昨日、弾き初めをした。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第17番ニ短調。第3楽章。所要時間20分。Allegrettoで弾けない。ニ短調は「怒りの調」。ベートーヴェンを弾く度に、この人の才能と孤独に胸をしめつけられる。この人によって、この音によって、私は力を得る。打ちひしがれた私の心を幾たびか訪れ、この音で奮い立たせてくれた。苦しく悩むとき、やさしく明るい音では元気になれない。徹底したD-moll、嘆きたいだけ嘆く。絶望のままに身を置く。そうして立ち上がる。なんという音であることだろう。
昨年はほとんどショパンを弾かなかった。今年はショパンもモーツアルトも楽しみたい。モーツアルトのアダージォ(ピアノ協奏曲23番 第2楽章)。加古隆さんの『大河の一滴』も。これは、五木寛之さんの作品から作ったものだ。美しい曲。私を支えてくれた音たち。この世に生まれ、奇蹟のような「音」に出会えた。
天上を想わせる音を作り出すのも人間なら、悪魔さながら残虐であるのも人間である。
この2日ほど気になって仕方のないことがある。1年ほど前から毎日庭に来て食べ物をねだる黒猫ちゃんが来ない。1年前は、まだ幼かった。「バラック」と名付けた。その子が、ここ2日ほど来ない。どこかのペットになったのならいいけれど。
私は、よく近くの公園を散歩する。わが家の猫ちゃん(くうちゃん)は、9年ほど前、その公園にいたのを連れてきた。ちょうど1年前のバラックぐらいの黒い仔猫だった。公園には、野良猫が多い。時に、犬もいる。人は飼いたいときには飼って可愛がるが、嫌になれば捨てる。ペットホテルへ「旅行するので預かって」と言って置いてきぼりにする飼い主もいるという。罪深い人間の、私もその一人だ。昨年次のような言葉にも出会った。「私」が何者であるのか、人間が如何にむごい存在であるか、教えてくれた。
五木寛之著『人間の運命』(東京書籍)
p171~
真の親鸞思想の革命性は、
「善悪二分」
の考え方を放棄したところにあった。
「善人」とか「悪人」とかいった二分論をつきぬけてしまっているのだ。
彼の言う「悪人正機」の前提は、
「すべての人間が宿業として悪をかかえて生きている」 という点にある。
人間に善人、悪人などという区別はないのだ。
すべて他の生命を犠牲にしてしか生きることができない、という、まずその単純な一点においても、すでに私たちは悪人であり、その自覚こそが生きる人間再生の第一歩である、と、彼は言っているのである。
『蟹工船』と金子みすゞの視点
人間、という言葉に、希望や、偉大さや、尊厳を感じる一方で、反対の愚かしさや、無恥や残酷さを感じないでいられないのも私たち人間のあり方だろう。
どんなに心やさしく、どんなに愛とヒューマンな感情をそなえていても、私たちは地上の生物の一員である。
『蟹工船』が話題になったとき、地獄のような労働の描写に慄然とした読者もいただろう。
しかし、私は酷使される労働者よりも、大量に捕獲され、その場で加工され、母船でカンヅメにされる無数の蟹の悲惨な存在のほうに慄然とせざるをえなかった。
最近、仏教関係の本には、金子みすゞの詩が引用されることが多い。
なかでも、「港ではイワシの大漁を祝っているのに、海中ではイワシの仲間が仲間を弔っているだろう」という意味をうたった作品が、よく取り上げられる。
金子みすゞのイマジネーションは、たしかにルネッサンス以来のヒューマニズムの歪みを鋭くついている。
それにならっていえば、恐るべき労働者の地獄、資本による人間の非人間的な搾取にも目を奪われつつ、私たちは同時にそれが蟹工船という蟹大虐殺の人間悪に戦慄せざるをえないのだ。
先日、新聞にフカヒレ漁業の話が紹介されていた。中華料理で珍重されるフカヒレだが、それを専門にとる漁船は、他の多くの魚が網にかかるとフカヒレだけを選んでほかの獲物を廃棄する。
じつに捕獲した魚の90%がフカ(サメ)以外の魚で、それらはすべて遺棄されるというのだ。しかもフカのなかでも利用されるのはヒレだけであり、その他の部分は捨てられるのだそうだ。
私たち人間は、地上における最も兇暴な食欲をもつ生物だ。1年間に地上で食用として殺される動物の数は、天文学的な数字だろう。
狂牛病や鳥インフルエンザ、豚インフルエンザなどがさわがれるたびに、「天罰」という古い言葉を思いださないわけにはいかない。
私たち人間は、おそろしく強力な文明をつくりあげた。その力でもって地上のあらゆる生命を消費しながら生きている。
人間は他の生命あるものを殺し、食う以外に生きるすべをもたない。
私はこれを人間の大きな「宿業」のひとつと考える。人間が過去のつみ重ねてきた行為によってせおわされる運命のことだ。
私たちは、この数十年間に、繰り返し異様な病気の出現におどろかされてきた。
狂牛病しかり。鳥インフルエンザしかり。そして最近は豚インフルエンザで大騒ぎしている。
これをこそ「宿業」と言わずして何と言うべきだろうか。そのうち蟹インフルエンザが登場しても少しもおかしくないのだ。
大豆も、トウモロコシも、野菜も、すべてそのように大量に加工処理されて人間の命を支えているのである。
生きているものは、すべてなんらかの形で他の生命を犠牲にして生きる。そのことを生命の循環と言ってしまえば、なんとなく口当たりがいい。
それが自然の摂理なのだ、となんとなく納得できるような気がするからだ。
しかし、生命の循環、などという表現を現実にあてはめてみると、実際には言葉につくせないほどの凄惨なドラマがある。
砂漠やジャングルでの、動物の殺しあいにはじまって、ことごとくが目をおおわずにはいられない厳しいドラマにみちている。
しかし私たちは、ふだんその生命の消費を、ほとんど苦痛には感じてはいない。
以前は料理屋などで、さかんに「活け作り」「生け作り」などというメニューがもてはやされていた。
コイやタイなどの魚を、生きてピクピク動いたままで刺身にして出す料理である。いまでも私たちは、鉄板焼きの店などで、生きたエビや、動くアワビなどの料理を楽しむ。
よくよく考えてみると、生命というものの実感が、自分たち人間だけの世界で尊重され、他の生命などまったく無視されていることがわかる。
しかし、生きるということは、そういうことなのだ、と居直るならば、われわれ人類は、すべて悪のなかに生きている、と言ってもいいだろう。
命の尊重というのは、すべての生命が平等に重く感じられてこそなのだ。人間の命だけが、特別に尊いわけではあるまい。
金子みすゞなら、海中では殺された蟹の家族が、とむらいをやっているとうたっただけだろう。
現に私自身も、焼肉大好き人間である。人間に対しての悪も、数えきれないほどおかしてきた。
しかし、人間の存在そのもの、われらのすべてが悪人なのだ、という反ヒューマニズムの自覚こそが、親鸞の求めたものではなかったか。(~p175)