投票したのに、クリントンを支持しているとか、まだ誰に投票するか決めていないとかと答えた有権者が、無視できないほどにたくさんいたのである。
 この事実に、われわれはまずは注目しなくてはならない。予想が外れたということは、これまでの選挙ではこんなことはなかった、ということだ。つまり、調査にわざわざ嘘の回答で応ずる人など、かつてはいなかったのだ。また、クリントンの支持者の方には、調査で嘘をつく者はいなかった(もし両側に同じくらいの頻度で嘘つきが混じっていれば、相殺されて結局、正しい予測ができたはずだから)。どうして、クリントン支持者は正直なのに、(一部の)トランプ支持者は嘘つきなのか。
 トランプ支持者は、トランプを支持することは恥ずかしいことだ、と思っているからである。少なくとも、彼らはこう思っているはずだ。トランプを支持することは悪いことだ(道徳的に問題があるとか、愚かだとか)と他人(ひと)は思うだろう、と。トランプを支持しているなどと公言すると、他人から、「お前は恥知らずだ」とか「お前は愚かだ」とか見なされるに違いない、と。
 こういう感覚はクリントン支持者にはまったくない。また過去の大統領選挙にも、このような感覚で投票した者はいなかった。これは、今回の選挙のトランプ支持者(のみ)に現れた、特有の態度である。
 もっとも、大統領選挙という枠を外せば、このような態度は決して新しいことではない。現代的な現象ではあるが、他にまったく見られないことではない。これは、私が、かねてから「アイロニカルな没入」と呼んできた現象である。アイロニカルな没入とは、簡単に言えば、「そんなことはわかっている。けれども…」という態度のことだ。一方では、対象を批評的・冷笑的に突き放す意識をもっている。しかし、他方の行動の水準では、「それ」にはまっていたり、それにコミットしていたりする。意識と行動の間にねじれがあるのだ。
「トランプに投票するなんてバカなことだ(と思われる)とわかっている。けれども投票する」。これがアイロニカルな没入である。こうした態度は、内的に矛盾している(意識していることとやっていることとの間に食い違いがある)ので、めったに見られないめずらしいことと思うかもしれないが、実はそんなことはない。ほとんど人が、日常的に、「アイロニカルに没入」している。たとえば、CMに影響されて、何かを買うときがそうである。
 考えてみると、ほとんどのCMは、ふざけている(ソフトバンクの白戸家を思えばよい)。「な〜んちゃって」的な含みが、CMにはある。それでも、そのCMには効果があるのだ。つまり、われわれ消費者は、そのCMに影響されて、商品を買う。このとき、われわれは、その商品にアイロニカルに没入しているのだ。「あの広告は嘘っぱちだとわかっている。それでも…」という具合に、である。
 しかし、これまで、アメリカ大統領の選挙のような重要な選択、現在の地球で人間がなしうる選択の中で最も大きな影響力をもつ選択では、アイロニカルな没入は見られなかった。大統領選挙では、人々はベタにまじめに選択してきたのだ。トランプは、アイロニカルな没入の結果として生まれた、最初のアメリカ大統領である。
*すべての立場の連合体
 だが、それにしても、トランプの勝利、クリントンの敗北はふしぎである。どうしてトランプが勝利したのか。この勝利は何を示しているのか。
 普通に考えれば、クリントンの圧勝でなくてはならない(ように思える)。クリントンの陣営は、ほとんどすべての立場、ほとんどすべての価値観を包摂しているからである。クリントン側は、ほぼすべての立場の連合体である。その中には、ウォールストリートで働くエリートもいれば、逆に、オキュパイ・ウォールストリートの運動家もいただろう。バーニー・サンダースのような擬似社会主義者も含まれている。もちろん、フェミニストもクリントン支持だ。LGBTの活動家も含まれている。エコロジストは、もちろん民主党支持者である。そして、ついに、主だった有名な共和党員さえも、クリントン支持者に含まれているのだ。いったい、どこにトランプの「取り分」があったのだろうか?
 今回、声高に何か政治的なことを主張するような人は、ほぼ全員、クリントンを支持していた。このことを示しているのが、アメリカの大半の新聞、圧倒的に多数の新聞が、クリントン支持を表明していた、という事実である。世論調査をすれば――終始クリントンが優位だとはいえ(もっとも今振り返ってみれば、隠れトランプ支持があったので、クリントンの優位はかなり割り引いて見なくてはてらないわけだが)――両者はいつも拮抗していた。だが、マスメディアのレベルでは、九割方、クリントンの支持者が占めていて、クリントンの圧勝である。この不一致(マスメディアにおけるクリントン圧勝/世論調査における接戦)は奇観と言ってもよいほどだ。
 クリントン側の構成は、多文化主義的な連合にもとづくものだ。(他人を傷つけることがないならば)どんな価値観をも公平・平等に受け入れましょう、というのが、多文化主義である。この多文化主義的な寛容の、アメリカ風の別名が、political correctnessである。これは非の打ち所もなく正しく、「どう見ても間違っているような奴」を別にすれば誰でも寛容に平等に迎え入れ、包摂するやり方なのだから、絶対に負けるはずがない。……このように見えた。しかし負けた。
 実は、この絶対の強みに見えた多文化主義的な公平性にこそ、敗因があったのだ。どういう意味かを明らかにするには、もうすこし説明を重ねなくてはならない。
*奴のどこが共和党なのか
 今度はトランプ側に目を向けてみよう。トランプは共和党の大統領候補だ……が、よく見れば、彼は、全然、共和党らしくない。むしろ、民主党的でさえある。トランプは、ある意味では、民主党以上に民主党的である。しかし、別の意味では、共和党よりも共和党でもある。そして、全体としては、彼は、共和党に分類されるしかないのだが、いずれにせよ、伝統的な「民主党/共和党」の図式を完全に打ち崩しているである。
 まず、彼が公約した政策を見てみよう。イスラム教徒は入国させないとか、不法移民を全部追い出すとかといった、できるはずのない極端な部分をそぎ落とし、実現可能なこととして述べられている政策の部分だけを冷静に眺めれば、どうなるのか。そこには、共和党らしいことはほとんど入っていない。どちらかと言えば民主党に近い。最低賃金を引き上げるとか、関税によって国内の産業を守るとか。これは、アメリカでは、中道的なリベラルが言いそうなことである。
 一般に、共和党らしさを構成している文化項目がある。たとえば、人工妊娠中絶には反対(あるいは積極的には賛成できない)とか、聖書に忠実で、ときには進化論より創造説を好むとか、こんなことを言えば共和党らしい。こういう基準で、トランプを見たらどうだろうか。そうすると、どこにも、ひとつも共和党らしいものを彼はもってはいないことがわかる。トランプは、中絶などまったくOK、問題なし、という考えである。彼には、聖書を尊重する気など、これっぽっちもないだろう。
 見ようによっては、トランプは、標準的な民主党支持者よりも、もっとリベラルである――というか(保守的な規範に縛られず)奔放である。聖書やキリスト教を気にせず、いくらでも冒涜的になることができる。民主党支持者さえ、「そこまで聖書を蔑ろにしていいのか」と眉をひそめるだろう。性に関しても、めちゃくちゃなほどに「リベラル」で、保守的な道徳を気にしない。
 では、いったい、トランプのどこが「共和党」なのか。なぜ彼は、共和党の大統領候補だったのか。彼を共和党にしている要素は、実は、彼のあの顰蹙を買った言動なのだ! 露骨な人種主義、信じがたい女性差別、そしてハラスメント。これらが、彼を共和党につないでいるのである。
 ええっ!とんでもない!と共和党支持者だったら言うだろう。共和党は、決して、人種主義を正当化してはいない。共和党は、女性差別に反対である。ましてハラスメントなど論外である。……もちろんその通りだ。だから、実際、まともな共和党員、著名な共和党員の多くが、トランプから離れていったのだから。
 しかし、である。ほとんど公民権運動以前の露骨で醜悪な人種主義。今どきあんなこという人もいるのね、と言いたくなるようなあからさまな女性差別。こうした顰蹙(ひんしゅく)ものの態度、極端な反動的言動は、民主党側にあるのか、共和党側にあるのか、と言えば、やはり後者だと言わなくてはならない。もちろん、今日の共和党がそんなことを支持していないことは明らかだ。しかし、共和党の中にある保守的な要素をあえて強調し、逸脱するほどまでに徹底させてしまえば、どうなるのか。そうすると、確かに、あの人種主義や性差別主義に近づくことは近づくのではないか。
*もしトランプが品行方正だったら…
 だが、それにしてもふしぎである。あれほど顰蹙(ひんしゅく)ものの言動を繰り返しても、また過去のとてつもない行状が暴かれても、どうしてトランプは負けなかったのだろうか。失言したり、過去が暴かれたりするたびに、すこしだけ支持率を下げることは下げた。しかし、選挙結果を見れば、そのマイナスの影響はたいしたことはなかったのだ。どうしてだろう。
 逆にクリントン側を見てみると、メール問題は最後まで響いた。過去のメール問題の失敗だけで、クリントンは、「政治家としての資質が云々」とか言われ続けたのだ。だが、そんなことを言うなら、トランプは、政治家どころか、人間としての資質が疑われてもおかしくないほどひどいことをやってきたではないか。どうして、クリントンはダメで、トランプはOKなのか。
 ここで秘密を明かしておこう。あの顰蹙ものの言動や過去、あれは、トランプにとって不利なマイナス要因だと皆思っている。トランプ自身でさえもそう思っている。しかし、実はそうではないのだ。あれは、プラス要因でもあったのである。
 ああしたスキャンダラスな言動のないトランプ、というものを想像してみるとよい。何の魅力もない平凡な男になってしまうだろう。そんな男にだったら、クリントンは難なく打ち勝っていただろう。
 アメリカ人は、無意識のうちに惹かれていたのである。トランプのあの、破天荒な言動に、である。まったく道徳的に容認できないスキャンダラスな発言や行状に、である。どうして、そんなことが魅力の源泉になっているのか。
 まず、はっきりと言っておこう。確かにトランプは勝った。そして、私は今、トランプの人種主義や性差別主義が、トランプの魅力にもなっていると述べた。しかし、トランプに投票した人が、トランプと同様に人種主義的であると思ったら大間違いである。トランプに投票した人が、トランプと一緒に、女性蔑視していると考えたら、事態を見誤ることになる。まして、トランプ支持者は、ハラスメントの推進派だなどと考えたら、とんでもない。もし、真正の人種主義者やほんとうの家父長制的性差別主義者しか、トランプを支持しなかったら、彼は選挙に完敗していただろう。
 それでは、なぜ彼は勝てたのか。とてつもない欠陥に見える彼の顰蹙ものの言動が、どうしてポジティヴな要因に転化したのか。
 *大澤真幸
 社会学博士
 1958年、長野県松本市生まれ。社会学博士。東京大学大学院卒。千葉大学助教授、京都大学大学院教授等を歴任。個人思想誌『Thinking「O」』主宰。著書に、『ナショナリズムの由来』、『〈世界史〉の哲学』(古代篇・中世篇・東洋篇・イスラーム篇)、『不可能性の時代』、『自由という牢獄』、『可能なる革命』、『日本史のなぞ』、『げんきな日本論』(共著)等。

トランプのふしぎな勝利(下)“危険な賭け”人々は革命を求めた 大澤真幸
2016.11.16 13:45 | 大澤真幸 社会学博士
*変化なき変化
 もう一度、クリントン側を見よう。繰り返すと、そこには、ほとんどすべての立場、すべての価値観が多文化主義的な包摂されている。だから負けるはずがないように見える。しかし、彼女は負けた。ということはどういうことか。その「すべての立場」が前提にしていること、どんな価値観を主張するものも「それだけは前提だよね」と自明視していること、そのことが有権者に拒否された、と考えなくてはならない。それは一体何なのか。
*強盗に助けを求めるようなもの
 答え。それは、グローバル資本主義である。これだけは基本的な土俵である。これだけは、受け入れなくてはならない。これさえ、グローバル資本主義さえ受け入れてくれれば、どんな立場、どんな価値観でも許容しよう。これが、クリントン陣営である。
 多文化主義とか、political correctnessとは、グローバル資本主義を受け入れる限りでの多様性ということである。それだけ受け入れれば、どんな立場も寛容に平等に受け入れましょう、というわけだ。だって、そうでしょう。これ(グローバル資本主義)以外の選択肢はないのだから。……というのがクリント側の主張である。
 すると、当然、グローバル資本主義の不可避の産物は、グローバル資本主義に必然的に随伴するものは受け入れなくてはならない、ということになる。たとえば、それは何か。とてつもない不平等や、とんでもない階級的搾取である。それは、幾分かは緩和できても、無にすることはできない。資本主義は、「格差(不平等)」を食って生きているのだから。
 そうすると、クリントン側の主張は、欺瞞的なものにも聞こえてくる。なぜかと言えば、彼女たちは客観的には次のような態度をとったことになるからだ。一方で、「私たちはどんな価値観も公平に平等に受け入れます」と言いながら、他方で、最も過酷な不平等(資本主義がもたらす格差)だけは容認する、と。
 有権者からすると、こんな気分になる。ろくな収入も仕事すらもなく、社会から、「お前はゴミだ」と言われているときに、移民も大事だとか、LGBTの人に寛容に、だとか言われてもなあ〜。かつてのオバマ大統領のスローガンを変形させると、クリントンのスローガンは、客観的にはこうである。Change without Change. 資本主義という枠組みを変えないならば、どう変えてもよい。…ということは、本質的なところは変わらない、ということになる。格差や搾取は、基本的にはそのままなのだから。
*強盗に助けを求めるようなもの
 では、トランプの側はどうなのか。彼は、グローバル資本主義を拒否し、何か新しい選択肢を提示したということなのか。そうではない。そう簡単にはいかない。確かに、トランプは保護主義的なことを主張しているので、グローバリゼーションを(部分的に)拒否しているように見える。しかし、資本主義を拒否しているわけではない。というより、自らが資本主義の権化のような人物であるトランプは、クリントン陣営に負けず劣らず、資本主義を肯定している。
 トランプが言っていることは、実質的には次のようになる。資本主義がもたらす成果、それがもたらす富をいただこう。ただし、「格差」は抜きにしてみせよう。いや、少なくとも、アメリカ人は搾取されない(仮に搾取する側になるとしても)資本主義にして見せよう。
 実際、トランプを支持している人が期待したのはこれである。資本主義の実りである富はある。しかし、自分たちは絶対に搾取されない。そんな資本主義をいただこう。
 それで、そんな資本主義は可能なのか。無論、不可能である。そんな都合のよいことができるくらいなら、最初からそうしている。トランプが公約したこと、トランプに期待していることは、端的に不可能だ。それは、「資本主義なき資本主義」と言っているに等しいからだ。
 にもかかわらず、人々は、トランプを支持したとき、半信半疑ながら、そんな都合のよいことが、搾取なき資本主義のようなことが可能かもしれない、という夢を見ているのである。半信半疑ではある。だから、アイロニカルな没入なのだ。しかし、アイロニカルであっても、没入は没入である。
 だが、どうしてそんな夢を見ることができるのか。ここで、あの顰蹙を買った言動が効いてくる。非常に寛容な多文化主義でさえも、さすがに容認してくれそうもないような、あからさまに非道徳的な言動をとること。非の打ち所もなく、反論もできないようなpolitical correctnessのルールを、堂々と恥ずかしげもなく蹂躙すること。このことが、誰もが当然のように前提にせざるをえない地平の外に出ることが可能だ、という幻想を生むからである。拒否できそうもない地平とは、もちろん、グローバル資本主義である。
 多文化主義やpolitical correctnessは、いわば、グローバル資本主義の政治的な表現である。誰もが、それらを蹂躙することには躊躇を覚える。どこかおかしいところがある、何か胡散臭いと感じても、どうしても、多文化主義やpolitical correctnessを否定することはできない。そんなふうに感じているとき、一人の男が、平気な顔をして、それらを侵犯し、蔑ろにしてみせた。このとき、人々は、別に、彼の人種主義や性差別がすばらしい、と思うわけではない。ただ、その言動は、多文化主義やpolitical correctnessと表裏一体にくっついているグローバル資本主義の外に出ることが可能なのかもしれない、ということを表現するサインになるのだ 。
 だが、結局は、トランプもその支持者も、矛盾したことをやっている。考えてみれば、トランプ支持者の行動はこっけいである。貧困な者、所得が伸びない者は、自分たちを惨めさから解放してもらおう、とトランプに投票した。だが、考えてみれば、トランプのような人、資本主義の中で巧みに渡り歩いてきた人、投機によって儲け、節税という名前の合法的な脱税を続けてきた人、その人こそ、彼らの惨めさの原因(のひとつ)ではないか。強盗に襲われたとき、警察に行かないで、強盗自身に助けを求めているようなものだ。
*〈可能なる革命〉のために
 だから、1年か2年もすれば、アメリカ人は失望するだろう。自分たちの失敗に気づくだろう。トランプは、結局、できることしかできない。もしかすると、彼はわりと普通のことをやるのかもしれない。それでも上出来だと言う人がいるが、しかし、それではダメだ。人々は、「普通」ので状態の継続を望んで彼に投票したわけではないからだ。トランプに投票しているとき、人々が望んでいることは、この「普通」の状態からの解放、逃れられない牢獄のように見えているこの状態からの解放だ。彼らは、望んでいる。不平等や搾取から解放され、豊かになることを、である。しかし、その願望は満たされないだろう。約束は果たされまい。トランプの支持率は下がるに違いない。
 ならば、やはり、アメリカ人はクリントンの方を選ぶべきだったのか。普通はそう考えるところだが、私は、現在の選挙結果を前向きに考えることにした。
 絶対に優位だと思ったクリントンが負けた。ということは、人々は、ある意味で、「革命」を求めているのだ。ここで革命というのは、自明とされている前提を――つまり資本主義を――相対化するような変動という意味である。この自明の前提(グローバル資本主義)そのものの帰結が、もはや耐え難いのだ。
 では、トランプを選んだということは、それ自体、「革命」なのか。そうではない。今述べたように、それは失敗に終わる。端的に不可能なことを実現しようとしているのだから。
 だからといって、クリントンを選んだとしても、救われはしない。クリントンを大統領にするということは、致命的な生活習慣病を抱えながら、対症療法だけで延命するようなものだ。細々と寿命を少しは延ばすことにはなるが、致命的な病は致命的な病だ。人は病を徹底して治す機会を逸して、いずれ死ぬ。
 トランプは危険な賭けだが、そのはっきりとした失敗を媒介にして、人々は、初めて、真の革命の必要を自覚するだろう。私は、つい先日、『可能なる革命』(太田出版)という本を出したばかりだ。トランプ大統領(の選択)自体は、未だ〈可能なる革命〉ではない。しかし、それは〈可能なる革命〉に至るために、絶対に通過しなくてはならない試練であり、失敗なのかもしれない。クリントンを取っていたら、革命は端的に不可能になっていた。
 ついでにクリントンのメール問題について記しておく。私の推測では、クリントンのメール問題について口うるさく文句を言っている人の大半は、ほんとうは、もうそんなことが致命的な欠陥である、などと思ってはいない。トランプのハラスメントや脱税的な節税を赦すような人たちなのだから、彼らはけっこう寛大だ。ただ、クリントンに明白な欠陥があると、彼らは安心するのである。
 何に安心するのか。安心して、トランプに投票できるのだ。彼らとしては、クリントンではなく、トランプを支持する「口実」が欲しかったのだ。かんたんにはそれは見つからない。幸い、クリントンは、過去に、はっきりとしたミスをしてくれている。それがメール問題だ。普通に考えると、クリントンよりトランプを選好する理由はどこにもないので、トランプを支持する者は、自分がやったことが正しいかどうかということについて、確信をもてずにいたのだ。
 クリントンにメール問題があったおかげで、その不安を払拭することができたのである。投票直前まで、クリントンがメール問題のことでグチグチと言われたのは、それが政治家の行動として大問題だったからではない。トランプ支持のための口実を無意識のうちに探していたアメリカの人々のアンテナを、それが心地よく刺激したからである。

 ◎上記事は[THE PAGE]からの転載・引用です
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【この国はどこへ行こうとしているのか トランプという嵐】大澤真幸 
『ふしぎなキリスト教』橋爪大三郎×大澤真幸 講談社現代新書
[神的暴力とは何か] 死刑存置国で問うぎりぎり孤独な闘い 暴力抑止の原型 大澤真幸(中日新聞2008/2/28)
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