志貴皇子にはムササビを歌った歌がある(注1)。
志貴皇子の御歌一首〔志貴皇子御歌一首〕
むささびは 木末求むと あしひきの 山の猟夫に 逢ひにけるかも〔牟佐々婢波木末求跡足日木乃山能佐都雄尓相尓来鴨〕(万267)
捉え方に振れ幅の大きい歌である(注2)。歌意がわからないからである。
「あしひきの」は「山」を導く枕詞である。そしてまた、「あしひきの 山の木末」は慣用句的に用いられた(注3)。
…… 後れたる 我か恋ひむな 旅なれば 君か思はむ 言はむすべ 為むすべ知らに 〈或る書に、あしひきの 山の木末に、の句あり〉 延ふ蔦の ……(万3291)
…… 佐保の内の 里を行き過ぎ あしひきの 山の木末に 白雲に 立ちたなびくと ……(万3957)
…… 秋づけば 時雨の雨降り あしひきの 山の木末は 紅に にほひ散れども 橘の 成れるその実は ……(万4111)
あしひきの 山の木末の 寄生木取りて 挿頭つらくは 千年寿くとそ(万4136)
…… 照る月も 満ち欠けしけり あしひきの 山の木末も 春されば 花咲きにほひ 秋づけば 露霜負ひて 風交り 黄葉散りけり ……(万4160)
これらの語は、連鎖する言葉の一群として捉えられていた。いずれ言葉遊びの歌である。それ以上の難しい内容を指すものとは思われない。それを「むささび」という慣れない語と衝突させることでできているのが万267番歌である。和名抄に、「鼯鼠 本草に云はく、鼺鼠〈上の音は力水反、又の音は力追反〉は一名に鼯鼠〈上の音は吾、毛美、俗に无佐々比と云ふ〉といふ。兼名苑注に云はく、状は猨の如くして肉の翼、蝙蝠に似て能く高きより下り、下よりは上ること能はず。常に火煙を食ひ、声は小児の如き者なりといふ。」、新撰字鏡に、「猶豫 隴西謂犬子猶々性多々豫在、人前故不决者皆謂之猶豫。又猶如鹿登木健上樹上樹也。牟佐々比」とある。ムササビはモミ以外にも、ノブスマ(野衾)といった別称を持つ。飛膜を広げた形が似ているから命名されたのであろう。飛膜を広げてグライダーの要領で滑空する。ために上へ上へと「木末求む」ことになっている。
ムササビ形埴輪(千葉県成田市南羽鳥正福寺1号墳出土、古墳時代、松戸市立博物館企画展示、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/ムササビ)
ムササビが木の枝先へ向かっている。端のところである。別名のモミが木の枝をミチ(道)にしてその先のハ(葉)にたどりつくということは、モミチバ、紅葉(黄葉)した葉になるということである。「あしひきの 山の黄葉」などという連続で、慣用句的に用いられることもあった(注4)。
あしひきの 山の黄葉 今夜もか 浮かび行くらむ 山川の瀬に(万1587)
あしひきの 山の黄葉に 雫あひて 散らむ山道を 君が越えまく(万4225)
九月の 白露負ひて あしひきの 山の黄変たむ 見まくしも良し(万2200)
モミチ(モミヂ)という語には、近世以降の文献資料に鹿の肉の意がある。鹿の肉が赤いことからの連想であろう。取り合わせとされている(注5)。猪は牡丹、馬は桜と言うが、そういうことに決めたということのようである。いずれにせよ、「むささびは 木末求むと」、モミチに見立てられ、鹿の肉があると猟夫は気づいて遭遇することになる、と言っている。鹿は猪と違い脚が長いから、猟師が毛皮を作る際に切り落とし剥がしても脚部分が少し残り、ムササビが滑空する時の形姿に似ている。
鹿(粉河寺縁起、12世紀後半頃、ウィキペディア「粉河寺縁起絵巻」https://ja.wikipedia.org/wiki/粉河寺縁起絵巻)
モミチ(モミヂ)という語は、また、小麦の挽きかす、いわゆる麩のことも言った。家畜の飼料に用いられた。ムササビが別名を野衾と言っていたことと通底している。麩を衾に入れて木の枝に吊るしておいて鹿を誘おうというのが「猟夫」の作戦だったということであろう。どうしてだかわからないが、両者がよくマッチしているから「逢ひにけるかも」と歌っている。アフという語は一地点に一致することを指す(注6)。両者が思惑を異にしながら、意味合いも多重にアフことになっている点を強調して示している。場所は「木末」である。
コヌレ(コは乙類)という音を耳にすれば、コヌ(捏、コの甲乙未詳)という動詞の已然形が意識されよう。上掲の万2200番歌は動詞でモミタムと歌っていて示唆的である。コヌ(捏)はモム(揉)と非常に近しい関係にある。柿の実が木に付いたまま熟し甘くなったものを木練柿という。今日でも冬になってさえ枝先に柿の実が残っている光景を目にする。当初は渋柿だから鳥も口にしない。やがて甘く熟れてくる。ちょうどいい水分量をもって全体に適当な粘度となっている。そうなるには捏ねる役がいるはずだと思われた。餅つきでは、臼の傍らにいて、杵を搗く合間合間に手を入れて捏ね返している。その人は捏取、また、相取と呼ばれている。タイミングよくアフことをしている。合いの手を入れながら上手に進行している(注7)。
左:木練柿(?)(2022年1月)、右:相取(大和耕作絵抄、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1266538/60をトリミング)
どうしてだかわからないが、ヤマトコトバの体系のなかで、以上にあげた言葉群は互いに干渉しあいながら意味の秩序を保っている。言葉の音義を話として仕立てると、万267番歌のような歌ができあがりました、ということになる。万葉歌が言語ゲームとして歌われた一例であった(注8)。
(注)
(注1)ムササビ(ムザサビ)を歌詠したものとしては、他に巻第六の雑歌の部立に一首、巻第七の譬喩歌の部立に一首ある。
十一年己卯、天皇の高円の野に遊猟したまひし時に、小さき獣、都里の中に泄走す。是に、適勇士に値ひて生きながらに獲られぬ。即ち此の獣を以て御在所に献上るに副へたる歌一首〈獣の名は俗にむざさびと曰ふ〉
大夫の 高円山に 迫めたれば 里に下りける むざさびそこれ(万1028)
右の一首は、大伴坂上郎女の作れるなり。但、未だ奏を経ぬに小さき獣死斃ぬ。此に因りて歌を献ることを停む。
獣に寄す
三国山 木末に住まふ むささびの 鳥待つが如 吾待ち痩せむ(万1367)
作意が未詳だからといって万267番歌を譬喩歌と推定することはできない。巻第三の「雑歌」の部立にあり、「譬喩歌」の部立にない。では直叙したものかといえば、万1028番歌では題詞において状況説明が行われており、何によって作となったかが明瞭化されている。それが伴わない万267番歌は、いつ歌われても歌意が理解されるものであったろうから、その場一回限りの直叙ではないと推定される。
(注2)これまでに寓意説、譬喩説、実況直叙詠説、宴席での即興説、同情説などさまざまに捉えられてきた。諸説の詳細は割愛する。大津皇子事件など政治情勢とからめて考察することはいかにも格好がいいが、寓意的に諷刺的に「童謡」的に歌った歌が残るとは考えにくい。諸説に説かれるような深意が伝わったら即座に処刑されるのではないか。
歌は歌われて人々に聞かれた時、はじめて歌に命が宿る。万1028番歌は奏上されはしなかったが、仲間内で認められていざ奏上しようという時に肝心のムササビが死んでしまったというものである。歌は、人々がその歌を聞いて理解したときにのみ歌として確かにある。逆に、聞いてもわからないような歌は、歌とはならず終いで忘れられる。忘れられずに万葉集に編まれている万267番歌は、その場限りではなく誰もが容易に理解される言葉であったろう。
(注3)巻第十三以降の歌に見られるから、志貴皇子と同時代とは言えないとされるかもしれない。といって、万葉集中においてヤマトコトバの史的断絶を認めることはできず、特に長歌に用いられているところから語用の親和性が汲みとられる。
(注4)慣用句としては数が少ないという批判は成り立つ。ただし、「山」とモミチ(黄葉)・モミツ(黄変)とがからむ歌はかなり多い。黄葉することをいう動詞モミツの連用形名詞がモミチである。
(注5)起源として、花札の絵柄に由来するとする説、百人一首にも猿丸大夫の歌とされて採られている「奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声きく時そ 秋はかなしき」(古今集・秋上、215)に由来するとする説などが挙げられている。筆者は、安土桃山時代や平安時代ではなく、飛鳥時代~奈良時代に淵源が見られると考えている。
(注6)古典基礎語辞典に、「あふ(合ふ・会ふ・逢ふ・遭ふ)」は、「もともとは二つのものが近寄って、しっくりと調和し一つに合体することをいい、うまく重なる、符合する意。『万葉集』には心が同意するところから生じた、契りを結ぶ・結婚する意の例が多い。また、二つのものが互いに近づいて、一つ所でぶつかるところから、出合う、立ちむかうの意。これが、さらに、対抗する・闘う意へと発展した。」(55頁、この項、我妻多賀子)と解説されている。
(注7)和名抄の虫名に、「螻蛄 本草に云はく、螻蛄〈婁姑の二音〉は一名に〓(穀冠に虫)〈胡木反、字は亦、𧎅に作る、介良〉といふ。方言に螻𧍱〈音は室〉と云ふ。蒋魴切韻に云はく、鼫鼠〈上の音は石〉に五つの能有り、能く飛びて屋を過ぐること能はず、能く啼きて声を囀らすこと能はず、能く泅〈浮き行くなり。音は囚、又、音は游〉ぎて涜を渡ること能はず、能く縁りて木を窮むること能はず、能く耕して身を掩すこと能はず、人に喩えるに短き芸は即ち螻蛄なりといふ。」とある。ムササビは芸達者で何でもできそうでありながら、どれ一つとして一人前にならないところはケラと同じだと言っている。間抜けな奴だと思われて、猟夫なら簡単にアフことができるものとされていたのかもしれない。
(注8)中西2010.に、「鼯鼠の木末を高く「求む」という姿に、……志貴の求めてやまなかった彼方といったものが感じられるではないか。」(170頁)とあるのがこれまでの評釈の到達点であるが、「想念の世界に心をのばしていく抒情」(同頁)など微塵も感じられないことを本稿に示した。
(引用・参考文献)
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
高野1999. 高野正美「志貴皇子の歌」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第三巻』和泉書院、1999年。
中西2010. 中西進『中西進著作集26 万葉の詩と詩人・万葉の歌びとたち』四季社、2010年。
廣岡2020. 廣岡義隆『萬葉形成通論』和泉書院、2020年。
吉永1955. 吉永登「むささびは木ぬれ求むと」『萬葉』第17号、昭和30年10月。学会誌『萬葉』アーカイブhttp://manyoug.jp/memoir/1955
※本稿は、2022年1月稿を2023年10月にルビ化したものである。
(English Summary)
Manyoshu has a flying squirrel poem, No.267, made by Shikinomiko. Until today, it has been debated whether it is an improvisational and scenic poem or a metaphorical and allegorical poem. In this article, we verify that it was only made with word play.
志貴皇子の御歌一首〔志貴皇子御歌一首〕
むささびは 木末求むと あしひきの 山の猟夫に 逢ひにけるかも〔牟佐々婢波木末求跡足日木乃山能佐都雄尓相尓来鴨〕(万267)
捉え方に振れ幅の大きい歌である(注2)。歌意がわからないからである。
「あしひきの」は「山」を導く枕詞である。そしてまた、「あしひきの 山の木末」は慣用句的に用いられた(注3)。
…… 後れたる 我か恋ひむな 旅なれば 君か思はむ 言はむすべ 為むすべ知らに 〈或る書に、あしひきの 山の木末に、の句あり〉 延ふ蔦の ……(万3291)
…… 佐保の内の 里を行き過ぎ あしひきの 山の木末に 白雲に 立ちたなびくと ……(万3957)
…… 秋づけば 時雨の雨降り あしひきの 山の木末は 紅に にほひ散れども 橘の 成れるその実は ……(万4111)
あしひきの 山の木末の 寄生木取りて 挿頭つらくは 千年寿くとそ(万4136)
…… 照る月も 満ち欠けしけり あしひきの 山の木末も 春されば 花咲きにほひ 秋づけば 露霜負ひて 風交り 黄葉散りけり ……(万4160)
これらの語は、連鎖する言葉の一群として捉えられていた。いずれ言葉遊びの歌である。それ以上の難しい内容を指すものとは思われない。それを「むささび」という慣れない語と衝突させることでできているのが万267番歌である。和名抄に、「鼯鼠 本草に云はく、鼺鼠〈上の音は力水反、又の音は力追反〉は一名に鼯鼠〈上の音は吾、毛美、俗に无佐々比と云ふ〉といふ。兼名苑注に云はく、状は猨の如くして肉の翼、蝙蝠に似て能く高きより下り、下よりは上ること能はず。常に火煙を食ひ、声は小児の如き者なりといふ。」、新撰字鏡に、「猶豫 隴西謂犬子猶々性多々豫在、人前故不决者皆謂之猶豫。又猶如鹿登木健上樹上樹也。牟佐々比」とある。ムササビはモミ以外にも、ノブスマ(野衾)といった別称を持つ。飛膜を広げた形が似ているから命名されたのであろう。飛膜を広げてグライダーの要領で滑空する。ために上へ上へと「木末求む」ことになっている。
ムササビ形埴輪(千葉県成田市南羽鳥正福寺1号墳出土、古墳時代、松戸市立博物館企画展示、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/ムササビ)
ムササビが木の枝先へ向かっている。端のところである。別名のモミが木の枝をミチ(道)にしてその先のハ(葉)にたどりつくということは、モミチバ、紅葉(黄葉)した葉になるということである。「あしひきの 山の黄葉」などという連続で、慣用句的に用いられることもあった(注4)。
あしひきの 山の黄葉 今夜もか 浮かび行くらむ 山川の瀬に(万1587)
あしひきの 山の黄葉に 雫あひて 散らむ山道を 君が越えまく(万4225)
九月の 白露負ひて あしひきの 山の黄変たむ 見まくしも良し(万2200)
モミチ(モミヂ)という語には、近世以降の文献資料に鹿の肉の意がある。鹿の肉が赤いことからの連想であろう。取り合わせとされている(注5)。猪は牡丹、馬は桜と言うが、そういうことに決めたということのようである。いずれにせよ、「むささびは 木末求むと」、モミチに見立てられ、鹿の肉があると猟夫は気づいて遭遇することになる、と言っている。鹿は猪と違い脚が長いから、猟師が毛皮を作る際に切り落とし剥がしても脚部分が少し残り、ムササビが滑空する時の形姿に似ている。
鹿(粉河寺縁起、12世紀後半頃、ウィキペディア「粉河寺縁起絵巻」https://ja.wikipedia.org/wiki/粉河寺縁起絵巻)
モミチ(モミヂ)という語は、また、小麦の挽きかす、いわゆる麩のことも言った。家畜の飼料に用いられた。ムササビが別名を野衾と言っていたことと通底している。麩を衾に入れて木の枝に吊るしておいて鹿を誘おうというのが「猟夫」の作戦だったということであろう。どうしてだかわからないが、両者がよくマッチしているから「逢ひにけるかも」と歌っている。アフという語は一地点に一致することを指す(注6)。両者が思惑を異にしながら、意味合いも多重にアフことになっている点を強調して示している。場所は「木末」である。
コヌレ(コは乙類)という音を耳にすれば、コヌ(捏、コの甲乙未詳)という動詞の已然形が意識されよう。上掲の万2200番歌は動詞でモミタムと歌っていて示唆的である。コヌ(捏)はモム(揉)と非常に近しい関係にある。柿の実が木に付いたまま熟し甘くなったものを木練柿という。今日でも冬になってさえ枝先に柿の実が残っている光景を目にする。当初は渋柿だから鳥も口にしない。やがて甘く熟れてくる。ちょうどいい水分量をもって全体に適当な粘度となっている。そうなるには捏ねる役がいるはずだと思われた。餅つきでは、臼の傍らにいて、杵を搗く合間合間に手を入れて捏ね返している。その人は捏取、また、相取と呼ばれている。タイミングよくアフことをしている。合いの手を入れながら上手に進行している(注7)。
左:木練柿(?)(2022年1月)、右:相取(大和耕作絵抄、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1266538/60をトリミング)
どうしてだかわからないが、ヤマトコトバの体系のなかで、以上にあげた言葉群は互いに干渉しあいながら意味の秩序を保っている。言葉の音義を話として仕立てると、万267番歌のような歌ができあがりました、ということになる。万葉歌が言語ゲームとして歌われた一例であった(注8)。
(注)
(注1)ムササビ(ムザサビ)を歌詠したものとしては、他に巻第六の雑歌の部立に一首、巻第七の譬喩歌の部立に一首ある。
十一年己卯、天皇の高円の野に遊猟したまひし時に、小さき獣、都里の中に泄走す。是に、適勇士に値ひて生きながらに獲られぬ。即ち此の獣を以て御在所に献上るに副へたる歌一首〈獣の名は俗にむざさびと曰ふ〉
大夫の 高円山に 迫めたれば 里に下りける むざさびそこれ(万1028)
右の一首は、大伴坂上郎女の作れるなり。但、未だ奏を経ぬに小さき獣死斃ぬ。此に因りて歌を献ることを停む。
獣に寄す
三国山 木末に住まふ むささびの 鳥待つが如 吾待ち痩せむ(万1367)
作意が未詳だからといって万267番歌を譬喩歌と推定することはできない。巻第三の「雑歌」の部立にあり、「譬喩歌」の部立にない。では直叙したものかといえば、万1028番歌では題詞において状況説明が行われており、何によって作となったかが明瞭化されている。それが伴わない万267番歌は、いつ歌われても歌意が理解されるものであったろうから、その場一回限りの直叙ではないと推定される。
(注2)これまでに寓意説、譬喩説、実況直叙詠説、宴席での即興説、同情説などさまざまに捉えられてきた。諸説の詳細は割愛する。大津皇子事件など政治情勢とからめて考察することはいかにも格好がいいが、寓意的に諷刺的に「童謡」的に歌った歌が残るとは考えにくい。諸説に説かれるような深意が伝わったら即座に処刑されるのではないか。
歌は歌われて人々に聞かれた時、はじめて歌に命が宿る。万1028番歌は奏上されはしなかったが、仲間内で認められていざ奏上しようという時に肝心のムササビが死んでしまったというものである。歌は、人々がその歌を聞いて理解したときにのみ歌として確かにある。逆に、聞いてもわからないような歌は、歌とはならず終いで忘れられる。忘れられずに万葉集に編まれている万267番歌は、その場限りではなく誰もが容易に理解される言葉であったろう。
(注3)巻第十三以降の歌に見られるから、志貴皇子と同時代とは言えないとされるかもしれない。といって、万葉集中においてヤマトコトバの史的断絶を認めることはできず、特に長歌に用いられているところから語用の親和性が汲みとられる。
(注4)慣用句としては数が少ないという批判は成り立つ。ただし、「山」とモミチ(黄葉)・モミツ(黄変)とがからむ歌はかなり多い。黄葉することをいう動詞モミツの連用形名詞がモミチである。
(注5)起源として、花札の絵柄に由来するとする説、百人一首にも猿丸大夫の歌とされて採られている「奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声きく時そ 秋はかなしき」(古今集・秋上、215)に由来するとする説などが挙げられている。筆者は、安土桃山時代や平安時代ではなく、飛鳥時代~奈良時代に淵源が見られると考えている。
(注6)古典基礎語辞典に、「あふ(合ふ・会ふ・逢ふ・遭ふ)」は、「もともとは二つのものが近寄って、しっくりと調和し一つに合体することをいい、うまく重なる、符合する意。『万葉集』には心が同意するところから生じた、契りを結ぶ・結婚する意の例が多い。また、二つのものが互いに近づいて、一つ所でぶつかるところから、出合う、立ちむかうの意。これが、さらに、対抗する・闘う意へと発展した。」(55頁、この項、我妻多賀子)と解説されている。
(注7)和名抄の虫名に、「螻蛄 本草に云はく、螻蛄〈婁姑の二音〉は一名に〓(穀冠に虫)〈胡木反、字は亦、𧎅に作る、介良〉といふ。方言に螻𧍱〈音は室〉と云ふ。蒋魴切韻に云はく、鼫鼠〈上の音は石〉に五つの能有り、能く飛びて屋を過ぐること能はず、能く啼きて声を囀らすこと能はず、能く泅〈浮き行くなり。音は囚、又、音は游〉ぎて涜を渡ること能はず、能く縁りて木を窮むること能はず、能く耕して身を掩すこと能はず、人に喩えるに短き芸は即ち螻蛄なりといふ。」とある。ムササビは芸達者で何でもできそうでありながら、どれ一つとして一人前にならないところはケラと同じだと言っている。間抜けな奴だと思われて、猟夫なら簡単にアフことができるものとされていたのかもしれない。
(注8)中西2010.に、「鼯鼠の木末を高く「求む」という姿に、……志貴の求めてやまなかった彼方といったものが感じられるではないか。」(170頁)とあるのがこれまでの評釈の到達点であるが、「想念の世界に心をのばしていく抒情」(同頁)など微塵も感じられないことを本稿に示した。
(引用・参考文献)
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
高野1999. 高野正美「志貴皇子の歌」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第三巻』和泉書院、1999年。
中西2010. 中西進『中西進著作集26 万葉の詩と詩人・万葉の歌びとたち』四季社、2010年。
廣岡2020. 廣岡義隆『萬葉形成通論』和泉書院、2020年。
吉永1955. 吉永登「むささびは木ぬれ求むと」『萬葉』第17号、昭和30年10月。学会誌『萬葉』アーカイブhttp://manyoug.jp/memoir/1955
※本稿は、2022年1月稿を2023年10月にルビ化したものである。
(English Summary)
Manyoshu has a flying squirrel poem, No.267, made by Shikinomiko. Until today, it has been debated whether it is an improvisational and scenic poem or a metaphorical and allegorical poem. In this article, we verify that it was only made with word play.