「黄葉」についての捉え方
上代の主要文献である万葉集に、モミチ(古く清音であった)を「黄葉」と記すことがきわめて多い。今日、モミジの色づきについて、「紅葉」と記すことが一般的である。どうして古代に「黄葉」の表記が好まれたかについて考える。モミチという語は、秋になって木や草の葉が色づくことを意味するモミツという四段活用の動詞に基づき、その連用形を名詞として使い、モミチという言葉に定まっている。モミチを「黄葉」と記していた理由を述べたこれまでの議論に、古代人と現代人とでは色彩感覚が異なる、ないしは、「黄」がカバーする色彩が現代のそれより漠然としていたからだといった点を論拠に据えるものがある(注1)。
よく知られているように、ヤマトコトバに色彩語としてもともとあったものは、アカ(赤)、クロ(黒)、アヲ(青)、シロ(白)だけであった。色彩に関する形容詞が、「赤し」、「黒し」、「白し」、「青し」に限られていた。言葉の形として遺存し、現代語にイ音を付けただけで表現できる色名はこれら四つに限られている。黄や茶の場合、黄色い、茶色い、と「色い」と付けなければ形容詞化できない。緑や紫の場合、緑色の、紫色の、と「色の」と付けなければならない。この事実から遡って考えられるのは、モミチやモミツに「黄」という漢字を使うことについて、それは単に色調を捉えただけの表記とは考えにくい点である。今日でも、モミジは赤いからと言っても、「紅葉」とは書いても「赤葉」とは書かない。約束事として決まっている。上代においても、「黄葉」などと書いたのは何かしら約束事があったからと考えた方が理に適っている。色彩認識の差が反映して表記されているわけではないということである(注2)。平安時代の用例ではあるが、和名抄に、「丹黍 本草に云はく、丹黍〈音は鼠〉は一名に赤黍、一名に黄黍といふ。〈阿加岐々比〉」とある。アカキキビを漢字で書くのに、和名本草では「丹黍」、「赤黍」、「黄黍」としている、と述べている。黍の色を表現するのに、その色がいろいろだったから色目をとって具体的に記しているのではなく、全体として適当に「丹黍」、「赤黍」、「黄黍」としていたということであろう。同様のことは「赭土」、「赤土」、「黄土」についても言える(注3)。モミチの葉の色とて同じことだから、それを「黄葉」とばかり記していたのは何か約束事があったからで、それがなかったらこれほど絞り込まれてはいないだろう。
その約束事について、「黄葉」は漢籍の用例に倣ったものであるとする主張がある。小島1964.に、モミチ(モミチバ)の用字に、「「黄葉」が殆んどその全部を占めるかは、漢詩類を見れば自ら明かになるものと思はれる。一体、 「もみぢ」に当る「赤葉」「紅葉」の例は六朝より初唐までの詩にも例はあまり多くない。 乱レ霞円緑水、紅葉影飛レ缸(梁簡文帝、秋晚) 黄花発二岸草一、赤葉翻二高樹一(梁何遜、答二丘長史一) 桂密巌花白、梨疎林葉紅(唐王勃、冬郊行望) など、乏しい例のひとつであるが、大部分はやはり「黄葉」である。この一般に通行する中国の例がそのまま万葉集にも採用されたのではなからうか。」(806頁、漢字の旧字体は改めた)とある。六朝以来の通行文字「黄葉」が本邦にも導入されたとする説であり、今日でも有力視されている。ただ、六朝から初唐の漢詩に「黄葉」とする例としては、「仲秋黄葉下 長風正騒レ屑」(梁・何遜、日夕望レ江贈二魚司馬一)、「秋樹翻二黄葉一 寒池墮二黒蓮一」(梁・庾肩吾、侍レ宴)と見られはするものの、絶対数として一般に通行していたと言えるほど多いのか不明である(注4)。「黄葉」と書いた約束事は別に求める必要がある。
「黄」字について
本邦の上代文献における「黄」字の使用の実態について確認しておこう。
古事記の表記に「黄」字は限られている。全12例中11例が「黄泉」(注5)関連、1例が「蒲黄」である。「黄泉」はよみ方としてヨミ(ノ)、ヨモ(ツ)と言っており、「黄泉国」(記上)、「黄泉戸喫」(記上)、「黄泉神」(記上)、「黄泉軍」(記上)、「黄泉比良坂」(記上)、「黄泉津大神」(記上)、「黄泉坂」(記上)、「黄泉戸大神」(記上)、「蒲黄」(記上)とある。日本書紀の表記でも「黄」字は全部で20例と限られている。「黄泉」(神代紀第五段一書第六・孝徳紀大化五年三月)、「黄牛」(垂仁紀三年是歳)、「黄金」(宣化紀元年五月・推古紀十三年四月)、「黄書画師」(推古紀十二年九月)、「黄巻」(皇極紀三年正月)、「黄地」(皇極紀四年四月)、「黄帝」(孝徳紀大化二年二月)、「黄耈」(孝徳紀白雉元年正月)、「上黄下玄」(天智紀九年六月)、「黄書造」(天智紀十年三月・天武紀元年六月・同十二年九月)、「黄書連」(持統紀元年八月・同八年三月)、「黄色衣」(持統紀七年正月)とあり、ほかに外国人の人名に用いられた例もある。「黄牛」は飴色をした牛の称、「黄書」は写経などに荼毘紙のような黄色っぽく染められていた紙が用いられたことによるとされる。
ところが、万葉集では様相が一変し、「黄」字は98例を数える。「黄葉」が70例と圧倒的に多く、これにはモミチ(バ)と動詞モミツとがあり、動詞モミツは「黄変」として6例、「黄反」として1例ある。モミチ関連以外の「黄」字利用としては、「黄楊」が6例、「黄土」が3例、同じくハニの当て字が1例、「黄泉」が2例、「黄色」が2例、「玄黄」が1例、「黄染」が1例ある(注6)。とても高い確率で、「黄」という字はモミチ、モミツに用いられている。そしてまた、モミチ、モミツという語はとても高い確率で「黄」という字が用いられている。名詞モミチやその派生形モミチバ、モミチバノなどでは「黄葉」が66例、対して「紅葉」は1例、「赤葉」が1例に過ぎず、仮名書きが12例ある。動詞モミツやその派生形に「黄」を使った「黄色」、「黄葉」、「黄変」、「黄反」、「黄始」などが15例、「赤」は2例、仮名書きは6例である。万葉集において、モミチ、モミツを表記するのに、「黄(葉)」が特殊的に常套化されていると見て取ることができる。
モミツ、モミチとその派生形の言葉は、葉が色づくことをそのまま担保した意味を表している。その色を「黄」と見たからだと安易に考えてはならないのは、「紅葉」、「赤葉」、「赤」といった例外があることからもわかる。人によって黄と見た人と紅や赤と見た人がいたということではない。色彩に当てる漢字が統一的に決められていたわけではない時代である。今日でも、あかい色のものをあかいとする場合でも、赤い、紅い、朱い、緋いなどと書くことは教育現場を離れれば勝手であり、専門的な著述以外では、色彩語辞典の見本帳に従って記さなければならないものでもない。黄と赤(紅)とは今日では違う色だと幼少期にクレヨンや絵の具のラベルによって刷り込まれ、その結果違和感を覚え、万葉集の用字に疑問を抱くことに拍車がかかっている。色彩の感覚が今日と異なるかもしれない点、色彩を表す言葉、また、漢字が今日の用法とは異なるかもしれない点、そもそも「黄」という漢字が色彩を表すものだったのかという点など、我々の認識的誤謬を正さなければならないところは多いようである。
万葉集の用字から見えてくるもの
モミツ、モミチという葉が色づくことを表す語群にあって、その色彩に捕らわれないところへ展開した語として枕詞「もみちばの」がある。色づいた葉が散ってゆくことを人の死に例えていて、「過ぐ」にかかるとされている。常套的に修辞表現となっているから、色づいた葉が何色であったかは言葉の表現において背景に隠れてかまわないところである。だが、万葉集では安定的に「黄」字が選ばれている。
…… 照る月の 雲隠る如 沖つ藻の 靡きし妹は もみちばの〔黄葉乃〕 過ぎて去にきと …… (万207)
松の葉に 月は移りぬ もみちばの〔黄葉乃〕 過ぐれや君が 逢はぬ夜の多き(万623)
もみちばの〔黄葉之〕 過ぎにし子らと 携はり 遊びし礒を 見れば悲しも(万1796)
もみちばの〔黄葉之〕 過ぎかてぬ児を 人妻と 見つつやあらむ 恋しきものを(万2297)
…… 大船の 思ひたのみて 何時しかと 吾が待ち居れば もみちばの〔黄葉之〕 過ぎてい行きと ……(万3344)
ま草刈る 荒野にはあれど もみちばの〔葉〕 過ぎにし君が 形見とぞ来し(万47)
最後の例は人麻呂の略体歌と称される、表記を簡略化した書きぶりのものである(注7)。
人の死に例えるのに「黄」字を用いてふさわしいのは、ひょっとして「黄泉」の意に通じるからであると言えるのではないかと思えてくる。仮にそう思われていたとすると、他のモミチ、モミツについても、葉の散る前の老化したところを示すものとして、「黄」字は用いてふさわしいと感じられたと推量できる。
そこで他の例について検証してみる。
動詞のモミツとその展開形において、何がモミツことになっているかを見ると、「山」(万1551・2192・2200・4145)、「春日山」(万1513)、「春日の山」(万2195)、「龍田山」(万2211)、「龍田の山」(2194)、「浅茅山」(万3697)、「木」(万4161)、「妻梨の木」(万2189)、「木の葉」(万1516)、「秋山の木の葉」(万2232)、「秋の葉」(万4187)、「萩の下葉」(万1575・1628・4296)、「秋萩の下葉」(万2205)、「草」(万4268)、「丹の穂」(万3266)、「かへるで」(万1623)、「若かへるで」(万3494)、「山さな葛」(万2296)とさまざまである。
木や葉がモミツしてやがて散ってゆくことは、枕詞「もみちばの」同様、黄泉との間に連想が働くから「黄」字との親近性は理解されよう。一方、山と黄泉との関係も、山に山陵、古墳の意があり、そこから連想が働いて「黄」字を使いたくなる意識が芽生えたのではないか。
モミツことになる樹種で万葉集中いちばん多いのは萩である。用例は四例とも「萩の葉」ではなく「萩の下葉」となっている。萩の葉が下の方から色づくことを注視したのではなく、万葉集らしさによると考える。上代の人に特有の表現が行われているのである。写生をしているのではなく、言葉が言葉を呼ぶ表現方法である。すなわち、ハギ(萩、キは乙類)とは、ハ(葉)ばかりでできているキ(ギ)(木、キは乙類)なのであると上代の人はおもしろがり、それを言葉において印象づけるために「萩の下葉」と言っている。それが秋山においてキ乙類の黄に色づいていると都合がいい。その意の動詞にシタフという言葉がある。
秋山の したへる妹〔下部留妹〕 なよ竹の とをよる子らは ……(万217)
秋山の したひが下に〔舌日下〕 鳴く鳥の 声だに聞かば 何か嘆かむ(万2239)
…… まそ鏡 直目に見ねば したひ山〔下桧山〕 下ゆく水の 上に出でず ……(万1792)
秋山之下氷壮士(応神記)
秋に葉が色づくことをシタフというのだから、シタハ(下葉)という音はそのシタフの未然形となっていて、そのままでは語義矛盾が起こってしまう。だからシタハ(下葉)からシタフことになると言っている。動詞の活用変化に準えて萩の葉の色づきが語られている。
上代の人はそうしようと目論んだ。言葉にとても敏感で、誤謬や矛盾が起こることを嫌ったからである。言葉と事柄とを極力相即にしようとして世界の秩序を保とうとしていた人々にとって、発した言葉が矛盾を起したまま放っておくことは由々しき問題だと考えたであろう。秋の訪れによって葉の色が変化することは、ハギ(萩)の根もと近くの葉の色づきに見て取ったわけではなく、自然観察にハギ(萩)を気に掛けていたのでもなくて、言葉に並々ならぬ興味をおぼえ、言葉にばかり意識が行って歌が歌われたためであった。
慕ひて黄泉へ行く
そのような思考の傾向から考えると、モミツこと、シタフことと「黄」とは意味的に関係があるから、モミチ、モミチバを「黄葉」と記そうと考えたのであろうと推論される。シタフという語の同音にシタフ(慕)という語がある。シタ(下)オフ(追)の約かとされている。人に隠した心のなかで、ある人、ある物を追う意である。愛着をもってあとを追うことをする。
…… つれもなき 佐保の山辺に 泣く児なす 慕ひ来まして〔慕来座而〕 布細の 宅をも造り ……(万460)
大君の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国に 泣く子なす 慕ひ来まして〔斯多比枳摩斯提〕 息だにも いまだ休めず ……(万794)
愛しきよし かくのみからに 慕ひ来し〔之多比己之〕 妹が情の 術もすべなさ(万796)
…… 白栲の 袖泣き濡らし 携はり 別れかてにと 引き留め 慕ひしものを〔之多比之毛能乎〕 天皇の 命畏み ……(万4408)
恋山 郡家の正南二十三里なり。古老の伝へて云はく、和爾、阿伊村に坐す神、玉日女命を恋ひて上り到りき。爾の時に玉日女命、石を以て川を塞へましければ、え会わずして恋へりき。故、恋山と云ふ。(出雲風土記・仁多郡)
慕 音暮、ネガフ、コヒネカフ、シタフ、シノフ、コノム、和ボ(名義抄)
Xitai,ǒ,ǒta.シタイ,ゥ,ゥタ(慕ひ,ふ,うた) 後を追って行く,または,倣う. ¶ Voya couo xitǒ.(親子を慕ふ)親がその子いとしさのために,後を追って探しに行く.(日葡辞書781頁)
これと同じようにあとを追った事績に、言い伝えで有名な話がある。イザナキがイザナミのあとを追って黄泉国を訪問している。
是に、其の妹伊耶那美命を相見むと欲ひて、黄泉国に追ひ往きき。(記上)
然して後、伊弉諾尊、伊弉冉尊を追ひて、黄泉に入りて、及きて共に語る。(神代紀第五段一書第六)
若ければ 道行き知らじ 幣はせむ 下方の使〔之多敝乃使〕 負ひて通らせ(万905)
黄泉国の位置については、それがこの世から見てどの方向に当たるかという議論が行われているが、黄泉のもう一つの義である地中の泉との関連性からすれば、下の方にあると思われて不思議ではない。万905番歌に死後世界のことをシタヘと呼んでいる。すなわち、シタ(下)オフ(追)ことをして「慕ふ」ことになっていると思われる。
このように、秋になって山の木の葉が色づくこと、シタフことになることは、言葉(音)として黄泉国とつながりのあるものとなっている。説文に「黄 地の色なり」とある点からも、地中の泉が黄泉であることは納得され、Leaves turn red and yellow in autumn. について「黄」字を用いると、ヤマトコトバの体系性を最も正しく表すことになる。そこで用字に「黄」が好まれて使われ、定着化していたと考えられる。
黄泉がへる
今日、紅葉の代表とされるカエデは、「かへるで」と呼ばれて万葉集に二首ある。
吾が屋戸に もみつかへるで〔黄変蝦手〕 見るごとに 妹を懸けつつ 恋ひぬ日はなし(万1623)
子持山 若かへるでの もみつまで〔和可加敝流弖能 毛美都麻弖〕 寝もと吾は思ふ 汝は何どか思ふ(万3494)
「もみつかへるで」とは色づいたカエデのことを言っている。和名抄に、「鶏冠木 楊氏漢語抄に鶏冠木〈賀倍天乃岐、弁色立成に鶏頭樹を加比流提乃岐と云ふ。今案ふるに是れ一に木の名なり〉と云ふ。」とある。カヘデという語はカヘル(蛙)の手のような形をしているからそう名づけられていると認められている。名詞のモミチは色づいた葉の総称であり、万葉時代には、今日の紅葉の代表格、イロハカエデに限ったものではない。それでも、モミツカヘルデはカエデの色づきを言っていることに違いなく、カヘルと「黄」字との間の親近性に気づかされる。「黄」字は「黄泉」に用いられており、蘇生することを黄泉から帰る、ヨミガヘル(蘇、甦)と言っている。つまり、モミチが樹種にカヘデであるならば、色変化するのに「黄」字を当てて表現したいと上代の人の観念に認められたことが偲ばれるのである。
このように、「黄」は、万葉集に「黄葉」、また、「黄変」といった表記に優先されていた。「黄」=yellow なる定性的な色彩感覚は根づいておらず、後付けで色の名となったものと言える(注8)。
時代別国語大辞典に、「き[黄](名)黄色。いまいう黄色よりも、もっと漠然としたもので、赤とある程度重なる面があったらしい。単独例はない。甲乙不明。「黄染表紙五枚」(古文書一一、天平勝宝二年)「蘖木、一名黄木、岐波多」(本草和名)「黄疽一云黄病、岐波无夜万比・黄瓜岐宇利」(和名抄) 「〓[角偏に王]・〓[黃偏に王]キナリ・黄草キナリ、キバメリ」(名義抄)【考】「黄」は上代文献に多く用いられ、黄葉・黄土などがあるが、それぞれ赤葉・赤土などと差なく用いられており、黄色を独自の色として把握した証拠とはならない。したがって黄なる語の存在は疑わしい面を残す。……」(237頁)とある。「黄」を色であると第一義的に捉えることは適当ではないものの、なにほどかニュアンスは伝わってくる。「黄」がなぜヤマトコトバにキというのか、その説明はいわゆる和訓を理解しなければならないが、これまでこれといった説明はない。糸口の一つとしてキバムといった語から手繰ると、変化して成り果てた色のことを表すために、キなる新語は造られて使われ始めたのではないかと思われる(注9)。
説文に、「黄 地の色なり。田に从ひ炗に从ふ。炗は亦、声。炗は古文に光。凡そ黄の属は皆、黄に从ふ」とある。黄という字は、地の色でありつつ田んぼの光であるとの解説である。これが魅力的なのは、カエル(カヘル)の卵は田んぼのなかで土気色し、粒々になって光っているからである。そしてすぐに孵ってオタマジャクシとなり、さらに変化して足が出てきてカエル(カヘル)(注10)に帰るのである。そんなふうにどんどん変化するものを植物の葉に求めれば、カヘルの手のような形をしているカヘデの葉が連想される。今日、紅葉と見て取っている色変化を、ヤマトコトバに「紅」とするのは一般的ではなかったであろう(注11)。「赤」は夜明け、日の明かりのことに結びついて考えられているから当を得ているとはいえず、color として必ずしも捉えられてはいない「黄」という字を用い、「黄泉」とのつながりを感じさせて表すのがふさわしいと考えられたのでそうしていたようである。
以上、万葉集の用字「黄葉」は、漢籍表記を踏襲したものではなく、「黄泉」の意との通底を基に、ヤマトコトバ的な理解を経由して行われていたものであったことを述べた。
(注)
(注1)岩波古語辞典は、「古代の日本人は、黄色を独立した色彩としては区別せずに、赤の範囲に含めて把握していた。色名としての「黄(き)」が確立するのは平安時代に入ってからのことらしい。」(357頁)、『万葉語誌』は、「黄葉」と表記する「理由は、盛唐頃までの漢籍の影響を受けたためとされるが、大和地方では、実際に赤い葉よりも黄色い葉に親しむ機会が多かったためとも言われる。上代の黄葉は、現代のように楓の葉のみを指すわけではなく、萩などの他の樹木全般に対してもいう。『万葉集』には、山全体が色づく様を歌う例も見られる。」(380頁、この項、高桑枝実子)とし、佐佐木2021.は、「興味深いのは、動詞の「もみつ」にしても連用形名詞の「もみち」にしても、多くの例が「黄」の字を含んでおり、「紅」「赤」などの字を含む例が極めて少ない、という事実です。しかし、現代では「紅葉」と書くのが普通であるように、我々は「もみじ」という語からは赤い色を連想しがちです。ですから、上代では「もみつ」「もみち」に「黄」が用いられたというのは、意外な感じがします。ただし、それは上代人と現代人との認識の違いを反映するものだ、としか言いようがないことです。」(73~74頁)としている。
(注2)色についての捉え方に、色の三属性、色相、彩度、明度から科学的に理解しようとする向きがある。いま俎上にあげている「黄葉」という表記の問題は、その枠組みでは解決しない。
(注3)上村1979.173頁参照。
(注4)万葉集の表記「黄葉」は上代の人がそれを用字としたのであるから、上代の人の捉え方を探る必要がある。中国の人の捉え方は本来的には関係がない。影響があったとされれば排除することはできないから検討するのであるが、静永2010.が指摘する「中国の詩文において「もみぢ」はやはり「黄色」と認識・表記されていた。」(128頁)とする確証として、「季秋之月、……草木黄落」(礼記・月令)、「秋風起兮白雲飛、草木黄落兮鴈南帰」(漢武帝・秋風辞)といった例をあげているが役に立たない。「黄落」とあるばかりで「黄葉」とはなっていない。上代に清音の「もみち」に派生したもとの動詞「もみつ」にも、「黄落」とした用字例は万葉集に見られない。一例もないとなると、漢籍の表記を踏襲したことの証拠とはならない。
(注5)「黄泉」という漢語には、大別して、①地下の泉、②死者のゆくところ、の二義がある。それぞれの例を示せば、「夫れ蚓は、上は槁壌を食ひ、下は黄泉を飲む。(夫蚓、上食槁壌、下飲黄泉。)」(孟子・滕文公下)、「而して之れに誓ひて曰く、「黄泉に及ばずむは、相見ること無けむ」といふ。(而誓之曰、不及黄泉、無相見也。)」(春秋左氏伝・隠公元年)がある。本邦では②の意が優勢で記紀に採用されているが、①の例も見られる。和名抄にはそれぞれの例がある。「枸𣏌 本草に云はく、枸𣏌、根の下は黄泉に潤ひ、其の精霊は多く犬子と為り、或に小児と為るといふ〈枸𣏌の二音、苟起は沼美久須利、此の間に音は久古〉。抱朴子に云はく、枸𣏌は一名に杔櫨〈託盧の二音〉、一名に却老といふ。」、「醜女 日本紀私記に云はく、醜女〈志古米〉は或説に黄泉の鬼なりといふ。今、世の人、恐みて小児の称〈許々女〉と為るは此の語の訛れるなり。」。
(注6)原文に「黄染」とあるのを佐竹昭広氏の説により「黄柒」と訓むとされることが多い。万3888番歌の理解を惑わす曲解である。「黄牛」から「黄染」と訓まれるべきところである。拙稿「怕物歌三首」参照。
(注7)稲岡1972.に、柿本人麻呂によって「黄葉の 過ぎ」の詞句が創られ、挽歌表現や惜別表現に巧みに用いられているとする主張がある。自然現象として秋の木の葉の色づいては散ってゆくことを詠みこんで別れの悲哀を歌っていると進められている。また、山田1932.(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1214385/116)に、スギニシがイノチスギニシの意であると説かれている。しかし、枕詞「もみちばの」がスギ(スグ)にかかる理由は深く検討されていない。筆者は、モミツとほとんど同義の言葉のシタフとの関連を考えている。行論のなかで、同音のシタフ(慕)は、イザナミを追って黄泉国へ赴いたイザナキのことを暗示しているとした。イザナミはどうして死んでしまったのか。「みほとを炙かえて病み臥して在り。……火の神を生みしに因りて、遂に神避り坐しき。」(記上)とある。これは火鑽りによって、火鑽り臼自体に火が回って焼けてしまったことを言っているものと受け取れる。発掘される火鑽り板でもっとも多いのは杉材である。古代体験マニュアル2002.ほか参照。火鑽り杵を回転させるには舞鑽法がよく知られるが、はずみ車を伴わない揉鑽法も行われた。手で錐をひたすら揉むのである。枕詞モミチバノがスギにかかる理由の一端はここにあるのだろう。枕詞とは意味が分厚くありすぎて訳せなくなってしまった言葉である。
火起こし(きりもみ法)(イラストの里https://poromi-free.net様https://poromi-free.net/life/all/08-02-191119-fire1/を一部改変)
(注8)佐竹2000.に、「黄色という色彩表象が概念として未だ確立して居らず、そっくり赤色の方に包含されていた上代の状況では、黄色を言い表わさんとする衝動は無いに等しかったであろうから、それから推して古代に「黄」の色名は存在しなくて済んでいたことは想像される。」(94頁)とある。
(注9)「黄」は漢語にクワウ、ワウなどとされているのを、ヤマトの人はキと和訓した。「金〔久我祢〕」(万4094)=黄金という用例から、母音交替の法則(有坂秀世)からキ(黄)は乙類ではないかと推測されている。佐竹2000.参照。キ乙類は「木」や「城」と同じである。奥つ城は墓所のことである。それを黄泉と考えたか必ずしも定かではないが、死後世界と「黄」とが関連しそうなことは、「黄書」が写経用紙であるなど、当初から葬式仏教としてあった仏教に通底している。説文に「黄 地の色なり」とあり、千字文にも「天地玄黄」とある。五行説を超えて解釈が進み、命がついえると地に帰るものとして認められていたであろうから、整合性のとれた考え方であったと言える。
(注10)応神紀に、吉野の国樔人のルポルタージュに、「毎に山の菓を取りて食ふ。亦、蝦蟆を煮て上味とす。名けて毛瀰と曰ふ。」(応神紀十九年十月)とある。今いうアカガエル、また、その煮たものの称という。カヘルとモミとが関連語として構成されている。モミチを含めて言語体系をなしているようである。ほかに、ムササビの別名もモミである。皮膜を広げて滑空するとき、モミチバのように見て取ったのであろうか。漢土には、蘇生することをヨミガヘルと言って黄泉からの帰還と捉える見方や、frog と maple とを関連語とする向きはない。
(注11)小島1964.に、「「紅葉」の例は、盛唐頃より次第に多く用ゐられるやうになるが(盛唐開元の人、陰行先の一例、和二張燕公湘中九日登レ高「山棠紅葉下、岸菊紫花開」)、その例の多い「白氏文集」伝来以後のわが平安朝の漢詩文集に、「黄葉」にかはって、「紅葉」が次第に増加する……。この白詩の影響を受けた平安朝中期以降の詩文を集めた「本朝文粋」その他の詩集類も、「黄葉」に代つて「紅葉」が勢力を占める……。」(807頁)という指摘どおり、白氏文集の影響で「紅葉」と記すようになっていったものと考える。
(引用・参考文献)
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日葡辞書 土井忠夫・森田武・長南実編訳『邦訳 日葡辞書』岩波書店、1980年。
『万葉語誌』 多田一臣編『万葉語誌』筑摩書房、2014年。
山田1932. 山田孝雄『萬葉集講義 巻第一』宝文館、昭和7年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1214385
※本稿は、2022年2月稿を、2024年8月にルビ形式にし、若干の誤りを正したものである。
上代の主要文献である万葉集に、モミチ(古く清音であった)を「黄葉」と記すことがきわめて多い。今日、モミジの色づきについて、「紅葉」と記すことが一般的である。どうして古代に「黄葉」の表記が好まれたかについて考える。モミチという語は、秋になって木や草の葉が色づくことを意味するモミツという四段活用の動詞に基づき、その連用形を名詞として使い、モミチという言葉に定まっている。モミチを「黄葉」と記していた理由を述べたこれまでの議論に、古代人と現代人とでは色彩感覚が異なる、ないしは、「黄」がカバーする色彩が現代のそれより漠然としていたからだといった点を論拠に据えるものがある(注1)。
よく知られているように、ヤマトコトバに色彩語としてもともとあったものは、アカ(赤)、クロ(黒)、アヲ(青)、シロ(白)だけであった。色彩に関する形容詞が、「赤し」、「黒し」、「白し」、「青し」に限られていた。言葉の形として遺存し、現代語にイ音を付けただけで表現できる色名はこれら四つに限られている。黄や茶の場合、黄色い、茶色い、と「色い」と付けなければ形容詞化できない。緑や紫の場合、緑色の、紫色の、と「色の」と付けなければならない。この事実から遡って考えられるのは、モミチやモミツに「黄」という漢字を使うことについて、それは単に色調を捉えただけの表記とは考えにくい点である。今日でも、モミジは赤いからと言っても、「紅葉」とは書いても「赤葉」とは書かない。約束事として決まっている。上代においても、「黄葉」などと書いたのは何かしら約束事があったからと考えた方が理に適っている。色彩認識の差が反映して表記されているわけではないということである(注2)。平安時代の用例ではあるが、和名抄に、「丹黍 本草に云はく、丹黍〈音は鼠〉は一名に赤黍、一名に黄黍といふ。〈阿加岐々比〉」とある。アカキキビを漢字で書くのに、和名本草では「丹黍」、「赤黍」、「黄黍」としている、と述べている。黍の色を表現するのに、その色がいろいろだったから色目をとって具体的に記しているのではなく、全体として適当に「丹黍」、「赤黍」、「黄黍」としていたということであろう。同様のことは「赭土」、「赤土」、「黄土」についても言える(注3)。モミチの葉の色とて同じことだから、それを「黄葉」とばかり記していたのは何か約束事があったからで、それがなかったらこれほど絞り込まれてはいないだろう。
その約束事について、「黄葉」は漢籍の用例に倣ったものであるとする主張がある。小島1964.に、モミチ(モミチバ)の用字に、「「黄葉」が殆んどその全部を占めるかは、漢詩類を見れば自ら明かになるものと思はれる。一体、 「もみぢ」に当る「赤葉」「紅葉」の例は六朝より初唐までの詩にも例はあまり多くない。 乱レ霞円緑水、紅葉影飛レ缸(梁簡文帝、秋晚) 黄花発二岸草一、赤葉翻二高樹一(梁何遜、答二丘長史一) 桂密巌花白、梨疎林葉紅(唐王勃、冬郊行望) など、乏しい例のひとつであるが、大部分はやはり「黄葉」である。この一般に通行する中国の例がそのまま万葉集にも採用されたのではなからうか。」(806頁、漢字の旧字体は改めた)とある。六朝以来の通行文字「黄葉」が本邦にも導入されたとする説であり、今日でも有力視されている。ただ、六朝から初唐の漢詩に「黄葉」とする例としては、「仲秋黄葉下 長風正騒レ屑」(梁・何遜、日夕望レ江贈二魚司馬一)、「秋樹翻二黄葉一 寒池墮二黒蓮一」(梁・庾肩吾、侍レ宴)と見られはするものの、絶対数として一般に通行していたと言えるほど多いのか不明である(注4)。「黄葉」と書いた約束事は別に求める必要がある。
「黄」字について
本邦の上代文献における「黄」字の使用の実態について確認しておこう。
古事記の表記に「黄」字は限られている。全12例中11例が「黄泉」(注5)関連、1例が「蒲黄」である。「黄泉」はよみ方としてヨミ(ノ)、ヨモ(ツ)と言っており、「黄泉国」(記上)、「黄泉戸喫」(記上)、「黄泉神」(記上)、「黄泉軍」(記上)、「黄泉比良坂」(記上)、「黄泉津大神」(記上)、「黄泉坂」(記上)、「黄泉戸大神」(記上)、「蒲黄」(記上)とある。日本書紀の表記でも「黄」字は全部で20例と限られている。「黄泉」(神代紀第五段一書第六・孝徳紀大化五年三月)、「黄牛」(垂仁紀三年是歳)、「黄金」(宣化紀元年五月・推古紀十三年四月)、「黄書画師」(推古紀十二年九月)、「黄巻」(皇極紀三年正月)、「黄地」(皇極紀四年四月)、「黄帝」(孝徳紀大化二年二月)、「黄耈」(孝徳紀白雉元年正月)、「上黄下玄」(天智紀九年六月)、「黄書造」(天智紀十年三月・天武紀元年六月・同十二年九月)、「黄書連」(持統紀元年八月・同八年三月)、「黄色衣」(持統紀七年正月)とあり、ほかに外国人の人名に用いられた例もある。「黄牛」は飴色をした牛の称、「黄書」は写経などに荼毘紙のような黄色っぽく染められていた紙が用いられたことによるとされる。
ところが、万葉集では様相が一変し、「黄」字は98例を数える。「黄葉」が70例と圧倒的に多く、これにはモミチ(バ)と動詞モミツとがあり、動詞モミツは「黄変」として6例、「黄反」として1例ある。モミチ関連以外の「黄」字利用としては、「黄楊」が6例、「黄土」が3例、同じくハニの当て字が1例、「黄泉」が2例、「黄色」が2例、「玄黄」が1例、「黄染」が1例ある(注6)。とても高い確率で、「黄」という字はモミチ、モミツに用いられている。そしてまた、モミチ、モミツという語はとても高い確率で「黄」という字が用いられている。名詞モミチやその派生形モミチバ、モミチバノなどでは「黄葉」が66例、対して「紅葉」は1例、「赤葉」が1例に過ぎず、仮名書きが12例ある。動詞モミツやその派生形に「黄」を使った「黄色」、「黄葉」、「黄変」、「黄反」、「黄始」などが15例、「赤」は2例、仮名書きは6例である。万葉集において、モミチ、モミツを表記するのに、「黄(葉)」が特殊的に常套化されていると見て取ることができる。
モミツ、モミチとその派生形の言葉は、葉が色づくことをそのまま担保した意味を表している。その色を「黄」と見たからだと安易に考えてはならないのは、「紅葉」、「赤葉」、「赤」といった例外があることからもわかる。人によって黄と見た人と紅や赤と見た人がいたということではない。色彩に当てる漢字が統一的に決められていたわけではない時代である。今日でも、あかい色のものをあかいとする場合でも、赤い、紅い、朱い、緋いなどと書くことは教育現場を離れれば勝手であり、専門的な著述以外では、色彩語辞典の見本帳に従って記さなければならないものでもない。黄と赤(紅)とは今日では違う色だと幼少期にクレヨンや絵の具のラベルによって刷り込まれ、その結果違和感を覚え、万葉集の用字に疑問を抱くことに拍車がかかっている。色彩の感覚が今日と異なるかもしれない点、色彩を表す言葉、また、漢字が今日の用法とは異なるかもしれない点、そもそも「黄」という漢字が色彩を表すものだったのかという点など、我々の認識的誤謬を正さなければならないところは多いようである。
万葉集の用字から見えてくるもの
モミツ、モミチという葉が色づくことを表す語群にあって、その色彩に捕らわれないところへ展開した語として枕詞「もみちばの」がある。色づいた葉が散ってゆくことを人の死に例えていて、「過ぐ」にかかるとされている。常套的に修辞表現となっているから、色づいた葉が何色であったかは言葉の表現において背景に隠れてかまわないところである。だが、万葉集では安定的に「黄」字が選ばれている。
…… 照る月の 雲隠る如 沖つ藻の 靡きし妹は もみちばの〔黄葉乃〕 過ぎて去にきと …… (万207)
松の葉に 月は移りぬ もみちばの〔黄葉乃〕 過ぐれや君が 逢はぬ夜の多き(万623)
もみちばの〔黄葉之〕 過ぎにし子らと 携はり 遊びし礒を 見れば悲しも(万1796)
もみちばの〔黄葉之〕 過ぎかてぬ児を 人妻と 見つつやあらむ 恋しきものを(万2297)
…… 大船の 思ひたのみて 何時しかと 吾が待ち居れば もみちばの〔黄葉之〕 過ぎてい行きと ……(万3344)
ま草刈る 荒野にはあれど もみちばの〔葉〕 過ぎにし君が 形見とぞ来し(万47)
最後の例は人麻呂の略体歌と称される、表記を簡略化した書きぶりのものである(注7)。
人の死に例えるのに「黄」字を用いてふさわしいのは、ひょっとして「黄泉」の意に通じるからであると言えるのではないかと思えてくる。仮にそう思われていたとすると、他のモミチ、モミツについても、葉の散る前の老化したところを示すものとして、「黄」字は用いてふさわしいと感じられたと推量できる。
そこで他の例について検証してみる。
動詞のモミツとその展開形において、何がモミツことになっているかを見ると、「山」(万1551・2192・2200・4145)、「春日山」(万1513)、「春日の山」(万2195)、「龍田山」(万2211)、「龍田の山」(2194)、「浅茅山」(万3697)、「木」(万4161)、「妻梨の木」(万2189)、「木の葉」(万1516)、「秋山の木の葉」(万2232)、「秋の葉」(万4187)、「萩の下葉」(万1575・1628・4296)、「秋萩の下葉」(万2205)、「草」(万4268)、「丹の穂」(万3266)、「かへるで」(万1623)、「若かへるで」(万3494)、「山さな葛」(万2296)とさまざまである。
木や葉がモミツしてやがて散ってゆくことは、枕詞「もみちばの」同様、黄泉との間に連想が働くから「黄」字との親近性は理解されよう。一方、山と黄泉との関係も、山に山陵、古墳の意があり、そこから連想が働いて「黄」字を使いたくなる意識が芽生えたのではないか。
モミツことになる樹種で万葉集中いちばん多いのは萩である。用例は四例とも「萩の葉」ではなく「萩の下葉」となっている。萩の葉が下の方から色づくことを注視したのではなく、万葉集らしさによると考える。上代の人に特有の表現が行われているのである。写生をしているのではなく、言葉が言葉を呼ぶ表現方法である。すなわち、ハギ(萩、キは乙類)とは、ハ(葉)ばかりでできているキ(ギ)(木、キは乙類)なのであると上代の人はおもしろがり、それを言葉において印象づけるために「萩の下葉」と言っている。それが秋山においてキ乙類の黄に色づいていると都合がいい。その意の動詞にシタフという言葉がある。
秋山の したへる妹〔下部留妹〕 なよ竹の とをよる子らは ……(万217)
秋山の したひが下に〔舌日下〕 鳴く鳥の 声だに聞かば 何か嘆かむ(万2239)
…… まそ鏡 直目に見ねば したひ山〔下桧山〕 下ゆく水の 上に出でず ……(万1792)
秋山之下氷壮士(応神記)
秋に葉が色づくことをシタフというのだから、シタハ(下葉)という音はそのシタフの未然形となっていて、そのままでは語義矛盾が起こってしまう。だからシタハ(下葉)からシタフことになると言っている。動詞の活用変化に準えて萩の葉の色づきが語られている。
上代の人はそうしようと目論んだ。言葉にとても敏感で、誤謬や矛盾が起こることを嫌ったからである。言葉と事柄とを極力相即にしようとして世界の秩序を保とうとしていた人々にとって、発した言葉が矛盾を起したまま放っておくことは由々しき問題だと考えたであろう。秋の訪れによって葉の色が変化することは、ハギ(萩)の根もと近くの葉の色づきに見て取ったわけではなく、自然観察にハギ(萩)を気に掛けていたのでもなくて、言葉に並々ならぬ興味をおぼえ、言葉にばかり意識が行って歌が歌われたためであった。
慕ひて黄泉へ行く
そのような思考の傾向から考えると、モミツこと、シタフことと「黄」とは意味的に関係があるから、モミチ、モミチバを「黄葉」と記そうと考えたのであろうと推論される。シタフという語の同音にシタフ(慕)という語がある。シタ(下)オフ(追)の約かとされている。人に隠した心のなかで、ある人、ある物を追う意である。愛着をもってあとを追うことをする。
…… つれもなき 佐保の山辺に 泣く児なす 慕ひ来まして〔慕来座而〕 布細の 宅をも造り ……(万460)
大君の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国に 泣く子なす 慕ひ来まして〔斯多比枳摩斯提〕 息だにも いまだ休めず ……(万794)
愛しきよし かくのみからに 慕ひ来し〔之多比己之〕 妹が情の 術もすべなさ(万796)
…… 白栲の 袖泣き濡らし 携はり 別れかてにと 引き留め 慕ひしものを〔之多比之毛能乎〕 天皇の 命畏み ……(万4408)
恋山 郡家の正南二十三里なり。古老の伝へて云はく、和爾、阿伊村に坐す神、玉日女命を恋ひて上り到りき。爾の時に玉日女命、石を以て川を塞へましければ、え会わずして恋へりき。故、恋山と云ふ。(出雲風土記・仁多郡)
慕 音暮、ネガフ、コヒネカフ、シタフ、シノフ、コノム、和ボ(名義抄)
Xitai,ǒ,ǒta.シタイ,ゥ,ゥタ(慕ひ,ふ,うた) 後を追って行く,または,倣う. ¶ Voya couo xitǒ.(親子を慕ふ)親がその子いとしさのために,後を追って探しに行く.(日葡辞書781頁)
これと同じようにあとを追った事績に、言い伝えで有名な話がある。イザナキがイザナミのあとを追って黄泉国を訪問している。
是に、其の妹伊耶那美命を相見むと欲ひて、黄泉国に追ひ往きき。(記上)
然して後、伊弉諾尊、伊弉冉尊を追ひて、黄泉に入りて、及きて共に語る。(神代紀第五段一書第六)
若ければ 道行き知らじ 幣はせむ 下方の使〔之多敝乃使〕 負ひて通らせ(万905)
黄泉国の位置については、それがこの世から見てどの方向に当たるかという議論が行われているが、黄泉のもう一つの義である地中の泉との関連性からすれば、下の方にあると思われて不思議ではない。万905番歌に死後世界のことをシタヘと呼んでいる。すなわち、シタ(下)オフ(追)ことをして「慕ふ」ことになっていると思われる。
このように、秋になって山の木の葉が色づくこと、シタフことになることは、言葉(音)として黄泉国とつながりのあるものとなっている。説文に「黄 地の色なり」とある点からも、地中の泉が黄泉であることは納得され、Leaves turn red and yellow in autumn. について「黄」字を用いると、ヤマトコトバの体系性を最も正しく表すことになる。そこで用字に「黄」が好まれて使われ、定着化していたと考えられる。
黄泉がへる
今日、紅葉の代表とされるカエデは、「かへるで」と呼ばれて万葉集に二首ある。
吾が屋戸に もみつかへるで〔黄変蝦手〕 見るごとに 妹を懸けつつ 恋ひぬ日はなし(万1623)
子持山 若かへるでの もみつまで〔和可加敝流弖能 毛美都麻弖〕 寝もと吾は思ふ 汝は何どか思ふ(万3494)
「もみつかへるで」とは色づいたカエデのことを言っている。和名抄に、「鶏冠木 楊氏漢語抄に鶏冠木〈賀倍天乃岐、弁色立成に鶏頭樹を加比流提乃岐と云ふ。今案ふるに是れ一に木の名なり〉と云ふ。」とある。カヘデという語はカヘル(蛙)の手のような形をしているからそう名づけられていると認められている。名詞のモミチは色づいた葉の総称であり、万葉時代には、今日の紅葉の代表格、イロハカエデに限ったものではない。それでも、モミツカヘルデはカエデの色づきを言っていることに違いなく、カヘルと「黄」字との間の親近性に気づかされる。「黄」字は「黄泉」に用いられており、蘇生することを黄泉から帰る、ヨミガヘル(蘇、甦)と言っている。つまり、モミチが樹種にカヘデであるならば、色変化するのに「黄」字を当てて表現したいと上代の人の観念に認められたことが偲ばれるのである。
このように、「黄」は、万葉集に「黄葉」、また、「黄変」といった表記に優先されていた。「黄」=yellow なる定性的な色彩感覚は根づいておらず、後付けで色の名となったものと言える(注8)。
時代別国語大辞典に、「き[黄](名)黄色。いまいう黄色よりも、もっと漠然としたもので、赤とある程度重なる面があったらしい。単独例はない。甲乙不明。「黄染表紙五枚」(古文書一一、天平勝宝二年)「蘖木、一名黄木、岐波多」(本草和名)「黄疽一云黄病、岐波无夜万比・黄瓜岐宇利」(和名抄) 「〓[角偏に王]・〓[黃偏に王]キナリ・黄草キナリ、キバメリ」(名義抄)【考】「黄」は上代文献に多く用いられ、黄葉・黄土などがあるが、それぞれ赤葉・赤土などと差なく用いられており、黄色を独自の色として把握した証拠とはならない。したがって黄なる語の存在は疑わしい面を残す。……」(237頁)とある。「黄」を色であると第一義的に捉えることは適当ではないものの、なにほどかニュアンスは伝わってくる。「黄」がなぜヤマトコトバにキというのか、その説明はいわゆる和訓を理解しなければならないが、これまでこれといった説明はない。糸口の一つとしてキバムといった語から手繰ると、変化して成り果てた色のことを表すために、キなる新語は造られて使われ始めたのではないかと思われる(注9)。
説文に、「黄 地の色なり。田に从ひ炗に从ふ。炗は亦、声。炗は古文に光。凡そ黄の属は皆、黄に从ふ」とある。黄という字は、地の色でありつつ田んぼの光であるとの解説である。これが魅力的なのは、カエル(カヘル)の卵は田んぼのなかで土気色し、粒々になって光っているからである。そしてすぐに孵ってオタマジャクシとなり、さらに変化して足が出てきてカエル(カヘル)(注10)に帰るのである。そんなふうにどんどん変化するものを植物の葉に求めれば、カヘルの手のような形をしているカヘデの葉が連想される。今日、紅葉と見て取っている色変化を、ヤマトコトバに「紅」とするのは一般的ではなかったであろう(注11)。「赤」は夜明け、日の明かりのことに結びついて考えられているから当を得ているとはいえず、color として必ずしも捉えられてはいない「黄」という字を用い、「黄泉」とのつながりを感じさせて表すのがふさわしいと考えられたのでそうしていたようである。
以上、万葉集の用字「黄葉」は、漢籍表記を踏襲したものではなく、「黄泉」の意との通底を基に、ヤマトコトバ的な理解を経由して行われていたものであったことを述べた。
(注)
(注1)岩波古語辞典は、「古代の日本人は、黄色を独立した色彩としては区別せずに、赤の範囲に含めて把握していた。色名としての「黄(き)」が確立するのは平安時代に入ってからのことらしい。」(357頁)、『万葉語誌』は、「黄葉」と表記する「理由は、盛唐頃までの漢籍の影響を受けたためとされるが、大和地方では、実際に赤い葉よりも黄色い葉に親しむ機会が多かったためとも言われる。上代の黄葉は、現代のように楓の葉のみを指すわけではなく、萩などの他の樹木全般に対してもいう。『万葉集』には、山全体が色づく様を歌う例も見られる。」(380頁、この項、高桑枝実子)とし、佐佐木2021.は、「興味深いのは、動詞の「もみつ」にしても連用形名詞の「もみち」にしても、多くの例が「黄」の字を含んでおり、「紅」「赤」などの字を含む例が極めて少ない、という事実です。しかし、現代では「紅葉」と書くのが普通であるように、我々は「もみじ」という語からは赤い色を連想しがちです。ですから、上代では「もみつ」「もみち」に「黄」が用いられたというのは、意外な感じがします。ただし、それは上代人と現代人との認識の違いを反映するものだ、としか言いようがないことです。」(73~74頁)としている。
(注2)色についての捉え方に、色の三属性、色相、彩度、明度から科学的に理解しようとする向きがある。いま俎上にあげている「黄葉」という表記の問題は、その枠組みでは解決しない。
(注3)上村1979.173頁参照。
(注4)万葉集の表記「黄葉」は上代の人がそれを用字としたのであるから、上代の人の捉え方を探る必要がある。中国の人の捉え方は本来的には関係がない。影響があったとされれば排除することはできないから検討するのであるが、静永2010.が指摘する「中国の詩文において「もみぢ」はやはり「黄色」と認識・表記されていた。」(128頁)とする確証として、「季秋之月、……草木黄落」(礼記・月令)、「秋風起兮白雲飛、草木黄落兮鴈南帰」(漢武帝・秋風辞)といった例をあげているが役に立たない。「黄落」とあるばかりで「黄葉」とはなっていない。上代に清音の「もみち」に派生したもとの動詞「もみつ」にも、「黄落」とした用字例は万葉集に見られない。一例もないとなると、漢籍の表記を踏襲したことの証拠とはならない。
(注5)「黄泉」という漢語には、大別して、①地下の泉、②死者のゆくところ、の二義がある。それぞれの例を示せば、「夫れ蚓は、上は槁壌を食ひ、下は黄泉を飲む。(夫蚓、上食槁壌、下飲黄泉。)」(孟子・滕文公下)、「而して之れに誓ひて曰く、「黄泉に及ばずむは、相見ること無けむ」といふ。(而誓之曰、不及黄泉、無相見也。)」(春秋左氏伝・隠公元年)がある。本邦では②の意が優勢で記紀に採用されているが、①の例も見られる。和名抄にはそれぞれの例がある。「枸𣏌 本草に云はく、枸𣏌、根の下は黄泉に潤ひ、其の精霊は多く犬子と為り、或に小児と為るといふ〈枸𣏌の二音、苟起は沼美久須利、此の間に音は久古〉。抱朴子に云はく、枸𣏌は一名に杔櫨〈託盧の二音〉、一名に却老といふ。」、「醜女 日本紀私記に云はく、醜女〈志古米〉は或説に黄泉の鬼なりといふ。今、世の人、恐みて小児の称〈許々女〉と為るは此の語の訛れるなり。」。
(注6)原文に「黄染」とあるのを佐竹昭広氏の説により「黄柒」と訓むとされることが多い。万3888番歌の理解を惑わす曲解である。「黄牛」から「黄染」と訓まれるべきところである。拙稿「怕物歌三首」参照。
(注7)稲岡1972.に、柿本人麻呂によって「黄葉の 過ぎ」の詞句が創られ、挽歌表現や惜別表現に巧みに用いられているとする主張がある。自然現象として秋の木の葉の色づいては散ってゆくことを詠みこんで別れの悲哀を歌っていると進められている。また、山田1932.(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1214385/116)に、スギニシがイノチスギニシの意であると説かれている。しかし、枕詞「もみちばの」がスギ(スグ)にかかる理由は深く検討されていない。筆者は、モミツとほとんど同義の言葉のシタフとの関連を考えている。行論のなかで、同音のシタフ(慕)は、イザナミを追って黄泉国へ赴いたイザナキのことを暗示しているとした。イザナミはどうして死んでしまったのか。「みほとを炙かえて病み臥して在り。……火の神を生みしに因りて、遂に神避り坐しき。」(記上)とある。これは火鑽りによって、火鑽り臼自体に火が回って焼けてしまったことを言っているものと受け取れる。発掘される火鑽り板でもっとも多いのは杉材である。古代体験マニュアル2002.ほか参照。火鑽り杵を回転させるには舞鑽法がよく知られるが、はずみ車を伴わない揉鑽法も行われた。手で錐をひたすら揉むのである。枕詞モミチバノがスギにかかる理由の一端はここにあるのだろう。枕詞とは意味が分厚くありすぎて訳せなくなってしまった言葉である。
火起こし(きりもみ法)(イラストの里https://poromi-free.net様https://poromi-free.net/life/all/08-02-191119-fire1/を一部改変)
(注8)佐竹2000.に、「黄色という色彩表象が概念として未だ確立して居らず、そっくり赤色の方に包含されていた上代の状況では、黄色を言い表わさんとする衝動は無いに等しかったであろうから、それから推して古代に「黄」の色名は存在しなくて済んでいたことは想像される。」(94頁)とある。
(注9)「黄」は漢語にクワウ、ワウなどとされているのを、ヤマトの人はキと和訓した。「金〔久我祢〕」(万4094)=黄金という用例から、母音交替の法則(有坂秀世)からキ(黄)は乙類ではないかと推測されている。佐竹2000.参照。キ乙類は「木」や「城」と同じである。奥つ城は墓所のことである。それを黄泉と考えたか必ずしも定かではないが、死後世界と「黄」とが関連しそうなことは、「黄書」が写経用紙であるなど、当初から葬式仏教としてあった仏教に通底している。説文に「黄 地の色なり」とあり、千字文にも「天地玄黄」とある。五行説を超えて解釈が進み、命がついえると地に帰るものとして認められていたであろうから、整合性のとれた考え方であったと言える。
(注10)応神紀に、吉野の国樔人のルポルタージュに、「毎に山の菓を取りて食ふ。亦、蝦蟆を煮て上味とす。名けて毛瀰と曰ふ。」(応神紀十九年十月)とある。今いうアカガエル、また、その煮たものの称という。カヘルとモミとが関連語として構成されている。モミチを含めて言語体系をなしているようである。ほかに、ムササビの別名もモミである。皮膜を広げて滑空するとき、モミチバのように見て取ったのであろうか。漢土には、蘇生することをヨミガヘルと言って黄泉からの帰還と捉える見方や、frog と maple とを関連語とする向きはない。
(注11)小島1964.に、「「紅葉」の例は、盛唐頃より次第に多く用ゐられるやうになるが(盛唐開元の人、陰行先の一例、和二張燕公湘中九日登レ高「山棠紅葉下、岸菊紫花開」)、その例の多い「白氏文集」伝来以後のわが平安朝の漢詩文集に、「黄葉」にかはって、「紅葉」が次第に増加する……。この白詩の影響を受けた平安朝中期以降の詩文を集めた「本朝文粋」その他の詩集類も、「黄葉」に代つて「紅葉」が勢力を占める……。」(807頁)という指摘どおり、白氏文集の影響で「紅葉」と記すようになっていったものと考える。
(引用・参考文献)
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静永2010. 静永健『漢籍伝来─白楽天の詩歌と日本─』勉誠出版、2010年。
時代別国語大辞典 上代語編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
西尾2011. 西尾理恵「国文学作品から見た日本のもみじ観とその成立過程」『歴史文化社会論講座紀要』第8号、京都大学大学院人間・環境学研究科歴史文化社会論講座、2011年2月。京都大学学術情報リポジトリhttp://hdl.handle.net/2433/141901
日葡辞書 土井忠夫・森田武・長南実編訳『邦訳 日葡辞書』岩波書店、1980年。
『万葉語誌』 多田一臣編『万葉語誌』筑摩書房、2014年。
山田1932. 山田孝雄『萬葉集講義 巻第一』宝文館、昭和7年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1214385
※本稿は、2022年2月稿を、2024年8月にルビ形式にし、若干の誤りを正したものである。