古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

神功紀、紀28歌謡のハラヌチについて

2024年02月09日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 日本書紀の神功皇后元年三月条に、紀28歌謡がある。神功皇后・応神天皇方と忍熊王方との合戦に際して、忍熊王方の熊之凝くまのこりという先鋒が、自軍を鼓舞するために歌を歌っている。歌意はそれ以上のものではない。

 三月の丙申の朔にして庚子に、武内宿禰たけしうちのすくね和珥臣わにのおみおや武振熊たけふるくまみことのりして、数万よろづあまりいくさひきゐて、忍熊王おしくまのみこを撃たしむ。ここに武内宿禰等、精兵ときつはものを選びて山背やましろより出づ。菟道うぢに至りて河の北にいはむ。忍熊王、いほりを出でて戦はむとす。時に熊之凝くまのこりといふ者有り。忍熊王のいくさ先鋒さきと為る。熊之凝は、葛野城首かづののきのおびとの祖なり。一に云はく、多呉吉師たごのきし遠祖とほつおやなりといふ。則ちおのいくさびとを勧めむと欲ひて、因りて、高唱おとたかうたよみして曰はく、
 彼方をちかたの あらら松原まつばら 渡りきて 槻弓つくゆみに まり矢をたぐへ 貴人うまひとは 貴人どちや 親友いとこはも 親友どち いざはな われは たまきはる うち朝臣あそが 腹内はらぬちは 小石いさごあれや いざ闘はな 我は(紀28)
時に武内宿禰、三軍みたむろのいくさのりごとして……(注1)

 歌謡について、新編全集本日本書紀に、「遠方のまばらな松原、その松原に宇治川を渡って攻めて行って、つきの弓に鏑矢かぶらやを添え、貴い人は貴い人同士、親しい友は親しい友同士団結して、さあ戦おう。我々は。〈たまきはる〉武内朝臣たけうちのあそんの腹の中は、砂が詰まっているはずはない。さあ戦おう、我々は」(①442~443頁)と現代語訳されている。
 歌意が十分に了解されるには至っていない。「貴人うまひとは 貴人どちや 親友いちこはも 親友どち」に戦うとはいったいどういう意味で、どういう戦い方のことなのか。敵将の腹の内に小石が入っていはしないといったことを歌うことで、なぜ戦意が高揚するのか、疑問である。古今東西、生きている人間のおなかが砂礫でできている人はいない。熊之凝という人物はこの歌を歌うためだけに設定された人物のようであるが、前後でどのように意味が連関しているのかもわかっていない(注2)。山路1973.に次のようにある。

 私が、この歌謡と物語との結びつきの上で、不自然に感じ、不審に思うことの一つは、「腹中はらぬちいさごあれや」という部分に対する従来の解し方である。勿論、砂に矢の通り難いことを、経験を通して知っていたにしても、『記紀』では、「中天若日子寝胡床之高胷坂、以死」(『古事記』上)、「一発中胸、再発中背」(「綏靖紀」)、「彦国葺射埴安彦、中胷而殺」(「崇神紀」)等々とあるように、失のあたる処は、胸が通例であるのに、なぜ腹をとり、しかも微少感を免れ得ない「砂」をもってしたのか。「垜」はアムツチ・・(『名義抄』)であるから、矢を遮るのに、特に砂をもって表現する必要があったとは思えない。虚心にこの句を解すれば、「腹の中にはまじりものがない」ということであろうか。(303頁)

 当たり前の話だが、矢が当たるところは胸以外にもある。「流矢いたやぐし有りて、五瀬命いつせのみこと肱脛ひぢはぎあたれり。」(神武前紀戊午年四月)とある。紀28歌謡でどうして腹が出てくるのか、結局のところ何も解けていない。
 歌の中の語、ハラヌチ(波邏濃知)はハラノウチ(腹の内)の約であると考えられている(注3)。異説が現れていない。「国内くぬち」(万797・4000)、「屋内やぬち」(万4263)と同じ過程で成った言葉とされている。ノウチの約がヌチだというのである。しかし、その部分の、「内の朝臣あそが 腹内はらぬちの」というかかり方は、連体助詞ガの用法として不自然に思われる。岩波古語辞典に次のように解説されている。

奈良時代、連体助詞として使われた場合には「つ」と相互に役目を分けていた。「つ」が多く基本的な位置・存在の場所を示したのに対し、「が」は地名・植物名・動物名などを承けて所在・所属を表わした。例えば、「おほやが原」「きよみが崎」「かほやが沼」「あをねが嶽」「梅が枝」「うけらが花」「笹が葉」「松が根」「尾花が末」「雁が音」「鶴が声」などである。ことに顕著に目立つのが人代名詞・人をさす名詞を承ける用法である。「わが宿」「あが身」「汝が名」「妹が家」「君が姿」「吾妹子が心なぐさ」「己(おの)が命」「背なが衣」「母が手」「父母が殿」など多くの例があるが、ここにある代名詞・名詞の多くは、自分自身、あるいは結婚の相手・両親などで、自分自身を中心にして、周りに円周を描き、その中に含まれる人間つまりウチなる人間を指すのに使われることが圧倒的に多い。従って、親愛の対象を表わすもので、「が」はそれとの間の親しい、近しい、場合によっては軽口をたたきうるような対象との間の所有または所属の関係を表わしている。これ故、本来、これは尊敬して扱うべき役人に対して「(税を取り立てる)里長が声は寝屋戸まで来立ち呼ばひぬ」などと使えば、それは「里長」に対する軽侮・嫌悪の気持の表現となる。つまり連体助詞「が」は親愛→軽蔑→嫌悪という対人感情の移行の類型を、そのままに反映する助詞であって、「の」とはこの用法の点で大きく相違する。(1485頁)

 歌を歌っている熊之凝という人物と、内の朝臣たる武内宿禰との間に、どのような関係があったか不明である。親愛、軽蔑、嫌悪の感情を懐くほどの近しさは認められそうにない。熊之凝が「内の朝臣が 腹内の」と直接述べるのは不適当である。この歌を、主君、忍熊王に代わって歌を歌った代作の詠歌として、忍熊王の気持ちを言っていると考えるなら、忍熊王にとって神功皇后は義母に当たって曲がりなりにも皇族だから、武内宿禰との関係性は密であったと推定できないことはない。しかし、その場合、腹違いであることをもって「腹内」なる言葉を使って何かを表そうとしているとはいえない。男の腹が子を孕むことはない。武内宿禰の腹の内には五臓六腑があるばかりで、「小石いさご」が砂肝の謂いであるなどとは表さないだろう。
 筆者は、ハラヌチという語を「腹内」の意であるとする捉え方が間違っていると考える(注4)
 歌の前半で、「槻弓つくゆみに まり矢をたぐへ」とある。宇治川を挟んで両軍が対峙していて、矢を射かける射撃戦が始まろうとしている。歌の後の展開でも、武内宿禰側が儲弦うさゆづるを隠して武装解除したように装い、相手方を欺いたという話に展開している。武内宿禰のことは、内の朝臣と言い慣わされていた。天皇の側近くに仕える内大臣という意味である。「たまきはる」は「内」にかかる枕詞であるが、かかり方は未詳とされている。
 タマキハルという言葉が弓を使う時に用いられている。上代の弓の使い方としては、弓を持つ左手、弓手ゆみて・ゆんで籠手こてを着け、反対の右手、馬手めてには籠手を着けなかった。片籠手形式であった。籠手のことはタマキと言った。タ(手)+マキ(巻)の意である。タマキという語には、ブレスレットを指すくしろのことだけでなく、弓手を防護する籠手のことも指した。自らが操る弓具で自分の腕を怪我しないようにするために装着された。

 射韝 説文に云はく、韝〈古侯反、多末岐たまき、一に小手なりと云ふ。又鷹具に見ゆ〉は射る臂の沓なりといふ。(和名抄)
 韝 文選西京賦に云はく、青骹せいかうのあをきたか、韝のもとるといふ。〈韝の音は溝、訓は太加太沼岐たかたぬき、又射芸具に見ゆ〉。薩琮に曰はく、韝の臂衣なりといふ。(和名抄)
 釧 止援反、金契なり、久自利くじり、又太万支たまき。(新撰字鏡)
 𤿧 古岸反、弓を射る時の調度なり、古氐こて。(新撰字鏡)
 
 弓に矢を番えて発射するとき、精一杯引き絞る。弓手を張るから、籠手はまっすぐに張られた格好になる。その時、タマキハルという表現がありありと立ち現れる。
 弓の射手は、左手側には籠手があって、肘が守られている。まっすぐに伸ばされているから肘がどこにあるのかさえわからない。反対の右手側は防具を着装しておらず、肘が守られていない。曲げられているから肘の場所は明白である。肘が籠手で守られているとは、ギブスさながらにひぢひぢでもって固め守っていることを示す。ヤマトコトバは頓智を使って当該語の確証としていた。音声言語でしかなかったヤマトコトバは、言葉を声に発しながら循環的に定義していた。すなわち、辞書の役割を常時果たすことで再活性化を進めて行っていたのである。
片籠手姿(蒙古襲来合戦絵巻写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2591516/1/5)

 臂 広雅に云はく、臂〈音は秘〉は之れを肱〈古弘反〉と謂ふといふ。四声字苑に云はく、肘〈陟柳反、或に䏔に作る、比知ひぢ〉は臂の節なりといふ。(和名抄)
 臂 音は比、訓は多太牟技ただむき、肘、比地ひぢ(新訳華厳経音義私記)
 淤泥 上の音は於、川泥なり、泥の音は乃、川淤なり、倭に比地乃古ひぢのこと云ふ。(新訳華厳経音義私記)
 ◆(磣の彡の代わりに水) 初錦反、◇(◆の石の代わりに土)同、悪毒害なり。石、微細にして風に随ひて飛ぶ沙なり。伊佐古いさご、又須奈古すなご(新撰字鏡)(注5)
 砂〈纎砂附〉 声類に云はく、砂〈所加反、和名、以佐古いさご、一に須奈古すなごと云ふ〉は、水中の細かき礫なりといふ。日本紀私記に纎砂〈万奈古まなご〉と云ふ。(和名抄)

 ヒヂノコという場合のコは、粉の意味であろうかとされている。イサゴも同様と考えられている。
 腕のことばかりに注目しているのは、「命武内宿禰・和珥臣祖武振熊、率数万衆、令撃忍熊王。」とあるからである。武内宿禰らは、朝敵追討のために派遣された「討手うて使つかひ(撃手使)」に当たる。「野大弐やだいに、純友がさわぎの時、討手うて使つかひにさされて、少将にてくだりける。」(大和物語・四)とある。ウテノツカヒだから、相当な腕自慢と聞きつけた熊之凝は、手強いと怖気づいている味方の戦意を保つため、腕は腕でも右腕の肘は何も防禦がなく、そこを狙えばいいと自軍に檄を飛ばしている。
 話はすべて、ウテ(討手)のウデ(腕)のことに巡り巡っている。弓手の左手は、籠手で堅固に守られている。ひぢをまぶしてひぢを守っている。固めた左手を伸ばしている様子は、古代官道が新たに敷設されまっすぐに伸びているのと同じだと見立てられた。「墾道はりみち」である。

 信濃道しなのぢは 今の墾道はりみち 刈株かりばねに 足踏ましなむ くつはけわが背(万3399)
 草蔭くさかげの 安努あのかむと りしみち 阿努あのは行かずて 荒草あらくさ立ちぬ(万3447)
 新墾にひはりの 今作るみち さやけくも 聞きてけるかも いもうへのことを(万2855)

 道路敷設についての記録は、日本書紀では応神紀三年十月条に見えるのが早い。考古学的知見からは、道路の工法としては、あらゆる工法が用いられており、同様の地形や地盤だからといって同一の工法をとるものではない。現場の判断で都合よく整備されていた。現在のアスファルト舗装のような、画一化された道路整備用資材があるわけではない。道路に限り何か特殊な技術があったわけではなく、古墳や港湾の船着場や池の堤防などの各種土木工事の技術と通じていた。土手のことは古語につつみと言う。何をいかにツツムか。ひぢで包むのが堤である。そんな堤のように、古代の道で路盤を包み整えたところがある(注6)
 道路のことは古語でチ(路)と言う。チという言葉は、単独では使われず、複合語として用いられたとされる。ミチ(道)は、接頭語ミが付いた構成と考えられている。また、チが複合語の後項に用いられる場合、ヂと濁ることが多い。アヅマヂ(東路)、アマヂ(天路)、イヘヂ(家路)、カハヂ(川路)、クモヂ(雲路)、シホヂ(潮路)、ソラヂ(空路)、ミヤヂ(宮路)、ミヤコヂ(都路)、ヤマヂ(山路)、避路(ヨキヂ)、ウミツヂ(海路)などとある。ただし、オホチ(大路)、シゲチ(繁路)、タダチ(直路)、ナガチ(長路)、タギマチ(当麻径)と濁らない例もある(注7)
 紀28歌謡のハラヌチという語に、ハラ(動詞「る」の未然形)+ヌ(助動詞ズの連体形)+チ(路)という語構成が見出せる。すべてはウテ(討手)のウデ(腕)のタマキ(韝)を出発点として、ひぢひぢの洒落へと展開している。設定された場所はウヂ(菟道)である。字を当てた「菟道」からは、ウサギが駆けていくほどの道、古代官道の「墾道」のことが連想される。土木技術に長けていれば、土塁や水城などを築き上げる軍事技術にも長けていると知れる。それでも、よく見ると、反対側の隠れている右手側は曲がっていて墾っていない道である(注8)。曲がっている肘と曲がっている道を対称と見ている。伸びておらず曲がっていて、無防備なところを「らぬ」と呼んでいるのであろう。大したことはない、戦って勝てる相手であると鼓舞している。
 古代官道は整備されている。地盤にバラスを入れて排水性が高められている。その整備された道路が大雨などで表面土が流されたら、その「小石いさご」が現れることになる。古代は、その都度補修していたらしい。「墾道」に「小石いさご」が地面の下に包まれてあるのに対し、昔ながらの道、「墾らぬ路」には「小石いさご」はあるはずもない。単に「歩く人が多くなればそれが道となるのだ」(魯迅)式に、人や牛馬が踏み固めて草が枯れてできた、いわば人の獣道にすぎない。つまり、「墾らぬ道に 小石いさごあれや」とは、新しく官道として整備したわけではない昔ながらの道路は、長い年月をかけて自然にできたもので、周りよりも高く作られているわけでもないからぬかるむことはあっても崩れることはない。路盤を備えていないから、剥き出しに現れることもない。だから、自然にできている特別な堆積層の場所を除いて、表面土が流されて「小石いさご」が出てくることはない。「らぬに 小石いさごれや」と言って正しい。小石が現れるか、いやいや現れない、の意である。(注9)
 同様に、人の腕も、弓手を籠手で固めれば「小石いさご」がたくさんまぶされているように鎖になっていて、鏃を跳ね返すほどに堅固である。イサゴという語は、拒否・拒絶を表わすイサ(否・不知)という語を含む音感から、矢の進入を拒んでいるように聞こえる。しかし、籠手で包まれていない右手は無防備で、矢で射かければすぐに突き刺さるであろう。神武前紀の話で、五瀬命に流矢が当たった腕は馬手(右手)であったろう。墾り固めていない右手に「小石いさご」が現れることはない。ウィークポイントである。右手の肘には、ヒヂノコ(泥)で固められることもなく、ましてやイサゴ(小石)のあろうはずもない。だからそこをめがけて「いざ闘はな」と言っている。イサゴ→イザ(率)と音もつながっている。
籠手(鉄錆地縹糸威腰取五枚胴具足の籠手、板橋区立郷土資料館展示品。時代は下るものであるが籠手の本質は変わらない)
 武内宿禰は、「たまきはる うち朝臣あそ」と呼びならわされる人物である。枕詞は多義的な意味合いを重ね持つものと推測され、その一義として「たまき張る」の意があるのだろう。「うち朝臣あそ」のアソ(ソは乙類)は、ア(網)+ソ(衣)の意であると錑られて解される。ソは、すそそでのソである。籠手の鎖繋ぎのことを網に見立てているらしい(注10)。鎖籠手の上にたまきを張っているという言い回しになっている。そのような名を冠した人物は討手の使として手強そうであるが、こちらからは隠れている右手のほうは籠手を着けていない。そこが狙い目であると歌っている(注11)
片籠手(中央:馬上で矢を番えて狙う武士、左下:射られて落馬する武士、右下:刺さった矢をなんとかしようとする武士、春日権現験記絵(板橋貫雄模、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1287490/1/12)
 籠手と墾道の洒落をもって歌が歌われている。戦意高揚のための歌である。「貴人うまひとは 貴人どちや 親友いとこは 親友どち いざはな」と呼び掛けている。なぜそのように言い含めなければならないのか。貴人は貴人同士で、親友は親友同士で敵と戦おうというのは、貴人は貴人と一緒になって敵と戦い、親友は親友と一緒になって敵と戦おうというのであり、貴人は敵の貴人と、親友は敵の親友と戦おうというのではない。ドチ(共)という語で呼び覚ませたいものがあるからそのように歌われていると考える。ドチ(共)という語については、辞書類に要領を得ていない(注12)
 新沢2017.に、「「どち」は、通常、「同士」「仲間」といった複数の人間集団を表す名詞と理解されている。ところが、万葉集に用いられる一五例と記紀歌謡の二例を、時代や作者をふまえた上で改めて眺めてみると、古い用例には名詞として「同士」「仲間」という意味を表すものはなく、「~と一緒に」というように、動詞に係りながら副詞的に機能するものばかりであることに気づく。」(104頁)、「「~と一緒に」といっても、……同じ立場の者が一緒に行動する場合に限って用いられるという点で、助詞の「と」より用法が限定的である。」(106頁)と的確に指摘されている。ドチの本義として、同じ立場の者が一緒に何かをする場合に限って用いられた。
 貴人は貴人とグルになり、親友は親友とグルになる。「ともに」と同じである。ドチ(共)がトモ(共)とほとんど同じ意味を持つことは、トモ(共)がトモ(鞆)と同じ音であることに因縁を持つ。鞆とは、弓具使用時に弦の反発によって自らを傷つけないために弓手に装着する防具である。革製の丸く膨らんだ仕様のものが知られる。用途は籠手と同じである。籠手は左腕全体を覆うものであるが、鞆は左手の前腕から肘の部分に付けたようである。すべては討手うてうでひぢひぢの洒落をもって成り立っている。同じ音ということは同じ意味であるとする無文字時代のヤマトコトバ使用の信念から、きちんとした理屈を述べていることになる。地口的同一性のもとに世界の把握、理解が進むというのがヤマトコトバの知恵であった。
鞆をつけた射手(年中行事図屏風、住吉如慶(1599~1670)筆、紙本着色、江戸時代、17世紀、東博展示品)
 最後に、この歌謡を「高唱おとたかうたよみし」た人物、熊之凝という名について触れておく。クマノコリ(ノは乙類、コは乙類)は、クマ(熊)+ノコリ(残、ノは乙類、コは乙類)の意であると聞こえる。日本に在来して目に付くクマは、ツキノワグマである。全身のほとんどは黒い毛でおおわれているが、喉の下のところだけ、弓張月の形の白い毛の部分があり、ツキノワグマと呼ばれている。弓を射ることがテーマであっただけにふさわしい登場である。そしてその白く輝く形は鉄鎌のようである。つまり、クマノコリ(熊之凝)という名はカマのことを表している。カマという語は、囂・喧などといった字を当てる、うるさい意を示す。「高唱之歌曰」を体現する名にふさわしいと知れる。
 「熊之凝」と書いてあるのだからその字義にもかなう意があるであろう。熊の煮凝りのことなら、熊の掌の料理が思い起こされる(注13)。遊仙窟に、「熊のたなごころ」とあるのは満漢全席にもみられる料理である。孟子・告子章句上に、「魚我所欲也。熊掌亦我欲所也。二者不得兼、舎魚而取熊掌者也。」、史記・楚世家第十、「成王、請熊蹯而死。」の杜預注に、「熊掌難熟冀久将外救_之也」とある。熊之凝という名が料理名を意識したものであるとすると、熊の掌のことを示している。熊の足跡を見てみると、人間と同じく五本指をしていながら人間よりも大きい(注14)。熊の掌ならびに腕は、人間が籠手をつけた様子にとてもよく似ている。そして、いわゆる熊手と呼ばれる捕物具も絡んでくる。馬を操りながら弓を構えていても、背後、すなわち、搦め手から熊手をもって絡められると落馬して倒すことができる。熊之凝という名に作るほどに戦闘具の熊手は、飛鳥時代には存在していたのだろう。すべて、籠手をめぐる話であったことが人名によく表れている。
熊手(中央:搦め手から熊手で絡められて対応する、春日権現験記絵再掲)
 以上、紀28歌謡「彼方をちかたの あらら松原 ……」歌を精読し、長年の誤解を解いた。

(注)
(注1)神功紀は次のように続いている。

 時に、武内宿禰、三軍みたむろのいくさのりごとしてふつく椎結かみあげしむ。因りて号令のりごとして曰はく、「おのおの儲弦うさゆづるを以て髪中たきふさをさめ、また木刀こだちを佩け」といふ。既にして乃ち皇后きさきおほみことのたまひあげて、忍熊王ををこつりて曰はく、「吾は天下あめのしたむさぶらず。ただわかみこうだきて、君王きみに従ふらくのみ。豈ほせき戦ふこと有らむや。願はくは共にゆづるを絶ちてつはものを捨てて、とも連和うるはしからむ。然して則ち、君王きみ天業あまつひつぎしらして、みましに安く枕を高くして、たくめ万機よろづのまつりごとまさむ」といふ。則ちあきらかみいくさの中にのりごとして、ふつくゆづるたちを解きて、河水かはなげいる。忍熊王、其のをこつりことけたまはりて、悉に軍衆いくさびとのりごとして兵を解きて河水に投れて、弦を断らしむ。爰に武内宿禰、三軍に令して、儲弦をいだして、更に張りて、真刀まさひを佩く。河をわたりて進む。忍熊王、欺かれたることを知りて、倉見別くらみわけ五十狭茅宿禰いさちのすくねかたりて曰はく、「吾既に欺かれぬ。今まけつはもの無し。豈戦ふこと得べけむや」といひて、兵を曳きてやや退く。(神功紀元年三月)

(注2)管見であるが、紀28番歌に関して山路1973.の疑問に答えるような議論はこれまで行われていない。問題は放置されている。
(注3)谷川士清・日本書紀通証に、「波羅濃知波〈腹中者也、知宇知〉」(巻十四、二十オ)、河村秀根・益根・書紀集解に、「餓波羅濃知波クハラノチハ。〈按餓波羅考羅、地名、山城国綴喜郡河原、崇神天皇十年伽和羅、仁徳天皇即位前紀考羅済、即此綴喜宇治接、知ウチナリ〉」(巻之九、十九ウ)(ともに漢字の旧字体を改め、適宜句読点を施した)とある。
(注4)神功紀の熱田本に声点が付されている。ハラヌチ(波邏濃知)には、平平上平とある。これは、かなり古くからこの言葉、ハラヌチを腹の内の約であると考えた挙句に付された声点であると考える。ハラ(腹)は和名抄に、平平の声点が付されている。神功紀の歌謡に用いられている「波」字は、紀28・29歌謡に用いられている。「いざあはな(伊装阿那)」、「われは(和例)」、「たまきはる(多摩岐屢・多摩枳屢)」、「はらぬちは(邏濃知)」である。それぞれの「波」字は、順に、平、上、平、平、平である。いわゆる日本書紀の(表字法)区分論に、神功紀はβ群に当たり、中国中古音の声調を意識したものではないとされており、ここでも「波」字に上声の声点のものが見られて一貫性に欠けている。音の高低を反映して文字が選択されているわけではない。神功紀の声点は、付された時点での当該語についての見解に基づいたものとしか定められず、声点を頼りに語の解釈を定めることは難しい。
(注5)白川1995.に、「磊々らいらいたる山中の石は、谷川に転じて激流に流され、沙礫となる。それが「いさご」である。〔新撰字鏡〕にあげる磣は、〔玉篇〕に「食に沙あるなり」とあって、食物に砂がまじっている意であるから、……熊之凝くまのこりが歌った「腹内はらぬち異佐誤いさごあれや」という句は、まさに磣の字義にあたるものであろう。」(108頁)とするが、考えに誤りがある。「あれや」は反語を表し実際にはまったくない。磣の字義を表すものではない。
(注6)和名抄に、「陂堤 礼記注に云はく、水を蓄ふるを陂〈音は碑、和名は都々美つつみ、下同じ〉と曰ふといふ。纂要に云はく、土を築き水をむるを塘〈音は唐〉と曰ひ、亦、之れを堤〈音は低、字は亦、隄に作る〉と謂ふといふ。」とある。日本書紀に道路を造ったとする記事は限られている。仰々しく記さなければならないことではないからであろう。

 即ち蝦夷えみしつかひて、厩坂道うまやさかのみちを作らしむ。(応神紀三年十月)
 是歳、大道おほちみさとの中に作る。南のみかどよりただに指して、丹比邑たぢひのむらに至る。(仁徳紀十四年是歳)
 是の月に、呉のまらうとの道をつくりて、磯歯津路しはつのみちに通はす。呉坂と名く。(雄略紀十四年正月是月)
 又、難波よりみやこに至るまでに大道を置く。(推古紀二十一年十一月)
 処処の大道を脩治つくる。(孝徳紀白雉四年六月)

 古代道路の工法としては、場所に応じてさまざまな手法がとられていたことがわかっている。近江2013.によれば、大略、①地盤を造る、②路盤を造る、③路面を造る、④側溝を掘る、に分類される。①では、今日までのところ、掘込作業の跡は道路では見られないが、軟弱な地盤を掘って砂などよく締まる土で埋め戻した例、敷葉工法といって軟弱地盤上に葉のついた木の小枝を大量に敷いてその上に土を盛っていき、流されないように工夫した例が見られる。②では、路盤に石混じりの砂で盛り土をして透水性を高めた例が見られる。③では、路面に砂を敷いたりきめの細かい土に土器片や小石を混ぜ込んで敷いた例も確認されている。このうち、今問題にしたいのは、バラス(「小石いさご」)が地盤や路盤に用いられたケースである。前者では、奈良県御所ごぜ市の鴨神遺跡の古墳時代のものや東京都国分寺市の恋ヶ窪遺跡の東山道駅路の例が知られる。後者では、福岡県京都みやこ郡みやこ町の呰見あざみ樋ノ口遺跡の西海道駅路の例が知られる。
左:恋ヶ窪遺跡展示パネル(国分寺市姿見の池。同図は、国分寺市2017.にも記載されている)、右:呰見あざみ樋ノ口遺跡(web博物館「みやこ町文化遺産」http://miyako-museum.jp/list/detail.php?uniq_id=22)
 万葉歌の例の万2855番歌では、「新墾の 今作る路」が「さやけし」を導くとされている。道が開通するように彼女のこともよく伝わってきたという意である。今日までの解説に、この道路が古代官道を示すもので直線的であるといったことが言われているのかわからないが、それだけでこの表現が成り立っているとは考えない。道路が舗装されている点が意識されている。路盤にバラスが入れられて上を路面が覆う形になっている。これは、まるで、豆がさやに入っているのと同等ではないかと感じられたのであろう。歌は口頭語でできている。サヤ・・ケクという語を導いていておもしろいと思え、よくわかる使い方である。
(注7)蜂矢2017.の第四章「チ[路]+ミチ[道]」参照。
(注8)宇治の渡り部分について、あるいは、この時期にすでに堤が整備されていて馬踏を軍勢が行き交っていたことを示すものかもしれないが、直線的な土手が築かれていたとは思われない。巨椋池に流れ込んで低湿地となる悪路も多かった。一部で土木技術の粋を極めて整備されながら、その他の道は昔ながらの悪路であることの謂いであるとするほうが理解しやすいであろう。
(注9)佐佐木2010.43頁の想定では、「墾らぬ道に 小石有れや」の古い形とするが、そのような曲解を必要としない。つづく「あれや」を「有れや」の意に解しており、「れや」の可能性が検討されていない。
(注10)有職故実の武具研究では、棒状板鎖繋ぎは中世後期に完成して篠籠手と呼ばれている。それ以前になかったのかは不明である。
(注11)矢を持って射かけるのに動きづらくて不便だから、射手は右手に籠手をはめなかった。片籠手である。中世後期に戦が打撃戦に変質すると、騎兵でも両方の腕に籠手を着けた。諸籠手である。本邦の歴史上、籠手はミッシングリンクの器具とされており、通史にまとめられていないようである。とはいえ、概念としては一貫してコテ(籠手)であった。
(注12)古典基礎語辞典に、「どち 名 解説 親しい間柄の人・仲間・同輩の意。多くは名詞や動詞の連体形に付いて接尾語的に、それと同類の者の意を付加する。形の近似した語にタチ(達)があるが、タチは外から見て高く見える対象を扱い、神や人について尊敬を込めて用いられる点でドチとははっきり異なる。ドチは互いに精神的な交流がある間柄でいう。人数は原則的には不定だが、二者の交流関係を扱うことが多い。ドモ(共)は本来「供」の意で、目下扱いの表現。ラ(等)は対象をモノ扱いに低めて表現する語。ドモ・ラは人間以外にも用いることがある。……語釈 ①親しい間柄の人。友だち同士。同輩。……②接尾語的に用いる。…どうし。…仲間。……」(839頁。この項、筒井ゆみ子)とある。
(注13)延喜式・典薬寮式、諸国進年料雑薬として挙げられるなかに、「美濃国六十二種に、……獺肝三具、熊胆四具、猪蹄十具、鹿茸七具、熊掌二具。」とあり、また、庭訓往来・五月九日・佐平進平・進上蔵人将監殿 御館」条に、「塩肴は、鮎の白干、……干鹿、干江豚ほしゆるかいのこの焼皮、熊掌、狸の沢渡り、猿の木取、……」などとある。薬と塩肴は加工品として異なったとしても、いずれも熊の煮凝りを示すようなものではない。本邦の記録には見られないことになる。
(注14)玉篇佚文内篇に、「熊 獣似豕山居冬蟄舐其掌々似人掌也─涅槃経……」(岡井1933.123頁)とある。

(引用文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
近江2013. 近江俊秀『古代道路の謎─奈良時代の巨大国家プロジェクト─』祥伝社(祥伝社新書)、2013年。
岡井1933. 岡井慎吾『玉篇の研究』東洋文庫発行、昭和8年。
国分寺市2017. 国分寺市教育委員会教育部ふるさと文化財課編『古代道路を掘る』国分寺市教育委員会、平成29年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
佐佐木2010. 佐佐木隆校注『日本書紀歌謡簡注』おうふう、平成22年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新沢2017. 新沢典子『万葉歌に映る古代和歌史─大伴家持・表現と編纂の交点─』笠間書院、2017年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
蜂矢2017. 蜂矢真郷『古代地名の国語学的研究』和泉書院、2017年。
山路1973. 山路平四郎『記紀歌謡評釈』東京堂出版、昭和48年。

(English Summary)
On the word "Haranti" in the song of Nihonshoki No.28 (the article of March in the first year of Jingu Empress).
Examining the contents of the tale shows us a story about the gauntlet they wear when one shoot the bow, using metaphor of road paving. Therefore, we can see that "Haranuti" means not inside the belly but the unpaved road. Because elbow and mud are the same sound "hidi" in Yamato Kotoba.

※本稿は2018年7月稿について、2024年2月に一部改めつつルビ形式にしたものである。

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