古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

万葉集の題詞、左注にあらわれたる「娉」字の読み方について

2022年02月14日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集には、「娉」の字が使われた題詞、左注が見られる。

  内大臣藤原卿娉鏡王女時鏡王女贈内大臣歌一首(万93題詞)
  久米禅師娉石川郎女時歌五首(万96~100題詞)
  大伴宿祢娉巨勢郎女時歌一首〈大伴宿祢諱曰安麻呂也難波朝右大臣大紫大伴長徳卿之第六子平城朝任大納言兼大将軍薨也〉(万101題詞)
  大伴宿祢駿河麻呂娉同坂上家之二嬢歌一首(万407題詞)
  右郎女者佐保大納言卿之女也初嫁一品穂積皇子被寵無儔而皇子薨之後時藤原麻呂大夫娉之郎女焉郎女家於坂上里仍族氏号曰坂上郎女也(万528左注)
  或曰昔有三男同娉一女也娘子嘆息曰一女之身易滅如露三雄之志難平如石遂乃仿偟池上沈没水底於時其壮士等不勝哀頽之至各陳所心作歌三首〈娘子字曰𦆅兒也〉(万3788題詞)

 これらの「娉」の字を何と訓むのか検討する(注1)
 「娉」字は、玉篇に「問也。娶妻、及礼賢達、納-徴束帛、相問曰娉」、説文に「娉 問也、从女甹声」、新撰字鏡に「娉〓(娉字の由の代わりに中) 二同、疋政反、娶也」とある。礼記・内則に「聘則為妻、奔則為妾。」とある。また、通字とされる「聘」は、説文に「聘 訪也、从耳甹声」とある。
 従来の訓には、ヨバフとするものが多いが、ふさわしいか疑問なしとしない。他の可能性としてはトフ、ツマドフ、アトフといった訓が考えられる。古事記に「娉」や「聘」の例は見られない。日本書紀では「聘」に次のような例がある。

 大泊瀬皇子おほはつせのみこ瑞歯別天皇みつはわけのすめらみこと女等みむすめたちあとへたまはむとす。(安康前紀允恭四十二年十二月、書陵部本訓)
 天皇、大泊瀬皇子の為に、大草香皇子おほくさかのみこいもと幡梭皇女はたびのひめみこあとへむとおもほす。(安康紀元年二月、書陵部本訓)
 朝聘まうでき違ふこと無し。(雄略紀九年三月、前田本訓)
 太子ひつぎのみこ物部麁鹿火大連もののべのあらかひのおほむらじむすめ影媛かげひめあとへむと思ほして、媒人なかだちつかはして、影媛がいへに向はしめて会はむことをちぎる。(武烈前紀仁賢十一年十一月、書陵部本訓)
 使つかひを遣はして三国のさか中井なゐむかへて、めしいれてみめとしたまふ。(継体前紀、前田本右訓「迎也」)
 勾大兄皇子まがりのおほえのみこみづか春日皇女かすがのひめみこむかへたまふ。(継体紀七年九月、前田本訓)
 さきなむぢよばひしことを承けて、吾便すでに許しあはせてき。(継体紀二十三年三月、前田本訓)
 しからずは、恐るらくは滅亡ほろぼされて、朝聘つかへまつること得じ。(欽明紀五年十一月、兼右本訓)
 ここに天皇、もろこしきみとぶらふ。(推古紀十六年九月、岩崎本訓)

 また、アトフと訓む例としては、ほかに「納采」の例その他がある。

 納采あとふるに足らずといへども、僅に掖庭うちつみやの数につかひたまへ。(仁徳前紀、前田本訓)
 黒媛くろひめを以てみめとせむとおもほす。納采あとふることの既に訖りて、(履中前紀仁徳八十七年正月、書陵部本訓)

 新撰字鏡に、「詫 禱也、註也、伊乃留いのる、又久留不くるふ、又阿止戸あとへ」とあるのも「あとふ」の名詞形で、相手に勧めること、誘うことであろうとされている。「娉」ないし「聘」という字は、結婚を申し込む際に結納を致して娶ることを表し、同時に、ヤマトコトバにアトフと言うのではないかと考えられる。
 「あとふ」という語は不思議な言葉である。相手に勧める、勧めて行動に駆り立てる、いざなう、という意味から、求婚する意へと守備領域が広がっている。「あとらふ」、「あつらふ」という言い方もあり、頼んで思うようにさせる、他人に依頼して何かをしてもらう、といったやはり使役的な言葉に発し、注文する、命令する、要求する、呼びかけ誘う、という意味となっていて、今日、「あつらえる(誂)」という言葉につづいている。

 武彦たけひこ廬城河いほきのかはあとたしみて、あざむきて使鸕鷀没水捕魚うかはするまねして、因りて其不意ゆくりもなく打ち殺しつ。(雄略紀三年四月)
 河中かはなかに至りて、度子わたしもりあとへて、船をみてくつがへす。(仁徳前紀)
 瑞歯別皇子みつはわけのみこひそか刺領布さしひれして、あとらへてのたまはく、……(履中前紀仁徳八十七年正月)
 則ち皇后きさきあつらへて曰はく、……(垂仁紀四年九月)
 或いは其のかどいたりて、おのうたへあつらふ。(天武紀十年五月)
 …… 海若わたつみの 神のをとめに たまさかに い漕ぎ向ひ あひあとらひ 事成りしかば ……(万1740)

 この「あとふ」という語がどこから出たものか不明であるが、「とふ(訪・問、トは乙類)」という語があり、誘い求める意から求婚することをいう。トフには、相手の反応をして自分の思いどおりにさせしめる、という意味までは含まれていない。

 …… 下樋したびわしせ 下訪したどひに 我がいもを 下泣きに ……(記78)
 高麗錦こまにしき 紐かはし 天人あまひとの 妻問ふよひぞ われしのはむ(万2090)
 是の物は、今日けふ道に得つるあやしき物ぞ。かれ、つまどひの物ぞ。(雄略記)
 背子せこが 形見かたみころも 妻問つまどひに わが身はけじ こと問はずとも(万637)

 結婚は、両性の合意のうえでなければ不可能だから、誘いかけて使役的にその気にさせなければ己は結婚できない。そのため、「とふ」だけでは足りずに、「あとふ」ことが必要になってくる。白川1995.に、「ちようちよう声。ちようと声義が近く、また人をからかう意の調ちようとも声義が通ずる。〔説文〕三上に「相𧦝びて誘ふなり」とあり、ゆうはわが国で「あとふ」とよむ字である。誂を「あとらふ」とよむのと同じく、ともに相手を誘い、いどむことをいう。……好みの条件にあわせて、ものを作るよう依頼することを「あつらふ」というのは、その遺語である。」(543頁)とある。そんなさしまわし的な要件を強調して、「あとふ」という言葉は成り立っているようである。
 一方、ヨバフは、ヨブ(呼)に動詞語尾フの下接した形で、呼び続けること、妻問うことをいう。時代別国語大辞典に、「【考】男が女の許に通うという婚姻形態(妻訪い婚)がひろく行なわれたことから、①[呼びつづける。呼ぶことを強調することば。]が②[妻問う。求婚する。]のような特定の意味で用いられるようになったという。」(801頁)とする。ヨバフの名詞形はヨバヒ(ヨ・ヒは甲類)で、②の意味に限られるようである。

 …… すすしきほひ あひ結婚よばひ しける時は ……(万1809)
 他国ひとくにに 結婚よばひに行きて 大刀たちも いまだ解かねば さそ明けにける(万2906)
 …… くはを 有りと聞こして さばひに 有り立たし 呼ばひに ありかよはせ ……(記2)

 万葉集の題詞、ならびに左注において、「娉」字が用いられるケースは二通りに分類されよう。第一は、どこか形式的な関係が見え隠れするケースである。第二は、なんともうるさく声が聞こえてくるケースである。前者は、求婚に向け端緒を切る誘いかけの要素を持ち、後者は、呼びかけ合いを強調している。どちらも人間の営みである。その仮定の上で訓むと、次のようになる。

  内大臣うちのおほまへつきみ藤原卿ふぢはらのまへつきみの、鏡王女かがみのおほきみあとふる時、鏡王女の内大臣に贈る歌一首
 玉くしげ おほふをやすみ けていなば 君が名は有れど が名ししも(万93)
  内大臣藤原卿の鏡王女にこたへ贈る歌一首
 玉くしげ みむまろ山の さなかづら さずはつひに 有りかつましじ〈或本の歌に曰はく、玉くしげ 三室戸山みむろとやまの〉(万94)

  久米禅師くめのぜんじ石川郎女いしかはのいらつめよばふ時の歌五首
 みこも苅る 信濃の真弓 が引かば 貴人うまひとさびて いなと言はむかも 禅師(万96)
 み薦苅る 信濃の真弓 引かずして 強作留行事わざを 知ると言はなくに 郎女(万97)
 梓弓あづさゆみ 引かばまにまに 依らめども 後の心を 知りかてぬかも 郎女(万98)
 梓弓 弦緒つるを取りけ 引く人は 後の心を 知る人そ引く 禅師(万99)
 東人あづまひとの 荷向のさきはこの 荷の緒にも いもは心に 乗りにけるかも 禅師(万100)

  大伴宿禰おほとものすくね巨勢郎女こせのいらつめあとふる時の歌一首〈大伴宿禰はいみな安麻呂やすまろと曰ふ。難波のみかど右大臣みぎのおほまへつきみ大紫だいし大伴長徳ながとこ卿の第六子にして平城朝ならのみかどの大納言あはせて大将軍にけらえてみまかれり〉
 玉かづら 実ならぬ樹には ちはやぶる 神そくといふ ならぬ樹ごとに(万101)
  巨勢郎女の、報へ贈る歌一首〈即ち近江朝あふみのみかどの大納言巨勢人卿こせのひとのまへつきみむすめなり〉
 玉葛 花のみ咲きて 成らざるは こひにあらめ が恋ひおもふを(万102)

  大伴宿禰駿河麻呂するがまろの同じ坂上家さかのうへのいへ二嬢おといらつめよばふ歌一首
 春霞はるがすみ 春日かすがの里の 植子うゑこ水葱なぎ なへなりと言ひし はさしにけむ(万407)

  京職みさとづかさ藤原大夫ふぢはらのまへつきみの、大伴郎女おほとものいらつめに贈る歌三首〈卿、諱を麻呂まろと曰ふ〉
 𡢳嬬をとめらが 玉くしげなる 玉櫛たまぐしの かむさびけむも 妹に逢はず有れば(万522)
 よく渡る 人は年にも 有りと云ふを 何時いつにそも 吾が恋ひにける(万523)
 むしぶすま なごやが下に 臥せれども 妹としねば 肌し寒しも(万524)
  大伴郎女のこたふる歌四首
 佐保川さほがはの 小石こいしふみ渡り ぬばたまの 黒馬くろまの来る夜は 年にも有らぬか(万525)
 千鳥鳴く 佐保の河瀬かはせの さざれ波 む時も無し 吾が恋ふらくは(万526)
 むと云ふも ぬ時有るを じと云ふを 来むとは待たじ 来じと云ふものを(万527)
 千鳥鳴く 佐保の河門かはとの 瀬を広み 打橋うちはし渡す と念へば(万528)
  右、郎女いらつめ佐保大納言卿さほのだいなごんのまへつきみむすめなり。初め一品いつぽん穂積皇子ほづみのみことつぎ、うつくしびくることたぐひ無し。皇子みまかりましし後時のちに、藤原麻呂大夫、この郎女をよばふ。郎女は坂上さかのうへの里にむ。仍りて族氏うがらなづけて坂上郎女さかのうへのいらつめと曰ふ。

  或に曰はく、昔みたりの男有りき。ともひとりをみなよばふ。娘子をとめ嘆息なげきて曰はく、「一の女の身の易滅けやすきこと露の如く、三のをのここころにきび難きこといはの如し」といふ。遂に乃ち池のほとり仿偟たもとほり、水底みなそこ沈没しづみき。時に其の壮士をとこ哀頽かなしびきはみへずして、おのおの所心おもひべて作る歌三首〈娘子、𦆅児かづらこと曰ふ〉
 耳成みみなしの 池し恨めし 吾妹子わぎもこが 来つつかづかば 水は涸れなむ 一(万3788)
 あしひきの 山𦆅やまかづら 今日くと 吾に告げせば かへましを 二(万3789)
 あしひきの 玉𦆅の児 今日のごと いづれのくまを 見つつにけむ 三(万3790)

 万96題詞、万407題詞、万528左注、万3788題詞において、「娉」をヨバフと訓んだ理由は、うるさく聞こえてくるからである。基本的に互いに声を出して呼び合うことをする。万96~100番歌、万522~528番歌は当初から男女の呼び交わし合いを前提に題詞や左注が記されている。前者は、久米禅師が一首、石川郎女が二首、さらに返して久米禅師が二首である。後者は、藤原麻呂が三首贈り、対して大伴郎女が四首返している。声を出して呼びかけつづけ、対するに声を出しつづけて応えている。だから、ヨバフで正しいと考える。万3788~3790番歌は、三人の男が同時に一人の女に言い寄っていて、競うように言い寄られてなす術を知らず、自ら命を絶ったという話になっている。亡くなった後、三人の男は陳述して歌をそれぞれ歌っている。歌の下に、「一」、「二」、「三」と記されている。男の側からの声しか聞こえないが、その三人の協和、呼び合いになっており、形式を遷移させたものといえよう。万407番歌は、歌人として知られる大伴坂上郎女おほとものさかのうへのいらつめ、すなわち、坂上家さかのうへのいへ大嬢おほいらつめの妹に当たる幼い少女、坂上家さかのうへのいへ二嬢おといらつめに対して歌われている。恥ずかしがって出てこない。そこでからかい半分呼びかけた。返歌もなく、万葉集にその人の歌は載らない。同族の親戚が法事か何かで会合した時の宴席ででも歌われたものであろう。隠れている少女に、大きな声で呼びかけている。結果的に呼び合ってはいないが、歌の名手である大伴坂上郎女の妹なのだから答えられるであろうとの呼びかけであった。呼ぶことを強調し、呼び合いを前提として歌われているから、ヨバフで正しいと考える(注2)
 他方、万93番歌の題詞に、「内大臣藤原卿娉鏡王女時、鏡王女贈内大臣歌一首」とあり、万94番歌の題詞に、「内大臣藤原卿報鏡王女贈歌一首」と対になっている。ヨバフが呼び合う意である限りにおいて、「娉」→「報」という関係はあり得ない。「贈」→「報」になっている。あくまでも歌の贈答である。それを「相聞」という括りで載せている(注3)。この関係は、万101~102番歌の、大伴宿祢と巨勢郎女との間の「娉」→「報贈」の関係も同じである。よって、当初、男性から女性へ一方的にアプローチしたアトフ(娉)ことがされ、その行為に対してオクル(贈)歌やコタフ(報)歌が設けられたということであろう。
 以上、万葉集の題詞や左注にあらわれる「娉」字は、状況によって「よばふ」、「あとふ」と訓み分けられるべきことを述べた。

(注)
(注1)題詞や左注は漢文表記だから、訓をつけないでも構わないとする見解があり、そういう方針なのか知らないが、澤瀉久孝『万葉集注釋』は最初からこの議論に参戦していない。
(注2)諸注釈書にはアトフの訓みは見られず、ツマドフという苦肉の策が行われている。

 「つまどふ」という訓は、具体的、直接的な意味合いを持っている言葉に感じられ、題詞としてふさわしい語なのか疑問である。「つまふ時の歌」はあり得ても、「つまふ歌」となるとプロポーズの言葉そのものということになる。つまり、「妻問ふ時の歌」が歌われたとしたなら、答えも「其の時の歌」のはずになる。したがって、万93・101番歌の題詞にツマドフというのは当たらない。ツマドフの訓みが多く当てられている万407番の場合も、歌の内容からしてその題詞に似つかわしくない。歌を再掲する。

 春霞はるがすみ 春日かすがの里の 植子うゑこ水葱なぎ なへなりと言ひし はさしにけむ(万407)

 まだ苗だと言っていた枝はもう伸びたでしょうか? と尋ねるような相手である。政略結婚でもないのに本気の求婚場面であると考えるのはなかなか難しい。年で言えば中学生ぐらいに育ったはずだがそこに隠れてしまった少女よ、さあ出ておいでよ、ぐらいの感覚で戯れて歌いかけているように感じられる。推量で述べている段階で、相手に本気で求婚しているのではなく、逆にそれを譬喩としている。万390番から万414番までは一括して「譬喩歌」である。万407番歌は歌の内容を譬喩として作り、歌いかけたもので、返事がないのはお婿さんでも貰ったのかい? とさらにからかっている話であると思われる。直截的なツマドフという言葉よりも、声に出して呼びかける点を強調するヨバフとしたほうがふさわしいだろう。
(注3)「相聞」歌とは何か、という大問題については触れない。

(引用文献)
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
(注2)で参照している注釈書については割愛する。

※本稿は、2018年4月稿を2020年2月に誤りを正して新稿とし、さらに2024年6月に加筆し、ルビ形式にしたものである。

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