名易えとしての御木国(みけのくに)説話
秋七月の辛卯の朔にして甲午に、筑紫後国(つくしのみちのしりのくに)の御木(みけ)に到りて、高田行宮(たかたのかりみや)に居(ま)します。時に僵(たふ)れたる樹(き)有り。長さ九百七十丈(ここのほつゑあまりななそつゑ)。百寮(つかさつかさ)、其の樹を蹈(ほ)みて往来(かよ)ふ。時人(ときのひと)、歌(うたよみ)して曰く、
朝霜の 御木(みけ)のさをばし 群臣(まへつきみ) い渡らすも 御木のさをばし(紀24)
爰(ここ)に天皇、問ひて曰はく、「是(これ)何の樹ぞ」とのたまふ。一(ひとり)の老夫(おきな)有りて曰さく、「是の樹は歴木(くぬぎ)といふ。嘗(むかし)、未だ僵れざる先(さき)に、朝日の暉(ひかり)に当りて、則ち杵嶋山(きしまのやま)を隠しき。夕日の暉に当りては、阿蘇山(あそのやま)を覆(かく)しき」とまをす。天皇の曰はく、「是の樹は、神(あや)しき木なり。故、是の国を御木国(みけのくに)と号(よ)べ」とのたまふ。(景行紀十八年七月)
歌謡を伴う地名説話である。これまで、歌謡について、天皇に対する讃美の歌とする解釈(注1)、神木であることを知らずに踏みつけた群臣を批判する歌とする解釈(注2)、巡幸する天皇がその土地の出来事を問うて地名を名づけるための導入のための歌とする解釈(注3)などが行われてきた。基本的に、どのような背景から作られているかということに心を砕いている。筆者は、すべてはヤマトコトバの話なのだからヤマトコトバのうちに話(咄・噺・譚)として悟ることを目指している。上代の人たちが了解した、その了解の仕方をそのままに見て取ろうとしている。言=事がどうであったかがわからないまま背景を探っても仕方がない。よくわからない話が伝えられ、それが人々に伝わるなどあり得ない。
内容はシンプルである。大樹が倒れてそれが「さをばし」になっていて、その「さをばし」を往来している。古老の話によれば、立っていた時は、東西にある大きな山に影を作るほどであったというのである。天皇は不思議な木だからそれにあやかって御木国(みけのくに)と呼ぶようにと言ったというのである。
そのなかに紀24歌謡が組み込まれている。その組み込まれ方が現代の人の思考法にしっくりこないところがあり、諸説が行われている。
話は命名譚である。それが定着したかどうかはともかく、天皇は「御木国(みけのくに)」と名づけている。それまでは、「筑紫後国(つくしのみちのしりのくに)」であった。名易えが行われている。有名な名易えの話に、応神天皇の角鹿での御食津大神との名の交換の話が知られる。
故、建内宿禰命(たけうちのすくねのみこと)、其の太子(おほみこ)を率(ゐ)て、禊(みそぎ)せむと為て、淡海と若狭との国を経歴(へ)し時に、高志(こし)の前(みちのくち)の角鹿(つぬが)に仮宮を造りて坐しき。爾くして、其地(そこ)に坐す伊奢沙和気大神(いざさわけのおほかみ)の命(みこと)、夜の夢(いめ)に見えて云ひしく、「吾が名を以て、御子の御名に易(か)へまく欲し」といひき。爾くして、言禱(ことほ)きて白(まを)ししく、「恐(かしこ)し、命(みこと)の随(まにま)に易へ奉らむ」とまをしき。亦、其の神の詔(のりたま)ひしく、「明日(くつるひ)の旦(あした)に、浜に幸(いでま)すべし。名を易へし幣(まひ)を献らむ」とのりたまひき。故、其の旦に浜に幸行(いでま)しし時、鼻を毀(こほ)てる入鹿魚(いるか)、既に一浦(ひとうら)に依りき。是に御子、神に白(まを)さしめて云ひしく、「我に御食(みけ)の魚(な)を賜へり」といひき。故、亦、其の御名を称へて、御食津大神(みけつおほかみ)と号(なづ)けき。故、今に気比大神(けひのおほかみ)と謂ふ。亦、其の入鹿魚の鼻の血、臰(くさ)し。故、其の浦を号けて血浦(ちぬら)と謂ひき。今に都奴賀(つぬが)と謂ふ。(仲哀記)
「御食」も「御木」も同じくミケ(ミは類、ケは類)である。名易えの話であることをよく物語っている。地の文に、「百寮蹈二其樹一而往来。」とあり、「僵樹」が1本ある。僵樹の上を百寮が往来するのは尤もなことである。なぜなら、ツカサツカサと言うからである。「往」くツカサと「来」るツカサがあることをきちんと表している。高田行宮に出仕することと退出することの両方がある。それが証拠に、「御木のさをばし」という語が歌のなかに2度出てくる。往き来しているからである(注4)。往き来する人が1本の「樹」に行き違えるのかについては後述する。
ミケ(御木)というところなのだから、ミケ(御食)を献りに参上しているということである。
そして、そこは高田行宮という名である。標高の高いところにあることを予感させる。そこに「さをばし」が架かっていて出仕している。
「さをばし」について
「さをばし〔佐烏麼志〕」について、①竿橋説、②狭小橋説、③さ小橋説、また、④竿堦説があげられている。ハシ(橋)という語は、端と端との間を渡すものの意で、橋(平面上のもの)、梯(はしご状のもの)、階(階段状のもの)などを総括して示す言葉である。和名抄に、「橋〈葱台〉 説文に云はく、橋〈音は喬、波之(はし)〉は水上の木を横(へだ)てて渡る所以也といふ。爾雅注に云はく、梁〈音は良〉は即ち水橋也といふ。楊氏漢語抄に云はく、葱台〈比良岐波之良(ひらきはしら)〉は橋の両端に竪つる所の柱、其の頭、葱の花に似たる故に云ふといふ。」、「独梁 淮南子に云はく、独梁〈比度豆波之(ひとつばし)、今案ふるに又、一名に独木橋とかむがふ、翰苑等に見ゆ〉は徒(ただ)横に一木の梁也といふ。」、「梯 郭知玄に云はく、梯〈音は低、加介波之(かけはし)〉は木の堦にして高きに登る所以也といふ。唐韻に云はく、桟〈音は棧、一音に賤、訓は上に同じ〉は板木の険しきに構へて道と為る也といふ。」などとある。
現在の解説書では、③説が有力視され、②説を含むとする考えが小野2020.に示されている。①説は、釈日本紀の「竿橋也。言、一橋也。」(国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100223819/viewer/416)を嚆矢として採る説がある(注5)。サヲを竿(棹)のこととした場合、洗濯物を掛ける物干し竿は卑近な道具であったろうが、上代では特に船具として万葉集に詠まれている。水底や岩礁などを突いて船を操る。
船具のサヲは、水の底や岸の岩などを突いてその反作用で船を操るもの、刺して使うものである。
大君の 命(みこと)畏み 見れど飽かぬ 奈良山越えて 真木(まき)積む 泉の川の 早き瀬を 竿さし渡り ちはやぶる 宇治の渡(わたり)の 滝(たぎ)つ瀬を 見つつ渡りて ……(万3240)
夏の夜は 道たづたづし 船に乗り 川の瀬ごとに 棹さし上(のぼ)れ(万4062)
…… 御調(みつき)の船は 堀江より 水脈(みを)引(び)きしつつ 朝凪に 楫(かぢ)引き上り 夕潮に 竿さし下り あぢ群(むら)の 騒き競(きほ)ひて 浜に出でて 海原見れば ……(万4360)
その「刺し」と同音が「朝霜の」のなかに隠れている。ア(接頭辞)+サシ(刺)+モノ(物)である。「あさしもの」という語は「さをばし」までも修飾する語である可能性が出てきた。
往来する場所は、「高田行宮」である。行宮が高田にあたるところに実態としてあったとすると、高いところにある棚田のようなものと受け止められよう。石を積むなどして畦(あぜ)を高くし、水を張って田としている。酒が中に入っている槽のことは酒槽(さかふね)、飼葉が入っているものは馬槽(うまふね)というように、フネ(槽)と呼ばれる。したがって、船の用語であるサヲという語を使っていて妥当である。そして、高いところに行宮があってそこへ参じるのだから、ハシは、キザハシ(階)のことを指していると見て取ることができる。
倒木が倒れかかり、高田行宮へ上っていける階段となっている。どうしてそれが1本の木でできているのかが謎かけなのであろう。「時有二僵樹一。長九百七十丈焉。百寮蹈二其樹一而往来。」と、巨木であることが述べられている。同時に、天皇は、「是樹者神木。」であると感慨を述べるに至っている。1本の木でできている階段については、古代の出土例に事欠かない。1本の丸太に段々となる刻みをつけたものである。「神木」とある表記に引きずられて神威的な霊妙さを読み取りがちであるが、「神(あや)し」は、単に不思議である、珍しい、うまくできている、の意と考えた方が正しいのではないか。特に加工を施さずとも、はじめから木の幹に瘤がついていて、そこを足掛かりに上り下りすることができたから、「神(あや)しき木」であると言っているものと思われる。
左:高倉ジオラマ(橿原考古学研究所附属博物館展示品)、右:梯子(弥生時代後期、唐子・鍵遺跡、田原本町「唐子・鍵総合サイト」http://www.town.tawaramoto.nara.jp/karako_kagi/museum/search/1/yayoinokurashi/kurashinonakanodogu/hashigo/7452.html)
歌に、「群臣(まへつきみ)」とある。地の文に「百寮」とあったのに代わっている。「百寮」に「群臣」は含まれる、あるいは言い換えであると説かれているが、なにゆえ言い換えてあるのか検討されなくてはならない(注6)。
「時人(ときのひと)」が勝手に歌を歌っている。そこに登場するのは「群臣(まへつきみ)」である。マヘツキミは、天皇のマヘ(前)に侍るキミ(公)のことである。天皇に面前する朝廷内でも高位の侍臣である。ここで「時人」が使いたかったのは、天皇に仕える者のうち、マヘ(前)に進むことを表すマヘツキミというヤマトコトバである。マヘ(前)を見て、マヘ(前)に進む。神職の人がお社(やしろ)の階段を昇降する際、横向きで一段ごとに左右の歩を揃え進めるような幅のある組まれた階段ではなく、1本の材でできたキザハシであることを主張している。
しかし、1本のキザハシだとすると、前にしか進まないマヘツキミが参内した場合、高田行宮に渋滞が生じてしまう。歌には「い渡らすも」と円滑にお出でになっている。献上品、特に「御木(みけ)」と同音の「御食(みけ)」を上げたら、必ず下げることもしなければならない。複線化していなければ歌の意味は成り立たない。歌では「御木のさをばし」は2回繰り返されている。地の文でも、倒れる前には朝日に当っては杵嶋山を、夕日に当っては阿蘇山を隠したとしている。1本のクヌギではあるが、2つに分れ立っていることを謂わんとしているのではないか。上り専用と下り専用のキザハシが1本のクヌギからできているということである。そのようなほとんどV字型をしたY字形のものを我々は知っている。松葉杖である。「長さ九百七十丈(ここのほつゑあまりななそつゑ)」と訓まれている。長さの助数詞にしてきちんとツヱと、それも二度読みするように記されている。
そんな形の木は、大木としても目にすることがある。「あがりこ」、また、「あがりこ型樹形」(pollard)と呼ばれるものである(注7)。一定の高さで伐採したところから新しい幹を萌芽させるためにそこが肥大化し、登るのに足掛かりとなっている。畑では、クワが低い位置で刈られては毎年同じところから徒長枝を伸ばしている。庭では、サルスベリが拳仕立てに作られて瘤を作っている。山では、東北地方を中心に薪炭のためにブナを台伐りして萌芽更新することが行われてきた。京都では、床柱生産や庭木用に台杉(北山杉)が栽培されている。すなわち、当地では、あがりこ樹形の台場クヌギが作られ、大木になって二股に分れて上へ伸びていた。さらに、あまい枝打ちが加えられながら高く伸びていっていたものがあったということであろう。それが枯れた時に斜面に倒れかかり、高いところにある行宮への昇降の便となった。それによって、前しか向いていないマヘツキミの出仕に差支えがなかったことを表している。「あがりこ」なのだから、ハシはキザハシのことを指して間違いない。
左:わき枝を伐れば足掛かりになりそうなクヌギ、右:梯子を使ってクヌギの「さをばし」のもとを作る図(只見町ブナセンター2013.「台伐り萌芽による利用方法」図(4頁)を改変)
ところが、そこはもともと、ツクシノミチノシリノクニ(筑紫後国)とされている。ミチノシリノクニとは道の尻の国のことを言う。都から見て遠い方の国、シリヘ(尻方)に位置することを示す。言葉上では後ずさりすることまで表してしまう。マヘツキミがシリノクニにいるのは矛盾がある。そんなことが可能になっているのは何かその樹にからくりがあるに違いないと思い、尋ねてみている。「一老夫」は、もと大きな「歴木(くぬぎ)」であったと答えている。クヌギは、クニ(陸、国)の音転のクヌのキ(木)という意に取ることができる。天皇は、この木がすべての不思議を内に含んでいると悟った。そして、ツクシノミチノシリノクニという名は易えて、これからはミケノクニ(御木国)と呼ぶようにせよ、と言っている。
「歴木」字の含意と枕詞「朝霜の」
老夫の説明する「歴木(くぬぎ)」は櫪や櫟という字で記すこともある。新撰字鏡に、「櫪・櫟 同、閭激反、馬櫓、久比是(くひぜ)、又、久奴木(くぬぎ)也」、和名抄に、「挙樹 本草に云はく、挙樹〈久奴岐(くぬぎ)〉といふ。日本紀私記に云はく、歴木といふ。」と見える。紀の編纂者は特に「歴木」と書いている。「歴」字は説文に、「歷 過也、伝也、止に从ひ厤声」とある(注8)。すぎる、うつる、へる、わたる、の意で、空間的、時間的な遍歴を示す。歴階や歴級とは、キザハシの一段ごとに片足をかけて上ることを言い、階ごとに両足揃えることなくずんずん上ることを指している。つまり、この木のおかげで高田行宮への奉仕にためらうことなくどんどん訪れることを言っている。台場クヌギのおかげで上り専用と下り専用のキザハシが確保されている。
廐の様子(旧広瀬家住宅、川崎市立日本民家園展示)
新撰字鏡に見える「櫪」の説明の「馬櫓」とは、正字通に、「牛馬皁、説文、櫪㯕、椑指、謂三馬廐細柵欄如二指排一也」(国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200020612/viewer/1251。返り点等を付した。)とあるものと思われる。廐に間塞(ませ)棒がかけられて柵となっている様子を、指ひしぎに自由に動かせないことに準えている。馬だから出られないのであり、人ならば梯子としてよじ登って行くことができる。そしてまた、「櫪」は飼葉桶のことも表す。高田行宮というところに天皇は滞在していて出掛けることもなく、百寮は梯子を登って来てはうまい食べ物をどんどん運んできている。だから、紀の執筆においてヤマトコトバにハシにあたると得意になり、「歴木」と書いているのである。
「朝霜の〔阿佐志毛能〕」は朝の霜は消えやすいことから、「消(け、ケは乙類)」にかかる枕詞、ないし、それ自体が意味を持つ、表現のための修飾語であるとされている。両者は偏差であり、捉え方は恣意的である。同じ言葉で同じく「消(け)」に続いているところからすると、一番考えなければならない点は、上代の人が「朝霜の」という語と「消(け)」という語(音)との間に密接な関連性を見ていたということであろう。彼らは、「消(く)」という音は「朝霜の」と関係がないと思っている。
…… 服従(まつろ)はず 立ち向ひしも 露霜の 消(け)なば消ぬべく 行く鳥の 争ふはしに〈一に云はく、朝霜の 消なば消(く)といふに うつせみと 争ふはしに〉 渡会(わたらひ)の 斎(いつ)きの宮ゆ 神風に ……(万199)
朝霜の 消(け)やすき命 誰がために 千歳(ちとせ)もがもと 吾が思はなくに(万1375)
朝霜の 消なば消ぬべく 思ひつつ いかにこの夜を 明かしてむかも(万2458)
朝霜の 消ぬべくのみや 時なしに 思ひ渡らむ 息の緒にして(万3045)
そこから発展して、同音のケ(乙類)を含む「御木(みけ、ミは甲類、ケは乙類)」にもかかるとされている。「朝霜の」と「御木(みけ)」とは意味につながりがないからケという音に従う枕詞であるという。しかし、ミケ(ミは甲類、ケは乙類)には「御食(みけ)」という語がある。
是の日に、肇(はじ)めて奠(みけ)進(たちまつ)りて即ち誄(しのひことたてまつ)る。(天武紀朱鳥元年九月)
「朝霜の」が、ケ、ミケにともにかかる枕詞と考えるには、「朝霜の」という音についてさらに考察する必要があろう(注9)。「しも」という助詞は奈良時代に「し」と同様に使われた。体言を承けてその不確実なことを示す役目を果している。つまり、「朝しも」と聞けば、本当に朝なのかというニュアンスを伝えており、古代のケ(食事)のあり方とよく呼応するものである。それはまた、この説話の時候が七月に設定されていて、霜など降りようはずもないのにという自己循環定義的な言葉のあり様にも及んでいて、ふだんならあり得ないことが起っていることをよく伝える言葉使いとなっている。
古代の食事は一日二食が基本で、朝食は午前8時頃、夕食は午後4時頃であったとする説がある(注10)。当時の人は暗い時間には活動しなかった。律令官吏の場合、朝廷は日の出から仕事が始まるため、我々が考えるように起床して朝食を摂ってから出勤するのではなく、食事をせずに出勤して朝飯前の仕事をし、そのあと給食されたのが朝食であった。語としては平安時代中期の用例にしか遡れないが、それがいわゆる「朝餉(あさけ)」であり、天皇のそれは朝餉(あさがれひ)などとも称された。朝という語は、一日を活動時間を中心に区分して、朝(あさ)─昼(ひる)─夕(ゆふ)と区分したものである。けれども、朝食はほとんど昼の時間帯にかかるようになっている。他の「朝」と冠する語の場合、夜が明けて日が出始めて明るくなった時刻にまつわる言葉が多い。「朝影」、「朝霧」、「朝狩」、「朝露」、「朝戸」、「朝凪」、「朝日」などである。他方、「朝霜」については、霜が立っている時のことよりも融けていく様子を見て取った言葉のようで、「朝霜の 消(け)ぬべく」という常套句となっている。寒い季節になれば、「朝霜」が消えるのは朝も進行して昼近くになった頃である(注11)。上代の人は口頭言語の使用に巧みであり、頓智が効いたから、「朝霜の」「け(食)」という言い方は本当に朝なのか、「朝しも」という不確実性の表明に図星な表現であると思われたのであろう。「朝霜の」消える頃、朝かどうか不確かな時刻に朝の「御食(みけ)」を召し上がるとおもしろがられた結果、同音の「御木(みけ)」にかかる枕詞にされていると考える。
御木の高田行宮へ仕えている光景は、なによりも天皇の食事を運んでいるものと想像される。九州物産展に見るうまい食事が進上される。うまいから残さず食べる。お皿の上のものをすべて平らげて、「朝霜の」ように全部消えてなくなるのである。それはちょうど、飼葉桶である馬槽に入れられた餌を廐のなかにいる馬がうまいうまいと平らげることに等しい。櫪の階段が廐の柵をも意味していることは、紀の書記官にとって、地方平定のことまで言い含めてしまうのに都合のいい言い方であったろう。さらにまた、歌謡の語は相互に有機的な連関を来しており、「さをばし」のなかにもハシ(箸)という語が隠れている。「御木(みけ)」という場所で食べるミケ(御食)のための道具である。箸は2本セットであってはじめて一膳の箸になる。そのためにも、歌のなかで2回歌われる必要があった。2回歌われれば箸にもなる(注12)し、1本の木から成るのに昇降ともに使えるキザハシであったと、言い得て妙ということになる。一つの小咄で完結する、頓智論理に長けた歌謡説話が作られていたのであった。
(注)
(注1)青木1978.に、「景行紀十八年条の「御木のさ小橋」伝承は、地名(国名)起源伝承として素朴な型をもつ巨木伝承が、宮廷寿歌を取り込むことにより、新たに発展したものであるといえよう。」(36頁)とある。
(注2)西宮1996.は、「実際は大木であり、「御木」といふ語から思ひ浮かべる「御木」(神木)なのであるが、それを「時人」は「御木のさ小橋」といふやうな、「御木(地名)の可愛い橋」といふ一般の言葉に置換へて表現したのではないかと考へる。……いくら倒木だといつても、その土地では神木として崇められてゐる大木を、群臣が「踏みて往来ふ」といふことに対して、「時人」の批判が集中した。ところが「時人」はそれをストレートに歌はずに、「御木(地名)のさ小橋」といふ表現にして謡つたものと考へる」(8~9頁)とし、本文と歌との乖離を解こうとしている。
(注3)松田2007.は、「まず行宮周辺の全体を見渡す視点で、百寮が倒木を踏み出仕する状況が説明される。そしてその状況をそのまま時人の言葉(この場合は歌)を使って言い換えられる。そして、それがスイッチとなって、天皇が「この木は何か」と問いを発する」(91頁)構造になっているとしている。
(注4)山路1973.に、「朝廷に仕える高位の侍臣が、「みけのさをはし」を渡って奉仕する有様を歌ってもので、……憧憬あるいは畏怖の心をもって、その状態を詠嘆しているだけである。この歌謡では「みけのさをはし」がきわめて重要な物になっている。それは、枕詞と思われるものを冠して歌われ、更に繰返して歌っていることで知られる。」(297頁)とある。
(注5)大樹に対して小橋というのは合わないからとして消去法的にサヲは「竿」であるとする考えが見られる。例えば、新釈全訳日本書紀481頁。
(注6)小野2020.に、「「まへつきみ」と見紛うばかりに威儀を正した百寮が、霜も消えないような早朝に景行天皇の行宮へ「御木のさを橋」を踏んで出仕する情景は、理想的な朝廷の姿そのものといえるだろう。」(287頁)とある。
(注7)他の仮説として、幹に瘤がついていて刻みが付けられているのと同じ効果があったとすることも考えられなくはない。太い幹に瘤が付く例としてはマツのこぶ病がよく知られる。サビ菌の繁殖による。サクラやフジなどにもよく見られる。盛りあがっているところを足がかりにして階段を上り下りすることができる。クヌギの場合、小さな瘤が多数付くことや、伐った後もシイタケの原木になるようにたくさんキノコが生える。それを段として人が登ったと見立てたとするのかもしれないが、言葉として確かめられるものがないので筆者は採らない。
(注8)白川1995.に、「もと軍功をいう字で あった。〔説文〕二上に「過るなり」とするが、 ただ経過することをいうのではない。厂は崖の下などの要所。秝は禾形の標識を左右に立てた形で、いわゆる両禾軍門。軍礼を行なうところである。そこで軍の功歴を数えて、旌表を行なう。その功歴の数うべきものを歴という。金文に「蔑暦」という語があり、「曆を蔑す」とよむ。曆(暦)は功歴を旌表する祝詞を収めた曰に従う形。のち各地をめぐることを歴遊、年を経ることを歴年、世を歴ることを歴世という。「經る」ことを重ねて年時を積み、「古」となるのである。」(655頁、漢字の旧字体は改めた。)とある。
(注9)武田1956.に、「阿佐志毛能」を「朝じもの」と訓んで、「朝のものである意に、枕詞として、ミケ(御食)に冠するのだろう。」(248頁)とする説があるが、「志」をジと濁る仮名の例は記では他に見られない。
(注10)主食を伴わないものは間食として除外し、平城宮跡出土木簡「常食朝夕」や、また、その後の時代の文献の叙述から古代には二食であったとされている。酒井2019.は、伊勢神宮の「日毎朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)」から平安時代の食事について推測し、その時刻が4月から9月は午前8時と午後4時、10月から3月は午前9時と午後3時なので、おおむねその時刻であったろうとしている。ただ、今日でも一日三食が当り前のように言われながら二食や一食の人もいれば、五・六食の人もいるし、時間もまちまちである。古代の朝食は時刻の記録に乏しく定かではない。天皇の朝餉の場合、平安時代の記録に、巳時(午前10時頃)や午一刻(11時)とするものが見える。「御食」は官人の「食」よりも遅かった可能性もあろう。天皇の料理人が作った食事は、官人が食べて毒見役となり、然る後、御膳を出していたという意味である。
(注11)日本書紀が編纂された時期は、古気象学に、西暦620年頃~740年頃の万葉寒冷期、大化改新寒冷期と呼ばれる比較的寒い時期に当たる。
(注12)平城宮跡から箸の出土例はあるが、平城京跡からはほとんど見られず、箸の庶民への普及は遅かったとする説がある。一方、高倉2011.は、「須恵器の杯・皿の登場を目安として、箸・匙の登場が考えられよう。」(77頁)としている。また、ヤマタノヲロチ退治譚に見られる川を流れ下る箸は真ん中で折り曲げられたピンセット状のもの、いわゆる折箸であったかとする説もある。そして、2本で一膳とする箸について、記紀の説話に登場することはなかろうと考える向きがある。本稿に、二股状のキザハシをサヲバシと見ていたことが明らかとなった。だからといって、2本で一膳とする箸が弥生時代や古墳時代になかったとは言い切れない。庶民層の遺構から箸の出土例が少ないのは、使い捨てずに焚きつけに使ったことも考えられる。道具の形状が問題なのではなく、古代人の考え方に、食具としてハシ(箸)を使うことが当り前に認識されていたことが重要である。ワンプレートの大皿にカレーライス形式の食生活が行われていたとは考えにくく、早くからハシ(箸)と呼ばれるもの、ハシ(箸)という言葉のものを使って食事を摂っていたと思われる。
(引用・参考文献)
青木1978. 青木周平「『記』『紀』にみえる巨木伝承─その展開と定着─」『上代文学』第41号、昭和53年11月。上代文学会・機関誌『上代文学』目次(創刊号~最新号)http://jodaibungakukai.org/02_contents.html(『古事記研究』おうふう、平成6年。『青木周平著作集 中巻─古代の歌と散文の研究─』おうふう、2015年。所収)
小野2020. 小野諒巳「『日本書紀』景行天皇条における「御木のさを橋」(紀24)歌の記載意義」『国学院雑誌』第121巻第11号、2020年11月。
酒井2019. 酒井伸雄『日本人のひるめし』吉川弘文館、2019年。(中央公論新社(中公新書)、2001年。初出)
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山路1973. 山路平四郎『記紀歌謡評釈』東京堂出版、昭和48年。
秋七月の辛卯の朔にして甲午に、筑紫後国(つくしのみちのしりのくに)の御木(みけ)に到りて、高田行宮(たかたのかりみや)に居(ま)します。時に僵(たふ)れたる樹(き)有り。長さ九百七十丈(ここのほつゑあまりななそつゑ)。百寮(つかさつかさ)、其の樹を蹈(ほ)みて往来(かよ)ふ。時人(ときのひと)、歌(うたよみ)して曰く、
朝霜の 御木(みけ)のさをばし 群臣(まへつきみ) い渡らすも 御木のさをばし(紀24)
爰(ここ)に天皇、問ひて曰はく、「是(これ)何の樹ぞ」とのたまふ。一(ひとり)の老夫(おきな)有りて曰さく、「是の樹は歴木(くぬぎ)といふ。嘗(むかし)、未だ僵れざる先(さき)に、朝日の暉(ひかり)に当りて、則ち杵嶋山(きしまのやま)を隠しき。夕日の暉に当りては、阿蘇山(あそのやま)を覆(かく)しき」とまをす。天皇の曰はく、「是の樹は、神(あや)しき木なり。故、是の国を御木国(みけのくに)と号(よ)べ」とのたまふ。(景行紀十八年七月)
歌謡を伴う地名説話である。これまで、歌謡について、天皇に対する讃美の歌とする解釈(注1)、神木であることを知らずに踏みつけた群臣を批判する歌とする解釈(注2)、巡幸する天皇がその土地の出来事を問うて地名を名づけるための導入のための歌とする解釈(注3)などが行われてきた。基本的に、どのような背景から作られているかということに心を砕いている。筆者は、すべてはヤマトコトバの話なのだからヤマトコトバのうちに話(咄・噺・譚)として悟ることを目指している。上代の人たちが了解した、その了解の仕方をそのままに見て取ろうとしている。言=事がどうであったかがわからないまま背景を探っても仕方がない。よくわからない話が伝えられ、それが人々に伝わるなどあり得ない。
内容はシンプルである。大樹が倒れてそれが「さをばし」になっていて、その「さをばし」を往来している。古老の話によれば、立っていた時は、東西にある大きな山に影を作るほどであったというのである。天皇は不思議な木だからそれにあやかって御木国(みけのくに)と呼ぶようにと言ったというのである。
そのなかに紀24歌謡が組み込まれている。その組み込まれ方が現代の人の思考法にしっくりこないところがあり、諸説が行われている。
話は命名譚である。それが定着したかどうかはともかく、天皇は「御木国(みけのくに)」と名づけている。それまでは、「筑紫後国(つくしのみちのしりのくに)」であった。名易えが行われている。有名な名易えの話に、応神天皇の角鹿での御食津大神との名の交換の話が知られる。
故、建内宿禰命(たけうちのすくねのみこと)、其の太子(おほみこ)を率(ゐ)て、禊(みそぎ)せむと為て、淡海と若狭との国を経歴(へ)し時に、高志(こし)の前(みちのくち)の角鹿(つぬが)に仮宮を造りて坐しき。爾くして、其地(そこ)に坐す伊奢沙和気大神(いざさわけのおほかみ)の命(みこと)、夜の夢(いめ)に見えて云ひしく、「吾が名を以て、御子の御名に易(か)へまく欲し」といひき。爾くして、言禱(ことほ)きて白(まを)ししく、「恐(かしこ)し、命(みこと)の随(まにま)に易へ奉らむ」とまをしき。亦、其の神の詔(のりたま)ひしく、「明日(くつるひ)の旦(あした)に、浜に幸(いでま)すべし。名を易へし幣(まひ)を献らむ」とのりたまひき。故、其の旦に浜に幸行(いでま)しし時、鼻を毀(こほ)てる入鹿魚(いるか)、既に一浦(ひとうら)に依りき。是に御子、神に白(まを)さしめて云ひしく、「我に御食(みけ)の魚(な)を賜へり」といひき。故、亦、其の御名を称へて、御食津大神(みけつおほかみ)と号(なづ)けき。故、今に気比大神(けひのおほかみ)と謂ふ。亦、其の入鹿魚の鼻の血、臰(くさ)し。故、其の浦を号けて血浦(ちぬら)と謂ひき。今に都奴賀(つぬが)と謂ふ。(仲哀記)
「御食」も「御木」も同じくミケ(ミは類、ケは類)である。名易えの話であることをよく物語っている。地の文に、「百寮蹈二其樹一而往来。」とあり、「僵樹」が1本ある。僵樹の上を百寮が往来するのは尤もなことである。なぜなら、ツカサツカサと言うからである。「往」くツカサと「来」るツカサがあることをきちんと表している。高田行宮に出仕することと退出することの両方がある。それが証拠に、「御木のさをばし」という語が歌のなかに2度出てくる。往き来しているからである(注4)。往き来する人が1本の「樹」に行き違えるのかについては後述する。
ミケ(御木)というところなのだから、ミケ(御食)を献りに参上しているということである。
そして、そこは高田行宮という名である。標高の高いところにあることを予感させる。そこに「さをばし」が架かっていて出仕している。
「さをばし」について
「さをばし〔佐烏麼志〕」について、①竿橋説、②狭小橋説、③さ小橋説、また、④竿堦説があげられている。ハシ(橋)という語は、端と端との間を渡すものの意で、橋(平面上のもの)、梯(はしご状のもの)、階(階段状のもの)などを総括して示す言葉である。和名抄に、「橋〈葱台〉 説文に云はく、橋〈音は喬、波之(はし)〉は水上の木を横(へだ)てて渡る所以也といふ。爾雅注に云はく、梁〈音は良〉は即ち水橋也といふ。楊氏漢語抄に云はく、葱台〈比良岐波之良(ひらきはしら)〉は橋の両端に竪つる所の柱、其の頭、葱の花に似たる故に云ふといふ。」、「独梁 淮南子に云はく、独梁〈比度豆波之(ひとつばし)、今案ふるに又、一名に独木橋とかむがふ、翰苑等に見ゆ〉は徒(ただ)横に一木の梁也といふ。」、「梯 郭知玄に云はく、梯〈音は低、加介波之(かけはし)〉は木の堦にして高きに登る所以也といふ。唐韻に云はく、桟〈音は棧、一音に賤、訓は上に同じ〉は板木の険しきに構へて道と為る也といふ。」などとある。
現在の解説書では、③説が有力視され、②説を含むとする考えが小野2020.に示されている。①説は、釈日本紀の「竿橋也。言、一橋也。」(国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100223819/viewer/416)を嚆矢として採る説がある(注5)。サヲを竿(棹)のこととした場合、洗濯物を掛ける物干し竿は卑近な道具であったろうが、上代では特に船具として万葉集に詠まれている。水底や岩礁などを突いて船を操る。
船具のサヲは、水の底や岸の岩などを突いてその反作用で船を操るもの、刺して使うものである。
大君の 命(みこと)畏み 見れど飽かぬ 奈良山越えて 真木(まき)積む 泉の川の 早き瀬を 竿さし渡り ちはやぶる 宇治の渡(わたり)の 滝(たぎ)つ瀬を 見つつ渡りて ……(万3240)
夏の夜は 道たづたづし 船に乗り 川の瀬ごとに 棹さし上(のぼ)れ(万4062)
…… 御調(みつき)の船は 堀江より 水脈(みを)引(び)きしつつ 朝凪に 楫(かぢ)引き上り 夕潮に 竿さし下り あぢ群(むら)の 騒き競(きほ)ひて 浜に出でて 海原見れば ……(万4360)
その「刺し」と同音が「朝霜の」のなかに隠れている。ア(接頭辞)+サシ(刺)+モノ(物)である。「あさしもの」という語は「さをばし」までも修飾する語である可能性が出てきた。
往来する場所は、「高田行宮」である。行宮が高田にあたるところに実態としてあったとすると、高いところにある棚田のようなものと受け止められよう。石を積むなどして畦(あぜ)を高くし、水を張って田としている。酒が中に入っている槽のことは酒槽(さかふね)、飼葉が入っているものは馬槽(うまふね)というように、フネ(槽)と呼ばれる。したがって、船の用語であるサヲという語を使っていて妥当である。そして、高いところに行宮があってそこへ参じるのだから、ハシは、キザハシ(階)のことを指していると見て取ることができる。
倒木が倒れかかり、高田行宮へ上っていける階段となっている。どうしてそれが1本の木でできているのかが謎かけなのであろう。「時有二僵樹一。長九百七十丈焉。百寮蹈二其樹一而往来。」と、巨木であることが述べられている。同時に、天皇は、「是樹者神木。」であると感慨を述べるに至っている。1本の木でできている階段については、古代の出土例に事欠かない。1本の丸太に段々となる刻みをつけたものである。「神木」とある表記に引きずられて神威的な霊妙さを読み取りがちであるが、「神(あや)し」は、単に不思議である、珍しい、うまくできている、の意と考えた方が正しいのではないか。特に加工を施さずとも、はじめから木の幹に瘤がついていて、そこを足掛かりに上り下りすることができたから、「神(あや)しき木」であると言っているものと思われる。
左:高倉ジオラマ(橿原考古学研究所附属博物館展示品)、右:梯子(弥生時代後期、唐子・鍵遺跡、田原本町「唐子・鍵総合サイト」http://www.town.tawaramoto.nara.jp/karako_kagi/museum/search/1/yayoinokurashi/kurashinonakanodogu/hashigo/7452.html)
歌に、「群臣(まへつきみ)」とある。地の文に「百寮」とあったのに代わっている。「百寮」に「群臣」は含まれる、あるいは言い換えであると説かれているが、なにゆえ言い換えてあるのか検討されなくてはならない(注6)。
「時人(ときのひと)」が勝手に歌を歌っている。そこに登場するのは「群臣(まへつきみ)」である。マヘツキミは、天皇のマヘ(前)に侍るキミ(公)のことである。天皇に面前する朝廷内でも高位の侍臣である。ここで「時人」が使いたかったのは、天皇に仕える者のうち、マヘ(前)に進むことを表すマヘツキミというヤマトコトバである。マヘ(前)を見て、マヘ(前)に進む。神職の人がお社(やしろ)の階段を昇降する際、横向きで一段ごとに左右の歩を揃え進めるような幅のある組まれた階段ではなく、1本の材でできたキザハシであることを主張している。
しかし、1本のキザハシだとすると、前にしか進まないマヘツキミが参内した場合、高田行宮に渋滞が生じてしまう。歌には「い渡らすも」と円滑にお出でになっている。献上品、特に「御木(みけ)」と同音の「御食(みけ)」を上げたら、必ず下げることもしなければならない。複線化していなければ歌の意味は成り立たない。歌では「御木のさをばし」は2回繰り返されている。地の文でも、倒れる前には朝日に当っては杵嶋山を、夕日に当っては阿蘇山を隠したとしている。1本のクヌギではあるが、2つに分れ立っていることを謂わんとしているのではないか。上り専用と下り専用のキザハシが1本のクヌギからできているということである。そのようなほとんどV字型をしたY字形のものを我々は知っている。松葉杖である。「長さ九百七十丈(ここのほつゑあまりななそつゑ)」と訓まれている。長さの助数詞にしてきちんとツヱと、それも二度読みするように記されている。
そんな形の木は、大木としても目にすることがある。「あがりこ」、また、「あがりこ型樹形」(pollard)と呼ばれるものである(注7)。一定の高さで伐採したところから新しい幹を萌芽させるためにそこが肥大化し、登るのに足掛かりとなっている。畑では、クワが低い位置で刈られては毎年同じところから徒長枝を伸ばしている。庭では、サルスベリが拳仕立てに作られて瘤を作っている。山では、東北地方を中心に薪炭のためにブナを台伐りして萌芽更新することが行われてきた。京都では、床柱生産や庭木用に台杉(北山杉)が栽培されている。すなわち、当地では、あがりこ樹形の台場クヌギが作られ、大木になって二股に分れて上へ伸びていた。さらに、あまい枝打ちが加えられながら高く伸びていっていたものがあったということであろう。それが枯れた時に斜面に倒れかかり、高いところにある行宮への昇降の便となった。それによって、前しか向いていないマヘツキミの出仕に差支えがなかったことを表している。「あがりこ」なのだから、ハシはキザハシのことを指して間違いない。
左:わき枝を伐れば足掛かりになりそうなクヌギ、右:梯子を使ってクヌギの「さをばし」のもとを作る図(只見町ブナセンター2013.「台伐り萌芽による利用方法」図(4頁)を改変)
ところが、そこはもともと、ツクシノミチノシリノクニ(筑紫後国)とされている。ミチノシリノクニとは道の尻の国のことを言う。都から見て遠い方の国、シリヘ(尻方)に位置することを示す。言葉上では後ずさりすることまで表してしまう。マヘツキミがシリノクニにいるのは矛盾がある。そんなことが可能になっているのは何かその樹にからくりがあるに違いないと思い、尋ねてみている。「一老夫」は、もと大きな「歴木(くぬぎ)」であったと答えている。クヌギは、クニ(陸、国)の音転のクヌのキ(木)という意に取ることができる。天皇は、この木がすべての不思議を内に含んでいると悟った。そして、ツクシノミチノシリノクニという名は易えて、これからはミケノクニ(御木国)と呼ぶようにせよ、と言っている。
「歴木」字の含意と枕詞「朝霜の」
老夫の説明する「歴木(くぬぎ)」は櫪や櫟という字で記すこともある。新撰字鏡に、「櫪・櫟 同、閭激反、馬櫓、久比是(くひぜ)、又、久奴木(くぬぎ)也」、和名抄に、「挙樹 本草に云はく、挙樹〈久奴岐(くぬぎ)〉といふ。日本紀私記に云はく、歴木といふ。」と見える。紀の編纂者は特に「歴木」と書いている。「歴」字は説文に、「歷 過也、伝也、止に从ひ厤声」とある(注8)。すぎる、うつる、へる、わたる、の意で、空間的、時間的な遍歴を示す。歴階や歴級とは、キザハシの一段ごとに片足をかけて上ることを言い、階ごとに両足揃えることなくずんずん上ることを指している。つまり、この木のおかげで高田行宮への奉仕にためらうことなくどんどん訪れることを言っている。台場クヌギのおかげで上り専用と下り専用のキザハシが確保されている。
廐の様子(旧広瀬家住宅、川崎市立日本民家園展示)
新撰字鏡に見える「櫪」の説明の「馬櫓」とは、正字通に、「牛馬皁、説文、櫪㯕、椑指、謂三馬廐細柵欄如二指排一也」(国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200020612/viewer/1251。返り点等を付した。)とあるものと思われる。廐に間塞(ませ)棒がかけられて柵となっている様子を、指ひしぎに自由に動かせないことに準えている。馬だから出られないのであり、人ならば梯子としてよじ登って行くことができる。そしてまた、「櫪」は飼葉桶のことも表す。高田行宮というところに天皇は滞在していて出掛けることもなく、百寮は梯子を登って来てはうまい食べ物をどんどん運んできている。だから、紀の執筆においてヤマトコトバにハシにあたると得意になり、「歴木」と書いているのである。
「朝霜の〔阿佐志毛能〕」は朝の霜は消えやすいことから、「消(け、ケは乙類)」にかかる枕詞、ないし、それ自体が意味を持つ、表現のための修飾語であるとされている。両者は偏差であり、捉え方は恣意的である。同じ言葉で同じく「消(け)」に続いているところからすると、一番考えなければならない点は、上代の人が「朝霜の」という語と「消(け)」という語(音)との間に密接な関連性を見ていたということであろう。彼らは、「消(く)」という音は「朝霜の」と関係がないと思っている。
…… 服従(まつろ)はず 立ち向ひしも 露霜の 消(け)なば消ぬべく 行く鳥の 争ふはしに〈一に云はく、朝霜の 消なば消(く)といふに うつせみと 争ふはしに〉 渡会(わたらひ)の 斎(いつ)きの宮ゆ 神風に ……(万199)
朝霜の 消(け)やすき命 誰がために 千歳(ちとせ)もがもと 吾が思はなくに(万1375)
朝霜の 消なば消ぬべく 思ひつつ いかにこの夜を 明かしてむかも(万2458)
朝霜の 消ぬべくのみや 時なしに 思ひ渡らむ 息の緒にして(万3045)
そこから発展して、同音のケ(乙類)を含む「御木(みけ、ミは甲類、ケは乙類)」にもかかるとされている。「朝霜の」と「御木(みけ)」とは意味につながりがないからケという音に従う枕詞であるという。しかし、ミケ(ミは甲類、ケは乙類)には「御食(みけ)」という語がある。
是の日に、肇(はじ)めて奠(みけ)進(たちまつ)りて即ち誄(しのひことたてまつ)る。(天武紀朱鳥元年九月)
「朝霜の」が、ケ、ミケにともにかかる枕詞と考えるには、「朝霜の」という音についてさらに考察する必要があろう(注9)。「しも」という助詞は奈良時代に「し」と同様に使われた。体言を承けてその不確実なことを示す役目を果している。つまり、「朝しも」と聞けば、本当に朝なのかというニュアンスを伝えており、古代のケ(食事)のあり方とよく呼応するものである。それはまた、この説話の時候が七月に設定されていて、霜など降りようはずもないのにという自己循環定義的な言葉のあり様にも及んでいて、ふだんならあり得ないことが起っていることをよく伝える言葉使いとなっている。
古代の食事は一日二食が基本で、朝食は午前8時頃、夕食は午後4時頃であったとする説がある(注10)。当時の人は暗い時間には活動しなかった。律令官吏の場合、朝廷は日の出から仕事が始まるため、我々が考えるように起床して朝食を摂ってから出勤するのではなく、食事をせずに出勤して朝飯前の仕事をし、そのあと給食されたのが朝食であった。語としては平安時代中期の用例にしか遡れないが、それがいわゆる「朝餉(あさけ)」であり、天皇のそれは朝餉(あさがれひ)などとも称された。朝という語は、一日を活動時間を中心に区分して、朝(あさ)─昼(ひる)─夕(ゆふ)と区分したものである。けれども、朝食はほとんど昼の時間帯にかかるようになっている。他の「朝」と冠する語の場合、夜が明けて日が出始めて明るくなった時刻にまつわる言葉が多い。「朝影」、「朝霧」、「朝狩」、「朝露」、「朝戸」、「朝凪」、「朝日」などである。他方、「朝霜」については、霜が立っている時のことよりも融けていく様子を見て取った言葉のようで、「朝霜の 消(け)ぬべく」という常套句となっている。寒い季節になれば、「朝霜」が消えるのは朝も進行して昼近くになった頃である(注11)。上代の人は口頭言語の使用に巧みであり、頓智が効いたから、「朝霜の」「け(食)」という言い方は本当に朝なのか、「朝しも」という不確実性の表明に図星な表現であると思われたのであろう。「朝霜の」消える頃、朝かどうか不確かな時刻に朝の「御食(みけ)」を召し上がるとおもしろがられた結果、同音の「御木(みけ)」にかかる枕詞にされていると考える。
御木の高田行宮へ仕えている光景は、なによりも天皇の食事を運んでいるものと想像される。九州物産展に見るうまい食事が進上される。うまいから残さず食べる。お皿の上のものをすべて平らげて、「朝霜の」ように全部消えてなくなるのである。それはちょうど、飼葉桶である馬槽に入れられた餌を廐のなかにいる馬がうまいうまいと平らげることに等しい。櫪の階段が廐の柵をも意味していることは、紀の書記官にとって、地方平定のことまで言い含めてしまうのに都合のいい言い方であったろう。さらにまた、歌謡の語は相互に有機的な連関を来しており、「さをばし」のなかにもハシ(箸)という語が隠れている。「御木(みけ)」という場所で食べるミケ(御食)のための道具である。箸は2本セットであってはじめて一膳の箸になる。そのためにも、歌のなかで2回歌われる必要があった。2回歌われれば箸にもなる(注12)し、1本の木から成るのに昇降ともに使えるキザハシであったと、言い得て妙ということになる。一つの小咄で完結する、頓智論理に長けた歌謡説話が作られていたのであった。
(注)
(注1)青木1978.に、「景行紀十八年条の「御木のさ小橋」伝承は、地名(国名)起源伝承として素朴な型をもつ巨木伝承が、宮廷寿歌を取り込むことにより、新たに発展したものであるといえよう。」(36頁)とある。
(注2)西宮1996.は、「実際は大木であり、「御木」といふ語から思ひ浮かべる「御木」(神木)なのであるが、それを「時人」は「御木のさ小橋」といふやうな、「御木(地名)の可愛い橋」といふ一般の言葉に置換へて表現したのではないかと考へる。……いくら倒木だといつても、その土地では神木として崇められてゐる大木を、群臣が「踏みて往来ふ」といふことに対して、「時人」の批判が集中した。ところが「時人」はそれをストレートに歌はずに、「御木(地名)のさ小橋」といふ表現にして謡つたものと考へる」(8~9頁)とし、本文と歌との乖離を解こうとしている。
(注3)松田2007.は、「まず行宮周辺の全体を見渡す視点で、百寮が倒木を踏み出仕する状況が説明される。そしてその状況をそのまま時人の言葉(この場合は歌)を使って言い換えられる。そして、それがスイッチとなって、天皇が「この木は何か」と問いを発する」(91頁)構造になっているとしている。
(注4)山路1973.に、「朝廷に仕える高位の侍臣が、「みけのさをはし」を渡って奉仕する有様を歌ってもので、……憧憬あるいは畏怖の心をもって、その状態を詠嘆しているだけである。この歌謡では「みけのさをはし」がきわめて重要な物になっている。それは、枕詞と思われるものを冠して歌われ、更に繰返して歌っていることで知られる。」(297頁)とある。
(注5)大樹に対して小橋というのは合わないからとして消去法的にサヲは「竿」であるとする考えが見られる。例えば、新釈全訳日本書紀481頁。
(注6)小野2020.に、「「まへつきみ」と見紛うばかりに威儀を正した百寮が、霜も消えないような早朝に景行天皇の行宮へ「御木のさを橋」を踏んで出仕する情景は、理想的な朝廷の姿そのものといえるだろう。」(287頁)とある。
(注7)他の仮説として、幹に瘤がついていて刻みが付けられているのと同じ効果があったとすることも考えられなくはない。太い幹に瘤が付く例としてはマツのこぶ病がよく知られる。サビ菌の繁殖による。サクラやフジなどにもよく見られる。盛りあがっているところを足がかりにして階段を上り下りすることができる。クヌギの場合、小さな瘤が多数付くことや、伐った後もシイタケの原木になるようにたくさんキノコが生える。それを段として人が登ったと見立てたとするのかもしれないが、言葉として確かめられるものがないので筆者は採らない。
(注8)白川1995.に、「もと軍功をいう字で あった。〔説文〕二上に「過るなり」とするが、 ただ経過することをいうのではない。厂は崖の下などの要所。秝は禾形の標識を左右に立てた形で、いわゆる両禾軍門。軍礼を行なうところである。そこで軍の功歴を数えて、旌表を行なう。その功歴の数うべきものを歴という。金文に「蔑暦」という語があり、「曆を蔑す」とよむ。曆(暦)は功歴を旌表する祝詞を収めた曰に従う形。のち各地をめぐることを歴遊、年を経ることを歴年、世を歴ることを歴世という。「經る」ことを重ねて年時を積み、「古」となるのである。」(655頁、漢字の旧字体は改めた。)とある。
(注9)武田1956.に、「阿佐志毛能」を「朝じもの」と訓んで、「朝のものである意に、枕詞として、ミケ(御食)に冠するのだろう。」(248頁)とする説があるが、「志」をジと濁る仮名の例は記では他に見られない。
(注10)主食を伴わないものは間食として除外し、平城宮跡出土木簡「常食朝夕」や、また、その後の時代の文献の叙述から古代には二食であったとされている。酒井2019.は、伊勢神宮の「日毎朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)」から平安時代の食事について推測し、その時刻が4月から9月は午前8時と午後4時、10月から3月は午前9時と午後3時なので、おおむねその時刻であったろうとしている。ただ、今日でも一日三食が当り前のように言われながら二食や一食の人もいれば、五・六食の人もいるし、時間もまちまちである。古代の朝食は時刻の記録に乏しく定かではない。天皇の朝餉の場合、平安時代の記録に、巳時(午前10時頃)や午一刻(11時)とするものが見える。「御食」は官人の「食」よりも遅かった可能性もあろう。天皇の料理人が作った食事は、官人が食べて毒見役となり、然る後、御膳を出していたという意味である。
(注11)日本書紀が編纂された時期は、古気象学に、西暦620年頃~740年頃の万葉寒冷期、大化改新寒冷期と呼ばれる比較的寒い時期に当たる。
(注12)平城宮跡から箸の出土例はあるが、平城京跡からはほとんど見られず、箸の庶民への普及は遅かったとする説がある。一方、高倉2011.は、「須恵器の杯・皿の登場を目安として、箸・匙の登場が考えられよう。」(77頁)としている。また、ヤマタノヲロチ退治譚に見られる川を流れ下る箸は真ん中で折り曲げられたピンセット状のもの、いわゆる折箸であったかとする説もある。そして、2本で一膳とする箸について、記紀の説話に登場することはなかろうと考える向きがある。本稿に、二股状のキザハシをサヲバシと見ていたことが明らかとなった。だからといって、2本で一膳とする箸が弥生時代や古墳時代になかったとは言い切れない。庶民層の遺構から箸の出土例が少ないのは、使い捨てずに焚きつけに使ったことも考えられる。道具の形状が問題なのではなく、古代人の考え方に、食具としてハシ(箸)を使うことが当り前に認識されていたことが重要である。ワンプレートの大皿にカレーライス形式の食生活が行われていたとは考えにくく、早くからハシ(箸)と呼ばれるもの、ハシ(箸)という言葉のものを使って食事を摂っていたと思われる。
(引用・参考文献)
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