皇極紀に、新興宗教の記事が載る。
秋七月に、東国の不尽河の辺の人、大生部多、虫祭ることを村里の人に勧めて曰く、「此は常世の神なり。此の神を祭る者は、富と寿とを致す」といふ。巫覡等、遂に詐きて、神語に託せて曰く、「常世の神を祭らば、貧しき人は富を致し、老いたる人は還りて少ゆ」といふ。是に由りて、加勧めて、民の家の財宝を捨てしめ、酒を陳ね、菜・六畜を路の側に陳ねて、呼はしめて曰く、「新しき富入来れり」といふ。都鄙の人、常世の虫を取りて、清座に置きて、歌ひ儛ひて、福を求めて珍財を棄捨つ。都て益す所無くして、損り費ゆること極て甚し。是に、葛野の秦造河勝、民の惑はさるるを悪みて、大生部多を打つ。其の巫覡等、恐りて勧め祭ることを休む。
時の人、便ち歌を作りて曰く、
太秦は 神とも神と 聞え来る 常世の神を 打ち懲ますも(紀112)
此の虫は、常に橘の樹に生る。或いは曼椒に生る。曼椒、此には褒曽紀と云ふ。其の長さ四寸余、其の大きさ頭指許。其の色緑にして有黒点なり。其の㒵全ら養蚕に似れり。(皇極紀三年七月)
東国の富士川の近辺に住んでいる大生部多という人物が、アゲハチョウ(注1)の幼虫を常世神として祭れば富と長寿とを得ることができるとする民間信仰を主唱し、巫覡がそれを広めたため社会不安が生じた。そこで、葛野の秦河勝が大生部多を懲らしめて人心の乱れを制圧したという。この常世神信仰について、下出1958.は、「道教のマジックによる祭祀を基底として、これにシャーマニスティックな要素や、日本の原始信仰の心理などが加味されて発生した現象と考えてよい。」(38頁)とする。そして、道教と仏教の宗教間対立、相剋の例は中国では激しく見られたが、我が国ではほとんど唯一のものであると指摘している。また、大生部について、加藤1998.は、「「大生部」は「大壬生部」のことで、本来は「オオミブベ」と訓まれ、「オオフベ」に転訛した可能性が大きい。」(199頁)と推測している。それらの当否は決め難いので保留する。筆者は、聖徳太子に与えられていた壬生部がセミの幼虫、スクモムシをトーテムとし(注2)、富士川在住の大生部がアゲハチョウの幼虫の青虫をそれとしていて、両者が意味的によく対照している点に注目したい。話(咄・噺・譚)の世界のこととして了解されることが第一の課題である(注3)。
大生部が異教の常世神を信奉し、それを巫覡が奨励したことになっている。巫覡とは、祝とも呼ばれる神官や巫女のことである。また、和名抄に、「螟蛉 毛詩注に云はく、螟蛉〈冥霊の二音、阿乎牟之〉は蒼虫なり、水、中にある虫なりといふ。」とある。水が、皮一枚隔てた中にいっぱいに入っている虫で、潰すと青い汁でびしゃびしゃになる。青虫は、チョウやガの幼虫のうち、毛虫ではなくて緑色をした幼虫のことを総称している(注4)。橘の樹は柑橘類である。垂仁紀九十年二月条に、「天皇、田道間守に命せて、常世国に遣して、非時の香菓を求めしむ。香菓、此には箇倶能未と云ふ。今、橘と謂ふは是なり。」とある。曼椒は、和名抄に、「蔓椒 本草に蔓椒と云ふ。〈伊多知波之加美、一名に保曽岐〉」とある。それを食していて常世神と呼ぶとあれば、アゲハチョウの幼虫と見て間違いないであろう(注5)。
アゲハチョウの幼虫を神さまと崇めている。壬生部は蝉や船の帆のことを暗示している(注6)。そのことと対照すると捉えると、揚羽蝶が出てきたのは、揚張の意の、帳、幄、幌と書くアゲハリのことを示唆しているのであろう。和名抄に、「幄 四声字苑に云はく、幄〈於角反、阿計波利〉は大帳なりといふ。」、斉明紀二年是歳条に、「為に紺の幕を此の宮地に張りて、饗たまふ。」とある。今テントと呼ぶ仮屋である。柱を立て、桁梁を渡した上に、幔幕を張り巡らせ、綱で四方に引っ張って固定する。大生部多なる人物が、「不尽河辺人」と設定されていたのも、まさに富士山がテントの形に見えるからであり、「河辺」とあるのも野営のキャンプ地としてもってこいだからである。蝶のことは古語にカハヒラコである。新撰字鏡に、「蝶 徒頬反、蝶也、加波比良古」とある。河辺をひらひらと舞うことから命名されたものかとされている。そして、オホフベノオホなる名も、壬生部の帆と対照する「凡」なる、風を受けてひるがえる大きな布切れのことや、それによって「覆ふ」ことをもにおわせる役割を果たしている。幕によって覆うのである。
帳台のある光景(春日権現験記絵模、板橋貫雄模、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287490/15~16をトリミング接合)
類義語に、帳があり、ト(戸)+ハリ(張)の意で、室内の隔てとした。新撰字鏡に、「幌 窓簾也、止波利」、和名抄に、「幌 唐韻に云はく、幌〈胡広反、上声の重、止波利〉は帷幔なりといふ。」、「帳〈几帳付〉 釈名に云はく、帳〈猪亮反、俗に音は長、今案ふるに、之の属に几帳の名有り、出づる所未だ詳かならず〉は張なり、床の上に施し張るなり、小帳を斗〈俗に斗帳と云ふ。一に屏風帳と云ふ〉と曰ひ、形は覆斗の如きなりといふ。」とある。新撰字鏡に「窓簾」とある様は、円座・藁蓋を窓の塞ぎに使っていたのと同じことという意味である(注7)。トバリに似た音の語にトバニがあり、トコトバニ(常・永久)といった語が見える。すなわち、テントを張ることがとこしえに生命を永らえることを思わせるという洒落を言っている。そういう新興宗教である(注8)。
人々は常世の虫を「清座」に置いたとある。シキ(敷)+ヰ(居)の意である。「錦繍を以て席とす。」(武烈紀八年三月)、「手を把りて座に坐らしむ。」(敏達紀十二年是歳)、「官の羆の皮七十枚を借りて賓の席にす。」(斉明紀五年是歳)などとある。今の座布団に当たり、座るときに下に敷く茣蓙や筵の類をいう。わざわざ「清座」と書いてあるから、とてもきれいでふんわりした敷物のように思われ、それも高貴な人向けの御座のようである。その助数詞はヒラ(枚)であり、音にカハヒラコ(蝶)とつながっている。御座所のことは、オモト、オホト、オフモトなどという。トは乙類で、オホ(大)+モト(許)の約、ないし、トは所の意とも考えられている。「御座」(皇極紀四年六月)、「御所」(天武紀元年六月)、「皇居」(神功紀元年二月)、「幕下」・「麾下」(景行紀十二年十二月)、「側」(雄略紀七年是歳)、「天皇之所」(孝徳紀大化五年三月)、「天皇所」(斉明紀四年十一月)、「侍従」(常陸風土記・行方郡)といった例がある。
角川古語大辞典に、オモトという語の「「お」は接頭語。中世以後多用される御ではなく、「おまへ」「おまし」など、語頭がマ行音の語に付く場合に限って中古から用いられたもので、大(おほ)の転かとされる。」(625頁)とある。意味は、天皇の御座所のことである。中古以降、側近く仕える人、御許人のことも略してそう呼ぶようになっている。景行紀に「麾下」とあるように、天皇の玉座は幕の下、テントの内にあった。また、「侍従」という語には薫物の名の意もある。六種の薫物の一つに数えられ、沈香、丁子香、甲香、甘松香、熟鬱金香か麝香などを練り合わせて作ったものをいう。皇極紀の「六畜」は、「侍従」の別の意を彷彿させている。そしてまた、香りの良い橘の花をも連想させるものである。
オモトという語には、植物のオモトがある。万年青と記される。ユリ科の多年草で、山地の陰地に自生し、革質で常緑の葉が根茎から叢生している。夏に葉の間から花芽が出て、穂状に緑黄色の細花をつけ、赤色の液果となる。園芸品種に斑入りのもの、葉のくねったものなどがあり、高値で取引されたこともあった。特に、新築祝いに万年青を持っていく習慣がある。寺島良安・和漢三才図会に、「萬年青 三才図会に云はく、萬年青は葉、芭蕉に似て、隆冬にも衰えず、其の多寿を以て故に名づくといふ。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569770/14)とある。いつも青々しているところが、長生きや古びぬ家屋を印象づけるものと思われたのであろう。
植物のオモト
新築において青いことが喜ばれるのは畳である。女房と畳は新しい方がいいと言われるように、新しい畳は初々しく、さわやかで気持ちがいい。「清座」という表記がされていたのは、その御座が、青々と新しいものであったことを伝えるためであろう。帳台のなかに青畳を敷いて「清座」たるオモトとし、その上に青虫を置いて、ありがたや、ありがたやと祭ったという話である。長寿の願いが叶うとする論拠にしている。
当時は農本主義の時代である。富とは、直接的には満ち足りた食べ物が得られること、倉に米俵がたくさん貯蔵されていることで表されるのだろう。養老令・職員令に、大炊寮は「諸国からの舂米を始め穀類を収納」(『律令』179頁)することになっている。岩波古語辞典は、「唐名大倉にあたるが、訓読するとオホクラで大蔵と混同するので、大飯〈おほいひ〉の意で「大炊」としたものであろう。」(246頁)とする。ところが、二十巻本和名抄に、「大炊寮 於保為乃豆加佐」と訓じられている。炊の音はスヰだから、あるいはオホヒとオホヰとを兼ね合わせた洒落のような語を作ったものかもしれない。オホヒには、先に触れた幄、幕、幌による覆(ヒは甲類)があり、オホヰには、太藺の古名、莞がある。和名抄に、「莞 唐韻に云はく、莞〈音は完、一音に丸、漢語抄に於保井と云ふ〉は以て席とすべき者なりといふ。」、「藺 玉篇に云はく、藺〈音は吝、為、弁色立成に鷺尻刺と云ふ〉は莞に似て細く堅く、宜しく席とすべき者なりといふ。」とあり、また、「於保為具佐」(万3417)ともある。「鷺尻刺」とあるところは、聖徳太子とミトサギの関係を思い起こさせる(注9)。藺草は、茎は円柱形で表面は緑色、内部に白い髄があって葉は退化している。この茎を刈って莚や笠、草履、畳表にし、髄は灯芯に使った。ヰという語は、居敷にしたことに依るところが大きいと推測されている(注10)。「居」にする「藺」を織ったり編んだりして、収納した舂米の「覆」に使い、多くの「飯」を囲っているということを表しているようである。
高御座は、即位や朝賀等の大儀に際し、大極殿の中央に飾る浜床の上に帳をめぐらした天皇の玉座をいい、天皇の位のことも表すようになった。紀には、「壇場」(清寧紀元年正月・武烈即位前紀・天武紀二年二月)、「壇」(雄略前紀)、「天位」(推古紀三十六年三月)などと記される。高御座はまた、高座ともいい、周囲から一段高くなった座席のことで、天皇の玉座のほか、寺院に安置された仏像の前方両脇にあって、儀式に当たって高僧が座る高い座のこともいった。
そんな貴人の寝床、御座所として用いる方形の台座のことを浜床という。浜床は、また、浜縁のこともいい、神社の向拝の階段の下にある板の間の床のことも指した。神社は、お社自体が貴ばれるから拝殿前で参拝している。つまり、仏教での高座と、神道での浜床(浜縁)とは同等のものに当たる。浜床がそう呼ばれる由縁としては、四面に州浜の模様があるところからともされる。州浜とは、洲が大きくなって曲線的な出入りがあるような浜辺のことである。名義抄に、「渚 音煑、陼、或水也、ナキサ、スハマ、シマクニ、和シヨ」とある。大生部の対照を成す壬生部の壬という字は、干支の表記に用いられ、ミヅノエ、つまり、入り江のことを指す。州浜という語は、その湾状の形にならった島台の飾り物、州浜台のことも指し、蓬莱山をも表す。常世国を思い出させるイメージである。
帳台は、浜床の上に畳を敷き、四隅に柱を立てて帳をかけ、内部に几帳をめぐらせた調度のことであり、御帳台、帳、斗帳ともいう。このうち、寝殿の母屋にあって、天皇用の高いものを高御座と称している。つまり、高御座も浜床も帳台も、周囲よりも高くなった立派な座席のことで、帳をめぐらして周囲から囲われており、それはあるいは蚊帳のように虫除けの便があったかもしれず、頭上には天蓋のような覆いが被せられているものである。天皇の行幸の際の御座所の光景を彷彿とさせる。オホフベノオホ(大生部多)が清座に常世虫を祭るとあることで、覆っていることが強調されている。蚊帳の外にいるはずの虫が中にいるという本末転倒の話なのである。蚊帳が当時から吊るされて実用されていたであろうことは、紀に人名として「蚊屋采女」・「蚊屋皇子」(舒明紀二年正月)とある点から確かめられる。続千載和歌集・春上、能宣朝臣集の、「くれの春ふじの山近き所に人の家侍り」に、「草ふかみまだきつけたる蚊遣火とみゆるはふじの煙なりけり」と、富士山の噴煙を蚊遣火に譬えた歌が見える。富士山の形が蚊帳を吊っている形に似ているからこそ、この歌には妙味がある(注11)。
富士山が飛鳥・奈良時代当時噴火していたことについては、万葉集に例が見える。
…… 富士〔不尽〕の高嶺は 天雲の い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びも上らず 燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ ……(万319)
吾妹子に 逢ふ縁を無み 駿河なる 富士〔不尽〕の高嶺の 燃えつつか有らむ(万2695)
妹が名も 吾が名も立たば 惜しみこそ 富士〔布士〕の高嶺の 燃えつつ渡れ(万2697)
この新興宗教を弾圧した人物として、秦河勝が登場している。その理由としては、加藤1998.に、「この事件の真相は多が秦氏の養蚕信仰を換骨奪胎し、東国で新しい教えを起こしたことに対して、その波及による人心の動揺を恐れた中央政権の側が、鎮圧のために河勝を派遣したものと理解できる。」(56頁)とし、下出1958.には、「皇極紀のこの記事は、仏教側の代表者[秦河勝]が道教の系譜をひく[常世神]信仰に抑圧を加えたということになるのである。」(42頁)としている。いずれも後講釈である。秦河勝は蜂岡寺を作った。現在の太秦広隆寺につながるものとされている。
皇太子、諸の大夫に謂りて曰はく、「我、尊き仏像有てり。誰か是の像を得て恭拝らむ」とのたまふ。時に、秦造河勝進みて曰さく、「臣、拝みまつらむ」とまをす。便に仏像を受く。因りて蜂岡寺を造る。(推古紀十一年十一月)
広隆寺には、宝冠・宝髻二体の弥勒菩薩像が安置されており、半跏思惟像として名高い。その由来については、用材、製作時期などとあわせて諸説唱えられている。推古紀三十一年七月条の、新羅と任那の使者が来朝して「仏像一具」ほかを貢進したとあるところに、「即ち仏像をば葛野の秦寺に居しまさしむ。」と記されている。宝冠像は韓国国立中央博物館蔵の菩薩半跏像とよく似ている。私見では、この貢進の仏像が宝冠像のほうで、十一年条の仏像は宝髻像のほうであったと考える。平安初期の広隆寺資財校替実録帳に、「金色弥勒菩薩像壹躯。居高二尺八寸。所謂太子本願御形。……金色弥勒菩薩像壹躯。居高二尺八寸。」とある(注12)。美術史上はどちらがどちらに当たるか不明とされているが、飛鳥時代当時、宝髻の姿は、聖徳太子の「束髪於額」(崇峻前紀)の禿隠しヘアスタイルのようだと思われていたと推測する(注9)。
束髪於額?(広隆寺弥勒菩薩像、Internet Archive “Japanese Temples and their Treasures, Vol. 2” 14p.https://archive.org/details/JapaneseTempleTreasuresVol2/page/n13/mode/2up(14/157))
総角?(ウィキペディア「ナミアゲハの幼虫の臭角」、Alpsdake様撮影、https://ja.wikipedia.org/wiki/臭角)
広隆寺の名を蜂岡寺と言っていた。ハチ(蜂)は養蜂技術が百済王子の伝えるところであって外来文化に似つかわしい。「是歳、百済の王子余豊、蜜蜂の房四枚を以て、三輪山に放ち養ふ。而して終に蕃息らず。」(皇極紀二年是歳)とある。また、ハチ(鉢)は仏道修行者が使う食器のことをいう。「是の日に、越の蝦夷沙門道信に、仏像一躰、灌頂幡・鐘・鉢各一口、……賜ふ。」(持統紀三年正月)とある。頭蓋骨の額の部分が大きく碗状に広がっているのもハチと呼んでいて、今日そこに巻くものを鉢巻と呼ぶ。兜の頭部を覆う部分の名所のこともいう。古墳時代には多くの鉄製兜が作られていた。すなわち、「束髪於額」風の被り物をした宝冠・宝髻二体の弥勒菩薩像は、ハチの名を持つ寺に安置されてふさわしいわけである。常世の神信仰は、財宝、珍宝を棄捨して祭ったのであるが、それはとりもなおさず仏教の喜捨の似非行為であり、民を惑わす誤った托鉢なのであった(注13)。
秦河勝と不尽河の辺の人との対比は、頭髪の後退した人ならハチの張るのが目立つと自覚しているのに対して、富士額では隠れてしまってわからないことを示すものでもある。
現在、富士山絵画の最古のものは、延久元年(1069)に秦致貞が描いたとされる聖徳太子絵伝である。黒駒に乗り富士山に登る場面が、屏風第二双の上部に見られる。緑青の変色、剥落が甚だしいが、本来、緑色をした急斜面として描かれていた。これも聖徳太子伝暦の記述を基にしたもので、太子が27歳の時、甲斐国から献上された馬のなかから「神馬」を選んで飼育し、やがてその馬を馭して雲に浮かんで「神岳」まで至ったというのである。太子像の神格化のために富士山とを結び付けたとされることが通説となっている。例えば、成瀬2005.に、「聖徳太子を釈迦と同格として崇める説話に、富士山が選ばれた」(6頁)とある。そればかりではなく、几帳の裾を広げた帳台の姿や、ハチの広い額なりを意識して語られるようになっていたのではないか。
秦河勝と「束髪於額」との直接の関係について、紀に記載はないものの、延喜十七年(917)に藤原兼輔の撰とされる聖徳太子伝暦に、「是の時に太子生年十六なり。大軍の後に随ひて自ら忖りて曰く、「願に非ざれば濟り難し」といふ。乃ち軍の允する秦造川勝に命じて、白膠の木を取り四天王の像に刻み作りて、頂の髪に置きて、一に云はく、軍の鉾に擎げ立つといふ。而して願を発して曰く、「今我をして敵に勝たしめたまはば、必ず護世四天王を奉らん為に寺塔を起立せん」といふ。(是時太子生年十六、随大軍後。自忖曰、非願難濟。乃命軍允秦造川勝、取白膠木、刻作四天王像、置於頂髪。一云擎立軍鉾。而発願曰、今使我勝敵、必奉為護世四天王起立寺塔。)」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544996/20)とある。崇峻前紀で太子がしていた四天王像の彫像を河勝が行ったことになっている。秦河勝は、太子の禿を気づかう人物であったように見受けられる。大生部多が常世の神としていた青虫は、臭角を突出させると総角様になる。てっぺん禿の太子にはできず、もし総角にしてしまうとてっぺん禿が際立って見るに堪えないものになる(注9)。そうからかっていると感じられたのであろう。
この逸話は歌謡を伴っている。
時の人、便ち歌を作りて曰く、
太秦は 神とも神と 聞え来る 常世の神を 打ち懲ますも(紀112)
藤原2021.は、「歌謡のもつ機能」の面として、話を総括するべく歌謡が加えられてまとまっているとしている。「歌謡の機能」だから歌謡があるというのではトートロジーになってしまう。なぜ歌謡でなければならないのか、十分に把握したことになっていない。この歌謡の歌い手は「時の人」である。言い得て妙なことを歌にする。歌謡形式にして訴えたいのは、「常世の神」信仰を「打ち懲ます」ことをしたのが秦河勝だったことを説得的に述べることであると思われる。
秦河勝が「打ち懲ます」ことになっているのは、彼が「打ち懲ます」ことに慣れていると思われていたからと思われる。この「懲ます」は、こらしめる、処罰する、の意の「懲む」の尊敬語であるが、語幹を共にする「鍛ふ」と同根の語であろうとされている。「真金あり、鎔ひ銷し冶ち錬す、」(西大寺本金光明最勝王経平安初期点)、「釙 支太不」(新撰字鏡)などとある。熱を加えては打ち叩いて自由自在に曲げ伸ばし、重ね合わせてはまた同じことをくり返して、最終的にしっかりしたものに仕上げることである。
そのことにふさわしい存在として秦河勝は措定されている。かの聖徳太子から、正統な信仰対象である仏像を頂いて蜂岡寺に祭っている。ハチ(鉢)は鍛造に鍛えるものである。だから、彼のことを地名に当たるウツマサ(注14)と呼んで正しいのである。ウツマサはウツ(打)+マサ(正)、正しく、条理にかなって打つということである。だから、「神とも神と 聞え来る 常世の神」を相手にしても、打ち叩いて正しくすることであるよ、と定位できるのである。河勝は何を使って大生部多を打っているか。バチ(撥・桴・枹)に違いあるまい。和名抄に、「⼤皷〈枹附〉 律書楽図に云はく、爾雅に⼤皷〈今案ふるに、俗に或は之れを四皷、⼜は⼩皷と謂ひ、⼀⼆三の名有り、皆、節の次第に応ふるを以て名を取るなり〉は之れを⿎賁〈⾳は憤〉と謂ひ、即ち皷を建つと云ふなりといふ。兼名苑に云はく、槌は⼀名に枹〈⾳は浮、字は亦、桴に作る、俗に⾖々美乃波知と云ふ〉 は⼤皷を撃つ所以なりといふ。」とある。用例としては、「教を以て桴と為、理を以て皷と為し、言を以て之を宣ぶるを撃と<ruby為>
秋七月に、東国の不尽河の辺の人、大生部多、虫祭ることを村里の人に勧めて曰く、「此は常世の神なり。此の神を祭る者は、富と寿とを致す」といふ。巫覡等、遂に詐きて、神語に託せて曰く、「常世の神を祭らば、貧しき人は富を致し、老いたる人は還りて少ゆ」といふ。是に由りて、加勧めて、民の家の財宝を捨てしめ、酒を陳ね、菜・六畜を路の側に陳ねて、呼はしめて曰く、「新しき富入来れり」といふ。都鄙の人、常世の虫を取りて、清座に置きて、歌ひ儛ひて、福を求めて珍財を棄捨つ。都て益す所無くして、損り費ゆること極て甚し。是に、葛野の秦造河勝、民の惑はさるるを悪みて、大生部多を打つ。其の巫覡等、恐りて勧め祭ることを休む。
時の人、便ち歌を作りて曰く、
太秦は 神とも神と 聞え来る 常世の神を 打ち懲ますも(紀112)
此の虫は、常に橘の樹に生る。或いは曼椒に生る。曼椒、此には褒曽紀と云ふ。其の長さ四寸余、其の大きさ頭指許。其の色緑にして有黒点なり。其の㒵全ら養蚕に似れり。(皇極紀三年七月)
東国の富士川の近辺に住んでいる大生部多という人物が、アゲハチョウ(注1)の幼虫を常世神として祭れば富と長寿とを得ることができるとする民間信仰を主唱し、巫覡がそれを広めたため社会不安が生じた。そこで、葛野の秦河勝が大生部多を懲らしめて人心の乱れを制圧したという。この常世神信仰について、下出1958.は、「道教のマジックによる祭祀を基底として、これにシャーマニスティックな要素や、日本の原始信仰の心理などが加味されて発生した現象と考えてよい。」(38頁)とする。そして、道教と仏教の宗教間対立、相剋の例は中国では激しく見られたが、我が国ではほとんど唯一のものであると指摘している。また、大生部について、加藤1998.は、「「大生部」は「大壬生部」のことで、本来は「オオミブベ」と訓まれ、「オオフベ」に転訛した可能性が大きい。」(199頁)と推測している。それらの当否は決め難いので保留する。筆者は、聖徳太子に与えられていた壬生部がセミの幼虫、スクモムシをトーテムとし(注2)、富士川在住の大生部がアゲハチョウの幼虫の青虫をそれとしていて、両者が意味的によく対照している点に注目したい。話(咄・噺・譚)の世界のこととして了解されることが第一の課題である(注3)。
大生部が異教の常世神を信奉し、それを巫覡が奨励したことになっている。巫覡とは、祝とも呼ばれる神官や巫女のことである。また、和名抄に、「螟蛉 毛詩注に云はく、螟蛉〈冥霊の二音、阿乎牟之〉は蒼虫なり、水、中にある虫なりといふ。」とある。水が、皮一枚隔てた中にいっぱいに入っている虫で、潰すと青い汁でびしゃびしゃになる。青虫は、チョウやガの幼虫のうち、毛虫ではなくて緑色をした幼虫のことを総称している(注4)。橘の樹は柑橘類である。垂仁紀九十年二月条に、「天皇、田道間守に命せて、常世国に遣して、非時の香菓を求めしむ。香菓、此には箇倶能未と云ふ。今、橘と謂ふは是なり。」とある。曼椒は、和名抄に、「蔓椒 本草に蔓椒と云ふ。〈伊多知波之加美、一名に保曽岐〉」とある。それを食していて常世神と呼ぶとあれば、アゲハチョウの幼虫と見て間違いないであろう(注5)。
アゲハチョウの幼虫を神さまと崇めている。壬生部は蝉や船の帆のことを暗示している(注6)。そのことと対照すると捉えると、揚羽蝶が出てきたのは、揚張の意の、帳、幄、幌と書くアゲハリのことを示唆しているのであろう。和名抄に、「幄 四声字苑に云はく、幄〈於角反、阿計波利〉は大帳なりといふ。」、斉明紀二年是歳条に、「為に紺の幕を此の宮地に張りて、饗たまふ。」とある。今テントと呼ぶ仮屋である。柱を立て、桁梁を渡した上に、幔幕を張り巡らせ、綱で四方に引っ張って固定する。大生部多なる人物が、「不尽河辺人」と設定されていたのも、まさに富士山がテントの形に見えるからであり、「河辺」とあるのも野営のキャンプ地としてもってこいだからである。蝶のことは古語にカハヒラコである。新撰字鏡に、「蝶 徒頬反、蝶也、加波比良古」とある。河辺をひらひらと舞うことから命名されたものかとされている。そして、オホフベノオホなる名も、壬生部の帆と対照する「凡」なる、風を受けてひるがえる大きな布切れのことや、それによって「覆ふ」ことをもにおわせる役割を果たしている。幕によって覆うのである。
帳台のある光景(春日権現験記絵模、板橋貫雄模、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287490/15~16をトリミング接合)
類義語に、帳があり、ト(戸)+ハリ(張)の意で、室内の隔てとした。新撰字鏡に、「幌 窓簾也、止波利」、和名抄に、「幌 唐韻に云はく、幌〈胡広反、上声の重、止波利〉は帷幔なりといふ。」、「帳〈几帳付〉 釈名に云はく、帳〈猪亮反、俗に音は長、今案ふるに、之の属に几帳の名有り、出づる所未だ詳かならず〉は張なり、床の上に施し張るなり、小帳を斗〈俗に斗帳と云ふ。一に屏風帳と云ふ〉と曰ひ、形は覆斗の如きなりといふ。」とある。新撰字鏡に「窓簾」とある様は、円座・藁蓋を窓の塞ぎに使っていたのと同じことという意味である(注7)。トバリに似た音の語にトバニがあり、トコトバニ(常・永久)といった語が見える。すなわち、テントを張ることがとこしえに生命を永らえることを思わせるという洒落を言っている。そういう新興宗教である(注8)。
人々は常世の虫を「清座」に置いたとある。シキ(敷)+ヰ(居)の意である。「錦繍を以て席とす。」(武烈紀八年三月)、「手を把りて座に坐らしむ。」(敏達紀十二年是歳)、「官の羆の皮七十枚を借りて賓の席にす。」(斉明紀五年是歳)などとある。今の座布団に当たり、座るときに下に敷く茣蓙や筵の類をいう。わざわざ「清座」と書いてあるから、とてもきれいでふんわりした敷物のように思われ、それも高貴な人向けの御座のようである。その助数詞はヒラ(枚)であり、音にカハヒラコ(蝶)とつながっている。御座所のことは、オモト、オホト、オフモトなどという。トは乙類で、オホ(大)+モト(許)の約、ないし、トは所の意とも考えられている。「御座」(皇極紀四年六月)、「御所」(天武紀元年六月)、「皇居」(神功紀元年二月)、「幕下」・「麾下」(景行紀十二年十二月)、「側」(雄略紀七年是歳)、「天皇之所」(孝徳紀大化五年三月)、「天皇所」(斉明紀四年十一月)、「侍従」(常陸風土記・行方郡)といった例がある。
角川古語大辞典に、オモトという語の「「お」は接頭語。中世以後多用される御ではなく、「おまへ」「おまし」など、語頭がマ行音の語に付く場合に限って中古から用いられたもので、大(おほ)の転かとされる。」(625頁)とある。意味は、天皇の御座所のことである。中古以降、側近く仕える人、御許人のことも略してそう呼ぶようになっている。景行紀に「麾下」とあるように、天皇の玉座は幕の下、テントの内にあった。また、「侍従」という語には薫物の名の意もある。六種の薫物の一つに数えられ、沈香、丁子香、甲香、甘松香、熟鬱金香か麝香などを練り合わせて作ったものをいう。皇極紀の「六畜」は、「侍従」の別の意を彷彿させている。そしてまた、香りの良い橘の花をも連想させるものである。
オモトという語には、植物のオモトがある。万年青と記される。ユリ科の多年草で、山地の陰地に自生し、革質で常緑の葉が根茎から叢生している。夏に葉の間から花芽が出て、穂状に緑黄色の細花をつけ、赤色の液果となる。園芸品種に斑入りのもの、葉のくねったものなどがあり、高値で取引されたこともあった。特に、新築祝いに万年青を持っていく習慣がある。寺島良安・和漢三才図会に、「萬年青 三才図会に云はく、萬年青は葉、芭蕉に似て、隆冬にも衰えず、其の多寿を以て故に名づくといふ。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569770/14)とある。いつも青々しているところが、長生きや古びぬ家屋を印象づけるものと思われたのであろう。
植物のオモト
新築において青いことが喜ばれるのは畳である。女房と畳は新しい方がいいと言われるように、新しい畳は初々しく、さわやかで気持ちがいい。「清座」という表記がされていたのは、その御座が、青々と新しいものであったことを伝えるためであろう。帳台のなかに青畳を敷いて「清座」たるオモトとし、その上に青虫を置いて、ありがたや、ありがたやと祭ったという話である。長寿の願いが叶うとする論拠にしている。
当時は農本主義の時代である。富とは、直接的には満ち足りた食べ物が得られること、倉に米俵がたくさん貯蔵されていることで表されるのだろう。養老令・職員令に、大炊寮は「諸国からの舂米を始め穀類を収納」(『律令』179頁)することになっている。岩波古語辞典は、「唐名大倉にあたるが、訓読するとオホクラで大蔵と混同するので、大飯〈おほいひ〉の意で「大炊」としたものであろう。」(246頁)とする。ところが、二十巻本和名抄に、「大炊寮 於保為乃豆加佐」と訓じられている。炊の音はスヰだから、あるいはオホヒとオホヰとを兼ね合わせた洒落のような語を作ったものかもしれない。オホヒには、先に触れた幄、幕、幌による覆(ヒは甲類)があり、オホヰには、太藺の古名、莞がある。和名抄に、「莞 唐韻に云はく、莞〈音は完、一音に丸、漢語抄に於保井と云ふ〉は以て席とすべき者なりといふ。」、「藺 玉篇に云はく、藺〈音は吝、為、弁色立成に鷺尻刺と云ふ〉は莞に似て細く堅く、宜しく席とすべき者なりといふ。」とあり、また、「於保為具佐」(万3417)ともある。「鷺尻刺」とあるところは、聖徳太子とミトサギの関係を思い起こさせる(注9)。藺草は、茎は円柱形で表面は緑色、内部に白い髄があって葉は退化している。この茎を刈って莚や笠、草履、畳表にし、髄は灯芯に使った。ヰという語は、居敷にしたことに依るところが大きいと推測されている(注10)。「居」にする「藺」を織ったり編んだりして、収納した舂米の「覆」に使い、多くの「飯」を囲っているということを表しているようである。
高御座は、即位や朝賀等の大儀に際し、大極殿の中央に飾る浜床の上に帳をめぐらした天皇の玉座をいい、天皇の位のことも表すようになった。紀には、「壇場」(清寧紀元年正月・武烈即位前紀・天武紀二年二月)、「壇」(雄略前紀)、「天位」(推古紀三十六年三月)などと記される。高御座はまた、高座ともいい、周囲から一段高くなった座席のことで、天皇の玉座のほか、寺院に安置された仏像の前方両脇にあって、儀式に当たって高僧が座る高い座のこともいった。
そんな貴人の寝床、御座所として用いる方形の台座のことを浜床という。浜床は、また、浜縁のこともいい、神社の向拝の階段の下にある板の間の床のことも指した。神社は、お社自体が貴ばれるから拝殿前で参拝している。つまり、仏教での高座と、神道での浜床(浜縁)とは同等のものに当たる。浜床がそう呼ばれる由縁としては、四面に州浜の模様があるところからともされる。州浜とは、洲が大きくなって曲線的な出入りがあるような浜辺のことである。名義抄に、「渚 音煑、陼、或水也、ナキサ、スハマ、シマクニ、和シヨ」とある。大生部の対照を成す壬生部の壬という字は、干支の表記に用いられ、ミヅノエ、つまり、入り江のことを指す。州浜という語は、その湾状の形にならった島台の飾り物、州浜台のことも指し、蓬莱山をも表す。常世国を思い出させるイメージである。
帳台は、浜床の上に畳を敷き、四隅に柱を立てて帳をかけ、内部に几帳をめぐらせた調度のことであり、御帳台、帳、斗帳ともいう。このうち、寝殿の母屋にあって、天皇用の高いものを高御座と称している。つまり、高御座も浜床も帳台も、周囲よりも高くなった立派な座席のことで、帳をめぐらして周囲から囲われており、それはあるいは蚊帳のように虫除けの便があったかもしれず、頭上には天蓋のような覆いが被せられているものである。天皇の行幸の際の御座所の光景を彷彿とさせる。オホフベノオホ(大生部多)が清座に常世虫を祭るとあることで、覆っていることが強調されている。蚊帳の外にいるはずの虫が中にいるという本末転倒の話なのである。蚊帳が当時から吊るされて実用されていたであろうことは、紀に人名として「蚊屋采女」・「蚊屋皇子」(舒明紀二年正月)とある点から確かめられる。続千載和歌集・春上、能宣朝臣集の、「くれの春ふじの山近き所に人の家侍り」に、「草ふかみまだきつけたる蚊遣火とみゆるはふじの煙なりけり」と、富士山の噴煙を蚊遣火に譬えた歌が見える。富士山の形が蚊帳を吊っている形に似ているからこそ、この歌には妙味がある(注11)。
富士山が飛鳥・奈良時代当時噴火していたことについては、万葉集に例が見える。
…… 富士〔不尽〕の高嶺は 天雲の い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びも上らず 燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ ……(万319)
吾妹子に 逢ふ縁を無み 駿河なる 富士〔不尽〕の高嶺の 燃えつつか有らむ(万2695)
妹が名も 吾が名も立たば 惜しみこそ 富士〔布士〕の高嶺の 燃えつつ渡れ(万2697)
この新興宗教を弾圧した人物として、秦河勝が登場している。その理由としては、加藤1998.に、「この事件の真相は多が秦氏の養蚕信仰を換骨奪胎し、東国で新しい教えを起こしたことに対して、その波及による人心の動揺を恐れた中央政権の側が、鎮圧のために河勝を派遣したものと理解できる。」(56頁)とし、下出1958.には、「皇極紀のこの記事は、仏教側の代表者[秦河勝]が道教の系譜をひく[常世神]信仰に抑圧を加えたということになるのである。」(42頁)としている。いずれも後講釈である。秦河勝は蜂岡寺を作った。現在の太秦広隆寺につながるものとされている。
皇太子、諸の大夫に謂りて曰はく、「我、尊き仏像有てり。誰か是の像を得て恭拝らむ」とのたまふ。時に、秦造河勝進みて曰さく、「臣、拝みまつらむ」とまをす。便に仏像を受く。因りて蜂岡寺を造る。(推古紀十一年十一月)
広隆寺には、宝冠・宝髻二体の弥勒菩薩像が安置されており、半跏思惟像として名高い。その由来については、用材、製作時期などとあわせて諸説唱えられている。推古紀三十一年七月条の、新羅と任那の使者が来朝して「仏像一具」ほかを貢進したとあるところに、「即ち仏像をば葛野の秦寺に居しまさしむ。」と記されている。宝冠像は韓国国立中央博物館蔵の菩薩半跏像とよく似ている。私見では、この貢進の仏像が宝冠像のほうで、十一年条の仏像は宝髻像のほうであったと考える。平安初期の広隆寺資財校替実録帳に、「金色弥勒菩薩像壹躯。居高二尺八寸。所謂太子本願御形。……金色弥勒菩薩像壹躯。居高二尺八寸。」とある(注12)。美術史上はどちらがどちらに当たるか不明とされているが、飛鳥時代当時、宝髻の姿は、聖徳太子の「束髪於額」(崇峻前紀)の禿隠しヘアスタイルのようだと思われていたと推測する(注9)。
束髪於額?(広隆寺弥勒菩薩像、Internet Archive “Japanese Temples and their Treasures, Vol. 2” 14p.https://archive.org/details/JapaneseTempleTreasuresVol2/page/n13/mode/2up(14/157))
総角?(ウィキペディア「ナミアゲハの幼虫の臭角」、Alpsdake様撮影、https://ja.wikipedia.org/wiki/臭角)
広隆寺の名を蜂岡寺と言っていた。ハチ(蜂)は養蜂技術が百済王子の伝えるところであって外来文化に似つかわしい。「是歳、百済の王子余豊、蜜蜂の房四枚を以て、三輪山に放ち養ふ。而して終に蕃息らず。」(皇極紀二年是歳)とある。また、ハチ(鉢)は仏道修行者が使う食器のことをいう。「是の日に、越の蝦夷沙門道信に、仏像一躰、灌頂幡・鐘・鉢各一口、……賜ふ。」(持統紀三年正月)とある。頭蓋骨の額の部分が大きく碗状に広がっているのもハチと呼んでいて、今日そこに巻くものを鉢巻と呼ぶ。兜の頭部を覆う部分の名所のこともいう。古墳時代には多くの鉄製兜が作られていた。すなわち、「束髪於額」風の被り物をした宝冠・宝髻二体の弥勒菩薩像は、ハチの名を持つ寺に安置されてふさわしいわけである。常世の神信仰は、財宝、珍宝を棄捨して祭ったのであるが、それはとりもなおさず仏教の喜捨の似非行為であり、民を惑わす誤った托鉢なのであった(注13)。
秦河勝と不尽河の辺の人との対比は、頭髪の後退した人ならハチの張るのが目立つと自覚しているのに対して、富士額では隠れてしまってわからないことを示すものでもある。
現在、富士山絵画の最古のものは、延久元年(1069)に秦致貞が描いたとされる聖徳太子絵伝である。黒駒に乗り富士山に登る場面が、屏風第二双の上部に見られる。緑青の変色、剥落が甚だしいが、本来、緑色をした急斜面として描かれていた。これも聖徳太子伝暦の記述を基にしたもので、太子が27歳の時、甲斐国から献上された馬のなかから「神馬」を選んで飼育し、やがてその馬を馭して雲に浮かんで「神岳」まで至ったというのである。太子像の神格化のために富士山とを結び付けたとされることが通説となっている。例えば、成瀬2005.に、「聖徳太子を釈迦と同格として崇める説話に、富士山が選ばれた」(6頁)とある。そればかりではなく、几帳の裾を広げた帳台の姿や、ハチの広い額なりを意識して語られるようになっていたのではないか。
秦河勝と「束髪於額」との直接の関係について、紀に記載はないものの、延喜十七年(917)に藤原兼輔の撰とされる聖徳太子伝暦に、「是の時に太子生年十六なり。大軍の後に随ひて自ら忖りて曰く、「願に非ざれば濟り難し」といふ。乃ち軍の允する秦造川勝に命じて、白膠の木を取り四天王の像に刻み作りて、頂の髪に置きて、一に云はく、軍の鉾に擎げ立つといふ。而して願を発して曰く、「今我をして敵に勝たしめたまはば、必ず護世四天王を奉らん為に寺塔を起立せん」といふ。(是時太子生年十六、随大軍後。自忖曰、非願難濟。乃命軍允秦造川勝、取白膠木、刻作四天王像、置於頂髪。一云擎立軍鉾。而発願曰、今使我勝敵、必奉為護世四天王起立寺塔。)」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544996/20)とある。崇峻前紀で太子がしていた四天王像の彫像を河勝が行ったことになっている。秦河勝は、太子の禿を気づかう人物であったように見受けられる。大生部多が常世の神としていた青虫は、臭角を突出させると総角様になる。てっぺん禿の太子にはできず、もし総角にしてしまうとてっぺん禿が際立って見るに堪えないものになる(注9)。そうからかっていると感じられたのであろう。
この逸話は歌謡を伴っている。
時の人、便ち歌を作りて曰く、
太秦は 神とも神と 聞え来る 常世の神を 打ち懲ますも(紀112)
藤原2021.は、「歌謡のもつ機能」の面として、話を総括するべく歌謡が加えられてまとまっているとしている。「歌謡の機能」だから歌謡があるというのではトートロジーになってしまう。なぜ歌謡でなければならないのか、十分に把握したことになっていない。この歌謡の歌い手は「時の人」である。言い得て妙なことを歌にする。歌謡形式にして訴えたいのは、「常世の神」信仰を「打ち懲ます」ことをしたのが秦河勝だったことを説得的に述べることであると思われる。
秦河勝が「打ち懲ます」ことになっているのは、彼が「打ち懲ます」ことに慣れていると思われていたからと思われる。この「懲ます」は、こらしめる、処罰する、の意の「懲む」の尊敬語であるが、語幹を共にする「鍛ふ」と同根の語であろうとされている。「真金あり、鎔ひ銷し冶ち錬す、」(西大寺本金光明最勝王経平安初期点)、「釙 支太不」(新撰字鏡)などとある。熱を加えては打ち叩いて自由自在に曲げ伸ばし、重ね合わせてはまた同じことをくり返して、最終的にしっかりしたものに仕上げることである。
そのことにふさわしい存在として秦河勝は措定されている。かの聖徳太子から、正統な信仰対象である仏像を頂いて蜂岡寺に祭っている。ハチ(鉢)は鍛造に鍛えるものである。だから、彼のことを地名に当たるウツマサ(注14)と呼んで正しいのである。ウツマサはウツ(打)+マサ(正)、正しく、条理にかなって打つということである。だから、「神とも神と 聞え来る 常世の神」を相手にしても、打ち叩いて正しくすることであるよ、と定位できるのである。河勝は何を使って大生部多を打っているか。バチ(撥・桴・枹)に違いあるまい。和名抄に、「⼤皷〈枹附〉 律書楽図に云はく、爾雅に⼤皷〈今案ふるに、俗に或は之れを四皷、⼜は⼩皷と謂ひ、⼀⼆三の名有り、皆、節の次第に応ふるを以て名を取るなり〉は之れを⿎賁〈⾳は憤〉と謂ひ、即ち皷を建つと云ふなりといふ。兼名苑に云はく、槌は⼀名に枹〈⾳は浮、字は亦、桴に作る、俗に⾖々美乃波知と云ふ〉 は⼤皷を撃つ所以なりといふ。」とある。用例としては、「教を以て桴と為、理を以て皷と為し、言を以て之を宣ぶるを撃と<ruby為>