母が亡くなって、3か月 〈来栖の独白 2017.5.24. Wed.〉

2017-05-24 | 日録

〈来栖の独白 2017.5.24. Wed.〉
 母が亡くなって、3か月になる。3か月前の今日、2月24日0時過ぎに亡くなった。この3か月、常に意識の中に、母のことがあった。母の人生、母との来し方を振り返り、思い巡らした。生前、母には、私に秘して打ち明けなかった「人生」もあった。それも含めて、いま私には、母のすべてが愛おしい。
 母について思い巡らす中、受刑して16年、やっと遠くになっていた勝田清孝のことも思われた。警察庁広域重要指定事件113号・勝田清孝を、母は私の求めに応じて、最高裁確定判決の日(1994年1月17日)に快く養子に迎えてくれたのだった。母のような人生・人柄であったればこそ、実現した。
 母について思い巡らすことも尽きないが、清孝についても、様々に思い巡らす。先日、古い記録(備忘録)を紐解いた。そして感じたことは、人に完全なる「悔悟」「更生」は実現しないのではないだろうか、ということだった。人は、多くは、我が身を優先して守る、それが人の性ではないのか。そんなことを思った。極く希に、己が命を投げ出して隣人を救う人がいる。聖書はその行為を、これほど大きな愛はない、と云う。 ヨハネ福音書15章12節〜15節

12 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15 わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。

 小さな私の人生だったが、聖書は常に傍らにあり、教え、支えてくれた。イエスという御方がいなかったなら、私の人生に意味はなかった。
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「なやみつつ辿り行くは ひとの世のつねなれど」〈来栖の独白2017.5.14〉
〈来栖の独白2017.5.14 〉
 日々、独り、自宅でピアノを弾き、カトリック聖歌を口ずさむ。教会のミサでは主に典礼聖歌を弾いてきたが、カトリック聖歌の素朴な、手前勝手な(!)メロディが心に滲みる。安定する。この2、3日は、とくに以下の曲。
 これからの老いる日々、音楽は力強い慰め主だ。
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聖心 【なやみつつ】(#266)
1 なやみつつ辿り行くは ひとの世のつねなれど
霧ふかく立ちこめて わがこころ迷えば
(おりかえし)
み心の光よ
道のしるべと 照し給え
行手(ゆくて)の道を 守り給え 
2 あらし吹き波は高く 船はゆれかたむきて
 ひかりなき海原に わがこころ弱れば
(おりかえし)
み心の光よ
道のしるべと 照し給え
行手(ゆくて)の道を 守り給え 
3 谷ふかく道けわしく いただきは遥かにて
 いくたびかためらいつ わがこころ悩めば
(おりかえし)
み心の光よ
道のしるべと 照し給え
行手(ゆくて)の道を 守り給え 
4 主にならいみ旨のまま 苦しみもよろこびも
 わがすべて残りなく ささげたる嬉しさ
(おりかえし)
み心の光よ
道のしるべと 照し給え
行手(ゆくて)の道を 守り給え 
   *  *
第五ミサ 【なやむわがむね】(#72)
 なやむわがむね
  いかになすべき
 よろこぶこころ
  たれにぞ告げん
 天(あめ)なるみ神
  愛の御父(みちち)よ
 主こそ知りたもう
  わが思いを
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そして今、若葉の季節〈来栖の独白2017.5.1 Mon 〉  
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「遺言書」藤原清孝 ■ 最期の姿 ■ プロフィール 
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