ウケヒについては、須佐之男命(素戔嗚尊)と天照大御神(天照大神)の子生みのウケヒの場面を中心に多数論じられている。本稿では、上代の文献に残されている例において、それぞれの場面でウケヒがどのような役割、機能を果たしていたかについては深入りせず、ウケヒという語そのものについての論理学的な理解を目指す。もちろん、一般に用いられていた言葉、業界用語などではない言葉について、語釈はできても定義に定めきれるものではない。それでも、使われている用法や語の形成を類推することで、帰納してゆけば本来の意味がどのようなものであったかを概観することはできよう。
古典基礎語辞典に、動詞「うけふ」(誓ふ・祈ふ)は、「一定の条件のもとに神意や真実を問う意。連用形名詞ウケヒは、上代に行われた占いの一方法。占って現れた結果が甲ならば神意がある、もしくは真実であるとして可あるいは勝ち、乙ならば神意でない、もしくは真実でないとして不可あるいは負けと決めておき、占いを実行して出現した現象が甲か乙かによって事を判断する法。後には、ただ神に祈る意となり、中古に至ると、人の不幸を祈る意、呪う意に転じた。」(172頁)と解説され、「①神に対して先に条件を提示し、実際の現象を見て神意を判断する。……②神意あるいは真実であるか否かを示す証拠として、あることが起こる。……③神に祈る。……④呪う。……⑤人に悪いことが起きるようにと意地悪く思う。」(同頁、この項、筒井ゆみ子)とそれぞれの意味合いを語釈している。④⑤には中古の例、③には万葉集の例(注1)、①②にはともに古事記の例が載せられている。①が原義で、②に転義したのが最初期のウケヒ(ウケフ)と考えられよう。
白川1995.では、語の形成から説き起こすところがある。「うけふ〔誓〕」は「「受く」「諾く」の再活用形。神に祈って占った結果について、これを受け従う意。その選択を神にゆだねる占いの方法として、「うけひがり」などが行なわれた。類義語の「ちかふ」は「ちぎる」と同根の語で自己詛盟をすること。「のろふ」は他に呪詛が及ぶように祈ることをいう。」(142頁)としている。この解釈の問題点は、記紀の用例に必ずしも占いの結果に受け従っていない例が見られること、また、「神」の観念を前提に解釈すべき言葉なのか不明瞭な点である。縁結びにご利益があるとする神を耳にすることがあるが、ウケヒに特化した神は管見に入らない。
これら辞書類に対して、言葉の持つ論理的構造に近づこうとした考えが、土橋1989.に見える。「……ウケヒは過去・現在・未来の知ることのできない「真実」(「神意」ではない)を知るための卜占の方法として、また誓約(約束すること)を「真実」なものにするための方法として、実修される言語呪術であり、「もしAならば、A´ならむ」という形式は、「こう言えば、こうなる」という言霊信仰に基づく呪文の形式にほかならない。従来ウケヒを「真実」でなく、神意を知るための方法と解してきたのは、第一に呪術としての卜占の結果を神意の現われとする偏った宗教観念に災されたためであり、第二に「祈」「禱」などの漢字表記に惑わされたためである。」(55~56頁)と説明されている。
ウケヒの基本的な位置づけとして、土橋1989.のいう「こう言えば、こうなる」という考え方は、表面的にはほぼ当たるであろう(注2)が、呪術師がいたわけではなく呪術とは認めがたい。また、「スサノヲの尊の心が潔白(A)であるなら、生まれる子は男神(A´)であろう。スサノヲの尊の心が邪悪(B)であるなら、生まれる子は女神(B´)であろう。」(土橋1990.180頁)ということが、「男尊女卑の観念に基づくものであることは言うまでもない。」(182頁)といった判断に飛躍していいとは思われない。ウケヒの本質が他の観念に依って保証されていることになってしまう。また、ウケヒにおいて、「もしAならば、A´ならむ」ということを、「「もしAならば、A´である」「もしBならば、B´である」という形式をもつ二者択一的な言語呪術である。」(山口2005.171頁)と定位していいものなのかも疑問である。論理学的に二者択一とはなっておらず、言説として成り立たないと考える。ただ、これらの議論は多くのことを教えてくれている。ウケヒは言葉を用いた占いであること、そして、占いは未来予想のためのものであったことである(注3)。
記紀のウケヒの例を見る。
①素戔嗚尊と天照大神の天真名井のウケヒ
[素戔嗚尊]対へて曰はく、「請ふ、姉と共に誓(うけ)はむ。夫れ誓約(うけひ)の中(みなか)に、誓約之中、此には宇気譬能美儺箇(うけひのみなか)と云ふ。必ず当に子を生むべし。如し吾が所生(う)めらむ、是女ならば、濁き心有りと以為(おもほ)せ。若し是男ならば、清き心有りと以為せ」とのたまふ。(神代紀第六段本文)
②大山津見神が二人の娘を奉った理由を述べるウケヒ
爾くして、大山津見神(おほやまつみのかみ)、石長比売(いはながひめ)を返したまひしに因りて、大(いた)く恥ぢ、白し送りて言ひしく、「我が女(むすめ)二(ふたり)並べて立て奉りし由は、石長比売を使はさば、天神(あまつかみ)の御子の命は、雪零(ふ)り風吹くとも、恒に石(いは)の如く常(ときは)に堅(かちは)に動かず坐さむ。亦、木花之佐久夜比売(このはなのさくやびめ)を使はさば、木の花の栄ゆるが如く栄え坐さむと、うけひて貢進(たてまつ)りき。此(か)く、石長比売を返さしめて、独り木花之佐久夜毘売のみを留めたまふが故に、天つ神の御子の御寿(みいのち)は、木の花のあまひのみ坐さむ」といひき。故、是を以て今に至るまで、天皇命等(すめらみことたち)の御命(みいのち)長くあらぬぞ。(記上)
③木花開耶姫が出産する際のウケヒ
木花開耶姫(このはなのさくやびめ)、甚だ慙恨(は)ぢて、乃ち無戸室(うつむろ)を作りて、誓(うけ)ひて曰く、「吾が所娠(はら)める、是れ若し他神(あたしかみ)の子ならば、必ず不幸(さいはひな)けむ。是れ実に天孫の子ならば、必ず当に全く生きたまへ」といひて、則ち其の室の中に入りて、火を以(つ)けて室を焚(や)く。(神代紀第九段一書第二)
④神武天皇の夢占のウケヒ
天皇悪みたまひ、是夜、自ら祈(うけ)ひて寝ませり。夢に天神有(ま)して訓(をし)へまつりて曰はく、「天香山(あまのかぐやま)の社の中の土(はに)を取りて、香山、此には介遇夜摩(かぐやま)と云ふ。天平瓮(あまのひらか)八十枚(やそち)を造り、平瓮、此には毗邏介(ひらか)と云ふ。并せて厳瓮(いつへ)を造りて天神地祇(あまつやしろくにつやしろ)を敬(ゐやま)ひ祭れ。厳瓮、此には怡途背(いつへ)と云ふ。亦厳呪詛(いつのかしり)をせよ。如此(かくのごとく)せば、虜(あた)自づから平(む)き伏(したが)ひなむ」とのたまふ。厳呪詛、此には怡途能伽辞離(いつのかしり)と云ふ。天皇、祇(つつし)みて夢(みゆめ)の訓を承りたまひて、依りて将に行ひたまはむとす。(神武前紀戊午年九月)
⑤椎根津彦の行き過ぎるウケヒ
時に、椎根津彦(しひねつひこ)、乃ち祈(うけ)ひて曰く、「我が皇(きみ)、能く此の国を定めたまふべきものならば、行かむ路自づからに通れ。如し能はじとならば、賊(あた)必ず防禦(ふさ)がむ」といふ。言ひ訖りて径(ただ)に去ぬ。(神武前紀戊午年九月)
⑥神武天皇の天下平定の可否のウケヒ
天皇、又因りて祈(うけ)ひて曰はく、「吾今当(まさ)に八十平瓮(やそひらか)を以て、水無しに飴(たがね)を造らむ。飴成らば、吾必ず鋒刃(つはもの)の威(いきほひ)を仮らずして、坐ながらに天下を平(む)けむ」とのたまふ。乃ち飴を造りたまふ。飴即ち自づからに成りぬ。又祈ひて曰はく、「吾今当に厳瓮(いつへ)を以て、丹生之川(にふのかは)に沈めむ。如し魚(いを)大きなり小しと無く、悉(ふつく)に酔(ゑ)ひて流れむこと、譬へば柀(まき)の葉の浮き流るるが猶(ごと)くあらば、柀、此には磨紀(まき)と云ふ。吾必ず能く此の国を定めてむ。如し其れ爾らずは、終(はた)して成る所無けむ」とのたまひて、乃ち瓮(いつへ)を川に沈む。其の口、下に向けり。頃(しばらく)ありて、魚皆浮き出でて、水の随に噞喁(あぎと)ふ。(神武前紀戊午年九月)
⑦本牟智和気御子のための出雲参拝の効能試しのウケヒ
故、曙立王(あけたつのみこ)に科(おほ)せて、うけひ白さしめしく、「此の大神を拝むに因りて、誠に験(しるし)有らば、是の鷺巣池(さぎすのいけ)の樹に住む鷺や、うけひ落ちよ」と、如此(かく)詔ひし時に、其の鷺、地(つち)に堕ちて死にき。又、詔ひしく、「うけひ活きよ」とのりたまひき。爾くして、更に活きぬ。又、甜白檮之前(あまかしのさき)に在る葉広熊白檮(はびろくまかし)をうけひ枯れしめ、亦、うけひ生かしめき。爾くして、名を其の曙立王に賜ひて、倭者師木登美豊朝倉曙立王(やまとのしきのとみのとよあさくらのあけたつのみこ)と謂ひき。(垂仁記)
⑧垂仁天皇の佳人遭遇のウケヒ
天皇、茲(ここ)に、矛を執りて祈(うけ)ひて曰はく、「必ず其の佳人(かほよきをみな)に遇はば、道路(みち)に瑞(みつ)見えよ」とのたまふ。行宮(かりみや)に至ります比(ころほひ)に、大亀、河の中より出づ。天皇、矛を挙げて亀を刺したまふ。忽に石に化為(な)りぬ。左右(もとこひと)に謂(かた)りて曰はく、「此の物に因りて推(おしはか)るに、必ず験(しるし)有らむか」とのたまふ。仍りて綺戸辺(かにはたとべ)を喚して、後宮(うちつみや)に納(めしい)る。(垂仁紀三十四年三月)
⑨景行天皇の土蜘蛛退治のウケヒ
天皇祈(うけ)ひて曰はく、「朕(われ)、土蜘蛛(つちぐも)を滅ぼすこと得むとならば、将に茲(こ)の石を蹶(く)ゑむに、柏の葉(ひらで)の如くして挙れ」とのたまふ。因りて蹶(ふ)みたまふ。則ち柏の如くして大虚(おほぞら)に上りぬ。(景行紀十二年十月)
⑩神功皇后の征西の志を固くするウケヒ
是に、皇后、針を勾げて鉤(ち)を為(つく)り、粒(いひぼ)を取りて餌(ゑ)にして、裳の縷(いと)を抽取(と)りて緡(つりのを)にして、河の中の石(いそ)の上に登りて、鉤を投げて祈(うけ)ひて曰はく、「朕、西(にしのかた)、財(たから)の国を求めむと欲す。若し事を成すこと有らば、河の魚(いを)鉤飲(く)へ」とのたまふ。因りて竿を挙げて、乃ち細鱗魚(あゆ)を獲つ。……皇后、橿日浦(かしひのうら)に還り詣(いた)りて、髪(みぐし)を解きて海に臨みて曰はく、「……是を以て、頭(かしら)を海水(うしほ)に滌(すす)がしむ。若し験有らば、髪自づからに分れて両(ふたつ)に為れ」とのたまふ。即ち海に入りて洗(すす)ぎたまふに、髪自づからに分れぬ。皇后、便ち髪を結分(あ)げたまひて、髻(みづら)にしたまふ。(神功前紀仲哀九年四月)
⑪麛坂・忍熊の二王が謀反を起こした時のウケヒ
時に麛坂王(かごさかのみこ)・忍熊王(おしくまのみこ)、共に菟餓野(とがの)に出でて、祈狩(うけひがり)して曰く、祈狩、此には于気比餓利(うけひがり)と云ふ。「若し事を成すこと有らば、必ず良き獣(しし)を獲む」といふ。二の王、各(おのおの)仮庪(さずき)に居します。赤き猪忽(たちまち)に出でて仮庪に登りて、麛坂王を咋ひて殺しつ。軍士(いくさびと)、悉(ふつく)に慄(お)づ。忍熊王、倉見別(くらみわけ)に謂(かた)りて曰く、「是の事、大きなる怪(しるまし)なり。此にしては敵を待つべからず」といふ。則ち軍(いくさ)を引きて更に返りて、住吉(すみのえ)に屯(いは)む。(神功紀元年二月)
ウケヒという語は、上に述べたように、ある事が起こるならその兆しがあると決めたことを予め言っておいて、その予兆をもとに本当かどうかを判断しようとしたものである。何のために占うかといえば、何ごとか願い祈ることがあるからである。毎朝テレビで星占いをチェックして、その日の行動に若干反映させるといった安易なものではない。どうしようかと悩み惑い困った時に行うのが本来である。とはいえ、実際のところ祈り願う占いなのだから、ウケヒと称していても、単なる祈りや単なる願い、単なる占いと変らないことが起きてしまう。④の「ウケヒ寝」は願掛けをして寝て夢のお告げを乞うものであろう。また、⑤の椎根津彦のウケヒは、敵中を通過する時に自ら気合いを入れるために行われたものに思われる。ウケヒにはそういう性格も有しているから特徴を表すために使われていると考えられる。
①の素戔嗚尊のウケヒ中、必ず子どもを生み、自分が生んだ子が女の子だったら濁い心があると思ってくれていい、男の子だったら清き心があると思って欲しい、という提題をしている。心の中など他からはわからない。その分からないことをウケヒによって知れようとする素戔嗚尊の魂胆たるや凄まじいトリックである。まんまと騙されてウケヒに付き合わされている天照大神も情けない。紀にはきちんとそれがウケヒそのものではないことが記されている。訓注に、「誓約之中、此云二宇気譬能美儺箇一。」とある。ウケヒの最中と言っている。ウケヒは、ウケヒとして言立てて、それから試してみて、結果が出て、前言したウケヒの言葉から兆候を判断をする。ところが、ウケヒノミナカということは、試している時、子生みをしているときもウケヒノミナカであるから、解釈は変更可能になる。試験の結果は出ているのに、合格ラインは決めていないのである。出来事の括り方、括弧のつけ方がそのままではなく、外から、後からなされることに含みを残してごまかしている。この「中」という添付語は、心の中に及んでいることを含意するのであろう。女の子を生んだら濁い心がある、男の子を生んだら清い心がある、という断定ではなく、そう思ってくれればよい(「以為」)と言っている。心の中を探るのに、「以為」以上のものはなく、完璧なモラリストどうし以外には絶対ということはない。表情をよむということはあっても、自白の任意性、信憑性などなかなか定かにならない。わからないことをわからない手段でわかろうと、相手にわからせてあげようとしたのが、このウケヒノミナカのウケヒである。印象操作のマニピュレーター須佐之男命(素戔嗚尊)の詭弁に活用されている所以であり、記紀に異伝の多い結果にもつながっている。
従来の、女の子→濁き心、男の子→清い心、といった表面をなぞった解釈は役に立たない。土橋1990.にあげる、「スサノヲの尊の心が潔白(A)であるなら、生まれる子は男神(A´)であろう。スサノヲの尊の心が邪悪(B)であるなら、生まれる子は女神(B´)であろう。」は、条件文の仮定と結論とを取り違えた杜撰な読み方である。また、男でもない女でもないオネエ、フタナリ(注4)はいないのか、潔白でも邪悪でもない凡夫のようなのがふつうの人であって、一点の曇りもないはずはなかろうが、それは人のことで神のことではないとするのであろうか。記紀に表される神は人間臭いものに思われるがどうなのであろうか。
②の大山津見神のウケヒについては、大山津見神の語りとして構成されている。ウケヒをしたときに内容が公表されているわけではなく、番能邇邇芸命が聞き及んだものではない。後になって、実はこれこれこういう事情でなどと訴えられても困るものである。一方的なウケヒであって、その点だけでもウケヒ本来の姿ではない。公言性がないため、いくらでも嘘が罷り通ると思われる。言=事とする前提がひっくり返されるし、そんなウケヒが乱発されたら世の中は“信用収縮”に陥る。何のためのウケヒなのか、立脚点が失われる。
話としては、石長比売を使ったら、天神の御子の命は、風雪に耐える石のように堅く動かない。木花之佐久夜比売を使ったら、木の花の栄えるように栄えている、とウケヒの言葉として予め言っておいて差し上げたのだから、石長比売を返して木花之佐久夜比売だけを留めた日には、天神の御子の命は、木の花のあまひのみありましょう、即ち、天皇らの寿命は短くなるでしょうというものである。ウケヒという概念を用いた大山津見神のお話である。石長比売を使ったら……坐さむ、木花之佐久夜比売を使ったら……坐さむ、というウケヒをしている。将来こうなるのなら、今こうなるだろう、という本来のウケヒの形ではなく、今そうしたら、将来そうなるだろうと推量している。
石長比売と木花之佐久夜毘売とが、男と女のように対立する二者択一の概念、ないし、集合と補集合の関係にあるとは考えにくい。女性の容姿について捉えるとき、一般的な物差しとしては偏差の問題であろう。美人タイプとかわいいタイプの違い、縄文顔と弥生顔の違いは理解されていたであろう。もちろん好みというものもある。二項対立に当てはまるものではないけれども、結論として、大山津見神の言葉に、「木の花のあまひのみ坐さむ」という感慨が浮かんでいる。逆に、木花之佐久夜毘売を返して石長比売だけを留めたらどうなっていたのであろうか。「石長のあまひのみ坐さむ」となっていたのではないか(注5)。木花之佐久夜比売だけでも石長比売だけでも良くないから、「我之女二並立奉」ったのであろう(注6)。
③の木花開耶姫の自分の子の素性を証明するためのウケヒは、「甚以慙恨」とあり、嘘偽りのないことをウケヒで表そうとしたものである。すなわち、疑う方が間違っていると訴えるための方便で、事実無根の疑いを晴らすために行っている。ウケヒという形式を借りた自己弁護である。今も昔も、あらぬ疑いをかけられた際、身の潔白を証明するほど難しく面倒くさいことはない。電車内の痴漢冤罪に対して、ウケヒで対抗できるのか筆者は知らない。
⑥の神武天皇のウケヒについて、戦わずしての天下平定を祈り、奇妙な占いを実践している。水なしで泥団子(「飴」)を作ろうとしたり、素焼きの器を川に沈めて魚を中毒死させようとしている。これが呪術であるのか、土壌に詳しくて土の組成を熟知していることを語るのか、不明である。ウケヒとしてのみ考えても、泥団子はできたし魚は中毒死したが、それが天下平定という結果につながる話として続いているようには読み取れない。後考を俟つことにする。苦しい行軍の途上、希望の光を求めようとウケヒをした気持ちだけは伝わる。
⑦の曙立王について考えると、彼はウケヒマジシャンではないかとさえ思われる。命題の提示の仕方において、①の素戔嗚尊や⑥の神武天皇の「厳瓮」のウケヒの言い方を模倣するなら、霊験あらたかならば鷺は落ちよ、霊験あらたかでないならば鷺は活きよ、と言うべきであろう。しかしそうは言っていない。ウケヒ本来の言語術とは言いにくい。霊験あらたかなら落ちよ、または活きよ、葉広熊白檮は枯れよ、または生きよ、とその場その場で言い換えている。目の前に自分の言うとおりになるなら、出雲大神へ参拝すると御子は口がきけるようになるだろうと言うために言っている。このウケヒはうまく行ったことになっていて、ご大層な名を賜っている。とはいえ、言ったとおりにすることは鷺に縄をつないでおいて操ればできないことはなく、カシの木の場合、一定期間水をかけないようにすれば葉は枯れ落ちるが、すぐに水をやれば再び葉は出てくる。派遣される任にふさわしいところを見せるための筋立てになっているようである。
⑧のウケヒは、綺戸辺という美人を顕彰するためのお話に思われる。顔が美人でスタイル抜群な美少女に遇うことと、亀が石に変わる瑞祥に遇うことを絡めて論っている。どちらのほうがより珍しいか、比べたくなってくる。出会いを願っているし、祈ってもいるが、占っても仕方のないことに思われる。話の顛末としても、瑞祥からしてウキウキだね、と言って後宮に入れただけで終わっている。ウケヒという占いを借りた食レポのような評論であろう。だから、「行宮(かりみや)」、すなわち、仮宮に近づいて見つけているのであろう。最初から亀を飼っていて、亀石も用意して化けさせるトリックを仕掛けておいたのかもしれない。仮の話に借りて宮まで行宮である。
⑨のウケヒは、土蜘蛛を滅ぼすことができるなら、この石を蹴ったら柏の葉のようにあがれ、とウケヒとして言っておいて蹴ったら大空にあがった、というものである。本来のウケヒの姿であろう。もし柏の葉のように上がらなかった時、全然上がらなかった時はもとより、少ししか上がらなかった時などについて、前もって言明はしていない。けれども、ウケヒを条件文として読むと、柏の葉のように上がらなかったときはすべて、土蜘蛛を滅ぼすことはできないことになる。かといって、土蜘蛛によってこちらが滅ぼされるかといえば、そのような言明は行っていない。引き分けは可という予防線を張っておいてあるのが、このウケヒの特徴であるように思われる。
⑩の神功皇后の、征西がうまくいくのなら、河の魚は釣針にかかれ、とウケヒとして言ったらアユが釣れた、というのも、本来のウケヒの姿であろう。⑨と同じタイプである。不思議なのは、一度ウケヒをして大丈夫とわかっていながら、二度目があるように解されている点である。頭を海水につけ、確かな証拠があるなら、髪は自然に五分五分に分かれよ、と言ってみたらそうなったから、結果、ツイン髻に結ったというのである。男装できて戦闘態勢が整ったという解釈にはなるが、それは、「こう言えば、こうなる」式に順々に仕事が運んで行ったというだけのことではなかろうか。二度目の洗髪儀式がいわゆるウケヒかどうか、筆者には疑問である。一度目は、「祈ひて曰はく」とあり、二度目は、「曰はく」としかない。ウケヒをするよ、という言明がないとなると、ウケヒかどうかわからない。言霊信仰にどっぷりと浸かっていたとしても、すべての発話が言った通りに事がなると思っていたとは思われない。嘘をつくな、嘘をついたら秩序が大混乱になる、というのが言霊信仰の根源にあり、反面教師として常に控えていただけである。言葉に文字を持たなかったからである。証文、契約書、念書がとれない。言ったことがその通りに履行されないと、言ったか言わなかったかさえ録音テープ(ICレコーダー)がなかったからすべてが空理空論になる。訳が分からなくなる。言葉が声でしかないのは、文字どおり空理空論であるから、それを確かならしめる手段はただ一つ、言=事としてみんなで守ろう、とする共通認識に依ったのである。そうしなければすべてが出鱈目になる。社会は維持できない。安心して暮らせない。オレオレ詐欺が横行、蔓延して手が付けられない。神功皇后の二度目の髪の話は、ウケヒと改まった形式を踏んでいない。それを念押しのウケヒと捉えると、ウケヒそのものの信憑性を自ら否定することになりかねないので、ここではウケヒではないとしておく。
一回目のウケヒの結果で分かったこと、河の魚が釣針にかかったことは、征西がうまくいくことを絶対に保証するとは言えない。逆は必ずしも真ならず、である。この点は次の⑪において説明する。
⑪のウケヒ狩りはウケヒの原型に当てはまるであろう。もし今度の謀反事がうまくいくのなら、いま、狩りをして良い獲物が獲られるであろう、と言って狩りに臨んだら、逆にイノシシに殺されてしまった。そこで、これは悪い兆候であると考えている。将来のことを現在の事案で占っている。この命題の提起の仕方は、まず今の仮定、p:狩りをして良い獲物が獲られない、そして将来の結論、q:謀反を起こしてうまくいかない、を結んだ「pならばqである(p→q)」という条件文の対偶「qでないならばpでない(~q→~p)」である。謀反を起こしてうまくいかないのでないならば、狩りをして良い獣は獲られないのではない、を解き起こした条件文がウケヒの言葉になっている。将来の予測として現在のウケヒという占いが存在するのは、対偶が真であるからに他ならない。逆や裏は必ずしも真ではない。言葉を操るうえで、条件文の対偶は真であると知ることによって、将来のことなど分かりはしないが、条件文の対偶は必ず真であるから、それを活用して占ってみようという気持ちが生じている。それがウケヒである。(p→q)を真とすると、(~q→~p)も真ということになる。そして、将来のことが今わかる、とは、今、仮にわかるということ、仮にわかるから「狩り」なのである。ウケヒがウケヒ狩りという形態をとった理由はそこにある。
将来の征西や謀反がうまくいくならば、今からする釣りや狩りがうまくいく、と言立てているのであり、今からする釣りや狩りがうまくいくならば、将来の征西や謀反がうまくいく、とは言っていない。すなわち、論理学を用いた占いがウケヒの始まりであったと考えられるのである。そう思っていた上代人、日本書紀の執筆者が、意味の近い字義である「誓」や「祈」という漢字を当てて記したということであろう。言葉を宣誓的に発する占いであり、祈願を言葉に露わにする占いであったからである。その点が、「こう言えば、こうなる」式の考え方と次元が異なるところである。「こう言えば、こうなる」がすべて当てはまるなら、何もウケヒなどしなくても、わあわあと言い立てればすべてその通り思いのまま実現してしまう。それでは世の中が無秩序状態、アノミーに陥る。筆者が提案している「言霊信仰」とは、言=事であること、「こう言ったら、こうするようにする」、「こうなっていたら、こう言うようにする」こと、すなわち、言葉というものの本質、前提を表している。秩序化を目指すのが言霊信仰であって、近代の用語に準えるなら、法の支配、ならぬ、言葉の支配を促すものである。ウケヒとは、言葉の支配、言霊信仰に基づいた古代の論理占術であったと考える(注7)。
(注)
(注1)万葉集にある4例(万767・2433・2497・2589)のウケヒの語は、希望に反した結果を示しているだけで、単なる願いの意である。古典基礎語辞典の「③神に祈る」意味合い以上のことを見出すことはできず、実態まで把握できるものではない。拙稿「万葉集のウケヒと夢」、「万葉集2433番歌「如数書吾命」とウケヒについて」参照。
(注2)「こう言えば、こうなる」ということに関して、予言の自己成就的な側面は認められようが、それを筆者は「言霊信仰」とは呼ばない。今日の学説に「言霊」をひとり歩きさせる傾向があり、言葉には呪力があって畏れ多いものであるとする考え方は偏屈である。言葉を慎むという言い方は、減らず口があってはじめて登場する慣用句であろう。
(注3)今日の占いに、前世を占うことが行われることがある。輪廻の観念によるところがあるかと思われる。上代に、占いは、当事者の身に時間的にこれから起こるであろうこと、将来のことを予言的に知り得ようとして行われていたと考えるのが妥当であろう。
(注4)和名抄に、「半月 内典に云はく、五種不男の其の五に半月〈俗に訛りて波爾和利(はにわり)と云ふ、或る説に一月三十日、其の十五日、と為ち、十五日、女と為るの義也と云ふ〉と曰ふといふ。」とある。
(注5)内田1988.に、「「姉妹とも娶れば……永遠の命と栄華が約束され……、美しい妹のみを娶ると……、現世の栄華はあっても命は無常でしかない……」。[二つの仮定が]矛盾的でかつ第三の場合(例えば醜い姉のみ娶る)が排されるのは、先に見たこの譚が由来する聖婚のあり方により明らかである。」(29頁)とあるが、原文に「姉妹とも娶れば」とは書かれていない。
(注6)筆者は拙稿「コノハナノサクヤビメについて」において、イハナガヒメは羽釜の譬え、コノハナノサクヤビメは甑の譬えではないかと推定した。すなわち、お米を羽釜で炊いてご飯を食べることと、甑で蒸してそれをお酒にして呑むことと、両方するといいよというのが、大山津見神という調理器具を司る土間の神さまの提言、つまり、ウケヒであったと考える。ご飯にしていつもながらに食べていれば力にはなるが堅物のしみったれた人生になる。といって、お酒に作って呑んでばかりいては、その時は気分よくなって楽しいけれど身にはつかず、アルコール中毒か肝硬変で短命に終わるということである。狩猟採集の時代から農耕に酒造の加わる時代へと大きく舵を切った飲食生活の劇的変化と、その調理法への対応のうち、ヤマトの人たちが鉄製の釜を利用しなかった事情について説話化したものと考えた。
(注7)拙稿「古事記におけるウケヒ神話について」参照。
(引用・参考文献)
内田1988. 内田賢徳「ウケヒの論理とその周辺─語彙論的考察─」『萬葉』第128号、昭和63年2月。萬葉学会・学会誌『萬葉』アーカイブhttp://manyoug.jp/memoir/1988
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
土橋1989. 土橋寛『日本古代の呪禱と説話─土橋寛論文集 下─』塙書房、平成元年。
土橋1990. 土橋寛『日本語に探る古代信仰』中央公論社(中公文庫)、1990年。
※本稿は、2016年3月稿を2021年10月に、誤りを正して改稿したものである。
古典基礎語辞典に、動詞「うけふ」(誓ふ・祈ふ)は、「一定の条件のもとに神意や真実を問う意。連用形名詞ウケヒは、上代に行われた占いの一方法。占って現れた結果が甲ならば神意がある、もしくは真実であるとして可あるいは勝ち、乙ならば神意でない、もしくは真実でないとして不可あるいは負けと決めておき、占いを実行して出現した現象が甲か乙かによって事を判断する法。後には、ただ神に祈る意となり、中古に至ると、人の不幸を祈る意、呪う意に転じた。」(172頁)と解説され、「①神に対して先に条件を提示し、実際の現象を見て神意を判断する。……②神意あるいは真実であるか否かを示す証拠として、あることが起こる。……③神に祈る。……④呪う。……⑤人に悪いことが起きるようにと意地悪く思う。」(同頁、この項、筒井ゆみ子)とそれぞれの意味合いを語釈している。④⑤には中古の例、③には万葉集の例(注1)、①②にはともに古事記の例が載せられている。①が原義で、②に転義したのが最初期のウケヒ(ウケフ)と考えられよう。
白川1995.では、語の形成から説き起こすところがある。「うけふ〔誓〕」は「「受く」「諾く」の再活用形。神に祈って占った結果について、これを受け従う意。その選択を神にゆだねる占いの方法として、「うけひがり」などが行なわれた。類義語の「ちかふ」は「ちぎる」と同根の語で自己詛盟をすること。「のろふ」は他に呪詛が及ぶように祈ることをいう。」(142頁)としている。この解釈の問題点は、記紀の用例に必ずしも占いの結果に受け従っていない例が見られること、また、「神」の観念を前提に解釈すべき言葉なのか不明瞭な点である。縁結びにご利益があるとする神を耳にすることがあるが、ウケヒに特化した神は管見に入らない。
これら辞書類に対して、言葉の持つ論理的構造に近づこうとした考えが、土橋1989.に見える。「……ウケヒは過去・現在・未来の知ることのできない「真実」(「神意」ではない)を知るための卜占の方法として、また誓約(約束すること)を「真実」なものにするための方法として、実修される言語呪術であり、「もしAならば、A´ならむ」という形式は、「こう言えば、こうなる」という言霊信仰に基づく呪文の形式にほかならない。従来ウケヒを「真実」でなく、神意を知るための方法と解してきたのは、第一に呪術としての卜占の結果を神意の現われとする偏った宗教観念に災されたためであり、第二に「祈」「禱」などの漢字表記に惑わされたためである。」(55~56頁)と説明されている。
ウケヒの基本的な位置づけとして、土橋1989.のいう「こう言えば、こうなる」という考え方は、表面的にはほぼ当たるであろう(注2)が、呪術師がいたわけではなく呪術とは認めがたい。また、「スサノヲの尊の心が潔白(A)であるなら、生まれる子は男神(A´)であろう。スサノヲの尊の心が邪悪(B)であるなら、生まれる子は女神(B´)であろう。」(土橋1990.180頁)ということが、「男尊女卑の観念に基づくものであることは言うまでもない。」(182頁)といった判断に飛躍していいとは思われない。ウケヒの本質が他の観念に依って保証されていることになってしまう。また、ウケヒにおいて、「もしAならば、A´ならむ」ということを、「「もしAならば、A´である」「もしBならば、B´である」という形式をもつ二者択一的な言語呪術である。」(山口2005.171頁)と定位していいものなのかも疑問である。論理学的に二者択一とはなっておらず、言説として成り立たないと考える。ただ、これらの議論は多くのことを教えてくれている。ウケヒは言葉を用いた占いであること、そして、占いは未来予想のためのものであったことである(注3)。
記紀のウケヒの例を見る。
①素戔嗚尊と天照大神の天真名井のウケヒ
[素戔嗚尊]対へて曰はく、「請ふ、姉と共に誓(うけ)はむ。夫れ誓約(うけひ)の中(みなか)に、誓約之中、此には宇気譬能美儺箇(うけひのみなか)と云ふ。必ず当に子を生むべし。如し吾が所生(う)めらむ、是女ならば、濁き心有りと以為(おもほ)せ。若し是男ならば、清き心有りと以為せ」とのたまふ。(神代紀第六段本文)
②大山津見神が二人の娘を奉った理由を述べるウケヒ
爾くして、大山津見神(おほやまつみのかみ)、石長比売(いはながひめ)を返したまひしに因りて、大(いた)く恥ぢ、白し送りて言ひしく、「我が女(むすめ)二(ふたり)並べて立て奉りし由は、石長比売を使はさば、天神(あまつかみ)の御子の命は、雪零(ふ)り風吹くとも、恒に石(いは)の如く常(ときは)に堅(かちは)に動かず坐さむ。亦、木花之佐久夜比売(このはなのさくやびめ)を使はさば、木の花の栄ゆるが如く栄え坐さむと、うけひて貢進(たてまつ)りき。此(か)く、石長比売を返さしめて、独り木花之佐久夜毘売のみを留めたまふが故に、天つ神の御子の御寿(みいのち)は、木の花のあまひのみ坐さむ」といひき。故、是を以て今に至るまで、天皇命等(すめらみことたち)の御命(みいのち)長くあらぬぞ。(記上)
③木花開耶姫が出産する際のウケヒ
木花開耶姫(このはなのさくやびめ)、甚だ慙恨(は)ぢて、乃ち無戸室(うつむろ)を作りて、誓(うけ)ひて曰く、「吾が所娠(はら)める、是れ若し他神(あたしかみ)の子ならば、必ず不幸(さいはひな)けむ。是れ実に天孫の子ならば、必ず当に全く生きたまへ」といひて、則ち其の室の中に入りて、火を以(つ)けて室を焚(や)く。(神代紀第九段一書第二)
④神武天皇の夢占のウケヒ
天皇悪みたまひ、是夜、自ら祈(うけ)ひて寝ませり。夢に天神有(ま)して訓(をし)へまつりて曰はく、「天香山(あまのかぐやま)の社の中の土(はに)を取りて、香山、此には介遇夜摩(かぐやま)と云ふ。天平瓮(あまのひらか)八十枚(やそち)を造り、平瓮、此には毗邏介(ひらか)と云ふ。并せて厳瓮(いつへ)を造りて天神地祇(あまつやしろくにつやしろ)を敬(ゐやま)ひ祭れ。厳瓮、此には怡途背(いつへ)と云ふ。亦厳呪詛(いつのかしり)をせよ。如此(かくのごとく)せば、虜(あた)自づから平(む)き伏(したが)ひなむ」とのたまふ。厳呪詛、此には怡途能伽辞離(いつのかしり)と云ふ。天皇、祇(つつし)みて夢(みゆめ)の訓を承りたまひて、依りて将に行ひたまはむとす。(神武前紀戊午年九月)
⑤椎根津彦の行き過ぎるウケヒ
時に、椎根津彦(しひねつひこ)、乃ち祈(うけ)ひて曰く、「我が皇(きみ)、能く此の国を定めたまふべきものならば、行かむ路自づからに通れ。如し能はじとならば、賊(あた)必ず防禦(ふさ)がむ」といふ。言ひ訖りて径(ただ)に去ぬ。(神武前紀戊午年九月)
⑥神武天皇の天下平定の可否のウケヒ
天皇、又因りて祈(うけ)ひて曰はく、「吾今当(まさ)に八十平瓮(やそひらか)を以て、水無しに飴(たがね)を造らむ。飴成らば、吾必ず鋒刃(つはもの)の威(いきほひ)を仮らずして、坐ながらに天下を平(む)けむ」とのたまふ。乃ち飴を造りたまふ。飴即ち自づからに成りぬ。又祈ひて曰はく、「吾今当に厳瓮(いつへ)を以て、丹生之川(にふのかは)に沈めむ。如し魚(いを)大きなり小しと無く、悉(ふつく)に酔(ゑ)ひて流れむこと、譬へば柀(まき)の葉の浮き流るるが猶(ごと)くあらば、柀、此には磨紀(まき)と云ふ。吾必ず能く此の国を定めてむ。如し其れ爾らずは、終(はた)して成る所無けむ」とのたまひて、乃ち瓮(いつへ)を川に沈む。其の口、下に向けり。頃(しばらく)ありて、魚皆浮き出でて、水の随に噞喁(あぎと)ふ。(神武前紀戊午年九月)
⑦本牟智和気御子のための出雲参拝の効能試しのウケヒ
故、曙立王(あけたつのみこ)に科(おほ)せて、うけひ白さしめしく、「此の大神を拝むに因りて、誠に験(しるし)有らば、是の鷺巣池(さぎすのいけ)の樹に住む鷺や、うけひ落ちよ」と、如此(かく)詔ひし時に、其の鷺、地(つち)に堕ちて死にき。又、詔ひしく、「うけひ活きよ」とのりたまひき。爾くして、更に活きぬ。又、甜白檮之前(あまかしのさき)に在る葉広熊白檮(はびろくまかし)をうけひ枯れしめ、亦、うけひ生かしめき。爾くして、名を其の曙立王に賜ひて、倭者師木登美豊朝倉曙立王(やまとのしきのとみのとよあさくらのあけたつのみこ)と謂ひき。(垂仁記)
⑧垂仁天皇の佳人遭遇のウケヒ
天皇、茲(ここ)に、矛を執りて祈(うけ)ひて曰はく、「必ず其の佳人(かほよきをみな)に遇はば、道路(みち)に瑞(みつ)見えよ」とのたまふ。行宮(かりみや)に至ります比(ころほひ)に、大亀、河の中より出づ。天皇、矛を挙げて亀を刺したまふ。忽に石に化為(な)りぬ。左右(もとこひと)に謂(かた)りて曰はく、「此の物に因りて推(おしはか)るに、必ず験(しるし)有らむか」とのたまふ。仍りて綺戸辺(かにはたとべ)を喚して、後宮(うちつみや)に納(めしい)る。(垂仁紀三十四年三月)
⑨景行天皇の土蜘蛛退治のウケヒ
天皇祈(うけ)ひて曰はく、「朕(われ)、土蜘蛛(つちぐも)を滅ぼすこと得むとならば、将に茲(こ)の石を蹶(く)ゑむに、柏の葉(ひらで)の如くして挙れ」とのたまふ。因りて蹶(ふ)みたまふ。則ち柏の如くして大虚(おほぞら)に上りぬ。(景行紀十二年十月)
⑩神功皇后の征西の志を固くするウケヒ
是に、皇后、針を勾げて鉤(ち)を為(つく)り、粒(いひぼ)を取りて餌(ゑ)にして、裳の縷(いと)を抽取(と)りて緡(つりのを)にして、河の中の石(いそ)の上に登りて、鉤を投げて祈(うけ)ひて曰はく、「朕、西(にしのかた)、財(たから)の国を求めむと欲す。若し事を成すこと有らば、河の魚(いを)鉤飲(く)へ」とのたまふ。因りて竿を挙げて、乃ち細鱗魚(あゆ)を獲つ。……皇后、橿日浦(かしひのうら)に還り詣(いた)りて、髪(みぐし)を解きて海に臨みて曰はく、「……是を以て、頭(かしら)を海水(うしほ)に滌(すす)がしむ。若し験有らば、髪自づからに分れて両(ふたつ)に為れ」とのたまふ。即ち海に入りて洗(すす)ぎたまふに、髪自づからに分れぬ。皇后、便ち髪を結分(あ)げたまひて、髻(みづら)にしたまふ。(神功前紀仲哀九年四月)
⑪麛坂・忍熊の二王が謀反を起こした時のウケヒ
時に麛坂王(かごさかのみこ)・忍熊王(おしくまのみこ)、共に菟餓野(とがの)に出でて、祈狩(うけひがり)して曰く、祈狩、此には于気比餓利(うけひがり)と云ふ。「若し事を成すこと有らば、必ず良き獣(しし)を獲む」といふ。二の王、各(おのおの)仮庪(さずき)に居します。赤き猪忽(たちまち)に出でて仮庪に登りて、麛坂王を咋ひて殺しつ。軍士(いくさびと)、悉(ふつく)に慄(お)づ。忍熊王、倉見別(くらみわけ)に謂(かた)りて曰く、「是の事、大きなる怪(しるまし)なり。此にしては敵を待つべからず」といふ。則ち軍(いくさ)を引きて更に返りて、住吉(すみのえ)に屯(いは)む。(神功紀元年二月)
ウケヒという語は、上に述べたように、ある事が起こるならその兆しがあると決めたことを予め言っておいて、その予兆をもとに本当かどうかを判断しようとしたものである。何のために占うかといえば、何ごとか願い祈ることがあるからである。毎朝テレビで星占いをチェックして、その日の行動に若干反映させるといった安易なものではない。どうしようかと悩み惑い困った時に行うのが本来である。とはいえ、実際のところ祈り願う占いなのだから、ウケヒと称していても、単なる祈りや単なる願い、単なる占いと変らないことが起きてしまう。④の「ウケヒ寝」は願掛けをして寝て夢のお告げを乞うものであろう。また、⑤の椎根津彦のウケヒは、敵中を通過する時に自ら気合いを入れるために行われたものに思われる。ウケヒにはそういう性格も有しているから特徴を表すために使われていると考えられる。
①の素戔嗚尊のウケヒ中、必ず子どもを生み、自分が生んだ子が女の子だったら濁い心があると思ってくれていい、男の子だったら清き心があると思って欲しい、という提題をしている。心の中など他からはわからない。その分からないことをウケヒによって知れようとする素戔嗚尊の魂胆たるや凄まじいトリックである。まんまと騙されてウケヒに付き合わされている天照大神も情けない。紀にはきちんとそれがウケヒそのものではないことが記されている。訓注に、「誓約之中、此云二宇気譬能美儺箇一。」とある。ウケヒの最中と言っている。ウケヒは、ウケヒとして言立てて、それから試してみて、結果が出て、前言したウケヒの言葉から兆候を判断をする。ところが、ウケヒノミナカということは、試している時、子生みをしているときもウケヒノミナカであるから、解釈は変更可能になる。試験の結果は出ているのに、合格ラインは決めていないのである。出来事の括り方、括弧のつけ方がそのままではなく、外から、後からなされることに含みを残してごまかしている。この「中」という添付語は、心の中に及んでいることを含意するのであろう。女の子を生んだら濁い心がある、男の子を生んだら清い心がある、という断定ではなく、そう思ってくれればよい(「以為」)と言っている。心の中を探るのに、「以為」以上のものはなく、完璧なモラリストどうし以外には絶対ということはない。表情をよむということはあっても、自白の任意性、信憑性などなかなか定かにならない。わからないことをわからない手段でわかろうと、相手にわからせてあげようとしたのが、このウケヒノミナカのウケヒである。印象操作のマニピュレーター須佐之男命(素戔嗚尊)の詭弁に活用されている所以であり、記紀に異伝の多い結果にもつながっている。
従来の、女の子→濁き心、男の子→清い心、といった表面をなぞった解釈は役に立たない。土橋1990.にあげる、「スサノヲの尊の心が潔白(A)であるなら、生まれる子は男神(A´)であろう。スサノヲの尊の心が邪悪(B)であるなら、生まれる子は女神(B´)であろう。」は、条件文の仮定と結論とを取り違えた杜撰な読み方である。また、男でもない女でもないオネエ、フタナリ(注4)はいないのか、潔白でも邪悪でもない凡夫のようなのがふつうの人であって、一点の曇りもないはずはなかろうが、それは人のことで神のことではないとするのであろうか。記紀に表される神は人間臭いものに思われるがどうなのであろうか。
②の大山津見神のウケヒについては、大山津見神の語りとして構成されている。ウケヒをしたときに内容が公表されているわけではなく、番能邇邇芸命が聞き及んだものではない。後になって、実はこれこれこういう事情でなどと訴えられても困るものである。一方的なウケヒであって、その点だけでもウケヒ本来の姿ではない。公言性がないため、いくらでも嘘が罷り通ると思われる。言=事とする前提がひっくり返されるし、そんなウケヒが乱発されたら世の中は“信用収縮”に陥る。何のためのウケヒなのか、立脚点が失われる。
話としては、石長比売を使ったら、天神の御子の命は、風雪に耐える石のように堅く動かない。木花之佐久夜比売を使ったら、木の花の栄えるように栄えている、とウケヒの言葉として予め言っておいて差し上げたのだから、石長比売を返して木花之佐久夜比売だけを留めた日には、天神の御子の命は、木の花のあまひのみありましょう、即ち、天皇らの寿命は短くなるでしょうというものである。ウケヒという概念を用いた大山津見神のお話である。石長比売を使ったら……坐さむ、木花之佐久夜比売を使ったら……坐さむ、というウケヒをしている。将来こうなるのなら、今こうなるだろう、という本来のウケヒの形ではなく、今そうしたら、将来そうなるだろうと推量している。
石長比売と木花之佐久夜毘売とが、男と女のように対立する二者択一の概念、ないし、集合と補集合の関係にあるとは考えにくい。女性の容姿について捉えるとき、一般的な物差しとしては偏差の問題であろう。美人タイプとかわいいタイプの違い、縄文顔と弥生顔の違いは理解されていたであろう。もちろん好みというものもある。二項対立に当てはまるものではないけれども、結論として、大山津見神の言葉に、「木の花のあまひのみ坐さむ」という感慨が浮かんでいる。逆に、木花之佐久夜毘売を返して石長比売だけを留めたらどうなっていたのであろうか。「石長のあまひのみ坐さむ」となっていたのではないか(注5)。木花之佐久夜比売だけでも石長比売だけでも良くないから、「我之女二並立奉」ったのであろう(注6)。
③の木花開耶姫の自分の子の素性を証明するためのウケヒは、「甚以慙恨」とあり、嘘偽りのないことをウケヒで表そうとしたものである。すなわち、疑う方が間違っていると訴えるための方便で、事実無根の疑いを晴らすために行っている。ウケヒという形式を借りた自己弁護である。今も昔も、あらぬ疑いをかけられた際、身の潔白を証明するほど難しく面倒くさいことはない。電車内の痴漢冤罪に対して、ウケヒで対抗できるのか筆者は知らない。
⑥の神武天皇のウケヒについて、戦わずしての天下平定を祈り、奇妙な占いを実践している。水なしで泥団子(「飴」)を作ろうとしたり、素焼きの器を川に沈めて魚を中毒死させようとしている。これが呪術であるのか、土壌に詳しくて土の組成を熟知していることを語るのか、不明である。ウケヒとしてのみ考えても、泥団子はできたし魚は中毒死したが、それが天下平定という結果につながる話として続いているようには読み取れない。後考を俟つことにする。苦しい行軍の途上、希望の光を求めようとウケヒをした気持ちだけは伝わる。
⑦の曙立王について考えると、彼はウケヒマジシャンではないかとさえ思われる。命題の提示の仕方において、①の素戔嗚尊や⑥の神武天皇の「厳瓮」のウケヒの言い方を模倣するなら、霊験あらたかならば鷺は落ちよ、霊験あらたかでないならば鷺は活きよ、と言うべきであろう。しかしそうは言っていない。ウケヒ本来の言語術とは言いにくい。霊験あらたかなら落ちよ、または活きよ、葉広熊白檮は枯れよ、または生きよ、とその場その場で言い換えている。目の前に自分の言うとおりになるなら、出雲大神へ参拝すると御子は口がきけるようになるだろうと言うために言っている。このウケヒはうまく行ったことになっていて、ご大層な名を賜っている。とはいえ、言ったとおりにすることは鷺に縄をつないでおいて操ればできないことはなく、カシの木の場合、一定期間水をかけないようにすれば葉は枯れ落ちるが、すぐに水をやれば再び葉は出てくる。派遣される任にふさわしいところを見せるための筋立てになっているようである。
⑧のウケヒは、綺戸辺という美人を顕彰するためのお話に思われる。顔が美人でスタイル抜群な美少女に遇うことと、亀が石に変わる瑞祥に遇うことを絡めて論っている。どちらのほうがより珍しいか、比べたくなってくる。出会いを願っているし、祈ってもいるが、占っても仕方のないことに思われる。話の顛末としても、瑞祥からしてウキウキだね、と言って後宮に入れただけで終わっている。ウケヒという占いを借りた食レポのような評論であろう。だから、「行宮(かりみや)」、すなわち、仮宮に近づいて見つけているのであろう。最初から亀を飼っていて、亀石も用意して化けさせるトリックを仕掛けておいたのかもしれない。仮の話に借りて宮まで行宮である。
⑨のウケヒは、土蜘蛛を滅ぼすことができるなら、この石を蹴ったら柏の葉のようにあがれ、とウケヒとして言っておいて蹴ったら大空にあがった、というものである。本来のウケヒの姿であろう。もし柏の葉のように上がらなかった時、全然上がらなかった時はもとより、少ししか上がらなかった時などについて、前もって言明はしていない。けれども、ウケヒを条件文として読むと、柏の葉のように上がらなかったときはすべて、土蜘蛛を滅ぼすことはできないことになる。かといって、土蜘蛛によってこちらが滅ぼされるかといえば、そのような言明は行っていない。引き分けは可という予防線を張っておいてあるのが、このウケヒの特徴であるように思われる。
⑩の神功皇后の、征西がうまくいくのなら、河の魚は釣針にかかれ、とウケヒとして言ったらアユが釣れた、というのも、本来のウケヒの姿であろう。⑨と同じタイプである。不思議なのは、一度ウケヒをして大丈夫とわかっていながら、二度目があるように解されている点である。頭を海水につけ、確かな証拠があるなら、髪は自然に五分五分に分かれよ、と言ってみたらそうなったから、結果、ツイン髻に結ったというのである。男装できて戦闘態勢が整ったという解釈にはなるが、それは、「こう言えば、こうなる」式に順々に仕事が運んで行ったというだけのことではなかろうか。二度目の洗髪儀式がいわゆるウケヒかどうか、筆者には疑問である。一度目は、「祈ひて曰はく」とあり、二度目は、「曰はく」としかない。ウケヒをするよ、という言明がないとなると、ウケヒかどうかわからない。言霊信仰にどっぷりと浸かっていたとしても、すべての発話が言った通りに事がなると思っていたとは思われない。嘘をつくな、嘘をついたら秩序が大混乱になる、というのが言霊信仰の根源にあり、反面教師として常に控えていただけである。言葉に文字を持たなかったからである。証文、契約書、念書がとれない。言ったことがその通りに履行されないと、言ったか言わなかったかさえ録音テープ(ICレコーダー)がなかったからすべてが空理空論になる。訳が分からなくなる。言葉が声でしかないのは、文字どおり空理空論であるから、それを確かならしめる手段はただ一つ、言=事としてみんなで守ろう、とする共通認識に依ったのである。そうしなければすべてが出鱈目になる。社会は維持できない。安心して暮らせない。オレオレ詐欺が横行、蔓延して手が付けられない。神功皇后の二度目の髪の話は、ウケヒと改まった形式を踏んでいない。それを念押しのウケヒと捉えると、ウケヒそのものの信憑性を自ら否定することになりかねないので、ここではウケヒではないとしておく。
一回目のウケヒの結果で分かったこと、河の魚が釣針にかかったことは、征西がうまくいくことを絶対に保証するとは言えない。逆は必ずしも真ならず、である。この点は次の⑪において説明する。
⑪のウケヒ狩りはウケヒの原型に当てはまるであろう。もし今度の謀反事がうまくいくのなら、いま、狩りをして良い獲物が獲られるであろう、と言って狩りに臨んだら、逆にイノシシに殺されてしまった。そこで、これは悪い兆候であると考えている。将来のことを現在の事案で占っている。この命題の提起の仕方は、まず今の仮定、p:狩りをして良い獲物が獲られない、そして将来の結論、q:謀反を起こしてうまくいかない、を結んだ「pならばqである(p→q)」という条件文の対偶「qでないならばpでない(~q→~p)」である。謀反を起こしてうまくいかないのでないならば、狩りをして良い獣は獲られないのではない、を解き起こした条件文がウケヒの言葉になっている。将来の予測として現在のウケヒという占いが存在するのは、対偶が真であるからに他ならない。逆や裏は必ずしも真ではない。言葉を操るうえで、条件文の対偶は真であると知ることによって、将来のことなど分かりはしないが、条件文の対偶は必ず真であるから、それを活用して占ってみようという気持ちが生じている。それがウケヒである。(p→q)を真とすると、(~q→~p)も真ということになる。そして、将来のことが今わかる、とは、今、仮にわかるということ、仮にわかるから「狩り」なのである。ウケヒがウケヒ狩りという形態をとった理由はそこにある。
将来の征西や謀反がうまくいくならば、今からする釣りや狩りがうまくいく、と言立てているのであり、今からする釣りや狩りがうまくいくならば、将来の征西や謀反がうまくいく、とは言っていない。すなわち、論理学を用いた占いがウケヒの始まりであったと考えられるのである。そう思っていた上代人、日本書紀の執筆者が、意味の近い字義である「誓」や「祈」という漢字を当てて記したということであろう。言葉を宣誓的に発する占いであり、祈願を言葉に露わにする占いであったからである。その点が、「こう言えば、こうなる」式の考え方と次元が異なるところである。「こう言えば、こうなる」がすべて当てはまるなら、何もウケヒなどしなくても、わあわあと言い立てればすべてその通り思いのまま実現してしまう。それでは世の中が無秩序状態、アノミーに陥る。筆者が提案している「言霊信仰」とは、言=事であること、「こう言ったら、こうするようにする」、「こうなっていたら、こう言うようにする」こと、すなわち、言葉というものの本質、前提を表している。秩序化を目指すのが言霊信仰であって、近代の用語に準えるなら、法の支配、ならぬ、言葉の支配を促すものである。ウケヒとは、言葉の支配、言霊信仰に基づいた古代の論理占術であったと考える(注7)。
(注)
(注1)万葉集にある4例(万767・2433・2497・2589)のウケヒの語は、希望に反した結果を示しているだけで、単なる願いの意である。古典基礎語辞典の「③神に祈る」意味合い以上のことを見出すことはできず、実態まで把握できるものではない。拙稿「万葉集のウケヒと夢」、「万葉集2433番歌「如数書吾命」とウケヒについて」参照。
(注2)「こう言えば、こうなる」ということに関して、予言の自己成就的な側面は認められようが、それを筆者は「言霊信仰」とは呼ばない。今日の学説に「言霊」をひとり歩きさせる傾向があり、言葉には呪力があって畏れ多いものであるとする考え方は偏屈である。言葉を慎むという言い方は、減らず口があってはじめて登場する慣用句であろう。
(注3)今日の占いに、前世を占うことが行われることがある。輪廻の観念によるところがあるかと思われる。上代に、占いは、当事者の身に時間的にこれから起こるであろうこと、将来のことを予言的に知り得ようとして行われていたと考えるのが妥当であろう。
(注4)和名抄に、「半月 内典に云はく、五種不男の其の五に半月〈俗に訛りて波爾和利(はにわり)と云ふ、或る説に一月三十日、其の十五日、と為ち、十五日、女と為るの義也と云ふ〉と曰ふといふ。」とある。
(注5)内田1988.に、「「姉妹とも娶れば……永遠の命と栄華が約束され……、美しい妹のみを娶ると……、現世の栄華はあっても命は無常でしかない……」。[二つの仮定が]矛盾的でかつ第三の場合(例えば醜い姉のみ娶る)が排されるのは、先に見たこの譚が由来する聖婚のあり方により明らかである。」(29頁)とあるが、原文に「姉妹とも娶れば」とは書かれていない。
(注6)筆者は拙稿「コノハナノサクヤビメについて」において、イハナガヒメは羽釜の譬え、コノハナノサクヤビメは甑の譬えではないかと推定した。すなわち、お米を羽釜で炊いてご飯を食べることと、甑で蒸してそれをお酒にして呑むことと、両方するといいよというのが、大山津見神という調理器具を司る土間の神さまの提言、つまり、ウケヒであったと考える。ご飯にしていつもながらに食べていれば力にはなるが堅物のしみったれた人生になる。といって、お酒に作って呑んでばかりいては、その時は気分よくなって楽しいけれど身にはつかず、アルコール中毒か肝硬変で短命に終わるということである。狩猟採集の時代から農耕に酒造の加わる時代へと大きく舵を切った飲食生活の劇的変化と、その調理法への対応のうち、ヤマトの人たちが鉄製の釜を利用しなかった事情について説話化したものと考えた。
(注7)拙稿「古事記におけるウケヒ神話について」参照。
(引用・参考文献)
内田1988. 内田賢徳「ウケヒの論理とその周辺─語彙論的考察─」『萬葉』第128号、昭和63年2月。萬葉学会・学会誌『萬葉』アーカイブhttp://manyoug.jp/memoir/1988
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
土橋1989. 土橋寛『日本古代の呪禱と説話─土橋寛論文集 下─』塙書房、平成元年。
土橋1990. 土橋寛『日本語に探る古代信仰』中央公論社(中公文庫)、1990年。
※本稿は、2016年3月稿を2021年10月に、誤りを正して改稿したものである。