『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

●演劇鑑賞:『段ボール少女』(九州大学演劇部)

2015年05月09日 00時00分54秒 | ●演劇鑑賞

 

  創造的な舞台空間の拡がり

  「九州大学・伊都キャンパス」内での「演劇会場」といえば、いつも「学生支援施設」の一室(音楽室?)となっている。それを「舞台」ごとに工夫しているようだが、いつも異なったセットに仕上がっている。何でもないことだが、これだけでもかなりのエネルギーと工夫とが求められるはずだ。

  もっともそこに、「演劇」にかける学生諸君の熱い想いやエネルギーが感じられる。と同時に、「演劇舞台」と言う名の「創造空間」の可能性が拡がりを見せてもいる。今回も〈段ボール少女〉を象徴する世界が、間口約5間×奥行約2間ほどの「舞台」のほぼ半分に、さまざまな大きさの「段ボール」を配して描かれていた。 

  今回の作品は、「九州大学演劇部」のオリジナル脚本らしく “社会的メッセージ性” が強い。『陰湿クラブ』(作・演出:山本貴久)の「演劇鑑賞」(4月17日)でも述べたように、学生諸君にはこのような「精神性の高い作品」創りに、もっと挑戦して欲しい。               

       ★

  さて今回の「物語」は、一応「幼児虐待」を題材としているが、作者の “本当の狙い” はどれだけ言い尽くされただろうか。残念ながら、それがうまく伝わらなかったのは、やはり「50分何がしの時間」では足りなかったからだろう。今思うに、「舞台」の冒頭からいきなり〈恭子〉を登場させていたらどうだったろうか……。いやそれでも……やはり……と、帰り道にそんな想いが脳裏を掠めた。

   しかし、誰よりも「作・演出」担当の「田中利沙」嬢自身が、“言い足りなさ” を一番よく感じているはずだ。そう思うと、今回の「作品」は大きな試練そして財産として残ったに違いない。

  といっても、「作品」自体がしっかりしているため、「キャスト」の熱演をうまく引き出すことができたわけだし、「音響」や「照明」等の「スタッフ」にしても、優れた企画・技術力を十二分に発揮していた。そのため、最低限の “作者の狙い” は何とか伝わったと言えるだろう。

       ☆

   「物語」は、〈恭子〉(竹ノ内晴奈)という「謎めいた19歳(?)の乙女」と〈斎藤〉(板橋幸史)という刑事部から転属して来た「警察官」を中心に進んで行く。〈恭子〉はある日突然、〈斎藤〉のアパートに現われ、『匿ってくれ』とそのまま強引に居着くわけだが、何処からどのようにして入り込んだかは謎に満ちている。状況からして、明らかに “家出少女” ではあるものの、真実はファジーとなっている。ただ〈恭子〉には不思議な力があり、『変な声が聞こえてくる』という。

   一方、〈斎藤〉は先輩婦警の〈世良〉(村上悠子)と組んで、「児童虐待」のおそれのある家庭を調査監視のために訪問している。ある日、訪問した一軒の家で、〈きょうこ〉という「3歳の女児」の死に出会う。〈斎藤〉の眼には、「段ボール」の中に排泄物と一緒に横たわる女児の「遺体」が横たわっていた……というのだが。

   ……わずか3歳で生涯を終えた〈いとう きょうこ〉という幼児。一方、部屋に散乱した「段ボール」を片付け、別の「段ボール」に何かを詰めて〈斎藤〉の部屋を出て行こうとする〈恭子〉。彼女の「苗字」を糺そうとする〈斎藤〉に、〈恭子〉は〈さくらい〉という苗字を告げる。そして、「お見合い結婚」から逃げるためだったと言い残し、大きな「段ボール」を引き摺りながら出て行く。 ――終幕。

   なかなか素晴らしい演出・演技の「ラストシーン」だった。やや大げさな言い方だが、この「ラスト」によって、前述した “言い足りなさ” がかなり救われたと言える。

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   繋がっている “生” と “死”

   「ラストシーン」は、「段ボール」の中で “死” を迎えた〈きょうこ〉と、これから「段ボール」を引き摺りながらも “生きて行かなければならない” 〈恭子〉とを対照的に描きながら、結局、〈きょうこ〉も〈恭子〉も “受け入れられなかった” と、一応そのように言いたいのかもしれない。

   しかし、この「ラストシーン」の本当の狙いは、〈きょうこ〉という3歳の「死者」と、〈恭子〉という19歳の「生者」とが、ようやく “ここに来て繋がった” ということだろう。と言っても無論、両者は「別の人間」であり、「別個の人格」だ。

   それぞれが、明らかに “別の親” と “別の家庭環境” の中で生き、“その親や家族の愛情を受け” ながら、“喜びや悲しみ” を共有し、ときには “憎悪や虐待” の対象となったのだろう。その結果、一方は “命を落とし”、他方は “何とか生き続けた” と言うことなのだろうか。

   〈恭子〉が《段ボール》を引き摺りながら〈斎藤〉のアパートを跡にする「ラストシーン」は、確かに〈恭子〉が  “受け入れられなかった” ことを示している。もちろん “受け入れなかった” のは、「家庭」であり「社会」であり、警察官の〈斎藤〉が象徴的に示す「秩序」というものだろう。

   しかし、“生命力の逞しさ” を感じさせる〈恭子〉にとって、それらによって “受け入れられなかった” ことなど、いかほどのものだろうか。彼女にしてみれば、それらは “いとも簡単に自分の方から拒否できる” ものではないだろうか。“どんなことをしても、自分一人で生き抜いて見せる” と言わんばかりの、強さと執念とを感じた。

   〈恭子〉が引き摺って行った《段ボール》は、彼女の “溢れる生命力と未来の生” を象徴すると同時に、〈3歳で死を迎えた女児〉の “死の時空” を象徴してもいる。筆者の推測だが、作者が本当に言いたかったのは、“時空を超えた死と生” を “アウフヘーベン(止揚)する生” といったものではなかっただろうか……。そんな気がしてならない。そう感じさせたのも、二十歳にも満たない〈恭子〉の空恐ろしいほどの “逞しさ” と “希望” にあった。

   それにしても、〈恭子〉役の「竹ノ内晴奈」嬢は、なかなかの熱演だった。〈恭子〉は、“生をまっとうしえなかった”〈きょうこ〉を背負っているかのようであり、そのように感じさせる演技には、鬼気迫るものがあった。無論、相手役〈斎藤〉の「板橋幸史」氏も好演だった。    

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  いっそう洗練された「音響」と「照明」

   今回の「舞台」は、とにかく「竹ノ内晴奈」嬢の「音響効果」と「兼本俊平」氏の「音響操作」が素晴らしかった。「クラッシック曲」をベースとした「音響効果」すなわち「音」の「企画デザイニング」が、物語の性格や展開にとてもよくマッチしていた。

   何よりも、その優れたデザイニングを、絶妙なタイミングと音量によって創りだしたオペレーターの兼本氏の功績であろう。

   優れた感性とイマジネーションの二人にして初めて可能であり、筆者が理想と考えるものに近い。無駄な「音響継続の時間」もなく、「音量」もとても心地よいものだった。どうりで、〈恭子〉がいっそう魅力的なキャラクターになったはずだ。

  また地味ながらも、「寺岡大輝」氏の「照明効果」に、「伊比井花菜」嬢の「照明操作」もよかった。派手な色彩照明など不要だ。優れた「照明効果」や「照明操作」は、「音響効果」や「音響操作」と相互に響き合っている。今回の「舞台」は、それをさらに強く確認させてくれた。

   最近の「九州大学演劇部」の「音響」や「照明」は、ぐんとそのレベルを上げたような気がしてならない。あの「海峡公演」の『桜刀』以降、特にそう感じる。

 

 【キャスト】  板橋幸史(斎藤)、竹ノ内晴奈(恭子)、村上悠子(世良)、寺岡大輝(田島)、中山博晶(おじいちゃん)、田中利沙(女)、石川悠眞(男)。

 【スタッフ】 中山博晶(装置)、寺岡大輝(照明効果)、伊比井花菜(照明操作・宣伝美術)、竹之内晴奈(音響効果)、兼本俊平(音響操作)、村上悠子(小道具)、田中利沙(衣装)、板橋幸史(制作)。 以上の諸氏諸嬢。

       ★

  作者「田中利沙」嬢の非凡な才能を感じる作品だ。筆者の余計なお世話かもしれないが、機会があれば、本作に手を加え、90分くらいのものにしてみたらどうだろうか。このままではとても惜しいような気がしてならないのだが……。

  ともあれ、「作・演出家」以下、この舞台の「キャスト」&「スタッフ」各位に敬愛と感謝の意を表したい。

 



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