一
大伴家持の次の歌は、歌われた年月日、歌われた場が正確に記されている。
天平感宝元年の五月五日に、東大寺の占墾地使の僧平栄等を饗す。時に、守大伴宿祢家持の、酒を僧に送る歌一首
焼太刀を 礪波の関に 明日よりは 守部遣り添へ 君を留めむ(万4085)
天平感寶元年五月五日饗東大寺之占墾地使僧平榮等于時守大伴宿祢家持送酒僧歌一首
夜伎多知乎刀奈美能勢伎尓安須欲里波毛利敝夜里蘇倍伎美乎等登米牟
大伴家持は越中守として赴任していた。東大寺の使者、僧侶の平栄が帰京するというので家持は宴を催し、惜別の思いを歌に詠んでいる。占墾地については続日本紀に記述があり、また、酒を贈ることで送別の意を表したことも他にも例がある。特段難しいところはなく、議論の俎上に載せられることは少ない。
関の様子(白河の関、一遍聖絵写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2591577/1/18をトリミング)
礪波の関については、天平感宝元年時点において廃関であったとする主張が行われていた。「現に兵士が置かれているのであれば、家持の歌は全く無意味なものになってしまう」(浅香1988.208頁)という解釈である。「守部」のことを、関に駐留して警備する兵士と考えての言である。これに対して近年、関は機能していたとする見解が提出された。「礪波関の統治者、ならびに差配の権限は、その関を管理している国の国守、大伴家持にあっ」て、「当該歌は、機能している礪波関に、国司の権限でもって守部(兵士)を遣わして引き止めるという、当時の法令に則」(小田2021.49頁)る形にした戯笑歌であったというのである(注1)。
歌とは歌われたものである。その本来のあり方に立てば、日本史的な着眼点から解説しても、歌の背景を照らす一助にはなっても、歌自体を理解するのに資するところは少ない(注2)。国守の大伴家持に関の管理権、統率権があって、「守部」を「遣り添へ」ることが可能であるのはわかりきっている。題詞に「守大伴宿祢家持」と予め断ってある。どういう立場で「守部遣り添へ」と言っているのか明示されている(注3)。戦国大名ではないから、中央の意向に反した勝手なふるまいはしなかったに違いない。
いま問題としたいのは、当該歌が歌われたことである。歌われた歌について、何が楽しくてそのように歌っているのかという点である。歌は歌われた現場に音の振動として存在している。その生々しい姿を理解しようと努めることが、万葉集研究の一丁目一番地である。後で読み返して再認識することは現代の研究に可能であっても、歌が歌われた現場では一回性の芸術として披露され、すぐに消えゆくものであった。
万葉集において、歌われた事情は題詞に記され、つづけて歌が綴られている。それしか書いてないのは、それだけで理解できるからである。
二
今日までの研究で二点触れられていないところがある。一つは題詞にある「天平感宝元年の五月五日」の意味、もう一つは枕詞「焼太刀を」が「礪波」にかかる掛かり方の本意である。「焼太刀を」は、火入れした太刀は「礪ぐ(トは甲類)」ことが求められるから「礪波」の頭音のト(甲類)にかかるのだとされてきた(注4)。筆者は、それだけでかかっているとは考えない。「を」は間投助詞と見られている。間投助詞「を」は、感動詞の「を」、つまりは Wow のヲに由来する語である。何に感動しているか。太刀が生半可に作られたものではなく、丹念に製作されているところである。火入れをして折り曲げては叩くことをくり返して鍛えている。そして、最終段階として刀身に土置きをしてから炉にいれて焼入れ作業を行う。土が厚く塗られていた部分は焼が浅くゆるやかに入り、土が薄かった刃部は焼が深く入る。礪いでみると見事な刃文が浮かび上がってくる。それが良い太刀の印である。礪ぐと波模様が現れるから、「焼太刀を」はト(礪)+ナミ(波)を導くことになっている。それがこの枕詞の深奥である(注5)。
切先の刃文(ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/刃文)
興味深いことに、礪波(となみ、ト・ミはともに甲類)というところには関が設けられていた。実際に機能していたかどうかは別として、トナミには関がある、ないしは、あったところとして認識されていた。この、認識されていたということが重要である。関があったがそれが人々に知れ渡っていなかったら、歌として歌っても誰もわからないから歌とはならない(注6)。なぜトナミに関があると人々に認識、共有されるに至っていたか。それは、トナミという地名が、ト(戸、トは甲類)+ナミ(並、ミは甲類)に聞こえるからである。城郭建築のようにたくさんの戸が立ち並んでいたら、通り抜けるのはさぞかし難しかろうと誰でも即座にピンとくる。関の機能そのものである。すなわち、「礪波の関」という句は、それ自体で自己完結的に自らを証明してみせている表現なのである。
さて、そこへ「明日よりは」監視員を派遣してあなたのことを留めるつもりですよ、と言っている。どうして今日ではなく明日以降のことを述べているのか。今日は宴会をしていて「守部」が派遣できないなどという言い訳ではない。あくまでも歌のなかでの言葉である。
三
今日は五月五日である。五月五日には薬狩りが行われる習慣があった。大伴家持がこのとき行っていたかは問題ではない。人々の観念のうちにそれが風習だと認識されていたことが重要である。紀にも万葉集にも例がある。
十九年の夏五月五日に、菟田野に薬猟す。鶏鳴時を取りて藤原池の上に集ひ、会明を以て乃ち徃く。粟田細目臣を前の部領とし、額田部比羅夫連を後の部領とす。是の日、諸臣の服の色、皆冠の色に随ふ。各髻華著せり。則ち大徳・小徳は並に金を用ゐ、大仁・小仁は豹の尾を用ゐ、大礼より以下は鳥の尾を用ゐる。(推古紀十九年)
夏五月五日に薬猟して、羽田に集ひて、相連きて朝に参趣く。其の装束、菟田の猟の如し。(推古紀二十年)
五月五日に、天皇、蒲生野に縦猟したまふ。時に、大皇弟・諸王・内臣及び群臣、皆悉に従なり。(天智紀七年)
夏五月の戊寅の朔壬午に、天皇、山科野に縦猟したまふ。大皇弟・藤原内大臣及び群臣、皆悉に従につかへまつる。(天智紀八年)
天皇の、蒲生野に遊猟したまふ時、額田王の作る歌
あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る(万20)
皇太子の答へる御歌 明日香宮に天下知らしめしし天皇、謚して天武天皇と曰ふ。
紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 吾恋ひめやも(万21)
紀に曰はく、「天皇七年丁卯の夏五月五日に、蒲生野に縦猟したまふ。時に大皇弟・諸王・内臣及び群臣、皆悉に従なり」といふ。
天智紀七年条とその時に歌われた万20・21番歌の例は、推古紀の例にならって行われた薬狩りである。推古紀では馬に乗っていて鹿を狩り、その袋角を獲ったらしいが、天智七年の時は徒歩で薬草を採ったようである。また、「射猟」や「射騎」を見物することに変わることもあった。本来の姿は推古紀のそれで、高位の宮廷人たちが正装して騎馬行進するものと考えられていたのであろう。すなわち、五月五日は馬を並べて大規模な薬狩りが行われる日であった。野守はとても忙しい。狩猟場でブッシュに隠れている鳥獣を追い立てたり、射られて弱った鳥獣を捕まえなければならない。節句である今日、野に出はらっているモリ(守)の人を、戸が並んでいるところへ遣るのは間違いである。だから明日からにしている。
四
万4085番歌に出てくる「守部」も、その場を守る人の意である。野を守れば「野守」、関を守れば「関守」、国を守れば「国守」である。守るためにそれぞれに役割を担う。行政事務をし、警備巡回をし、防衛的な兵士の立場に立つこともあった。そんな「守部」が登場して違和感がない理由は、宴に饗している相手、平栄が東大寺の占墾地使だからである。寺領となる墾田地を占定するために来ている。墾田地を決めたら同時にガードマンである「守部」も決めてその地に据え、常に監視に当たらせた。そして、帰京するにあたって送別会が催されている。平栄と、平栄に任命された「守部」が宴に招かれている。題詞に「平栄等」とあるのはそれを言っている。宴席についている人々の興を誘い、皆の歓心を買って引きつけるべく、占墾地の守部を関の守部に転職させて使うぞと、国の守部である家持がおどけている(注7)。もちろん、そのようなことはしないし、律令制に基づいた中央集権国家体制にあってできることではない。
以上の考察によって、題詞と歌とが完全に通じ合い、相互に緊密な関係を築いて訴えかけてくるものとして捉えられるものに解された。歌が“読めた”ということである。
(注)
(注1)窪田1967.に「「守部」は、番人の総称で、ここは関の番人。「遣り副へ」は、国庁より遣わして数を増してで、番を厳重にしての意。」(193頁)、中西2010.に「家持は国守である。国守には権限がある。関を閉めることも自由であろう。」(422頁)、新編全集本萬葉集に「帰京する平栄ら一行を引き留めるために、急遽増員せよと下僚に命じた趣。手荒な語調に似るが、客僧に対する親しみを込めた挨拶。」(252頁)などと指摘されている。新編全集本萬葉集では「遣り添へ」を命令形ととっているが、連用形中止法ととるのが一般的である。四句目で句切れさせ、そこまでは下僚に対する言、五句目だけ客僧に対する言とするのには無理がある。
(注2)そのことは、万葉集にたくさんの歌を収める大伴家持について「歌人」と措定し、製作年次を追いながら心情がどう変化していったか、そして、万葉集の編纂とどうかかわるかといったことを問うことにも通じる。近代文学の解釈の枠組を上代の口承文芸に適用することは、接近法としてピントが外れている。個人的な心情、内面について詮索して、歌われた歌の理解に寄与するところが大きいと考えるのは、文字に書かれた“文学”を前提とした現代的な思考方法である。歌詠みの“心”は、歌われた場において瞬時に聞き手に共有される必要があった。
(注3)額面どおりに受け取ってはいけないことについては、本稿の最後に述べる。全集本萬葉集は、「家持在任の当時、礪波の関は蝦夷防衛の意義を失い、廃関かそれに近い状態であったので、増員せよといったのである。賓客平栄に対する挨拶である。」(257頁)としている。しかし、それでは、歌が通達の性格を帯びていることになる。万葉集の歌は詔(宣命)とは別物である。
(注4)中西2010.に「「焼太刀を」磨ぐから礪波へとつづくが、焼太刀そのものの印象が、音よりさきに飛び込んでくる。それは平栄がこれから越えていかなければならない山路を象徴するために、有効であろう。」(421頁)とある。けれども、礪波を歌枕として詠んだ歌ではなく、「礪波」を導く枕詞として「焼太刀を」という言葉を作っている。一般に、歌枕という発想は万葉時代にはなかったと考える。いわゆる歌枕として成立しているのであれば、他にも多数歌われているはずであるがそのような形跡はない。
万葉集の歌は、その本性として、古今集以降に見られた歌枕のように、典故となるような土地の記憶や記録を連鎖させて積み重ねることをしていない。なぜなら無文字時代の文化の産物だからである。枕詞がよく表しているように、言葉(音)の高度な論理遊戯として、そのつど言葉を再活性化しては呼び覚ますことでしか顕現していない。文字に依らない言語生活においては、歌は厳密な意味で一回性を帯びていて、初対面の人にも通じるものとして歌い、聞き手もそのつど緊張感をもって歌の言葉に耳を傾けて聞き分けていた。
(注5)古代刀の土置きの技法は完全に解明されているわけではないが、古墳時代には行われていたという。波打つような刃を見せる考古品に蛇行剣がある。熟達者の礪ぎでなくても波立って光り、Wowと驚くほど迫力がある。蛇行剣が中小古墳に出土することから、首長を補佐する立場の人の副葬品であるとされている。刀剣の研ぎ師を顕彰するのに打ってつけの品ではないか。砥石の産地の古墳に出土する例もあるという。観念からしてヤマトで生まれた産物であると考える。
蛇行剣復元品(兵庫県茶すり山古墳、朝来市教育委員会、大阪歴史博物館「刀剣~古代の武と祈り~」展展示品)
(注6)歌はヤマトコトバによって作られ歌われた。歌う人、聞く人の双方が、口頭語の巧みな使い手として無文字時代の言語活動を活発化させていた。誰かが勝手に名づけて地籍簿や戸籍簿に登録して名となっていたのではなく、周囲の多くの人々にそう呼ばれることによってはじめて名であったように、歌は、歌われるだけでなくて聞かれてなるほどそうだ、うまく言い当てていると認められたとき、はじめて歌として存立した。
(注7)題詞にある「守大伴宿祢家持」は「守大伴宿祢家持」と訓むべきなのかもしれない。
(引用・参考文献)
浅香1988. 浅香年木『中世北陸の社会と信仰』法政大学出版局、1988年。
阿蘇2013. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第9巻』笠間書院、2013年。
伊藤1998. 伊藤博『萬葉集釈注 九』集英社、1998年。
小田2019. 小田芳寿「天平感宝元年五月五日時の礪波関の機能」『文学・語学』第227号、2019年12月。J-STAGE https://doi.org/10.34492/bungakugogaku.227.0_41
小田2021. 小田芳寿「天平感宝元年五月五日の大伴家持歌の性格」『百舌鳥国文』第30号、2021年3月。大阪公立大学学術情報リポジトリhttp://doi.org/10.24729/00017425
窪田1967. 窪田空穗『窪田空穗全集第19巻 萬葉集評釈Ⅶ』角川書店、昭和42年。
新編全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集9 萬葉集④』小学館、1996年。
全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳『日本古典文学全集5 萬葉集四』小学館、昭和50年。
中西2010. 中西進『中西進著作集29 大伴家持二』四季社、平成22年。(『大伴家持4 越路の風光』角川書店、平成7年。)
※本稿は、2023年6月稿の(注5)部分について、2023年10月に加筆したものである。なお、考古学者のなかには、蛇行剣にかかわる観念について中国由来であると考える人もいる。今のところ中国では発見されておらず、大陸ではヤマトから持ち込まれたであろうとされるものが百済で出土しているにすぎない。
大伴家持の次の歌は、歌われた年月日、歌われた場が正確に記されている。
天平感宝元年の五月五日に、東大寺の占墾地使の僧平栄等を饗す。時に、守大伴宿祢家持の、酒を僧に送る歌一首
焼太刀を 礪波の関に 明日よりは 守部遣り添へ 君を留めむ(万4085)
天平感寶元年五月五日饗東大寺之占墾地使僧平榮等于時守大伴宿祢家持送酒僧歌一首
夜伎多知乎刀奈美能勢伎尓安須欲里波毛利敝夜里蘇倍伎美乎等登米牟
大伴家持は越中守として赴任していた。東大寺の使者、僧侶の平栄が帰京するというので家持は宴を催し、惜別の思いを歌に詠んでいる。占墾地については続日本紀に記述があり、また、酒を贈ることで送別の意を表したことも他にも例がある。特段難しいところはなく、議論の俎上に載せられることは少ない。
関の様子(白河の関、一遍聖絵写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2591577/1/18をトリミング)
礪波の関については、天平感宝元年時点において廃関であったとする主張が行われていた。「現に兵士が置かれているのであれば、家持の歌は全く無意味なものになってしまう」(浅香1988.208頁)という解釈である。「守部」のことを、関に駐留して警備する兵士と考えての言である。これに対して近年、関は機能していたとする見解が提出された。「礪波関の統治者、ならびに差配の権限は、その関を管理している国の国守、大伴家持にあっ」て、「当該歌は、機能している礪波関に、国司の権限でもって守部(兵士)を遣わして引き止めるという、当時の法令に則」(小田2021.49頁)る形にした戯笑歌であったというのである(注1)。
歌とは歌われたものである。その本来のあり方に立てば、日本史的な着眼点から解説しても、歌の背景を照らす一助にはなっても、歌自体を理解するのに資するところは少ない(注2)。国守の大伴家持に関の管理権、統率権があって、「守部」を「遣り添へ」ることが可能であるのはわかりきっている。題詞に「守大伴宿祢家持」と予め断ってある。どういう立場で「守部遣り添へ」と言っているのか明示されている(注3)。戦国大名ではないから、中央の意向に反した勝手なふるまいはしなかったに違いない。
いま問題としたいのは、当該歌が歌われたことである。歌われた歌について、何が楽しくてそのように歌っているのかという点である。歌は歌われた現場に音の振動として存在している。その生々しい姿を理解しようと努めることが、万葉集研究の一丁目一番地である。後で読み返して再認識することは現代の研究に可能であっても、歌が歌われた現場では一回性の芸術として披露され、すぐに消えゆくものであった。
万葉集において、歌われた事情は題詞に記され、つづけて歌が綴られている。それしか書いてないのは、それだけで理解できるからである。
二
今日までの研究で二点触れられていないところがある。一つは題詞にある「天平感宝元年の五月五日」の意味、もう一つは枕詞「焼太刀を」が「礪波」にかかる掛かり方の本意である。「焼太刀を」は、火入れした太刀は「礪ぐ(トは甲類)」ことが求められるから「礪波」の頭音のト(甲類)にかかるのだとされてきた(注4)。筆者は、それだけでかかっているとは考えない。「を」は間投助詞と見られている。間投助詞「を」は、感動詞の「を」、つまりは Wow のヲに由来する語である。何に感動しているか。太刀が生半可に作られたものではなく、丹念に製作されているところである。火入れをして折り曲げては叩くことをくり返して鍛えている。そして、最終段階として刀身に土置きをしてから炉にいれて焼入れ作業を行う。土が厚く塗られていた部分は焼が浅くゆるやかに入り、土が薄かった刃部は焼が深く入る。礪いでみると見事な刃文が浮かび上がってくる。それが良い太刀の印である。礪ぐと波模様が現れるから、「焼太刀を」はト(礪)+ナミ(波)を導くことになっている。それがこの枕詞の深奥である(注5)。
切先の刃文(ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/刃文)
興味深いことに、礪波(となみ、ト・ミはともに甲類)というところには関が設けられていた。実際に機能していたかどうかは別として、トナミには関がある、ないしは、あったところとして認識されていた。この、認識されていたということが重要である。関があったがそれが人々に知れ渡っていなかったら、歌として歌っても誰もわからないから歌とはならない(注6)。なぜトナミに関があると人々に認識、共有されるに至っていたか。それは、トナミという地名が、ト(戸、トは甲類)+ナミ(並、ミは甲類)に聞こえるからである。城郭建築のようにたくさんの戸が立ち並んでいたら、通り抜けるのはさぞかし難しかろうと誰でも即座にピンとくる。関の機能そのものである。すなわち、「礪波の関」という句は、それ自体で自己完結的に自らを証明してみせている表現なのである。
さて、そこへ「明日よりは」監視員を派遣してあなたのことを留めるつもりですよ、と言っている。どうして今日ではなく明日以降のことを述べているのか。今日は宴会をしていて「守部」が派遣できないなどという言い訳ではない。あくまでも歌のなかでの言葉である。
三
今日は五月五日である。五月五日には薬狩りが行われる習慣があった。大伴家持がこのとき行っていたかは問題ではない。人々の観念のうちにそれが風習だと認識されていたことが重要である。紀にも万葉集にも例がある。
十九年の夏五月五日に、菟田野に薬猟す。鶏鳴時を取りて藤原池の上に集ひ、会明を以て乃ち徃く。粟田細目臣を前の部領とし、額田部比羅夫連を後の部領とす。是の日、諸臣の服の色、皆冠の色に随ふ。各髻華著せり。則ち大徳・小徳は並に金を用ゐ、大仁・小仁は豹の尾を用ゐ、大礼より以下は鳥の尾を用ゐる。(推古紀十九年)
夏五月五日に薬猟して、羽田に集ひて、相連きて朝に参趣く。其の装束、菟田の猟の如し。(推古紀二十年)
五月五日に、天皇、蒲生野に縦猟したまふ。時に、大皇弟・諸王・内臣及び群臣、皆悉に従なり。(天智紀七年)
夏五月の戊寅の朔壬午に、天皇、山科野に縦猟したまふ。大皇弟・藤原内大臣及び群臣、皆悉に従につかへまつる。(天智紀八年)
天皇の、蒲生野に遊猟したまふ時、額田王の作る歌
あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る(万20)
皇太子の答へる御歌 明日香宮に天下知らしめしし天皇、謚して天武天皇と曰ふ。
紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 吾恋ひめやも(万21)
紀に曰はく、「天皇七年丁卯の夏五月五日に、蒲生野に縦猟したまふ。時に大皇弟・諸王・内臣及び群臣、皆悉に従なり」といふ。
天智紀七年条とその時に歌われた万20・21番歌の例は、推古紀の例にならって行われた薬狩りである。推古紀では馬に乗っていて鹿を狩り、その袋角を獲ったらしいが、天智七年の時は徒歩で薬草を採ったようである。また、「射猟」や「射騎」を見物することに変わることもあった。本来の姿は推古紀のそれで、高位の宮廷人たちが正装して騎馬行進するものと考えられていたのであろう。すなわち、五月五日は馬を並べて大規模な薬狩りが行われる日であった。野守はとても忙しい。狩猟場でブッシュに隠れている鳥獣を追い立てたり、射られて弱った鳥獣を捕まえなければならない。節句である今日、野に出はらっているモリ(守)の人を、戸が並んでいるところへ遣るのは間違いである。だから明日からにしている。
四
万4085番歌に出てくる「守部」も、その場を守る人の意である。野を守れば「野守」、関を守れば「関守」、国を守れば「国守」である。守るためにそれぞれに役割を担う。行政事務をし、警備巡回をし、防衛的な兵士の立場に立つこともあった。そんな「守部」が登場して違和感がない理由は、宴に饗している相手、平栄が東大寺の占墾地使だからである。寺領となる墾田地を占定するために来ている。墾田地を決めたら同時にガードマンである「守部」も決めてその地に据え、常に監視に当たらせた。そして、帰京するにあたって送別会が催されている。平栄と、平栄に任命された「守部」が宴に招かれている。題詞に「平栄等」とあるのはそれを言っている。宴席についている人々の興を誘い、皆の歓心を買って引きつけるべく、占墾地の守部を関の守部に転職させて使うぞと、国の守部である家持がおどけている(注7)。もちろん、そのようなことはしないし、律令制に基づいた中央集権国家体制にあってできることではない。
以上の考察によって、題詞と歌とが完全に通じ合い、相互に緊密な関係を築いて訴えかけてくるものとして捉えられるものに解された。歌が“読めた”ということである。
(注)
(注1)窪田1967.に「「守部」は、番人の総称で、ここは関の番人。「遣り副へ」は、国庁より遣わして数を増してで、番を厳重にしての意。」(193頁)、中西2010.に「家持は国守である。国守には権限がある。関を閉めることも自由であろう。」(422頁)、新編全集本萬葉集に「帰京する平栄ら一行を引き留めるために、急遽増員せよと下僚に命じた趣。手荒な語調に似るが、客僧に対する親しみを込めた挨拶。」(252頁)などと指摘されている。新編全集本萬葉集では「遣り添へ」を命令形ととっているが、連用形中止法ととるのが一般的である。四句目で句切れさせ、そこまでは下僚に対する言、五句目だけ客僧に対する言とするのには無理がある。
(注2)そのことは、万葉集にたくさんの歌を収める大伴家持について「歌人」と措定し、製作年次を追いながら心情がどう変化していったか、そして、万葉集の編纂とどうかかわるかといったことを問うことにも通じる。近代文学の解釈の枠組を上代の口承文芸に適用することは、接近法としてピントが外れている。個人的な心情、内面について詮索して、歌われた歌の理解に寄与するところが大きいと考えるのは、文字に書かれた“文学”を前提とした現代的な思考方法である。歌詠みの“心”は、歌われた場において瞬時に聞き手に共有される必要があった。
(注3)額面どおりに受け取ってはいけないことについては、本稿の最後に述べる。全集本萬葉集は、「家持在任の当時、礪波の関は蝦夷防衛の意義を失い、廃関かそれに近い状態であったので、増員せよといったのである。賓客平栄に対する挨拶である。」(257頁)としている。しかし、それでは、歌が通達の性格を帯びていることになる。万葉集の歌は詔(宣命)とは別物である。
(注4)中西2010.に「「焼太刀を」磨ぐから礪波へとつづくが、焼太刀そのものの印象が、音よりさきに飛び込んでくる。それは平栄がこれから越えていかなければならない山路を象徴するために、有効であろう。」(421頁)とある。けれども、礪波を歌枕として詠んだ歌ではなく、「礪波」を導く枕詞として「焼太刀を」という言葉を作っている。一般に、歌枕という発想は万葉時代にはなかったと考える。いわゆる歌枕として成立しているのであれば、他にも多数歌われているはずであるがそのような形跡はない。
万葉集の歌は、その本性として、古今集以降に見られた歌枕のように、典故となるような土地の記憶や記録を連鎖させて積み重ねることをしていない。なぜなら無文字時代の文化の産物だからである。枕詞がよく表しているように、言葉(音)の高度な論理遊戯として、そのつど言葉を再活性化しては呼び覚ますことでしか顕現していない。文字に依らない言語生活においては、歌は厳密な意味で一回性を帯びていて、初対面の人にも通じるものとして歌い、聞き手もそのつど緊張感をもって歌の言葉に耳を傾けて聞き分けていた。
(注5)古代刀の土置きの技法は完全に解明されているわけではないが、古墳時代には行われていたという。波打つような刃を見せる考古品に蛇行剣がある。熟達者の礪ぎでなくても波立って光り、Wowと驚くほど迫力がある。蛇行剣が中小古墳に出土することから、首長を補佐する立場の人の副葬品であるとされている。刀剣の研ぎ師を顕彰するのに打ってつけの品ではないか。砥石の産地の古墳に出土する例もあるという。観念からしてヤマトで生まれた産物であると考える。
蛇行剣復元品(兵庫県茶すり山古墳、朝来市教育委員会、大阪歴史博物館「刀剣~古代の武と祈り~」展展示品)
(注6)歌はヤマトコトバによって作られ歌われた。歌う人、聞く人の双方が、口頭語の巧みな使い手として無文字時代の言語活動を活発化させていた。誰かが勝手に名づけて地籍簿や戸籍簿に登録して名となっていたのではなく、周囲の多くの人々にそう呼ばれることによってはじめて名であったように、歌は、歌われるだけでなくて聞かれてなるほどそうだ、うまく言い当てていると認められたとき、はじめて歌として存立した。
(注7)題詞にある「守大伴宿祢家持」は「守大伴宿祢家持」と訓むべきなのかもしれない。
(引用・参考文献)
浅香1988. 浅香年木『中世北陸の社会と信仰』法政大学出版局、1988年。
阿蘇2013. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第9巻』笠間書院、2013年。
伊藤1998. 伊藤博『萬葉集釈注 九』集英社、1998年。
小田2019. 小田芳寿「天平感宝元年五月五日時の礪波関の機能」『文学・語学』第227号、2019年12月。J-STAGE https://doi.org/10.34492/bungakugogaku.227.0_41
小田2021. 小田芳寿「天平感宝元年五月五日の大伴家持歌の性格」『百舌鳥国文』第30号、2021年3月。大阪公立大学学術情報リポジトリhttp://doi.org/10.24729/00017425
窪田1967. 窪田空穗『窪田空穗全集第19巻 萬葉集評釈Ⅶ』角川書店、昭和42年。
新編全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集9 萬葉集④』小学館、1996年。
全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳『日本古典文学全集5 萬葉集四』小学館、昭和50年。
中西2010. 中西進『中西進著作集29 大伴家持二』四季社、平成22年。(『大伴家持4 越路の風光』角川書店、平成7年。)
※本稿は、2023年6月稿の(注5)部分について、2023年10月に加筆したものである。なお、考古学者のなかには、蛇行剣にかかわる観念について中国由来であると考える人もいる。今のところ中国では発見されておらず、大陸ではヤマトから持ち込まれたであろうとされるものが百済で出土しているにすぎない。