古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

忌部首黒麻呂作、万葉集巻16・3848番歌を考える─「誦習」しないとはどういうことか─

2021年05月28日 | 古事記・日本書紀・万葉集
はじめに

 万葉集の研究に民俗学を持ち込もうとする立場がある。万葉民俗学と呼ばれている。太田 2019.に、柳田国男、折口信夫、櫻井満、山本健吉、池田弥三郎、上野誠らの研究姿勢がまとめられている。筆者は、それらの議論に踏み入ることを躊躇う。民俗学というものが、「民俗学」なのか「民俗」学なのか不明だからである。一般的に言えば、民俗学とは、少し前の時代の当たり前の生活についてどのようなものであったか紹介するものである。時代で言えば、昭和、大正、明治、頑張って江戸時代ぐらいまでの暮らしについてが主たる対象とされている。近代に入って前近代に当たり前だったことが当たり前でなくなったためによくわからなくなったから、それを解き明かそうとするのが民俗学である。当たり前のことというところがミソであり、当たり前のことは記録としてとどめないから聞き書きするなどしてわかるようにするという学問だというのである。今日でも語学留学というのがあり、英語圏の地に行って英語に触れ、英語ができるようになるということをしている。これが「英語学」かといえば「英語」学のような気がする。英語圏の人は当たり前に英語で話し、当たり前に英語で考え、当たり前に英語で書いている。それを自らのものにしたからと言ってはたしてそれが学問なのかといえば、少し違うであろう。このことは、万葉集の歌についても当てはまる。 万葉集の歌が理解されればそれで良い。となるとこれは、「万葉学」ではなく「万葉」学なのである。文学の研究は書かれた作品がすべてであるといったご大層なテーゼは、「文学」か「文」学かといった素朴な疑問を抱く一般人の場合、無視して構わないであろう。「万葉」学に「民俗」学を持ち込むことの是非など問うても意味がない。

万葉集巻16・3848番歌の実態

 民俗学の知見に依ろうが依らなかろうが、具体的に万葉集の歌が理解できること、それだけが本願である。太田2019.が民俗語をフィールドワークして研究対象としているのは、巻16・3848番歌である。新編全集本萬葉集(④123頁)にて訓と口訳を掲げ、原文を追補する。

  いめうちに作る歌一首
 あらきの 鹿猪田ししだの稲を 倉にげて あなひねひねし が恋ふらくは(万3848)
  右の歌一首、忌部首黒麻呂いむべのおびとくろまろ、夢の裏にこの恋歌を作りて友に贈る。おどろきて誦習しようしふせしむるに、さきごとし。

 新開しんがいの 鹿猪田ししだの稲を 倉に上げ納めて ああひねひねし─恨めしいことだ わたしの恋は
  右の歌一首は、忌部首黒麻呂いむべのおびとくろまろがこの恋の歌を作って友に贈る夢を見た。目を覚ましてからその友に幾度も誦詠しようえいさせてみたら、そのとおりであったそうだ。

  夢裏作歌一首
 荒城田乃子師田乃稲乎倉尓擧蔵而阿奈干稲々々志吾戀良久者
  右歌一首忌部首黒麻呂夢裏作此戀歌友覺而令誦習如前
 校異:「々々」は西本願寺本に「干稲」、「令」は同じく「不」。
万3848番歌写本(いずれも京都大学附属図書館蔵、京都大学貴重資料デジタルアーカイブ、左:近衛文庫本万葉集https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00008713(666/892)、中:尼崎本万葉集https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00000126(27~28/42)、右:曼殊院本万葉集https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00013506(635/849)をそれぞれトリミング)
 大系本萬葉集に、「黒麿が目覚めてから口ずさんでみたら、夢の中の歌そっくりであったとも、黒麿が夢の中で友人に贈ったところが、覚めて後その友人に読誦させてみたら、友人はこの夢の中の歌を現実に記憶していたという不思議さとも解釈できる。」(四150頁)と左注解釈のバイアスを示している。
 万葉集巻16は、「由縁有る歌、并せて雑歌」と題されてまとめられている。何か由縁あって歌となったものが集められている。この万3848番歌について、何かしら由縁があるその性質が理解されなければ、歌の内容がわかったことになっていないと考えられる。歌が歌われている内容は、その歌われている枠組みがわからなければわからないという意味である。背景という言い方があるが、図と地とをわけ隔てる額縁になるものが定まらなければ、何が歌われているか理解できない。「由縁有る歌」は、借景の庭のように見ることはできない。解釈にバイアスが生じている状況は、「由縁」たることが理解されていないのを露呈しているばかりである。枠組みと歌の内容の二つの次元でなるほどと了解される必要がある。
 左注に書いてある事の次第は、忌部首黒麻呂という人が、夢の中で歌を作ってそれを文字に書き、その書いた木簡、ないしペーパーを友のところに送りつけ、その友がびっくりしたというものであろう。左注に「覚」という字が使われているのは、その書いてあるものを「誦習」、すなわち、声に出して唱えようとした時に、「あらき田の……」という歌が再生されたのでびっくりしたということである。つまり、この歌の第一の眼目は、左注にある「覚」という一字である。夢の中に作った歌なのだから、夢から覚めてという意味と兼ねあわされて「覚」という字が使われていると考えられる。ヤマトコトバにサメルである。そしてまた、夢の中のことと現のこととの対比が、文字の中のことと声の中のことに対応している。その点を興じて、この歌は「由縁有る歌」として収められたと考えられないことはないが大しておもしろくない。
 左注の最後の「如前」の「前」が何を指すのか疑問である。通説では歌のことを指し、それが夢の中だから「前」とされていると決められているようであるが、そのような頭の中での構想、空想を期待した用字であるとは考えにくい。「如右」としない理由になっていない。「如前」は、近くではなくかなり「前」の箇所に当たると考えられる。すると、巻16に、次のような歌を繙くことができる。

  忌部首の、数種の物を詠める歌一首〈名は忘失せり〉
 枳(からたち)と 茨(うばら)刈り除(そ)け 倉建てむ 屎(くそ)遠くまれ 櫛造る刀自(とじ)(万3832)
  忌部首詠數種物歌一首〈名忘失也〉
 枳蕀原苅除曽氣倉将立屎遠麻礼櫛造刀自

 「忌部首」は忌部首黒麻呂のことかどうかは定め切れないが、仮にそうであったとしてみるとよくわかる。どうにも品のない歌である。「由縁有る歌」であるから深い意味が隠されているのかもしれないが、うんこは遠くでしろ、などと声に出して詠みあげる気にならない。同じく「倉」の歌だから、この歌が「如前」の「前」に当たるのであろう。すなわち、左注原文の校異は誤っていたのである。

  右歌一首忌部首黒麻呂夢裏作此戀歌贈友覺而誦習如前
  右の歌一首、忌部首黒麻呂(いむべのおびとくろまろ)、夢の裏に此の恋歌を作りて友に贈る。覚(さ)めて誦(よ)み習はざるは、前(さき)の如し。

 歌を贈られた友は、興ざめして声を上げて誦み習わすことをしなかった。「覚」がサメルであるとしたことがここでも確かめられる。サメル(醒)の意に当たっている。読みあげなかったのは、文字の中のことと声に出そうとすることとが違うからではなく、完全に一致しているものだとわかったからであり、それと気づいてびっくり仰天している。そのびっくり具合をよく示すのが、四句目の「干稲干稲志」という表記である。

「ひねひねし」の検討

 ヤマトコトバの形容詞「ひねひねし」については、先行する注釈書に、①古びたさま、②恨めしい、の二つの説がある。上代の文献に「ひねひねし」という言葉は孤例なので意味が定めきらないから、新編全集本のように恨めしいといった不思議な解釈も可能となっている。 方言や民俗語彙の「ひね」を取り上げて、なにほどかわかった気になり、恨めしい、という語義があると捉えている(注1)が、これはありえない。
 一句目から三句目までの 「あらき田の 鹿猪田の稲を 倉にあげて」が四句目の「ひねひねし」を導く序詞であるとされている。「ひね」という言葉が「干稲」という文字で表されているところが夢→現への結節点なのである(注2)。単に干した稲に悪いイメージは付与されない。本邦の稲作は弥生時代早期以降、水田耕作が主である。この歌に示されている原文「荒城田」=「新墾田」も水田であろう。陸稲ではない。仮にそうだとしても構わないのであるが、稲作において、稲を刈り取ったら干す。「民俗学」によらずとも、これは当たり前のことである。現代でも、天日干しによく干された稲は上等のものとして高値で取り引きされている。いかに上手く乾燥させるか、それが米生産の最後の仕事である。湿ったままだとカビが生えたりして捨てるしかなくなる。
 「干稲」は、それがどんなに古くなろうが食べることはできる。今日のヒネという言葉の使い方に、新玉ねぎとヒネの玉ねぎという使い方がある。ヒネには新玉ねぎのみずみずしさはなくとも、保存が効き、ふつうに食べている。「民俗」学をするまでもない。「ひね」は時間的経過、また、時間的に経過したものを表すと考えられる。和名抄に、「稲 唐韻に云はく、稲〈徒皓反、以祢(いね)、早晩は和世(わせ)、晩稲は比祢(ひね)〉は𥝲稲也といふ。𥻧〈音は兼、漢語抄に美之侶乃以祢(みしろのいね)と云ふ〉は青稲白米也といふ。」とある。
 秋の早い時期に収穫されるものを早稲(わせ)、遅い時期に収穫されるものを晩稲(おくて)と呼ばれるものを、ワセ─ヒネの対比であるとしている。実際にそう呼ばれていたのか、源順ばかりがその年の新米をワセ、それ以降はヒネとただ思っていたのか不明である。新米は水分が多いから、炊くときに水加減は少なめにして炊くといい。消費側の人にとっての知識としてはそればかりである。すると、米の流通において、新米はおいしいと思われて、上流階級の富裕層に需要があり、特別視されていたことは想像に難くない。季節先取り的に“旬”のものが求められることは、今日でも例えばイチゴがクリスマスに新鮮に食べられることを目指して新品種が開発されているからも窺えよう。品種としてのワセ─オクテではなく、消費者の需要面でのワセ─ヒネの対比、炊く際の水加減の違いを名として捉えたものとみることができる。米の乾燥度合いをもって分類を試みて当てはめたと考えられる。
 日葡辞書に、「Fine. ヒネ(陳・古) 一年を過ぎた古い種子.」、「Finegome. ヒネゴメ(陳米・古米) Furugome(古米)に同じ. 一年, または, 二年たった古い米.」(233頁)などとあるのは、需給のだぶつきから備蓄米のことを言うようになり、晩稲のことをオクテと“正しく”言われるようになったものかもしれない。その結果、ヒネという語が、大人びてこましゃくれていること、ひねくれることといった意味にオーバークロスしていると考えられたのではないか。用字に「干稲」とある点を広義にとらえれば、和英語林集成に記されるように、「Hine ヒ子 老(furu) Old; not new or fresh: hine-gome, old rice; tane ga hine de haenu, the seed is old and will not germinate.」(161頁)ことはあっても、それを食糧とする限り食べられるのである。炊き込みご飯にすれば、古米であることさえ気づかない。
 したがって、「ひねひねし」は、時間的にとても久しく、が本来の意であると考えられる。民俗語彙から上代語を捏造してはならない。用例の乏しい語ほど単純な理解が望ましい。では、それがなぜ恋歌かといえば、通説と異なり、恋心が保存可能なように永久不変にあり続けているよ、という意味に取れるからである。忌部首黒麻呂という人は、少し歳を重ねているのかもしれないが、恋においてはまだまだ現役であると主張している。現役ではあるが、「種がヒネで生えぬ」ことはあるかもしれない。下品な歌を書いて贈られた友は、二度びっくりということで、醒めるように目が「覚」めることになっている。そうわかるのは、これが夢の歌だからである。寝なければ夢は見ない。忌部首黒麻呂は、老いらくの恋に若い女性と寝たのであろう。それを友に言ってきている。トモ(友・伴)とは、「鵜飼(うかひ)が伴(とも)」(記14、万4011)などというように同じような身分のものをいい、フレンドの意味よりも仕事仲間の同類のことを指している。鳥に使う場合、千鳥なら千鳥、鶴なら鶴、鶯なら鶯のことである(注3)

 藤原の 大宮仕へ 生(あ)れ付くや 処女(をとめ)が友は 羨(とも)しきろかも(万53)
 草香江(くさかえ)の 入江にあさる 葦鶴(あしたづ)の あなたづたづし 友無しにして(万575)

 万575番歌の例は、万3848番歌によく似ている。「あなたづたづし」が「あなひねひねし」に対応し、「友」のことが念頭にのぼっている。トモ(友・伴)とは、二人以上であることが用件である。複数が重なるから、「たづたづ」や「ひねひね」と重なったもの言いをして楽しんでいる。そして、万575番歌で「鶴(たづ)」は「友無し」で一羽である。他のどこかにいる「鶴」とは「たづ」違いなのである。一方、万3848番歌は、「友」は忌部首黒麻呂と同じく歳を取っていたために、忌部首黒麻呂のようには若い女性と性交したりしていない。同じ「ひね」でも違うのである。忌部首黒麻呂は滅多にない「乏(とも)し(ト・モは乙類)」い人になっていて、仲間として感情を共有する人物、「友・伴(とも)」ではなくなっている。万葉集の巻16は、「由縁有る歌」の集である。

原文「倉尓擧蔵而」の訓み

 新墾田(あらきだ)の 鹿猪田(ししだ)の稲を 倉にあげて あなひねひねし 吾(あ)が恋ふらくは(荒城田乃子師田乃稲乎倉尓擧蔵而阿奈干稲々々志吾戀良久者)(万3848)
埴輪(寄棟造高床倉庫、古墳時代、藤岡市白石稲荷山古墳出土、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0010476をトリミング)
 三句目はこの訓みで正しいのであろうか。字余りである。原文「倉尓擧蔵而」は、稲を倉にしまうことの謂いである。倉の機能は、「干す・仕舞う・守る」(安藤2010.)である。乾燥を保ちながら保存、保管する。寒暖差に結露が生じてはならないし、梅雨時に蒸れを生じてもならない。害虫やカビも困れば発芽も困る。高床のようにしておくのは賢明なことで、ネズミなどの害獣の被害を免れ、盗難に遭わないように鍵をかけることも必要である。「倉に蔵(つ)みて」、「倉に蔵(をさ)めて」、「倉に蔵(かく)して」、「倉に仕舞ひて」といった訓み方も候補であることが知れるが、いずれも字余りの解消とならない。解消には、次の例が参考になる。

  内大臣藤原卿の、釆女の安見児を娶る時に作る歌一首
 吾れはもや 安見児(やすみこ)得たり 皆人の 得(え)かてにすとふ〔得難尓為云〕 安見児得たり(万95)
 梅の花 今盛りなり 思ふどち 挿頭(かざし)にしてな〔加射之尓斯弖奈〕 今盛りなり(万820)

 サ変動詞を「に為(す)と」(注4)、「に為(し)て」という形で用いている。同様に解すれば、次のようにとることができる。

 新墾田(あらきだ)の 鹿猪田(ししだ)の稲を 倉にして あなひねひねし 吾(あ)が恋ふらくは(万3848)

 「倉尓擧蔵而」で言いたいのは、高床に上げて干しながら仕舞い守ることである。「擧蔵」ということは、「倉」の機能を十全にすることを掲示している。つまり、「倉に為(す)」という言い方が行われたと考える。忌部首黒麻呂が若い女性を娶ったことの蓋然性が高くなってくる。

  夢(いめ)の裏(うち)に作る歌一首
 新墾田(あらきだ)の 鹿猪田(ししだ)の稲を 倉にして あなひねひねし 吾(あ)が恋ふらくは(万3848)
  右の歌一首、忌部首黒麻呂(いむべのおびとくろまろ)、夢の裏に此の恋歌を作りて友に贈る。覚(さ)めて誦(よ)み習はざるは、前(さき)の如し。

 (大意)新しく開墾した田で、鹿や猪が出て荒らす田に実った稲を倉に上げて干して仕舞うように、ああ久しく続くものよ、私の恋は。
 右の歌一首は、忌部首黒麻呂が夢のなかでこの恋歌を作ったと言って友に贈ってきたもので、贈られた友は驚き、声を出して読みあげられなかったのは、以前、屎の歌でそうだったのに同じである。

 高齢の彼は、若い女性陣のところへ行って“開墾”している。当然ながら、若い男たちは「鹿猪(しし)」のように荒らし回っているとしている。そんな「田」に残った晩秋の「稲」を収穫して、自分の「倉」へ仕舞ったのである。「ひねひねし」が原文「干稲干稲志」とあるように、収穫に当たってきちんと乾燥をほどこしたということであろう。「種がヒネで生えぬ」ままに囲いこんだという含みがある。歌を贈られた友は、文字面を途中まで追っていったとき、目がぱっちり見開くほどの「覚」をおぼえたに違いない。適齢期の男性を「鹿猪」に譬え、同じく女性を「新墾田」だというのである。藤原鎌足が「安見児得たり」と、相手の名をあげて尊び喜んだのとは異質である(注5)。「とも(友)」よ、「ともし」いだろうと書いてきたのであるが、「ともし」の意の、好ましく思われる、羨ましく思われるという気持ちにはならない。同類を「とも(友)」と言うのに、人間相手でなくて動植物扱いの「恋歌」を歌うならそれは人間ではなく、動植物なのである。千鳥の友が千鳥、鶴の友が鶴であったようにである。品性を欠いている。結果、「覚而不誦習」となったのであろう。

もはや「友」ではないから「誦習」しない

 古事記の序文に「誦習」という語が登場している。「時に舎人有り。姓(うぢ)は稗田、名は阿礼、年は是れ廿八。為人(ひととなり)聡明(さと)くして、目に度(はか)り、口に誦(よ)み、耳に拂(はら)ひ、心に勒(をさ)む。即ち、阿礼に勅語(みことのり)して、帝皇(すめらみこと)の日継(ひつぎ)と先代(さきつよ)の旧辞(ふること)を誦み習はしむ。(時有舎人姓稗田名阿礼年是廿八為人聡明度目誦口拂耳勒心即勅語阿礼令誦習帝皇日継及先代𦾔辞)」。稗田阿礼の「誦習」については、古来、暗誦説と訓読説を中心に議論されている(注6)。「誦口」とあるから「誦」は口に出して言うこと、唱えることであるとわかる。そして、「習」と続くのは、習慣的に同じに「誦」するからであるとわかる。もう一回言って、と頼むと、まったく同じに一字一句違わず、イントネーションもそのままに同じ調子で言ってくれる。ヤマトコトバに声に出して暗誦したことが稗田阿礼の「誦習」であったろう(注7)
 万3848番歌の「友」が「覚而不誦習」であったというのは、歌なのだから声に出して歌わなければならないところ、歌らしい雅さの欠片もなく、口にするのも憚られると「覚」ったということである。ふつうなら書いて贈られたら「誦」んでみる(注8)ものである。そうしなければ“歌”ではない。けれども途中で嫌になったからやめてしまった。「友」が以後も忌部首黒麻呂の“友”であり続けたか正確にはわからないが、親しき中にも礼儀と品位は保ちたいものである。忌部首黒麻呂には次の歌がある。

  忌部首黒麻呂恨友賖来歌一首
 山の端に いさよふ月の 出でむかと 我が待つ君が 夜は降(くた)ちつつ(万1008)
  忌部首黒麻呂恨友賖来謌一首
 山之葉尓不知世経月乃将出香常我待君之夜者更降管

 約束したのに「友」が来ないと、忌部首黒麻呂が恨み節を歌っている。深い交友の情を示すものと捉えられており、「賖」字は他に例がなく、名義抄に、「賖 音奢、オキノル、オソシ、ヒロシ、タカラ、クタレリ、ハルカナリ、ツト、トホシ、ユタカナリ、ユルシ、帯」とあることから、「遅く来るを恨む歌」と訓まれている。謝朓・和王主簿怨情詩に、「徒使春帯一レ賖」とあって、「善曰、賖、緩也。」と注されている。しかし、遅く来た時の歌ではなく、なかなか来ない、まだ来ていない時の歌である。ひょっとするともう来ないのかもしれない。大智度論・四十八に、「若聞賖字、即知諸法寂滅相、賖多秦云寂滅。」とある。「友」は煩悩の境地を離れて黒麻呂とはもう付き合わない気でいて来ることはないであろう。名義抄のオキノルは、代金をその場で支払わずに掛けで酒などを買うことをいうように、「賖」字は「除」に通じてオク(置・措)の意で選択されていると考えられる。一切経音義に、「賄賂 上音晦、下音路、韻詮云、賖帛也」とあり、「賖」は「除」に通じるとされている。「忌部首黒麻呂、友の、来るを賖(お)くを恨む歌一首(忌部首黒麻呂、恨友賖一レ来謌一首)」と訓んでおく(注9)
 「誦習」とは口に出して言葉にすることである。言葉にするとは事柄にすることと同じである。言=事であると考えるのが無文字時代に生きた人々の、言霊信仰の本来の姿である。言葉にしないとは事柄にしないこと、世の中にないことにすること、人でなしとは付き合わないことを態度として明瞭にすることである。その消息を伝えるのが万3848番歌であった(注10)

(注)
(注1)太田2019.による論考は、「ひねひねし」の語義について、方言などの事例をたくさんあげて、新編全集本萬葉集の解釈に対して検討を加えている。
(注2)「忌部首黒麻呂、夢裏作此恋歌友」について、黒麻呂が夢の中で友人に歌を贈ったという、夢の交感のようなことは考えにくい。古代の夢に関する考え方は今日のそれと違ってはかりしれないが、それを疑うのではなく、題詞と左注の関係として難がある。題詞は、「夢裏作歌一首」と簡潔である。夢の中で歌を贈ったとするのであれば、それが「由縁」となるに十分であるため、題詞は「夢裏作而贈友歌一首」とでも書かなければ体を成さない。題詞は歌のタイトルであり、歌の体裁、枠組みを決めるものとして与えられている。
(注3)古典基礎語辞典に、「とも【供・伴・友・朋】……このトモは、いつも主たる人のそば近くに寄り添って従う者の意を表す「供・伴」のほうが先に生じ、常にいっしょにいて、志や行動を同じくする者の「友・朋」の意を派生したものであろう。なお、上代の例では、「友・朋」のトモの中でも、部の意で使われているものが多い。部は、農民・漁民・特殊技能者たちから成り、自営的な生活を営んで、皇族・豪族に貢物をしたり、労力を提供したりしていた。このように常に行動を共にし、志を同じくしていた集団をいう。」(851頁、この項、我妻多賀子)とある。
(注4)カテニは、カツ(下二段)の未然形に否定のズの古形ニが接続して成立した語であるが、「難尓」という表記の常態化は、カタシ(形容詞)の語幹カタに助詞ニがついたもので、言葉の混淆コンタミネーシヨンを来しているとする解説が、大系本萬葉集(一360~361頁)にある。言葉は生き物で、使う人によっていかに認識されて使われたかを中心にして検討しなければならない。
(注5)殿のお手がついて子を授かったという場合も、大名家では側室として大切に扱われた。遊郭の女郎屋に軟禁されるのとは違った。
(注6)拙稿「稗田阿礼の人物評「度目誦口拂耳勒心」の訓みについて─「諳誦説」の立場から─」参照。
(注7)西宮1997.参照。
 一時代前、アラビア語圏でのユネスコによる識字教育に、クルアーン(コーラン)が用いられていたことがある。人々は字は読めないがクルアーンは暗唱して覚えている。生徒が読本を読めないでもじもじしていると、先生が冒頭の単語を言ってあげると生徒はそれに続けてどんどん読み進めることができるという珍教育が行われていた。似たことは文字文化圏でも容易に起こり得る。中学一年生の英語の授業で He stays in the country. を、彼は田舎に住んでいます。と教えておいて、テストに、He stays in the county. を和訳しなさい、と出題すれば、大多数の生徒は授業のことをおぼろげに思い出して、彼は田舎に住んでいます。と解答して満足しているであろう。上代文学の研究者はそれら大多数と異なり、彼はその郡に住んでいます。と正答する優等生であるか、そうでなければならないと志向しているため、飛鳥時代のヤマトコトバの実相に近づくことができないでいる。
(注8)この「友」はこの歌を「贈」られてはじめて知っている。一続きの字列を初見して“歌”を歌として再現しようとしている。その作業が「誦習」に当たる。文字は読めないことはないが、書き方として正書法が確立しているわけではないから、口ずさんでみなければもとの言葉は蘇らない。一字を訓でよむのか音でよむのか、どこで句切れるのか、万葉集の原文を目にすれば暗号解読に同じと感じられよう。たどたどしく、音声言語であったヤマトコトバに直そうとしてみたところ、その内容は愚劣なもので、とてもではないが「誦習」、つまり、声にすることが二度となかったということである。言語が音声の形であるものと思われていた時代において、古事記における稗田阿礼の「誦習」は、自身が記憶していることを声に出して音声にすることであり、万3848番歌での「友」の「誦習」は、木簡上の暗号を声に出して音声にすることであった。筆者が、古事記「誦習」について訓読説を採らないのは、この「友」が「誦習」しようと思えばできたこと、つまり、訓読は字が訓めれさえすれば誰でもいつでも再現が可能である点にある。書いたものがすでにあるのなら、稗田阿礼に負わずとも、太安万侶が暗号的な文言を最初はたどたどしくとも訓んで「誦習」すれば良いことになるし、稗田阿礼にしか読めない古代文字を読んでいたという想定はさすがに証拠立てることができない。
(注9)万3848番歌に「干稲(ひね)」とあって、和名抄に「晩稲」をそう呼んでいたのは、万1008番歌の「賖」がオクに当たることと通わせていた末のことであると捉えることができる。万葉集書記者の選択的用字は、このような細部において見るべきものがある。
 影山2017.には、万3848番歌を万1008番歌とからめて「友」との深い意思疎通の表裏を見、「烏滸な交友のありかたを笑いの料として提示しているのではないか。 教養人としての実在が読者に喚起するのは、冷めた皮肉な笑いである。」(222~223頁)と締めくくっている。同性愛感情説(呉哲男)、中国文人の影響による交友の文芸説(辰巳正明)などとの指摘を踏まえたうえで、「説話的次元で意匠されている」(221頁)と落としどころを探り、題詞と左注とを一連の説明文であるとしている。同性愛の「友」が裏切られたと感じて付き合いを断ったとは考えにくい。「覚而不誦習前」の「前」が万3832番歌、屎の歌だからである。忌部首黒麻呂は続紀・天平宝字六年正月に内史局助になったとあり、“教養人”であったとされるが、教養と人間性は必ずしもリンクしない。
 同書では、万3848番歌の「左注原文のうち「令誦習如前」の「令」字を「不」に作る写本があり、それでは文意不明のため『萬葉代匠記』に「不」を衍文と処理したのだったが、現行テキストは大矢本・京大本および西本願寺本左傍書の採る「令」を本文と認めて異説がない。「誦習」の語義に不安を残すものの「暗誦を繰り返すこと」(小学館新編全集『萬葉集』)の意として大きく外れることはあるまい。」(214頁)で始まっていて、時に疑問を感じながらも前提を顧みることをしない。松岡1935.は、「令」はおかしいから「不」で解してみようとしている(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213675/114)。
(注10)道徳的課題として現代にも通じるものがある。事ここに至って、「万葉学」でも「民俗学」でもなくて、人間とは何かを常日頃から考えていなければ歌の一つもわからないということが知れるであろう。「人間学」が必要なのではなく、「人間」学が求められている。

(引用・参考文献)
安藤2010. 安藤邦廣・筑波大学安藤研究室『小屋と倉─干す・仕舞う・守る 木組みのかたち─』建築資料研究所、平成22年。
太田 2019. 太田真理「フィールドから読む『万葉集』」上野誠・大浦誠士・村田右富実編『万葉をヨム─方法論の今とこれから─』笠間書院、令和元年。
影山2017. 影山尚之『歌のおこない─萬葉集と古代の韻文─』和泉書院、2017年。(「忌部首黒麻呂とその友─巻十六第二部和歌説話の構想─」『叙説』第32巻、2010年3月。奈良女子大学リポジトリhttp://hdl.handle.net/10935/1804)
新編全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集9 萬葉集④』小学館、1996年。
大系本萬葉集 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典大系4 萬葉集一』岩波書店、昭和32年。同『日本古典大系7 萬葉集四』昭和37年。
西宮1997. 西宮一民「阿礼の誦習と安万侶の撰録」『古事記年報』第39号、古事記学会、1997年1月。
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1980年。
松岡1935. 松岡静雄『有由縁歌と防人歌─続万葉集論究─』瑞穂書院、昭和10年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213675/
和英語林集成  J・C・ヘボン編、松村明解説『和英語林集成』講談社(講談社学術文庫)、1980年。

(English Summary)
It is well known that there is the word "reciting continuously(誦習)" by Fieda nö Are(稗田阿礼) in the preface of Kojiki(古事記), but there is the same word for the note of one poem in Manyoshu, too. It is in the group of the name of "having good cause to tell so", Vol.16, and has not been completely examined and explained. In this paper, we use the method of frame analysis to get a closer look at the truth of the poem. Because it will irradiate the framework of what humans are, too.

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