万葉集には、「娉」の字が使われた題詞、左注が見られる。
内大臣藤原卿娉鏡王女時鏡王女贈内大臣歌一首(万93題詞)
久米禅師娉石川郎女時歌五首(万96~100題詞)
大伴宿祢娉巨勢郎女時歌一首〈大伴宿祢諱曰安麻呂也難波朝右大臣大紫大伴長徳卿之第六子平城朝任大納言兼大将軍薨也〉(万101題詞)
大伴宿祢駿河麻呂娉同坂上家之二嬢歌一首(万407題詞)
右郎女者佐保大納言卿之女也初嫁一品穂積皇子被寵無儔而皇子薨之後時藤原麻呂大夫娉之郎女焉郎女家於坂上里仍族氏号曰坂上郎女也(万528左注)
或曰昔有三男同娉一女也娘子嘆息曰一女之身易滅如露三雄之志難平如石遂乃仿偟池上沈没水底於時其壮士等不勝哀頽之至各陳所心作歌三首〈娘子字曰𦆅兒也〉(万3788題詞)
これらの「娉」の字を何と訓むのか検討する(注1)。
「娉」字は、玉篇に「問也。娶レ妻、及礼賢達、納二-徴束帛一、相問曰レ娉」、説文に「娉 問也、从レ女甹声」、新撰字鏡に「娉〓(娉字の由の代わりに中) 二同、疋政反、娶也」とある。礼記・内則に「聘則為レ妻、奔則為レ妾。」とある。また、通字とされる「聘」は、説文に「聘 訪也、从レ耳甹声」とある。
従来の訓には、ヨバフとするものが多いが、ふさわしいか疑問なしとしない。他の可能性としてはトフ、ツマドフ、アトフといった訓が考えられる。古事記に「娉」や「聘」の例は見られない。日本書紀では「聘」に次のような例がある。
大泊瀬皇子、瑞歯別天皇の女等を聘へたまはむとす。(安康前紀允恭四十二年十二月、書陵部本訓)
天皇、大泊瀬皇子の為に、大草香皇子の妹幡梭皇女を聘へむと欲す。(安康紀元年二月、書陵部本訓)
朝聘違ふこと無し。(雄略紀九年三月、前田本訓)
太子、物部麁鹿火大連の女影媛を聘へむと思ほして、媒人を遣して、影媛が宅に向はしめて会はむことを期る。(武烈前紀仁賢十一年十一月、書陵部本訓)
使を遣はして三国の坂中井に聘へて、納れて妃としたまふ。(継体前紀、前田本右訓「迎也」)
勾大兄皇子、親ら春日皇女を聘へたまふ。(継体紀七年九月、前田本訓)
前に汝聘ひしことを承けて、吾便に許し婚せてき。(継体紀二十三年三月、前田本訓)
若し爾らずは、恐るらくは滅亡されて、朝聘ること得じ。(欽明紀五年十一月、兼右本訓)
爰に天皇、唐の帝を聘ふ。(推古紀十六年九月、岩崎本訓)
また、アトフと訓む例としては、ほかに「納采」の例その他がある。
納采ふるに足らずと雖も、僅に掖庭の数に充ひたまへ。(仁徳前紀、前田本訓)
黒媛を以て妃とせむと欲す。納采の既に訖りて、(履中前紀仁徳八十七年正月、書陵部本訓)
新撰字鏡に、「詫 禱也、註也、伊乃留、又久留不、又阿止戸」とあるのも「あとふ」の名詞形で、相手に勧めること、誘うことであろうとされている。「娉」ないし「聘」という字は、結婚を申し込む際に結納を致して娶ることを表し、同時に、ヤマトコトバにアトフと言うのではないかと考えられる。
「あとふ」という語は不思議な言葉である。相手に勧める、勧めて行動に駆り立てる、いざなう、という意味から、求婚する意へと守備領域が広がっている。「あとらふ」、「あつらふ」という言い方もあり、頼んで思うようにさせる、他人に依頼して何かをしてもらう、といったやはり使役的な言葉に発し、注文する、命令する、要求する、呼びかけ誘う、という意味となっていて、今日、「あつらえる(誂)」という言葉につづいている。
武彦を廬城河に誘へ率みて、偽きて使鸕鷀没水捕魚して、因りて其不意打ち殺しつ。(雄略紀三年四月)
河中に至りて、度子に誂へて、船を蹈みて傾す。(仁徳前紀)
瑞歯別皇子、陰に刺領布を喚して、誂へて曰はく、……(履中前紀仁徳八十七年正月)
則ち皇后に誂へて曰はく、……(垂仁紀四年九月)
或いは其の門に詣りて、己が訟を謁ふ。(天武紀十年五月)
…… 海若の 神の女に たまさかに い漕ぎ向ひ 相誂ひ 事成りしかば ……(万1740)
この「あとふ」という語がどこから出たものか不明であるが、「とふ(訪・問、トは乙類)」という語があり、誘い求める意から求婚することをいう。トフには、相手の反応をして自分の思いどおりにさせしめる、という意味までは含まれていない。
…… 下樋を走せ 下訪ひに 我が訪ふ妹を 下泣きに ……(記78)
高麗錦 紐解き交し 天人の 妻問ふ夕ぞ 吾も偲はむ(万2090)
是の物は、今日道に得つる奇しき物ぞ。故、つまどひの物ぞ。(雄略記)
吾が背子が 形見の衣 妻問に わが身は離けじ 言問はずとも(万637)
結婚は、両性の合意のうえでなければ不可能だから、誘いかけて使役的にその気にさせなければ己は結婚できない。そのため、「とふ」だけでは足りずに、「あとふ」ことが必要になってくる。白川1995.に、「誂は兆声。挑と声義が近く、また人をからかう意の調とも声義が通ずる。〔説文〕三上に「相𧦝びて誘ふなり」とあり、誘はわが国で「あとふ」とよむ字である。誂を「あとらふ」とよむのと同じく、ともに相手を誘い、いどむことをいう。……好みの条件にあわせて、ものを作るよう依頼することを「あつらふ」というのは、その遺語である。」(543頁)とある。そんなさしまわし的な要件を強調して、「あとふ」という言葉は成り立っているようである。
一方、ヨバフは、ヨブ(呼)に動詞語尾フの下接した形で、呼び続けること、妻問うことをいう。時代別国語大辞典に、「【考】男が女の許に通うという婚姻形態(妻訪い婚)がひろく行なわれたことから、①[呼びつづける。呼ぶことを強調することば。]が②[妻問う。求婚する。]のような特定の意味で用いられるようになったという。」(801頁)とする。ヨバフの名詞形はヨバヒ(ヨ・ヒは甲類)で、②の意味に限られるようである。
…… すすし競ひ 相結婚 しける時は ……(万1809)
他国に 結婚に行きて 大刀が緒も いまだ解かねば さ夜そ明けにける(万2906)
…… 麗し女を 有りと聞こして さ呼ばひに 有り立たし 呼ばひに あり通はせ ……(記2)
万葉集の題詞、ならびに左注において、「娉」字が用いられるケースは二通りに分類されよう。第一は、どこか形式的な関係が見え隠れするケースである。第二は、なんともうるさく声が聞こえてくるケースである。前者は、求婚に向け端緒を切る誘いかけの要素を持ち、後者は、呼びかけ合いを強調している。どちらも人間の営みである。その仮定の上で訓むと、次のようになる。
内大臣藤原卿の、鏡王女に娉ふる時、鏡王女の内大臣に贈る歌一首
玉くしげ 覆ふを安み 開けていなば 君が名は有れど 吾が名し惜しも(万93)
内大臣藤原卿の鏡王女に報へ贈る歌一首
玉くしげ みむまろ山の さな葛 さ寝ずはつひに 有りかつましじ〈或本の歌に曰はく、玉くしげ 三室戸山の〉(万94)
久米禅師の石川郎女に娉ふ時の歌五首
み薦苅る 信濃の真弓 吾が引かば 貴人さびて 否と言はむかも 禅師(万96)
み薦苅る 信濃の真弓 引かずして 強作留行事を 知ると言はなくに 郎女(万97)
梓弓 引かばまにまに 依らめども 後の心を 知りかてぬかも 郎女(万98)
梓弓 弦緒取り佩け 引く人は 後の心を 知る人そ引く 禅師(万99)
東人の 荷向の篋の 荷の緒にも 妹は心に 乗りにけるかも 禅師(万100)
大伴宿禰の巨勢郎女に娉ふる時の歌一首〈大伴宿禰は諱を安麻呂と曰ふ。難波の朝の右大臣大紫大伴長徳卿の第六子にして平城朝の大納言兼せて大将軍に任けらえて薨れり〉
玉葛 実ならぬ樹には ちはやぶる 神そ著くといふ ならぬ樹ごとに(万101)
巨勢郎女の、報へ贈る歌一首〈即ち近江朝の大納言巨勢人卿の女なり〉
玉葛 花のみ咲きて 成らざるは 誰が恋にあらめ 吾が恋ひ念ふを(万102)
大伴宿禰駿河麻呂の同じ坂上家の二嬢に娉ふ歌一首
春霞 春日の里の 植子水葱 苗なりと言ひし 枝はさしにけむ(万407)
京職藤原大夫の、大伴郎女に贈る歌三首〈卿、諱を麻呂と曰ふ〉
𡢳嬬らが 玉くしげなる 玉櫛の 神さびけむも 妹に逢はず有れば(万522)
よく渡る 人は年にも 有りと云ふを 何時の間にそも 吾が恋ひにける(万523)
むしぶすま 柔やが下に 臥せれども 妹とし寝ねば 肌し寒しも(万524)
大伴郎女の和ふる歌四首
佐保川の 小石ふみ渡り ぬばたまの 黒馬の来る夜は 年にも有らぬか(万525)
千鳥鳴く 佐保の河瀬の さざれ波 止む時も無し 吾が恋ふらくは(万526)
来むと云ふも 来ぬ時有るを 来じと云ふを 来むとは待たじ 来じと云ふものを(万527)
千鳥鳴く 佐保の河門の 瀬を広み 打橋渡す 汝が来と念へば(万528)
右、郎女は佐保大納言卿の女なり。初め一品穂積皇子に嫁ぎ、寵を被くること儔無し。皇子薨りましし後時に、藤原麻呂大夫、この郎女を娉ふ。郎女は坂上の里に家む。仍りて族氏号けて坂上郎女と曰ふ。
或に曰はく、昔三の男有りき。同に一の女に娉ふ。娘子嘆息きて曰はく、「一の女の身の易滅きこと露の如く、三の雄の志の平び難きこと石の如し」といふ。遂に乃ち池の上に仿偟り、水底に沈没みき。時に其の壮士等、哀頽の至に勝へずして、各所心を陳べて作る歌三首〈娘子、字を𦆅児と曰ふ〉
耳成の 池し恨めし 吾妹子が 来つつ潜かば 水は涸れなむ 一(万3788)
あしひきの 山𦆅の児 今日往くと 吾に告げせば 還り来ましを 二(万3789)
あしひきの 玉𦆅の児 今日の如 いづれの隈を 見つつ来にけむ 三(万3790)
万96題詞、万407題詞、万528左注、万3788題詞において、「娉」をヨバフと訓んだ理由は、うるさく聞こえてくるからである。基本的に互いに声を出して呼び合うことをする。万96~100番歌、万522~528番歌は当初から男女の呼び交わし合いを前提に題詞や左注が記されている。前者は、久米禅師が一首、石川郎女が二首、さらに返して久米禅師が二首である。後者は、藤原麻呂が三首贈り、対して大伴郎女が四首返している。声を出して呼びかけつづけ、対するに声を出しつづけて応えている。だから、ヨバフで正しいと考える。万3788~3790番歌は、三人の男が同時に一人の女に言い寄っていて、競うように言い寄られてなす術を知らず、自ら命を絶ったという話になっている。亡くなった後、三人の男は陳述して歌をそれぞれ歌っている。歌の下に、「一」、「二」、「三」と記されている。男の側からの声しか聞こえないが、その三人の協和、呼び合いになっており、形式を遷移させたものといえよう。万407番歌は、歌人として知られる大伴坂上郎女、すなわち、坂上家の大嬢の妹に当たる幼い少女、坂上家の二嬢に対して歌われている。恥ずかしがって出てこない。そこでからかい半分呼びかけた。返歌もなく、万葉集にその人の歌は載らない。同族の親戚が法事か何かで会合した時の宴席ででも歌われたものであろう。隠れている少女に、大きな声で呼びかけている。結果的に呼び合ってはいないが、歌の名手である大伴坂上郎女の妹なのだから答えられるであろうとの呼びかけであった。呼ぶことを強調し、呼び合いを前提として歌われているから、ヨバフで正しいと考える(注2)。
他方、万93番歌の題詞に、「内大臣藤原卿娉二鏡王女一時、鏡王女贈二内大臣一歌一首」とあり、万94番歌の題詞に、「内大臣藤原卿報二鏡王女一贈歌一首」と対になっている。ヨバフが呼び合う意である限りにおいて、「娉」→「報」という関係はあり得ない。「贈」→「報」になっている。あくまでも歌の贈答である。それを「相聞」という括りで載せている(注3)。この関係は、万101~102番歌の、大伴宿祢と巨勢郎女との間の「娉」→「報贈」の関係も同じである。よって、当初、男性から女性へ一方的にアプローチしたアトフ(娉)ことがされ、その行為に対してオクル(贈)歌やコタフ(報)歌が設けられたということであろう。
以上、万葉集の題詞や左注にあらわれる「娉」字は、状況によって「よばふ」、「あとふ」と訓み分けられるべきことを述べた。
(注)
(注1)題詞や左注は漢文表記だから、訓をつけないでも構わないとする見解があり、そういう方針なのか知らないが、澤瀉久孝『万葉集注釋』は最初からこの議論に参戦していない。
(注2)諸注釈書にはアトフの訓みは見られず、ツマドフという苦肉の策が行われている。
「つまどふ」という訓は、具体的、直接的な意味合いを持っている言葉に感じられ、題詞としてふさわしい語なのか疑問である。「妻問ふ時の歌」はあり得ても、「妻問ふ歌」となるとプロポーズの言葉そのものということになる。つまり、「妻問ふ時の歌」が歌われたとしたなら、答えも「其の時の歌」のはずになる。したがって、万93・101番歌の題詞にツマドフというのは当たらない。ツマドフの訓みが多く当てられている万407番の場合も、歌の内容からしてその題詞に似つかわしくない。歌を再掲する。
春霞 春日の里の 植子水葱 苗なりと言ひし 枝はさしにけむ(万407)
まだ苗だと言っていた枝はもう伸びたでしょうか? と尋ねるような相手である。政略結婚でもないのに本気の求婚場面であると考えるのはなかなか難しい。年で言えば中学生ぐらいに育ったはずだがそこに隠れてしまった少女よ、さあ出ておいでよ、ぐらいの感覚で戯れて歌いかけているように感じられる。推量で述べている段階で、相手に本気で求婚しているのではなく、逆にそれを譬喩としている。万390番から万414番までは一括して「譬喩歌」である。万407番歌は歌の内容を譬喩として作り、歌いかけたもので、返事がないのはお婿さんでも貰ったのかい? とさらにからかっている話であると思われる。直截的なツマドフという言葉よりも、声に出して呼びかける点を強調するヨバフとしたほうがふさわしいだろう。
(注3)「相聞」歌とは何か、という大問題については触れない。
(引用文献)
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
(注2)で参照している注釈書については割愛する。
※本稿は、2018年4月稿を2020年2月に誤りを正して新稿とし、さらに2024年6月に加筆し、ルビ形式にしたものである。
内大臣藤原卿娉鏡王女時鏡王女贈内大臣歌一首(万93題詞)
久米禅師娉石川郎女時歌五首(万96~100題詞)
大伴宿祢娉巨勢郎女時歌一首〈大伴宿祢諱曰安麻呂也難波朝右大臣大紫大伴長徳卿之第六子平城朝任大納言兼大将軍薨也〉(万101題詞)
大伴宿祢駿河麻呂娉同坂上家之二嬢歌一首(万407題詞)
右郎女者佐保大納言卿之女也初嫁一品穂積皇子被寵無儔而皇子薨之後時藤原麻呂大夫娉之郎女焉郎女家於坂上里仍族氏号曰坂上郎女也(万528左注)
或曰昔有三男同娉一女也娘子嘆息曰一女之身易滅如露三雄之志難平如石遂乃仿偟池上沈没水底於時其壮士等不勝哀頽之至各陳所心作歌三首〈娘子字曰𦆅兒也〉(万3788題詞)
これらの「娉」の字を何と訓むのか検討する(注1)。
「娉」字は、玉篇に「問也。娶レ妻、及礼賢達、納二-徴束帛一、相問曰レ娉」、説文に「娉 問也、从レ女甹声」、新撰字鏡に「娉〓(娉字の由の代わりに中) 二同、疋政反、娶也」とある。礼記・内則に「聘則為レ妻、奔則為レ妾。」とある。また、通字とされる「聘」は、説文に「聘 訪也、从レ耳甹声」とある。
従来の訓には、ヨバフとするものが多いが、ふさわしいか疑問なしとしない。他の可能性としてはトフ、ツマドフ、アトフといった訓が考えられる。古事記に「娉」や「聘」の例は見られない。日本書紀では「聘」に次のような例がある。
大泊瀬皇子、瑞歯別天皇の女等を聘へたまはむとす。(安康前紀允恭四十二年十二月、書陵部本訓)
天皇、大泊瀬皇子の為に、大草香皇子の妹幡梭皇女を聘へむと欲す。(安康紀元年二月、書陵部本訓)
朝聘違ふこと無し。(雄略紀九年三月、前田本訓)
太子、物部麁鹿火大連の女影媛を聘へむと思ほして、媒人を遣して、影媛が宅に向はしめて会はむことを期る。(武烈前紀仁賢十一年十一月、書陵部本訓)
使を遣はして三国の坂中井に聘へて、納れて妃としたまふ。(継体前紀、前田本右訓「迎也」)
勾大兄皇子、親ら春日皇女を聘へたまふ。(継体紀七年九月、前田本訓)
前に汝聘ひしことを承けて、吾便に許し婚せてき。(継体紀二十三年三月、前田本訓)
若し爾らずは、恐るらくは滅亡されて、朝聘ること得じ。(欽明紀五年十一月、兼右本訓)
爰に天皇、唐の帝を聘ふ。(推古紀十六年九月、岩崎本訓)
また、アトフと訓む例としては、ほかに「納采」の例その他がある。
納采ふるに足らずと雖も、僅に掖庭の数に充ひたまへ。(仁徳前紀、前田本訓)
黒媛を以て妃とせむと欲す。納采の既に訖りて、(履中前紀仁徳八十七年正月、書陵部本訓)
新撰字鏡に、「詫 禱也、註也、伊乃留、又久留不、又阿止戸」とあるのも「あとふ」の名詞形で、相手に勧めること、誘うことであろうとされている。「娉」ないし「聘」という字は、結婚を申し込む際に結納を致して娶ることを表し、同時に、ヤマトコトバにアトフと言うのではないかと考えられる。
「あとふ」という語は不思議な言葉である。相手に勧める、勧めて行動に駆り立てる、いざなう、という意味から、求婚する意へと守備領域が広がっている。「あとらふ」、「あつらふ」という言い方もあり、頼んで思うようにさせる、他人に依頼して何かをしてもらう、といったやはり使役的な言葉に発し、注文する、命令する、要求する、呼びかけ誘う、という意味となっていて、今日、「あつらえる(誂)」という言葉につづいている。
武彦を廬城河に誘へ率みて、偽きて使鸕鷀没水捕魚して、因りて其不意打ち殺しつ。(雄略紀三年四月)
河中に至りて、度子に誂へて、船を蹈みて傾す。(仁徳前紀)
瑞歯別皇子、陰に刺領布を喚して、誂へて曰はく、……(履中前紀仁徳八十七年正月)
則ち皇后に誂へて曰はく、……(垂仁紀四年九月)
或いは其の門に詣りて、己が訟を謁ふ。(天武紀十年五月)
…… 海若の 神の女に たまさかに い漕ぎ向ひ 相誂ひ 事成りしかば ……(万1740)
この「あとふ」という語がどこから出たものか不明であるが、「とふ(訪・問、トは乙類)」という語があり、誘い求める意から求婚することをいう。トフには、相手の反応をして自分の思いどおりにさせしめる、という意味までは含まれていない。
…… 下樋を走せ 下訪ひに 我が訪ふ妹を 下泣きに ……(記78)
高麗錦 紐解き交し 天人の 妻問ふ夕ぞ 吾も偲はむ(万2090)
是の物は、今日道に得つる奇しき物ぞ。故、つまどひの物ぞ。(雄略記)
吾が背子が 形見の衣 妻問に わが身は離けじ 言問はずとも(万637)
結婚は、両性の合意のうえでなければ不可能だから、誘いかけて使役的にその気にさせなければ己は結婚できない。そのため、「とふ」だけでは足りずに、「あとふ」ことが必要になってくる。白川1995.に、「誂は兆声。挑と声義が近く、また人をからかう意の調とも声義が通ずる。〔説文〕三上に「相𧦝びて誘ふなり」とあり、誘はわが国で「あとふ」とよむ字である。誂を「あとらふ」とよむのと同じく、ともに相手を誘い、いどむことをいう。……好みの条件にあわせて、ものを作るよう依頼することを「あつらふ」というのは、その遺語である。」(543頁)とある。そんなさしまわし的な要件を強調して、「あとふ」という言葉は成り立っているようである。
一方、ヨバフは、ヨブ(呼)に動詞語尾フの下接した形で、呼び続けること、妻問うことをいう。時代別国語大辞典に、「【考】男が女の許に通うという婚姻形態(妻訪い婚)がひろく行なわれたことから、①[呼びつづける。呼ぶことを強調することば。]が②[妻問う。求婚する。]のような特定の意味で用いられるようになったという。」(801頁)とする。ヨバフの名詞形はヨバヒ(ヨ・ヒは甲類)で、②の意味に限られるようである。
…… すすし競ひ 相結婚 しける時は ……(万1809)
他国に 結婚に行きて 大刀が緒も いまだ解かねば さ夜そ明けにける(万2906)
…… 麗し女を 有りと聞こして さ呼ばひに 有り立たし 呼ばひに あり通はせ ……(記2)
万葉集の題詞、ならびに左注において、「娉」字が用いられるケースは二通りに分類されよう。第一は、どこか形式的な関係が見え隠れするケースである。第二は、なんともうるさく声が聞こえてくるケースである。前者は、求婚に向け端緒を切る誘いかけの要素を持ち、後者は、呼びかけ合いを強調している。どちらも人間の営みである。その仮定の上で訓むと、次のようになる。
内大臣藤原卿の、鏡王女に娉ふる時、鏡王女の内大臣に贈る歌一首
玉くしげ 覆ふを安み 開けていなば 君が名は有れど 吾が名し惜しも(万93)
内大臣藤原卿の鏡王女に報へ贈る歌一首
玉くしげ みむまろ山の さな葛 さ寝ずはつひに 有りかつましじ〈或本の歌に曰はく、玉くしげ 三室戸山の〉(万94)
久米禅師の石川郎女に娉ふ時の歌五首
み薦苅る 信濃の真弓 吾が引かば 貴人さびて 否と言はむかも 禅師(万96)
み薦苅る 信濃の真弓 引かずして 強作留行事を 知ると言はなくに 郎女(万97)
梓弓 引かばまにまに 依らめども 後の心を 知りかてぬかも 郎女(万98)
梓弓 弦緒取り佩け 引く人は 後の心を 知る人そ引く 禅師(万99)
東人の 荷向の篋の 荷の緒にも 妹は心に 乗りにけるかも 禅師(万100)
大伴宿禰の巨勢郎女に娉ふる時の歌一首〈大伴宿禰は諱を安麻呂と曰ふ。難波の朝の右大臣大紫大伴長徳卿の第六子にして平城朝の大納言兼せて大将軍に任けらえて薨れり〉
玉葛 実ならぬ樹には ちはやぶる 神そ著くといふ ならぬ樹ごとに(万101)
巨勢郎女の、報へ贈る歌一首〈即ち近江朝の大納言巨勢人卿の女なり〉
玉葛 花のみ咲きて 成らざるは 誰が恋にあらめ 吾が恋ひ念ふを(万102)
大伴宿禰駿河麻呂の同じ坂上家の二嬢に娉ふ歌一首
春霞 春日の里の 植子水葱 苗なりと言ひし 枝はさしにけむ(万407)
京職藤原大夫の、大伴郎女に贈る歌三首〈卿、諱を麻呂と曰ふ〉
𡢳嬬らが 玉くしげなる 玉櫛の 神さびけむも 妹に逢はず有れば(万522)
よく渡る 人は年にも 有りと云ふを 何時の間にそも 吾が恋ひにける(万523)
むしぶすま 柔やが下に 臥せれども 妹とし寝ねば 肌し寒しも(万524)
大伴郎女の和ふる歌四首
佐保川の 小石ふみ渡り ぬばたまの 黒馬の来る夜は 年にも有らぬか(万525)
千鳥鳴く 佐保の河瀬の さざれ波 止む時も無し 吾が恋ふらくは(万526)
来むと云ふも 来ぬ時有るを 来じと云ふを 来むとは待たじ 来じと云ふものを(万527)
千鳥鳴く 佐保の河門の 瀬を広み 打橋渡す 汝が来と念へば(万528)
右、郎女は佐保大納言卿の女なり。初め一品穂積皇子に嫁ぎ、寵を被くること儔無し。皇子薨りましし後時に、藤原麻呂大夫、この郎女を娉ふ。郎女は坂上の里に家む。仍りて族氏号けて坂上郎女と曰ふ。
或に曰はく、昔三の男有りき。同に一の女に娉ふ。娘子嘆息きて曰はく、「一の女の身の易滅きこと露の如く、三の雄の志の平び難きこと石の如し」といふ。遂に乃ち池の上に仿偟り、水底に沈没みき。時に其の壮士等、哀頽の至に勝へずして、各所心を陳べて作る歌三首〈娘子、字を𦆅児と曰ふ〉
耳成の 池し恨めし 吾妹子が 来つつ潜かば 水は涸れなむ 一(万3788)
あしひきの 山𦆅の児 今日往くと 吾に告げせば 還り来ましを 二(万3789)
あしひきの 玉𦆅の児 今日の如 いづれの隈を 見つつ来にけむ 三(万3790)
万96題詞、万407題詞、万528左注、万3788題詞において、「娉」をヨバフと訓んだ理由は、うるさく聞こえてくるからである。基本的に互いに声を出して呼び合うことをする。万96~100番歌、万522~528番歌は当初から男女の呼び交わし合いを前提に題詞や左注が記されている。前者は、久米禅師が一首、石川郎女が二首、さらに返して久米禅師が二首である。後者は、藤原麻呂が三首贈り、対して大伴郎女が四首返している。声を出して呼びかけつづけ、対するに声を出しつづけて応えている。だから、ヨバフで正しいと考える。万3788~3790番歌は、三人の男が同時に一人の女に言い寄っていて、競うように言い寄られてなす術を知らず、自ら命を絶ったという話になっている。亡くなった後、三人の男は陳述して歌をそれぞれ歌っている。歌の下に、「一」、「二」、「三」と記されている。男の側からの声しか聞こえないが、その三人の協和、呼び合いになっており、形式を遷移させたものといえよう。万407番歌は、歌人として知られる大伴坂上郎女、すなわち、坂上家の大嬢の妹に当たる幼い少女、坂上家の二嬢に対して歌われている。恥ずかしがって出てこない。そこでからかい半分呼びかけた。返歌もなく、万葉集にその人の歌は載らない。同族の親戚が法事か何かで会合した時の宴席ででも歌われたものであろう。隠れている少女に、大きな声で呼びかけている。結果的に呼び合ってはいないが、歌の名手である大伴坂上郎女の妹なのだから答えられるであろうとの呼びかけであった。呼ぶことを強調し、呼び合いを前提として歌われているから、ヨバフで正しいと考える(注2)。
他方、万93番歌の題詞に、「内大臣藤原卿娉二鏡王女一時、鏡王女贈二内大臣一歌一首」とあり、万94番歌の題詞に、「内大臣藤原卿報二鏡王女一贈歌一首」と対になっている。ヨバフが呼び合う意である限りにおいて、「娉」→「報」という関係はあり得ない。「贈」→「報」になっている。あくまでも歌の贈答である。それを「相聞」という括りで載せている(注3)。この関係は、万101~102番歌の、大伴宿祢と巨勢郎女との間の「娉」→「報贈」の関係も同じである。よって、当初、男性から女性へ一方的にアプローチしたアトフ(娉)ことがされ、その行為に対してオクル(贈)歌やコタフ(報)歌が設けられたということであろう。
以上、万葉集の題詞や左注にあらわれる「娉」字は、状況によって「よばふ」、「あとふ」と訓み分けられるべきことを述べた。
(注)
(注1)題詞や左注は漢文表記だから、訓をつけないでも構わないとする見解があり、そういう方針なのか知らないが、澤瀉久孝『万葉集注釋』は最初からこの議論に参戦していない。
(注2)諸注釈書にはアトフの訓みは見られず、ツマドフという苦肉の策が行われている。
「つまどふ」という訓は、具体的、直接的な意味合いを持っている言葉に感じられ、題詞としてふさわしい語なのか疑問である。「妻問ふ時の歌」はあり得ても、「妻問ふ歌」となるとプロポーズの言葉そのものということになる。つまり、「妻問ふ時の歌」が歌われたとしたなら、答えも「其の時の歌」のはずになる。したがって、万93・101番歌の題詞にツマドフというのは当たらない。ツマドフの訓みが多く当てられている万407番の場合も、歌の内容からしてその題詞に似つかわしくない。歌を再掲する。
春霞 春日の里の 植子水葱 苗なりと言ひし 枝はさしにけむ(万407)
まだ苗だと言っていた枝はもう伸びたでしょうか? と尋ねるような相手である。政略結婚でもないのに本気の求婚場面であると考えるのはなかなか難しい。年で言えば中学生ぐらいに育ったはずだがそこに隠れてしまった少女よ、さあ出ておいでよ、ぐらいの感覚で戯れて歌いかけているように感じられる。推量で述べている段階で、相手に本気で求婚しているのではなく、逆にそれを譬喩としている。万390番から万414番までは一括して「譬喩歌」である。万407番歌は歌の内容を譬喩として作り、歌いかけたもので、返事がないのはお婿さんでも貰ったのかい? とさらにからかっている話であると思われる。直截的なツマドフという言葉よりも、声に出して呼びかける点を強調するヨバフとしたほうがふさわしいだろう。
(注3)「相聞」歌とは何か、という大問題については触れない。
(引用文献)
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
(注2)で参照している注釈書については割愛する。
※本稿は、2018年4月稿を2020年2月に誤りを正して新稿とし、さらに2024年6月に加筆し、ルビ形式にしたものである。