「藤原宮御井歌」の問題点
藤原宮の御井の歌
やすみしし わご大王 高照らす 日の皇子 荒栲の 藤井が原に 大御門 始めたまひて 埴安の 堤の上に あり立たし 見したまへば 大和の 青香具山は 日の経の 大き御門に 春山と 茂みさび立てり 畝傍の この瑞山は 日の緯の 大き御門に 瑞山と 山さびいます 耳成の 青菅山は 背面の 大き御門に 宜しなへ 神さび立てり 名ぐはし 吉野の山は 影面の 大き御門ゆ 雲居にそ 遠くありける 高知るや 天の御蔭 天知るや 日の御影の 水こそば 常(注1)にあらめ 御井のま清水(万52)
短歌
藤原の 大宮仕へ 生れつくや(注2) 処女がともは 羨しきろかも(万53)
右の歌は、作者未だ詳らかならず。
藤原宮御井歌
八隅知之和期大王高照日之皇子麁妙乃藤井我原尓大御門始賜而埴安乃堤上尓在立之見之賜者日本乃青香具山者日經乃大御門尓春山跡之美佐備立有畝火乃此美豆山者日緯能大御門尓弥豆山跡山佐備伊座耳為之青菅山者背友乃大御門尓宣名倍神佐備立有名細吉野乃山者影友乃大御門従雲居尓曽遠久有家留高知也天之御蔭天知也日之御影乃水許曽婆常尓有米御井之清水
短歌
藤原之大宮都加倍安礼衝哉處女之友者乏吉呂賀聞
右歌作者未詳
長歌と短歌から成る一群の歌である。題詞にあるとおり、「藤原宮御井」を詠んだ「歌」でいる。一般に、長歌と反歌(反歌の位置にある「短歌」)との関係は、短歌のもつ独自性によって長歌の世界を発展的に展開して結び、その両者が力を合わせる形で一つの趣旨を述べているものと考えられている。この万52・53番歌でもそのとおりであろう。しかし、二つの歌を従来の通釈によったとき、一つの趣旨に収斂しているとは感じられない。
窪田1951.に、「短歌は、長歌の賀の心から転じて、私情を云つたものである。」(151頁)、武田1956.に、「長歌では主として藤原の宮の自然美を描いたから反歌ではこれを補つて、人間の美を描くのである。」(245頁)、澤瀉1957.に、「長歌では御井を中心にした大宮の景観を讃美し、短歌ではその宮に奉仕する少女を羨む事に寄せてこの宮の長久を祝った。」(361頁、漢字の旧字体は改めた) と、特に疑問視されずにまとめられている。伊藤1983.に、「大宮の御井に仕えるおとめたちへの讃美を羨望のかたちで述べることによって、大宮の無窮をたたえた歌で、長歌と別途の観点から御井をほめたところに転換があり、「短歌」と標示するのにふさわしい。」(220頁)とする。土橋1988.でも、この長短歌を、「[藤原]不比等の側に立つ者の讃歌の方法」(33頁)と見ている。いずれの解説も腑に落ちるものではない。万52番の長歌と万53番の短歌が、内容的にいかに関わっているのか深く検討されないまま、安易に「藤原宮御井歌」に一括されているとして憚るところがない。長歌は、お治めになる「藤井が原」はいくつかの山に囲まれていて、井戸があって水が湧いていると歌っている。それをどのように評価するかについてはさまざまに論じられてきた(注3)が、前のめりにならずに歌そのものを聞くだけで十分である。短歌は、藤原宮に仕える女性たちはうらやましいと歌っている。この両者の関係は何か、明らかになっていない。
井戸讃歌の理由
万52番の長歌に対しては、古典集成本萬葉集に、「御井の永遠を願う予祝歌だが、国見歌を踏まえた天皇讃歌……の発想を基盤に持っている。山を歌ったのは、山が水を司るという考えによる。」(72頁)と解されている。本当だろうか。
短歌の「藤原の 大宮仕へ 生れ付くや 処女がとも」とは、藤原宮に奉仕するべく運命づけられている少女たちということで、「処女がとも」は「鵜飼が伴」のように作業員のことを指しており、雑用に従事する采女に当たるとされている。万52・53番歌をひとまとめにし、井戸によって宮仕えの少女たちがうらやましいというのなら、それは、洗濯の効率がよくて仕事がはかどること、楽に済むことにおいてであろう(注4)。飛鳥浄御原宮では、洗濯するのに明日香川まで出かけて行ってやっていたが、藤原宮に遷都したら、遠くまで行かなくても潤沢な井戸水のおかげか宮の内にできるようになっている。これは楽ちんである。
藤原宮は洗濯の宮であった。
「藤原宮御宇天皇代」の持統天皇の「御製歌」も洗濯の歌である。
春過ぎて 夏来るらし 白栲の 衣乾きたるあり 天の香具山(万28)
乾いた洗濯物を手にして、ほら、よく乾いている、夏が来たんだねえ、と歌っている(注5)。天皇が洗濯の歌を歌うほどである。
この単純な視点に気づくなら、「藤原宮御井歌」の内容、主旨は自ずと定まってくる。題詞にあるとおり「藤原宮御井歌」であり、それ以上のものではない。題詞はタイトルであって全体を枠組んでいる。「寿二藤原宮御井一歌」ではなく、持統朝の繁栄を祝ったり悠久を祈ったりする宮廷讃歌ではないのである。すなわち、宮廷讃歌の言葉づかいを借りながら、歌意としては宮にある井戸水を述べるに尽きている。
万52番長歌の「御井之清水」の「清水」については、最終句を七音で終わらせたいため、マシミヅ、キヨミヅ、スミミヅなどと訓まれてきた(注6)。宮の周囲に山が配置するさまをことさらに歌っている。山に降った雨が湧き出ているとでも言いたいからだろう。「瑞山」は「水山」だとの洒落である。畝傍山のような丘程度の山がどれほど水分を保つものかわからないものの、山の麓には湧水がつきものである。また、「大御門」、「大き御門」といった修辞がくり返されているのも、宮においては井戸が門あたりに設置されることの反映と思われる。記紀の伝承では、海神の宮の門のところに井戸があった設定で話が作られている(注7)。
だが、その「御井」とされる井戸は、藤原京造営以前からあった井戸のようである。万52番長歌の前半に「藤井が原」とあり、それがつづまって「藤原」と呼ばれたとも考えられている。呼称の由来の当否はともかく、藤蔓などを用いた釣瓶井戸があったらしい。従来、訓み方の候補としてあげられていたマシミヅ、キヨミヅ、スミミヅは、水の清浄なることを指している。ところが、御井で汲みあげた水の主たる用途が、祭祀用ではなく、調理用でさえなく、洗濯用であると知れると、質より量が確保されているということで、あるいは多少、大腸菌が検出されてもかまわないということになる。
不動利益縁起絵巻(14世紀)の洗濯風景(東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0000013・E0000014を接合、トリミング)
藤原京に遷都したのは持統八年(694)であるが、すでに元明天皇の和銅元年(708)にはそこから遷都するとの詔が下されている。実際に平城京へ遷ったのは和銅三年(710)である。短期間での移動の理由については確かなことはわからないながら、水質悪化問題が取り沙汰されている(注8)。藤原宮は水は得られているが、きれいな水は得られていなかった、という点がネックになっていたと考えられる。「御井」と呼んだ井戸から、実は浄水は得られず、仕方がないから洗濯用に使ってよいことになった。采女は大助かりである。困るのは膳夫である。毎回煮沸して飲み水に当てていくのはたいへんである。人足を用立ててきれいな水を運ばせることもあったであろう。効率が悪いこと甚だしい。なぜそうなったか。
藤原宮は遷都前の飛鳥浄御原宮よりも下流域に位置する。断続的に続いた飛鳥宮(飛鳥岡本宮(630~636年)、飛鳥板葺宮(643~645年)、後飛鳥岡本宮(656~667年)、飛鳥浄御原宮(672~694年))は生活排水を流していたのだから、飛鳥川を伝ってすでに汚染されていた可能性がある。藤原京遷都以降も、南東に高く北西に低い緩やかな傾斜地では、条坊道路に付随する側溝を流れる水は北方向へ流れる。庶民の糞尿、生活雑排水が王宮の方向へ流れてきてしまう。時の経過で改善されそうにないと悟ったのだろう。
万52・53番の「藤原宮御井歌」は、抜本的に読み替えられなければならない。
[――こそは(ば)――め]構文について
万52番歌の最後の部分は、訓読と理解に覚束ないところがある。
佐佐木1996.は、[――こそは(ば)――め]の構文について[――こそ――め]との違いについて文法的指摘をしている。[――こそは(ば)――め]の形を取るのは次のような例である。
①籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岳に 菜摘ます児 家聞かな 告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそ座せ 我こそは〔我許背歯〕 告らめ〔告目〕 家をも名をも(万1)
②…… 高知るや 天の御蔭 天知るや 日の御影の 水こそば〔水許曽婆〕 常にあらめ〔常尓有米〕 御井の清水(万52)
③人こそは〔人社者〕 おほにも言はめ〔意保尓毛言目〕 我がここだ しのふ川原を 標結ふなゆめ(万1252)
④雪こそは〔雪己曽波〕 春日消ゆらめ〔春日消良米〕 心さへ 消え失せたれや 言も通はぬ(万1782)
⑤慨きや 醜霍公鳥 今こそは〔今社者〕 音の干るがに 来喧き響めめ〔来喧響目〕(万1951)
⑥吾こそは〔吾社葉〕 憎くもあらめ〔憎毛有目〕 吾が屋前の 花橘を 見には来じとや(万1990)
⑦高山と 海とこそは〔与海社者〕 山ながら 如此も現しく 海ながら 然真ならめ〔然真有目〕 人は花物そ うつせみ世人(万3332)
⑧奈呉の海人の 釣りする舟は 今こそば〔伊麻許曽婆〕 船枻打ちて あへて漕ぎ出め〔安倍弖許藝泥米〕(万3956)
⑨…… 今こそば〔伊麻許曽婆〕 我鳥にあらめ〔和杼理邇阿良米〕 後は 汝鳥にあらむを 命は な死せたまひそ ……(記3)
⑩…… 汝こそは〔那許曽波〕 男にいませば 打ち廻る 島の崎々 掻き廻る 磯の崎落ちず 若草の 妻持たせらめ〔都麻母多勢良米〕 吾はもよ 女にしあれば 汝を除て 男は無し汝を除て 夫は無し ……(記5)
佐佐木氏は①の万1番歌の訓みを問うて論じられているのであるが、筆者は①について別の観点を有しており、ここでは扱わないことにする。佐佐木氏は当該②について、「清水」はキヨミヅが最も難のない訓であるとしている(佐佐木1999.170頁)。
そして、②⑤⑧の三例は、慫慂・勧誘の意をあらわす用法、それ以外は逆接の意をあらわす用法であるとされている。⑤は、気に入らないホトトギスだが、今こそは声の嗄れるほどに、来て鳴いて声を響かせてほしい、⑧は、奈呉の海人の釣船は、今こそは船べりを叩いてあえて漕ぎ出してほしい、という意である。逆接の用法は、例えば③は、他の人は何でもないことのように言うけれど、私にはとても慕わしい川原なので、入れないように標を結うことなどけっしてしないでください、という意である。
では、どうして同じ[――こそは(ば)――め]の構文なのに二つの意味に解されるのであろうか。⑤も⑧も、「今こそは(ば)」の形であらわれている。すなわち、ふだんのことと「今」のこととを対比させている。同様に、③で「人(他人)」と「我」、④で「雪」と「(雪でない)心」、⑥で「吾」と「(吾が屋前の)花橘」、⑦で「高山と海」と「人」、⑨で「今」と「後」、⑩で「汝」=「男」と「吾」=「女」とを対比させている。
つまり、[Aこそは(ば)――め、B――]と、[A――、Bこそは(ば)――め]の形の違いである。先に出てくるAと後に出てくるBとを対比させ、先行するAを強調したらBは状況が反対になるから逆接に、後行するBを強調したら対比するAはその前提として現状確認となるからBは勧誘的にそうなって欲しいと訴える意になる(注9)。何と何との対比なのかを見極めることが文意の理解に直結する。
当該②においては、これまで誤解があった。②は、[Aこそは(ば)――め、B――]の構文なのである。
荷田春満・萬葉集僻案抄に、最後の句を「御井之清水」(国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200001739/viewer/127参照)と訓んでいたのは卓見であった。
AとBとの対比が、「水(A)こそば常にあらめ」と「御井の清水(B)は(――)」として構成される文なのである。
すなわち、ここは逆接の意と解さなければならない。
水こそはあるだろうが、御井という名にふさわしい清水、浄水は(どうなのか)、と言っている。洗濯に使える風呂の残り湯のような水は湧き出ているが、飲み水に安心して使える水が得られていない、とぼやいているのである。そんな水道事情において助かるのは、洗濯にたずさわる采女ばかりであると「短歌」に皮肉っている。「藤原宮御井」は悪水であると、ワンセットの長歌と短歌で歌っている。長歌に藤原京の景観的構造を何だかんだと大仰に述べ立てていたのは、さぞやすばらしい宮都であろうはずが、「藤井」は「御井」たりえていないと言わんがための辛辣な諷刺表現なのである。「常尓有米」は通訓どおり「常にあらめ」と訓むほうが、ブラックユーモアにかなっている。
「藤原宮御井歌」=寿ぎ歌説は否定された。中国の思想に基づいて作られた東西南北に正方形的な宮都は水問題のために不衛生で非効率、喜んだのは洗濯女だけだとあざけっている。作者が誰だかわからないようになっているのは当然のことであろう。遣唐使派遣によって最新の中国思想や技術に触れたこともあり、新都を築いて遷ろうということになったようである(注10)。
(注)
(注1)「水許曽婆常尓有米」を「水こそば とこしへにあらめ」と訓む説が多いが、佐佐木1999.は、トコシヘニは、「已然形+や/やも」の結合からなる反語表現がうける例が万葉集に2例、日本書紀に1例見られ、万52番歌に反語の意は見出せないから、ツネニと訓むべきであるとする。この点は万52番歌の全体の歌意にかかわる。
(注2)「安礼衝哉」を「生れつくや」と訓む説が多いが、「生れ継ぐや」とする説もある。竹本2010.は、天皇に永続的に仕奉する氏から氏女が貢進されて采女になるから、「生れ継ぐや」と訓むのが良いとしている。水が永遠に湧き出ることや、世代を超えて奉仕し続けることとも響きあってふさわしいのだという。
「衝」字をツグと濁音表記に当てるか疑問である。歌は藤原京に遷都して歌われたものだろう。都は変わるものだという意識は誰もが抱いている。「大宮仕へ生れ継ぐ」とは言えても、「藤原の大宮仕へ生れ継ぐ」とは言いにくくないか。筆者は、後に述べるように、藤原宮時代にたまたま生まれついて采女になった女性は、他の時代に生まれついて采女になった女性とは違ってとてもうらやましい、と言っていると考えている。
(注3)宮殿の御井を讃えることで宮自体や治世までも讃美する歌であるとするのが通説となっている。その根拠として、中国の思想に負うところがあるとする指摘が耳目を集めている。歌中に出てくる吉野山は秦の都、咸陽を守る終南山に見立てられるとする説(中西1995.)、山々を配するのは中国古代の四鎮五獄の思想に基づく発想によるとする説(吉田1986.)である。そのうえで御井の水は天と人の感応によって湧き出した聖水であるとする説(辰巳1997.)があり、これは折衷説である。東西を優位軸としながら南面する都市空間を意識し、外来文化を適宜取り込んでいるとする説(梶川2015.)も同様である。本邦の思想に深く根差すと考えるものとしては、持統天皇と吉野とのかかわりの強さから吉野世界に対する信仰が投影されているとする説(城﨑2004.)、中臣寿詞の「天つ水」神話と関連があるとする説(上野2013.)、祈年祭祝詞の詞章の祭祀的意味を含んでいるとする説(吉村2020.)などがあげられている。いずれも深読みの説である。
(注4)炊事にも水は欠かせないが、必要とする量ははるかに少ない。料理は膳夫が作ったとも考えられ、井戸を掘って水を使う場合、限られた清浄な水は調理に優先され、洗濯は川へ行くように推奨されていたであろう。
山辺の 御井を見がてり 神風の 伊勢処女ども 相見つるかも(万81)
この和銅五年(712)の長田王の歌から、井戸を管理するのは娘たちであったとする見方がある(佐佐木1999.170~171頁)。しかし、習俗としてそう決まっていたとは考えにくい。この歌でさえ、洗濯に来ていたところへ出くわしたものだろう。ふつうに考えられるように、農業用であれば田人が管理し、道路沿いであれば宿駅からの依頼で近隣住民が管理したであろう。
竹本2010.は、軍防令・兵衛条の「凡兵衛者。国司簡下郡司子弟。強幹便二於弓馬一者上。郡別一人貢之。若貢二采女一郡者。不レ在下貢二兵衛一之例上。三二分一国一。二分兵衛。一分采女。」をあげ、「兵衛も采女も地方豪族からの出仕者が主流であった。そして、条文からもうかがえるように、両者の関係は表裏一体なのであり、天皇の地方支配という理念において、五二・五三番歌に共通の要素として捉えられる。地方から出仕してきた御門(御井)を守る兵衛と御井で水仕事をする采女(女官)とが、天皇や王権を讃えるための要素として、申し分のない対比関係をなしている。」(46頁)と説いている。「藤原宮御井歌」の長歌と短歌はどこにつながりがあるのか、管見において初の試みである。水を扱う役職を令制に探ることにも目配せがある。地方豪族の支配と新都とを絡めているところは新鮮に映る。従来の見方からこの説を推し進めるとすれば、宮殿の勝手口に飛び交うお国言葉をもって宮褒めをしたということになるのだろう。
(注5)訓み方も含めて、拙稿 「「春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山」(持統天皇作、万28番歌)考」参照。
(注6)武田1956.は六音でかまわないとし、シミヅと訓んでいる。
(注7)カツラの木については触れられていない。宮地に生えていなかったのだろう。「門前有二一井一。井上有二一湯津杜樹一。」(神代紀第十段本文)。また、これが宮の新設であることに思い致せば、スサノヲが新たに宮を作ってスガスガシと言っていたことも思い起こされる。「然後、行覓二将婚之処一。遂到二出雲之清地一焉。清地、此云二素鵝一。乃言曰、吾心清々之。此今呼二此地一曰レ清。於彼処建レ宮。」(神代紀第八段本文)、「菅生二山辺一。故、曰二菅生一。一云、品太天皇巡行之時、闢二井此岡一。水甚清寒。於レ是勅曰、由二水清寒一、吾意宗々我々志。故曰二宗我富一。」(播磨風土記・揖保郡)。理論上は、「清水」をスガミヅ、ソガミヅ(ソは甲類)と訓む可能性もある。スガ、ソガを展開させたスガスガシ、ソガソガシは、滞りなくすっきりするさまを表わす。スガミヅ、ソガミヅには、井戸水の停留がないことを表わすのに長けているが用例はない。
(注8)「又如聞、京城内外多有二穢臭一。」(続紀・文武天皇・慶雲三年(706)三月)。疫病によって死体が放置されたり汚物が処理されずに環境が劣悪になっていたらしい。水も汚染されたことであろう。伝染病のために、墓掘りや側溝の清掃や浚渫にあたる作業員を含めたエッセンシャルワーカーが不足したことも容易に想像がつく。翌慶雲四年(707)二月には、「詔二諸王臣五位已上一、議二遷都事一也。」とあってすでに議論は始まっていた。次の平城京が唐の長安城を真似して国威発揚の舞台装置として整えられているから、中国の“現代”思想を積極的に取り入れたがっていたことや、既得権益を排除しようとする政策に対する抵抗をかわす狙いがあったとも考えられている。
「壬寅、始定二藤原宮地一。宅入二宮中一百姓一千五百五烟、賜レ布有レ差。」(続紀・文武天皇・慶雲元年(704)十一月)とある記事は、宮中の戸数としては過大で不審に見られている。京内の街区整理に対しての賠償とする説(岸1984.)、藤原京の造営打ち切りが決定されたとする説(吉川2004.)がある。後者は、遣唐使粟田真人の帰還の40日後のことで、寄せられた唐の長安城の情報との大きな懸隔に気づき、都城としての理念的欠陥を痛感して造営を打ち切ったのだとしている。筆者は、前者の説の街区整理の実態として、宮の南東側、飛鳥川の上流側の、「宅の(汚水を)宮中に入るる百姓」を宮の北側や飛鳥川の下流側へ強制移住させたもので、立ち退き料を支払ったということではないかと考える。助数詞「烟」には生活感があり、竈から烟が出るなら生活排水も流すことになる。類似の用例の単位は、「人」(白雉元年十月)、「家」(和銅元年十一月)、「人」「者」(天平十四年正月)、「町」(延暦三年六月)とあるから、「烟」を使った書記官の面目躍如たるところと言える。藤原京が京域も含め、当初から周礼・考工記による設計プランによって造営されていたのかといったことはわからないことである。
遷都の事情とは、理念的なこと、現実的なこと、その他もろもろが複雑に絡みあったものであろう。朱雀大路がメインストリートとしての機能を果たしきれていないことが問題であったと思われているが、それは同時にその側溝の排水が滞ることにつながっている。藤原京の衛生状況の悪化を原因の一つと考えることに何ら不自然なところはない。ゴリラの仲間には、毎日寝場所を変えるのがいるという。人口が集中する都市には衛生問題が浮上するのは必然のことで、藤原京に限ったことではないとする意見がある(仁藤2011.204頁)が、飛鳥宮にはなくて藤原宮に起こった飲み水問題を「藤原宮御井歌」は伝えていると考える。
(注9)「め」(む)について、推量をあらわすとみる注釈と、祈願・希求をあらわすとみる注釈がある。AとBとの対比によるところが大であり、Aの強調に付く「め」は推量の意をもって逆接してBにつづき、Bの強調に付く「め」はAという現状に逆らうことになるから祈願・希求・慫慂・勧誘の意ととるのがふさわしくなる。
(注10)現実の生活問題をごまかすために思想的な領域に転嫁して新しい形式の都城を建設したとも言える。庶民感覚からすれば、鎮護国家という発想も同様のことに映る。記紀万葉から見ればそう透けて見える。万葉集巻第一の「藤原宮」を題詞に掲げる「藤原宮之役民作歌」(万50)(拙稿「 藤原宮の役民の作る歌」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/5640e860bacb9923630d4bda5902a1eb参照)、「従明日香宮遷居藤原宮之後志貴皇子御作歌」(万51)(拙稿「 「采女の 袖吹きかへす 明日香風」歌(志貴皇子)について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/0ef33298de11ab4593b7b7d78d8b7440参照)から連続して、皮肉な表現からなる歌がつづられている。今から思えば不思議な言語感覚の時代であった。
(引用・参考文献)
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澤瀉1957. 澤瀉久隆『萬葉集注釈 巻第一』中央公論社、昭和32年。
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古典集成本萬葉集 青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 萬葉集一』新潮社、平成27年。
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辰巳1997. 辰巳正明『万葉集比較詩学』おうふう、平成9年。
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吉村2020. 吉村誠「「藤原宮御井歌」の基盤─祈年祭祝詞を視点として─」『山口大学教育学部研究論叢』第69巻、2020年1月。山口県大学共同リポジトリhttp://petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/28060
藤原宮の御井の歌
やすみしし わご大王 高照らす 日の皇子 荒栲の 藤井が原に 大御門 始めたまひて 埴安の 堤の上に あり立たし 見したまへば 大和の 青香具山は 日の経の 大き御門に 春山と 茂みさび立てり 畝傍の この瑞山は 日の緯の 大き御門に 瑞山と 山さびいます 耳成の 青菅山は 背面の 大き御門に 宜しなへ 神さび立てり 名ぐはし 吉野の山は 影面の 大き御門ゆ 雲居にそ 遠くありける 高知るや 天の御蔭 天知るや 日の御影の 水こそば 常(注1)にあらめ 御井のま清水(万52)
短歌
藤原の 大宮仕へ 生れつくや(注2) 処女がともは 羨しきろかも(万53)
右の歌は、作者未だ詳らかならず。
藤原宮御井歌
八隅知之和期大王高照日之皇子麁妙乃藤井我原尓大御門始賜而埴安乃堤上尓在立之見之賜者日本乃青香具山者日經乃大御門尓春山跡之美佐備立有畝火乃此美豆山者日緯能大御門尓弥豆山跡山佐備伊座耳為之青菅山者背友乃大御門尓宣名倍神佐備立有名細吉野乃山者影友乃大御門従雲居尓曽遠久有家留高知也天之御蔭天知也日之御影乃水許曽婆常尓有米御井之清水
短歌
藤原之大宮都加倍安礼衝哉處女之友者乏吉呂賀聞
右歌作者未詳
長歌と短歌から成る一群の歌である。題詞にあるとおり、「藤原宮御井」を詠んだ「歌」でいる。一般に、長歌と反歌(反歌の位置にある「短歌」)との関係は、短歌のもつ独自性によって長歌の世界を発展的に展開して結び、その両者が力を合わせる形で一つの趣旨を述べているものと考えられている。この万52・53番歌でもそのとおりであろう。しかし、二つの歌を従来の通釈によったとき、一つの趣旨に収斂しているとは感じられない。
窪田1951.に、「短歌は、長歌の賀の心から転じて、私情を云つたものである。」(151頁)、武田1956.に、「長歌では主として藤原の宮の自然美を描いたから反歌ではこれを補つて、人間の美を描くのである。」(245頁)、澤瀉1957.に、「長歌では御井を中心にした大宮の景観を讃美し、短歌ではその宮に奉仕する少女を羨む事に寄せてこの宮の長久を祝った。」(361頁、漢字の旧字体は改めた) と、特に疑問視されずにまとめられている。伊藤1983.に、「大宮の御井に仕えるおとめたちへの讃美を羨望のかたちで述べることによって、大宮の無窮をたたえた歌で、長歌と別途の観点から御井をほめたところに転換があり、「短歌」と標示するのにふさわしい。」(220頁)とする。土橋1988.でも、この長短歌を、「[藤原]不比等の側に立つ者の讃歌の方法」(33頁)と見ている。いずれの解説も腑に落ちるものではない。万52番の長歌と万53番の短歌が、内容的にいかに関わっているのか深く検討されないまま、安易に「藤原宮御井歌」に一括されているとして憚るところがない。長歌は、お治めになる「藤井が原」はいくつかの山に囲まれていて、井戸があって水が湧いていると歌っている。それをどのように評価するかについてはさまざまに論じられてきた(注3)が、前のめりにならずに歌そのものを聞くだけで十分である。短歌は、藤原宮に仕える女性たちはうらやましいと歌っている。この両者の関係は何か、明らかになっていない。
井戸讃歌の理由
万52番の長歌に対しては、古典集成本萬葉集に、「御井の永遠を願う予祝歌だが、国見歌を踏まえた天皇讃歌……の発想を基盤に持っている。山を歌ったのは、山が水を司るという考えによる。」(72頁)と解されている。本当だろうか。
短歌の「藤原の 大宮仕へ 生れ付くや 処女がとも」とは、藤原宮に奉仕するべく運命づけられている少女たちということで、「処女がとも」は「鵜飼が伴」のように作業員のことを指しており、雑用に従事する采女に当たるとされている。万52・53番歌をひとまとめにし、井戸によって宮仕えの少女たちがうらやましいというのなら、それは、洗濯の効率がよくて仕事がはかどること、楽に済むことにおいてであろう(注4)。飛鳥浄御原宮では、洗濯するのに明日香川まで出かけて行ってやっていたが、藤原宮に遷都したら、遠くまで行かなくても潤沢な井戸水のおかげか宮の内にできるようになっている。これは楽ちんである。
藤原宮は洗濯の宮であった。
「藤原宮御宇天皇代」の持統天皇の「御製歌」も洗濯の歌である。
春過ぎて 夏来るらし 白栲の 衣乾きたるあり 天の香具山(万28)
乾いた洗濯物を手にして、ほら、よく乾いている、夏が来たんだねえ、と歌っている(注5)。天皇が洗濯の歌を歌うほどである。
この単純な視点に気づくなら、「藤原宮御井歌」の内容、主旨は自ずと定まってくる。題詞にあるとおり「藤原宮御井歌」であり、それ以上のものではない。題詞はタイトルであって全体を枠組んでいる。「寿二藤原宮御井一歌」ではなく、持統朝の繁栄を祝ったり悠久を祈ったりする宮廷讃歌ではないのである。すなわち、宮廷讃歌の言葉づかいを借りながら、歌意としては宮にある井戸水を述べるに尽きている。
万52番長歌の「御井之清水」の「清水」については、最終句を七音で終わらせたいため、マシミヅ、キヨミヅ、スミミヅなどと訓まれてきた(注6)。宮の周囲に山が配置するさまをことさらに歌っている。山に降った雨が湧き出ているとでも言いたいからだろう。「瑞山」は「水山」だとの洒落である。畝傍山のような丘程度の山がどれほど水分を保つものかわからないものの、山の麓には湧水がつきものである。また、「大御門」、「大き御門」といった修辞がくり返されているのも、宮においては井戸が門あたりに設置されることの反映と思われる。記紀の伝承では、海神の宮の門のところに井戸があった設定で話が作られている(注7)。
だが、その「御井」とされる井戸は、藤原京造営以前からあった井戸のようである。万52番長歌の前半に「藤井が原」とあり、それがつづまって「藤原」と呼ばれたとも考えられている。呼称の由来の当否はともかく、藤蔓などを用いた釣瓶井戸があったらしい。従来、訓み方の候補としてあげられていたマシミヅ、キヨミヅ、スミミヅは、水の清浄なることを指している。ところが、御井で汲みあげた水の主たる用途が、祭祀用ではなく、調理用でさえなく、洗濯用であると知れると、質より量が確保されているということで、あるいは多少、大腸菌が検出されてもかまわないということになる。
不動利益縁起絵巻(14世紀)の洗濯風景(東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0000013・E0000014を接合、トリミング)
藤原京に遷都したのは持統八年(694)であるが、すでに元明天皇の和銅元年(708)にはそこから遷都するとの詔が下されている。実際に平城京へ遷ったのは和銅三年(710)である。短期間での移動の理由については確かなことはわからないながら、水質悪化問題が取り沙汰されている(注8)。藤原宮は水は得られているが、きれいな水は得られていなかった、という点がネックになっていたと考えられる。「御井」と呼んだ井戸から、実は浄水は得られず、仕方がないから洗濯用に使ってよいことになった。采女は大助かりである。困るのは膳夫である。毎回煮沸して飲み水に当てていくのはたいへんである。人足を用立ててきれいな水を運ばせることもあったであろう。効率が悪いこと甚だしい。なぜそうなったか。
藤原宮は遷都前の飛鳥浄御原宮よりも下流域に位置する。断続的に続いた飛鳥宮(飛鳥岡本宮(630~636年)、飛鳥板葺宮(643~645年)、後飛鳥岡本宮(656~667年)、飛鳥浄御原宮(672~694年))は生活排水を流していたのだから、飛鳥川を伝ってすでに汚染されていた可能性がある。藤原京遷都以降も、南東に高く北西に低い緩やかな傾斜地では、条坊道路に付随する側溝を流れる水は北方向へ流れる。庶民の糞尿、生活雑排水が王宮の方向へ流れてきてしまう。時の経過で改善されそうにないと悟ったのだろう。
万52・53番の「藤原宮御井歌」は、抜本的に読み替えられなければならない。
[――こそは(ば)――め]構文について
万52番歌の最後の部分は、訓読と理解に覚束ないところがある。
佐佐木1996.は、[――こそは(ば)――め]の構文について[――こそ――め]との違いについて文法的指摘をしている。[――こそは(ば)――め]の形を取るのは次のような例である。
①籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岳に 菜摘ます児 家聞かな 告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそ座せ 我こそは〔我許背歯〕 告らめ〔告目〕 家をも名をも(万1)
②…… 高知るや 天の御蔭 天知るや 日の御影の 水こそば〔水許曽婆〕 常にあらめ〔常尓有米〕 御井の清水(万52)
③人こそは〔人社者〕 おほにも言はめ〔意保尓毛言目〕 我がここだ しのふ川原を 標結ふなゆめ(万1252)
④雪こそは〔雪己曽波〕 春日消ゆらめ〔春日消良米〕 心さへ 消え失せたれや 言も通はぬ(万1782)
⑤慨きや 醜霍公鳥 今こそは〔今社者〕 音の干るがに 来喧き響めめ〔来喧響目〕(万1951)
⑥吾こそは〔吾社葉〕 憎くもあらめ〔憎毛有目〕 吾が屋前の 花橘を 見には来じとや(万1990)
⑦高山と 海とこそは〔与海社者〕 山ながら 如此も現しく 海ながら 然真ならめ〔然真有目〕 人は花物そ うつせみ世人(万3332)
⑧奈呉の海人の 釣りする舟は 今こそば〔伊麻許曽婆〕 船枻打ちて あへて漕ぎ出め〔安倍弖許藝泥米〕(万3956)
⑨…… 今こそば〔伊麻許曽婆〕 我鳥にあらめ〔和杼理邇阿良米〕 後は 汝鳥にあらむを 命は な死せたまひそ ……(記3)
⑩…… 汝こそは〔那許曽波〕 男にいませば 打ち廻る 島の崎々 掻き廻る 磯の崎落ちず 若草の 妻持たせらめ〔都麻母多勢良米〕 吾はもよ 女にしあれば 汝を除て 男は無し汝を除て 夫は無し ……(記5)
佐佐木氏は①の万1番歌の訓みを問うて論じられているのであるが、筆者は①について別の観点を有しており、ここでは扱わないことにする。佐佐木氏は当該②について、「清水」はキヨミヅが最も難のない訓であるとしている(佐佐木1999.170頁)。
そして、②⑤⑧の三例は、慫慂・勧誘の意をあらわす用法、それ以外は逆接の意をあらわす用法であるとされている。⑤は、気に入らないホトトギスだが、今こそは声の嗄れるほどに、来て鳴いて声を響かせてほしい、⑧は、奈呉の海人の釣船は、今こそは船べりを叩いてあえて漕ぎ出してほしい、という意である。逆接の用法は、例えば③は、他の人は何でもないことのように言うけれど、私にはとても慕わしい川原なので、入れないように標を結うことなどけっしてしないでください、という意である。
では、どうして同じ[――こそは(ば)――め]の構文なのに二つの意味に解されるのであろうか。⑤も⑧も、「今こそは(ば)」の形であらわれている。すなわち、ふだんのことと「今」のこととを対比させている。同様に、③で「人(他人)」と「我」、④で「雪」と「(雪でない)心」、⑥で「吾」と「(吾が屋前の)花橘」、⑦で「高山と海」と「人」、⑨で「今」と「後」、⑩で「汝」=「男」と「吾」=「女」とを対比させている。
つまり、[Aこそは(ば)――め、B――]と、[A――、Bこそは(ば)――め]の形の違いである。先に出てくるAと後に出てくるBとを対比させ、先行するAを強調したらBは状況が反対になるから逆接に、後行するBを強調したら対比するAはその前提として現状確認となるからBは勧誘的にそうなって欲しいと訴える意になる(注9)。何と何との対比なのかを見極めることが文意の理解に直結する。
当該②においては、これまで誤解があった。②は、[Aこそは(ば)――め、B――]の構文なのである。
荷田春満・萬葉集僻案抄に、最後の句を「御井之清水」(国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200001739/viewer/127参照)と訓んでいたのは卓見であった。
AとBとの対比が、「水(A)こそば常にあらめ」と「御井の清水(B)は(――)」として構成される文なのである。
すなわち、ここは逆接の意と解さなければならない。
水こそはあるだろうが、御井という名にふさわしい清水、浄水は(どうなのか)、と言っている。洗濯に使える風呂の残り湯のような水は湧き出ているが、飲み水に安心して使える水が得られていない、とぼやいているのである。そんな水道事情において助かるのは、洗濯にたずさわる采女ばかりであると「短歌」に皮肉っている。「藤原宮御井」は悪水であると、ワンセットの長歌と短歌で歌っている。長歌に藤原京の景観的構造を何だかんだと大仰に述べ立てていたのは、さぞやすばらしい宮都であろうはずが、「藤井」は「御井」たりえていないと言わんがための辛辣な諷刺表現なのである。「常尓有米」は通訓どおり「常にあらめ」と訓むほうが、ブラックユーモアにかなっている。
「藤原宮御井歌」=寿ぎ歌説は否定された。中国の思想に基づいて作られた東西南北に正方形的な宮都は水問題のために不衛生で非効率、喜んだのは洗濯女だけだとあざけっている。作者が誰だかわからないようになっているのは当然のことであろう。遣唐使派遣によって最新の中国思想や技術に触れたこともあり、新都を築いて遷ろうということになったようである(注10)。
(注)
(注1)「水許曽婆常尓有米」を「水こそば とこしへにあらめ」と訓む説が多いが、佐佐木1999.は、トコシヘニは、「已然形+や/やも」の結合からなる反語表現がうける例が万葉集に2例、日本書紀に1例見られ、万52番歌に反語の意は見出せないから、ツネニと訓むべきであるとする。この点は万52番歌の全体の歌意にかかわる。
(注2)「安礼衝哉」を「生れつくや」と訓む説が多いが、「生れ継ぐや」とする説もある。竹本2010.は、天皇に永続的に仕奉する氏から氏女が貢進されて采女になるから、「生れ継ぐや」と訓むのが良いとしている。水が永遠に湧き出ることや、世代を超えて奉仕し続けることとも響きあってふさわしいのだという。
「衝」字をツグと濁音表記に当てるか疑問である。歌は藤原京に遷都して歌われたものだろう。都は変わるものだという意識は誰もが抱いている。「大宮仕へ生れ継ぐ」とは言えても、「藤原の大宮仕へ生れ継ぐ」とは言いにくくないか。筆者は、後に述べるように、藤原宮時代にたまたま生まれついて采女になった女性は、他の時代に生まれついて采女になった女性とは違ってとてもうらやましい、と言っていると考えている。
(注3)宮殿の御井を讃えることで宮自体や治世までも讃美する歌であるとするのが通説となっている。その根拠として、中国の思想に負うところがあるとする指摘が耳目を集めている。歌中に出てくる吉野山は秦の都、咸陽を守る終南山に見立てられるとする説(中西1995.)、山々を配するのは中国古代の四鎮五獄の思想に基づく発想によるとする説(吉田1986.)である。そのうえで御井の水は天と人の感応によって湧き出した聖水であるとする説(辰巳1997.)があり、これは折衷説である。東西を優位軸としながら南面する都市空間を意識し、外来文化を適宜取り込んでいるとする説(梶川2015.)も同様である。本邦の思想に深く根差すと考えるものとしては、持統天皇と吉野とのかかわりの強さから吉野世界に対する信仰が投影されているとする説(城﨑2004.)、中臣寿詞の「天つ水」神話と関連があるとする説(上野2013.)、祈年祭祝詞の詞章の祭祀的意味を含んでいるとする説(吉村2020.)などがあげられている。いずれも深読みの説である。
(注4)炊事にも水は欠かせないが、必要とする量ははるかに少ない。料理は膳夫が作ったとも考えられ、井戸を掘って水を使う場合、限られた清浄な水は調理に優先され、洗濯は川へ行くように推奨されていたであろう。
山辺の 御井を見がてり 神風の 伊勢処女ども 相見つるかも(万81)
この和銅五年(712)の長田王の歌から、井戸を管理するのは娘たちであったとする見方がある(佐佐木1999.170~171頁)。しかし、習俗としてそう決まっていたとは考えにくい。この歌でさえ、洗濯に来ていたところへ出くわしたものだろう。ふつうに考えられるように、農業用であれば田人が管理し、道路沿いであれば宿駅からの依頼で近隣住民が管理したであろう。
竹本2010.は、軍防令・兵衛条の「凡兵衛者。国司簡下郡司子弟。強幹便二於弓馬一者上。郡別一人貢之。若貢二采女一郡者。不レ在下貢二兵衛一之例上。三二分一国一。二分兵衛。一分采女。」をあげ、「兵衛も采女も地方豪族からの出仕者が主流であった。そして、条文からもうかがえるように、両者の関係は表裏一体なのであり、天皇の地方支配という理念において、五二・五三番歌に共通の要素として捉えられる。地方から出仕してきた御門(御井)を守る兵衛と御井で水仕事をする采女(女官)とが、天皇や王権を讃えるための要素として、申し分のない対比関係をなしている。」(46頁)と説いている。「藤原宮御井歌」の長歌と短歌はどこにつながりがあるのか、管見において初の試みである。水を扱う役職を令制に探ることにも目配せがある。地方豪族の支配と新都とを絡めているところは新鮮に映る。従来の見方からこの説を推し進めるとすれば、宮殿の勝手口に飛び交うお国言葉をもって宮褒めをしたということになるのだろう。
(注5)訓み方も含めて、拙稿 「「春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山」(持統天皇作、万28番歌)考」参照。
(注6)武田1956.は六音でかまわないとし、シミヅと訓んでいる。
(注7)カツラの木については触れられていない。宮地に生えていなかったのだろう。「門前有二一井一。井上有二一湯津杜樹一。」(神代紀第十段本文)。また、これが宮の新設であることに思い致せば、スサノヲが新たに宮を作ってスガスガシと言っていたことも思い起こされる。「然後、行覓二将婚之処一。遂到二出雲之清地一焉。清地、此云二素鵝一。乃言曰、吾心清々之。此今呼二此地一曰レ清。於彼処建レ宮。」(神代紀第八段本文)、「菅生二山辺一。故、曰二菅生一。一云、品太天皇巡行之時、闢二井此岡一。水甚清寒。於レ是勅曰、由二水清寒一、吾意宗々我々志。故曰二宗我富一。」(播磨風土記・揖保郡)。理論上は、「清水」をスガミヅ、ソガミヅ(ソは甲類)と訓む可能性もある。スガ、ソガを展開させたスガスガシ、ソガソガシは、滞りなくすっきりするさまを表わす。スガミヅ、ソガミヅには、井戸水の停留がないことを表わすのに長けているが用例はない。
(注8)「又如聞、京城内外多有二穢臭一。」(続紀・文武天皇・慶雲三年(706)三月)。疫病によって死体が放置されたり汚物が処理されずに環境が劣悪になっていたらしい。水も汚染されたことであろう。伝染病のために、墓掘りや側溝の清掃や浚渫にあたる作業員を含めたエッセンシャルワーカーが不足したことも容易に想像がつく。翌慶雲四年(707)二月には、「詔二諸王臣五位已上一、議二遷都事一也。」とあってすでに議論は始まっていた。次の平城京が唐の長安城を真似して国威発揚の舞台装置として整えられているから、中国の“現代”思想を積極的に取り入れたがっていたことや、既得権益を排除しようとする政策に対する抵抗をかわす狙いがあったとも考えられている。
「壬寅、始定二藤原宮地一。宅入二宮中一百姓一千五百五烟、賜レ布有レ差。」(続紀・文武天皇・慶雲元年(704)十一月)とある記事は、宮中の戸数としては過大で不審に見られている。京内の街区整理に対しての賠償とする説(岸1984.)、藤原京の造営打ち切りが決定されたとする説(吉川2004.)がある。後者は、遣唐使粟田真人の帰還の40日後のことで、寄せられた唐の長安城の情報との大きな懸隔に気づき、都城としての理念的欠陥を痛感して造営を打ち切ったのだとしている。筆者は、前者の説の街区整理の実態として、宮の南東側、飛鳥川の上流側の、「宅の(汚水を)宮中に入るる百姓」を宮の北側や飛鳥川の下流側へ強制移住させたもので、立ち退き料を支払ったということではないかと考える。助数詞「烟」には生活感があり、竈から烟が出るなら生活排水も流すことになる。類似の用例の単位は、「人」(白雉元年十月)、「家」(和銅元年十一月)、「人」「者」(天平十四年正月)、「町」(延暦三年六月)とあるから、「烟」を使った書記官の面目躍如たるところと言える。藤原京が京域も含め、当初から周礼・考工記による設計プランによって造営されていたのかといったことはわからないことである。
遷都の事情とは、理念的なこと、現実的なこと、その他もろもろが複雑に絡みあったものであろう。朱雀大路がメインストリートとしての機能を果たしきれていないことが問題であったと思われているが、それは同時にその側溝の排水が滞ることにつながっている。藤原京の衛生状況の悪化を原因の一つと考えることに何ら不自然なところはない。ゴリラの仲間には、毎日寝場所を変えるのがいるという。人口が集中する都市には衛生問題が浮上するのは必然のことで、藤原京に限ったことではないとする意見がある(仁藤2011.204頁)が、飛鳥宮にはなくて藤原宮に起こった飲み水問題を「藤原宮御井歌」は伝えていると考える。
(注9)「め」(む)について、推量をあらわすとみる注釈と、祈願・希求をあらわすとみる注釈がある。AとBとの対比によるところが大であり、Aの強調に付く「め」は推量の意をもって逆接してBにつづき、Bの強調に付く「め」はAという現状に逆らうことになるから祈願・希求・慫慂・勧誘の意ととるのがふさわしくなる。
(注10)現実の生活問題をごまかすために思想的な領域に転嫁して新しい形式の都城を建設したとも言える。庶民感覚からすれば、鎮護国家という発想も同様のことに映る。記紀万葉から見ればそう透けて見える。万葉集巻第一の「藤原宮」を題詞に掲げる「藤原宮之役民作歌」(万50)(拙稿「 藤原宮の役民の作る歌」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/5640e860bacb9923630d4bda5902a1eb参照)、「従明日香宮遷居藤原宮之後志貴皇子御作歌」(万51)(拙稿「 「采女の 袖吹きかへす 明日香風」歌(志貴皇子)について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/0ef33298de11ab4593b7b7d78d8b7440参照)から連続して、皮肉な表現からなる歌がつづられている。今から思えば不思議な言語感覚の時代であった。
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