古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

万葉集の「磐瀬の社」の歌─志貴皇子作歌(万1466)を中心に─

2022年01月03日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集には「磐瀬の社」の歌が三首ある。

  志貴皇子の御歌一首〔志貴皇子御謌一首〕
 神名火かむなびの 磐瀬いはせもりの 霍公鳥ほととぎす 毛無けなしをかに 何時いつか来鳴かむ〔神名火乃磐瀬之社之霍公鳥毛無乃岳尓何時来将鳴〕(万1466)
  刀理宣令とりのせんりゃうの歌一首〔刀理宣令謌一首〕
 もののふの 石瀬いはせの社の 霍公鳥 今しも鳴かぬ 山のとかげに〔物部乃石瀬之社乃霍公鳥今毛鳴奴山之常影尓〕(万1470)
  鏡王女歌一首
 神奈備かむなびの 石瀬の社の 呼子鳥よぶこどり いたくな鳴きそ 吾が恋まさる〔神奈備乃伊波瀬乃社之喚子鳥痛莫鳴吾戀益〕(万1419)

 巻第八の、上二首は夏の雑歌、鏡王女作歌は春の雑歌のもと録されている。龍田にある地名の「磐瀬の社」と「霍公鳥」と「呼子鳥」という鳥名が詠み合わされており、ここにいわゆる歌枕的なものが確立していたと見て取る見解もある(注1)。万1466番歌の場合、作者は「毛無の岳」の近くにいて、「磐瀬の社の 霍公鳥」が眼前の景としてあるわけではない。よって、「磐瀬の社」は「霍公鳥」が多くすだく所であることが人々に周知の事実であったというのである。万1470番や万1419番に類歌がある理由とされている。
 本稿では、そのような先鋭的な見解を含めて、これまで行われてきた解釈が万葉の時代のものとは異なることを述べる。歌枕的な考えから作られていないことは、類歌が乏しい点から理解されよう。仮にいわゆる歌枕として成立しているのであれば、巻第八に限らず現れてもおかしくないはずである。特に、きわめて数の多い「霍公鳥」歌、全156首のうち2首にしか現れていないことに不審である。万葉集の歌の本性は、古今集以降に見られた「歌枕」のように、人々が典故として歌を作る言葉、記録の連鎖として積み重ねることとは異なっている。「枕詞」のように、言葉(音)の高度な論理遊戯として、そのつど再活性して呼び覚ますことでしか顕現化し得ないものであった。文字に頼らない言語生活においては、歌を歌うのに初対面(注2)の人として人前にあり、受け手はそのつど緊張感をもって歌の言葉に耳を傾けることで聞き取られたのである。
 「霍公鳥」という鳥の名は、ホト→トギと間髪を入れずに呼び交わされたものと聞き取られていた(注3)。瞬間的な反射、即座の応答を示す言葉なのである。志貴皇子がその「霍公鳥」の特徴を例えるのに、「磐瀬の社」をもって形容する試みを行っている。「磐瀬」の音、イハセは、イ+ハセから成り立っている。

「イ」
 たらちねの 母が飼ふの まよごもり いぶせくもあるか〔馬聲蜂音石花蜘蟵荒鹿〕 妹に逢はずして(万2991)
 百小竹ももしのの 三野のおほきみ 西のうまや 立てて飼ふ駒 東の厩 立てて飼ふ駒 草こそば 取りて飼ふがに 水こそば 汲みて飼ふがに 何しかも 葦毛の馬の いなき立てつる〔大分青馬之鳴立鶴〕(万3327)
 衣手ころもで 葦毛の馬の いなく声 こころあれかも 常ゆに鳴く〔衣袖大分青馬之嘶音情有鳧常従異鳴〕(万3328)
 嘽 土干反、馬平馬労也、阿波久あはく、又、馬伊奈久いなく(新撰字鏡)
 伊奈加いなかがは ……嘶く馬有りて、此の川に遇へり。故、伊奈加川と曰ふ。(播磨風土記・宍禾郡)
「ハセ」
 ぞ能く雪山を指して長くせ、竜池に望みて一たび息ふ者あらむや。(大唐西域記序長寛元年点)
 将に郊野逍遥あそびて、いささかこころたのしびしめてせ射む。(雄略前紀)(注4)
 馳 音池、ハス、トシ、ハシル、オホミユキ、ミチ(名義抄)

 イは馬のいななく声、現在のヒヒーンの声を写し取ったものである(注5)。万3327・3328番歌の「鳴」、「嘶」はイナクかイバユか定まらないが、イ音を発していることは確かである。
 ハセ(馳・騁・驚)の挙例のいずれにも「馬」字が見えているように、馬の走るスピード感をうまく表わしたものとして用いられる語である。今でもハッと驚くと言うように、ハスことと言えば馬の走りにこそ結実していると考えられたわけである。馬の渡来は、ハスというヤマトコトバの発生よりも後であったかもしれないが、馬の走りを知っている飛鳥時代の志貴皇子にとっては、そう感じられたということである。
 すなわち、イハセなる地名があれば、それを解釈するに、馬が寄り集まっているところという認識に落ち着く。実際に牧があったかどうかとは別問題で、言葉として先に地名があったから、そういうところだと歌に詠むことをしている。では、なぜ馬は集まっているか。まぎれもなく食べるもの、牧草があるからだと答えられる。反対に、「毛無しの岳」は木ばかりか草も生えていない岡、人工的に作られた古墳のことを示している(注6)。これも実際にそうであったかは不明であり、調査する必要もない。歴史地誌の問題ではなく、ケナシノヲカと呼ばれるところがあり、それを語として用いている人々は、ならばそういうところであろうと観念上認識したということである。
森将軍塚古墳
 そして、イハセという言葉は、イ→ハセという条件反射を示すものと受け取ることができる。ある馬がイと声を挙げると他の馬は一斉にハセ参じるのである。一頭が声を挙げて多数が集まるから、それはモリ(杜)であり、モリ(茂、盛)であると悟ることができる(注7)。即応関係については、ホト→トギと鳴き交わすと聞いた霍公鳥と相似形を成している。だから、イハセのもりには霍公鳥がいることとなっており、さて、ケナシノヲカという馬の食べ物のないと思われる地に来てくれることがあるだろうか、という頓智話を披露している。それが万1466番歌である。イハセの杜にあるのは霍公鳥の食べ物ではないのだから、可能性がないわけではないだろうというのである。すっとぼけた歌である。
 なぜこのような歌が生まれたか。作者である彼の名が、シキノミコ(志貴皇子)という名を負った人だからである。万51番歌は、鋤の異名、シキのことから着想していた(注8)。ここも同様に、鋤を使って土木工事をしたこと、すなわち、鋤で土を掘り盛って古墳としたことを念頭に歌が作られている。草木など生えていない。禿山に動物の食べ物はない。ケナシノヲカとは、(笥)(ケは乙類)無しの岳でも、(ケは乙類)無しの岳でもある。もちろん、志貴皇子自身が剃髪していたとか出家していたというのではなく、名に負っていたからそういう洒落を思いついて人前に披露し、聞き手をおもしろがらせて自らも楽しんでいる。
 他の2首も瞥見しておく。

  刀理宣令とりせんりゃうの歌一首
 もののふの 石瀬いはせの社の 霍公鳥 今しも鳴かぬ 山のとかげに(万1470)

 この歌も、ホト→トギと食い気味の返答を意識して作られた歌である。間髪入れずに応答していることが、「今しも鳴かぬ」に反映している。「山のとかげ」は、いつも日陰になっているところのこととされるが、山の北側斜面のことを考える必要はない。ヒカゲがキーポイントである。ヒカゲとはすなわち、ヒカゲノカヅラのことである(注9)。冠の飾りなどに使われた。這いまつわって長く伸びているものである。葛蔓状になっているからカヅラと言い、被り物に使われるからカヅラ(鬘、蘰)である。誰が一番好き好んで飾りにしたいか。「毛無しの」頭の人であろう。つまり、志貴皇子の万1466番歌を受けて作られたものと考えられるのである。冒頭の枕詞「もののふの」が「石瀬」にかかる理由として、モノノフは部族が多いから「八十やそ」にかかるように「五十」にかかるとされている。ほかに、「もののふ」は一か所に大集結するから、すなわち、イハム(屯、聚)からイハにかかるという説や、弓をイル(射)からイにかかるとする説もある(注10)。それらばかりか、モノノフは武士として騎乗していることも多く、また、呼ばれればいざ鎌倉へ馳せ参じるイ→ハセ的な様相を示しているから言葉が続いていると考えられる(注11)

  鏡王女歌一首
 神奈備かむなびの 石瀬の社の 呼子鳥よぶこどり いたくな鳴きそ 吾が恋まさる(万1419)

 この歌では、「霍公鳥」に代わり「呼子鳥」になっている。呼子鳥の正体は未詳である。托卵して子を呼ぶものと見たり、子は妻の謂いであるとする見方もある。反応の早いところは霍公鳥と変わらないのであろう。親が呼べば子がすぐに応え、子が呼べば親がすぐに応える、そういう間柄を謂わんとしている。鏡王女の場合、恋慕っている相手がいて、呼ばれたら間髪を入れずに応えようと気持ちは募るばかりなのである。だから、呼子鳥がしきりに鳴くのを聞くと、感覚が研ぎ澄まされて気持ちが昂ってしまうと歌っている。馬どうしの声→鳥どうしの声→恋人どうしの声へと連繋している。
 以上、「磐瀬(石瀬)の社」の歌は、声の即答をテーマにした作であることを述べた(注12)
 
(注)
(注1)伊藤1996.に、「「石瀬の杜」は季節の鳥が真っ先に来て鳴く聖地として名が高かったらしく、」(501頁)、廣岡2020.に、「私の言う「詠み合わせ」が地名「磐瀬の森」と「霍公鳥」「喚子鳥」について成立しており、志貴皇子当時、歌枕としての「いはせのもり」が既に確立していたのである。」(375頁)とある。
(注2)コミュニケーション論の視点からそう呼んでみている。
(注3)拙稿「万葉集のホトトギス歌について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/c341f72de9b0f0f693a7f885e4fd3a09ほか参照。
(注4)拙稿「枕詞「隠(こも)りくの」と「泊瀬(長谷)」の伝えるところ」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/f907ff9519aa06637887ac3bd3ee1a4c参照。
(注5)上代に現代語のヒ音がなかったからイとしたとする説もあるが、擬声語に写し取るに人は恣意的である。犬の鳴き声をワンワンと聞く民族もあれば、bowwowと聞く民族もある。犬種の違いよりも聞き取る耳の問題である。中世に「びよ」と聞いたのは遠吠えの音を写したものである。拙稿「犬の遠吠え」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/160141964e17cfa574457be3e6b1e97a参照。
(注6)「毛無乃岳」は旧訓にナラシノヲカとある。春日1955.以降ケナシノヲカ説が有力となり、特定の地名に比定する説(大井1985.)もある。本稿において、その解釈から、必然的にケナシノヲカと訓むべきと知れる。また、それが仏教と関係があることから、死者を埋葬したヲカ、すなわち、古墳を表す可能性についても触れておく。仏教は、今日ならずとも葬式仏教の色彩の強いものである。人工的にヲカを築き上げたとき、はじめは草木が生えていない。1300年経過しているから樹木が生い茂っている。また、歴史的に火葬する風習が一気に広がったわけではなく、火葬したら古墳がなくなったというわけでもない。終末期古墳に火葬墓(墳)である例が知られる。
(注7)古典基礎語辞典に、「もり【森・杜】……動詞モル(盛る、高く積み上げる意)やミモロ(御諸)のモロと同根で、元来はこんもりと高くなっている所を指した。」(1236頁、この項、白井清子)とある。
(注8)拙稿「「采女の 袖吹きかへす 明日香風」歌(志貴皇子)について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/0ef33298de11ab4593b7b7d78d8b7440参照。
(注9)ヒカゲノカズラのヒカゲは日陰ではなく、日影の意と考えられている。湿気のある山の斜面のひなたに生える。万1470番歌の「山のとかげに〔山之常影尓〕」も光の当たるところの意であろう。周囲からよく見える舞台で鳴いてほしいという気持ちを歌っている。
 万葉集中にはもう一例、「山のとかげに〔山之跡陰尓〕」(万2156)の例がある。

 あしひきの 山のとかげに 鳴く鹿の 声聞かすやも 山田らす(万2156)

 この歌も、通説では山陰に隠れて姿は見えない鹿が鳴いているのを、山田の番をされているあの人はお聞きになっているのかなあと詠嘆している。歌の作者は村の家にいて鹿の鳴き声を遠く聞いているとすると、田守りの労苦が偲ばれて印象的である。そのとき、山深い森のなかで鹿が鳴いたとして、村までその鳴き声が聞こえるか不明である。山田の番に野営している恋仲の人を思うのであれば、退屈せずに番をしていてほしいと思うであろう。山の頂上付近に踊り場があって、そこを舞台に鹿が声高らかに鳴いているのを、いい人はたのしく鑑賞していてくれたらなあと思っている、そう捉えた方がふさわしいであろう。万1470・2156番歌ともに、「山のとかげ」とは、声はすれども姿は見えずの「山の常陰に」隠れているのではなく、「山の常影に」スポットライトの照らされるなかで霍公鳥や鹿は歌っていると言っている。常に日の当たらない山あいの意ではなく、月の光のさやかにして姿のよく映るところという意であろう。「とかげ」のカゲは、光、姿、投影の意が多重にかかっているから、それをト(常)と冠して正しくから一つの言葉としていると考える。
(注10)鴻巣盛広説(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1259662/302)、契沖説(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979063/270)など参照。
(注11)志貴皇子作歌(万1466)と刀理宣令作歌(万1470)は宴席歌であるとも考えられているが、印象論以上のものではない。そのようでもあり、そのようでもなく、肯定も否定もできない。標目として「夏雑歌」とあって集められており、いつ歌われたか記されていない。万葉集の編者にとって、いつ歌われたのかは問題ではなく、関心は言葉遊びにあった。
(注12)万葉集中に、イハセは他に3首の歌に見られる。万3320番歌は万1419番歌同様、恋心の即応性を歌っている。わざわざ石瀬あるところへ迂回し、直行していないのに即応なのだというところに興趣がある。万4154番歌と万4249番歌は、秣になる萩をともなって馬を登場させ、イ→ハセの呼応性を示している。「馬並めて」いる形が常のことであるからそれを前提にして歌っており、一頭のときも「遠近をちこちに」と二者であるように歌っている。

 ただに行かず 巨勢道こせぢから 石瀬いはせ踏み〔石瀬踏〕 めそ吾が来し 恋ひてすべなみ(万3320)
  八日に、白き大鷹を詠む歌一首 并せて短歌〔八日詠白大鷹歌一首并短歌
 あしひきの 山坂越えて 行きかはる 年の緒長く しなざかる こしにし住めば 大君の 敷きます国は 都をも ここも同じと 心には 思ふものから 語り放け 見放くる人眼 ともしみと 思ひし繁し そこゆゑに こころなぐやと 秋づけば 萩咲きにほふ 石瀬野いはせのに〔石瀬野尓〕 馬だき行きて 遠近をちこちに 鳥踏み立て 白塗りの 小鈴こすずもゆらに あはせ遣り 振り放け見つつ いきどほる 心のうちを 思ひ延べ 嬉しびながら 枕づく 妻屋のうちに 鳥座とくら結ひ 据ゑてそ我が飼ふ 真白斑ましらふの鷹(万4154)
 石瀬野に〔伊波世野尓〕 秋萩しのぎ 馬並めて 初鷹猟はつとがりだに せずや別れむ(万4249)

(引用・参考文献)
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釋注 四』集英社、1996年。
大井1985. 大井重二郎「なし乃岳の所在」『萬葉』第121号、昭和60年3月。萬葉学会学会誌『萬葉』アーカイブhttp://manyoug.jp/memoir/1985
春日1955. 春日政治「「毛無乃岳」の訓」『萬葉』第17号、昭和30年10月。萬葉学会学会誌『萬葉』アーカイブhttp://manyoug.jp/memoir/1955
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
廣岡2020. 廣岡義隆『萬葉形成通論』和泉書院、2020年。

(English Summary)
Manyoshu is a poetry anthology of the non-literal era. Inevitably, it looks different from poetry written in letters. The name of a place was expressed as a one-time-only voice, not like the "Utamakura" that was piled up on the record, but just like the "Makurakotoba" and so on that was rhetoric in ancient era. Tanka poetry in Japanese literature has a missing link between the Manyoshu and the subsequent letter form. The poems of "Ifase nö mori" in Manyoshu show this well.

※本稿は、2020年1月稿を2023年7月にルビ化したものである。

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