花咲あさひ の 心神とともに。古神道と和の仕組の復活への道

感謝・反省・謙虚・奉仕・素直・勇気・結び・歓び・怒りあと1つの心柱は?
観世音菩薩は裸足で山を飛び出して行きました。

予科練から神風特攻。そして,ひめゆり学徒隊3

2019年11月21日 04時37分53秒 | 豊葦原瑞穂国新聞

 

こんにちは。昨日,一昨日と続けて書かせて頂いてきた「予科練から神風特攻。そして,ひめゆり学徒隊 」ですが,本日その3で終わりにしたいと思います。一昨日は「予科練」について,昨日は「特攻隊」について書かせて頂き,今日の最終日では,日本本土上陸で激戦地となった沖縄「ひめゆり学徒隊」を書かせて頂きます。若い世代の人たちには「ひめゆり」や「ひめゆり学徒隊」と言っても聞いたこともない人も多いのではないではないかと思います。私も自分で勉強するまで知りませんでした。ちょうど今の高校生と同じ頃の若い女子学生をひめゆり学徒と呼んでいます。なぜ,そんな若い乙女までも戦争の被害にならなければならないのか?そして,学徒隊なんて言う軍隊みたいなものに入隊しないとならないのか?戦争は男の軍人さんたちが戦うものではないのか?そのような素朴な疑問が勉強をする上でも生命の尊さを知る上でも大切な事ではないかと私はそのように考えています。

さて,それでは先ず,ひめゆり学徒とは具体的にどのような人たちで,何を任務としていたのでしょうか。昭和20年3月23日,いよいよアメリカ軍が日本の沖縄県に上陸を開始しました。よく本土上陸などと言われていたりしますね。当時の沖縄県から21の中等学校の生徒たちが動員されました。これを学徒と云います。その内,女子学徒は15歳から19歳です。主に陸軍の病院等で負傷した兵隊さんたちの看護が任務でありました。一方,男子学徒は14歳から19歳で上級生になると「鉄血勤皇隊」へ入隊を命じられ,下級生は「逓信隊」に編成されて行きました。現在の沖縄県那覇市安里にあった沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校から,生徒222名と教職員18名が沖縄陸軍病院へ動員されて看護任務を遂行することになったのです。

これを戦後になって,ひめゆり学徒隊と呼ぶようになりました。元々は,沖縄師範学校女子部を「乙姫」と呼び。沖縄県立第一高等女学校を「白百合」と呼称していて,併設された両校を漢字で「姫百合」と呼ばれていたのです。したがいまして,ひらがねで「ひめゆり」と呼ぶようになったのが戦後と云うことになります。

沖縄師範学校女子部は主に教員を養成することを目的とした学校で,沖縄県立第一高等女学校は「知性あふれる教養豊かな女性を育成」するために設立された学校でした。沖縄県で唯一,プールがあった学校でも有名で,勉強熱心で,沖縄県内から難関を突破し集まった生徒たちは恵まれた環境下で学校生活を送っておりました。しかしながら,激しい沖縄戦でアメリカ軍の猛攻撃を受け続け全てが焼失し廃校となってしまったのです。最終的に,実に136名の尊い生命が戦場で亡くなることになってしまいました。

太平洋戦争末期,日本の大本営(最高統帥機関)は,次々と特攻をありとあらゆる部隊に命じて行きます「神風」「桜花」「回天」「舟艇」「兵士」そして,あの巨大戦艦「大和」ですら特攻を命ぜられます。それほど,日本軍は連合国軍に追い詰められている状況で,沖縄県でも多くの民間人が犠牲となり,地上戦を繰り広げて行くことになりました。日本軍は,本土決戦の準備期間を何とか稼ごうとアメリカ軍を沖縄に張り付けさせ持久戦をとり,地下壕にもぐって対抗しました。しかし,アメリカ軍の容赦ない艦砲射撃,砲爆撃は3ヶ月続き,実に軍民合わせて20万人以上の尊い生命を奪い去りました。沖縄の男子,女子合わせた全学徒のうち,2000名余りが沖縄戦の激戦地で亡くなったのです。ここでもまた若い命が奪われることになってしまいました。

そうしていよいよ撤退と姫百合学徒の解散命令です。これを南部撤退と呼んでいます。

既に窮地に追い込まれていた沖縄で,アメリカ軍は日本軍司令部のある首里に迫っておりました。日本軍は,何とかアメリカ軍の本土上陸に徹底交戦するため持久作戦を決断します。沖縄本島南部へ撤退を開始したのであります。当然,ひめゆり学徒隊が任務を遂行している陸軍病院にも撤退命令が発令され,ひめゆり学徒たちは歩ける患者たちを連れて,傷ついた友人を担架で運び,薬品や書類を背負い砲弾が飛び交う中を本島南部に急ぐことになりました。しかし,連日の爆撃と降り続く雨で道路は泥沼化して行き,本島南部への道は撤退する住民や兵士であふれ,無数の死体が転がり,手足のない重傷者たちが泥の中を這いずり回っている惨状であります。各病院では,自力歩行できない重傷患者には毒物を与え,2人の学友は動くことすら出来ず,南風原に残さざるをえませんでした。その時の学徒さんたちの気持ちとはどんな思いだったでしょうか。これこそまさに地獄絵図そのものです。

6月18日の夜半に,陸軍病院において「ひめゆり学徒」に解散命令が出せれました。しかし,ここからが語り継がれる「ひめゆり学徒」そのものでした。アメリカ軍が自分たちの目の前まで迫って来ており,砲弾が飛び交う中,学徒たちは自分たちで地下壕などから脱出し,自分たちの考えで行動しなくてはなりません。つまり,指揮官が戦場でいないことになります。情報もなにもありません。そして6月下旬,激戦地では,沖縄守備が壊滅し,牛島司令官は生き残った全兵士に対して降伏することは許さず,最後の最後まで戦うことを命じて自らも自決することになります。牛島司令官は,とても教育熱心な御方であったようです。

牛島司令官の自決後も兵士たちはアメリカ軍の凄まじい攻撃から逃れることも出来ず,ここでもまた多くの地元住民と兵士が亡くなりました。3月の学徒動員から解散命令が発令されるまでの90日間,ひめゆり学徒の犠牲者は19名であるのに対し,解散命令後のわずか数日間で100名あまりが亡くなることになったのです。指揮官を失い,自分たちの周囲はすべてアメリカ軍の兵士たちです。そして,行き場の無くなった学徒たちは父親と母親の名前を叫び続けて自ら命を絶つ学徒が続出し,学徒たちはアメリカ軍に捕まることを最も恐れ,手りゅう弾で自決した学徒さんもおりました。

戦争は,軍人だけが戦う訳ではありません。それを沖縄戦が後世の私たちに教えてくれています。このひめゆり学徒隊の悲劇から私たちは何を学ぶことが出来るのか,そしてその想いを後世の人へ伝え残す役割があるのだと考えています。

そして,本日,正午より天皇陛下,皇后陛下の見守る中,日本武道館にて全国戦没者追悼式が斎行されました。

激しい沖縄の激戦地で犠牲になられてしまった御霊に心より供養させて頂きたいと思います。

大 々 合 掌