古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

古事記における動詞アフ(遇・逢)の表現について

2021年08月27日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 古事記では、甲が乙にアフ(遇・逢)という表現に特徴的なものがあると指摘されている。記のなかで「遇・逢」を含む表現は、「某+「遇・逢」」と「「遇・逢」+某」の二種に分類される。

(A)「遇・逢」+某
①於是、天津日高日子番能邇邇芸能命、於笠沙御前、遇麗美人
 是に、天津日高日子番能邇邇芸能命、笠沙かささ御前みさきに、うるはしき美人をとめに遇ひき。(記上)
②即入其山之、亦遇尾人。
 即ち其の山に入れば、亦、尾をふる人に遇ひき。(神武記)
③即曙立王・菟上王二王副其御子遣時、自那良戸跛・盲、自大坂戸、亦遇跛・盲、……
 即ち曙立王・菟上王の二はしらのみこを其の御子にへてつかはしし時、那良戸ならとよりあしなへめしひに遇はむ、大坂戸おほさかとよりも亦、跛・盲に遇はむ、……(垂仁記)
④故、耕人等之飲食、負一牛而、入山谷之中、遇-逢其国主之子、天之日矛
 かれ耕人たひと等の飲食をしものを、一つの牛におほせて、山谷たにの中にるに、其の国主こにきしの子、天之日矛あめのひほこ遇逢ひき。(応神記)
⑤於是、大后、御綱柏積-盈御船還幸之時、所-使於水取司吉備国児嶋之仕丁、是退己国、於難波之大渡後倉人女之船
 是に、大后おほきさき御綱柏みつながしはを御船に積盈みて還りいでます時、水取司もひとりのつかさ駆使つかはゆる吉備国の児嶋こしま仕丁よほろこれおのが国に退まかるに、難波の大渡にしておくれたる倉人女くらひとめが船に遇ひき。(仁徳記)
⑥故、到-幸大坂山口之時、遇一女人
 故、大坂の山の口に到り幸しし時、ひとり女人をみなに遇ひき。(履中記)

(B)某+「遇・逢」
⑦故、従其国上幸之時、乗亀甲釣乍打羽挙来人、遇于速吸門
 故、其の国より上り幸しし時、亀のに乗りてつりつつ打ち羽挙はふり来る人、速吸門はやすひのとに遇ひき。(神武記)
⑧……騰其山之時、白猪逢于山辺
 其の山にのぼりし時、白き、山のに逢ひき。(景行記)
⑨故、到-坐木幡村之時、麗美嬢子遇其道衢
 故、木幡村こはたのむらに到りしし時、麗美うるはしき嬢子をとめ、其の道衢ちまたに遇ひき。(応神記)
⑩後更亦幸-行吉野之時、留其童女之所_遇、於其処大御呉床而、坐其御呉床、弾御琴、令其嬢子
 後に更に亦、吉野に幸行いでましし時、其の童女をとめの遇ひし所に留まりて、其処そこ大御呉床おほみあぐらを立てて、其の御呉床に坐して、御琴を弾きて、其の嬢子をとめまひしめき。(雄略記)
⑪又天皇、婚丸邇之佐都紀臣之女、袁杼比売、幸-行于春日之時、媛女逢道。即見幸行而逃-隠岡辺。故、作御歌
 又天皇、丸邇之佐都紀臣のむすめ、袁杼比売をきに、春日に幸行しし時、媛女をとめ道に逢ひき。即ち幸行すを見て岡のに逃げ隠りき。故、御歌を作りき。(雄略記)
⑫爾自東方遣建沼河別与其父大毘古、共往-遇于相津。故、其地謂相津也。
 爾くして東の方より遣さえし建沼河別と其の父大毘古と、共に相津あひづに往き遇ひき。故、其地そこを相津と謂ふぞ。(崇神記)

 (A)の「遇・逢」+某の形は、某(相手)に遇(逢)ふ、とふつうに考えればわかることである。①であれば、天津日高日子番能邇邇芸能命[が]麗美人[に]遇っている。
 一方、(B)の某+「遇・逢」の形について、某(相手)が遇(逢)ふ、と訓まれることがあった。某(相手)が立ち現れて(主人公の自分)に遇(逢)うというのである。「遇・逢」の直前に人名や神名があれば、「遇・逢」の主語であると考えている。これは、本居宣長・古事記伝のいう「雅言ミヤビゴトの格」に倣う捉え方で、その限りにおいては西宮1970.中川1984.も同意見と見える。
 そうであろうか、というのが本稿筆者の問題提起である。
 (B)の某+「遇・逢」の形のなかに異例である⑫を含めた。その例からすると、問題はより深まろう。建沼河別とその父親の大毘古とが、共に相津へ行って、出遇った、とするのであるが、その場合、誰が誰に遇ったかといえば、建沼河別が大毘古に遇い、大毘古が建沼河別に遇っている。誰が誰に遇うかということが言葉の主眼になく、遇うという状態をもってすべての説明にしている。よってアヒヅという地名譚にもってこいなのである。そもそも、アフ(遇・逢・会・遭)には、ひょっこり出会う、偶然来合せる、という義がある。会おうと意図して会う場合ばかりではなく、会ったこと自体が事態の要であることがその義によく表れている。イザナキとイザナミの結婚の件にあるようにである。

 汝者自右廻逢、我者自左廻逢。
 汝は右よりめぐり逢へ、我は左より廻り逢はむ。(記上)
 
 また、(B)の用法は、必ず「~時、」という条件節を伴い、遇(逢)った場所を指定している。
 すなわち、主人公である甲が~へ行った時に、そこで、相手である乙+「遇・逢」、という形になっている。
 その点を考慮すると、甲が~へ行った時に、(乙がそこに居て)、その特定の場所で(甲は)乙と出会った、ということ、それの省略構文として成り立っていると言えそうである。条件節を持ち出して出くわす流れを含んだもの言いになっている。以下、便宜的に理解できるように「が」、「と」(注1)を添えてみると、それぞれよくわかる構文になっている。⑩は複雑な文になっており、通訓に定まらないところがあるので別に述べることにする。

 ⑦[神倭伊波礼毘古命と其のいろ兄五瀬命との二柱が]其の国より上りいでましし時、亀のに乗りてつりつつ打ち羽挙はふり来る人[と]速吸門はやすひのとに遇ひき。(神武記)
 ⑧[倭建命が]其の山にのぼりし時、白き[と]山のに逢ひき。(景行記)(注2)
 ⑨故、[天皇が]木幡村こはたのむらに到り坐しし時、麗美うるはしき嬢子をとめ[と]其の道衢ちまたに遇ひき。(応神記)
 ⑪又天皇[が]、丸邇之佐都紀臣のむすめ、袁杼比売をきに、春日に幸行いでましし時、媛女をとめ[と]道に逢ひき。即ち[天皇が]幸行すを見て[袁杼比売が]岡辺に逃げ隠りき。故、[天皇が]御歌を作りき。(雄略記)(注3)

 この用法は、西宮1970.が229頁で指摘する下の風土記の例では少し異なるように見える。古事記に「甲~時、乙+「遇・逢」」とする基本構文の間に乙の行動が挿入されている。それでも、乙の行動によって甲は乙の存在を知ることになっているから、乙の行動は挿入句的な内容となっていて、甲乙の両者が相まみえたことを言っている。あえてどちらが「あふ(遇)」の主語かと言えば、文章の頭に据えられている「~時、」という条件節の主語となるべき甲のほう(注4)ということになり、甲が、乙の~しているところに出遇ったという状況を表していると考えられよう。状況説明だから、このような一見曖昧に感じられる表現が行われているとも言える。そう想定しないと困ることがある。それらはいずれも地名譚になっている。地名は人が命名するものであり、下に示す第二例にはその発端として勅があったからそうしたとしている。「さる」や「大鹿」の様子を目にして言語化したのは、「いふ(云・曰)」ことをしたとされる天皇や神やそれに従う側の人々の方である。「いふ(云・曰)」、「なづく(号)」の謂れに「あふ(遇)」があるのだから、乙の~してところ(-ing)に甲が遇(逢)ったと考えるのがわかりやすい。

 品太天皇巡行之時、猓噛竹葉而遇之。故曰佐佐村
 品太ほむた天皇すめらみこと、巡りでましし時、さる竹葉ささばみてひき。故、佐佐ささの村と曰ふ。(播磨風土記・揖保郡)(注5)
 所-以名宍禾者、伊和大神、国作堅了以後、堺山川谷尾巡行之時、大鹿出己舌、遇於矢田村。爾勅云、矢彼舌在者、故号宍禾郡、村名号矢田村
 宍禾しさはなづくる所以は、伊和の大神、国作り堅めへましし以後のち、山川谷尾をさかひに巡り行でましし時、大きなる鹿、おのが舌を出して、矢田の村に遇ひき。爾にみことのりして云はく、「矢はの舌に在り」といふ。故、宍禾のこほりと号け、村の名を矢田の村と号く。(播磨風土記・宍禾郡)
 右、所-以号鹿咋者、品太天皇、狩行之時、白鹿咋己舌、遇於此山。故曰鹿咋山
 右、鹿咋かくひと号くる所以は、品太の天皇、狩にでましし時、白き鹿、己が舌を咋ひて、此の山に遇ひき。故、鹿咋山と曰ふ。(播磨風土記・賀毛郡)

 さらに西宮1970.は230頁で、風土記に「有某遇」の文型のあることを示し、「まことに「相手遇フ」と訓ませたければ、……「」の文型でも書けたのである。」としている。しかし、上に論じたとおり、「~時、」という条件節の主語となるべき甲のほうが、相手である乙が有る(being)のと出遇ったという状況を表していると考えられ、その点は地名譚として名づけることにも合致していると考えられよう。
 
 葦原志許乎命与天日槍命、占国之時、有嘶馬、遇於此川。故曰伊奈加川
 葦原志許乎命、天日槍命と、国占めましし時、いななく馬有りて、此の川に遇ひき。故、伊奈加川いなかかはと曰ふ。(播磨風土記・宍禾郡)
 曩者、気長足姫尊、欲-伐新羅、行幸之時、於此道路鹿遇之。因名遇鹿駅。
 曩者むかし、気長足姫尊、新羅を征伐たむとおもほして、行幸しし時、此の道路みちに鹿有りて遇ひき。因りて遇鹿あふかうまやと名づく。(肥前風土記・松浦郡)

 以上の検討から、(B)の某+「遇・逢」の形においても、主人公である甲が~へ行った時に、相手である乙+「遇・逢」という構文は、甲が乙とアフ、と捉えるべきと理解された。

(注)
(注1)本居宣長は「に」と添え訓むのは「雅言」に非ずということなので、「と」と添えることにした。アフ(遇・逢・会・遭)の語義が、甲と乙とがアフことである点からもふさわしいと考えた。新編全集本古事記に、⑧「白い猪と、山のほとりで出会った。」(231頁)と訳出している。
(注2)中川1984.は、⑧例の、「……騰其山之時、白猪逢于山辺。」(景行記)について、「逢ふ」の主語を「白猪」としている。「このような〝神との出会い〟が相手を主格として語られるのは、……相手が死者である場合と同様の発想からで……[、]神や死者は共に俗なる人間の意志を越えた存在である。それゆえに、〝相手がアフ〟という言い方がされることが多いわけである。」(28頁)としている。この結論は疑問であるが、行論においては、「〝相手がアフ〟という出会う相手を主格とした表現は、〝その相手がそこに居た〟に近い語気をもつ場合があったようである。」(24頁)として「相手がアフ」(記)と「~有り」(紀)という表現を対照させている。
 当たり前の話であるが、甲と乙とがアフには、甲と乙とが共にそこに居なければならない。有らなければならない。
 中川1984.は紀の次の文を例にあげている。

 於是弟君、銜命率衆、行到百済而入其国。国神化-為老女、忽然逢路。弟君就訪国之遠近。老女報言、復行一日、而後可到。
 是に弟君、おほみことうけたまはりてもろもろて、行きて百済に到りて其の国に入る。国神くにつかみ老女おみな化為りて、忽然たちまちに路に逢へり。弟君、きて国の遠き近きを訪ぬ。老女、報へてまをさく、「また一日ひとひ行きて、而して後に到るべし」とまをす。(雄略紀七年是歳)

 「雄略紀のこの部分に、なぜこのような和文的な表現があらわれるのかよくわからないが、〝神との出会い〟が語られていることは古事記の例と同じである。」(30~31頁)と指摘する。この文章にある「逢」は、弟君が国神の化身である老女に逢うことを言っている。老女が弟君に逢ったと解するのは適当ではない。「忽然逢路。」の「路」は、弟君の行路を指していると考えられ、老女に化けて現れた姿を見て取った弟君が近寄って行って問いかけている。風土記の例に同じく、弟君が「入其国」の、「国神化-為老女、忽然逢路。」という意味が記されていると考える。
(注3)尾崎1966.では、⑦「亀のせなかに乗って釣をしながら勢いよく身体をってくる人が、速吸の海峡で(天皇に)行き遇った。」(267頁)、⑧「山のほとりで白い猪が行きった。」(437頁)、⑨「その分れ道で美しい嬢子が(天皇に)行き遇うた。」(499頁)、⑪「その嬢子が道で逢って、たちまちおでましを見て岡辺に逃げ隠れた。」(702頁)、新編全集本古事記では、⑨「美しい乙女が、その村の辻で出会った。」(261頁)、⑪「その乙女が道で出会った。」(349頁)、中村2009.では、⑪「その乙女が路上で、天皇の一行と出遇であった。」(438頁)と訳しており、「アフ(遇・逢)」の前にある語が主格となるとみた宣長流の訳出といえる。ただし、新編全集本古事記、中村2009.がすべての例でそう訳出しているわけではない。(注1)に記したとおり、筆者同様に「と遇う」としている箇所さえ見える。結局意味が通じてしまうのは、アフという語本来の意味合いからくるのである。
(注4)条件節において状況的に主役となっている者のことで、必ずしも文章の主語ということにはならない。
(注5)「而」字をテと訓むのは慣用であるが、呉音からニと訓めないわけではない。万1996番歌参照。「……猓、竹葉を噛むに遇ひき。」のほうがすっきりするが、むしろ、テという助詞が意味的に薄くて軽いものであることに注意を向けるべきと考える。「……猓が竹葉を噛んでいてね、それに遇ったの。」といった表現と捉えられよう。以下の風土記の例の訓み添えのテについても同様である。

(引用・参考文献)
尾崎1966. 尾崎暢殃『古事記全講』加藤中道館、昭和41年。
新編全集本古事記 神野志隆光・山口佳紀校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
中川1984. 中川ゆかり「出会いの表現」『萬葉』第119号、昭和59年10月。学会誌『萬葉』アーカイブhttps://manyoug.jp/memoir/1984(『上代散文 その表現の試み』塙書房、2009年所収。)
中村2009. 中村啓信『新版古事記 現代語訳付き』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
西宮1970. 西宮一民『日本上代の文章と表記』風間書房、昭和45年。

※本稿は、2021年8月稿を2023年10月にルビ形式にしたものである。

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