井戸へいざなうソラツヒコ
海神の宮を訪れた火遠理命(彦火火出見尊)は、そこで虚空津日高(虚空彦)と呼ばれるようになっている。本稿ではその名義について考究する。
故、教の随に少し行くに、備さに其の言の如し。即ち、其の香木に登りて坐しき。爾くして、海神の女、豊玉毘売の従婢、玉器を持ちて水を酌まむとする時に、井に光有り。仰ぎ見れば、麗しき壮夫有り。甚異奇しと以為ふ。爾くして、火遠理命、其の婢を見て、「水を得むと欲ふ」と乞ふ。婢、乃ち水を酌みて、玉器に入れて貢進る。爾くして、水を飲まずして、御頸の璵を解き、口に含みて其の玉器に唾き入れつ。是に、其の璵、器に著きて、婢、璵を離つこと得ず。故、璵を著けし任に、豊玉毘売命に進る。爾くして、其の璵を見て、婢に問ひて曰はく、「若し、人、門の外に有りや」といふ。答へて曰はく、「人有り。我が井上の香木の上に坐す。甚麗しき壮夫ぞ。我が王に益して甚貴し。故、其の人、水を乞ひしが故に、水を奉れば、水を飲まずして、此の璵を唾き入れつ。是、離つこと得ず。故、入れし任に将ち来て献る」といふ。爾くして、豊玉毘売命、奇しと思ひ、出で見て、乃ち見感でて、目合して、其の父に白して曰さく、「吾が門に麗しき人有り」といふ。爾くして、海神、自ら出で見て云はく、「此の人は、天津日高の御子、虚空津日高ぞ」といひて、即ち内に率て入りて、みちの皮の畳八重を敷き、亦、絁畳八重を其の上に敷き、其の上に坐せて、百取の机代の物を具へ、御饗為て、即ち其の女豊玉毘売命に婚はしめき。(記上)
時に彦火火出見尊、其の樹の下に就きて、徒倚ひ彷徨みたまふ。良久しくして一の美人有りて、闥を排きて出づ。遂に玉鋺を以て、来りて当に水を汲まむとす。因りて挙目ぎて視す。乃ち驚きて還り入りて、其の父母に白して曰さく、「一の希客者有します。門の前の樹の下に在す」とまをす。海神、是に、八重席薦を舗設きて、延て内る。(神代紀第十段本文)
門の外に井有り。井の傍に杜樹有り。乃ち樹の下に就きて立ちたまふ。良久にありて一の美人有り。容貌世に絶れたり。侍者群れ従ひて、内よりして出づ。将に玉壼を以て水を汲む。仰ぎて火火出見尊を見つ。便ち驚き還りて其の父の神に白して曰さく、「門の前の井の辺の樹の下に、一の貴客有す。骨法常に非ず。若し天より降れらば天垢有るべし。地より来れらば、地垢有るべし。実に是妙美し。虚空彦といふ者か」とまをす。一に云はく、豊玉姫の侍者、玉瓶を以て水を汲む。終に満つること能はず。俯して井の中を視れば、倒に人の咲める顔映れり。因りて仰ぎ観れば、一の麗き神有して、杜樹に倚てり。故、還り入りて其の王に白すといふ。(神代紀第十段一書第一)
一書に曰はく、門の前に一の好井有り。井の上に百枝の杜樹有り。故、彦火火出見尊、跳りて其の樹に昇りて立ちたまふ。時に、海神の女豊玉姫、手に玉鋺を持ちて、来りて将に水を汲まむとす。正に人影の、井の中に在るを見て、乃ち仰ぎて視る。驚きて鋺を墜しつ。鋺既に破砕けぬるに、顧みずして還り入りて、父母に謂りて曰はく、「妾、一人の、井の辺の樹の上に在すを見つ。顔色甚だ美く、容貌且閑びたり。殆に常之人に非ず」といふ。時に父の神聞きて奇びて、乃ち八重席を設きて迎へ入る。(神代紀第十段一書第二)
時に豊玉姫の侍者有りて、玉鋺を持ちて当に井の水を汲まむとするに、人影の水底に在るを見て、酌み取ること得ず。因りて仰ぎて天孫を見つ。即ち入りて其の王に告げて曰はく、「吾、我が王を独り能く絶麗くましますと謂ひき。今一の客有り。彌復遠勝りまつれり」といふ。海神聞きて曰く、「試に察む」といひて、乃ち三の床を設けて請入さしむ。是に、天孫、辺の床にしては其の両足を拭ふ。中の床にしては其の両手を拠す。内の床にしては真床覆衾の上に寛坐る。海神見て、乃ち是天神の孫といふことを知りぬ。益加崇敬ふ、云々。(神代紀第十段一書第四)
海宮遊幸の話のなかで、火遠理命(彦火火出見尊)は塩土老翁の教えのとおりに行動している。事の成りゆきは言われたとおりで、海神の宮の井戸の門のところに一本のカツラの木が生えていた。そして、海神の娘、豊玉毘売(豊玉姫)の従婢(侍者)、または当人が玉器(玉鋺、玉壼)を手に水を汲んでいる。井の水面に人影が映ったから仰ぎ見てみると壮麗な男がいた。記では火遠理命は水を請い、頸の璵をほどいて口に含んでその玉器のなかに唾を吐き入れた。すると璵が器にくっついてしまい、そのまま豊玉毘売に差し上げた。豊玉毘売は不思議に思って外へ出て、高貴な人を見て一目惚れしてしまったことになっている。紀ではうまく水を汲めないまま姿を見て家へ戻り、親の海神に告げて招き入れることへと展開している。敷物を敷いてテーブルにご馳走を並べて賓客扱いする話になっている。
火遠理命(天津日高日子穂穂手見命、彦火火出見尊)は、「坐二我井上香木之上一。」(記上)、「跳昇二其樹一而立之。……妾見三一人在二於井辺樹上一。」(紀一書第二)、「宜就二其樹上一而居之。」(紀一書第四)などとあり、樹上にいたことになっている(注1)。井戸端のカツラの樹の上で、井戸に至近の高いところにいたから、水を汲もうとしたら井戸のなかの水鏡に姿が映り、ハッと気づいて仰ぎ見上げている。井戸の大きさ、井戸の水位の高さによって影が映るか変わってこようが、井戸のほとんど真上にいるから映ったものと解釈されよう。カツラの木が舞台として設定されている。土壌の水気を好むカツラの樹の特徴をもって正しい井戸表現となっている。株立ちして大樹となる木である。井戸を覆うように茂っていて、井戸の真上にあたるところに彼はいた。この設定は、海神の宮門と井戸とカツラの木の組み合わせ(注2)同様、この話の焦点であろう。そして、その物珍しい人を見て、「此人者、天津日高之御子、虚空津日高矣。」(記上)、「虚空彦者歟。」(紀一書第一)と呼んでいる。ソラツヒコ(虚空津日高、虚空彦)と名づけられている。
火遠理命(彦火火出見尊)の名を持っていた主人公は、海神側からソラツヒコ(虚空津日高、虚空彦)と名づけられている。名づけるとは、そう呼ばれるに然るべき存在として認められることである。名とは呼ばれるものであり、多くの人がそう呼んでいる。多くの人がそう呼ぶのは、多くの人がそう呼んで確かにそのとおりであると認めたからである。今日でも、あだ名となっている命名は、大多数の賛同によって成立している。いまここにその政治性は問わないことにしながらも、命名されることとは衆目から注目を受ける対象とされた瞬間が、少なくともいっときはあったことを意味する。高いところにいて注目されたため、天孫の係累であると悟られたのである。天皇は高御座のように高いところにいる。
「虚空津日高」はソラツヒコと確実に訓む(注3)。「高」の字音の平声を活かした発音を含めた表し方と考えられ、ヒコは孫の意のヒコである。紀の用字の「彦」が示す男子の称ではなく、「孫」、すなわち、子(コは甲類)の子のことである。コ(甲類)には、子、蚕、籠、海鼠、粉、小、濃といった語がある。いま、彦火火出見尊は、無目堅間という籠に乗って海神の宮へやってきた。籠の中に孫に当たるヒコが乗って来ていた。コ(籠)のコ(子)状態にあった。子どもを入れておく籠は揺り籠である。古語に、イヅミ、イヅメ(箍)という。エジコ(嬰児籠)、ツグラなどとも呼ばれる。イヅミの同音に泉がある。井戸の真上にイヅミが来ていれば、そこはまさしく良く水を湧き出す井戸であると言える。なかなか汲めない井戸が、どんどん水を湧き出す井戸へと様変わりしている。光(影)は映ったのだから井戸に水がなかったわけではなく、深井戸だったということであろう。そこに生えているカツラの木の高いところに、揺り籠(箍)が引っ掛かって、湧水のように水が得られるようになった(注4)。井戸の技術革新を物語っているようである。
エヅメ(秋田県旧公式サイト「ふるさと 母の面影」美しき水の郷あきたhttp://www.pref.akita.jp/fpd/komezukuri/kome-02.htm)
鐘方2003.に次のようにある。
被籠式の釣瓶に注目したい。火遠理命(彦火火出見尊)が海神の宮へ至るときの乗物、無間堅間のイメージどおりで理解しやすい。どんなに堅く籠を編んでも間が無くなることはなく、沈んでしまうのではないかと危ぶんでいたが、籠のなかに乗る火遠理命(彦火火出見尊)自身が土器を指し示すとするなら、沈むと心配していたのは取り越し苦労であった。すべてはお話である。そして、ソラツヒコという名で紹介されている。すなわち、火遠理命(彦火火出見尊)とは、井戸にあっては釣瓶の甕である。土器の器が用途によって名称が変わるように名前が変わっている。ソラツヒコとは、中空にあって孫のような存在ということである。
孫と用いる例として、木霊のことをいう山びこ(天ひこ)、「蓬蔂」(雄略紀九年七月)がある。山びこは、大声を発してとても小さく返ってくる声で、声としては祖父母と孫の顔が相似しているほどに相似しているけれど、時間的には少し遅れて聞こえる。親子は育ち育てられる関係にあり、時間的には同じ時間を生きている。一方、祖父母と孫とは、平均寿命の短かった古代においては、今生にまみえるかどうかきわどいものがあり、山びこ的な間柄であった。ソラツヒコという名義も同様に考えられたに違いない。空中で宙ぶらりんになっている二つの水汲み容器はよく似ているが、車井戸の左右の器は時間的に少し遅れて現れる存在で、遠近法的に見て一方は大きく他方は小さい。それをヒコ(孫)という絶妙な言い回しで仕上げている。
挟みつけられたタイプの井戸滑車(板橋区立郷土資料館)
「骨法非レ常。」(紀一書第一)とある。そんな魔法のような仕掛けで、井戸の真上にあることによって井戸の便に役立つものと言えば、技術の根幹をなすのは車井戸の滑車である。これは轆轤と総称されている。井戸滑車と工作機械や起重機の轆轤との違いには、回転する車の部分が剥き出しか、それとも覆いに隠れているかの差がある。井戸滑車では回転する部分を狭くし、また凹面にしてブレを少なくしている。さらに、車が外れないようにガードする部分が挟みつける形に仕上げられている(注6)。木地轆轤や神楽桟のように、回転する部分に何重かに縄綱を巻き付けるのではなく、一重(回転円の半分180°)に懸っているに過ぎない。そして、縄綱の両サイドの端に甕(瓶)がつけられている。水を汲むために井戸の底へ沈められる時、縄綱が下るに従って反対側の縄綱は上へあがる。引き上げるときは、上の釣瓶を下げて下の釣瓶を上げていく。二つの釣瓶は姿がよく似ながらタイムラグをもって現れる。この仕組みがソラツヒコである(注7)。なにしろ、山幸が釣りをして失敗したのが事の発端であった。
井戸の真上にいて珍奇にして高貴な感じを起こさせる新来の存在である。だから、かつら剥きという言葉を生んだカツラの木に樹種が設定されている。ぐるぐると刳るようにするのは轆轤である。侍者が水を汲み上げられなかったとする一書第一一云や第四の記述は、吊縄を引き上げられなかったことを表す。人影が水底に見えたから汲めなかったのか、汲めなかったから水底を見て確かめようとしたのか、どちらが先かわからない。卵が先か、鶏が先か、それは轆轤工具で轆轤器具を作ることととてもよく似た論理構成である。汲めなかったのは重かったからではなく、深かったからであろう。動滑車の原理で力を半分にしようというのではなく、定滑車があるだけでも自分の体重を使えば楽に上がるということである。木工轆轤にはかけた力以上に回転させる仕組みがあるわけではない。
滑車という語は、用字が先んじる形で成立し、後に読みもクワッシャとなる。明治になる頃のことである(注8)。記紀のこの話が本論のように考えられていたとすると、イヅミ(イヅメ)の要のような存在として思われていたと考えられる。文献の用例に確認されないものの、セミとも呼ばれ、イヅミとも呼ばれ、クルミと呼ばれたように感じられる。クルミと呼ばれた可能性は、クルミは堅果の胡桃でありつつ、赤ん坊をくるむクルミ(お包み)であり、それは箍のことと同義であることに見出せる。新撰字鏡に、「橯 久留彌乃木、呉桃、上同」、和名抄・塩梅類に、「胡桃 七巻食経に云はく、胡桃、味は甘、温、之れを食へば油有りて甚だ美しといふ〈久留美〉。博物志に云はく、張騫、西域に使ひして還る時に之れを得といふ。」とある。堅い殻に覆われたクルミは、殻と実とが離れていてころころと鳴る。森の中でリスは器用に半分に殻を割り、中の実を食べる。ところが、手を使えないアカネズミが食べようとすると、齧歯目だから殻に鋸を立てたように切ることはできるのだが、切り口を大きくすることができずに中の実を取り出せないことがある。結果、調度品や飾り小物の彫刻細工物にクルミのように仕上げるものと同じことが起きる。振ると中の玉をころころと鳴らすことができる。その様を見て、人はクルミという言葉を必ず思い浮かべる。船に使う蝉の車が閉じ込められているのと同じく、車井戸の滑車にも車が外れないように、回転する車輪径よりも上下とも外側に囲われたものがある(注9)。その囲うさまは井桁のようである。井戸の上に井戸があるものだと頓智を働かせて想定することは、泉の上に箍があることと同等である。箍とはクルミ(包)のことである。轆轤という言葉のツボ、刳ることによって繰ることができる道具の様子を上手に示している。どれもなるほどと納得させられる、ヤマトコトバによるヤマトコトバの自己説明である。
火遠理命(彦火火出見尊)が帰るとき、記では「一尋わに」に乗っている。神代紀第十段一書第一では「大鰐」、一書第三・第四では「一尋鰐魚」である。井戸で水を汲む話には、一書第二に「玉鋺」とある。鋺はかなまり、呉音ヲン、漢音ヱンである。土器を籠でくるむ話をしている。土師器の器は石偏の碗であり、マリ、モヒと訓み、呉音、漢音ともにワンである。このワンを、ワニと訓み慣わそうとしたようである。ロクロ(轆轤)という語を字音からヤマトコトバに変ずるものとして考えていることに対応する。古語でナ行上一段活用の動詞ワニルは、はにかむことをいう。埴土という赤い陶土を噛むと自然と顔がゆがむ。左右どちらかの口角が上がり、反対側は下がる。渋苦いような味が口の中に広がるから、口を動かしてはその上下が左右反転してその運動が繰り返される。埴土でできた土師器の容器の片方が上がり、片方が下がる。「若し天より降れらば、天垢有るべし。地より来れらば、地垢有るべし。」(神代紀第十段一書第一)などと持って回った言い方をしている。その左右非対称の顔の表情こそ、車井戸の動きをよく表している。天でもなく地でもなく、その両方を引くものとして中空の「虚空」が提題されている。口角を左右に上げ下げする体操をしながら、この説話は語られたらしい。この口角運動については後にも述べる。
轆轤について
いま一度、轆轤について確認しておこう。
轆轤は、回転運動をする機械の総称である。和名抄・造作具に、「轆轤 四声字苑に云はく、轆轤〈鹿盧の二音、俗に六路と云ふ〉は円転の木機なりといふ。」とある。ロクロは、漢字の音読みをもって通用している。円運動をする。橋本1979.の整理によれば、使用目的に、(1)動力の補助をなすもの、(2)円い焼物・挽物をつくる工作器具の二通りがあり、軸の据え方に(1)縦軸、(2)横軸の二通りがある。
「ろくろ」の種類とその分類
(同書24頁)
今日、考古学の世界では、モノが出土しなければ、なかったことばかりではなく知られていなかったかのごとく語られる傾向がある。しかし、井戸滑車が用いられた可能性は他の技術から推して窺うことができる(注10)。重いもの、大きなものを持ち上げるのに、轆轤が使われていたことも確実視されている。滑車を使う井戸の存在は不明とされているが、「知られていた」かどうかという問いは愚問である。知っていても使わないことはままある。実用面からは地下水位が高ければさほど苦労はいらない。メンテナンスの必要もなくて済む。井戸の滑車を面白がって、小さな子がおもちゃにして遊ばれてはとても困る。自重をかけて反対側を揚げるためにぶら下がり、本当に籠の子のようになっては井戸に落ちて命を落としかねない。漢語に井戸の滑車のことを「轆轤」と呼んだ例として、世説新語・排調に、「次復作二危語一。桓曰、矛頭淅レ米剣頭炊。殷曰、百歳老翁攀二枯枝一。顧曰、井上轆轤臥二嬰児一。」とある。刃物の先で米を研いだり炊いだりすること、百歳のお爺さんが枯枝によじ登ること、井戸の轆轤に赤ん坊を寝かせることはともにとても危険だと言っている。興味津々の仕掛けである車井戸に子どもがぶら下がったら不幸な結果となることがあり、普及を控えた経緯があったのではないか。大人ばかりが集団生活をする寺院や酒造業者、染色工房のような大量の水を汲みあげる必要があるところでは滑車が付けられていたと考えられる。平城京の造酒司とされる井戸は、屋根を備えた構造ながら滑車の遺物が見られないため車井戸とは認められていないものの、可能性としては指摘されている。はじめて遺物を伴って車井戸が見られるのは一乗谷朝倉遺跡である。その間、絵巻物に滑車を描いたものは見られない。文献には、江西竜派(1375~1446)・豩菴集(1420年)・暁井轆轤に、「梧桐井上轆轤頭 誰引二蒲縄百尺修一」と見える。近世には、寺島良安・和漢三才図会(1712年)に、「轆轤 樚櫨 俗に車木と云ふ。……轆轤 井の上にて水を汲む円転木也。……轆轤は凡そ円転の器は皆轆轤と称し字の声を用ゆ。幹の上に在りて繘を受くる物は轆轤と称し、和訓を用て之れを呼ぶ也。物原に史佚始めて轆轤を作ると云ふ。」、狩谷棭斎・箋注倭名類聚鈔(1827年)には、「広韻韇、韇𩍼、円転木也、𩌫上同、韻会、𨏔轤、井上汲レ水木、一作二轆轤一、通二鹿盧一、礼記喪大記注、樹二碑於壙之前後一、以紼二-繞碑間之鹿盧一、輓レ棺而下レ之、淮南子氾論訓注、長剣〓(木偏に剽)施二鹿盧一。」とある。
左:灰陶井戸(前漢時代、前3~後1世紀、茂木計一郎氏寄贈、愛知県陶磁美術館展示品)、中:一乗谷朝倉氏遺跡の復原井戸、右:九段招魂社の車井戸(アーベル・ゲノリー(1841~1929)筆、紙・鉛筆、明治時代、19世紀、東博展示品)
同じく滑車として実用に供していたものに、すでに触れた船の帆をあげるための装置がある。別名にセミ(蝉)と言っている。蝉の形に似ていたためか、高い木の上でジージー鳴っていたからか、語の由来は不明であるが、そう呼ばれてきた。また、高い旗竿の頂部につけて幡を吊り上げたり下ろしたりする場合もあった。正倉院文書・造石山院所告朔解に、「幢末轆轤一具」(天平宝字六年(761)三月三十日)とある。
一方、工作機械としての轆轤には、陶車(焼物用)、木工用、金工用などがある。陶車の場合、手回しか蹴りかなどに技術的な差を認めることもあり、古くどのように呼ばれていたのか未詳である。木立2017.によれば、陶車を轆轤と記述した例は類船集(1676年)以降のことという。手綱を引いて回転させるところからの連想で同じように呼ばれたとするなら、その装置が歴史的に遡れるほどに陶車をロクロと呼んでいた歴史も古いことになろう。須恵器や瓦の製造法の伝来に伴って伝わったところまで遡る可能性はある。陶器大辞典に、「……轆轤なる語は、滑車の回転する際に発するグルグルといふ音響を写した語であると解釈しなければならない。されば円転自在なるものはすべてロクロと称してよいのであつて、陶器を作る滑車即ち陶車もロクロであれば、井戸の釣瓶もロクロであり、起重器・引重器の滑車もまたロクロである。飛頭蛮(頸の長い怪物)のことを俗にロクロ首と云ふのも、其の頸が前後左右に自在に廻転することから起つたものであらう。轆轤なる語は、又其の滑車の形貌より起つて円形の蛇の目模様を称する語となり、又轆轤を以て作つた物を称する語ともなるに至つた。」(329頁、漢字の旧字体は改めた)とある。
他方、土木建設工事においては、運河開鑿の際などの石組みや、大型建築の際に巨木を立てたり持ち上げたりする時にも轆轤は用いられる。このクレーン用のものは、別名に、絞車、神楽桟、車地ともいう。シャチは幸に通じる。鯱(注11)は、マイルカ科の海獣で、体長はおよそ9mにもなって力が強く、性質はきわめて獰猛にして貪食である。上下の顎は頑丈で、鋭い歯を持ち、体の背面は黒く、腹側は白く、目の後上方には白斑がある。白黒の体と言える。シロクロはロクロ(轆轤)と音がよく似ている。シャチは獰猛で、魚ばかりかクジラやアザラシ、サメまでも襲って食べる。シャチの襲撃にパニックになったクジラやマグロなどが浜に乗り上げることがある。これは、漁師にとってもっけの幸い、僥倖であったに違いない。「幸」字のもともとの意味である。つまり、鯱は幸である。狩猟の幸運をもたらす霊力もシャチといい、猟師の間ではシャチ神を祀る信仰のあった地域もある(注12)。ソラツヒコ(虚空津日高、虚空彦)とは、轆轤の別名、車地に通じる白黒の鯱からもイメージ展開された名であると理解することができる。
左:シャチ(ウィキペディア「シャチ」をトリミング、https://ja.wikipedia.org/wiki/シャチ)、右:起重機の轆轤(興福寺東金堂に残る轆轤、河島邦寿「クレーン(起重機)の歴史(4)─重いものを動かすことの変遷─」図4-8、コベルコアーカイブズhttp://www.kobelconet.com/kenyukai/archive/img/pdf/crane04.pdf(12/30))
これらロクロという語の多義性における共通項は、軸になって回転する部分に縄綱が絡まされている点である(注13)。その絡んでいる縄綱を動かすことで円運動を起こさせて工作機械とするのが木工轆轤や金工轆轤などであり、陶器製作に使われる陶車でも一人が回転させて他の一人が成形する仕掛けもある。他方、巻き上げ器としての滑車は、絡んでいる縄綱を動かすことのために円運動を利用する方法をとっている。船の帆の場合、風が強いと途中までは引っ張れば上がるものの風圧から力づくでは上げられないから、船内に仕掛けられた轆轤を使って引き上げたようである。井戸で釣瓶を持ち上げるときの滑車は、ただからからと回るだけで用を成すものであった。ただし、それら回転運動には少し抵抗があって、例えば木工用なら鉋を当てたときに、水を汲み揚げるなら釣瓶に水が入った重みによって、スムーズではなく少しグリグリいう感触がある。また、回転するのは一方向ではなく、必ず一定の間隔で反対に回ることが予期されている(注14)。
そのうえ、ロクロという語は、それがもとはヤマトにはなく、外国の、カラの技術によったからくり的仕掛けを持っていることを示していると考えられる。ロクロという漢語を音読みしたままにしてヤマトコトバに受け入れたのにはそれなりの思惑が働いていたのではないか。擬音語なのだからヤマトコトバにしても不自然ではなく、さらに外国の知恵に学んだことを言葉に表し残そうとする意図が感じられる。ラ行で始まる自立語は、ヤマトコトバのなかにほとんど見られない。そんななか、回転運動するものに縄綱が絡んでいるもの全般をロクロ(轆轤)という一語におさめている。その言葉のからくりには、轆轤と呼ばれるものを一括するからくりが隠されている。木工用轆轤がなければ、滑車の轆轤は作ることができない。轆轤をして轆轤たらしめているということである。絡まる縄綱が必ず反転することを、語義のなかに入れ籠のように絡め込んでいる。前から読んでも後ろから読んでもロクロである。また、高いところにある滑車の轆轤を使う時、地上で神楽桟のような牽引用の轆轤を用いることがあったことを、ロクロという言葉一語におさめることで如実に物語ろうとしている。したがってロクロという語は、もともとは漢語であるとする解釈は確かではあるものの、和名抄に「俗に……」とあるように、俗称としてロクロと呼ばれた言葉は、歴としたヤマトコトバであると言える。いわゆる和訓の語と同等の言葉なのである。
木工用轆轤は、木を円運動させながら刳る。刳り物の木工製品は弥生時代から見られるとされている。轆轤挽きして丸いお椀ができる。角川古語大辞典に、「くる【刳】動ラ四 平面に刃物を当てて回し、丸い穴やくぼみを作るように切り取る。えぐる。刈(かる)・切(きる)・伐(こる)などと関係ある語であろう。」(251頁)、古典基礎語辞典に、「類義語ヱル(彫)は細い刃先で細密にほる。ヱグル(抉)は刃先やへら状の物を突き刺して力を込めて取り除く意。」(452頁、この項、須山名保子)とある。須山氏は刳り物との関係を指摘していない。筆者は角川古語大辞典の説明に賛成である。椀の内側の凹みについて考えてみると、木の伐採、荒木取り、型打ち(まるめる)の次に、中切りと呼ばれる刳り抜きを小さな手斧で行っている。その後に木地挽きにかけるのである。轆轤がなくてお椀を成形しようとしたなら、中切りの後、荒い抉りを均すように手先を使ったと思われる。対象の木塊の方を回し当てながら利き手の工作しやすい場所へと回転させる。回すように彫りとることが、クル(刳)という語のニュアンスにあるようである(注15)。そこへ連続的に操作可能となる補助具として木工用轆轤がもたらされた。その場合、一定方向の回転のみに反応して轆轤鉋をかけていくから、轆轤の縄を引く係の人は、反復運動の一方の引き手に多少の負荷がかかることとなっていた。繰り返し縄を引いて、轆轤鉋で挽かれたものが刳り物である。
左:轆轤挽き(鍬形蕙斎画・近世職人尽絵詞、巻中、江戸時代、19世紀、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0071997をトリミング)、右:木地師(斐太後風土記・下巻、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941426/41をトリミング)
刳るために繰るのがロクロ(轆轤)であると知れる(注16)。筆者は、彦火火出見尊のこれからを予見した塩土老翁は、浜においての占いにハマグリを使ったかもしれないと考えている(注17)。ハマグリは、浜にいるクリ状の様子からそう呼ばれているとされている。くりくりした形状をもってクリと言われるのかもしれない。くりくりした目とは、丸くてくるくる回ることを示す。ただし、目玉が360°完全に回転することはないし、くるくる回りながらも反転運動を繰り返す。轆轤という語の表現と照らし合わせると、ハマグリはグリハマとなり、またハマグリに戻る。つまり、一方向へ回転するクルマ(車)の話ではなく、轆轤のことなのである。轆轤をクルマキとも言ったのは、後の時代に行われた当て字の「車木」の意ではなく、「転巻」が本意であろう。上代に使われたとするなら、最後のキは甲類であったと考えられる。以上が轆轤の諸相である。
(つづく)
海神の宮を訪れた火遠理命(彦火火出見尊)は、そこで虚空津日高(虚空彦)と呼ばれるようになっている。本稿ではその名義について考究する。
故、教の随に少し行くに、備さに其の言の如し。即ち、其の香木に登りて坐しき。爾くして、海神の女、豊玉毘売の従婢、玉器を持ちて水を酌まむとする時に、井に光有り。仰ぎ見れば、麗しき壮夫有り。甚異奇しと以為ふ。爾くして、火遠理命、其の婢を見て、「水を得むと欲ふ」と乞ふ。婢、乃ち水を酌みて、玉器に入れて貢進る。爾くして、水を飲まずして、御頸の璵を解き、口に含みて其の玉器に唾き入れつ。是に、其の璵、器に著きて、婢、璵を離つこと得ず。故、璵を著けし任に、豊玉毘売命に進る。爾くして、其の璵を見て、婢に問ひて曰はく、「若し、人、門の外に有りや」といふ。答へて曰はく、「人有り。我が井上の香木の上に坐す。甚麗しき壮夫ぞ。我が王に益して甚貴し。故、其の人、水を乞ひしが故に、水を奉れば、水を飲まずして、此の璵を唾き入れつ。是、離つこと得ず。故、入れし任に将ち来て献る」といふ。爾くして、豊玉毘売命、奇しと思ひ、出で見て、乃ち見感でて、目合して、其の父に白して曰さく、「吾が門に麗しき人有り」といふ。爾くして、海神、自ら出で見て云はく、「此の人は、天津日高の御子、虚空津日高ぞ」といひて、即ち内に率て入りて、みちの皮の畳八重を敷き、亦、絁畳八重を其の上に敷き、其の上に坐せて、百取の机代の物を具へ、御饗為て、即ち其の女豊玉毘売命に婚はしめき。(記上)
時に彦火火出見尊、其の樹の下に就きて、徒倚ひ彷徨みたまふ。良久しくして一の美人有りて、闥を排きて出づ。遂に玉鋺を以て、来りて当に水を汲まむとす。因りて挙目ぎて視す。乃ち驚きて還り入りて、其の父母に白して曰さく、「一の希客者有します。門の前の樹の下に在す」とまをす。海神、是に、八重席薦を舗設きて、延て内る。(神代紀第十段本文)
門の外に井有り。井の傍に杜樹有り。乃ち樹の下に就きて立ちたまふ。良久にありて一の美人有り。容貌世に絶れたり。侍者群れ従ひて、内よりして出づ。将に玉壼を以て水を汲む。仰ぎて火火出見尊を見つ。便ち驚き還りて其の父の神に白して曰さく、「門の前の井の辺の樹の下に、一の貴客有す。骨法常に非ず。若し天より降れらば天垢有るべし。地より来れらば、地垢有るべし。実に是妙美し。虚空彦といふ者か」とまをす。一に云はく、豊玉姫の侍者、玉瓶を以て水を汲む。終に満つること能はず。俯して井の中を視れば、倒に人の咲める顔映れり。因りて仰ぎ観れば、一の麗き神有して、杜樹に倚てり。故、還り入りて其の王に白すといふ。(神代紀第十段一書第一)
一書に曰はく、門の前に一の好井有り。井の上に百枝の杜樹有り。故、彦火火出見尊、跳りて其の樹に昇りて立ちたまふ。時に、海神の女豊玉姫、手に玉鋺を持ちて、来りて将に水を汲まむとす。正に人影の、井の中に在るを見て、乃ち仰ぎて視る。驚きて鋺を墜しつ。鋺既に破砕けぬるに、顧みずして還り入りて、父母に謂りて曰はく、「妾、一人の、井の辺の樹の上に在すを見つ。顔色甚だ美く、容貌且閑びたり。殆に常之人に非ず」といふ。時に父の神聞きて奇びて、乃ち八重席を設きて迎へ入る。(神代紀第十段一書第二)
時に豊玉姫の侍者有りて、玉鋺を持ちて当に井の水を汲まむとするに、人影の水底に在るを見て、酌み取ること得ず。因りて仰ぎて天孫を見つ。即ち入りて其の王に告げて曰はく、「吾、我が王を独り能く絶麗くましますと謂ひき。今一の客有り。彌復遠勝りまつれり」といふ。海神聞きて曰く、「試に察む」といひて、乃ち三の床を設けて請入さしむ。是に、天孫、辺の床にしては其の両足を拭ふ。中の床にしては其の両手を拠す。内の床にしては真床覆衾の上に寛坐る。海神見て、乃ち是天神の孫といふことを知りぬ。益加崇敬ふ、云々。(神代紀第十段一書第四)
海宮遊幸の話のなかで、火遠理命(彦火火出見尊)は塩土老翁の教えのとおりに行動している。事の成りゆきは言われたとおりで、海神の宮の井戸の門のところに一本のカツラの木が生えていた。そして、海神の娘、豊玉毘売(豊玉姫)の従婢(侍者)、または当人が玉器(玉鋺、玉壼)を手に水を汲んでいる。井の水面に人影が映ったから仰ぎ見てみると壮麗な男がいた。記では火遠理命は水を請い、頸の璵をほどいて口に含んでその玉器のなかに唾を吐き入れた。すると璵が器にくっついてしまい、そのまま豊玉毘売に差し上げた。豊玉毘売は不思議に思って外へ出て、高貴な人を見て一目惚れしてしまったことになっている。紀ではうまく水を汲めないまま姿を見て家へ戻り、親の海神に告げて招き入れることへと展開している。敷物を敷いてテーブルにご馳走を並べて賓客扱いする話になっている。
火遠理命(天津日高日子穂穂手見命、彦火火出見尊)は、「坐二我井上香木之上一。」(記上)、「跳昇二其樹一而立之。……妾見三一人在二於井辺樹上一。」(紀一書第二)、「宜就二其樹上一而居之。」(紀一書第四)などとあり、樹上にいたことになっている(注1)。井戸端のカツラの樹の上で、井戸に至近の高いところにいたから、水を汲もうとしたら井戸のなかの水鏡に姿が映り、ハッと気づいて仰ぎ見上げている。井戸の大きさ、井戸の水位の高さによって影が映るか変わってこようが、井戸のほとんど真上にいるから映ったものと解釈されよう。カツラの木が舞台として設定されている。土壌の水気を好むカツラの樹の特徴をもって正しい井戸表現となっている。株立ちして大樹となる木である。井戸を覆うように茂っていて、井戸の真上にあたるところに彼はいた。この設定は、海神の宮門と井戸とカツラの木の組み合わせ(注2)同様、この話の焦点であろう。そして、その物珍しい人を見て、「此人者、天津日高之御子、虚空津日高矣。」(記上)、「虚空彦者歟。」(紀一書第一)と呼んでいる。ソラツヒコ(虚空津日高、虚空彦)と名づけられている。
火遠理命(彦火火出見尊)の名を持っていた主人公は、海神側からソラツヒコ(虚空津日高、虚空彦)と名づけられている。名づけるとは、そう呼ばれるに然るべき存在として認められることである。名とは呼ばれるものであり、多くの人がそう呼んでいる。多くの人がそう呼ぶのは、多くの人がそう呼んで確かにそのとおりであると認めたからである。今日でも、あだ名となっている命名は、大多数の賛同によって成立している。いまここにその政治性は問わないことにしながらも、命名されることとは衆目から注目を受ける対象とされた瞬間が、少なくともいっときはあったことを意味する。高いところにいて注目されたため、天孫の係累であると悟られたのである。天皇は高御座のように高いところにいる。
「虚空津日高」はソラツヒコと確実に訓む(注3)。「高」の字音の平声を活かした発音を含めた表し方と考えられ、ヒコは孫の意のヒコである。紀の用字の「彦」が示す男子の称ではなく、「孫」、すなわち、子(コは甲類)の子のことである。コ(甲類)には、子、蚕、籠、海鼠、粉、小、濃といった語がある。いま、彦火火出見尊は、無目堅間という籠に乗って海神の宮へやってきた。籠の中に孫に当たるヒコが乗って来ていた。コ(籠)のコ(子)状態にあった。子どもを入れておく籠は揺り籠である。古語に、イヅミ、イヅメ(箍)という。エジコ(嬰児籠)、ツグラなどとも呼ばれる。イヅミの同音に泉がある。井戸の真上にイヅミが来ていれば、そこはまさしく良く水を湧き出す井戸であると言える。なかなか汲めない井戸が、どんどん水を湧き出す井戸へと様変わりしている。光(影)は映ったのだから井戸に水がなかったわけではなく、深井戸だったということであろう。そこに生えているカツラの木の高いところに、揺り籠(箍)が引っ掛かって、湧水のように水が得られるようになった(注4)。井戸の技術革新を物語っているようである。
エヅメ(秋田県旧公式サイト「ふるさと 母の面影」美しき水の郷あきたhttp://www.pref.akita.jp/fpd/komezukuri/kome-02.htm)
鐘方2003.に次のようにある。
最近まで日本で使用されていた釣瓶は、結桶でつくられたものがほとんどである。しかし、中世以前には素焼きの土器(おもに甕や壺)や刳り物容器、曲物が長らく利用されていた。刳り物容器の多くは木製であるが、他に瓢箪などが使用された可能性も十分にある。
土器を釣瓶として利用する場合、その頸部に藁縄紐を巻き付けて使用する例(頸部巻き付け式)、蔓などの編物で外面を被いこれに縄紐を付けて使用する例(被籠式)、穿孔または耳を貼り付けて縄紐を通し使用する例(穿孔通紐式・附耳通紐式)、土器内部に入れた棒の中央に縄紐を結び付け、それを内部に引っ掛けて釣り上げる例(内釣り式)の4種の方法が中国で認められている(図13)。またそれら以外に、釣り手を付けて汲み上げる釣り手式の方法が桶などの木製容器において行われた(南京博物院・呉県文管会1985)。日本でも同様の方法が行われていただろう。……弥生時代中期以降に井戸の確認例が増加し、釣瓶の出土例も散見できるようになる。土器釣瓶には、釣瓶縄を直接頸部に巻き付けるもの(頸部巻き付け式)と籠で覆ってそれに釣瓶縄を取り付けるもの(被籠式)の両方が認められる。……土器が釣瓶として使用されたのは、土師器甕がなくなる平安時代頃までではなかろうか。(25~31頁)(注5)
被籠式釣瓶(籠付き土器、高26.0cm、滋賀県守山市下之郷遺跡、弥生時代、1世紀、守山市教育委員会蔵、守山市教育委員会「歴史のまち守山」http://moriyama-bunkazai.org/shimonogo/contents02/)土器を釣瓶として利用する場合、その頸部に藁縄紐を巻き付けて使用する例(頸部巻き付け式)、蔓などの編物で外面を被いこれに縄紐を付けて使用する例(被籠式)、穿孔または耳を貼り付けて縄紐を通し使用する例(穿孔通紐式・附耳通紐式)、土器内部に入れた棒の中央に縄紐を結び付け、それを内部に引っ掛けて釣り上げる例(内釣り式)の4種の方法が中国で認められている(図13)。またそれら以外に、釣り手を付けて汲み上げる釣り手式の方法が桶などの木製容器において行われた(南京博物院・呉県文管会1985)。日本でも同様の方法が行われていただろう。……弥生時代中期以降に井戸の確認例が増加し、釣瓶の出土例も散見できるようになる。土器釣瓶には、釣瓶縄を直接頸部に巻き付けるもの(頸部巻き付け式)と籠で覆ってそれに釣瓶縄を取り付けるもの(被籠式)の両方が認められる。……土器が釣瓶として使用されたのは、土師器甕がなくなる平安時代頃までではなかろうか。(25~31頁)(注5)
被籠式の釣瓶に注目したい。火遠理命(彦火火出見尊)が海神の宮へ至るときの乗物、無間堅間のイメージどおりで理解しやすい。どんなに堅く籠を編んでも間が無くなることはなく、沈んでしまうのではないかと危ぶんでいたが、籠のなかに乗る火遠理命(彦火火出見尊)自身が土器を指し示すとするなら、沈むと心配していたのは取り越し苦労であった。すべてはお話である。そして、ソラツヒコという名で紹介されている。すなわち、火遠理命(彦火火出見尊)とは、井戸にあっては釣瓶の甕である。土器の器が用途によって名称が変わるように名前が変わっている。ソラツヒコとは、中空にあって孫のような存在ということである。
孫と用いる例として、木霊のことをいう山びこ(天ひこ)、「蓬蔂」(雄略紀九年七月)がある。山びこは、大声を発してとても小さく返ってくる声で、声としては祖父母と孫の顔が相似しているほどに相似しているけれど、時間的には少し遅れて聞こえる。親子は育ち育てられる関係にあり、時間的には同じ時間を生きている。一方、祖父母と孫とは、平均寿命の短かった古代においては、今生にまみえるかどうかきわどいものがあり、山びこ的な間柄であった。ソラツヒコという名義も同様に考えられたに違いない。空中で宙ぶらりんになっている二つの水汲み容器はよく似ているが、車井戸の左右の器は時間的に少し遅れて現れる存在で、遠近法的に見て一方は大きく他方は小さい。それをヒコ(孫)という絶妙な言い回しで仕上げている。
挟みつけられたタイプの井戸滑車(板橋区立郷土資料館)
「骨法非レ常。」(紀一書第一)とある。そんな魔法のような仕掛けで、井戸の真上にあることによって井戸の便に役立つものと言えば、技術の根幹をなすのは車井戸の滑車である。これは轆轤と総称されている。井戸滑車と工作機械や起重機の轆轤との違いには、回転する車の部分が剥き出しか、それとも覆いに隠れているかの差がある。井戸滑車では回転する部分を狭くし、また凹面にしてブレを少なくしている。さらに、車が外れないようにガードする部分が挟みつける形に仕上げられている(注6)。木地轆轤や神楽桟のように、回転する部分に何重かに縄綱を巻き付けるのではなく、一重(回転円の半分180°)に懸っているに過ぎない。そして、縄綱の両サイドの端に甕(瓶)がつけられている。水を汲むために井戸の底へ沈められる時、縄綱が下るに従って反対側の縄綱は上へあがる。引き上げるときは、上の釣瓶を下げて下の釣瓶を上げていく。二つの釣瓶は姿がよく似ながらタイムラグをもって現れる。この仕組みがソラツヒコである(注7)。なにしろ、山幸が釣りをして失敗したのが事の発端であった。
井戸の真上にいて珍奇にして高貴な感じを起こさせる新来の存在である。だから、かつら剥きという言葉を生んだカツラの木に樹種が設定されている。ぐるぐると刳るようにするのは轆轤である。侍者が水を汲み上げられなかったとする一書第一一云や第四の記述は、吊縄を引き上げられなかったことを表す。人影が水底に見えたから汲めなかったのか、汲めなかったから水底を見て確かめようとしたのか、どちらが先かわからない。卵が先か、鶏が先か、それは轆轤工具で轆轤器具を作ることととてもよく似た論理構成である。汲めなかったのは重かったからではなく、深かったからであろう。動滑車の原理で力を半分にしようというのではなく、定滑車があるだけでも自分の体重を使えば楽に上がるということである。木工轆轤にはかけた力以上に回転させる仕組みがあるわけではない。
滑車という語は、用字が先んじる形で成立し、後に読みもクワッシャとなる。明治になる頃のことである(注8)。記紀のこの話が本論のように考えられていたとすると、イヅミ(イヅメ)の要のような存在として思われていたと考えられる。文献の用例に確認されないものの、セミとも呼ばれ、イヅミとも呼ばれ、クルミと呼ばれたように感じられる。クルミと呼ばれた可能性は、クルミは堅果の胡桃でありつつ、赤ん坊をくるむクルミ(お包み)であり、それは箍のことと同義であることに見出せる。新撰字鏡に、「橯 久留彌乃木、呉桃、上同」、和名抄・塩梅類に、「胡桃 七巻食経に云はく、胡桃、味は甘、温、之れを食へば油有りて甚だ美しといふ〈久留美〉。博物志に云はく、張騫、西域に使ひして還る時に之れを得といふ。」とある。堅い殻に覆われたクルミは、殻と実とが離れていてころころと鳴る。森の中でリスは器用に半分に殻を割り、中の実を食べる。ところが、手を使えないアカネズミが食べようとすると、齧歯目だから殻に鋸を立てたように切ることはできるのだが、切り口を大きくすることができずに中の実を取り出せないことがある。結果、調度品や飾り小物の彫刻細工物にクルミのように仕上げるものと同じことが起きる。振ると中の玉をころころと鳴らすことができる。その様を見て、人はクルミという言葉を必ず思い浮かべる。船に使う蝉の車が閉じ込められているのと同じく、車井戸の滑車にも車が外れないように、回転する車輪径よりも上下とも外側に囲われたものがある(注9)。その囲うさまは井桁のようである。井戸の上に井戸があるものだと頓智を働かせて想定することは、泉の上に箍があることと同等である。箍とはクルミ(包)のことである。轆轤という言葉のツボ、刳ることによって繰ることができる道具の様子を上手に示している。どれもなるほどと納得させられる、ヤマトコトバによるヤマトコトバの自己説明である。
火遠理命(彦火火出見尊)が帰るとき、記では「一尋わに」に乗っている。神代紀第十段一書第一では「大鰐」、一書第三・第四では「一尋鰐魚」である。井戸で水を汲む話には、一書第二に「玉鋺」とある。鋺はかなまり、呉音ヲン、漢音ヱンである。土器を籠でくるむ話をしている。土師器の器は石偏の碗であり、マリ、モヒと訓み、呉音、漢音ともにワンである。このワンを、ワニと訓み慣わそうとしたようである。ロクロ(轆轤)という語を字音からヤマトコトバに変ずるものとして考えていることに対応する。古語でナ行上一段活用の動詞ワニルは、はにかむことをいう。埴土という赤い陶土を噛むと自然と顔がゆがむ。左右どちらかの口角が上がり、反対側は下がる。渋苦いような味が口の中に広がるから、口を動かしてはその上下が左右反転してその運動が繰り返される。埴土でできた土師器の容器の片方が上がり、片方が下がる。「若し天より降れらば、天垢有るべし。地より来れらば、地垢有るべし。」(神代紀第十段一書第一)などと持って回った言い方をしている。その左右非対称の顔の表情こそ、車井戸の動きをよく表している。天でもなく地でもなく、その両方を引くものとして中空の「虚空」が提題されている。口角を左右に上げ下げする体操をしながら、この説話は語られたらしい。この口角運動については後にも述べる。
轆轤について
いま一度、轆轤について確認しておこう。
轆轤は、回転運動をする機械の総称である。和名抄・造作具に、「轆轤 四声字苑に云はく、轆轤〈鹿盧の二音、俗に六路と云ふ〉は円転の木機なりといふ。」とある。ロクロは、漢字の音読みをもって通用している。円運動をする。橋本1979.の整理によれば、使用目的に、(1)動力の補助をなすもの、(2)円い焼物・挽物をつくる工作器具の二通りがあり、軸の据え方に(1)縦軸、(2)横軸の二通りがある。
「ろくろ」の種類とその分類
(同書24頁)
井戸から水を汲み上げるのに使う容器を釣瓶とよんでいる。「瓶」は「水を汲むカメ(土器)」を意味し、釣瓶はまさに字の如く、それを井戸から釣り上げる(釣り下ろす)行為をも示している。古代中国でも釣瓶を「缶」あるいは「瓮」とよび、一般的に土器が釣瓶として使用されていたらしい。また、釣瓶縄を「綆」と称した。
中国では早くも春秋時代に撥釣瓶……を、漢代には滑車を使用して揚水するようになるが、日本では近世に到るまで撥釣瓶や滑車の使用が一般的に行われず、直接手で釣瓶を釣り上げた。ただし、平城京右京二条三坊一坪内で調査した奈良時代後半の井戸SE503……の枠内南西隅に、長さ190cm以上、幅12cm、厚さ5cmの角材1本が先端を尖らせて打ち込まれてあり、これが撥釣瓶の支柱であるとすれば、それによる揚水方法が古代において知られていた可能性はある。(鐘方2003.24~25頁)
撥釣瓶式の井戸の水汲み(画像石、中国山東省出土、後漢時代、1~2世紀、東博展示品)中国では早くも春秋時代に撥釣瓶……を、漢代には滑車を使用して揚水するようになるが、日本では近世に到るまで撥釣瓶や滑車の使用が一般的に行われず、直接手で釣瓶を釣り上げた。ただし、平城京右京二条三坊一坪内で調査した奈良時代後半の井戸SE503……の枠内南西隅に、長さ190cm以上、幅12cm、厚さ5cmの角材1本が先端を尖らせて打ち込まれてあり、これが撥釣瓶の支柱であるとすれば、それによる揚水方法が古代において知られていた可能性はある。(鐘方2003.24~25頁)
今日、考古学の世界では、モノが出土しなければ、なかったことばかりではなく知られていなかったかのごとく語られる傾向がある。しかし、井戸滑車が用いられた可能性は他の技術から推して窺うことができる(注10)。重いもの、大きなものを持ち上げるのに、轆轤が使われていたことも確実視されている。滑車を使う井戸の存在は不明とされているが、「知られていた」かどうかという問いは愚問である。知っていても使わないことはままある。実用面からは地下水位が高ければさほど苦労はいらない。メンテナンスの必要もなくて済む。井戸の滑車を面白がって、小さな子がおもちゃにして遊ばれてはとても困る。自重をかけて反対側を揚げるためにぶら下がり、本当に籠の子のようになっては井戸に落ちて命を落としかねない。漢語に井戸の滑車のことを「轆轤」と呼んだ例として、世説新語・排調に、「次復作二危語一。桓曰、矛頭淅レ米剣頭炊。殷曰、百歳老翁攀二枯枝一。顧曰、井上轆轤臥二嬰児一。」とある。刃物の先で米を研いだり炊いだりすること、百歳のお爺さんが枯枝によじ登ること、井戸の轆轤に赤ん坊を寝かせることはともにとても危険だと言っている。興味津々の仕掛けである車井戸に子どもがぶら下がったら不幸な結果となることがあり、普及を控えた経緯があったのではないか。大人ばかりが集団生活をする寺院や酒造業者、染色工房のような大量の水を汲みあげる必要があるところでは滑車が付けられていたと考えられる。平城京の造酒司とされる井戸は、屋根を備えた構造ながら滑車の遺物が見られないため車井戸とは認められていないものの、可能性としては指摘されている。はじめて遺物を伴って車井戸が見られるのは一乗谷朝倉遺跡である。その間、絵巻物に滑車を描いたものは見られない。文献には、江西竜派(1375~1446)・豩菴集(1420年)・暁井轆轤に、「梧桐井上轆轤頭 誰引二蒲縄百尺修一」と見える。近世には、寺島良安・和漢三才図会(1712年)に、「轆轤 樚櫨 俗に車木と云ふ。……轆轤 井の上にて水を汲む円転木也。……轆轤は凡そ円転の器は皆轆轤と称し字の声を用ゆ。幹の上に在りて繘を受くる物は轆轤と称し、和訓を用て之れを呼ぶ也。物原に史佚始めて轆轤を作ると云ふ。」、狩谷棭斎・箋注倭名類聚鈔(1827年)には、「広韻韇、韇𩍼、円転木也、𩌫上同、韻会、𨏔轤、井上汲レ水木、一作二轆轤一、通二鹿盧一、礼記喪大記注、樹二碑於壙之前後一、以紼二-繞碑間之鹿盧一、輓レ棺而下レ之、淮南子氾論訓注、長剣〓(木偏に剽)施二鹿盧一。」とある。
左:灰陶井戸(前漢時代、前3~後1世紀、茂木計一郎氏寄贈、愛知県陶磁美術館展示品)、中:一乗谷朝倉氏遺跡の復原井戸、右:九段招魂社の車井戸(アーベル・ゲノリー(1841~1929)筆、紙・鉛筆、明治時代、19世紀、東博展示品)
同じく滑車として実用に供していたものに、すでに触れた船の帆をあげるための装置がある。別名にセミ(蝉)と言っている。蝉の形に似ていたためか、高い木の上でジージー鳴っていたからか、語の由来は不明であるが、そう呼ばれてきた。また、高い旗竿の頂部につけて幡を吊り上げたり下ろしたりする場合もあった。正倉院文書・造石山院所告朔解に、「幢末轆轤一具」(天平宝字六年(761)三月三十日)とある。
一方、工作機械としての轆轤には、陶車(焼物用)、木工用、金工用などがある。陶車の場合、手回しか蹴りかなどに技術的な差を認めることもあり、古くどのように呼ばれていたのか未詳である。木立2017.によれば、陶車を轆轤と記述した例は類船集(1676年)以降のことという。手綱を引いて回転させるところからの連想で同じように呼ばれたとするなら、その装置が歴史的に遡れるほどに陶車をロクロと呼んでいた歴史も古いことになろう。須恵器や瓦の製造法の伝来に伴って伝わったところまで遡る可能性はある。陶器大辞典に、「……轆轤なる語は、滑車の回転する際に発するグルグルといふ音響を写した語であると解釈しなければならない。されば円転自在なるものはすべてロクロと称してよいのであつて、陶器を作る滑車即ち陶車もロクロであれば、井戸の釣瓶もロクロであり、起重器・引重器の滑車もまたロクロである。飛頭蛮(頸の長い怪物)のことを俗にロクロ首と云ふのも、其の頸が前後左右に自在に廻転することから起つたものであらう。轆轤なる語は、又其の滑車の形貌より起つて円形の蛇の目模様を称する語となり、又轆轤を以て作つた物を称する語ともなるに至つた。」(329頁、漢字の旧字体は改めた)とある。
他方、土木建設工事においては、運河開鑿の際などの石組みや、大型建築の際に巨木を立てたり持ち上げたりする時にも轆轤は用いられる。このクレーン用のものは、別名に、絞車、神楽桟、車地ともいう。シャチは幸に通じる。鯱(注11)は、マイルカ科の海獣で、体長はおよそ9mにもなって力が強く、性質はきわめて獰猛にして貪食である。上下の顎は頑丈で、鋭い歯を持ち、体の背面は黒く、腹側は白く、目の後上方には白斑がある。白黒の体と言える。シロクロはロクロ(轆轤)と音がよく似ている。シャチは獰猛で、魚ばかりかクジラやアザラシ、サメまでも襲って食べる。シャチの襲撃にパニックになったクジラやマグロなどが浜に乗り上げることがある。これは、漁師にとってもっけの幸い、僥倖であったに違いない。「幸」字のもともとの意味である。つまり、鯱は幸である。狩猟の幸運をもたらす霊力もシャチといい、猟師の間ではシャチ神を祀る信仰のあった地域もある(注12)。ソラツヒコ(虚空津日高、虚空彦)とは、轆轤の別名、車地に通じる白黒の鯱からもイメージ展開された名であると理解することができる。
左:シャチ(ウィキペディア「シャチ」をトリミング、https://ja.wikipedia.org/wiki/シャチ)、右:起重機の轆轤(興福寺東金堂に残る轆轤、河島邦寿「クレーン(起重機)の歴史(4)─重いものを動かすことの変遷─」図4-8、コベルコアーカイブズhttp://www.kobelconet.com/kenyukai/archive/img/pdf/crane04.pdf(12/30))
これらロクロという語の多義性における共通項は、軸になって回転する部分に縄綱が絡まされている点である(注13)。その絡んでいる縄綱を動かすことで円運動を起こさせて工作機械とするのが木工轆轤や金工轆轤などであり、陶器製作に使われる陶車でも一人が回転させて他の一人が成形する仕掛けもある。他方、巻き上げ器としての滑車は、絡んでいる縄綱を動かすことのために円運動を利用する方法をとっている。船の帆の場合、風が強いと途中までは引っ張れば上がるものの風圧から力づくでは上げられないから、船内に仕掛けられた轆轤を使って引き上げたようである。井戸で釣瓶を持ち上げるときの滑車は、ただからからと回るだけで用を成すものであった。ただし、それら回転運動には少し抵抗があって、例えば木工用なら鉋を当てたときに、水を汲み揚げるなら釣瓶に水が入った重みによって、スムーズではなく少しグリグリいう感触がある。また、回転するのは一方向ではなく、必ず一定の間隔で反対に回ることが予期されている(注14)。
そのうえ、ロクロという語は、それがもとはヤマトにはなく、外国の、カラの技術によったからくり的仕掛けを持っていることを示していると考えられる。ロクロという漢語を音読みしたままにしてヤマトコトバに受け入れたのにはそれなりの思惑が働いていたのではないか。擬音語なのだからヤマトコトバにしても不自然ではなく、さらに外国の知恵に学んだことを言葉に表し残そうとする意図が感じられる。ラ行で始まる自立語は、ヤマトコトバのなかにほとんど見られない。そんななか、回転運動するものに縄綱が絡んでいるもの全般をロクロ(轆轤)という一語におさめている。その言葉のからくりには、轆轤と呼ばれるものを一括するからくりが隠されている。木工用轆轤がなければ、滑車の轆轤は作ることができない。轆轤をして轆轤たらしめているということである。絡まる縄綱が必ず反転することを、語義のなかに入れ籠のように絡め込んでいる。前から読んでも後ろから読んでもロクロである。また、高いところにある滑車の轆轤を使う時、地上で神楽桟のような牽引用の轆轤を用いることがあったことを、ロクロという言葉一語におさめることで如実に物語ろうとしている。したがってロクロという語は、もともとは漢語であるとする解釈は確かではあるものの、和名抄に「俗に……」とあるように、俗称としてロクロと呼ばれた言葉は、歴としたヤマトコトバであると言える。いわゆる和訓の語と同等の言葉なのである。
木工用轆轤は、木を円運動させながら刳る。刳り物の木工製品は弥生時代から見られるとされている。轆轤挽きして丸いお椀ができる。角川古語大辞典に、「くる【刳】動ラ四 平面に刃物を当てて回し、丸い穴やくぼみを作るように切り取る。えぐる。刈(かる)・切(きる)・伐(こる)などと関係ある語であろう。」(251頁)、古典基礎語辞典に、「類義語ヱル(彫)は細い刃先で細密にほる。ヱグル(抉)は刃先やへら状の物を突き刺して力を込めて取り除く意。」(452頁、この項、須山名保子)とある。須山氏は刳り物との関係を指摘していない。筆者は角川古語大辞典の説明に賛成である。椀の内側の凹みについて考えてみると、木の伐採、荒木取り、型打ち(まるめる)の次に、中切りと呼ばれる刳り抜きを小さな手斧で行っている。その後に木地挽きにかけるのである。轆轤がなくてお椀を成形しようとしたなら、中切りの後、荒い抉りを均すように手先を使ったと思われる。対象の木塊の方を回し当てながら利き手の工作しやすい場所へと回転させる。回すように彫りとることが、クル(刳)という語のニュアンスにあるようである(注15)。そこへ連続的に操作可能となる補助具として木工用轆轤がもたらされた。その場合、一定方向の回転のみに反応して轆轤鉋をかけていくから、轆轤の縄を引く係の人は、反復運動の一方の引き手に多少の負荷がかかることとなっていた。繰り返し縄を引いて、轆轤鉋で挽かれたものが刳り物である。
左:轆轤挽き(鍬形蕙斎画・近世職人尽絵詞、巻中、江戸時代、19世紀、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0071997をトリミング)、右:木地師(斐太後風土記・下巻、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941426/41をトリミング)
刳るために繰るのがロクロ(轆轤)であると知れる(注16)。筆者は、彦火火出見尊のこれからを予見した塩土老翁は、浜においての占いにハマグリを使ったかもしれないと考えている(注17)。ハマグリは、浜にいるクリ状の様子からそう呼ばれているとされている。くりくりした形状をもってクリと言われるのかもしれない。くりくりした目とは、丸くてくるくる回ることを示す。ただし、目玉が360°完全に回転することはないし、くるくる回りながらも反転運動を繰り返す。轆轤という語の表現と照らし合わせると、ハマグリはグリハマとなり、またハマグリに戻る。つまり、一方向へ回転するクルマ(車)の話ではなく、轆轤のことなのである。轆轤をクルマキとも言ったのは、後の時代に行われた当て字の「車木」の意ではなく、「転巻」が本意であろう。上代に使われたとするなら、最後のキは甲類であったと考えられる。以上が轆轤の諸相である。
(つづく)