(承前)
鬼・的
オニ(鬼)という言葉は、もともとのヤマトコトバにはなかったとされる。万葉集では鬼の字をモノと訓む(注10)。和名抄に、「人神 周易に云はく、人神は鬼と曰ふといふ〈居偉反、於邇。或説に云はく、和名の於邇は隠奇の訛れるなり、鬼物は隠れて形を顕すことを欲せず、故に以て称するなりといふ〉。唐韻に云はく、呉人は鬼と曰ひ、越人は𩴆〈音は蟻、一音に祈〉と曰ふといふ。四声字苑に云はく、鬼は人の死にし神魂なりといふ。」とある。漢字の隠(隱)の古い字音 on に、母音 i をつけた語という説が根強い。鬼が隠と密接に関係するものと考えられるなら、姿を隠して探りを入れる斥候に通じるものである。紀に、次のような例がある。
此、桃を用ちて鬼を避ふ縁なり。(神代紀第五段一書第九)
是の夕に、朝倉山の上に、鬼有りて、大笠を着て、喪の儀を臨み視る。衆皆嗟怪ぶ。(斉明紀七年八月)
皇太子、始し大臣の心の猶し貞しく浄きことを知り、追ひて悔い恥づることを生して、哀び歎くこと休み難し。即ち[蘇我]日向臣を筑紫大宰帥に拝す。世人相謂りて曰はく、「是隠流か」といふ。(孝徳紀大化五年三月)
二例目は天皇客死後の九州北部の記事である。カササギの笠や、後述する火車という語と関係しそうである。三例目のシノビナガシについては、包み隠した流罪の意であるとする説がある。出世の形をとった左遷、つまり、本稿で述べている反転、転倒の義に相当する。そしてシノビという語は、忍者のことをいうシノビにも負っていよう。じっとこらえる、秘密にするという意のシノブという語は、忍・隠が常訓の字である。忍び隠れている邪鬼のような存在が具現したものである。蘇我日向という人物は、讒言する輩で性根があまのじゃくである。そして、筑紫大宰帥は九州北部の話で、間諜の盛んな新羅を意識した外国への窓口であり、倭国の諜報機関の斥の拠点に当たる。そこはコクマルガラスやカササギの分布地でもある。外来語のような新設のポスト「筑紫大宰帥」は、「筑紫大宰」(推古紀十七年四月)、「筑紫率」(天智紀七年七月)ともある。率の字は、紀の頭八咫烏の鳴き声、イザワの意とされる感動詞イザに当てられている。いずれにせよ、オニ同様、大陸からの外来語をもとにして飛鳥時代に新しい言葉が生まれていることを示唆する。間諜活動をすると形容されるに値するほどに、カラスは知恵が発達していると思われていたのだろう(注11)。
「無名雉」(紀)、「鳴女」(記)はキジである。キジは、まっすぐに駆け飛ぶところから矢のイメージがあり、使者にふさわしいと連想されたとされている。アメワカヒコの説話の末尾で、「雉の頓使」(記)、「反矢畏むべし」(紀)という諺は、この話によるものであるとそれぞれ述べられている。反転の話として総括されているのである。命令を受けて行ったのに行ったきりで、かえって、逆に命令に反して逆賊になってしまったことが一連の話の教訓である。矢が当たらなければみすみす相手に武器を供給していることになる。だから、射返してくることができる。本稿の冒頭にあげた五来2004.の指摘にあったアタとアダの関係は、同一の言葉ではなく、反転を示して生きた言葉になる。アダは空、徒、仇である。濁音化は悪い意味や侮蔑の意味をこめるときに起こることが多い(注12)。つまり、アタアタ烏の話の続きとしてアダな話が記されている。スパイは寝返って逆スパイ、二重スパイになることが間々ある。アメワカヒコに矢が当たったのが寝ている時であるのは、寝返るという言葉の含意を伝えたかったからに違いない。孫子・用間篇に「反間」とある。敵のスパイの逆利用である。
矢は、アメワカヒコの胸に「中」っている。当たる意味で、的中することを表す。アタアタの話であるし、コクマルガラスの正面図像は的であった。古語では、弓矢の的のことをイクハという。「射くふ」弓を引くときに狙うべきなのは、的の真ん中だから、それをイクハと呼んだらしい。餅の的伝説が風土記に載る。
田野 郡の西南のかたにあり。此の野は広く大きく、土地沃腴えたり。開墾の便、此の土に比ふものなし。昔者、郡内の百姓、此の野に居りて、多く水田を開きしに、糧に余りて、畝に宿めき。大きに奢り、已に富みて、餅を作ちて的と為しき。時に、餅、白き鳥と化りて、発ちて南に飛びき。当年の間に、百姓死に絶えて、水田を造らず、遂に荒れ廃てたりき。時より以降、水田に宜しからず。今、田野といふ。斯其の縁なり。(豊後風土記・国埼郡)
風土記に曰はく、伊奈利と称ふは、秦中家忌寸等が遠つ祖、伊侶具の秦公、稲粱を積みて富み裕けし。乃ち、餅を用ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊禰奈利生ひき。遂に社の名と為しき。其の苗裔に至り、先の過を悔いて、社の木を抜じて、家に殖ゑて祷み祭りき。今、其の木を殖ゑて蘇きば福を得、其の木を殖ゑて枯れば福あらず。(山城風土記逸文)
この伝承は、もともとは、コクマルガラスのよく見られる九州の話として伝わったものであろう。山城風土記では、子孫が過ちを悔いて、稲荷社として祭ったとある(注13)。稲荷信仰に神の使いとされる狐は、隈にいる熊とは異なり、人間の生活圏にときおり現れる存在である。そのアンビバレントな存在から、超人的な力を持った鬼に類似したものととらえられるに至る。すなわち、狐のイメージは専女に近しい。狐にはタウメという訓み方がある。
専女・火車・婆
語義の詳細は不明ながら「伊賀専女」という言葉がある。①狐の異名で、タウメだけで狐の意を表すこともある。イガは、稲の意の古語、ウカと同根、稲荷の祭神である宇賀御魂と関係するという。おそらくは、伊賀は古来より忍者に縁あるところとされていたのだろう。「野干坂ノ伊賀専ガ男祭ニハ、鮑苦本ヲ叩イテ舞ヒ、……」(新猿楽記・第一、本の妻〈老女〉)、「延久四年於伊勢斎宮寮前大和守成資三男藤原仲季射殺霊狐、〈号白専女〉」(山槐記・治承二年閏六月五日)などとある。②狐が人を騙すように、仲人口をきいて人を誑かす媒酌人のことをいう。「……「ふりはへ、さかしらめきて、心しらひのやうに、思はれ侍らんも、今更に、「伊賀たうめにや」と、つゝましくてなむ」と、聞ゆ」(源氏物語・東屋)とある。上の意と含み併せて、人を誑かす老練な鬼婆的存在をいったようである。
人を誑かす狐を象徴とする媒酌人でありつつ、古来、忍者の郷として名高い伊賀の地名を冠している。となれば、それは、間諜、スパイのことを指している。それが老練な女であるとすると、鬼婆と呼ばれる存在になる。鬼婆は火車婆ともいう。火車婆は、遊郭の女性を取り仕切る遣り手婆をいう。身近にいるにもかかわらず遊女には一切情をかけず、地獄行きの仕事をしているためであろう。また、花車、香車ともいう。将棋の駒の香車は、遣り手婆と同じヤリ(槍)である。ただし、コロコロと回転させる対象が、遊女のほうか客のほうかは定かではない。重箱読みならカクルマである。
火車とはもともと、①仏語で、火炎をあげて燃えながら走る車のことである(注14)。悪事を働いた者は責め立てられ乗せられ、地獄へと運ばれるという。大智度論・第十四に、「去らむと欲ひ未だ王舎城の中に到きて、地自然ら破裂し、火車来迎し、生きながら地獄に入る。(欲去未到王舍城中。地自然破裂火車来迎生入地獄。)」とある。地獄へと追いやる遣り手婆としての鬼婆の様子は、地獄草紙の第二段、函量所に、三つ目の総白髪姿で描かれている(注15)。②葬送の時、暴風を起して棺を吹きあげたり、屍を引き裂いたりする妖怪のこともいう。この意の火車も、人が死ぬ時、あの世へ旅立つ時に起こるものである。茅原定・茅窓漫録に、酉陽雑俎の記事を引きながら魍魎という獣のことを指すとしている(注16)。
②の意については、葬儀のときに、にわかに風が起こって棺が吹き飛ぶ話が、天稚彦の殯の箇所に見える。
是の時に天国玉、其の哭ぶ声を聞きて、則ち夫の天稚彦の已に死れたることを知りて、乃ち疾風を遣して、尸を挙げて天に致さしむ。便ち喪屋を造りて殯す。(神代紀第九段本文)
下から上への風は、飄や飆と書いたつむじ風、巻き上げる旋風である。古語にツムジといい、頭頂にある旋毛と同根の語である。旋回とは回転しながら巻き上がるものである。転の字の本字は轉で、旁に通用している專と云とは、まわりめぐることである。云は雲の初文で、説文では「雲」の項に、「云は雲の回轉する形に象る」とある。入道雲の巻き上がって上昇していくさまを描いて上下逆さまにした形という。回転と反転がダブルになっている。
婆という言葉自体、元来が経験豊富な遣り手を指す。その意を焦点のように表すのは産婆の仕事である。柳田国男「産婆を意味する方言」によれば、前近代の産婆は、トリアゲババ、コトリババ、コナサセババなどと、各地でいろいろな呼び方がされている。そして、「其以外の一つの方言群は九州に在つて、是のみは東北との一致が無い。コズリババ(博多) コーヂーババ(筑後三瀦郡) コゼンボウ(佐賀地方)などの僅かの例を見ると、何とでも臆説は立てられるが、比較をして見ると疑の余地は少ない。即ち、コゼンボ、コゼンバ(肥前北高来郡) コゼンバ(同平戸辺) コゼウバ、コゼバンバ(同五島魚目) コウゾエバンバ(同三井楽) コゼババサン(長崎) コゾイババ(肥後球磨郡) コズヱババ、コゼンボ(鹿児島県) コズヱババ(宮崎県) コズイ(豊後日田郡)の諸例が示す如く、もとは子をスヱルという語の、色々に変化したものである。而うしてスヱルということは、「手に取りすゑる」即ち把持することで、粗末な語を使ふならば「生存の承認」であつたらうかと思ふ。」(410~411頁、漢字の旧字体は改めた)とする。九州地方でコズヱババは、子を人間の仲間に据える、ないし、添えるという意味を表すらしい。方言に九州にあって東北にないことを問うのは、方言集圏説による。コクマルガラスや防人などと同様、九州に特徴的な意味合いを示し述べるための語群であることを予感させる。
他の言い方としてヒキアゲババとあるのも、この世に引き上げるという意味で、単に出産の介助をするという物理的なことにとどまらず、呪術的という言い方で表されている。前近代のお産は、現在の医学水準からはかけ離れており、死産の確率が非常に高かった。子供をこの世のものとするか、あの世のものとするか、それを決めるおそろしい存在を婆という言葉に込めた。したがって、婆は鬼でもある。すなわち、婆は原初から鬼婆であった。そして、子をこの世かあの世か、いずれかに分けることとは、コ(子)+クマル(分)という言葉で表されよう。コクマルガラスは産婆を象徴する名称である。
産婆は、子どもを頭から引っ張り出す。足からの場合は逆子で危ない。古語では頭部全体をカシラと呼び、頭髪を含めて頸から上辺をカウベ、頭の前頂部、わけても乳児のひよめきのことをアタマと言った。和名抄に、「顖会 針灸経に云はく、顖会は一名に天窓といふ〈顖の音は信、字は亦、囱に作る。和名は阿太万〉。楊氏漢語抄に云はく、䫜〈訓は上と同じ、音は於交反〉といふ。」とあり、おつむのことである。ひよひよと動いていることが大事である。全体が出てきたら産湯に浸からせる。出産の際は火事場のような忙しさでもある。アタアタと熱いから泣いてアタマが動いているのが確認される。それによってこの世に入れる。他方、あの世への送りに際しても、葬儀は打ちひしがれながら忙しい。湯灌をして体を清め、まわりの人が泣く。朝鮮半島では葬儀で泣く専門職がいる。ヤマトの文献に見られるのは、やはりアメワカヒコの殯の箇所である。
雉を哭女とし……(記上)
鷦鷯を以て哭者とし、……烏を以て宍人部とし……(神代紀第九段本文・分注)
鷦鷯も雉もすでに本稿で検討した鳥である。霊柩車の車輪はキーキーと軋むところから、「轜車」(孝徳紀大化二年三月)と呼ばれる(注17)が、サザキ、キギシも軋んだような名前である。キは甲類である。言葉の体系がかなり見えてきた。
他のアタアタ
他のアタアタ関連語を検討してみる。
「辺り」とは、基準とする所から近い範囲、また、おおよその目安、目当てを指して漠然とそのへんのことをいう(注18)。
天離る 鄙の長道を 恋ひ来れば 明石の門より 家の辺り見ゆ(万3608)
春の野に あさる雉の 妻恋ひに 己が当りを 人に知れつつ(万1446)
人はおおよその目安を辿って行って、目的とするところへ到達する。見当をつけていって推し量って生きている。忍者に使う忍という字は、シノブ・シノビ以外にオシとも訓む。最初からわかっていること、わかり切っていることは世界に少ない。よくわからないけれどわずかな手掛かりを頼りとして、その先の不分明なところまで敷衍していき、そうではないかと推測しながら進んで行く。軍事作戦においてその役割を担ったのが斥候である。鳥獣に対する狩りにおいても同じことをする。狩猟において、手負いの獣が逃げて行ったあとに血がしたたり落ちて跡が点々と残っていることがある。それを蹤血という。どこへ逃げたか推し量ることができるからである。
射ゆ鹿を 認ぐ川辺の 和草の 身の若かへに さ寝し児らはも(万3874)
照射 〈蹤血附〉 続捜神記に云はく、聶支は少き時、家貧しく常に照射し、一つの白き鹿を見て之れを射中てつ。明くる晨に蹤血を尋ぬといふ。〈今案ふるに、俗に照射は土毛之、蹤血は波加利〉(和名抄)
蹤血が獲物までのあいだをつないでいる。認識とは、本来を知ることで、失ったものを探し当ててつながりを回復させることをいう。
また、「与ふ」は、賜予のことで、「上よりして与えるときに用いる。」(白川1995.69頁)のである。神武記に、「於レ是亦、高木大神之命以覚白之『天神御子、……』」とある文章は、坂根2011.が「(高倉下が)高木大神のお言葉によって、(天神御子に)教え申し上げることには、」(60頁)と解説するとおりである。上よりして与えられている状況を一致的、同包的に表している。その状況に一致する形で出現しているのが、上空を飛行するカラスである。ヤアタカラスにナビしてもらうことは、「高木大神之命以覚白之」を具現化することへと自己循環する。この循環論法の連続によって、口頭に発せられているヤマトコトバの確からしさは規定されていく。逐次的、随時的に、まるで辞書のように文が構成されて行っている。無文字文化に伝承された説話らしい特徴である(注19)。
さらに、「価(値)」とは、物の価値に相等しいこと、「能(適)ふ」の名詞形である(注20)。能は任によく堪え忍ぶこと、能手とは遣り手のことである。適は適宜、適当の義、相匹敵することをいい、正面からの敵対者をいう「敵(賊)」のことである。敵はまたカタキという。二つで一組を作るものの一方の意で、憎悪・怨恨の相手のことにも使われている。憎悪・怨恨は、相手が鬼が見え、自分の心にも鬼が巣くうようになる。鬼をやらう行事に、追儺がある。上述の火車②の意では、その魍魎を撃退する役目を方相氏が担うとされている。周礼・夏官に、「方相氏。熊皮を蒙り、黄金の四つの目あり、玄衣と朱裳もて、戈を執り盾を揚げ、百隸を帥ひて時に儺し、以て室を索めて疫を敺ることを掌る。(方相氏。掌下蒙二熊皮一、黄金四目、玄衣朱裳、執レ戈揚レ盾、帥二百隸一而時儺、以索レ室敺レ疫上。)」とある。本邦では、民間行事として節分の夜に豆まきをする。禁中の追儺の儀式は、桃の弓、葦の矢を使い悪鬼を追い遣る行事であった。各地に残る追儺の一例として、法隆寺に今でも残る追儺では、黒鬼、青鬼、赤鬼が斧、棒、剣を持ち、松明を振りかざして暴れまわった後、毘沙門天が法力で調伏する。最後に信者に厄除けの牛玉札が配られている。熊野三山の牛玉宝印のお札は、八咫烏の文様でよく知られる。この行事は、「悔過」の修二会後の結願の鬼追いの式である。過ちを悔いる話は、本稿ではすでに孝徳紀大化五年三月条、山城風土記逸文で紹介した。いろいろな事柄が、循環するかのようにめぐりめぐってそれぞれの言葉を相互自縛的に説明しているように感じられる(注21)。
熊野速玉大社の牛王符(カラスの目は白く描く)
イザワ(イザクワ)
頭八咫烏の鳴き声として、神武前紀戊午年十一月条の、兄磯城、弟磯城との交渉場面で、「天神の子、汝を召す。率わ、率わ」と同じことをそれぞれに言っている。それに対して、兄磯城は鳴き声を悪いものと聞いて弓を弾いて矢を射てきた。反対に、弟磯城は、鳴き声を良いものと聞いて食器を用意して饗宴に招いている。同じ言葉(鳴き声)が二通りに解釈されている。
兄磯城、忿りて曰はく、「天圧神至しつと聞きて、吾が慨憤みつつある時に、奈何に烏鳥若此悪しく鳴く」といひて、……
弟磯城、惵然ぢて改容りて曰はく、「臣、天圧神至りますと聞きて、旦夕畏ぢ懼る。善きかな烏。汝が若此鳴く」といひて、……
「慨憤み」と「畏ぢ懼る」との違いである。ネタム(妬・嫉・嫌)は、「他人より劣る、不幸であるという競争的な意識があって、心にうらみなげくことをいう。」(白川1995.592頁)から、兄磯城は天圧神と競り合う気があったが負けているためにうらやみ、いまいましく思っている。オヅ(怖・懼・畏)は、「驚きおびえ、自ら委縮して動作しがたいことをいう。」(白川1995.182頁)から、弟磯城は天圧神を最初から恐ろしいと思っていて、その前で身動きが取れずにカチカチになっている。
紀の原文に、「天神子召汝。怡奘過、怡奘過。過音倭。」とある。大系本日本書紀は、「イザは、人を勧誘する辞。ワは、間投詞。万葉三三四六に「見欲しきは雲居に見ゆるうるはしき十羽の松原、小子ども率和(いざわ)出で見む」と例がある。過は、集韻に戸果反という反切もあり、γwaの音と推定される。これとアクセントだけを異にする文字に「和」があり、呉音以前ではワと発音する。それによれば、過にもワの音があったと推定される。ただしこの巻は古写本に乏しいから、何かの誤写かと推測するとすれば、濄または㗻という字がある。濄は倭と同音、㗻は和と同音の字である。下文に特に「過音、倭」と注があるが、この注記の形式は一般の例に合わないものである。」(227頁)とする。また、新編全集本日本書紀には、「イザは勧誘の語。ワは感動の助詞。本来一人称代名詞ワで、我われを含めた「我等」に呼び掛ける用法であったのが、文末・語末に用いられ、感動・確認の意を表す助詞となったか。イザワの例は『万葉集』三三四六に「うるはしき十羽とばの松原童わらはども率和いざわ出で見む」がある。」、「『万象名義』に「過、古貨反」とあるから、音はクヮ。従ってイザクヮと訓まれ、烏の鳴声であるとの説もある。ただし神武紀の編者は率いざワ……の意味で鳴いたと理解させたかったので、ワの音注を施した。原資料の文字に「過」が用いられ、その古韻がワであることが忘れられた時代になっていたか。」(219頁)とある。新釈全訳本日本書紀では、「……「過」字をクヮと読ませないための指示だが、この注記の形式は異例。ワは「過」字の古音と推定されるというが(大系)、明証があげられない。『集解』は、「過」を「濄」にあらため、『広韻』をあげる。『広韻』によれば「濄」は小韻「倭」(反切は「烏禾切」。音はワ)と同音であり、「音は倭」がそのような『切韻』系の韻書にもとづいている可能性は十分にある。」(323頁)としている。
イザについては、諸説のとおり、人を誘ったり、自分から何かしようとする際に発する語で、さあ、どれ、などの意味が第一義であろう。ただ、イザワがイザ+ワ(助詞)の連続した形に限って捉えられるとは言えない。新撰字鏡に、「専為 伊佐和」とあり、専為とは、ほしいままにすることをいう。荘子・山木篇に、「肯へて専為する無く、一は上り一は下り、和を以て量と為す。(無二肯専為一、一上一下、以レ和為レ量。)」とある。ホシキママという言葉は、タクメという言葉とセットで使われ、すでにあげた例に、「専国政を擅にして、……」(武烈前紀仁賢十一年八月・皇極紀元年是歳)、「……詎か情の恣に、専奉仕らむと言ふこと得む。……」(用明紀元年五月)とあった。両者は親和的な言葉であると言える。したがって、熟語イザワについても、一方的に、専一に、自分に都合のいい誘い掛けの声と言えよう。ヤアタカラスが、自分が専女であること、遣り手婆であること、間諜であることを自供的に示唆していることになる(注22)。
イザを動詞化した形はイザナフである。率・誘を常訓の字とする。誘の字をイザナフと訓む例は上代には見られない。ただ、誘の正字は㕗で、説文に、「㕗 相訹ひ呼ぶなり、ムに从ひ、羑に从ふ」とある。紀では、誘の字は、ヲコツル(ワカツル)、アザムクと訓じている。新撰字鏡に、「誘■(詴の旁の上にノがつく字)、二字同、以酒反、上美、上古字、訸也、導也、引也、教也、進也」とあって、騙したり惑わしたりしてさそい、良くない方向へ誘導する意とされている。上手なセールストークに引っかかって悪徳商法の餌食に遭うようなケースに当たる。同じセールストークでも、受けた側にとっても利益につながり、互恵関係になる場合もあるだろうが、その場合は純粋な勧誘を表すイザ、イデなどといった掛け声になるのであろう。
用字に「過」とある。過の音はあくまでもクワである。k音が入っている。ローレンツ1963.に、ニシコクマルガラスはお気に入りの雌を、巣を作ろうとするところへ誘おうとして、高く鋭い声で、ツィック、ツィック(注23)と呼びかけるとの観察記事が載る。その行動は多分に象徴的なものに過ぎず、そこがほんとうに巣を作るのに適しているかどうかは問題ではないという。騙し欺くような誘惑である。紀の編者が用字「過」を選択しているのは、コクマルガラスの誘いの声は、イザクワなのかもしれないと主張している可能性が高い。コクマルガラスのキャッ、キャッという鳴き声を醸しつつ、その鳴き声が騙しなのかもしれないということを、その書記においても「過」一字にこだわって過不足なく伝えようとしている。単にイザワと訓ませたいだけなら、紀の編者は過の字を用いる必要はなく、一般の形式と異なる訓注を施すこともしないであろう。
過という語は、養老令・考課令に、「功過」、「過失」、令義解に、「公務廃闕を過と為」とあり、あやまち、失敗を表す。修二会の儀式で触れた「悔過」とは、仏教で懺悔する行事のことであった。また、通行手形のことを指すものとして、養老令・関市令、公式令に「過所」、万葉集に「過所」(万3754)とあり、通過を表す。生まれた子がこの世にか、あの世にか「くまる(分)」ことをするとは、そのいずれかへの通行手形を発していることに当たる。産道は関所であった。紀に「怡奘過」と書いた過の用字は、その義にまでも自己言及している。あたかも筆があやまちを犯したようにしながらそれを見過ごしやり過ごして、真に迫った表現に努めようとしている。
クワ音は、火車に出てきた火と同じである。養老令・軍防令に、「凡そ兵士は、十人を一火と為。」とあって、軍兵集団の最小単位をいい、野営の際に一つの火を囲んだものである。その統率者を火長という。防人歌の万葉4373~4375番歌左注に、「火長」として、今奉部与曽布、大田部荒耳、物部真嶋の名がある。つまり、イザクワとは、イザ(率)+クワ(火)を示唆して、小隊長を表している。防人は、10人単位で小隊を構成していた模様である。コクマルガラスの棲息する九州の話である。火が熱くてアタアタを表すことは言うまでもない。
火を率いる小隊長は、養老令・職員令に「主殿寮」として載る役割に相当する。殿守りの意で、トノモヅカサ、トノモリヅカサと訓んでいる。神武紀二年二月条の論功行賞記事は、ヤアタカラスの苗裔が葛野主殿県主部とし、地名の後に「主殿」と限定している不自然な記事である。火長という語は、また、後に検非違使に所属した看督長と案主長の総称でもある。平安時代、看督長は、牢獄の看守を本来の職務としたが、のちには罪人追捕を主とするようになった。カドは看督の字音の音転とされている。つまり、カヅノノトノモリノアガタヌシラのカヅノとは、鹿角のことを示唆し、罪人を捕える刺又や首枷のような刑具を思わせる。拘束された囚人を入れて運ぶ牢獄も仏教思想にある。火車である。この世で悪行を犯した罪人を地獄へと導く火車の横に控えた看守役として、頭八咫烏の末裔は役職を得たということになる。防人に召集されることは、部領使にうまいことを言われて連れて行かれるのだが、実際には、地獄行きほどの苦痛と思われることであった。
神武紀二年二月条に、「又頭八咫烏、亦入二賞例一。」とあった。神武紀で間者の性格は、「日臣命」、改め、「道臣命」に引き継がれており、二年二月条でも「道臣命に宅地を賜ひて、築坂邑に居らしめたまひて、寵異みたまふ。」と最初に行賞されている。これらは、孫子・用間篇に、「故に三軍の事、間より親しきは莫く、賞は間より厚きは莫く、……(故三軍之事、莫親於間、賞莫厚於間、……)」とあるのに倣うものであろう。間諜の話として一貫している。
紀の分注にイザワと読ませるように表記しつつ、兄磯城、弟磯城にもイザクワとも聞こえたものとして記したのだと考えられる。鳴き声がイザクワと烏流になっていることによって特別な意味合いが生まれている。兄磯城は、頭八咫烏がイザクワと鳴いたことを、イ(射)+サク(割)+ワ(輪)、すなわち、流鏑馬などで使われる鏑矢の的のような同心円と捉えたのだろう。彼がヤアタカラスの声を聞いた時、「吾為二慨憤一時」と敵愾心をいだいている。アタ(仇敵)のことを考えていた。自分の名、エシキ(エはヤ行のエ、キは乙類)とは、エ(役)+シキ(磯城)のことで、北部九州に築かれた大野城のように、環濠をめぐらせて防御する防人駐屯の城であると思っていたからである。そこへヤアタカラスが舞い込んだのだから、射かけることになって当然である。コクマルガラスを頭を正面にして見れば、中心が黒、その周りが白、さらにその周りが黒の模様になっており、矢の的と見立てられる。ヤアタカラス自身が、ほらほら的ですよ、と言っていると聞いたのである。
兄磯城は、天神の子をわざわざ天圧神と呼び、「圧、此云二飫蒭一」と訓注が付されている。その前段に、兄宇迦斯(兄猾)・弟宇迦斯(弟猾)の話があり、オシ(圧・圧機・機・押機・押)が登場している。獣を捕獲するために圧死させてしまう猟具である。棒竿を格子状に組んで上に大きな石を載せたものや、大きな重い板状のものを支柱に立て掛け、下に餌を置いておき、熊などの獲物が餌を銜えてひくと支柱が倒れて重量物によって圧しつぶされる仕掛けである。奸計を道臣命に見破られた兄宇迦斯(兄猾)は、言い逃れができずに自らが作ったそれに入り、押しつぶされて滅んでいる。
……仕へ奉らむと欺陽りて、大殿を作り、其の殿の内に押機を作りて待ちし時に、……「……殿を作り、其の内に押機を張りて待ち取らむとす。……」……「いが作り仕へ奉れる大殿の内に、おれ、先づ入りて、其の将に仕へ奉らむと為る状を明かし白せ」といひて、即ち横刀の手上を握り、矛ゆけ、矢刺して、追ひ入れし時に、乃ち己が作れる押に打たえて死にき。(神武記)
「……皇師の威を望見るに、敢へて敵るまじきことを懼ぢて、乃ち潜に其の兵を伏し、権に新宮を作りて、殿の内に機を施き、饗らむと請すに因りて作難らむとす。……」……乃ち自機を蹈みて圧死にき。(神武前紀戊午年八月)
左:圧機(木村孔恭、蔀関月・日本山海名産図会・「陸弩捕熊」の図、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200021673/61?ln=jaをトリミング)、右:「棝斗」、別名「鼠弩」(寺島良安・和漢三才図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2569715/1/54をトリミング)
防人が勤務したエシキ(役城)は、そのような殺傷能力のある防御装置を備えていない。ただ水城になっているだけである。うらやましくていまいましい。
一方、弟磯城は、コクマルガラスの円い輪の模様を、車輪を表していると捉えた。すなわち、イザクワの音を、イ(蛛網)+サク(咲)+ワ(輪)と聞いて、轂のことと考えた。轂は、蒸し器の甑と同根の語であり、いずれもコは乙類、キは甲類である。中心に穴が開いてスポークが放射し、周囲に輪がつく形になっている。語源は不明だが、その形は、蜘蛛の巣のように見える。蜘蛛の巣が張って丸く完成したことを、花が咲くことに譬えたのである。その譬え方は、記上の「木花之佐久夜比売」、神代紀第九段の「木花開耶姫」において行われており、「木の花の阿摩比能微坐さむ」(記上)という不思議な語として記されている(注24)。蜘蛛の巣を持ち出しているのは、コクマルガラスの誘いの鳴き声によって巣へと導かれるからである。巧みに木の葉などを編みこんで作られている。
弟磯城は、イ(蛛網)+サク(咲)+ワ(輪)→コシキ(甑)のことだと鳴いているつもりになり、柏の葉でお皿を作って甑で蒸しあげたお餅を並べ、一緒に御馳走を食べたという話に展開していっている。コクマルガラスから続く的の話である。的と餅とは、上代の説話に循環的に説明されている(注25)。蜘蛛(モは甲類)の一種は、グルグルと回りながら巣を懸けていく。同音の雲(モは甲類)について、説文に「云は雲の回轉する形に象る」とある点が、火車の意の一つ、葬送の時の暴風と関係することについてはすでに見たとおりである。同音の言葉は同じ概念のもとに培われていると考えた、ないしは、そう志向していた。あるいは、そうこじつけることでヤマトコトバを体系として自得していたのである。
弟磯城は、天神の子が来たと聞いておぢかしこまった。弟磯城(ト・キは乙類)は、オト(音、トは乙類)+シキ(磯城)なる名を負っている。防御方法が敵の襲来を音で知らせるだけであった。鳴子のようなものを周囲に廻らせているだけの警備であり、本気で攻められたらどうすることもできない。
音をアラームとする城であると自認する弟磯城は、攻め立てて来た敵を圧機で押しつぶして殺傷までする強力な警備とわたりあえるはずがないことを悟っている。今日でも都会のカラス対策に音を用いるものがあるが、一時的に逃げることはあっても根本的な対策にはつながらず、すぐに慣れてしまう。だから、弟磯城はヤアタカラスの鳴き声を聞いたとき、圧機が生贄用の獣を用意し、甑が餅を用意するものなのだと了解した。自らが生贄の獣扱いにされたらたまらないからである。「惵然改容」っている。と同時に神事のために葉盤を作って使者の烏を饗応している。畏まって行う厳粛な儀式の後、打ち上げの宴席が催される。その豊明節会と同じ作法である。柏の葉を用いたお皿を作り、神さまに餅をお供えし、そのあと降ろしてきて皆で宴会を開くのである。豊後風土記の餅を的にしたとの言い伝えと齟齬なく連動している。
イザクワ、コシキ、餅、的は、それぞれ関連する一連の言葉群である。それらは稲荷社との関係もあって、その使いは人を誑かす狐、伊賀専女であった。これらのヤマトコトバの語義の連鎖を総括すれば、ヤアタカラスとは烏は烏でもコクマルガラスで、九州筑紫に関係が深い話であり、イザクワとは、イザ(率)+クワ(火)という意味合いの、防人を表す鳴き声で鳴いていたということになる。
以上のように、記紀に伝わるヤアタカラスの話は、さまざまなヤマトコトバの義をひとまとめに説解したものなのである。換言すれば、言葉から創話してヤマトコトバの体系を簡潔な形に組み立てたものが、記紀の説話ということになる。内容としてだけなら、ウカミ(間諜、斥候)のことを指しているにすぎないことを、ヤアタカラス(八咫烏、頭八咫烏)と譬えることで、ヤマトコトバという言語の深奥へと誘ってくれている。ある言葉がわからないとき辞書を引くが、そこに記された説明もまたわからなければ、さらにまた引き直す。そのくり返しのような作業がひとつの説話のなかにほどこされている。上代の人にとっては、糸口さえ見出されれば、一つの説話の理解によって、出てくる多くの言葉が皆なるほどと納得できるのである。そういう仕掛けになっているから人から人へと伝えらえ続けることができたのであった(注26)。言葉で世界は構成されているのだから、言葉がわかれば世界が分かるのである。ここに、言=事とする言霊信仰の真髄がある。記紀の説話はヤマトコトバの辞書として構成され、世界を物語っているのであった。
(つづく)
鬼・的
オニ(鬼)という言葉は、もともとのヤマトコトバにはなかったとされる。万葉集では鬼の字をモノと訓む(注10)。和名抄に、「人神 周易に云はく、人神は鬼と曰ふといふ〈居偉反、於邇。或説に云はく、和名の於邇は隠奇の訛れるなり、鬼物は隠れて形を顕すことを欲せず、故に以て称するなりといふ〉。唐韻に云はく、呉人は鬼と曰ひ、越人は𩴆〈音は蟻、一音に祈〉と曰ふといふ。四声字苑に云はく、鬼は人の死にし神魂なりといふ。」とある。漢字の隠(隱)の古い字音 on に、母音 i をつけた語という説が根強い。鬼が隠と密接に関係するものと考えられるなら、姿を隠して探りを入れる斥候に通じるものである。紀に、次のような例がある。
此、桃を用ちて鬼を避ふ縁なり。(神代紀第五段一書第九)
是の夕に、朝倉山の上に、鬼有りて、大笠を着て、喪の儀を臨み視る。衆皆嗟怪ぶ。(斉明紀七年八月)
皇太子、始し大臣の心の猶し貞しく浄きことを知り、追ひて悔い恥づることを生して、哀び歎くこと休み難し。即ち[蘇我]日向臣を筑紫大宰帥に拝す。世人相謂りて曰はく、「是隠流か」といふ。(孝徳紀大化五年三月)
二例目は天皇客死後の九州北部の記事である。カササギの笠や、後述する火車という語と関係しそうである。三例目のシノビナガシについては、包み隠した流罪の意であるとする説がある。出世の形をとった左遷、つまり、本稿で述べている反転、転倒の義に相当する。そしてシノビという語は、忍者のことをいうシノビにも負っていよう。じっとこらえる、秘密にするという意のシノブという語は、忍・隠が常訓の字である。忍び隠れている邪鬼のような存在が具現したものである。蘇我日向という人物は、讒言する輩で性根があまのじゃくである。そして、筑紫大宰帥は九州北部の話で、間諜の盛んな新羅を意識した外国への窓口であり、倭国の諜報機関の斥の拠点に当たる。そこはコクマルガラスやカササギの分布地でもある。外来語のような新設のポスト「筑紫大宰帥」は、「筑紫大宰」(推古紀十七年四月)、「筑紫率」(天智紀七年七月)ともある。率の字は、紀の頭八咫烏の鳴き声、イザワの意とされる感動詞イザに当てられている。いずれにせよ、オニ同様、大陸からの外来語をもとにして飛鳥時代に新しい言葉が生まれていることを示唆する。間諜活動をすると形容されるに値するほどに、カラスは知恵が発達していると思われていたのだろう(注11)。
「無名雉」(紀)、「鳴女」(記)はキジである。キジは、まっすぐに駆け飛ぶところから矢のイメージがあり、使者にふさわしいと連想されたとされている。アメワカヒコの説話の末尾で、「雉の頓使」(記)、「反矢畏むべし」(紀)という諺は、この話によるものであるとそれぞれ述べられている。反転の話として総括されているのである。命令を受けて行ったのに行ったきりで、かえって、逆に命令に反して逆賊になってしまったことが一連の話の教訓である。矢が当たらなければみすみす相手に武器を供給していることになる。だから、射返してくることができる。本稿の冒頭にあげた五来2004.の指摘にあったアタとアダの関係は、同一の言葉ではなく、反転を示して生きた言葉になる。アダは空、徒、仇である。濁音化は悪い意味や侮蔑の意味をこめるときに起こることが多い(注12)。つまり、アタアタ烏の話の続きとしてアダな話が記されている。スパイは寝返って逆スパイ、二重スパイになることが間々ある。アメワカヒコに矢が当たったのが寝ている時であるのは、寝返るという言葉の含意を伝えたかったからに違いない。孫子・用間篇に「反間」とある。敵のスパイの逆利用である。
矢は、アメワカヒコの胸に「中」っている。当たる意味で、的中することを表す。アタアタの話であるし、コクマルガラスの正面図像は的であった。古語では、弓矢の的のことをイクハという。「射くふ」弓を引くときに狙うべきなのは、的の真ん中だから、それをイクハと呼んだらしい。餅の的伝説が風土記に載る。
田野 郡の西南のかたにあり。此の野は広く大きく、土地沃腴えたり。開墾の便、此の土に比ふものなし。昔者、郡内の百姓、此の野に居りて、多く水田を開きしに、糧に余りて、畝に宿めき。大きに奢り、已に富みて、餅を作ちて的と為しき。時に、餅、白き鳥と化りて、発ちて南に飛びき。当年の間に、百姓死に絶えて、水田を造らず、遂に荒れ廃てたりき。時より以降、水田に宜しからず。今、田野といふ。斯其の縁なり。(豊後風土記・国埼郡)
風土記に曰はく、伊奈利と称ふは、秦中家忌寸等が遠つ祖、伊侶具の秦公、稲粱を積みて富み裕けし。乃ち、餅を用ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊禰奈利生ひき。遂に社の名と為しき。其の苗裔に至り、先の過を悔いて、社の木を抜じて、家に殖ゑて祷み祭りき。今、其の木を殖ゑて蘇きば福を得、其の木を殖ゑて枯れば福あらず。(山城風土記逸文)
この伝承は、もともとは、コクマルガラスのよく見られる九州の話として伝わったものであろう。山城風土記では、子孫が過ちを悔いて、稲荷社として祭ったとある(注13)。稲荷信仰に神の使いとされる狐は、隈にいる熊とは異なり、人間の生活圏にときおり現れる存在である。そのアンビバレントな存在から、超人的な力を持った鬼に類似したものととらえられるに至る。すなわち、狐のイメージは専女に近しい。狐にはタウメという訓み方がある。
専女・火車・婆
語義の詳細は不明ながら「伊賀専女」という言葉がある。①狐の異名で、タウメだけで狐の意を表すこともある。イガは、稲の意の古語、ウカと同根、稲荷の祭神である宇賀御魂と関係するという。おそらくは、伊賀は古来より忍者に縁あるところとされていたのだろう。「野干坂ノ伊賀専ガ男祭ニハ、鮑苦本ヲ叩イテ舞ヒ、……」(新猿楽記・第一、本の妻〈老女〉)、「延久四年於伊勢斎宮寮前大和守成資三男藤原仲季射殺霊狐、〈号白専女〉」(山槐記・治承二年閏六月五日)などとある。②狐が人を騙すように、仲人口をきいて人を誑かす媒酌人のことをいう。「……「ふりはへ、さかしらめきて、心しらひのやうに、思はれ侍らんも、今更に、「伊賀たうめにや」と、つゝましくてなむ」と、聞ゆ」(源氏物語・東屋)とある。上の意と含み併せて、人を誑かす老練な鬼婆的存在をいったようである。
人を誑かす狐を象徴とする媒酌人でありつつ、古来、忍者の郷として名高い伊賀の地名を冠している。となれば、それは、間諜、スパイのことを指している。それが老練な女であるとすると、鬼婆と呼ばれる存在になる。鬼婆は火車婆ともいう。火車婆は、遊郭の女性を取り仕切る遣り手婆をいう。身近にいるにもかかわらず遊女には一切情をかけず、地獄行きの仕事をしているためであろう。また、花車、香車ともいう。将棋の駒の香車は、遣り手婆と同じヤリ(槍)である。ただし、コロコロと回転させる対象が、遊女のほうか客のほうかは定かではない。重箱読みならカクルマである。
火車とはもともと、①仏語で、火炎をあげて燃えながら走る車のことである(注14)。悪事を働いた者は責め立てられ乗せられ、地獄へと運ばれるという。大智度論・第十四に、「去らむと欲ひ未だ王舎城の中に到きて、地自然ら破裂し、火車来迎し、生きながら地獄に入る。(欲去未到王舍城中。地自然破裂火車来迎生入地獄。)」とある。地獄へと追いやる遣り手婆としての鬼婆の様子は、地獄草紙の第二段、函量所に、三つ目の総白髪姿で描かれている(注15)。②葬送の時、暴風を起して棺を吹きあげたり、屍を引き裂いたりする妖怪のこともいう。この意の火車も、人が死ぬ時、あの世へ旅立つ時に起こるものである。茅原定・茅窓漫録に、酉陽雑俎の記事を引きながら魍魎という獣のことを指すとしている(注16)。
②の意については、葬儀のときに、にわかに風が起こって棺が吹き飛ぶ話が、天稚彦の殯の箇所に見える。
是の時に天国玉、其の哭ぶ声を聞きて、則ち夫の天稚彦の已に死れたることを知りて、乃ち疾風を遣して、尸を挙げて天に致さしむ。便ち喪屋を造りて殯す。(神代紀第九段本文)
下から上への風は、飄や飆と書いたつむじ風、巻き上げる旋風である。古語にツムジといい、頭頂にある旋毛と同根の語である。旋回とは回転しながら巻き上がるものである。転の字の本字は轉で、旁に通用している專と云とは、まわりめぐることである。云は雲の初文で、説文では「雲」の項に、「云は雲の回轉する形に象る」とある。入道雲の巻き上がって上昇していくさまを描いて上下逆さまにした形という。回転と反転がダブルになっている。
婆という言葉自体、元来が経験豊富な遣り手を指す。その意を焦点のように表すのは産婆の仕事である。柳田国男「産婆を意味する方言」によれば、前近代の産婆は、トリアゲババ、コトリババ、コナサセババなどと、各地でいろいろな呼び方がされている。そして、「其以外の一つの方言群は九州に在つて、是のみは東北との一致が無い。コズリババ(博多) コーヂーババ(筑後三瀦郡) コゼンボウ(佐賀地方)などの僅かの例を見ると、何とでも臆説は立てられるが、比較をして見ると疑の余地は少ない。即ち、コゼンボ、コゼンバ(肥前北高来郡) コゼンバ(同平戸辺) コゼウバ、コゼバンバ(同五島魚目) コウゾエバンバ(同三井楽) コゼババサン(長崎) コゾイババ(肥後球磨郡) コズヱババ、コゼンボ(鹿児島県) コズヱババ(宮崎県) コズイ(豊後日田郡)の諸例が示す如く、もとは子をスヱルという語の、色々に変化したものである。而うしてスヱルということは、「手に取りすゑる」即ち把持することで、粗末な語を使ふならば「生存の承認」であつたらうかと思ふ。」(410~411頁、漢字の旧字体は改めた)とする。九州地方でコズヱババは、子を人間の仲間に据える、ないし、添えるという意味を表すらしい。方言に九州にあって東北にないことを問うのは、方言集圏説による。コクマルガラスや防人などと同様、九州に特徴的な意味合いを示し述べるための語群であることを予感させる。
他の言い方としてヒキアゲババとあるのも、この世に引き上げるという意味で、単に出産の介助をするという物理的なことにとどまらず、呪術的という言い方で表されている。前近代のお産は、現在の医学水準からはかけ離れており、死産の確率が非常に高かった。子供をこの世のものとするか、あの世のものとするか、それを決めるおそろしい存在を婆という言葉に込めた。したがって、婆は鬼でもある。すなわち、婆は原初から鬼婆であった。そして、子をこの世かあの世か、いずれかに分けることとは、コ(子)+クマル(分)という言葉で表されよう。コクマルガラスは産婆を象徴する名称である。
産婆は、子どもを頭から引っ張り出す。足からの場合は逆子で危ない。古語では頭部全体をカシラと呼び、頭髪を含めて頸から上辺をカウベ、頭の前頂部、わけても乳児のひよめきのことをアタマと言った。和名抄に、「顖会 針灸経に云はく、顖会は一名に天窓といふ〈顖の音は信、字は亦、囱に作る。和名は阿太万〉。楊氏漢語抄に云はく、䫜〈訓は上と同じ、音は於交反〉といふ。」とあり、おつむのことである。ひよひよと動いていることが大事である。全体が出てきたら産湯に浸からせる。出産の際は火事場のような忙しさでもある。アタアタと熱いから泣いてアタマが動いているのが確認される。それによってこの世に入れる。他方、あの世への送りに際しても、葬儀は打ちひしがれながら忙しい。湯灌をして体を清め、まわりの人が泣く。朝鮮半島では葬儀で泣く専門職がいる。ヤマトの文献に見られるのは、やはりアメワカヒコの殯の箇所である。
雉を哭女とし……(記上)
鷦鷯を以て哭者とし、……烏を以て宍人部とし……(神代紀第九段本文・分注)
鷦鷯も雉もすでに本稿で検討した鳥である。霊柩車の車輪はキーキーと軋むところから、「轜車」(孝徳紀大化二年三月)と呼ばれる(注17)が、サザキ、キギシも軋んだような名前である。キは甲類である。言葉の体系がかなり見えてきた。
他のアタアタ
他のアタアタ関連語を検討してみる。
「辺り」とは、基準とする所から近い範囲、また、おおよその目安、目当てを指して漠然とそのへんのことをいう(注18)。
天離る 鄙の長道を 恋ひ来れば 明石の門より 家の辺り見ゆ(万3608)
春の野に あさる雉の 妻恋ひに 己が当りを 人に知れつつ(万1446)
人はおおよその目安を辿って行って、目的とするところへ到達する。見当をつけていって推し量って生きている。忍者に使う忍という字は、シノブ・シノビ以外にオシとも訓む。最初からわかっていること、わかり切っていることは世界に少ない。よくわからないけれどわずかな手掛かりを頼りとして、その先の不分明なところまで敷衍していき、そうではないかと推測しながら進んで行く。軍事作戦においてその役割を担ったのが斥候である。鳥獣に対する狩りにおいても同じことをする。狩猟において、手負いの獣が逃げて行ったあとに血がしたたり落ちて跡が点々と残っていることがある。それを蹤血という。どこへ逃げたか推し量ることができるからである。
射ゆ鹿を 認ぐ川辺の 和草の 身の若かへに さ寝し児らはも(万3874)
照射 〈蹤血附〉 続捜神記に云はく、聶支は少き時、家貧しく常に照射し、一つの白き鹿を見て之れを射中てつ。明くる晨に蹤血を尋ぬといふ。〈今案ふるに、俗に照射は土毛之、蹤血は波加利〉(和名抄)
蹤血が獲物までのあいだをつないでいる。認識とは、本来を知ることで、失ったものを探し当ててつながりを回復させることをいう。
また、「与ふ」は、賜予のことで、「上よりして与えるときに用いる。」(白川1995.69頁)のである。神武記に、「於レ是亦、高木大神之命以覚白之『天神御子、……』」とある文章は、坂根2011.が「(高倉下が)高木大神のお言葉によって、(天神御子に)教え申し上げることには、」(60頁)と解説するとおりである。上よりして与えられている状況を一致的、同包的に表している。その状況に一致する形で出現しているのが、上空を飛行するカラスである。ヤアタカラスにナビしてもらうことは、「高木大神之命以覚白之」を具現化することへと自己循環する。この循環論法の連続によって、口頭に発せられているヤマトコトバの確からしさは規定されていく。逐次的、随時的に、まるで辞書のように文が構成されて行っている。無文字文化に伝承された説話らしい特徴である(注19)。
さらに、「価(値)」とは、物の価値に相等しいこと、「能(適)ふ」の名詞形である(注20)。能は任によく堪え忍ぶこと、能手とは遣り手のことである。適は適宜、適当の義、相匹敵することをいい、正面からの敵対者をいう「敵(賊)」のことである。敵はまたカタキという。二つで一組を作るものの一方の意で、憎悪・怨恨の相手のことにも使われている。憎悪・怨恨は、相手が鬼が見え、自分の心にも鬼が巣くうようになる。鬼をやらう行事に、追儺がある。上述の火車②の意では、その魍魎を撃退する役目を方相氏が担うとされている。周礼・夏官に、「方相氏。熊皮を蒙り、黄金の四つの目あり、玄衣と朱裳もて、戈を執り盾を揚げ、百隸を帥ひて時に儺し、以て室を索めて疫を敺ることを掌る。(方相氏。掌下蒙二熊皮一、黄金四目、玄衣朱裳、執レ戈揚レ盾、帥二百隸一而時儺、以索レ室敺レ疫上。)」とある。本邦では、民間行事として節分の夜に豆まきをする。禁中の追儺の儀式は、桃の弓、葦の矢を使い悪鬼を追い遣る行事であった。各地に残る追儺の一例として、法隆寺に今でも残る追儺では、黒鬼、青鬼、赤鬼が斧、棒、剣を持ち、松明を振りかざして暴れまわった後、毘沙門天が法力で調伏する。最後に信者に厄除けの牛玉札が配られている。熊野三山の牛玉宝印のお札は、八咫烏の文様でよく知られる。この行事は、「悔過」の修二会後の結願の鬼追いの式である。過ちを悔いる話は、本稿ではすでに孝徳紀大化五年三月条、山城風土記逸文で紹介した。いろいろな事柄が、循環するかのようにめぐりめぐってそれぞれの言葉を相互自縛的に説明しているように感じられる(注21)。
熊野速玉大社の牛王符(カラスの目は白く描く)
イザワ(イザクワ)
頭八咫烏の鳴き声として、神武前紀戊午年十一月条の、兄磯城、弟磯城との交渉場面で、「天神の子、汝を召す。率わ、率わ」と同じことをそれぞれに言っている。それに対して、兄磯城は鳴き声を悪いものと聞いて弓を弾いて矢を射てきた。反対に、弟磯城は、鳴き声を良いものと聞いて食器を用意して饗宴に招いている。同じ言葉(鳴き声)が二通りに解釈されている。
兄磯城、忿りて曰はく、「天圧神至しつと聞きて、吾が慨憤みつつある時に、奈何に烏鳥若此悪しく鳴く」といひて、……
弟磯城、惵然ぢて改容りて曰はく、「臣、天圧神至りますと聞きて、旦夕畏ぢ懼る。善きかな烏。汝が若此鳴く」といひて、……
「慨憤み」と「畏ぢ懼る」との違いである。ネタム(妬・嫉・嫌)は、「他人より劣る、不幸であるという競争的な意識があって、心にうらみなげくことをいう。」(白川1995.592頁)から、兄磯城は天圧神と競り合う気があったが負けているためにうらやみ、いまいましく思っている。オヅ(怖・懼・畏)は、「驚きおびえ、自ら委縮して動作しがたいことをいう。」(白川1995.182頁)から、弟磯城は天圧神を最初から恐ろしいと思っていて、その前で身動きが取れずにカチカチになっている。
紀の原文に、「天神子召汝。怡奘過、怡奘過。過音倭。」とある。大系本日本書紀は、「イザは、人を勧誘する辞。ワは、間投詞。万葉三三四六に「見欲しきは雲居に見ゆるうるはしき十羽の松原、小子ども率和(いざわ)出で見む」と例がある。過は、集韻に戸果反という反切もあり、γwaの音と推定される。これとアクセントだけを異にする文字に「和」があり、呉音以前ではワと発音する。それによれば、過にもワの音があったと推定される。ただしこの巻は古写本に乏しいから、何かの誤写かと推測するとすれば、濄または㗻という字がある。濄は倭と同音、㗻は和と同音の字である。下文に特に「過音、倭」と注があるが、この注記の形式は一般の例に合わないものである。」(227頁)とする。また、新編全集本日本書紀には、「イザは勧誘の語。ワは感動の助詞。本来一人称代名詞ワで、我われを含めた「我等」に呼び掛ける用法であったのが、文末・語末に用いられ、感動・確認の意を表す助詞となったか。イザワの例は『万葉集』三三四六に「うるはしき十羽とばの松原童わらはども率和いざわ出で見む」がある。」、「『万象名義』に「過、古貨反」とあるから、音はクヮ。従ってイザクヮと訓まれ、烏の鳴声であるとの説もある。ただし神武紀の編者は率いざワ……の意味で鳴いたと理解させたかったので、ワの音注を施した。原資料の文字に「過」が用いられ、その古韻がワであることが忘れられた時代になっていたか。」(219頁)とある。新釈全訳本日本書紀では、「……「過」字をクヮと読ませないための指示だが、この注記の形式は異例。ワは「過」字の古音と推定されるというが(大系)、明証があげられない。『集解』は、「過」を「濄」にあらため、『広韻』をあげる。『広韻』によれば「濄」は小韻「倭」(反切は「烏禾切」。音はワ)と同音であり、「音は倭」がそのような『切韻』系の韻書にもとづいている可能性は十分にある。」(323頁)としている。
イザについては、諸説のとおり、人を誘ったり、自分から何かしようとする際に発する語で、さあ、どれ、などの意味が第一義であろう。ただ、イザワがイザ+ワ(助詞)の連続した形に限って捉えられるとは言えない。新撰字鏡に、「専為 伊佐和」とあり、専為とは、ほしいままにすることをいう。荘子・山木篇に、「肯へて専為する無く、一は上り一は下り、和を以て量と為す。(無二肯専為一、一上一下、以レ和為レ量。)」とある。ホシキママという言葉は、タクメという言葉とセットで使われ、すでにあげた例に、「専国政を擅にして、……」(武烈前紀仁賢十一年八月・皇極紀元年是歳)、「……詎か情の恣に、専奉仕らむと言ふこと得む。……」(用明紀元年五月)とあった。両者は親和的な言葉であると言える。したがって、熟語イザワについても、一方的に、専一に、自分に都合のいい誘い掛けの声と言えよう。ヤアタカラスが、自分が専女であること、遣り手婆であること、間諜であることを自供的に示唆していることになる(注22)。
イザを動詞化した形はイザナフである。率・誘を常訓の字とする。誘の字をイザナフと訓む例は上代には見られない。ただ、誘の正字は㕗で、説文に、「㕗 相訹ひ呼ぶなり、ムに从ひ、羑に从ふ」とある。紀では、誘の字は、ヲコツル(ワカツル)、アザムクと訓じている。新撰字鏡に、「誘■(詴の旁の上にノがつく字)、二字同、以酒反、上美、上古字、訸也、導也、引也、教也、進也」とあって、騙したり惑わしたりしてさそい、良くない方向へ誘導する意とされている。上手なセールストークに引っかかって悪徳商法の餌食に遭うようなケースに当たる。同じセールストークでも、受けた側にとっても利益につながり、互恵関係になる場合もあるだろうが、その場合は純粋な勧誘を表すイザ、イデなどといった掛け声になるのであろう。
用字に「過」とある。過の音はあくまでもクワである。k音が入っている。ローレンツ1963.に、ニシコクマルガラスはお気に入りの雌を、巣を作ろうとするところへ誘おうとして、高く鋭い声で、ツィック、ツィック(注23)と呼びかけるとの観察記事が載る。その行動は多分に象徴的なものに過ぎず、そこがほんとうに巣を作るのに適しているかどうかは問題ではないという。騙し欺くような誘惑である。紀の編者が用字「過」を選択しているのは、コクマルガラスの誘いの声は、イザクワなのかもしれないと主張している可能性が高い。コクマルガラスのキャッ、キャッという鳴き声を醸しつつ、その鳴き声が騙しなのかもしれないということを、その書記においても「過」一字にこだわって過不足なく伝えようとしている。単にイザワと訓ませたいだけなら、紀の編者は過の字を用いる必要はなく、一般の形式と異なる訓注を施すこともしないであろう。
過という語は、養老令・考課令に、「功過」、「過失」、令義解に、「公務廃闕を過と為」とあり、あやまち、失敗を表す。修二会の儀式で触れた「悔過」とは、仏教で懺悔する行事のことであった。また、通行手形のことを指すものとして、養老令・関市令、公式令に「過所」、万葉集に「過所」(万3754)とあり、通過を表す。生まれた子がこの世にか、あの世にか「くまる(分)」ことをするとは、そのいずれかへの通行手形を発していることに当たる。産道は関所であった。紀に「怡奘過」と書いた過の用字は、その義にまでも自己言及している。あたかも筆があやまちを犯したようにしながらそれを見過ごしやり過ごして、真に迫った表現に努めようとしている。
クワ音は、火車に出てきた火と同じである。養老令・軍防令に、「凡そ兵士は、十人を一火と為。」とあって、軍兵集団の最小単位をいい、野営の際に一つの火を囲んだものである。その統率者を火長という。防人歌の万葉4373~4375番歌左注に、「火長」として、今奉部与曽布、大田部荒耳、物部真嶋の名がある。つまり、イザクワとは、イザ(率)+クワ(火)を示唆して、小隊長を表している。防人は、10人単位で小隊を構成していた模様である。コクマルガラスの棲息する九州の話である。火が熱くてアタアタを表すことは言うまでもない。
火を率いる小隊長は、養老令・職員令に「主殿寮」として載る役割に相当する。殿守りの意で、トノモヅカサ、トノモリヅカサと訓んでいる。神武紀二年二月条の論功行賞記事は、ヤアタカラスの苗裔が葛野主殿県主部とし、地名の後に「主殿」と限定している不自然な記事である。火長という語は、また、後に検非違使に所属した看督長と案主長の総称でもある。平安時代、看督長は、牢獄の看守を本来の職務としたが、のちには罪人追捕を主とするようになった。カドは看督の字音の音転とされている。つまり、カヅノノトノモリノアガタヌシラのカヅノとは、鹿角のことを示唆し、罪人を捕える刺又や首枷のような刑具を思わせる。拘束された囚人を入れて運ぶ牢獄も仏教思想にある。火車である。この世で悪行を犯した罪人を地獄へと導く火車の横に控えた看守役として、頭八咫烏の末裔は役職を得たということになる。防人に召集されることは、部領使にうまいことを言われて連れて行かれるのだが、実際には、地獄行きほどの苦痛と思われることであった。
神武紀二年二月条に、「又頭八咫烏、亦入二賞例一。」とあった。神武紀で間者の性格は、「日臣命」、改め、「道臣命」に引き継がれており、二年二月条でも「道臣命に宅地を賜ひて、築坂邑に居らしめたまひて、寵異みたまふ。」と最初に行賞されている。これらは、孫子・用間篇に、「故に三軍の事、間より親しきは莫く、賞は間より厚きは莫く、……(故三軍之事、莫親於間、賞莫厚於間、……)」とあるのに倣うものであろう。間諜の話として一貫している。
紀の分注にイザワと読ませるように表記しつつ、兄磯城、弟磯城にもイザクワとも聞こえたものとして記したのだと考えられる。鳴き声がイザクワと烏流になっていることによって特別な意味合いが生まれている。兄磯城は、頭八咫烏がイザクワと鳴いたことを、イ(射)+サク(割)+ワ(輪)、すなわち、流鏑馬などで使われる鏑矢の的のような同心円と捉えたのだろう。彼がヤアタカラスの声を聞いた時、「吾為二慨憤一時」と敵愾心をいだいている。アタ(仇敵)のことを考えていた。自分の名、エシキ(エはヤ行のエ、キは乙類)とは、エ(役)+シキ(磯城)のことで、北部九州に築かれた大野城のように、環濠をめぐらせて防御する防人駐屯の城であると思っていたからである。そこへヤアタカラスが舞い込んだのだから、射かけることになって当然である。コクマルガラスを頭を正面にして見れば、中心が黒、その周りが白、さらにその周りが黒の模様になっており、矢の的と見立てられる。ヤアタカラス自身が、ほらほら的ですよ、と言っていると聞いたのである。
兄磯城は、天神の子をわざわざ天圧神と呼び、「圧、此云二飫蒭一」と訓注が付されている。その前段に、兄宇迦斯(兄猾)・弟宇迦斯(弟猾)の話があり、オシ(圧・圧機・機・押機・押)が登場している。獣を捕獲するために圧死させてしまう猟具である。棒竿を格子状に組んで上に大きな石を載せたものや、大きな重い板状のものを支柱に立て掛け、下に餌を置いておき、熊などの獲物が餌を銜えてひくと支柱が倒れて重量物によって圧しつぶされる仕掛けである。奸計を道臣命に見破られた兄宇迦斯(兄猾)は、言い逃れができずに自らが作ったそれに入り、押しつぶされて滅んでいる。
……仕へ奉らむと欺陽りて、大殿を作り、其の殿の内に押機を作りて待ちし時に、……「……殿を作り、其の内に押機を張りて待ち取らむとす。……」……「いが作り仕へ奉れる大殿の内に、おれ、先づ入りて、其の将に仕へ奉らむと為る状を明かし白せ」といひて、即ち横刀の手上を握り、矛ゆけ、矢刺して、追ひ入れし時に、乃ち己が作れる押に打たえて死にき。(神武記)
「……皇師の威を望見るに、敢へて敵るまじきことを懼ぢて、乃ち潜に其の兵を伏し、権に新宮を作りて、殿の内に機を施き、饗らむと請すに因りて作難らむとす。……」……乃ち自機を蹈みて圧死にき。(神武前紀戊午年八月)
左:圧機(木村孔恭、蔀関月・日本山海名産図会・「陸弩捕熊」の図、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200021673/61?ln=jaをトリミング)、右:「棝斗」、別名「鼠弩」(寺島良安・和漢三才図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2569715/1/54をトリミング)
防人が勤務したエシキ(役城)は、そのような殺傷能力のある防御装置を備えていない。ただ水城になっているだけである。うらやましくていまいましい。
一方、弟磯城は、コクマルガラスの円い輪の模様を、車輪を表していると捉えた。すなわち、イザクワの音を、イ(蛛網)+サク(咲)+ワ(輪)と聞いて、轂のことと考えた。轂は、蒸し器の甑と同根の語であり、いずれもコは乙類、キは甲類である。中心に穴が開いてスポークが放射し、周囲に輪がつく形になっている。語源は不明だが、その形は、蜘蛛の巣のように見える。蜘蛛の巣が張って丸く完成したことを、花が咲くことに譬えたのである。その譬え方は、記上の「木花之佐久夜比売」、神代紀第九段の「木花開耶姫」において行われており、「木の花の阿摩比能微坐さむ」(記上)という不思議な語として記されている(注24)。蜘蛛の巣を持ち出しているのは、コクマルガラスの誘いの鳴き声によって巣へと導かれるからである。巧みに木の葉などを編みこんで作られている。
弟磯城は、イ(蛛網)+サク(咲)+ワ(輪)→コシキ(甑)のことだと鳴いているつもりになり、柏の葉でお皿を作って甑で蒸しあげたお餅を並べ、一緒に御馳走を食べたという話に展開していっている。コクマルガラスから続く的の話である。的と餅とは、上代の説話に循環的に説明されている(注25)。蜘蛛(モは甲類)の一種は、グルグルと回りながら巣を懸けていく。同音の雲(モは甲類)について、説文に「云は雲の回轉する形に象る」とある点が、火車の意の一つ、葬送の時の暴風と関係することについてはすでに見たとおりである。同音の言葉は同じ概念のもとに培われていると考えた、ないしは、そう志向していた。あるいは、そうこじつけることでヤマトコトバを体系として自得していたのである。
弟磯城は、天神の子が来たと聞いておぢかしこまった。弟磯城(ト・キは乙類)は、オト(音、トは乙類)+シキ(磯城)なる名を負っている。防御方法が敵の襲来を音で知らせるだけであった。鳴子のようなものを周囲に廻らせているだけの警備であり、本気で攻められたらどうすることもできない。
音をアラームとする城であると自認する弟磯城は、攻め立てて来た敵を圧機で押しつぶして殺傷までする強力な警備とわたりあえるはずがないことを悟っている。今日でも都会のカラス対策に音を用いるものがあるが、一時的に逃げることはあっても根本的な対策にはつながらず、すぐに慣れてしまう。だから、弟磯城はヤアタカラスの鳴き声を聞いたとき、圧機が生贄用の獣を用意し、甑が餅を用意するものなのだと了解した。自らが生贄の獣扱いにされたらたまらないからである。「惵然改容」っている。と同時に神事のために葉盤を作って使者の烏を饗応している。畏まって行う厳粛な儀式の後、打ち上げの宴席が催される。その豊明節会と同じ作法である。柏の葉を用いたお皿を作り、神さまに餅をお供えし、そのあと降ろしてきて皆で宴会を開くのである。豊後風土記の餅を的にしたとの言い伝えと齟齬なく連動している。
イザクワ、コシキ、餅、的は、それぞれ関連する一連の言葉群である。それらは稲荷社との関係もあって、その使いは人を誑かす狐、伊賀専女であった。これらのヤマトコトバの語義の連鎖を総括すれば、ヤアタカラスとは烏は烏でもコクマルガラスで、九州筑紫に関係が深い話であり、イザクワとは、イザ(率)+クワ(火)という意味合いの、防人を表す鳴き声で鳴いていたということになる。
以上のように、記紀に伝わるヤアタカラスの話は、さまざまなヤマトコトバの義をひとまとめに説解したものなのである。換言すれば、言葉から創話してヤマトコトバの体系を簡潔な形に組み立てたものが、記紀の説話ということになる。内容としてだけなら、ウカミ(間諜、斥候)のことを指しているにすぎないことを、ヤアタカラス(八咫烏、頭八咫烏)と譬えることで、ヤマトコトバという言語の深奥へと誘ってくれている。ある言葉がわからないとき辞書を引くが、そこに記された説明もまたわからなければ、さらにまた引き直す。そのくり返しのような作業がひとつの説話のなかにほどこされている。上代の人にとっては、糸口さえ見出されれば、一つの説話の理解によって、出てくる多くの言葉が皆なるほどと納得できるのである。そういう仕掛けになっているから人から人へと伝えらえ続けることができたのであった(注26)。言葉で世界は構成されているのだから、言葉がわかれば世界が分かるのである。ここに、言=事とする言霊信仰の真髄がある。記紀の説話はヤマトコトバの辞書として構成され、世界を物語っているのであった。
(つづく)