前稿(注1)に引き続き、上代の漢字利用について検討する。万葉集は録音記録として残っているのではなく、文字記録として今日に伝わっている。そこに書かれてある漢字は、もともと表したかったヤマトコトバの語義に当てられて記されたものである。結果的に、書かれてある漢字を訓むことが、もとのヤマトコトバを再現することにつながっている。その際、一見、その漢字の字義にそぐわないのではないかと思われるものが発見される。和語の意味の広がりのままに、本来の字義とは異なりながら漢字を用いているのではないかという疑いが生まれる。奥田2016.は、古事記だけでなく万葉集においても「和化された字義を担う字の用法」があるとして、いくつか例をあげている。筆者は、その発想自体が誤りであると考えている。
「結」
「結」字は、説文に、「結 締める也、糸に从ひ吉声」とある。したがって、次のような用字例は本来の字義とは異なり、和語の守備範囲に同じムスブというから用いられているのだと考えられている。
命をし 幸(さき)く良けむと 石走(いはばし)る 垂水(たるみ)の水を 結びて飲みつ〔結飲都〕(万1142)
泊瀬川 早み早瀬を 結び上げて〔結上而〕 飽かずや妹と 問ひし君はも(万2706)
手で掬う意味は漢字の「結」字にはないから違和感が持たれている。しかし、漢字の「結」字には、締める義のほかにも、聚める義などもある。淮南子・氾論訓の「不レ結二於一跡之途一」の注に、「結、猶聚也。」とあり、また、「車軌不レ結二於千里之外一」(文子・自然篇)とあるのは、史記・孝文本紀の「故遣二使者一、冠蓋相望、結二軼於道一、以諭二朕意於単于一。」の注に、「集解韋昭曰、使車往還、故轍如レ結也。相如曰、結レ軌還レ轍。索隠鄒氏軼音逸、又音轍。漢書作レ轍。顧氏按、司馬彪云、結謂二車轍回旋錯結一之也。」とある用法に同じであろう(注2)。車の轍の跡が交わるようになっていることを言っている。筋が交差することである。線条に流れているものを一つに聚めることを「結」字に漢土に表している。
すると、水の流れを条と見てそれを聚めるのであれば、「結」字で表して確かであると言えよう。やっていることは掌を上に器状につくってスクフ(掬)ことであるが、水溜りの水をすくいあげるのではなく、水の流れを聚めている。それをムスブと言って「結」の字を用いている(注3)。古語辞典にムスブの一義として、両手の掌を一つに合わせて水をスクフこと、と記す解釈は、表面的、短絡的な解釈であったと知られよう。そして、「和語」のムスブがために万葉集に「結」字が採用されているという解釈は誤りであると理解される。紐を結(むす)ぶのと、紐を使って締(し)めるのとはヤマトコトバにニュアンスが異なり、おにぎりのことをおむすびとも言うが、掬うことそのものを表しているとは考えられない(注4)。漢語の「結」においても、締めて聚めること、聚めるために締めることを示しているかと思われ、漢語の「結」とヤマトコトバのムスブの語が表す意味領域はほとんど同じであったとも目されてくる。
「音」
音声をいう上代語には、オト・ネ・コヱの三種がある。オトははっきり聞こえる物の響きや人畜の声のことをいい、ネは人・鳥・虫などの聞く心に訴える音声のことで、楽器などの情感を含むものもいい、コヱは人や獣の発声器官による音で、音素に書き換えることの可能なものをいうのが原義とされている。そして、オトは、ネやコヱを含んだ広範囲の語であるとされている。
…… そこ故に 為むすべ知れや 音のみも〔音耳母〕 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 偲ひ行かむ ……(万196)
夏麻(なつそ)引く 海上潟(うなかみがた)の 沖つ洲に 鳥はすだけど 君は音もせず〔君者音文不為〕(万1176)(注5)
ここにあげた二例の「音」は、評判や風聞のことをいう。漢土にその意味で「音」と言わないかというとそうでもない。「徳音」や「徽音」、「音徽」といった熟語にその意がある。詩経・豳風・狼跋に、「公孫碩膚 徳音不レ瑕」、小雅・南有嘉魚之什・南山有台に、「楽只君子 徳音是茂」、詩経・大雅・思斉に、「大姒嗣二徽音一 則百斯男」、文選・王倹・◆(衣へんに貞)淵碑文に、「風儀与二秋月一斉レ明、音徽与二春雲一等レ潤、」などと、誉れの意に用いられている。名声がやまびこ、こだまのように響き渡ることである。一切経音義に、「谷響 香両反、考声云響者声之応也。孔注尚書云若レ響之応声也。説文従レ音郷声也。或作レ響或従レ言作レ響、経従レ向作レ嚮非。」(一切経音義、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1240226/252)と見える。
説文の字解では、「𨞰 国の離邑、民の封ぜらる所の郷也。嗇夫(しょくふ)の別治なり。封圻(ほうき)の内の六郷は、六卿之れを治む。𨛜に从ひ皀声」、「卿 卿は章也。六卿は、天官冢宰、地官司徒、春官宗伯、夏官司馬、秋官司寇、冬官司空。卯に从ひ皀声」、「章 楽の竟るを一章と為す。音に从ひ十に从ふ。十は数の終り也」などとあり、礼楽の届くところを郷と考えているように思われる。お触れが郷に届いて反対に貢物が都に届くことが打てば響く関係ということになろう。
すなわち、噂のことをいうオト(音)とは、評判が村々に響き渡ることを言っている。郷のことはコホリ(郡・評、コ・ホは乙類)と定められた。「評」は、徴税のために天秤秤が置かれていたことの名称であろうか。村人たちは徴税に苦しめられてな(泣・哭)く。収穫の秋にな(鳴)く虫のことは、蟋蟀(こほろぎ、コ・ホ・ロはともに乙類)である。秋に鳴く虫の総称であった。なく声のことはオトであろうし、徴税の基準、何分取るか、上田か中田か下田かといったお触れに対して郷からわきあがるオトであろう。反響音のことはオト(音)だから、評判、風聞、噂のことは「音」字で表して漢字の字義に沿っていると考えられよう。現在、噂という字が常訓であるが、説文に、「噂 聚りて語る也」とあり、カタラフことと解されてメッセージのこととは捉えなかったものか、ウハサという語は室町時代に確認されるほどに遅れて生じた語である。
「耳」
「耳」は感覚器官を表す語で、風聞の意に「耳」字を使う用法は漢土にないから、和語のミミの意味領域に引きずられて用いられているとされている。このように用いられているヤマトコトバのミミの例としては、万葉集に一例のみ知られる。
我が聞きし 耳によく似る 葦かびの 足ひく我が背 つとめ給ぶべし〔吾聞之耳尓好似葦若未乃足痛吾勢勤多扶倍思〕(万128)
原文「未」字を「末」に校異することがあり、「足のうれの」とも訓まれている。上代にミミ(耳)を風聞の意に解される例は他に見られない。別訓の可能性がある(注6)。
「乏」
数が少ないことをヤマトコトバにトモシと言うからそれに当てるのは「乏」字を当てるのは理解でき、一方、うらやましいの意味に「乏」字を当てるのは和語トモシの語義から範疇を広げた用法であり、漢字の字義にはないとされている。次にあげる上二例は漢字の字義に沿っているが、下の三例は和語に従った和化された字義なのであるという。
倉橋の 山を高みか 夜隠(ごも)りに 出で来る月の 光乏しき〔光乏寸〕(万290)
海山も 隔(へだ)たらなくに 何しかも 目言(めごと)をだにも ここだ乏しき〔幾許乏寸〕(万689)
あさもよし 紀人(きひと)乏(とも)しも〔木人乏母〕 真土山(まつちやま) 行き来と見らむ 紀人ともしも〔樹人友師母〕(万55)
島隠(がく)り 吾が漕ぎ来れば 乏しかも〔乏毳〕 大和へ上る ま熊野の船(万944)
見まく欲り 来(こ)しくも著(しる)く 吉野川 音のさやけさ 見るにともしく〔見二友敷〕(万1724)
ヤマトコトバのトモシという語には、乏しいの意味のほかに、灯火(ともしび)というように明かりを灯す意味がある。和名抄に、「照射〈蹤血附〉 続捜神記に云はく、聶支少き時、家貧しく常に照射をし、一白鹿を見、之れを射中てつ。明晨、蹤血〈今案ふるに、俗に照射は土毛之(ともし)、蹤血は波加利(はかり)と云ふとかんがふ〉を尋ぬといふ。」とある。辺りが暗いなか松明を焚いて狩りに出かけていた。そして、獲物を射当てた次の朝に明るくなってから、血痕をたどって白鹿が力尽きて息絶えているのを求め獲ている。この逸話が選択的に和名抄に引かれているのには訳がある。トモシとハカリという二つのヤマトコトバには関連があることが悟られるからである。血の滴り落ちた跡をつけていくように、たどって行ってたずねもとめることは、ヤマトコトバにトム(尋・覓・求)である。
射ゆ鹿(しし)を 認(つな)ぐ川辺の 和草(にこぐさ)の 身の若かへに さ寝し児らはも(万3874)
夜(よ)ぐたちに 寝覚めて居れば 川瀬尋(と)め 心もしのに 鳴く千鳥かも(万4146)
ヤマトコトバのトモシ(乏)は、そのトム(尋・覓・求)と同根の言葉である。和名抄の説明に、幼少期の聶支は、照射(ともし)で夜の狩りを行って、翌朝にトム(尋・覓・求)ことをしていたと例示されている。手掛かりはトモシ(乏)いけれど、わずかな血痕(はかり)を認(つな)いで行ってだんだんと血痕の間隔が短く新しくなり、獲物は近いぞと計ることができてたどり着いている。乏しい手掛かりを何とか認(つな)いでトムことをしていけば、最終的に獲物を認(みと)めることができるということである。トモシという語が、「乏」の意味でもあり、「照射」の意味でもある点について、なるほど納得の語義説明である。
弓を射ることは、狩りばかりでなく射芸にも盛んに行われた。その時には危険を回避するために、的の周りにも流れ矢が飛ばないように防護のための工夫がなされていた。ヤマガタ(山形)、ヤフセキ(矢防)と呼ばれている。和名抄に、「皮〈山形附〉 周礼に云はく、卿射の礼の五物の其の三に皮を曰ふ也といふ。本朝式に云はく、山形〈夜万賀太(やまがた)〉は侯(まと)の後ろ四つ許りに、紺の布を大に張り矢を禦ぐ者也といふ。為に旍を執る者を護り矢を禦ぐ也。〈此の間に、末止万宇之(まとまうし)と云ふ。〉」、「射乏〈司旍附〉 文選東京賦注に云はく、乏〈今案ふるに、即ち射乏也、但し射乏、和名は夜布世岐(やふせき)とかむがふ〉は革を以て之れを為(つく)り、旍者の矢を禦(ふせ)ぐを護り執る也といふ。司旍〈此の間に末止万宇之(まとまうし)と云ふ〉は旍を執り文(しる)す司、射て中(あた)るとき当に之れを挙ぐべしといふ。」とある。
「乏」字は射乏のことで、流れ矢を防ぐために、的の周囲に立てた衝立や革を張った防御幕のことを言っている。前項に「山形」と呼ばれていたものと機能は同じである。紺の布製の幕が用いられている。内裏式に、「侯の後(しりへ)四許丈に山形を張る。〈紺の布を以て之れを為す。〉侯の辺に乏(ともし)を設く。〈乏、矢を避くる所以に、板を以て之れを為す。〉」と実施されている。的(侯)の周辺に乏があり、それらの裏側に山形があるところからして、ウラヤマシに対応する字であることがわかる。戦陣を設けるときには防御のために裏山を背にして陣を張った。だから、的外れの矢については裏山が防御の役目を担っていることになっていて、ヤマガタ(山形)と呼ばれるようになったと考えられる。
この考えは仁徳記の黒日売説話に反映されており、「山形に 撒ける青菜も 吉備人と 共にし摘めば 楽しくもあるか」(記54)歌に結実している。地の文では「菘(菜)」と記され、タカナとも訓まれるが、アヲナと訓むべき「菘藍(スウラン)」のことで、藍を採るアブラナ科の二年草、「大青(タイセイ)」のことと思われる。青く染める染材で、山形にした紺の布はその成った物であろう。美しい色だから、ウラヤマシい意に当たって正しいと知れる(注7)。
「乏」(山形)(年中行事絵巻写、国会図書館デジタルコレクション、https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541042/4~5をトリミング接合)
ヤマトコトバは複雑に織り上げられたテクスチャーである。近代に catalog を型録と訳した例が知られるが、外国語をどう書くかの熟考の跡である。上代の課題は母語であるヤマトコトバをどう書くかであった。字が先にあってどう訓むかが問われていたのではなく、ヤマトコトバが先にあってどう書くか想いを巡らせていた。
「空」
「空」は字義は、sky である。万葉集ではそれ以外に、用例の上三例は不安定な心地、下三例は不安定な状態を表すために用いられている。
彦星は 織女(たなばたつめ)と 天地の 別れし時ゆ いなうしろ 川に向き立ち 思ふそら〔思空〕 安けなくに 嘆くそら〔嘆空〕 安けなくに 青波に …… (万1520)
…… 玉桙の 道をた遠み 思ふそら〔思空〕 安けなくに 嘆くそら〔嘆虚〕 苦しきものを み空行く〔水空徃〕 雲にもがも ……(万534)(注8)
…… あしひきの 山のたをりに 立つ雲を よそのみ見つつ 嘆くそら〔嘆蘇良〕 安けなくに 思ふそら〔念蘇良〕 苦しきものを ……(万4169)
た廻り 行箕の里に 妹を置きて 心空にあり〔心空在〕 地は踏めども(万2541)
吾妹子(わぎもこ)が 夜戸出(よとで)の姿 見てしより 心空なり〔情空有〕 地(つち)は踏めども(万2950)
立ちて居て たどきも知らず 我が心 天つ空なり〔天津空有〕 地は踏めども(万2887)
上三例は多く下に打消表現を伴って用いられる。下三例は、古典基礎語辞典では「空なり」の形で形容動詞として扱っている。これらは、「空」字の漢土における用法に見られないから、和語ソラの意味領域の広さに起因して和化された字義を担うことになっているとする。白川1995.も、国語独自の表現で、漢字なら「気」と使うところと考えている(注9)。不安定な状態を表す例は、岩波古語辞典に、「《何もない空間の意から》うわのそらであること。そぞろであること。」(750頁)の意と解している。
漢土において「空」という字が不安定な心地や不安定な状態を表すことが絶対になかったかといえば、そうとも言えない。仏典に見られる「空」の用法である。「空」とは、「もろもろの事物は因縁によって生じたものであって、固定的実体がないということ。」(佛教語大辞典278頁)である。解説に、「原始仏教時代からこの考えはあったが、特に大乗仏教において、般若経系統の思想の根本とされるようになった。大別して、人空と法空とに分ける。人空(生空・我空ともいう)は、人間の自己の中の実体として自我などはないとする立場であり、法空は、存在するものは、すべて因縁によって生じたものであるから、実体としての自我はないとする立場である。すべての現象は、固定的実体がないという意味で、空(欠如している、存在しない)である。したがって、空は、固定的実体のないことを因果関係の側面から捉えた縁起と同じことをさす。」(279頁)とある。実体が固定的であるとは思われないことをソラと言っていて「空」と書いて誤りでない。
この考えが仮に正しいとしたとき、このソラという語が、ヤマトコトバに本来有していたものか、それとも仏教の影響下に生まれたいわゆる和訓であるか、といった別次元の問題が生じる。もとより真偽の確証は得られないものの、諳んじることをソラニスと言っていた。記憶からばかり暗誦している稗田阿礼の仕業には実体がない。そんな「空」に実体を与えようとしたのが太安万侶の書記活動であったわけであるが、稗田阿礼の暗誦は、何べん話させてもまったく同じことを言う誦習であった。何をくり返し話していたか。譚、すなわち、すべての物事の“縁起”である。仏教語に鏡のごとくである。地名の由来まで「訛(よこなま)れる」こととして話してくれている(注10)。
すなわち、言葉において諳(そら)にすることが意識されたのは、無文字で充足していたヤマトコトバが、書記される対象になると俄かに発見されたことに依っている。和訓であると考えて間違いあるまい。
「竟」「尽(盡)」
船が停泊することについて、ヤマトコトバにハツという。「泊」字が用いられる(万151・274等)のは字義にかなっているが、「竟」、「尽(盡)」字は和語によるものであるとされている。
大御船 竟(は)ててさもらふ〔竟而佐守布〕 高島の 三尾(みを)の勝野(かつの)の 渚し思ほゆ(万1171)
秋雑歌 七夕
天の川 水障(さ)へて照る 舟竟(は)てて 舟なる人は 妹と見えきや〔天漢水左閇而照舟竟舟人妹等所見寸哉〕(万1996)
「竟」字は、礼記・曲礼上に、「入レ竟而問レ禁、」とあり、疏に、「竟 界首也」、また、「竟 彊首也」とある。「竟」という字は、境のことも意味し、境界に強首に当たるものがあったとされるのである。つまりは、引き抜けない杭が打ち込まれて境界標になっていた。そんな杭が船に乗って行くところと輿に乗って行く、または徒歩で行くところの間にあるとしたら、船をつなぎ留めておく杭、戕牁(かし)のことを言っていると悟ることができる。戕牁に船の纜(ともづな)をかけて流されないようにしている。もやい杭のことである。だから、船の係留のことをいうヤマトコトバのハツに「竟」という字を当てている。
有明海の“座礁”させて楽しむ潮干狩り(佐賀空港沖、中尾賢一「地層からみた干潟環境」徳島県立博物館文化の森ホームページhttps://museum.bunmori.tokushima.jp/cc/63.htm)
瀬田川のもやい船(石山寺縁起模本、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0019204をトリミング)
下に示す万葉集の例でも「戕牁(かし)〔可志〕」(万1190)という語が出てきていて確かである。このことは、実は船の停泊形態として意味が深い。古代の船の停泊には、二つの形態があったと考えられている。一つは、ラグーンを停泊地として潮が引いたら船体が陸揚げされた状態になるものである。次の満潮まで綱を用いることなどなく絶対に流されることはない。周りに水がないからである。もう一つは、岸壁などに浮かせたまま係留するものである。海に出る大型船は前者の方が安定的に停泊させることができた。なぜなら、岸壁に船体が打ちつけられて損傷を起こすリスクがないからである。流れの緩やかな河川の渡し船のような場合、戕牁、もやい杭につないで浮かせて置き、使いたくなった時にいつでも船を出せるようにしていたと考えられる。「竟」字が用いられている万1171番歌の例は、後者のやり方だとわかる。「さもらふ」は様子をうかがいながら機を待つことである。係留して待機し、時化(しけ)や潮流のはやい時間帯の過ぎやった。
万1996番歌は、七夕歌として難解である。別訓もある(注11)。ここでは、このように訓んで、天の川の水の流れるのを遮って(星の光を目立たなくして)照っている月読壮士(つくよみをとこ)が漕ぐ月の舟が泊ってしまって(地平線に没して暗くなって)、舟に乗っていた人(牽牛)はフィアンセ(織女)のことだと見えているのかな、という意と解しておく。仮にそうしたとき、「竟」字は川船に見立てているから戕牁のことが思い浮かぶし、月明かりが消えて月の一日が終っているから「竟」字が用いられているとも、月が天を渡りきっているから「竟天」、天の一方から他の一方に達することの意にもとれる。史記・秦始皇紀に、「九年、彗星見。或竟レ天。」とある。
すなわち、漢字の字義を悟って「竟」字が選択されているのであり、和語経由に解釈し直して万葉歌の表記に用いたと考えることは誤りである。
舟尽(は)てて〔舟盡〕 戕牁(かし)振り立てて 廬(いほり)せむ 名児江(なごえ)の浜辺 過ぎかてぬかも(万1190)
尽(盡)字は、説文に、「盡 器中の空也。皿に从ひ㶳声」とある。器の中が空になることを言うとしている。一般的に、器は丸い。その丸いものが無くなることを「盡」というのであれば、願ったりかなったりのものが一つ思い浮かぶ。月である。月(つき、キは乙類)は影が尽きるものだからそう呼んでいて得心が得られている。月が尽きるのが晦(つごもり)である。舟がその機能を果たさなくなる時、それは、水上を進むことがなくなるとき、停泊したときである。月がその機能を果たさなくなる時は、明るく輝かなくなるとき、晦のときである。両者は符合、対称することだと思い及んで「尽(盡)」字で表したということになる。ラグーン停泊形態が日常的だったから、潮の満ち干にかかる月の状態はとみに密接に感じられていたことであろう。
何を思ってそうしたかは、歌の設定が「なごえ」というところのことだからである。夏越(なごし)の祓を行うのは、六月三十日の晦である。歌意は、舟を停泊させてもやい杭をしっかりと打ち付けてそこにつないでおき、陸に上がって廬を作って籠ろう。場所はナゴエという浜辺だから、お祓いをしないと通過することはできないだろうから、というものである。諒闇の儀にまで及んで潔斎しようというのである。巻九の「羇旅(たび)にして作る歌九十首」の一つである。地名をはじめて聞いて言葉に連想を広げて歌が歌われている。歌意が理解されれば、六月から七月への月替わり、夏から秋への行事のことを言っていると気づくことができ、月の尽きること、月の舟が見えなくなることを表すために的確な用字として選ばれているとわかる。和語の意味の守備範囲から用いられるに至った用字ではない。
まとめ
以上から、奥田氏の指摘した「和化された字義を担う字の用法」(万葉集篇)は、ことごとくその考えの設定に間違いがあることが検証された。前稿(注1)と併せ、「和化された字義を担う字の用法」という発想は、古事記・万葉集において認めがたいことが論証され、氏の論拠は覆された。論拠が成り立たないことは、結論の無意味さに同じである。「和語を漢字によって表記する要求が先行していたのであり、本来的な字義との対応関係を厳密にするという意識はむしろ希薄であったと考えられる。」(64頁)とあるが、この言説の無意味さとは、この言説がナンセンスであるということである。「和語を漢字によって表記する要求が先行していた」とか後行していたとかいった問題ではなく、「和語を漢字によって表記する要求」しかなかった。そしてまた、「本来的な字義との対応関係を厳密にするという意識はむしろ希薄であった」のではなく、ヤマトコトバの「本来的な」語義をその使用のなかに深く考え突き詰めたがために、その「対応関係を厳密にするという意識」が冴えわたっていて、一生懸命当てはまる「漢字」を探したのであった。軸足を置いていたのは母語であるヤマトコトバの語義であり、その深奥にかなう記号として「漢字」が求められていた。
ヤマトコトバを無文字に使っていた人が、漢字という文字を知ってヤマトコトバを記そうと漢字をチョイスしているだけなのである。逆の要素、書かれている漢字、すなわち、漢籍をヤマトコトバに訓むことは、そのとき求められていない、より正確には、求めていない。一字一音(より正確には一音一字)に書き記した箇所が、古事記にも万葉集にも多く見られる。ヤマトコトバの音を字に変換している。それはつまり、ヤマトコトバの言葉を漢字に変換しているのである。漢字をヤマトコトバの言葉に変換しているのではない。外国語学習など視野にない。なぜなら、言語としてのヤマトコトバは必要にして十分であり、他の言語を学ぶには及ばないからである。本当なら、書記の必要もなくて、稗田阿礼や額田王のように暗誦をもってすべてをコミュニケーションとするに足りている。それが飛鳥時代までの言語形態であり、訓読のための訓読はそれ以降になって、新しい言語観のもとにはじめて行われたものである(注12)。
(注)
(注1)拙稿「古事記において漢字字義とずれるかにみえる用字選択の賢さについて─「塩」「控」「画」「走」を中心に─」。
(注2)玉篇に、「結 吉姪反。尚書結レ怨二于民一、孔安国曰、与レ民結レ怨也。毛詩心如レ結兮、伝曰言執レ義一則用レ心固也、左氏伝使二陰里一結之、杜預曰結成也、又曰衣有二襘帯一有レ結、杜預曰結也、又曰成而不レ結、杜預曰不レ結国固也、又曰始レ結陳レ好、野王案結猶レ搆也、楚辞結三余軫二於西山一、王逸曰結旋也、淮南君子行斯手二其所一レ結、許叔重曰結要也、呂氏春秋車不レ結レ軓[軌カ]、高誘曰結交也、説文結締也、広雅結詘也。」と見える。
(注3)万葉集では仮名書きにムスビと記された歌もある。
白玉の 五百(いほ)つ集ひを 手に結び〔手尓牟須妣〕 遺(おこ)せむ海人は むがしくもあるか(万4105)
「白玉の五百つ集ひ」とは、白玉五百個ほどの集まっている様子である。それを「手に結び遺せむ」と言っている。仮に、ムスブという語が手で掬うことを逐語的に表すのであれば、「手に」と冠する必要はないはずであるが、手以外でも掬うこと、例えば「海人」がタモ網などを使って掬いあげることはムスブとは言わないであろう。この歌の眼目は、海人が手に結び起すことの興趣、ムガシ、美徳であることを歌わんとしている。なぜなら、海人は危険な重労働を冒しながら文句ひとつ言わず白玉をたくさん届けてよこし、その名が知られることさえない。新撰字鏡に、「匊 居六反、両手也、四指也、手中也、掬字也、牟須不(むすぶ)」とある点は、解釈の参考とするに十分である。ムスブ(匊)の説明に、「両手也」、「手中也」とあるばかりか、「四指也」と記されている。四番目の指は今の薬指のことであるが、上代に、ナナシノオユビと呼ばれていた。和名抄に、「無名指 孟子に云はく、無名指〈奈々之乃於与比(ななしのおよび)〉といふ。野王案に第四指也とす。」とある。掌で器を作る仕草がどうして「四指」なのかは俄かに解しがたいが、万4105番歌の歌意はそのとおりであろう。
(注4)童謡に、「結んで、開いて、手を打って、結んで、……」とある。片手ずつグーの手にすると思われる。
(注5)この例は、音沙汰、おとずれ、たよりのことをいう。ヤマトコトバのオトヅレ(訪)は、オト(音)+ツレ(連)の意と考えられており、「音」字を用いることに違和はない。
(注6)拙稿「石川女郎と大伴田主の歌合戦について─「みやびを」論争を超えるために─」参照。
(注7)拙稿「仁徳記、黒日売説話について」参照。
(注8)「思ふそら〔思空〕」「嘆くそら〔嘆虚〕」が字義の転化、「み空行く〔水空徃〕」は「空」の本来の字義にかなうものと位置づけられている。
(注9)白川1995.442頁。
(注10)語素として「空耳」「空言」「空頼め」、接頭語として「空嘯く」「空恐ろしい」などと展開したところは、「実」に対する「虚」の意味から質を伴わない、表向きだけであるからと説明されている(日本国語大辞典第二版⑧507頁)が、耳がなまっていて聞こえる音、口がなまっていて喋ること、恐怖感の見極めが訛っていてわからないほどに恐ろしい、といった説明のほうが馴染むものと考える。
(注11)代表的な訓に、「天の川 水さへに照る 舟竟(は)てて 舟なる人は 妹と見えきや」、「天の川 水底(みなそこ)さへに 照らす舟 竟(は)てて舟人 妹に見えきや」などがある。
(注12)このことは、実は現代においても多くの課題を孕んでいる。現代人はコンプライアンス、エビデンス、ログインパスワードなどといった外来語に翻弄、困惑されているが、これまでも社会言語学に指摘されてきたように、導入者によるまやかしであることが第一の問題である。と同時に第二の問題として、よくわからないようにするのが恰好いいと思う心情を持ち合わせている点である。生半可に学校で勉強してしまったことが汚点となっている。その格好いいと思う先頭に、官僚や学者や経営者やそのお先棒を担ぐクリエーターやコメンテーターなる人たちがいて、外来語のカタカナ語が押し付けられている。そんなことを飛鳥時代の人はしなかったが、漢籍を読むと新しいかに見える知識が手に入ったがための副産物として行われ始めたようである。したがって、そちら側を志向している限りにおいて、稗田阿礼や額田王の言っていることなど理解することはできないと言える。思考の指向方向が異なる。子どもを含めて広く一般に口頭で説明できて理解される内容、事柄、仕方に値するものこそ、記紀万葉の題材であろう。伝え得るもののみを伝えて伝わり得たもののみ記紀万葉として今日読むことができている。文字の指向する秘匿性と無文字の指向する公開性とは対照的なものである。
(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』岩波書店、1974年。
奥田2016. 奥田俊博『古代日本における文字表現の展開』塙書房、2016年 。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
日本国語大辞典第二版⑧ 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞書編集部編『日本国語大辞典 第二版 第八巻』小学館、2001年。
佛教語大辞典 中村元『佛教語大辞典 縮刷版』東京書籍、昭和56年。
(English Summary)
It was a dystocia when ancient Japanese, Yamato-Kotoba, who had no characters, ideographically acquired the character Kanji. To reach a true understanding, we need to be present at the scene, and deductive reasoning makes the wrong conclusions. In this paper, examining some examples of Kanji in Manyosyu, as with Kojiki, we will notice that the previous way of thinking was beside the point.
「結」
「結」字は、説文に、「結 締める也、糸に从ひ吉声」とある。したがって、次のような用字例は本来の字義とは異なり、和語の守備範囲に同じムスブというから用いられているのだと考えられている。
命をし 幸(さき)く良けむと 石走(いはばし)る 垂水(たるみ)の水を 結びて飲みつ〔結飲都〕(万1142)
泊瀬川 早み早瀬を 結び上げて〔結上而〕 飽かずや妹と 問ひし君はも(万2706)
手で掬う意味は漢字の「結」字にはないから違和感が持たれている。しかし、漢字の「結」字には、締める義のほかにも、聚める義などもある。淮南子・氾論訓の「不レ結二於一跡之途一」の注に、「結、猶聚也。」とあり、また、「車軌不レ結二於千里之外一」(文子・自然篇)とあるのは、史記・孝文本紀の「故遣二使者一、冠蓋相望、結二軼於道一、以諭二朕意於単于一。」の注に、「集解韋昭曰、使車往還、故轍如レ結也。相如曰、結レ軌還レ轍。索隠鄒氏軼音逸、又音轍。漢書作レ轍。顧氏按、司馬彪云、結謂二車轍回旋錯結一之也。」とある用法に同じであろう(注2)。車の轍の跡が交わるようになっていることを言っている。筋が交差することである。線条に流れているものを一つに聚めることを「結」字に漢土に表している。
すると、水の流れを条と見てそれを聚めるのであれば、「結」字で表して確かであると言えよう。やっていることは掌を上に器状につくってスクフ(掬)ことであるが、水溜りの水をすくいあげるのではなく、水の流れを聚めている。それをムスブと言って「結」の字を用いている(注3)。古語辞典にムスブの一義として、両手の掌を一つに合わせて水をスクフこと、と記す解釈は、表面的、短絡的な解釈であったと知られよう。そして、「和語」のムスブがために万葉集に「結」字が採用されているという解釈は誤りであると理解される。紐を結(むす)ぶのと、紐を使って締(し)めるのとはヤマトコトバにニュアンスが異なり、おにぎりのことをおむすびとも言うが、掬うことそのものを表しているとは考えられない(注4)。漢語の「結」においても、締めて聚めること、聚めるために締めることを示しているかと思われ、漢語の「結」とヤマトコトバのムスブの語が表す意味領域はほとんど同じであったとも目されてくる。
「音」
音声をいう上代語には、オト・ネ・コヱの三種がある。オトははっきり聞こえる物の響きや人畜の声のことをいい、ネは人・鳥・虫などの聞く心に訴える音声のことで、楽器などの情感を含むものもいい、コヱは人や獣の発声器官による音で、音素に書き換えることの可能なものをいうのが原義とされている。そして、オトは、ネやコヱを含んだ広範囲の語であるとされている。
…… そこ故に 為むすべ知れや 音のみも〔音耳母〕 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 偲ひ行かむ ……(万196)
夏麻(なつそ)引く 海上潟(うなかみがた)の 沖つ洲に 鳥はすだけど 君は音もせず〔君者音文不為〕(万1176)(注5)
ここにあげた二例の「音」は、評判や風聞のことをいう。漢土にその意味で「音」と言わないかというとそうでもない。「徳音」や「徽音」、「音徽」といった熟語にその意がある。詩経・豳風・狼跋に、「公孫碩膚 徳音不レ瑕」、小雅・南有嘉魚之什・南山有台に、「楽只君子 徳音是茂」、詩経・大雅・思斉に、「大姒嗣二徽音一 則百斯男」、文選・王倹・◆(衣へんに貞)淵碑文に、「風儀与二秋月一斉レ明、音徽与二春雲一等レ潤、」などと、誉れの意に用いられている。名声がやまびこ、こだまのように響き渡ることである。一切経音義に、「谷響 香両反、考声云響者声之応也。孔注尚書云若レ響之応声也。説文従レ音郷声也。或作レ響或従レ言作レ響、経従レ向作レ嚮非。」(一切経音義、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1240226/252)と見える。
説文の字解では、「𨞰 国の離邑、民の封ぜらる所の郷也。嗇夫(しょくふ)の別治なり。封圻(ほうき)の内の六郷は、六卿之れを治む。𨛜に从ひ皀声」、「卿 卿は章也。六卿は、天官冢宰、地官司徒、春官宗伯、夏官司馬、秋官司寇、冬官司空。卯に从ひ皀声」、「章 楽の竟るを一章と為す。音に从ひ十に从ふ。十は数の終り也」などとあり、礼楽の届くところを郷と考えているように思われる。お触れが郷に届いて反対に貢物が都に届くことが打てば響く関係ということになろう。
すなわち、噂のことをいうオト(音)とは、評判が村々に響き渡ることを言っている。郷のことはコホリ(郡・評、コ・ホは乙類)と定められた。「評」は、徴税のために天秤秤が置かれていたことの名称であろうか。村人たちは徴税に苦しめられてな(泣・哭)く。収穫の秋にな(鳴)く虫のことは、蟋蟀(こほろぎ、コ・ホ・ロはともに乙類)である。秋に鳴く虫の総称であった。なく声のことはオトであろうし、徴税の基準、何分取るか、上田か中田か下田かといったお触れに対して郷からわきあがるオトであろう。反響音のことはオト(音)だから、評判、風聞、噂のことは「音」字で表して漢字の字義に沿っていると考えられよう。現在、噂という字が常訓であるが、説文に、「噂 聚りて語る也」とあり、カタラフことと解されてメッセージのこととは捉えなかったものか、ウハサという語は室町時代に確認されるほどに遅れて生じた語である。
「耳」
「耳」は感覚器官を表す語で、風聞の意に「耳」字を使う用法は漢土にないから、和語のミミの意味領域に引きずられて用いられているとされている。このように用いられているヤマトコトバのミミの例としては、万葉集に一例のみ知られる。
我が聞きし 耳によく似る 葦かびの 足ひく我が背 つとめ給ぶべし〔吾聞之耳尓好似葦若未乃足痛吾勢勤多扶倍思〕(万128)
原文「未」字を「末」に校異することがあり、「足のうれの」とも訓まれている。上代にミミ(耳)を風聞の意に解される例は他に見られない。別訓の可能性がある(注6)。
「乏」
数が少ないことをヤマトコトバにトモシと言うからそれに当てるのは「乏」字を当てるのは理解でき、一方、うらやましいの意味に「乏」字を当てるのは和語トモシの語義から範疇を広げた用法であり、漢字の字義にはないとされている。次にあげる上二例は漢字の字義に沿っているが、下の三例は和語に従った和化された字義なのであるという。
倉橋の 山を高みか 夜隠(ごも)りに 出で来る月の 光乏しき〔光乏寸〕(万290)
海山も 隔(へだ)たらなくに 何しかも 目言(めごと)をだにも ここだ乏しき〔幾許乏寸〕(万689)
あさもよし 紀人(きひと)乏(とも)しも〔木人乏母〕 真土山(まつちやま) 行き来と見らむ 紀人ともしも〔樹人友師母〕(万55)
島隠(がく)り 吾が漕ぎ来れば 乏しかも〔乏毳〕 大和へ上る ま熊野の船(万944)
見まく欲り 来(こ)しくも著(しる)く 吉野川 音のさやけさ 見るにともしく〔見二友敷〕(万1724)
ヤマトコトバのトモシという語には、乏しいの意味のほかに、灯火(ともしび)というように明かりを灯す意味がある。和名抄に、「照射〈蹤血附〉 続捜神記に云はく、聶支少き時、家貧しく常に照射をし、一白鹿を見、之れを射中てつ。明晨、蹤血〈今案ふるに、俗に照射は土毛之(ともし)、蹤血は波加利(はかり)と云ふとかんがふ〉を尋ぬといふ。」とある。辺りが暗いなか松明を焚いて狩りに出かけていた。そして、獲物を射当てた次の朝に明るくなってから、血痕をたどって白鹿が力尽きて息絶えているのを求め獲ている。この逸話が選択的に和名抄に引かれているのには訳がある。トモシとハカリという二つのヤマトコトバには関連があることが悟られるからである。血の滴り落ちた跡をつけていくように、たどって行ってたずねもとめることは、ヤマトコトバにトム(尋・覓・求)である。
射ゆ鹿(しし)を 認(つな)ぐ川辺の 和草(にこぐさ)の 身の若かへに さ寝し児らはも(万3874)
夜(よ)ぐたちに 寝覚めて居れば 川瀬尋(と)め 心もしのに 鳴く千鳥かも(万4146)
ヤマトコトバのトモシ(乏)は、そのトム(尋・覓・求)と同根の言葉である。和名抄の説明に、幼少期の聶支は、照射(ともし)で夜の狩りを行って、翌朝にトム(尋・覓・求)ことをしていたと例示されている。手掛かりはトモシ(乏)いけれど、わずかな血痕(はかり)を認(つな)いで行ってだんだんと血痕の間隔が短く新しくなり、獲物は近いぞと計ることができてたどり着いている。乏しい手掛かりを何とか認(つな)いでトムことをしていけば、最終的に獲物を認(みと)めることができるということである。トモシという語が、「乏」の意味でもあり、「照射」の意味でもある点について、なるほど納得の語義説明である。
弓を射ることは、狩りばかりでなく射芸にも盛んに行われた。その時には危険を回避するために、的の周りにも流れ矢が飛ばないように防護のための工夫がなされていた。ヤマガタ(山形)、ヤフセキ(矢防)と呼ばれている。和名抄に、「皮〈山形附〉 周礼に云はく、卿射の礼の五物の其の三に皮を曰ふ也といふ。本朝式に云はく、山形〈夜万賀太(やまがた)〉は侯(まと)の後ろ四つ許りに、紺の布を大に張り矢を禦ぐ者也といふ。為に旍を執る者を護り矢を禦ぐ也。〈此の間に、末止万宇之(まとまうし)と云ふ。〉」、「射乏〈司旍附〉 文選東京賦注に云はく、乏〈今案ふるに、即ち射乏也、但し射乏、和名は夜布世岐(やふせき)とかむがふ〉は革を以て之れを為(つく)り、旍者の矢を禦(ふせ)ぐを護り執る也といふ。司旍〈此の間に末止万宇之(まとまうし)と云ふ〉は旍を執り文(しる)す司、射て中(あた)るとき当に之れを挙ぐべしといふ。」とある。
「乏」字は射乏のことで、流れ矢を防ぐために、的の周囲に立てた衝立や革を張った防御幕のことを言っている。前項に「山形」と呼ばれていたものと機能は同じである。紺の布製の幕が用いられている。内裏式に、「侯の後(しりへ)四許丈に山形を張る。〈紺の布を以て之れを為す。〉侯の辺に乏(ともし)を設く。〈乏、矢を避くる所以に、板を以て之れを為す。〉」と実施されている。的(侯)の周辺に乏があり、それらの裏側に山形があるところからして、ウラヤマシに対応する字であることがわかる。戦陣を設けるときには防御のために裏山を背にして陣を張った。だから、的外れの矢については裏山が防御の役目を担っていることになっていて、ヤマガタ(山形)と呼ばれるようになったと考えられる。
この考えは仁徳記の黒日売説話に反映されており、「山形に 撒ける青菜も 吉備人と 共にし摘めば 楽しくもあるか」(記54)歌に結実している。地の文では「菘(菜)」と記され、タカナとも訓まれるが、アヲナと訓むべき「菘藍(スウラン)」のことで、藍を採るアブラナ科の二年草、「大青(タイセイ)」のことと思われる。青く染める染材で、山形にした紺の布はその成った物であろう。美しい色だから、ウラヤマシい意に当たって正しいと知れる(注7)。
「乏」(山形)(年中行事絵巻写、国会図書館デジタルコレクション、https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541042/4~5をトリミング接合)
ヤマトコトバは複雑に織り上げられたテクスチャーである。近代に catalog を型録と訳した例が知られるが、外国語をどう書くかの熟考の跡である。上代の課題は母語であるヤマトコトバをどう書くかであった。字が先にあってどう訓むかが問われていたのではなく、ヤマトコトバが先にあってどう書くか想いを巡らせていた。
「空」
「空」は字義は、sky である。万葉集ではそれ以外に、用例の上三例は不安定な心地、下三例は不安定な状態を表すために用いられている。
彦星は 織女(たなばたつめ)と 天地の 別れし時ゆ いなうしろ 川に向き立ち 思ふそら〔思空〕 安けなくに 嘆くそら〔嘆空〕 安けなくに 青波に …… (万1520)
…… 玉桙の 道をた遠み 思ふそら〔思空〕 安けなくに 嘆くそら〔嘆虚〕 苦しきものを み空行く〔水空徃〕 雲にもがも ……(万534)(注8)
…… あしひきの 山のたをりに 立つ雲を よそのみ見つつ 嘆くそら〔嘆蘇良〕 安けなくに 思ふそら〔念蘇良〕 苦しきものを ……(万4169)
た廻り 行箕の里に 妹を置きて 心空にあり〔心空在〕 地は踏めども(万2541)
吾妹子(わぎもこ)が 夜戸出(よとで)の姿 見てしより 心空なり〔情空有〕 地(つち)は踏めども(万2950)
立ちて居て たどきも知らず 我が心 天つ空なり〔天津空有〕 地は踏めども(万2887)
上三例は多く下に打消表現を伴って用いられる。下三例は、古典基礎語辞典では「空なり」の形で形容動詞として扱っている。これらは、「空」字の漢土における用法に見られないから、和語ソラの意味領域の広さに起因して和化された字義を担うことになっているとする。白川1995.も、国語独自の表現で、漢字なら「気」と使うところと考えている(注9)。不安定な状態を表す例は、岩波古語辞典に、「《何もない空間の意から》うわのそらであること。そぞろであること。」(750頁)の意と解している。
漢土において「空」という字が不安定な心地や不安定な状態を表すことが絶対になかったかといえば、そうとも言えない。仏典に見られる「空」の用法である。「空」とは、「もろもろの事物は因縁によって生じたものであって、固定的実体がないということ。」(佛教語大辞典278頁)である。解説に、「原始仏教時代からこの考えはあったが、特に大乗仏教において、般若経系統の思想の根本とされるようになった。大別して、人空と法空とに分ける。人空(生空・我空ともいう)は、人間の自己の中の実体として自我などはないとする立場であり、法空は、存在するものは、すべて因縁によって生じたものであるから、実体としての自我はないとする立場である。すべての現象は、固定的実体がないという意味で、空(欠如している、存在しない)である。したがって、空は、固定的実体のないことを因果関係の側面から捉えた縁起と同じことをさす。」(279頁)とある。実体が固定的であるとは思われないことをソラと言っていて「空」と書いて誤りでない。
この考えが仮に正しいとしたとき、このソラという語が、ヤマトコトバに本来有していたものか、それとも仏教の影響下に生まれたいわゆる和訓であるか、といった別次元の問題が生じる。もとより真偽の確証は得られないものの、諳んじることをソラニスと言っていた。記憶からばかり暗誦している稗田阿礼の仕業には実体がない。そんな「空」に実体を与えようとしたのが太安万侶の書記活動であったわけであるが、稗田阿礼の暗誦は、何べん話させてもまったく同じことを言う誦習であった。何をくり返し話していたか。譚、すなわち、すべての物事の“縁起”である。仏教語に鏡のごとくである。地名の由来まで「訛(よこなま)れる」こととして話してくれている(注10)。
すなわち、言葉において諳(そら)にすることが意識されたのは、無文字で充足していたヤマトコトバが、書記される対象になると俄かに発見されたことに依っている。和訓であると考えて間違いあるまい。
「竟」「尽(盡)」
船が停泊することについて、ヤマトコトバにハツという。「泊」字が用いられる(万151・274等)のは字義にかなっているが、「竟」、「尽(盡)」字は和語によるものであるとされている。
大御船 竟(は)ててさもらふ〔竟而佐守布〕 高島の 三尾(みを)の勝野(かつの)の 渚し思ほゆ(万1171)
秋雑歌 七夕
天の川 水障(さ)へて照る 舟竟(は)てて 舟なる人は 妹と見えきや〔天漢水左閇而照舟竟舟人妹等所見寸哉〕(万1996)
「竟」字は、礼記・曲礼上に、「入レ竟而問レ禁、」とあり、疏に、「竟 界首也」、また、「竟 彊首也」とある。「竟」という字は、境のことも意味し、境界に強首に当たるものがあったとされるのである。つまりは、引き抜けない杭が打ち込まれて境界標になっていた。そんな杭が船に乗って行くところと輿に乗って行く、または徒歩で行くところの間にあるとしたら、船をつなぎ留めておく杭、戕牁(かし)のことを言っていると悟ることができる。戕牁に船の纜(ともづな)をかけて流されないようにしている。もやい杭のことである。だから、船の係留のことをいうヤマトコトバのハツに「竟」という字を当てている。
有明海の“座礁”させて楽しむ潮干狩り(佐賀空港沖、中尾賢一「地層からみた干潟環境」徳島県立博物館文化の森ホームページhttps://museum.bunmori.tokushima.jp/cc/63.htm)
瀬田川のもやい船(石山寺縁起模本、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0019204をトリミング)
下に示す万葉集の例でも「戕牁(かし)〔可志〕」(万1190)という語が出てきていて確かである。このことは、実は船の停泊形態として意味が深い。古代の船の停泊には、二つの形態があったと考えられている。一つは、ラグーンを停泊地として潮が引いたら船体が陸揚げされた状態になるものである。次の満潮まで綱を用いることなどなく絶対に流されることはない。周りに水がないからである。もう一つは、岸壁などに浮かせたまま係留するものである。海に出る大型船は前者の方が安定的に停泊させることができた。なぜなら、岸壁に船体が打ちつけられて損傷を起こすリスクがないからである。流れの緩やかな河川の渡し船のような場合、戕牁、もやい杭につないで浮かせて置き、使いたくなった時にいつでも船を出せるようにしていたと考えられる。「竟」字が用いられている万1171番歌の例は、後者のやり方だとわかる。「さもらふ」は様子をうかがいながら機を待つことである。係留して待機し、時化(しけ)や潮流のはやい時間帯の過ぎやった。
万1996番歌は、七夕歌として難解である。別訓もある(注11)。ここでは、このように訓んで、天の川の水の流れるのを遮って(星の光を目立たなくして)照っている月読壮士(つくよみをとこ)が漕ぐ月の舟が泊ってしまって(地平線に没して暗くなって)、舟に乗っていた人(牽牛)はフィアンセ(織女)のことだと見えているのかな、という意と解しておく。仮にそうしたとき、「竟」字は川船に見立てているから戕牁のことが思い浮かぶし、月明かりが消えて月の一日が終っているから「竟」字が用いられているとも、月が天を渡りきっているから「竟天」、天の一方から他の一方に達することの意にもとれる。史記・秦始皇紀に、「九年、彗星見。或竟レ天。」とある。
すなわち、漢字の字義を悟って「竟」字が選択されているのであり、和語経由に解釈し直して万葉歌の表記に用いたと考えることは誤りである。
舟尽(は)てて〔舟盡〕 戕牁(かし)振り立てて 廬(いほり)せむ 名児江(なごえ)の浜辺 過ぎかてぬかも(万1190)
尽(盡)字は、説文に、「盡 器中の空也。皿に从ひ㶳声」とある。器の中が空になることを言うとしている。一般的に、器は丸い。その丸いものが無くなることを「盡」というのであれば、願ったりかなったりのものが一つ思い浮かぶ。月である。月(つき、キは乙類)は影が尽きるものだからそう呼んでいて得心が得られている。月が尽きるのが晦(つごもり)である。舟がその機能を果たさなくなる時、それは、水上を進むことがなくなるとき、停泊したときである。月がその機能を果たさなくなる時は、明るく輝かなくなるとき、晦のときである。両者は符合、対称することだと思い及んで「尽(盡)」字で表したということになる。ラグーン停泊形態が日常的だったから、潮の満ち干にかかる月の状態はとみに密接に感じられていたことであろう。
何を思ってそうしたかは、歌の設定が「なごえ」というところのことだからである。夏越(なごし)の祓を行うのは、六月三十日の晦である。歌意は、舟を停泊させてもやい杭をしっかりと打ち付けてそこにつないでおき、陸に上がって廬を作って籠ろう。場所はナゴエという浜辺だから、お祓いをしないと通過することはできないだろうから、というものである。諒闇の儀にまで及んで潔斎しようというのである。巻九の「羇旅(たび)にして作る歌九十首」の一つである。地名をはじめて聞いて言葉に連想を広げて歌が歌われている。歌意が理解されれば、六月から七月への月替わり、夏から秋への行事のことを言っていると気づくことができ、月の尽きること、月の舟が見えなくなることを表すために的確な用字として選ばれているとわかる。和語の意味の守備範囲から用いられるに至った用字ではない。
まとめ
以上から、奥田氏の指摘した「和化された字義を担う字の用法」(万葉集篇)は、ことごとくその考えの設定に間違いがあることが検証された。前稿(注1)と併せ、「和化された字義を担う字の用法」という発想は、古事記・万葉集において認めがたいことが論証され、氏の論拠は覆された。論拠が成り立たないことは、結論の無意味さに同じである。「和語を漢字によって表記する要求が先行していたのであり、本来的な字義との対応関係を厳密にするという意識はむしろ希薄であったと考えられる。」(64頁)とあるが、この言説の無意味さとは、この言説がナンセンスであるということである。「和語を漢字によって表記する要求が先行していた」とか後行していたとかいった問題ではなく、「和語を漢字によって表記する要求」しかなかった。そしてまた、「本来的な字義との対応関係を厳密にするという意識はむしろ希薄であった」のではなく、ヤマトコトバの「本来的な」語義をその使用のなかに深く考え突き詰めたがために、その「対応関係を厳密にするという意識」が冴えわたっていて、一生懸命当てはまる「漢字」を探したのであった。軸足を置いていたのは母語であるヤマトコトバの語義であり、その深奥にかなう記号として「漢字」が求められていた。
ヤマトコトバを無文字に使っていた人が、漢字という文字を知ってヤマトコトバを記そうと漢字をチョイスしているだけなのである。逆の要素、書かれている漢字、すなわち、漢籍をヤマトコトバに訓むことは、そのとき求められていない、より正確には、求めていない。一字一音(より正確には一音一字)に書き記した箇所が、古事記にも万葉集にも多く見られる。ヤマトコトバの音を字に変換している。それはつまり、ヤマトコトバの言葉を漢字に変換しているのである。漢字をヤマトコトバの言葉に変換しているのではない。外国語学習など視野にない。なぜなら、言語としてのヤマトコトバは必要にして十分であり、他の言語を学ぶには及ばないからである。本当なら、書記の必要もなくて、稗田阿礼や額田王のように暗誦をもってすべてをコミュニケーションとするに足りている。それが飛鳥時代までの言語形態であり、訓読のための訓読はそれ以降になって、新しい言語観のもとにはじめて行われたものである(注12)。
(注)
(注1)拙稿「古事記において漢字字義とずれるかにみえる用字選択の賢さについて─「塩」「控」「画」「走」を中心に─」。
(注2)玉篇に、「結 吉姪反。尚書結レ怨二于民一、孔安国曰、与レ民結レ怨也。毛詩心如レ結兮、伝曰言執レ義一則用レ心固也、左氏伝使二陰里一結之、杜預曰結成也、又曰衣有二襘帯一有レ結、杜預曰結也、又曰成而不レ結、杜預曰不レ結国固也、又曰始レ結陳レ好、野王案結猶レ搆也、楚辞結三余軫二於西山一、王逸曰結旋也、淮南君子行斯手二其所一レ結、許叔重曰結要也、呂氏春秋車不レ結レ軓[軌カ]、高誘曰結交也、説文結締也、広雅結詘也。」と見える。
(注3)万葉集では仮名書きにムスビと記された歌もある。
白玉の 五百(いほ)つ集ひを 手に結び〔手尓牟須妣〕 遺(おこ)せむ海人は むがしくもあるか(万4105)
「白玉の五百つ集ひ」とは、白玉五百個ほどの集まっている様子である。それを「手に結び遺せむ」と言っている。仮に、ムスブという語が手で掬うことを逐語的に表すのであれば、「手に」と冠する必要はないはずであるが、手以外でも掬うこと、例えば「海人」がタモ網などを使って掬いあげることはムスブとは言わないであろう。この歌の眼目は、海人が手に結び起すことの興趣、ムガシ、美徳であることを歌わんとしている。なぜなら、海人は危険な重労働を冒しながら文句ひとつ言わず白玉をたくさん届けてよこし、その名が知られることさえない。新撰字鏡に、「匊 居六反、両手也、四指也、手中也、掬字也、牟須不(むすぶ)」とある点は、解釈の参考とするに十分である。ムスブ(匊)の説明に、「両手也」、「手中也」とあるばかりか、「四指也」と記されている。四番目の指は今の薬指のことであるが、上代に、ナナシノオユビと呼ばれていた。和名抄に、「無名指 孟子に云はく、無名指〈奈々之乃於与比(ななしのおよび)〉といふ。野王案に第四指也とす。」とある。掌で器を作る仕草がどうして「四指」なのかは俄かに解しがたいが、万4105番歌の歌意はそのとおりであろう。
(注4)童謡に、「結んで、開いて、手を打って、結んで、……」とある。片手ずつグーの手にすると思われる。
(注5)この例は、音沙汰、おとずれ、たよりのことをいう。ヤマトコトバのオトヅレ(訪)は、オト(音)+ツレ(連)の意と考えられており、「音」字を用いることに違和はない。
(注6)拙稿「石川女郎と大伴田主の歌合戦について─「みやびを」論争を超えるために─」参照。
(注7)拙稿「仁徳記、黒日売説話について」参照。
(注8)「思ふそら〔思空〕」「嘆くそら〔嘆虚〕」が字義の転化、「み空行く〔水空徃〕」は「空」の本来の字義にかなうものと位置づけられている。
(注9)白川1995.442頁。
(注10)語素として「空耳」「空言」「空頼め」、接頭語として「空嘯く」「空恐ろしい」などと展開したところは、「実」に対する「虚」の意味から質を伴わない、表向きだけであるからと説明されている(日本国語大辞典第二版⑧507頁)が、耳がなまっていて聞こえる音、口がなまっていて喋ること、恐怖感の見極めが訛っていてわからないほどに恐ろしい、といった説明のほうが馴染むものと考える。
(注11)代表的な訓に、「天の川 水さへに照る 舟竟(は)てて 舟なる人は 妹と見えきや」、「天の川 水底(みなそこ)さへに 照らす舟 竟(は)てて舟人 妹に見えきや」などがある。
(注12)このことは、実は現代においても多くの課題を孕んでいる。現代人はコンプライアンス、エビデンス、ログインパスワードなどといった外来語に翻弄、困惑されているが、これまでも社会言語学に指摘されてきたように、導入者によるまやかしであることが第一の問題である。と同時に第二の問題として、よくわからないようにするのが恰好いいと思う心情を持ち合わせている点である。生半可に学校で勉強してしまったことが汚点となっている。その格好いいと思う先頭に、官僚や学者や経営者やそのお先棒を担ぐクリエーターやコメンテーターなる人たちがいて、外来語のカタカナ語が押し付けられている。そんなことを飛鳥時代の人はしなかったが、漢籍を読むと新しいかに見える知識が手に入ったがための副産物として行われ始めたようである。したがって、そちら側を志向している限りにおいて、稗田阿礼や額田王の言っていることなど理解することはできないと言える。思考の指向方向が異なる。子どもを含めて広く一般に口頭で説明できて理解される内容、事柄、仕方に値するものこそ、記紀万葉の題材であろう。伝え得るもののみを伝えて伝わり得たもののみ記紀万葉として今日読むことができている。文字の指向する秘匿性と無文字の指向する公開性とは対照的なものである。
(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』岩波書店、1974年。
奥田2016. 奥田俊博『古代日本における文字表現の展開』塙書房、2016年 。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
日本国語大辞典第二版⑧ 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞書編集部編『日本国語大辞典 第二版 第八巻』小学館、2001年。
佛教語大辞典 中村元『佛教語大辞典 縮刷版』東京書籍、昭和56年。
(English Summary)
It was a dystocia when ancient Japanese, Yamato-Kotoba, who had no characters, ideographically acquired the character Kanji. To reach a true understanding, we need to be present at the scene, and deductive reasoning makes the wrong conclusions. In this paper, examining some examples of Kanji in Manyosyu, as with Kojiki, we will notice that the previous way of thinking was beside the point.