ヤマトコトバを記すための漢字利用
日本語で mountain に当たるヤマは漢字に「山」と書く。最初に行った人は、ヤマトコトバにヤマという言葉を「山」という漢字に著して正しかろうとして行ったというのが本質である。今日、「山」という漢字を見て、音読みにサン(セン)、訓読みにヤマと言っているのは、視覚が優先された言語活動である 。流れとして、文字から音声となっている。上代に初めてヤマという言葉に「山」という漢字を当てた時、音声から文字へという流れになっていたはずである。この感覚の違いはときに見過ごされる 。
古事記に用いられている漢字の字義を考えたとき、どうしても見て読むもののため、文字から音声への流れに縛られてしまう。 漢字の本来の字義に合わないのではないかと違和感を抱き 、漢字の字義に「和化」の傾向を読み取ってしまうこととなる。時に「国訓」(注1)とも称される。確かに、我が国に独自の訓読みが行われたという現象はあったであろう。「東」という字に対して、トウというのは音読みで、ヒガシ(ヒムカシ)というのは訓読みである。ところが、本邦にしかありえそうにない特殊な読み方に、アヅマというのがある。当初、関東地方のことを示したであろうアヅマという言葉に対して、「東」という漢字をもって表すことにしているので、その読み方は「国訓」という分類で正しいかと思われる。だからといって、その概念を無批判に広げて行くと際限がなくなることになる。
日本書紀についてはこの議論は徹底されていた。釈日本紀に、「彼書薄靡為二薄歴一。高誘注云。風揚レ塵之貌也。若如二此文一者タナヒク止読者与レ彼相違也。如何。○答。此書。或変二本文一、便従二倭訓一。或有二倭漢相合者一也。今是取二倭訓一、便用二彼文一也。未三必尽従二本書之訓一。然則暫忘二彼文一。猶タナヒク止可レ読也。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991097/380、漢字の旧字体等は改めた。)とある。ヤマトコトバのタナビクを漢字にして書くときに「薄靡」としてみたというところが肝なのである。つまり、出典はひとりヤマトコトバにある。
とはいえ、該当箇所が古事記にもない「薄靡」をタナビクと訓んでいいのか、平安時代の講書の生徒ではなくとも心もとなくなる。そういうことを考慮せずに日本書紀の筆録者は書き記したのであろうか。誰かに訓み方を「秘訓」という秘伝で伝えていったからそれで大丈夫だと思ったのであろうか。それは少し違う。
「薄靡」は字を追った時、「靡」はナビクと訓むことに抵抗がない。すると、「薄」でタと訓むことが期待されているらしいと思い至る。「薄」字は、ウスシ、ススキなどと訓める。「薄」という漢字のもともとの意味に、秋の七草のススキという植物名を示してはいない。「国訓」の一例である。ススキはまた、芒、薄木とも記される。どうしてススキを「薄木」という字に書くことにしたかはさておき、そう記した時、「薄」字はヤマトコトバの字音にしてススに当たる。スは万葉集では万葉仮名に「数」と書かれる。カズ(数)を書くとき、横棒を引いていた。一、二、三である。スーと横にひいて一、スースーと横に引いて二である。ススとは「数」を二本、横に引くことで、空中で手を横にスースーと二度わたらせる仕草は、ちょうど棚板が二段あるように示す仕草に同じである。秋のススキは穂をたなびかせているではないか。ここに、「薄靡」はタナビクという語義にきちんと合致した表記であると“理解”するに十分である。ススキに「薄」字を当てた理由まで述べてしまった。
こじつけではないかという批判は甘んじて受け容れる。なぜなら、そのこじつけ思考こそ、無文字時代にヤマトコトバに暮らしていた人々の「野生の思考」(レヴィ‐ストロース)だったからである。文字がないときに言葉をいかに“参照”するか。その参照システムとは、言葉は事柄と同一であり、一つの言葉は一つの概念を構成し、実際の事柄として具現しているという大原則を以て成していた。こじつけ思考が体系化していた。記紀の文脈においてそのとおりである。
一方、神田1983.は、日本書紀の一見不思議に思われる古訓29例について、その正しさを漢籍の使用例から確証している。正しさとは、よくよく考え練られてヤマトコトバとして訓むことができるようになっているという意味である。その「結語」に、「以上、余の討究せし古訓凡て二十九條を通じて窺ひ得たる所は、
一、古訓の漢土訓詁学上より見て極めて正確なること
一、古訓の一見疑はしきものも、必ず何等かの典拠に本づくものなること
一、古訓には今日古典の正統的注釈書と認めらるるものに、必ずしも依拠せざるものの多きこと
一、六朝時代より隋唐の世に亙りて、彼土に行はれしと思はるる俗語の極めて正確に訳されあること
の四点なり。」(414頁)としている。神田氏に直接の言及はないが、重要な点は、漢籍をいろいろ調べてみて、めぐりめぐって、ああ、そうか、なるほど、古訓の訓み方は尤もなことだと気づかされる、というところにある。やたらと難しい漢字の熟語を使いながら、ふだん使いのヤマトコトバを表している。漢籍の例のなかでこじつけ思考を展開させ、確かだろう、とやっている。いずれ、「野生の思考」のなせる業として古訓と呼ばれるものは成立している。残念ながら、このこじつけ思考は現代の科学的思考と相容れないため、理解の領域に含まれることが難しくなっている。
「塩(鹽)」字について
科学的思考に慣れてしまうと、漢語と和語との関係を“整理”する方向へと進んでしまう(注2)。しかし、これは、当時の状況を再現するのには誤ったアプローチである。論より証拠で、具体例に当たればわかる。奥田2016.は、古事記の中でいくつか和化された字義を担った訓み方が行われている例を挙げている。その例から、まず「塩」字について検討する。
故(かれ)、二柱の神、天の浮橋に立たし〈立を訓みて多々志(たたし)と云ふ。〉て、其の沼矛(ぬほこ)を指し下ろして画(か)きたまへば、塩こをろこをろに〈此の七字、音を以ふ。〉画き鳴(な)し〈鳴を訓みて那志(なし)と云ふ。〉て、引き上げたまふときに、其の矛の末(すゑ)より垂(しただ)り落ちたる塩、累積(かさな)りて島と成れり。是、淤能碁呂島ぞ。〈淤より以下の四字、音を以ふ。〉(故、二柱神、立訓レ立云二多々志天浮橋一而、指二‐下其沼矛以一画者、塩許々袁々呂々邇此七字以レ音画鳴訓レ鳴云二那志一而、引上時、自二其矛末一垂落塩之、累積成レ嶋、是、淤能碁呂嶋。自レ淤以下四字以レ音。)(記上)
爾くして、八十神(やそかみ)、其の菟に謂ひて云ひしく、「汝(なむぢ)が為まくは、此の海塩(うしほ)を浴(あ)み、風の吹くに当りて、高き山の尾上(をのへ)に伏せれ」といひき。故、其の菟、八十神の教(をしへ)に従ひて伏せり。爾くして、其の塩の乾くに随(まにま)に、其の身の皮、悉(ことごと)く風に吹き析(さ)かえき。(爾、八十神、謂二其菟一云、汝将レ為者、浴二此海塩一、当二風吹一而、伏二高山尾上一。故、其菟、従二八十神之教一而、伏。爾、其塩随レ乾、其身皮、悉風見二吹析一。)(記上)
漢字の字義において、塩は salt、潮は tide のことだから、上にあげた例は、本来的な漢字の字義に意味的に対応していない。とはいうものの、いわゆる借訓字(「丹寸手」…和幣の意)とは異なっていて、意味としては違うが訓みとしては同じだから、そう使ってしまったのだとされている。「本来的な字義よりも表記される和語のよみに対応する字訓へ向かおうとする意識があったのではなかろうか。そこには、表記される和語と字訓字における和訓との同一視があったと考えられる。」(31頁)という。
この議論に、漢土の字書に字義をよく検討されている一方で、ヤマトコトバの語義に関しては深慮されていない。
古典基礎語辞典の「しほ シオ【潮・汐・塩】」の項に、「解説」として、「シホには、①満ち干する海水、②食塩、という二つの意味がある。上代における①と②の表記は、『日本書紀』では、①を「潮」、②を「塩」と書き分けている(海路の神と考えられるシホツチノヲヂを「塩土老翁」「塩筒老翁」と表記する例のみが例外)。『古事記』や祝詞では、「潮」の字は一切用いず、①も②「塩」と表記する。『万葉集』では、①を「潮」と表記する例と、「塩」と表記する例とがある。ただし、②を「潮」と表記することはない。なお、シホという語形をもつ語には、①②のほかに布を染料にひたす回数、という意味のシホ(入)がある。潮の満ち干によって、海浜や岩礁などが海中に没したり、姿を現したりを繰り返す。この現象は布が染料に浸されたり、染料から出されたりの繰り返しとよく似ていることから連想して、この意が生じた可能性がある。そうであれば、染色関係のシホ(入)も潮・塩と語源が同じということになる。」(604頁、この項、北川和秀)とある。
この秀逸な解説に、我々は言葉というものに対する考え方をもう一度見直す必要があると知らされる。 ヤマトコトバにシホという言葉をカテゴライズするときのあり方についてである。この salt のことを何と言うの? という問いに、それはシホ(塩)というものだよ、という答えがある。どうしてシホと言うの? というさらなる問いに、それは tide のことをいうシホ(潮)が波打ち際の潮だまりに溜まって干上がってできたものだからだよ、と答えがある。では tide をどうしてシホというの? という重ねての問いに、それは一度や二度ではなく何回もくり返された結果できあがるものだから、the frequency of the dying と染め物用語になっているシホ(汐)のことと同じだからだよ、との答えがある。回数のことに使われるようになって「八塩折之酒」(記上)、「八塩折之紐小刀」(垂仁記)という例になっている。それがどうしてシホというの? なる更なる問いに対しては、それは salt のことをいうシホ(塩)がそうやってできるものだからだよ、という答えがある。これを延々とくり返してどうしても理解できない輩に対しては、わからぬ奴とは話しができないと言って、その言葉どおりに話してくれなくなる。ゲーデルの不完全性定理を証明しようとしているのではなく、ヤマトコトバが一つの系のなかに円環的に定位していることを悟るしか話しはできず、それはすなわち知恵の体系そのものであったからである。今日の研究にその構成を理解しようとしなければ、何ら理解していることにならないことになる。したがって、古事記のなかで用いられている「塩」という漢字の字義について詮索していることは、漢人が目にしたらどうであろうかと探っているばかりで、ヤマトの人の頭の中とは無関係な研究である(注3)。
「控」字について
故、天皇、筑紫の訶志比宮(かしひのみや)に坐(いま)して、熊曽国を撃たむとせし時に、天皇、御琴(みこと)を控(ひ)きて、建内宿禰大臣(たけうちのすくねのおほおみ)、沙庭(さには)に居て、神の命(みこと)を請ひき。……爾くして、天皇の答へて白さく、「高き地(ところ)に登りて西の方を見れば、国土(くに)見えず。唯に大き海のみ有り」とまをして、詐(いつはり)を為る神と謂(おも)ひて、御琴を押し退(そ)け、控かずして黙(もだ)し坐しき。……是に、建内宿禰大臣が白ししく、「恐し。我が天皇、猶其の大御琴を阿蘇婆勢(あそばせ)〈阿より勢に至るは音を以ふ。〉」とまをしき。爾くして、稍(やをや)く其の御琴を取り依せて、那麻那麻邇(なまなまに)〈此の五字、音を以ふ。〉控きて坐しき。(故、天皇、坐二筑紫之訶志比宮一、将レ擊二熊曾国一之時、天皇、控二御琴一而、建内宿禰大臣、居二於沙庭一、請二神之命一。……爾、天皇答白、登二高地一見二西方一者、不レ見二国土一。唯有二大海一、謂二為レ詐神一而、押二‐退御琴一、不レ控、黙坐。……於是、建内宿禰大臣白、恐。我天皇、猶阿二‐蘇‐婆‐勢其大御琴一。〈自レ阿至レ勢以レ音。〉爾、稍取二‐依其御琴一而、那摩那摩邇〈此五字以レ音。〉控坐。)(仲哀記)
奥田2016.は「控」という字を挙げている。琴を弾くこと、演奏すること、play の意味(注4)は「控」という字に漢語としてはないから「国訓」になると捉えている。
白川1995.には、「ひく〔引・曳・牽〕 四段。手で自分の方へ引き寄せる。力を入れ、抵抗を排して、自分に近づけることをいう。……ヒは甲類。」、「ひく〔弾(彈)〕 四段。絃楽器を弾奏することをいう。爪でかき引くようにして演奏する。弓を弾くこともいう。「引く」「曳く」と同源の語。ヒは甲類。」(639頁)とある。「同源」とある源たるヒクというヤマトコトバが、どのようにカテゴライズされているか見極める必要がある。上古音にヒクは[piku]という破裂音に近いものであったと考えられている。すなわち、ヤマトコトバのヒクは、擬声語、擬態語に由来する可能性が示唆される。物を牽引するとき、最初、静止摩擦力の大きさからなかなか動かないが、いったん動き始めると大した力を入れずとも引き続けることができる。その最初のインパクトの様子は、緩んでいたロープがピンと張り、ビクともしなかった物体が最後の抵抗を撥ね退けて動き出すところである。音をもって言葉であった無文字時代に、ヒクという語の出自が印象づけられるであろう(注5)。
このような擬音語・擬態語的な考えによるものとすれば、「控」という字が用いられていることに関して、太安万侶の用字はあながち誤用であるとは言えない。「控」は漢土の字書、注釈に「引也」とある点ばかり気にかけているが、荘子・外物篇に、「儒(わたくし)の金椎を以て其の頤(あご)を控(う)つ(儒以二金椎一控二其頤一)」とある。「死者の口中の珠を盗むために、顎をうち外すその音をいう擬声語である。」(白川1996.524頁)という意味である。コウ khong という音が聞こえてくる。その用法はヤマトコトバのヒクの意味とは別義であると反論されそうであるが、漢土において一字=一義=一音であることは大原則であり、同根の語と見做されて「控」一字に収まっていると考えられるであろう。本邦に、ヒク(引・曳・牽・弾)一語に収まっている点と照合するに、擬声語の「控」字を用いて楽器である琴の弦をひくことに援用することは、鳴弦の儀などが行われていたことにもかなうことで、考え落ちとしての魅力が感じられるものである。この考え落ちの傾向は、上に述べた釈日本紀の「薄靡」をタナビクと訓むことに一抹の疑いも挟まない点とよく符合する。ヤマトコトバのヒク、タナビクをどう書いたらいいかと模索していて、それぞれにうまく書けたと悦に入っているさまが目に浮かぶ。
したがって、「控」という字のヒクという訓み方を琴をヒクことにまで広げて訓んだとすることを「国訓」という分類定義に嵌めている点につき、考え方の原点に帰れば、本来ならヒクというヤマトコトバを漢字で当てるのに「控」という字を持って来たばかりであるとするのが正答である。弦楽器の弦と弓具の弦はどちらもツルであり、そのツルをひいてはじく動作がともに行われている。漢字の本来の字義と違うとする間違い探しの問題ではなく、機知の豊かさこそが語られなければならない。後に常用されるに及んでおらず、太安万侶の洒落がわからなくなってしまったというにすぎない。万葉集に戯書、戯訓の類が見られる(注6)が、ヤマトコトバをおおらかに表記している様相からは、現代のガス工事業者が「煙突」のことを「延凸」と書いて楽しんでいるのと同じことなのだと理解される。延びていって出っ張っているものがエントツである。飛鳥時代に学習指導要領などがあるわけではなく、明治期の文豪が今となっては不思議に妙なる当て字を好んでいる(注7)ことからも、現代人のものの考え方のほうの狭さを顧慮、危惧しなければならない。
「画」「走」字について
奥田2016.では、ほかに、これまでは借訓字とされていたが狭義の訓字であると判断して和化された字義を担う字の例をあげている。上掲の「指二‐下其沼矛以一画者、塩許々袁々呂々邇此七字以レ音画鳴訓レ鳴云二那志一而」部分の「「画」は、狭義の訓字として、さし入れ、掻く、といった義に解するのが、「画」の本来的な字義、および「カク」の語義に沿い、文脈的にも意が適うと考えられる。」(42頁)としている(注8)。どうしてそのような用法が本邦に、太安万侶に生まれたかについては言及がない。
漢土の「画(畫)」の、かぎる、の意には、文字を構成する線をかくことも含まれており、ひと筆で書くかぎりのことを示している。古事記の用例では、途中で水面から引きあげることなく一筆書きのようにかくことをしているという意味を表そうとして、「画(畫)」字を用いたと考えられる(注9)。説文に、「劃 錐刀を劃と曰ふ。刀に从ひ畫に从ふ。畫は亦声なり」とある。すなわち、筆で紙や木簡に字を書くことが想定されているのではなく、金属の「矛」を使っているのだから鏨で鉄剣に銘を掻き刻む際の槌打ちと削れる音、コ・コ・コ・キ・キ・キといった音に対して、海水だからコ・ヲ・ロ・コ・ヲ・ロになる、という考え落ちなのであろう。彫金で文字を刻む際に、一画を途中でとめて刃を浮かせたらきれいには仕上がらない。ヤマトコトバのカクの原義に当たれば、「掻」という字に最もわかりやすいところであり、それを個別具体的に記す際、海水を「掻」くとしたのではコヲロコヲロという音を表現することに遠いことに気づかされる。太安万侶の知恵が優っている。
また、「「走二就湯津石村一」の「走」の意味は、漢語「走」ではなく、和語「ハシル」に帰すべきものと案ぜられる。」(44頁)としている。
爾くして、其の御刀(みはかし)の前に著ける血、湯津石村に走り就きて成れる神の名は、石柝神。次に根析神。次に石筒之男神。〈三神〉(爾著二其御刀前一之血、走二‐就湯津石村一、所レ成神名、石析神、次根析神、次石筒之男神。〈三神〉)(記上)
ヤマトコトバのハシルにはほとんど同義の語としてワシルがある。実際のところ、両語がどのように違うのか不明ながら、白川1995.の「はしる」の項に、「勢いよく早く進む。「馳す」は他動詞、下二段。」(615頁)とある。スピードを出して進むことで、そのような進み方をするものに馬がある。ハスの意味を「馳」といった字を用いることは彼此ともども意味の領域を同じくしていたからであると理解される。説文に、「馳 大いに驅す也」、「驅 馬の馳す也」とある。また、「走 趨る也」、「趨 走る也」とあって互訓である。しかるに、「走」と「趨」との違いは、字に見える「芻」であると思われよう。「芻」は説文に「刈艸也」とあり、刈り草、まぐさのことである。秣(まぐさ)を持ってきてばらまき、馬を解き放てば一目散にそこへ走って行って離れず食べている。そのさまは、頸動脈を切ったときに血がどっと出て飛び散り、どこかにくっついて血糊となって離れなくなるのと同じである。したがって、「血、走二‐就湯津石村一」とあることは、「趨」の意に近いけれど馬に限定されるものではないから「走」字が選択されている。そして、この話が「十拳剣(とつかのつるぎ)」と火の神「迦具土神(かぐつちのかみ)」の話であることを前提に思えば、鉄鍛冶の様子を示していて、「著二其御刀前一之血、走二‐就湯津石村一」は熱して赤くなった剣を金床石に打った時に熱鉄の破片が飛び散ってすぐに冷えて固まりつくことを謂わんとしているものだと理解される。説文ではつづけて、「走 趨る也。夭止に从ふ。夭止は屈むる也。」とある。走るときにあげた足が屈まるからとの説明らしいが、本邦の鍛冶師の姿勢に屈まりしゃがみ、座る姿勢をとることを含み述べようとの思惑が感じられる。「走」の訓にハシルがあるから援用している、といった簡便な整理で済む事柄ではない(注10)。
鍛冶師(久保田米斎編『職人絵尽』風俗絵巻図画刊行会、大正6~7年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1014299/14をトリミング)
おわりに
以上のように、筆者は、和化された字義を担う性質の「国訓」なる囲い込みにことごとく論難してきた。それでもなお漢字の字義との違いを述べ立てたい場合には、奥田氏も言及しかけているように、すべては「国字」であると捉え返せばよいのかもしれない。漢字などはなくて、すべてはヤマトコトバを表すための国字なのであると。
ヤマトコトバにおける各語のカテゴライズの仕方と漢語のカテゴライズの仕方には共通するところが多いなか、たまに少しはずれたものがあっても特段に不思議がる必要はない。訓に紛らすということはなく、太安万侶の用字にきちんと考えめぐらされている(注11)。当時の識字能力あるかないか程度の人たちは中国人ではなく、無自覚無批判に学習指導要領の体現者に堕している学校の先生でもなかった。街に哲学者あり的な知恵ある人々によってヤマトコトバは記され始めたのであった。なぜなら、ヤマトコトバは、論理階梯を混雑させるほどに知恵ある自己定義をくり返している言葉であり、それを母語として慣れ親しんだ人たちが文字に落し込むことを企てれば、自ずとこじつけ思考に従った用字選択が起こると考えられるからである。語彙力において、その数の面ではなく質の面で、上代人は浅薄な現代人とは比べ物にならないほどゆたかなのであった。
(注)
(注1)新井白石・同文通考に、「国訓」は、「本朝ノ字詁、華言と同じからざる者有り。即ち方言也。世儒、㮣して以て乖誤と為(す)。亦通論に非ず。今定めて以て国訓と為(す)。」http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200018939/viewer/136とあり、「薄」をススキと訓じているような例をあげている。「凡例」に、「○国字トイフハ、本朝ニテ造レル、異朝ノ字書ニ見へヌヲイフ、故ニ其訓ノミアリテ、其音ナシ、○国訓トイフハ、漢字ノ中、本朝ニテ用ヒキタル義訓、彼国 ノ字書ニ見へシ所ニ異ナルアリ、今コレヲ定メテ、国訓トハ云フ也」とある点は、「もとより、ここで国字や国訓の定義が、中国の字書に見えるか否かを基準にしているのは、現実的な方策を述べているものであって、理論的にいえば、隙のあるものである。」(高橋2000.325頁)である。
(注2)整理、分類のために「字訓字」という用語まで持ち出されている。用語の定義は行われていない。佐野2020.によれば、「「字訓字」とは単漢字と複数の和訓からなる関係を包摂したもので、固定的な文字とことばの対応といった、いわゆる「正訓」「正字」以前の、表音に対する表語的な用法としてあるものを指す。……漢語の訓読上において複数訓が生じるという観察事実を踏まえれば、和語で訓む漢字群を対象化する必要がある。漢語を翻訳・訓読した結果としての和訓を内包した漢字が「字訓字」である。」(54頁)と説明している。「原エクリチュール」(デリダ)のようなことを謂わんとしているのであろうか。いずれにせよ分析的思考がもたらされている時点で、形式的操作(ピアジェ)が行われていたことを前提としており、具体的操作でありつづけるこじつけ思考と相容れない。どうやってヤマトコトバを文字に落し込むかが焦点であったとき、整理は行われない。交通量が多くなって事故が起こってからでなければ交通整理はなされない。
(注3)猪熊本に、「塩許々袁々呂々迩」部分の「塩」をツチクレと忌詞流に訓んでいる(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438705/9参照)が、「塩垂」は「哭」の忌詞である。勘違いであろう。
(注4)新編全集本古事記(244頁)に、仲哀記の「阿蘇婆勢(あそばせ)」は何かをなさるの意味だから「遊」字では表せないために一字一音で表記されているかと推測されている。万葉集の例に、「国見あそばし〔國見所遊〕」(万3324)と、好きなことをして楽しむ意に用いられ、歌舞音曲は日常からの解放に資するものだからアソブ、アソバスと言っていたと思われる。英語の play の意味で「猶阿二‐蘇‐婆‐勢其大御琴一。」と言っていないと言い切れるのか、「日八日夜八夜以、遊也。」(記上)という例からして筆者には断定できない。なお、漢語の「遊」字には楽器を演奏する意味、play の意味はない。これも「国訓」ということになるが、漢土においては「遊」字は稀で、「游」字をよく用いる点も含めて検討されなければならない。後考を俟つ。
(注5)筆者は、ヒクという語の語源を定める仕事をしているわけではない。上代に、ヒクという語がどのように感じ取られていたかについて述べている。こと太安万侶の気持ちになってみているというばかりである。
(注6)奥田2016.に、「構造としてある、字訓字の訓字への転換は、実際、和語でよむ行為と和語を記す行為との幾重もの反復を伴ったと思われる。その反復には、よむ要請と記す要請とが、不可分のものとして混融していた。そこには、和語でよむために字義を理解した字もあったであろう。そして一方で、和語を記す要請は、漢語にはない。我が国のみに見られる国字を創出する基盤ともなった。」(50頁)とある。筆者はこの言辞の多くに平安時代以降の人間として賛同しながらも一抹の疑問を覚える。「和語を記す行為」は、記紀万葉に現在してある。では、「和語でよむ行為」はどこにあるのか。少し遅れて見られる訓点資料に見られるということなのであろうか。テストであれ、クイズであれ、今となっては漢字の読み問題よりも書き問題のほうがはるかに難しい。どのように説明したらよいのか考えられたい。
奥田2016.の言うように、「義訓と「戯書」とは、漢語本来の字義とよみが有する意味が乖離し、かつ、一回的・非一般的に使用される訓字である典型的な義訓と、「文学的意図による用字選択の場」(蜂矢宣朗「いはゆる「戯書」について」、『境田教授喜寿記念論文集 上代の文学と言語』前田書店、一九七四年)の中で戯れの意識が認められる仮名である典型的な「戯書」との間に、義訓と「戯書」の双方の性質を併せ持つ例が存することによって連続的な様相を呈する。義訓と「戯書」の連続性は、義訓と「正訓」の連続性と同様、複合的な尺度の中で位置付けられる。」(101頁)とするのは穏当に思われるであろう。筆者はそもそも、記紀万葉に記されている文字群は、ヤマトコトバに漢字を当てたのであってその逆ではないのだから、すなわちそのことは、ヤマトコトバが書記を目的として編み出された言語ではなかったという大前提を十分に含み置かねばならないということと同じことなのだから、すべては“戯”書なのではないかとラディカルに考えているが、議論が先へ進まなくなるのでひとまず先行研究に従うことにしておく。
(注7)夏目漱石の例はよく知られている。松崎安子「言葉研究館 ことばの疑問 漱石の当て字にはどんなものがありますか」国立国語研究所https://kotobaken.jp/qa/yokuaru/qa-64/参照。
(注8)佐野2020.に、この箇所に「なぜ「掻」字を用いないのかという点が逆に問題とな」(56頁)るとしている。
(注9)「画(畫)」字部分、真福寺本では、前者は「𦘕」、後者は「書」に見える。
(注10)奥田2016.では、ほかに「読」、「骨」といった例もあげているが、すでに論じたことがあるので割愛する。「瀬」については別項とする。
(注11)有名な太安万侶の書記スローガンをきちんと受け止めなければならない。そもそもそのスローガン自体、どのように訓むのが正解なのかわからないほどに、「於レ文即難」である。
然れども、上古(いにしへ)の時、言(こと)も意(こころ)も並(とも)に朴(すなほ)にして、文(あや)を敷(ほどこ)し句(ぬひ)を構ふること、字(ふみ)に於ては即ち難し。已に訓(よみ)に因りて述べたるは、詞(ことば)心に逮(およ)ばず、全(また)く音(こゑ)を以て連ねたるは、事の趣(おもぶき)更に長し。是を以て、今、或(ある)は一句(ひとぬひ)の中に、音と訓とを交へ用ゐ、或は一事(ひとこと)の内に、全く訓を以て録(しる)せり。即ち、辞(ことば)の理(すぢ)の見え叵(がた)きは、注(しるべ)を以て明し、意の況(かたち)の解(さと)り易きは、更に注せず。亦、姓(かばね)に於て日下を玖沙訶(くさか)と謂ひ、名に於て帯の字を多羅斯(たらし)を謂ふ。如此(かく)ある類は、本の随(まにま)に改めず。
記序にあるこの文章は、ヤマトコトバを書くことの難しさを言っている。漢字を訓んで漢籍を読むことの難しさなど一言も言っていない。すべては書き問題なのである。いかなる状況下での書き問題かが理解されなくてはならない。和語による漢語の規定も、漢語による和語の規定もない、まっさらな状態であった。訓み方によって漢字を使って書き述べてみると「逮レ心」ということになると言っている。読み直してみて、どうも変だと違和感があると言っている。文字である漢字と言葉であるヤマトコトバ、それは音声言語であるが、その邂逅の時のことである。その後に漢字とヤマトコトバに結びつきが定着した段階から、その邂逅時のことを遡及して考えていくことは大きな誤りを侵しかねない。無文字文化を文字文化へと連続する前時代と捉えることが間違いであることは、算数を数学から理解、説明することができないことに似ている。
(引用・参考文献)
奥田2016. 奥田俊博『古代日本における文字表現の展開』塙書房、2016年 。(「『古事記』の表記─和化された字義をめぐって─」『萬葉』第153号、1995年3月。萬葉学会学会誌『萬葉』アーカイブhttp://manyoug.jp/memoir/1995)
神田1983. 神田喜一郎「日本書紀古訓攷證」『神田喜一郎全集 第二巻』同朋出版、昭和58年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
佐野2020. 佐野宏「奥田俊博著『古代日本における文字表現の展開』」『萬葉』第229号、令和2年3月。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
白川1996. 白川静『字通』平凡社、1996年。
新編全集本古事記 神野志隆光・山口佳紀校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
高橋2000. 高橋忠彦「国訓の構造─漢字の日本語用法について(上)─」『東京学芸大学紀要 第2部門 人文科学』第51号、2000年2月。東京学芸大学リポジトリhttp://hdl.handle.net/2309/13419
(English Summary)
It was a dystocia when ancient Japanese, Yamato-Kotoba, who had no characters, ideographically acquired the character Kanji. To reach a true understanding, we need to be present at the scene, and deductive retrospectives make the wrong decisions. In this paper, examining some examples of Kanji in Kojiki, we will notice that the previous way of thinking was beside the point.
日本語で mountain に当たるヤマは漢字に「山」と書く。最初に行った人は、ヤマトコトバにヤマという言葉を「山」という漢字に著して正しかろうとして行ったというのが本質である。今日、「山」という漢字を見て、音読みにサン(セン)、訓読みにヤマと言っているのは、視覚が優先された言語活動である 。流れとして、文字から音声となっている。上代に初めてヤマという言葉に「山」という漢字を当てた時、音声から文字へという流れになっていたはずである。この感覚の違いはときに見過ごされる 。
古事記に用いられている漢字の字義を考えたとき、どうしても見て読むもののため、文字から音声への流れに縛られてしまう。 漢字の本来の字義に合わないのではないかと違和感を抱き 、漢字の字義に「和化」の傾向を読み取ってしまうこととなる。時に「国訓」(注1)とも称される。確かに、我が国に独自の訓読みが行われたという現象はあったであろう。「東」という字に対して、トウというのは音読みで、ヒガシ(ヒムカシ)というのは訓読みである。ところが、本邦にしかありえそうにない特殊な読み方に、アヅマというのがある。当初、関東地方のことを示したであろうアヅマという言葉に対して、「東」という漢字をもって表すことにしているので、その読み方は「国訓」という分類で正しいかと思われる。だからといって、その概念を無批判に広げて行くと際限がなくなることになる。
日本書紀についてはこの議論は徹底されていた。釈日本紀に、「彼書薄靡為二薄歴一。高誘注云。風揚レ塵之貌也。若如二此文一者タナヒク止読者与レ彼相違也。如何。○答。此書。或変二本文一、便従二倭訓一。或有二倭漢相合者一也。今是取二倭訓一、便用二彼文一也。未三必尽従二本書之訓一。然則暫忘二彼文一。猶タナヒク止可レ読也。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991097/380、漢字の旧字体等は改めた。)とある。ヤマトコトバのタナビクを漢字にして書くときに「薄靡」としてみたというところが肝なのである。つまり、出典はひとりヤマトコトバにある。
とはいえ、該当箇所が古事記にもない「薄靡」をタナビクと訓んでいいのか、平安時代の講書の生徒ではなくとも心もとなくなる。そういうことを考慮せずに日本書紀の筆録者は書き記したのであろうか。誰かに訓み方を「秘訓」という秘伝で伝えていったからそれで大丈夫だと思ったのであろうか。それは少し違う。
「薄靡」は字を追った時、「靡」はナビクと訓むことに抵抗がない。すると、「薄」でタと訓むことが期待されているらしいと思い至る。「薄」字は、ウスシ、ススキなどと訓める。「薄」という漢字のもともとの意味に、秋の七草のススキという植物名を示してはいない。「国訓」の一例である。ススキはまた、芒、薄木とも記される。どうしてススキを「薄木」という字に書くことにしたかはさておき、そう記した時、「薄」字はヤマトコトバの字音にしてススに当たる。スは万葉集では万葉仮名に「数」と書かれる。カズ(数)を書くとき、横棒を引いていた。一、二、三である。スーと横にひいて一、スースーと横に引いて二である。ススとは「数」を二本、横に引くことで、空中で手を横にスースーと二度わたらせる仕草は、ちょうど棚板が二段あるように示す仕草に同じである。秋のススキは穂をたなびかせているではないか。ここに、「薄靡」はタナビクという語義にきちんと合致した表記であると“理解”するに十分である。ススキに「薄」字を当てた理由まで述べてしまった。
こじつけではないかという批判は甘んじて受け容れる。なぜなら、そのこじつけ思考こそ、無文字時代にヤマトコトバに暮らしていた人々の「野生の思考」(レヴィ‐ストロース)だったからである。文字がないときに言葉をいかに“参照”するか。その参照システムとは、言葉は事柄と同一であり、一つの言葉は一つの概念を構成し、実際の事柄として具現しているという大原則を以て成していた。こじつけ思考が体系化していた。記紀の文脈においてそのとおりである。
一方、神田1983.は、日本書紀の一見不思議に思われる古訓29例について、その正しさを漢籍の使用例から確証している。正しさとは、よくよく考え練られてヤマトコトバとして訓むことができるようになっているという意味である。その「結語」に、「以上、余の討究せし古訓凡て二十九條を通じて窺ひ得たる所は、
一、古訓の漢土訓詁学上より見て極めて正確なること
一、古訓の一見疑はしきものも、必ず何等かの典拠に本づくものなること
一、古訓には今日古典の正統的注釈書と認めらるるものに、必ずしも依拠せざるものの多きこと
一、六朝時代より隋唐の世に亙りて、彼土に行はれしと思はるる俗語の極めて正確に訳されあること
の四点なり。」(414頁)としている。神田氏に直接の言及はないが、重要な点は、漢籍をいろいろ調べてみて、めぐりめぐって、ああ、そうか、なるほど、古訓の訓み方は尤もなことだと気づかされる、というところにある。やたらと難しい漢字の熟語を使いながら、ふだん使いのヤマトコトバを表している。漢籍の例のなかでこじつけ思考を展開させ、確かだろう、とやっている。いずれ、「野生の思考」のなせる業として古訓と呼ばれるものは成立している。残念ながら、このこじつけ思考は現代の科学的思考と相容れないため、理解の領域に含まれることが難しくなっている。
「塩(鹽)」字について
科学的思考に慣れてしまうと、漢語と和語との関係を“整理”する方向へと進んでしまう(注2)。しかし、これは、当時の状況を再現するのには誤ったアプローチである。論より証拠で、具体例に当たればわかる。奥田2016.は、古事記の中でいくつか和化された字義を担った訓み方が行われている例を挙げている。その例から、まず「塩」字について検討する。
故(かれ)、二柱の神、天の浮橋に立たし〈立を訓みて多々志(たたし)と云ふ。〉て、其の沼矛(ぬほこ)を指し下ろして画(か)きたまへば、塩こをろこをろに〈此の七字、音を以ふ。〉画き鳴(な)し〈鳴を訓みて那志(なし)と云ふ。〉て、引き上げたまふときに、其の矛の末(すゑ)より垂(しただ)り落ちたる塩、累積(かさな)りて島と成れり。是、淤能碁呂島ぞ。〈淤より以下の四字、音を以ふ。〉(故、二柱神、立訓レ立云二多々志天浮橋一而、指二‐下其沼矛以一画者、塩許々袁々呂々邇此七字以レ音画鳴訓レ鳴云二那志一而、引上時、自二其矛末一垂落塩之、累積成レ嶋、是、淤能碁呂嶋。自レ淤以下四字以レ音。)(記上)
爾くして、八十神(やそかみ)、其の菟に謂ひて云ひしく、「汝(なむぢ)が為まくは、此の海塩(うしほ)を浴(あ)み、風の吹くに当りて、高き山の尾上(をのへ)に伏せれ」といひき。故、其の菟、八十神の教(をしへ)に従ひて伏せり。爾くして、其の塩の乾くに随(まにま)に、其の身の皮、悉(ことごと)く風に吹き析(さ)かえき。(爾、八十神、謂二其菟一云、汝将レ為者、浴二此海塩一、当二風吹一而、伏二高山尾上一。故、其菟、従二八十神之教一而、伏。爾、其塩随レ乾、其身皮、悉風見二吹析一。)(記上)
漢字の字義において、塩は salt、潮は tide のことだから、上にあげた例は、本来的な漢字の字義に意味的に対応していない。とはいうものの、いわゆる借訓字(「丹寸手」…和幣の意)とは異なっていて、意味としては違うが訓みとしては同じだから、そう使ってしまったのだとされている。「本来的な字義よりも表記される和語のよみに対応する字訓へ向かおうとする意識があったのではなかろうか。そこには、表記される和語と字訓字における和訓との同一視があったと考えられる。」(31頁)という。
この議論に、漢土の字書に字義をよく検討されている一方で、ヤマトコトバの語義に関しては深慮されていない。
古典基礎語辞典の「しほ シオ【潮・汐・塩】」の項に、「解説」として、「シホには、①満ち干する海水、②食塩、という二つの意味がある。上代における①と②の表記は、『日本書紀』では、①を「潮」、②を「塩」と書き分けている(海路の神と考えられるシホツチノヲヂを「塩土老翁」「塩筒老翁」と表記する例のみが例外)。『古事記』や祝詞では、「潮」の字は一切用いず、①も②「塩」と表記する。『万葉集』では、①を「潮」と表記する例と、「塩」と表記する例とがある。ただし、②を「潮」と表記することはない。なお、シホという語形をもつ語には、①②のほかに布を染料にひたす回数、という意味のシホ(入)がある。潮の満ち干によって、海浜や岩礁などが海中に没したり、姿を現したりを繰り返す。この現象は布が染料に浸されたり、染料から出されたりの繰り返しとよく似ていることから連想して、この意が生じた可能性がある。そうであれば、染色関係のシホ(入)も潮・塩と語源が同じということになる。」(604頁、この項、北川和秀)とある。
この秀逸な解説に、我々は言葉というものに対する考え方をもう一度見直す必要があると知らされる。 ヤマトコトバにシホという言葉をカテゴライズするときのあり方についてである。この salt のことを何と言うの? という問いに、それはシホ(塩)というものだよ、という答えがある。どうしてシホと言うの? というさらなる問いに、それは tide のことをいうシホ(潮)が波打ち際の潮だまりに溜まって干上がってできたものだからだよ、と答えがある。では tide をどうしてシホというの? という重ねての問いに、それは一度や二度ではなく何回もくり返された結果できあがるものだから、the frequency of the dying と染め物用語になっているシホ(汐)のことと同じだからだよ、との答えがある。回数のことに使われるようになって「八塩折之酒」(記上)、「八塩折之紐小刀」(垂仁記)という例になっている。それがどうしてシホというの? なる更なる問いに対しては、それは salt のことをいうシホ(塩)がそうやってできるものだからだよ、という答えがある。これを延々とくり返してどうしても理解できない輩に対しては、わからぬ奴とは話しができないと言って、その言葉どおりに話してくれなくなる。ゲーデルの不完全性定理を証明しようとしているのではなく、ヤマトコトバが一つの系のなかに円環的に定位していることを悟るしか話しはできず、それはすなわち知恵の体系そのものであったからである。今日の研究にその構成を理解しようとしなければ、何ら理解していることにならないことになる。したがって、古事記のなかで用いられている「塩」という漢字の字義について詮索していることは、漢人が目にしたらどうであろうかと探っているばかりで、ヤマトの人の頭の中とは無関係な研究である(注3)。
「控」字について
故、天皇、筑紫の訶志比宮(かしひのみや)に坐(いま)して、熊曽国を撃たむとせし時に、天皇、御琴(みこと)を控(ひ)きて、建内宿禰大臣(たけうちのすくねのおほおみ)、沙庭(さには)に居て、神の命(みこと)を請ひき。……爾くして、天皇の答へて白さく、「高き地(ところ)に登りて西の方を見れば、国土(くに)見えず。唯に大き海のみ有り」とまをして、詐(いつはり)を為る神と謂(おも)ひて、御琴を押し退(そ)け、控かずして黙(もだ)し坐しき。……是に、建内宿禰大臣が白ししく、「恐し。我が天皇、猶其の大御琴を阿蘇婆勢(あそばせ)〈阿より勢に至るは音を以ふ。〉」とまをしき。爾くして、稍(やをや)く其の御琴を取り依せて、那麻那麻邇(なまなまに)〈此の五字、音を以ふ。〉控きて坐しき。(故、天皇、坐二筑紫之訶志比宮一、将レ擊二熊曾国一之時、天皇、控二御琴一而、建内宿禰大臣、居二於沙庭一、請二神之命一。……爾、天皇答白、登二高地一見二西方一者、不レ見二国土一。唯有二大海一、謂二為レ詐神一而、押二‐退御琴一、不レ控、黙坐。……於是、建内宿禰大臣白、恐。我天皇、猶阿二‐蘇‐婆‐勢其大御琴一。〈自レ阿至レ勢以レ音。〉爾、稍取二‐依其御琴一而、那摩那摩邇〈此五字以レ音。〉控坐。)(仲哀記)
奥田2016.は「控」という字を挙げている。琴を弾くこと、演奏すること、play の意味(注4)は「控」という字に漢語としてはないから「国訓」になると捉えている。
白川1995.には、「ひく〔引・曳・牽〕 四段。手で自分の方へ引き寄せる。力を入れ、抵抗を排して、自分に近づけることをいう。……ヒは甲類。」、「ひく〔弾(彈)〕 四段。絃楽器を弾奏することをいう。爪でかき引くようにして演奏する。弓を弾くこともいう。「引く」「曳く」と同源の語。ヒは甲類。」(639頁)とある。「同源」とある源たるヒクというヤマトコトバが、どのようにカテゴライズされているか見極める必要がある。上古音にヒクは[piku]という破裂音に近いものであったと考えられている。すなわち、ヤマトコトバのヒクは、擬声語、擬態語に由来する可能性が示唆される。物を牽引するとき、最初、静止摩擦力の大きさからなかなか動かないが、いったん動き始めると大した力を入れずとも引き続けることができる。その最初のインパクトの様子は、緩んでいたロープがピンと張り、ビクともしなかった物体が最後の抵抗を撥ね退けて動き出すところである。音をもって言葉であった無文字時代に、ヒクという語の出自が印象づけられるであろう(注5)。
このような擬音語・擬態語的な考えによるものとすれば、「控」という字が用いられていることに関して、太安万侶の用字はあながち誤用であるとは言えない。「控」は漢土の字書、注釈に「引也」とある点ばかり気にかけているが、荘子・外物篇に、「儒(わたくし)の金椎を以て其の頤(あご)を控(う)つ(儒以二金椎一控二其頤一)」とある。「死者の口中の珠を盗むために、顎をうち外すその音をいう擬声語である。」(白川1996.524頁)という意味である。コウ khong という音が聞こえてくる。その用法はヤマトコトバのヒクの意味とは別義であると反論されそうであるが、漢土において一字=一義=一音であることは大原則であり、同根の語と見做されて「控」一字に収まっていると考えられるであろう。本邦に、ヒク(引・曳・牽・弾)一語に収まっている点と照合するに、擬声語の「控」字を用いて楽器である琴の弦をひくことに援用することは、鳴弦の儀などが行われていたことにもかなうことで、考え落ちとしての魅力が感じられるものである。この考え落ちの傾向は、上に述べた釈日本紀の「薄靡」をタナビクと訓むことに一抹の疑いも挟まない点とよく符合する。ヤマトコトバのヒク、タナビクをどう書いたらいいかと模索していて、それぞれにうまく書けたと悦に入っているさまが目に浮かぶ。
したがって、「控」という字のヒクという訓み方を琴をヒクことにまで広げて訓んだとすることを「国訓」という分類定義に嵌めている点につき、考え方の原点に帰れば、本来ならヒクというヤマトコトバを漢字で当てるのに「控」という字を持って来たばかりであるとするのが正答である。弦楽器の弦と弓具の弦はどちらもツルであり、そのツルをひいてはじく動作がともに行われている。漢字の本来の字義と違うとする間違い探しの問題ではなく、機知の豊かさこそが語られなければならない。後に常用されるに及んでおらず、太安万侶の洒落がわからなくなってしまったというにすぎない。万葉集に戯書、戯訓の類が見られる(注6)が、ヤマトコトバをおおらかに表記している様相からは、現代のガス工事業者が「煙突」のことを「延凸」と書いて楽しんでいるのと同じことなのだと理解される。延びていって出っ張っているものがエントツである。飛鳥時代に学習指導要領などがあるわけではなく、明治期の文豪が今となっては不思議に妙なる当て字を好んでいる(注7)ことからも、現代人のものの考え方のほうの狭さを顧慮、危惧しなければならない。
「画」「走」字について
奥田2016.では、ほかに、これまでは借訓字とされていたが狭義の訓字であると判断して和化された字義を担う字の例をあげている。上掲の「指二‐下其沼矛以一画者、塩許々袁々呂々邇此七字以レ音画鳴訓レ鳴云二那志一而」部分の「「画」は、狭義の訓字として、さし入れ、掻く、といった義に解するのが、「画」の本来的な字義、および「カク」の語義に沿い、文脈的にも意が適うと考えられる。」(42頁)としている(注8)。どうしてそのような用法が本邦に、太安万侶に生まれたかについては言及がない。
漢土の「画(畫)」の、かぎる、の意には、文字を構成する線をかくことも含まれており、ひと筆で書くかぎりのことを示している。古事記の用例では、途中で水面から引きあげることなく一筆書きのようにかくことをしているという意味を表そうとして、「画(畫)」字を用いたと考えられる(注9)。説文に、「劃 錐刀を劃と曰ふ。刀に从ひ畫に从ふ。畫は亦声なり」とある。すなわち、筆で紙や木簡に字を書くことが想定されているのではなく、金属の「矛」を使っているのだから鏨で鉄剣に銘を掻き刻む際の槌打ちと削れる音、コ・コ・コ・キ・キ・キといった音に対して、海水だからコ・ヲ・ロ・コ・ヲ・ロになる、という考え落ちなのであろう。彫金で文字を刻む際に、一画を途中でとめて刃を浮かせたらきれいには仕上がらない。ヤマトコトバのカクの原義に当たれば、「掻」という字に最もわかりやすいところであり、それを個別具体的に記す際、海水を「掻」くとしたのではコヲロコヲロという音を表現することに遠いことに気づかされる。太安万侶の知恵が優っている。
また、「「走二就湯津石村一」の「走」の意味は、漢語「走」ではなく、和語「ハシル」に帰すべきものと案ぜられる。」(44頁)としている。
爾くして、其の御刀(みはかし)の前に著ける血、湯津石村に走り就きて成れる神の名は、石柝神。次に根析神。次に石筒之男神。〈三神〉(爾著二其御刀前一之血、走二‐就湯津石村一、所レ成神名、石析神、次根析神、次石筒之男神。〈三神〉)(記上)
ヤマトコトバのハシルにはほとんど同義の語としてワシルがある。実際のところ、両語がどのように違うのか不明ながら、白川1995.の「はしる」の項に、「勢いよく早く進む。「馳す」は他動詞、下二段。」(615頁)とある。スピードを出して進むことで、そのような進み方をするものに馬がある。ハスの意味を「馳」といった字を用いることは彼此ともども意味の領域を同じくしていたからであると理解される。説文に、「馳 大いに驅す也」、「驅 馬の馳す也」とある。また、「走 趨る也」、「趨 走る也」とあって互訓である。しかるに、「走」と「趨」との違いは、字に見える「芻」であると思われよう。「芻」は説文に「刈艸也」とあり、刈り草、まぐさのことである。秣(まぐさ)を持ってきてばらまき、馬を解き放てば一目散にそこへ走って行って離れず食べている。そのさまは、頸動脈を切ったときに血がどっと出て飛び散り、どこかにくっついて血糊となって離れなくなるのと同じである。したがって、「血、走二‐就湯津石村一」とあることは、「趨」の意に近いけれど馬に限定されるものではないから「走」字が選択されている。そして、この話が「十拳剣(とつかのつるぎ)」と火の神「迦具土神(かぐつちのかみ)」の話であることを前提に思えば、鉄鍛冶の様子を示していて、「著二其御刀前一之血、走二‐就湯津石村一」は熱して赤くなった剣を金床石に打った時に熱鉄の破片が飛び散ってすぐに冷えて固まりつくことを謂わんとしているものだと理解される。説文ではつづけて、「走 趨る也。夭止に从ふ。夭止は屈むる也。」とある。走るときにあげた足が屈まるからとの説明らしいが、本邦の鍛冶師の姿勢に屈まりしゃがみ、座る姿勢をとることを含み述べようとの思惑が感じられる。「走」の訓にハシルがあるから援用している、といった簡便な整理で済む事柄ではない(注10)。
鍛冶師(久保田米斎編『職人絵尽』風俗絵巻図画刊行会、大正6~7年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1014299/14をトリミング)
おわりに
以上のように、筆者は、和化された字義を担う性質の「国訓」なる囲い込みにことごとく論難してきた。それでもなお漢字の字義との違いを述べ立てたい場合には、奥田氏も言及しかけているように、すべては「国字」であると捉え返せばよいのかもしれない。漢字などはなくて、すべてはヤマトコトバを表すための国字なのであると。
ヤマトコトバにおける各語のカテゴライズの仕方と漢語のカテゴライズの仕方には共通するところが多いなか、たまに少しはずれたものがあっても特段に不思議がる必要はない。訓に紛らすということはなく、太安万侶の用字にきちんと考えめぐらされている(注11)。当時の識字能力あるかないか程度の人たちは中国人ではなく、無自覚無批判に学習指導要領の体現者に堕している学校の先生でもなかった。街に哲学者あり的な知恵ある人々によってヤマトコトバは記され始めたのであった。なぜなら、ヤマトコトバは、論理階梯を混雑させるほどに知恵ある自己定義をくり返している言葉であり、それを母語として慣れ親しんだ人たちが文字に落し込むことを企てれば、自ずとこじつけ思考に従った用字選択が起こると考えられるからである。語彙力において、その数の面ではなく質の面で、上代人は浅薄な現代人とは比べ物にならないほどゆたかなのであった。
(注)
(注1)新井白石・同文通考に、「国訓」は、「本朝ノ字詁、華言と同じからざる者有り。即ち方言也。世儒、㮣して以て乖誤と為(す)。亦通論に非ず。今定めて以て国訓と為(す)。」http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200018939/viewer/136とあり、「薄」をススキと訓じているような例をあげている。「凡例」に、「○国字トイフハ、本朝ニテ造レル、異朝ノ字書ニ見へヌヲイフ、故ニ其訓ノミアリテ、其音ナシ、○国訓トイフハ、漢字ノ中、本朝ニテ用ヒキタル義訓、彼国 ノ字書ニ見へシ所ニ異ナルアリ、今コレヲ定メテ、国訓トハ云フ也」とある点は、「もとより、ここで国字や国訓の定義が、中国の字書に見えるか否かを基準にしているのは、現実的な方策を述べているものであって、理論的にいえば、隙のあるものである。」(高橋2000.325頁)である。
(注2)整理、分類のために「字訓字」という用語まで持ち出されている。用語の定義は行われていない。佐野2020.によれば、「「字訓字」とは単漢字と複数の和訓からなる関係を包摂したもので、固定的な文字とことばの対応といった、いわゆる「正訓」「正字」以前の、表音に対する表語的な用法としてあるものを指す。……漢語の訓読上において複数訓が生じるという観察事実を踏まえれば、和語で訓む漢字群を対象化する必要がある。漢語を翻訳・訓読した結果としての和訓を内包した漢字が「字訓字」である。」(54頁)と説明している。「原エクリチュール」(デリダ)のようなことを謂わんとしているのであろうか。いずれにせよ分析的思考がもたらされている時点で、形式的操作(ピアジェ)が行われていたことを前提としており、具体的操作でありつづけるこじつけ思考と相容れない。どうやってヤマトコトバを文字に落し込むかが焦点であったとき、整理は行われない。交通量が多くなって事故が起こってからでなければ交通整理はなされない。
(注3)猪熊本に、「塩許々袁々呂々迩」部分の「塩」をツチクレと忌詞流に訓んでいる(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438705/9参照)が、「塩垂」は「哭」の忌詞である。勘違いであろう。
(注4)新編全集本古事記(244頁)に、仲哀記の「阿蘇婆勢(あそばせ)」は何かをなさるの意味だから「遊」字では表せないために一字一音で表記されているかと推測されている。万葉集の例に、「国見あそばし〔國見所遊〕」(万3324)と、好きなことをして楽しむ意に用いられ、歌舞音曲は日常からの解放に資するものだからアソブ、アソバスと言っていたと思われる。英語の play の意味で「猶阿二‐蘇‐婆‐勢其大御琴一。」と言っていないと言い切れるのか、「日八日夜八夜以、遊也。」(記上)という例からして筆者には断定できない。なお、漢語の「遊」字には楽器を演奏する意味、play の意味はない。これも「国訓」ということになるが、漢土においては「遊」字は稀で、「游」字をよく用いる点も含めて検討されなければならない。後考を俟つ。
(注5)筆者は、ヒクという語の語源を定める仕事をしているわけではない。上代に、ヒクという語がどのように感じ取られていたかについて述べている。こと太安万侶の気持ちになってみているというばかりである。
(注6)奥田2016.に、「構造としてある、字訓字の訓字への転換は、実際、和語でよむ行為と和語を記す行為との幾重もの反復を伴ったと思われる。その反復には、よむ要請と記す要請とが、不可分のものとして混融していた。そこには、和語でよむために字義を理解した字もあったであろう。そして一方で、和語を記す要請は、漢語にはない。我が国のみに見られる国字を創出する基盤ともなった。」(50頁)とある。筆者はこの言辞の多くに平安時代以降の人間として賛同しながらも一抹の疑問を覚える。「和語を記す行為」は、記紀万葉に現在してある。では、「和語でよむ行為」はどこにあるのか。少し遅れて見られる訓点資料に見られるということなのであろうか。テストであれ、クイズであれ、今となっては漢字の読み問題よりも書き問題のほうがはるかに難しい。どのように説明したらよいのか考えられたい。
奥田2016.の言うように、「義訓と「戯書」とは、漢語本来の字義とよみが有する意味が乖離し、かつ、一回的・非一般的に使用される訓字である典型的な義訓と、「文学的意図による用字選択の場」(蜂矢宣朗「いはゆる「戯書」について」、『境田教授喜寿記念論文集 上代の文学と言語』前田書店、一九七四年)の中で戯れの意識が認められる仮名である典型的な「戯書」との間に、義訓と「戯書」の双方の性質を併せ持つ例が存することによって連続的な様相を呈する。義訓と「戯書」の連続性は、義訓と「正訓」の連続性と同様、複合的な尺度の中で位置付けられる。」(101頁)とするのは穏当に思われるであろう。筆者はそもそも、記紀万葉に記されている文字群は、ヤマトコトバに漢字を当てたのであってその逆ではないのだから、すなわちそのことは、ヤマトコトバが書記を目的として編み出された言語ではなかったという大前提を十分に含み置かねばならないということと同じことなのだから、すべては“戯”書なのではないかとラディカルに考えているが、議論が先へ進まなくなるのでひとまず先行研究に従うことにしておく。
(注7)夏目漱石の例はよく知られている。松崎安子「言葉研究館 ことばの疑問 漱石の当て字にはどんなものがありますか」国立国語研究所https://kotobaken.jp/qa/yokuaru/qa-64/参照。
(注8)佐野2020.に、この箇所に「なぜ「掻」字を用いないのかという点が逆に問題とな」(56頁)るとしている。
(注9)「画(畫)」字部分、真福寺本では、前者は「𦘕」、後者は「書」に見える。
(注10)奥田2016.では、ほかに「読」、「骨」といった例もあげているが、すでに論じたことがあるので割愛する。「瀬」については別項とする。
(注11)有名な太安万侶の書記スローガンをきちんと受け止めなければならない。そもそもそのスローガン自体、どのように訓むのが正解なのかわからないほどに、「於レ文即難」である。
然れども、上古(いにしへ)の時、言(こと)も意(こころ)も並(とも)に朴(すなほ)にして、文(あや)を敷(ほどこ)し句(ぬひ)を構ふること、字(ふみ)に於ては即ち難し。已に訓(よみ)に因りて述べたるは、詞(ことば)心に逮(およ)ばず、全(また)く音(こゑ)を以て連ねたるは、事の趣(おもぶき)更に長し。是を以て、今、或(ある)は一句(ひとぬひ)の中に、音と訓とを交へ用ゐ、或は一事(ひとこと)の内に、全く訓を以て録(しる)せり。即ち、辞(ことば)の理(すぢ)の見え叵(がた)きは、注(しるべ)を以て明し、意の況(かたち)の解(さと)り易きは、更に注せず。亦、姓(かばね)に於て日下を玖沙訶(くさか)と謂ひ、名に於て帯の字を多羅斯(たらし)を謂ふ。如此(かく)ある類は、本の随(まにま)に改めず。
記序にあるこの文章は、ヤマトコトバを書くことの難しさを言っている。漢字を訓んで漢籍を読むことの難しさなど一言も言っていない。すべては書き問題なのである。いかなる状況下での書き問題かが理解されなくてはならない。和語による漢語の規定も、漢語による和語の規定もない、まっさらな状態であった。訓み方によって漢字を使って書き述べてみると「逮レ心」ということになると言っている。読み直してみて、どうも変だと違和感があると言っている。文字である漢字と言葉であるヤマトコトバ、それは音声言語であるが、その邂逅の時のことである。その後に漢字とヤマトコトバに結びつきが定着した段階から、その邂逅時のことを遡及して考えていくことは大きな誤りを侵しかねない。無文字文化を文字文化へと連続する前時代と捉えることが間違いであることは、算数を数学から理解、説明することができないことに似ている。
(引用・参考文献)
奥田2016. 奥田俊博『古代日本における文字表現の展開』塙書房、2016年 。(「『古事記』の表記─和化された字義をめぐって─」『萬葉』第153号、1995年3月。萬葉学会学会誌『萬葉』アーカイブhttp://manyoug.jp/memoir/1995)
神田1983. 神田喜一郎「日本書紀古訓攷證」『神田喜一郎全集 第二巻』同朋出版、昭和58年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
佐野2020. 佐野宏「奥田俊博著『古代日本における文字表現の展開』」『萬葉』第229号、令和2年3月。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
白川1996. 白川静『字通』平凡社、1996年。
新編全集本古事記 神野志隆光・山口佳紀校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
高橋2000. 高橋忠彦「国訓の構造─漢字の日本語用法について(上)─」『東京学芸大学紀要 第2部門 人文科学』第51号、2000年2月。東京学芸大学リポジトリhttp://hdl.handle.net/2309/13419
(English Summary)
It was a dystocia when ancient Japanese, Yamato-Kotoba, who had no characters, ideographically acquired the character Kanji. To reach a true understanding, we need to be present at the scene, and deductive retrospectives make the wrong decisions. In this paper, examining some examples of Kanji in Kojiki, we will notice that the previous way of thinking was beside the point.