古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

皇極紀の新興宗教─太秦(うつまさ)は 神とも神と 聞え来る 常世の神を 打ち懲(きた)ますも─

2022年07月15日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 皇極紀に、新興宗教の記事が載る。

 秋七月に、東国あづまのくに不尽河ふじのかはほとりの人、大生部多おほふべのおほ、虫祭ることを村里の人に勧めて曰く、「これ常世とこよの神なり。此の神を祭るひとは、富と寿いのちとを致す」といふ。巫覡かむなぎ、遂にあざむきて、神語かむことせて曰く、「常世の神を祭らば、貧しき人は富を致し、老いたる人は還りてわかゆ」といふ。是に由りて、ますます勧めて、おほみたからの家の財宝たからものを捨てしめ、酒をつらね、菜・六畜むくさのけものを路のほとりに陳ねて、よばはしめて曰く、「にひしき富入来きたれり」といふ。都鄙みやこひなの人、常世の虫を取りて、清座しきゐに置きて、歌ひひて、さいはひを求めて珍財たから棄捨つ。かつす所無くして、おとつひゆること極て甚し。是に、葛野かどの秦造河勝はだのみやつこかはかつ、民の惑はさるるをにくみて、大生部多を打つ。其の巫覡等、恐りて勧め祭ることをむ。
 時の人、便ち歌を作りて曰く、
  太秦うつまさは 神とも神と 聞え来る 常世の神を 打ちきたますも(紀112)
此の虫は、常に橘の樹にる。或いは曼椒ほそきに生る。曼椒、此には褒曽紀ほそきと云ふ。其の長さ四寸よき余、其の大きさ頭指おほよびばかり。其の色緑にして有黒点くろまだらなり。其のかたちもは養蚕かひごれり。(皇極紀三年七月)

 東国の富士川の近辺に住んでいる大生部多という人物が、アゲハチョウ(注1)の幼虫を常世神として祭れば富と長寿とを得ることができるとする民間信仰を主唱し、巫覡がそれを広めたため社会不安が生じた。そこで、葛野の秦河勝が大生部多を懲らしめて人心の乱れを制圧したという。この常世神信仰について、下出1958.は、「道教のマジックによる祭祀を基底として、これにシャーマニスティックな要素や、日本の原始信仰の心理などが加味されて発生した現象と考えてよい。」(38頁)とする。そして、道教と仏教の宗教間対立、相剋の例は中国では激しく見られたが、我が国ではほとんど唯一のものであると指摘している。また、大生部について、加藤1998.は、「「大生部」は「大壬生部」のことで、本来は「オオミブベ」と訓まれ、「オオフベ」に転訛した可能性が大きい。」(199頁)と推測している。それらの当否は決め難いので保留する。筆者は、聖徳太子に与えられていた壬生部みぶべがセミの幼虫、スクモムシをトーテムとし(注2)、富士川在住の大生部がアゲハチョウの幼虫の青虫をそれとしていて、両者が意味的によく対照している点に注目したい。話(咄・噺・譚)の世界のこととして了解されることが第一の課題である(注3)
 大生部が異教の常世神を信奉し、それを巫覡が奨励したことになっている。巫覡かむなぎとは、はふりとも呼ばれる神官や巫女のことである。また、和名抄に、「螟蛉 毛詩注に云はく、螟蛉〈冥霊の二音、阿乎牟之あをむし〉は蒼虫なり、水、中にある虫なりといふ。」とある。水が、皮一枚隔てた中にいっぱいに入っている虫で、潰すと青い汁でびしゃびしゃになる。青虫は、チョウやガの幼虫のうち、毛虫ではなくて緑色をした幼虫のことを総称している(注4)。橘の樹は柑橘類である。垂仁紀九十年二月条に、「天皇、田道間守たぢまもりみことおほせて、常世国とこよのくにに遣して、非時ときじく香菓かくのみを求めしむ。香菓、此には箇倶能未かくのみと云ふ。今、橘と謂ふは是なり。」とある。曼椒は、和名抄に、「蔓椒 本草に蔓椒と云ふ。〈伊多知波之加美いたちはじかみ、一名に保曽岐ほそき〉」とある。それを食していて常世神と呼ぶとあれば、アゲハチョウの幼虫と見て間違いないであろう(注5)
 アゲハチョウの幼虫を神さまと崇めている。壬生部は蝉や船の帆のことを暗示している(注6)。そのことと対照すると捉えると、揚羽蝶が出てきたのは、揚張の意の、帳、幄、幌と書くアゲハリのことを示唆しているのであろう。和名抄に、「幄 四声字苑に云はく、幄〈於角反、阿計波利あげはり〉は大帳なりといふ。」、斉明紀二年是歳条に、「為にふかきはなだあげはりを此の宮地みやどころに張りて、あへたまふ。」とある。今テントと呼ぶ仮屋である。柱を立て、桁梁を渡した上に、幔幕を張り巡らせ、綱で四方に引っ張って固定する。大生部多なる人物が、「不尽河辺人」と設定されていたのも、まさに富士山がテントの形に見えるからであり、「河辺」とあるのも野営のキャンプ地としてもってこいだからである。蝶のことは古語にカハヒラコである。新撰字鏡に、「蝶 徒頬反、蝶也、加波比良古かはひらこ」とある。河辺をひらひらと舞うことから命名されたものかとされている。そして、オホフベノオホなる名も、壬生部の帆と対照する「おほ」なる、風を受けてひるがえる大きな布切れのことや、それによって「おほふ」ことをもにおわせる役割を果たしている。幕によって覆うのである。
帳台のある光景(春日権現験記絵模、板橋貫雄模、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287490/15~16をトリミング接合)
 類義語に、とばりがあり、ト(戸)+ハリ(張)の意で、室内の隔てとした。新撰字鏡に、「幌 窓簾也、止波利とばり」、和名抄に、「幌 唐韻に云はく、幌〈胡広反、上声の重、止波利とばり〉は帷幔なりといふ。」、「帳〈几帳付〉 釈名に云はく、帳〈猪亮反、俗に音は長、今案ふるに、之の属に几帳の名有り、出づる所未だ詳かならず〉は張なり、床の上に施し張るなり、小帳を斗〈俗に斗帳と云ふ。一に屏風帳と云ふ〉と曰ひ、形は覆斗の如きなりといふ。」とある。新撰字鏡に「窓簾」とある様は、円座・藁蓋を窓の塞ぎに使っていたのと同じことという意味である(注7)。トバリに似た音の語にトバニがあり、トコトバニ(常・永久)といった語が見える。すなわち、テントを張ることがとこしえに生命を永らえることを思わせるという洒落を言っている。そういう新興宗教である(注8)
 人々は常世の虫を「清座しきゐ」に置いたとある。シキ(敷)+ヰ(居)の意である。「錦繍にしきぬひものを以てしきゐとす。」(武烈紀八年三月)、「手をりてしきゐに坐らしむ。」(敏達紀十二年是歳)、「おほやけしくまの皮七十枚ななそひらを借りてまらうとしきゐにす。」(斉明紀五年是歳)などとある。今の座布団に当たり、座るときに下に敷く茣蓙や筵の類をいう。わざわざ「清座」と書いてあるから、とてもきれいでふんわりした敷物のように思われ、それも高貴な人向けの御座のようである。その助数詞はヒラ(枚)であり、音にカハヒラコ(蝶)とつながっている。御座所のことは、オモト、オホト、オフモトなどという。トは乙類で、オホ(大)+モト(許)の約、ないし、トは所の意とも考えられている。「御座おもと」(皇極紀四年六月)、「御所おほと」(天武紀元年六月)、「皇居おほもと」(神功紀元年二月)、「幕下おもと」・「麾下おもと」(景行紀十二年十二月)、「おもと」(雄略紀七年是歳)、「天皇之所みもと」(孝徳紀大化五年三月)、「天皇所おもと」(斉明紀四年十一月)、「侍従おもとびと」(常陸風土記・行方郡)といった例がある。
 角川古語大辞典に、オモトという語の「「お」は接頭語。中世以後多用されるではなく、「おまへ」「おまし」など、語頭がマ行音の語に付く場合に限って中古から用いられたもので、大(おほ)の転かとされる。」(625頁)とある。意味は、天皇の御座所のことである。中古以降、側近く仕える人、御許人おもとびとのことも略してそう呼ぶようになっている。景行紀に「麾下」とあるように、天皇の玉座は幕の下、テントの内にあった。また、「侍従」という語には薫物の名の意もある。六種むくさの薫物の一つに数えられ、沈香、丁子香、甲香、甘松香、熟鬱金香か麝香などを練り合わせて作ったものをいう。皇極紀の「六畜むくさのけもの」は、「侍従」の別の意を彷彿させている。そしてまた、香りの良い橘の花をも連想させるものである。
 オモトという語には、植物のオモトがある。万年青と記される。ユリ科の多年草で、山地の陰地に自生し、革質で常緑の葉が根茎から叢生している。夏に葉の間から花芽が出て、穂状に緑黄色の細花をつけ、赤色の液果となる。園芸品種に斑入りのもの、葉のくねったものなどがあり、高値で取引されたこともあった。特に、新築祝いに万年青を持っていく習慣がある。寺島良安・和漢三才図会に、「萬年青 三才図会に云はく、萬年青は葉、芭蕉に似て、隆冬にも衰えず、其の多寿を以て故に名づくといふ。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569770/14)とある。いつも青々しているところが、長生きや古びぬ家屋を印象づけるものと思われたのであろう。
植物のオモト
 新築において青いことが喜ばれるのは畳である。女房と畳は新しい方がいいと言われるように、新しい畳は初々しく、さわやかで気持ちがいい。「清座」という表記がされていたのは、その御座が、青々と新しいものであったことを伝えるためであろう。帳台のなかに青畳を敷いて「清座」たるオモトとし、その上に青虫を置いて、ありがたや、ありがたやと祭ったという話である。長寿の願いが叶うとする論拠にしている。
 当時は農本主義の時代である。富とは、直接的には満ち足りた食べ物が得られること、倉に米俵がたくさん貯蔵されていることで表されるのだろう。養老令・職員令に、大炊寮は「諸国からの舂米を始め穀類を収納」(『律令』179頁)することになっている。岩波古語辞典は、「唐名大倉にあたるが、訓読するとオホクラで大蔵と混同するので、大飯〈おほいひ〉の意で「大炊」としたものであろう。」(246頁)とする。ところが、二十巻本和名抄に、「大炊寮 於保為乃豆加佐おほゐのつかさ」と訓じられている。炊の音はスヰだから、あるいはオホヒとオホヰとを兼ね合わせた洒落のような語を作ったものかもしれない。オホヒには、先に触れた幄、幕、幌によるおほひ(ヒは甲類)があり、オホヰには、太藺ふといの古名、おほゐがある。和名抄に、「莞 唐韻に云はく、莞〈音は完、一音に丸、漢語抄に於保井おほゐと云ふ〉は以て席とすべき者なりといふ。」、「藺 玉篇に云はく、藺〈音は吝、、弁色立成に鷺尻刺さぎのしりさしと云ふ〉は莞に似て細く堅く、宜しく席とすべき者なりといふ。」とあり、また、「於保為具佐おほゐぐさ」(万3417)ともある。「鷺尻刺」とあるところは、聖徳太子とミトサギの関係を思い起こさせる(注9)。藺草は、茎は円柱形で表面は緑色、内部に白い髄があって葉は退化している。この茎を刈って莚や笠、草履、畳表にし、髄は灯芯に使った。ヰという語は、居敷ゐしきにしたことに依るところが大きいと推測されている(注10)。「」にする「」を織ったり編んだりして、収納した舂米の「おほひ」に使い、多くの「いひ」を囲っているということを表しているようである。
 高御座たかみくらは、即位や朝賀等の大儀に際し、大極殿の中央に飾る浜床の上に帳をめぐらした天皇の玉座をいい、天皇の位のことも表すようになった。紀には、「壇場たかみくら」(清寧紀元年正月・武烈即位前紀・天武紀二年二月)、「たかみくら」(雄略前紀)、「天位たかみくら」(推古紀三十六年三月)などと記される。高御座はまた、高座たかくらともいい、周囲から一段高くなった座席のことで、天皇の玉座のほか、寺院に安置された仏像の前方両脇にあって、儀式に当たって高僧が座る高い座のこともいった。
 そんな貴人の寝床、御座所として用いる方形の台座のことを浜床はまゆかという。浜床は、また、浜縁はまえんのこともいい、神社の向拝の階段の下にある板の間の床のことも指した。神社は、お社自体が貴ばれるから拝殿前で参拝している。つまり、仏教での高座と、神道での浜床(浜縁)とは同等のものに当たる。浜床がそう呼ばれる由縁としては、四面に州浜の模様があるところからともされる。州浜とは、洲が大きくなって曲線的な出入りがあるような浜辺のことである。名義抄に、「渚 音煑、陼、或水也、ナキサ、スハマ、シマクニ、和シヨ」とある。大生部の対照を成す壬生部の壬という字は、干支の表記に用いられ、ミヅノエ、つまり、入り江のことを指す。州浜という語は、その湾状の形にならった島台の飾り物、州浜台のことも指し、蓬莱山をも表す。常世国を思い出させるイメージである。
 帳台は、浜床の上に畳を敷き、四隅に柱を立てて帳をかけ、内部に几帳をめぐらせた調度のことであり、御帳台みちょうだい、帳、斗帳ともいう。このうち、寝殿の母屋にあって、天皇用の高いものを高御座と称している。つまり、高御座も浜床も帳台も、周囲よりも高くなった立派な座席のことで、帳をめぐらして周囲から囲われており、それはあるいは蚊帳のように虫除けの便があったかもしれず、頭上には天蓋のような覆いが被せられているものである。天皇の行幸の際の御座所の光景を彷彿とさせる。オホフベノオホ(大生部多)が清座に常世虫を祭るとあることで、覆っていることが強調されている。蚊帳の外にいるはずの虫が中にいるという本末転倒の話なのである。蚊帳が当時から吊るされて実用されていたであろうことは、紀に人名として「蚊屋采女」・「蚊屋皇子」(舒明紀二年正月)とある点から確かめられる。続千載和歌集・春上、能宣朝臣集の、「くれの春ふじの山近き所に人の家侍り」に、「草ふかみまだきつけたる蚊遣火とみゆるはふじの煙なりけり」と、富士山の噴煙を蚊遣火に譬えた歌が見える。富士山の形が蚊帳を吊っている形に似ているからこそ、この歌には妙味がある(注11)
 富士山が飛鳥・奈良時代当時噴火していたことについては、万葉集に例が見える。

 …… 富士〔不尽〕の高嶺は 天雲の い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びものぼらず 燃ゆる火を 雪もちち 降る雪を 火もち消ちつつ ……(万319)
 吾妹子に 逢ふよしを無み 駿河なる 富士〔不尽〕の高嶺の 燃えつつか有らむ(万2695)
 妹が名も 吾が名も立たば 惜しみこそ 富士〔布士〕の高嶺の 燃えつつ渡れ(万2697)

 この新興宗教を弾圧した人物として、秦河勝が登場している。その理由としては、加藤1998.に、「この事件の真相は多が秦氏の養蚕信仰を換骨奪胎し、東国で新しい教えを起こしたことに対して、その波及による人心の動揺を恐れた中央政権の側が、鎮圧のために河勝を派遣したものと理解できる。」(56頁)とし、下出1958.には、「皇極紀のこの記事は、仏教側の代表者[秦河勝]が道教の系譜をひく[常世神]信仰に抑圧を加えたということになるのである。」(42頁)としている。いずれも後講釈である。秦河勝は蜂岡寺を作った。現在の太秦広隆寺につながるものとされている。

 皇太子ひつぎのみこ、諸の大夫まへつきみたちかたりて曰はく、「我、尊き仏像ほとけのみかたたもてり。誰か是の像を得て恭拝ゐやびまつらむ」とのたまふ。時に、秦造河勝進みて曰さく、「やつかれ、拝みまつらむ」とまをす。便すでに仏像を受く。因りて蜂岡寺はちのをかでらを造る。(推古紀十一年十一月)

 広隆寺には、宝冠・宝髻二体の弥勒菩薩像が安置されており、半跏思惟像として名高い。その由来については、用材、製作時期などとあわせて諸説唱えられている。推古紀三十一年七月条の、新羅と任那の使者が来朝して「仏像一具ほとけのみかたひとそなへ」ほかを貢進したとあるところに、「即ち仏像をば葛野かどの秦寺うつまさしまさしむ。」と記されている。宝冠像は韓国国立中央博物館蔵の菩薩半跏像とよく似ている。私見では、この貢進の仏像が宝冠像のほうで、十一年条の仏像は宝髻像のほうであったと考える。平安初期の広隆寺資財校替実録帳に、「金色弥勒菩薩像壹躯。居高二尺八寸。所謂太子本願御形。……金色弥勒菩薩像壹躯。居高二尺八寸。」とある(注12)。美術史上はどちらがどちらに当たるか不明とされているが、飛鳥時代当時、宝髻の姿は、聖徳太子の「束髪於額ひさごはな」(崇峻前紀)の禿隠しヘアスタイルのようだと思われていたと推測する(注9)
束髪於額?(広隆寺弥勒菩薩像、Internet Archive “Japanese Temples and their Treasures, Vol. 2” 14p.https://archive.org/details/JapaneseTempleTreasuresVol2/page/n13/mode/2up(14/157))
総角?(ウィキペディア「ナミアゲハの幼虫の臭角」、Alpsdake様撮影、https://ja.wikipedia.org/wiki/臭角)
 広隆寺の名を蜂岡寺はちのをかでらと言っていた。ハチ(蜂)は養蜂技術が百済王子の伝えるところであって外来文化に似つかわしい。「是歳、百済の王子こにきし余豊よほう、蜜蜂の四枚よつを以て、三輪山に放ちふ。而して終に蕃息うまはらず。」(皇極紀二年是歳)とある。また、ハチ(鉢)は仏道修行者が使う食器のことをいう。「是の日に、越の蝦夷えみし沙門ほふし道信だうしんに、仏像ほとけのみかた一躰ひとはしら灌頂幡くわんぢやうのはた・鐘・はち一口ひとつ、……賜ふ。」(持統紀三年正月)とある。頭蓋骨の額の部分が大きく碗状に広がっているのもハチと呼んでいて、今日そこに巻くものを鉢巻と呼ぶ。兜の頭部を覆う部分の名所のこともいう。古墳時代には多くの鉄製兜が作られていた。すなわち、「束髪於額ひさごはな」風の被り物をした宝冠・宝髻二体の弥勒菩薩像は、ハチの名を持つ寺に安置されてふさわしいわけである。常世の神信仰は、財宝、珍宝を棄捨して祭ったのであるが、それはとりもなおさず仏教の喜捨の似非行為であり、民を惑わす誤った托鉢なのであった(注13)
 秦河勝と不尽河の辺の人との対比は、頭髪の後退した人ならハチの張るのが目立つと自覚しているのに対して、富士額では隠れてしまってわからないことを示すものでもある。
 現在、富士山絵画の最古のものは、延久元年(1069)に秦致貞が描いたとされる聖徳太子絵伝である。黒駒に乗り富士山に登る場面が、屏風第二双の上部に見られる。緑青の変色、剥落が甚だしいが、本来、緑色をした急斜面として描かれていた。これも聖徳太子伝暦の記述を基にしたもので、太子が27歳の時、甲斐国から献上された馬のなかから「神馬」を選んで飼育し、やがてその馬を馭して雲に浮かんで「神岳」まで至ったというのである。太子像の神格化のために富士山とを結び付けたとされることが通説となっている。例えば、成瀬2005.に、「聖徳太子を釈迦と同格としてあがめる説話に、富士山が選ばれた」(6頁)とある。そればかりではなく、几帳の裾を広げた帳台の姿や、ハチの広い額なりを意識して語られるようになっていたのではないか。
 秦河勝と「束髪於額ひさごはな」との直接の関係について、紀に記載はないものの、延喜十七年(917)に藤原兼輔の撰とされる聖徳太子伝暦に、「是の時に太子生年十六なり。大軍のしりへに随ひて自らはかりて曰く、「願に非ざればり難し」といふ。乃ちいくさまつりごとする秦造川勝はたのみやつこかはかつに命じて、白膠ぬりての木を取り四天王の像に刻み作りて、頂のたぶさに置きて、一に云はく、軍のさきささげ立つといふ。而して願を発して曰く、「今我をして敵に勝たしめたまはば、必ず護世四天王を奉らん為に寺塔を起立せん」といふ。(是時太子生年十六、随大軍後。自忖曰、非願難濟。乃命軍允秦造川勝、取白膠木、刻作四天王像、置於頂髪。一云擎立軍鉾。而発願曰、今使我勝敵、必奉為護世四天王起立寺塔。)」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544996/20)とある。崇峻前紀で太子がしていた四天王像の彫像を河勝が行ったことになっている。秦河勝は、太子の禿を気づかう人物であったように見受けられる。大生部多が常世の神としていた青虫は、臭角を突出させると総角あげまき様になる。てっぺん禿の太子にはできず、もし総角にしてしまうとてっぺん禿が際立って見るに堪えないものになる(注9)。そうからかっていると感じられたのであろう。
 この逸話は歌謡を伴っている。

 時の人、便ち歌を作りて曰く、
  太秦うつまさは 神とも神と 聞え来る 常世の神を 打ちきたますも(紀112)

 藤原2021.は、「歌謡のもつ機能」の面として、話を総括するべく歌謡が加えられてまとまっているとしている。「歌謡の機能」だから歌謡があるというのではトートロジーになってしまう。なぜ歌謡でなければならないのか、十分に把握したことになっていない。この歌謡の歌い手は「時の人」である。言い得て妙なことを歌にする。歌謡形式にして訴えたいのは、「常世の神」信仰を「打ちきたます」ことをしたのが秦河勝だったことを説得的に・・・・述べることであると思われる。
 秦河勝が「打ちきたます」ことになっているのは、彼が「打ちきたます」ことに慣れていると思われていたからと思われる。この「きたます」は、こらしめる、処罰する、の意の「きたむ」の尊敬語であるが、語幹を共にする「きたふ」と同根の語であろうとされている。「真金あり、きたねやす、」(西大寺本金光明最勝王経平安初期点)、「釙 支太不きたふ」(新撰字鏡)などとある。熱を加えては打ち叩いて自由自在に曲げ伸ばし、重ね合わせてはまた同じことをくり返して、最終的にしっかりしたものに仕上げることである。 
 そのことにふさわしい存在として秦河勝は措定されている。かの聖徳太子から、正統な信仰対象である仏像を頂いて蜂岡寺に祭っている。ハチ(鉢)は鍛造に鍛えるものである。だから、彼のことを地名に当たるウツマサ(注14)と呼んで正しいのである。ウツマサはウツ(打)+マサ(正)、正しく、条理にかなって打つということである。だから、「神とも神と 聞え来る 常世の神」を相手にしても、打ち叩いて正しくすることであるよ、と定位できるのである。河勝は何を使って大生部多を打っているか。バチ(撥・桴・枹)に違いあるまい。和名抄に、「⼤皷〈枹附〉 律書楽図に云はく、爾雅に⼤皷〈今案ふるに、俗に或は之れを四皷、⼜は⼩皷と謂ひ、⼀⼆三の名有り、皆、節の次第に応ふるを以て名を取るなり〉は之れを⿎賁〈⾳は憤〉と謂ひ、即ち皷を建つと云ふなりといふ。兼名苑に云はく、槌は⼀名に枹〈⾳は浮、字は亦、桴に作る、俗に⾖々美乃波知つづみのばちと云ふ〉 は⼤皷を撃つ所以なりといふ。」とある。用例としては、「教を以てばち、理を以て皷と為し、言を以て之をぶるを撃と<ruby為>す。」(法華義疏・長保四年(1002)点、大坪併二校訂)とある。
 「きたます」と尊敬語化しているのには、キタマスがキタ(北)+マス(座)の義にも聞えるからで、常世の神は清座しきゐに置かれてはいたが、幼虫は必ずしも正しい方向を向きつづけていたわけではないから、向きを正させることを言っているのであろう。現人神あらひとがみである天子は御帳台に南面して座すものである。もし、常世の神も生きている神であるなら、キタマス(北座)ことが求められなくてはならないという発想である。目には目を、歯には歯を、と論理展開していて正論であるとしている。常世の虫を清座に置いておいても「かつす所無くして」(注15)とあるのは、動いてしまってマス(座)ことがなかったからマス(益)ことがなかったのだと会得することができる。ウツマサこそが主人公としてふさわしくいと、すべてをひっくるめてしまう論評が行われている。そのように総括しているのは「時の人」である。「時の人」は、その時の事情を言葉にして簡約する役割を担う。その時にあらわれて、その時をあらわす人であり、意識下までものの見事に言い当ててまるごと歌にまとめあげることをする、集合無意識のような存在であった。
 以上、日本書紀に見られる新興宗教の記事について見た。在来の神道系の信仰と外来の仏教思想とが対立したといった歴史的一大事ではなく、ほんのちょっと流行したかしないかのことについて逸話的に記されているにすぎない。そのような事実(?)がなにゆえ記述されているのか、その背景まで含めて書き込まれているヤマトコトバについて、思索をこらして読み戻されることを、日本書紀はただ静かに待っているのではないだろうか(注16)

(注)
(注1)益田1996.は、香川県の方言に、アゲハチョウのことを「かみさんちょー」(香川県方言辞典154頁)などとあることを、「神さん蝶」の信仰が20世紀にも平然と生きていたと驚きを隠さない(25~26頁)。しかし、言葉の残滓が迷信のなかに生き残っていたか、まったく別の俗信から来た可能性も高いと考える。皇極紀で話題としているのは蝶の成虫のことではなく、幼虫のことである。
(注2)拙稿「壬生部について」参照。
(注3)筆者は、話(咄・噺・譚)の世界という言い方をしている。無文字時代の思考方法としては類推思考が幅を利かせていた。だから、話(咄・噺・譚)の形に定まっていなければ、人々の間に浸透、流布することはなく、つまりは信仰が広まることもなく、日本書紀に“事件”として記述されて残ることもないのである。
 なお、当該の話についての国文学の読解については、藤原2021.に先行研究ともどもとりあげられている。
(注4)谷川士清・日本書紀通証に、「詳此形状、即今橘蠹虫イモムシ也、一名蠋、淮南子曰蚕与蜀相類而愛憎異也。○五色線曰、丹陽人採碑於積石之下、得自然円石、如拳破之、有一虫於中、似蠐螬スクモムシ之状蠕蠕能動、人不熟識、因棄之。後有人、語之曰、人欲富貴、莫石中金蚕、畜之則宝貨自至詢其状、則石中蠐螬也。」(国文学資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200005041/viewer/867~868)とある。大系本日本書紀、新編全集本日本書紀とも前半しか引いていないが、重要なのは後半である。
 なお、狩谷掖斎・箋注倭名類聚抄には、テキストから「水中虫也」は脱落している。
(注5)「其色緑而有黒点。」とある。キアゲハの幼虫の特徴とも思われるが、セリ科の葉を好んで食べる。蝶ではキアゲハとよく似たナミアゲハの幼虫には黒い斑紋はないが、ミカン科を食べている。
(注6)拙稿「壬生部について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/6bd76d7f03689849b8b6731cc21d5af9で詳述した。
(注7)拙稿「記紀説話の、天の石屋(いはや)に尻くめ縄をひき渡す件について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/9e373aa9a09a27ff911394b6ad7d2077参照。
(注8)言葉の駄洒落が新興宗教となっていたというのは、話としてとても説得力がある。それが話というものの本質でさえある。無文字時代にあって、人から人へ伝わる情報は、ほとんどの場合、音声言語ばかりであった。それまで知られていなかったことを信仰するためには、理解して受容しなければならない。そのとき、言葉に負うしかないから、言葉で認識が深まったと思ったから新たに神として祭ることが可能になったのであろう。後の時代に、音声言語以外の手段を持つようになった時でも、例えば、カトリックはマリア観音という造形物に従いながら広まっている。まったく新しい概念を受けいれるとき、アナロジーは人々の心に訴えかけるものがある。
(注9)拙稿「聖徳太子のさまざまな名前について 其の一」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/bc11138c06bb67c231004b41fc7222bcほかで詳述した。
(注10)同様に、こもに作ったから、その素材植物はコモ、マコモと呼ばれている。
(注11)州浜紋、富士講の笠印とも、帳台のシルエットに近似していると思う。
(注12)ともに居高が二尺八寸と記されてある点については未詳である。宝冠弥勒は、像高84.2cm、総高(頂~左足裏)123.3cm、宝髻弥勒は、像高66.3cm、総高90.1cmである。
(注13)常世の神を祭ったら、「致富与_寿」、「貧人致富、老人還少」となるといった現世利益の神頼み的なことは、仏教に本来そなわる信仰とは相容れるものではない。ATMを操作したら還付金が入る、これを食べれば寿命が延びることが証明されている、寄進すればするほど救われるとする洗脳宗教の霊感商法ではないのである。迷妄に陥れようとする謳い文句に釣られてはならない。
 当初、大生部多は「致富与_寿」と言っていた。巫覡等はそれをベースに詐欺を働こうとして、「貧人致富、老人還少」と言いつつ財宝を喜捨させている。受け子は巫覡等なのだが、秦河勝は元凶の大生部多を打って平静を取り戻した。元締めを取り締まれば治安、秩序は回復するということか、巫覡等は神のことに関わるもので現世利益を説くことがあるから許したということか、不明である。
(注14)紀112歌謡原文に「禹都麻佐」とあり、「都」字はツ(清音)である。
(注15)「都無益」の「所」字は、場所の意味以外に奈良朝以前にはトコロとは訓まないであろうから、マスコトナクシテと訓むかとも考えるが、しばらくは旧訓に従っておく。
(注16)安川1992.は、地の文で「「秦河勝が、大生部多を打った」とあるのに、歌謡では、「ウヅマサが常世の神を打った」と詠んでいる。これは、歌謡の性格を考慮すれば、事件を歌で象徴的に表現し、批評する「時人」の態度を示していると言える。」(35頁)としつつ、さらに、「地の文における秦河勝の行為が、歌謡では天皇への貢献として昇華して表現されているのである。」(36頁)と認めている。藤原2021.は、「[紀]一一二番歌は、大生部多や巫覡等によって創出された好ましからざる崇拝対象が民衆の間で神の中の神とされる状態を太秦が「打ち懲ま」した、好ましくない俗信が打ち砕かれたという意味を与えるという機能を担っているのである。文学研究者はこのことを見逃してはならない。」(177頁)と結んでいる。歌謡が地の文に対してどう関わっているかという“文学的”検証のようであるが、大生部多を打ったのか、常世の神(を崇める状態)を打ったのかといったアゲハチョウの幼虫さながらの蝸牛角上のことを問題にし、堂々巡りをしていてはならない。座の向きの正しくない文学研究は、「打ち懲ま」されなければならない。

(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
大坪1993. 大坪併治『大坪併治著作集2 改訂 訓點語の研究 下』風間書房、1993年。
香川県方言辞典 近石泰秋編『香川県方言辞典』風間書房、1976年。
加藤1998. 加藤謙吉『秦氏とその民』白水社、1998年。
角川古語大辞典 中村幸彦・阪倉篤義・岡見正雄編『角川古語大辞典 第一巻』角川書店、1985年。
下出1958. 下出積与「皇極朝における農民層と宗教運動」『史学雑誌』第67編第9号、史学会、昭和33年9月。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集4 日本書紀③』小学館、1998年。
大系本日本書紀 坂本太郎・井上光貞・家永三郎・大野晋校注『日本書紀(四)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
成瀬2005. 成瀬不二雄『富士山の絵画史』中央公論美術出版、平成17年。
藤原2021. 藤原享和「秦造河勝と常世の神の歌謡」『上代歌謡と儀礼の表現』和泉書院、2021年。
益田1996. 益田勝実『古典を読む 古事記』岩波書店(同時代ライブラリー)、1996年。
安川1992. 安川芳樹「皇極紀における常世神伝承の意義」『日本文学論究』第51冊、国学院大学国文学会、平成4年3月。
『律令』 井上光貞・関晃・土田直鎮・青木和夫校注『日本思想大系3 律令』岩波書店、1976年。

※本稿は、2013年9月稿を改めた2021年2月稿をもとに、その後触れた論考を加味して歌謡部分についても検討を加え、2022年7月に大幅に加筆し、2024年8月にルビ形式にしたものである。

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