『2006 年報・死刑廃止』特集“光市裁判 なぜテレビは死刑を求めるのか”
光市最高裁判決と弁護人バッシング報道 安田好弘 〔4〕重罰化に向けて一気に踏み出した最高裁判決 メルトダウンする司法
■重罰化に向けて一気に踏み出した最高裁判決
それで今回のことになるわけです。検察官が量刑不当を理由として上告までするというのは基本的にはないんです。永山則夫さんのときが第1号で、その後、5件連続的に量刑不当を理由として上告したケースがありましたが、今回のように1件だけを狙い撃ち的にやるというのはとても珍しいことです。ですから捜査段階から事実をねつ造するという道具立てをし、控訴審ではさらに手紙を暴露するという道具立てを加え、いよいよ彼らの集大成が今回の最高裁だったわけです。
1審の3人の裁判官、2審の3人の裁判官で負けたわけですから、普通だったらそこで矛を収めるのが検察実務の運用です。しかし、最高裁と結託して何としてでも彼を死刑にしようというのです。
確かに死刑か無期かという明確な量刑基準は基本的にはないんですね。裁判官の人格や死生観や人生観、あるいはそのときの時代の雰囲気、弁護人がどれだけ頑張って弁護をするかどうか、裁判官がどれだけ事実をしっかり見ようとしているかどうか、あるいは東京で裁判になったか、大阪で裁判になったか、名古屋なのか、そういうことで決まるんですね。私の実感からすると
名古屋が一番厳しいんですよ。そして、大阪と東京はほぼ同じ。一時は、大阪が東京の半分くらい死刑率が低かったこともあるんですよ。死刑か無期かの量刑基準はそのレベルのものなんです。
しかしそれでもなおかつ一定の感覚というのはありまして、たとえば強盗殺人の場合、成人でかつ被害者が2人だったら死刑に傾く。しかし少年の場合は、強盗殺人で2人ぐらいまでなら無期なんです。その相場を中心として右にぶれたり左に寄ったりというのが実情なわけです。単純殺人なら2人までだったら無期の方に傾く、しかし3人以上の単純殺人だとすると死刑にいっちゃう。
たとえば前に無期懲役があって仮釈放中の事件だとこれはやっぱり死刑になる。誘拐殺人事件の場合ですと、1人で、被害者が幼児、幼児と言っても幼稚園、保育園の子どもさんだと死刑の方にぐっと引きつけられる。そういう傾向があるわけですけれども、もちろん、多くの例外事例があるんです。この点は、名古屋の村上満宏弁護士の貴重な研究成果がありますから、興味のある方は是非見てください。日本評論社から出版されています。
そして、前にも述べましたが、従来の量刑基準からすると、この光市のケースは無期なんですね。1審の3人の裁判官、2審の3人の裁判官がやっぱり無期だと言い続けたように、迷うことなく無期なんです。しかしこれを最高裁が引っくり返そうというわけですから、死刑の基準を大きく変えようとしているんです。検察官がどのように細工を仕組んでも無期しか出せなかったはずのものを、基準を一気に引き下げて死刑にしようというんです。最高裁はこの判決を通して、重罰化に向けて大きく一歩踏み出そうとしているんです。検察とマスコミ、世間の風潮、そして被害者遺族の感情と同値させようとしているんですね。
■メルトダウンする司法
弁論をご覧になった方はおわかりだと思うんですけれども、検察官は前を向いてではなくて、後ろを向いてしゃべっているんですね。今日、被害者の遺族の人たちが法廷にみえているという話をし始めるんです。この人たちは死刑を最高裁が宣告することによって人生をきちんとやり直しができるということで待ち望んでいるんだ、と告げるわけです。
検察官がこれほどまでに被害者遺族に配慮したのを私は見たことがありません。少なくとも検察官は公益の代表なわけでして、彼らは曲がりなりにも法の公正な適用を、つまり訴追者という視点から裁判所に求めるというのが検察官の立場です。被害者遺族がどうだというのを全面的に打ち出していくというのは今までなかったことです。つまり被害者感情というのは量刑判断の基準の一つになるけれども、それはあくまでも全体の多くのファクターのうちの一つにとどまり、それもそれほど大きな地位を占めてこなかったのですが、今回の弁論では、それを全面的に打ち出して、その被害者の思いを実現することを裁判所に強く迫ってきたのです。ですから、検察
官は公益の代表者ではなく、被害者の代表者に成り代わっている状態であったのです。つまるところ検察官は検察官としての職責を果たすのではなく、政治をやっているんです。彼らが、ほんとうに被害者の悲しみなどわかるわけがありません。事件をこういうふうに自分に都合のいいようにねつ造する人間が、被害者の悲しみをわかるはずがありません。事実をおろそかにして事件をねつ造する人間に人の悲しみとか苦しみを理解できるはずがありません。彼らがやっていることは、死者に対する冒涜だと思います。彼らは被害者の気持ちを代弁すると称して、政治的目的を達成しようとしているに過ぎないのです。彼らは被害者の気持ちを前面に打ち出して被告人を死刑にするという政治的目的を実現しようとしているだけです。彼らは死刑を積極的に適用させて犯罪に対して厳しく処断することによって秩序維持を図ろうとしていますし、そうすることが世論やマスメディアの期待に応えまた支持され、検察の威信を高め、検察の勢力を拡大させることだと考えているのです。ところが、今回は、裁判所もそうしようというのです。
もともと司法というのはそういうものではなかったはずです。よく言われるんですけれども、大津事件ではロシアの皇太子を狙撃しようとした者に対して死刑にするようにとたいへんな圧力がかけられたのですが、裁判官はそれをはねのけて、日本の刑事司法を守り抜いたとされています。
それは、私たちのあるべき姿として語られてきました。つまり感情とか政治的な要求あるいは世論の動向には一切影響されることなく、法に忠実に、事実に忠実に、公正・公平に法を適用するのが司法だとされてきたわけです。それは、理性的で、客観的で、冷静な作業であるとされてきました。そして、その中で弁護人は徹底して被告人の利益を擁護し事実については論争を挑む。
検察官は検察官で公の代表者として自分たちの捜査能力を最大限駆使して被告人の有罪を立証していく、そういう激しい対等な関係の中で裁判所は冷静な第三者として事実を判断し法を適用する、というのが司法システムだといわれてきたんです。もちろん、これにもかなりの虚構があるんですけれども、それでも、そうありたいと思ってきたし、そういう意味では司法は最後の砦だとされてきました。行政は弾圧するかもしれない、いろんな社会的な迫害を受けるかもしれない、しかし最終的に守ってくれるのは司法なんだというシステムを作ったんです。司法を行政から分離して独立させる、裁判官、弁護士、検察官の身分を保障する、どれもこれもそのためのものであったわけです。しかし、今や裁判所はその役割を放棄してしまっているんです。裁判所だけではなく検察も同じです。公の代表者ではなくて、むしろ自分たちの職益の代表者として、政治的に行動している。それぞれの彼らなりの公正さ、誠実さ、そして勤勉さは反古になってしまっています。
弁護人はどうでしょうか。最低限やるべきことを一切やっていない。横着極まりないことしかやっていない。弁護士は在野であったはずで、どこにも誰にも与しなかったし屈しなかった。ましてや国家権力や国家とはできるだけ距離を置いて生きてきたし、距離を置くことによって初めてその存在価値があったはずのものが、今や、弁護士は国家政策のお先棒を担いでいる。しかも借金の取り立て屋を始めたんです。このかん、弁護士の最大の依頼者は誰かといったら、RCC(債権回収機構)ですよ。おそらく日本の弁護士が受け取る報酬の何パーセントかは、RCCから出ていたはずです。この不況の時代に弁護士が弁護士なりに食べてこられたのは、そこらへんからのお金がちゃんと回ってきたきたからだと思います。
ですから、すでにもう司法そのものが3者含めて瓦解してしまっている。いまや私たちは、司法にいったい何が期待できるんだろうか。冤罪の人はほんとうに冤罪としてちゃんと司法に救済されることがあるだろうか。あるいは権利を剥奪されあるいは侵害された人がほんとうに司法に救済されるのだろうか。憲法違反の行為を憲法違反だと司法は差し止めしてくれるのだろうか。
人権として曖昧なままにしか憲法には書いていないことを、いや、実はこうなんだという形で、司法は、私たちの権利を拡大してくれるだろうか。過去においても期待できなかったのですが、将来はもっと期待できないでしょう。
司法はあっても何の役にも立ってこなかった。だからこそ今のような状態、つまり司法は誰からも期待されていないし、嫌われている、司法のメルトダウンはすでに始まっているんだと思います。その最たるものがこのかん政府・裁判所・弁護士会が行ってきた司法「改革」だと思います。
*『2006 年報・死刑廃止』特集“光市裁判 なぜテレビは死刑を求めるのか”より 書き写し
>彼らが、ほんとうに被害者の悲しみなどわかるわけがありません。
どうしてそう断定できるのか、と反発しましたが、
>事件をこういうふうに自分に都合のいいようにねつ造する人間が、被害者の悲しみをわかるはずがありません。事実をおろそかにして事件をねつ造する人間に人の悲しみとか苦しみを理解できるはずがありません。
納得しました。