古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

聖徳太子薨去後の高麗僧慧慈の言葉「玄聖」について

2023年06月07日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 聖徳太子がこの世を去った時、高麗(高句麗)の僧慧慈ゑじが誓いをたて、自らも太子の命日にあたる翌年の二月五日に死んで浄土で再会し、ともに衆生に仏教を広めることとしたいと言っている。そして、そのとおりになったので、上宮太子ばかりでなく慧慈もまたひじりというにふさわしい、と人々は言い合ったという。日本書紀にはそう書いてある。

 是の時に当りて、高麗こまほふし慧慈ゑじ上宮かみつみやの皇太子ひつぎのみこかむさりましぬと聞きて、おほきにかなしぶ。皇太子の為に、僧をせて設斎をがみす。 りてみづかきやうを説く日に、誓願こひちかひて曰はく、「日本国やまとのくに聖人ひじりします。上宮かみつみやの豊聡耳とよとみみの皇子みこまをす。まことあめゆるされたり。はるかなるひじりいきほひを以て、日本の国にれませり。三統きみのみちつつきて、先聖さきのひじり宏猷おほきなるのりぎ、三宝さむぽうつつしゐやまひて、黎元おほみたからたしなみすくふ。これまこと大聖おほきひじりなり。今太子ひつぎのみこすでかむさりましぬ。我、異国あたしくににありといへども、こころ断金うるはしきに在り。其れひとくとも、なにしるしかあらむ。われ来年こむとし二月きさらぎ五日いつかのひもちかならみまからむ。りて上宮かみつみやの太子ひつぎのみこ浄土じやうどまうあひて、共に衆生しゆじやうわたさむ」といふ。ここに、慧慈、ちぎりし日に当りてみまかる。是を以て、時の人のかれこれも共にはく、「其れ独り上宮太子の聖にましますのみにあらず。慧慈も聖なりけり」といふ。(推古紀二十九年二月) 
 是時、高麗僧慧慈、聞上宮皇太子薨、以大悲之。為皇太子、請僧而設斉。仍親説経之日、誓願曰、於日本国有聖人。曰上宮豈聡耳皇子。固天攸縦。以玄聖之徳、生日本之国。苞貫三統、纂先聖之宏猷、恭敬三宝、救黎元之厄。是実大聖也。今太子既薨之。我雖異国、心在断金。某独生之、有何益矣。我以来年二月五日必死。因以遇上宮太子於浄土、以共化衆生。於是、慧慈当于期日而死之。是以、時人之彼此共言、其独非上宮太子之聖。慧慈亦聖也。

 この記事はあまり評判のいいものではない。粕谷・荊木2021.は「不可思議な話﹅﹅﹅﹅﹅﹅」(216頁)であるとし、家永1972.の主張に従っている。

 この伝説、史実としては到底信じ難し。帰国後の慧慈の行状、何人の之を我に伝へしぞ。蓋しこのこと、法王と干食王后と相前後して世を去り給ひ、又母后と法王と期りし如く従遊し給へる等の事実より思いつきて、後の僧徒の作為せし説話なるべし。(315頁、漢字の旧字体は改めた)

 粕谷氏はここで「玄聖」という語について検討し、太子の儒者的な側面を表すものとして孔子のことを指して讃えているものと指摘している(注1)。そして、「三宝」以下の文で太子の仏者的な側面を捉えて讃えているものとし、両者あいまって「是実大聖也。」ということになっているとしている。推古紀元年四月条にある太子のひととなりを表した文のうち、「また内教ほとけのみのり高麗こまほふし慧慈に習ひ、外典とつふみ博士はかせ覚哿かくかに学びたまふ。」と照応するものと解されるという。もちろん、それは「不可思議な話﹅﹅﹅﹅﹅﹅」であり、慧慈の言葉ではなくて、日本書紀の編纂述作者の聖徳太子観が述べられているところであるとしている。
 筆者はそうは思わない。日本書紀執筆者の聖徳太子観を語っている、ないしは、慧慈に語らせているとは考えにくい。わざわざとってつけたような話がくり広げられている。そもそも日本書紀に聖徳太子観を強調する必要はない(注2)。僧侶の間で伝えられたとしても日本書紀に載せるには及ばず、かといって慧慈の動静がほんとうに伝わっていたとも考えにくい。では、何のための記述か。日本書紀は歴史書という体裁をとりながらも、それが書かれ始めてからの天武朝後半以降を別にすれば、実のところエピソードを集大成したような形態に仕上がっている。そのことを考えれば腑に落ちるものがある。そう、すなわち、これは話(咄・噺・譚)なのである。 
 岩崎本傍訓に、「 ハ聖」とあり、ハルカナルヒジリと訓まれたであろうことが周知のこととされている。そして、「固天攸縦。以玄聖之徳、生日本之国。」は「まことあめゆるされたり。はるかなるひじりいきほひを以て、日本やまとの国にれませり。」と訓んで問題ない。意味は、「天からすぐれた資質をさずかり、はかり知れないひじりいきおいをおもちになって、日本の国にお生まれになった。」(笹山2020.186頁)である(注3)。「玄聖」が孔子など特定の先聖の人となると、太子は孔子の生まれ変わりというニュアンスに受けとられかねない。ブッダやイエス、観音菩薩の生まれ変わりという意味で文章を綴っているのではないことと同じである。そういうことではなく、「以玄聖之徳」とは、聖として極めて深い徳を備えている、そのことによって、という意味である。つまり、中途半端な「聖之徳」では「日本之国」には「生」まれては来られなかったであろうと言っている。
 我が国のことは、ヤマト(ノクニ)と呼ばれていた。万葉集では「日本」とも「倭」とも「山跡」などとも書かれて皆ヤマトと訓んでいる。日本書紀でも神代紀に訓注が施されている。

 すなはおほ日本やまと 日本、此には耶麻騰やまとと云ふ。しも皆此にならへ。とよあきしまを生む。(神代紀第四段本文)

 だから、「日本」と書いてあってもヤマトと訓み、「日本(之)国」もヤマトノクニと訓むことに誤りはない。ところが、慧慈は高麗の僧侶である。上に掲げた文にもあるとおり、経を読んで説くことをする。漢字に対する識字能力がある。そして、若き日に、来日して太子の家庭教師をしていた。古代朝鮮語、中国語音、ヤマトコトバを駆使できる語学の達人である。その人が高麗にいて太子の死を嘆いたと日本に伝わってきた。そういう話である。どうやって伝わったかについては二通り考えられる。誰かが来て話したか誰かが行って聞いたかというケースと、文書に記されたものが到来したというケースである。このへんの事情は記されていないが、伝わり方の前に慧慈のこととしてあるから、文書で伝えられたものと想定される(注4)。そして、高麗の人にとって、Japan が「日本」と書されると知れば、その意味するところへ興味が行くのも当然のことであろう。万葉集において、ヒノモトノという枕詞が使われているのと同じことである。

 …… もとの やまとの国の〔日本之山跡國乃〕 ……(万319)

 「ひじり」という言葉は「日知り」の意である。辞書の解説をあげる。

 ヒは「日」または「霊」、シリは「知り」(シルの連用形名詞)であろう。ただし、「日知り」の場合も、暦日をつかさどる(古代では農作業上、特に重要であった)意とも、日の吉凶を知る意とも、太陽がこの世の隅々まで照らすようにこの世のことをすべて知る意ともいう。『名義抄』には「聖・傑・僊」にヒジリ・ヒシリとある。人間離れした不思議な力をもつ人が原義であろう。徳行・知識に秀でた聖帝・聖人などから、不思議な力をもつ僧・修行者などを表すようになる。(古典基礎語辞典1020頁、この項、白井清子)

 広範に使われた語で、柔軟な解釈が求められる。ここでの用いられ方は単純である。要するに、よくよく「日知り」であったら、「日」の「本」の「国」に生まれてきた。誠にもって理にかなっている。「日」を知らなければ選択的に「日」の「本」の「国」に生まれてくることはなかったであろう(注5)。そのことを、「はるかなるひじりいきほひを以て、日本の国にれませり。(以玄聖之徳、生日本之国。)」と言っている。上宮太子は「玄聖之徳」、すなわち、「日知り」の奥義に通じていたから「ひじり」なのである。そして、慧慈は「ちぎりし日に当りてみまかる。(当于期日而死之。)」ことになっている。誓いを立てた二月五日ジャストに亡くなっている。予定日に実現してみせているから「日知り」であり、「ひじり」なのである(注6)
 「時の人のかれこれも共にはく、「其れ独り上宮太子の聖にましますのみにあらず。慧慈も聖なりけり」といふ。(時人之彼此共言、其独非上宮太子之聖。慧慈亦聖也。)」と、話の落ちが記されている。上宮太子は「日本」の「日知り」、慧慈は高麗の「日知り」であると高麗の国の人も日本の国の人も言っているとしている(注7)。高句麗で当時、Japan のことを「日本」と書き、その音で呼んでいたのか不明であるが、そういう話として成立せられている。少なくとも、慧慈やその周辺の人たちには、ヤマトのことを「日本」と書記すると知られていた、そのことを前提としてこの話は作られている。
 再度記して確認しておく。これは話(咄・噺・譚)である。日本書紀執筆者の聖徳太子観の表れでも、漢籍によった文飾でもない。

(注)
(注1)粕谷氏は、「玄聖」という字面に対して、漢籍のどこに出典が求められるか探して五例をあげ、孔子の意として「玄聖」が使われている例があるからそれに従うとしている。
(注2)聖徳太子の「聖」の話は、すでに推古紀二十一年十二月条、片岡山の飢者の逸話で語られている。ここは慧慈「聖」だという話である。
(注3)「まことに生来の優れた資質を持ち、極めて深い玄聖の徳を備えて、日本国にお生れになった。」(新編全集本578頁)とも訳されている。いずれの解釈でも、「以」を、持ち合わせて、備えて、具有して、の意と取っている。しかし、「以」は一般に、~によって、~を用いて、など、ある行動を行うにあたっての道具、材料などを表す。「抑も「もつて」といふ語は「もつ」といふ動詞が複語尾「て」につづけるものにして、国語本来の用法よりいへば、それを「用ゐて云々す」といふより他に意義あるべからざるなり。」(山田1935.273頁、漢字の旧字体は改めた)とすべきものである。つまり、玄聖の徳を用いて生まれる国を選んだ、という意に解するのが妥当である。
(注4)上掲の文は続けて次のようにある。

 とし新羅しらき奈末伊弥なまいみばいまだしてみつきたてまつる。仍りてふみたてまつりて使つかひむねまをす。およそ新羅の上表ふみたてまつること、けだし始めて此の時におこ)れるか。(是歳、新羅遣奈末伊弥買朝貢。仍以表書奏使旨。凡新羅上表、蓋始起于此時歟。)(推古紀二十九年是歳)

 一僧侶にすぎない慧慈の逸話が伝えられているなか、正式な外交文書もろくろく差し出されていない状態は新羅としてもまずいということに気づいた。そういうことが含意された記事である。話なのだから、実際にそうであったかは問題にならない。
(注5)日本に生まれたら皆ヒジリなのかという疑問は生じようが、「黎元おほみたから」には関係のないことである。なぜなら、彼らには識字能力がなく、ヤマトを「日本」と記すことを知らないからである。インテリである慧慈の喋ったことである。
(注6)語源的にそうではないとする説は、金田一1974.に見える。「しばしば「日を知るもの」が語源だと言われる。しかし平安時代のアクセントを見ると、⦅平上平⦆型でこの語源説には従いにくい。」(865頁、この項、金田一春彦)とある。今、話(咄・噺・譚)を探究している。洒落や地口を排除してはならない。
(注7)梅原2003.に、「同日に死ぬということは、二人の人間の深いえにしを示すという考えであろうか。もし膳部妃が太子より一日前に死んだとすれば、それは二人の間に太子と慧慈以上の深い縁があったことを示すものであろう。『日本書紀』の筆法をかりると「其れ独り上宮太子の聖にましますのみに非ず。膳部妃﹅﹅﹅も聖なりけり」ということになるが、なぜか、この膳部妃のことは『日本書紀』には書かれていないのである。」(686~687頁)とある。「縁」のことを言っているのではなく、ヒジリの駄洒落話をしているからである。
 現代の歴史学からするなら、この記事に「日本」とあることが重視されて然るべきであろう。「聖」は「日知り」だからここに「日本」と書いてなければ意は通じない。おそらく、聖徳太子によってヤマトは「日本」と書かれ始めたのだろう。中国の史書と照らし合わせられるように以下に引いておく。なお、念のために申し上げておくが、「日本」と表記したことがいわゆる“国号”を制定したことになるのか、対外的に国家の体裁を整えたとされることに当たるのか、短絡することはできない。言葉というものはそれほど平板、単純なものではない。

 日本国なる者は、倭国の別種なり。其の国の日辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す。或いは曰はく、「倭国、自ら其の名の雅ならざるをにくみ、改めて日本と為す」といふ。或いは云はく、「日本はもと小国、倭国の地をあはせたり」といふ。(日本国者、倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本。或云、日本旧小国、併倭国之地。)(旧唐書)
 日本は、いにしへの倭奴なり。……咸享元年、使を遣はし、高麗を平ぐるを賀す。後、やや夏音を習ひ、倭の名を悪み、あらためて日本と号す。使者自ら言はく、「国、日の出づる所に近し。以て名と為す」といふ。或いは云はく、日本は乃ち小国、倭の併する所と為る。故に其の号を冒せり」といふ。(日本、古倭奴也。……咸亨元年、遣使賀平高麗。後稍習夏音、悪倭名、更号日本。使者自言、国近日所出、以為名。或云日本乃小国、為倭所併。故冒其号。)(新唐書)

(引用・参考文献)
家永1972. 家永三郎『上宮聖徳法王帝説の研究 増訂版』三省堂、昭和47年。(『上宮聖徳法王帝説の研究 各論篇』三省堂出版、昭和26年)
梅原2003. 梅原猛『梅原猛著作集2 聖徳太子 下』小学館、2003年。
粕谷・荊木2021. 粕谷興紀・荊木美行『粕谷興紀日本書紀論集』燃焼社、令和3年。
金田一1974. 金田一春彦・三省堂編修所編『新明解古語辞典 補注版 第二版』三省堂、昭和49年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
笹山2020. 井上光貞監訳、笹山晴生訳『日本書紀 下』中央公論新社(中公文庫)、2020年。(井上光貞監訳『日本書紀 下』中央公論社、昭和62年。)
新編全集本 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。
大系本 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(四)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。(『日本書紀 下』岩波書店、1965年。)
山田1935. 山田孝雄『漢文の訓読によりて伝へられたる語法』宝文館、昭和10年。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1870273)

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