(承前)
「遊」=ユク
そして、「遊」はユクと訓む。紀では、「遊行」に多く敬語のイデマスを当てるなか、
天孫(あめみま)の前(みさき)に立ちて、遊行(ゆ)き降来(くだ)り、……(神代紀第九段一書第四)
とある。白川1995.に、「ゆく〔行・去・往(徃)〕 四段。目的のところに向かって進行する。歳月などが過ぎゆくことをもいう。持続的に経過してゆく意。死ぬことをいうことがある。」(776頁)とある。万葉仮名で、「遊」はユと呉音に従って訓む。意味として、動詞ユクに限りなく近い。中村2001.は、「ゆ(遊)」の項目を立てて、「①存在する。いる。「倶遊」(ともにいる。)……②…している。住に同じ。Ⓟ viharati ……〔サンスクリット語やパーリ語には、英語の…ing に相当する現在進行形がないから、ⓅⓈ carati ⓅⓈ viharati などをもって現在進行形を示す。したがって、漢訳の「遊」はほぼ現在進行形を意味する。〕③へめぐること。旅をして進んで行くこと。Ⓢ vicarati ……Ⓢ prayāṇa ……④一時、くつろいでとどまること。ⓅⓈ viharati ……〔現代のサンスクリット語およびヒンディー語では、子供たちが遊ぶ遊園地やレジャー・センターのことを vihāra-kendra という。〕」(1682頁)と解説する。今日でも、遊行(ゆぎょう)、遊戯(ゆげ)、遊楽(ゆらく)という呉音読みが残っている。音訓が絲のように撚り合わさってユと読む。
橘大女郎は、太子が母王に従って絲を縒り合せるようにして「ゆ(遊・行・往・逝)」くところを、「天寿国」であると言い出している。持続的、継続的に、…ing として「ゆ」くところ、という意味である。これは、浄土と呼んでいいかもしれないには違いないし、56億7千万年滞在しているのかもしれないけれど、どうも、飛鳥時代の信仰形態の問題以前の問題ではなかろうか。与件として既存の信仰形態を信じるという話ではなさそうである。彼女にとっての念仏(?)・題目(?)は、「世間虚仮 唯仏是真」だけである。浄土について体系化された理念には関知していない。そんな人が、「天寿国」という自己矛盾した形容の架空世界を勝手に思念して、その画像を観想したいから作って欲しいなどと途方もないことを、それを事もあろうに天皇に言ってきた。立場をわきまえぬ直訴であることが、「白『畏天皇前曰敬之雖レ恐懐心難レ止……』」ときちんと記されている。信仰とは別次元の話である。橘大女郎の錯乱、乱心、狂気の様子である。推古天皇は、橘大女郎の「天寿国」空想(幻想、妄想)に付き合ってあげたに過ぎない。
聖徳太子という人は、とてもユーモアのある人であったのであろう。仏教のお話をお話として推古天皇に講義してみることができる人であった。
秋七月に、天皇、皇太子(ひつぎのみこ)に請(ま)せて、勝鬘経(しょうまんぎゃう)を講(と)かしめたまふ。三日に説き竟(を)へつ。(推古紀十四年七月)
是歳、皇太子、亦法華経(ほふくゑきゃう)を岡本宮に講く。天皇、大きに喜びて、播磨国の水田(た)百町(ももところ)を皇太子に施(おく)りたまふ。因りて斑鳩寺に納(い)れたまふ。(推古紀十四年是歳)
天皇はお話として勝鬘経や法華経のことを聞いてみて、よくわかった、ということであろう。仮に、信仰するというレベルでも、この、わかった、のラインで止まるに違いない。そうでないと、現実に生きて行けなくなる。全人民が補陀落渡海を実行したらどうなるか。橘大女郎の場合、真に受けてしまった。フィクションをフィクションとして捉えられなくなった時、その精神はピンチである。孫娘にそういうのが一人いる。孫娘まで「従遊」するようなこと、つまり、後追い自殺された日には堪ったものではない。すぐに何とかしたい。しかし、天皇という職務、それはすなわち、その立場という形式を保つということに他ならないのであるが、それと相容れない。宮を離れて相談に乗ったり、あるいは傾聴したり、ないしは対話したり、さらには添寝するわけには行かない。
どうしたらよいか。「勅二諸采女等一、造二繡帷二張一」である。公式に「繍帷造司」を設けたのではない。采女等に直に「勅」して内々に事を進めた。養老令・後宮職員令に定めのある「縫司(ぬひとのつかさ)」を使ったのではない。精神疾患に対する偏見のようなことは昔からあったであろうから、内々にしか進められないとも思われるし、緊急事態に行政が役に立たないのは昔からのことであろう。下絵にしても、官吏である「画工司(ゑたくみのつかさ)」(養老職員令)に属するような先生は使えない。「画工白加」(ゑかきびゃくか)(崇峻紀元年是歳)、「黄書画師(きふみのゑかき)・山背画師(やましろのゑかき)」(推古紀十二年九月是月)といったプロではなくて、アマチュアながら絵が上手いと聞こえる下々の者を呼んできたに違いあるまい。なにしろ、彼らが絵も字も描くわけではない。刺繍をするのである。その下書きだけである。刺繍もお針子のプロ、「衣縫(きぬぬひ)」(応神紀四十一年二月是月)、「衣縫部(きぬぬひべ)」(雄略紀十四年三月)や「衣縫造(きぬぬひのみやつこ)」(崇峻紀元年是歳)などではなくて、アマチュアの「采女」なのである。材料は適当に見繕って役所の蔵から調達してよいと免許を持たせた。「椋部秦久麻」なる人、あとはよろしく、とのことである。いやに人選が早い。あっという間に進んでいる。事が事だけに急を要している。その事柄について、きわめて正確に記されているのが、天寿国繍帳の銘文である。
結果、できあがった「繍帷二張」を橘大女郎が観て、彼女は、おそらく、いやきっと、気持ちが落ち着き、快方へと向かったものと思われる。使用目的を果たした。そして、法隆寺の蔵に繍帳はしまわれて、長く日の目を見ることはなかった。なにしろ超マンガのB級品である。むしろ、絵本の見開き1ページといったほうが適切かもしれない(注19)。
橘大女郎の病
以下、ベイトソンのダブル・バインド理論について、矢野1996.に倣いながら解説し、橘大女郎の“カルテ”を見ていく。
パラドックスとは、単なる矛盾をいうのではなく、自己言及性と悪循環を含んだ3つの要素から成り立つものである。「行為(言明)」がその「行為(言明)」自身に適用された時、自身を否定してしまい、「行為(言明)」の「意図」の達成を拒んでしまうという自己言及性のある矛盾がパラドックスである。橘大女郎は、「我大王(聖徳太子)」が言っていた「世間虚仮 唯仏是真」に毒されている。太子は亡くなってしまった。まさに「世間虚仮」である。そして、太子は、「唯仏是真」であるところの「仏」になってしまった。すると、「世間(=世界)」を反転させないと訳が分からないことになった。頭蓋骨のなかで、まず口で「世間虚仮 唯仏是真」と唱えながら反転させてみた。「天寿国」なる国を反転世界として仮構したのである。当然、頭蓋骨のなかにある目にも見えて良いはずである。しかし、目には浮かんで来ない。太子の仰っていたことは絶対であるから、見えないはずがないのにできない。「世間虚仮 唯仏是真」という言明を、「世間虚仮 唯仏是真」という言明自身に及ばせてしまったがために、「世間虚仮 唯仏是真」という言明が意図せざる結果に陥ったのである。これは、パラドックスである。ベイトソンのいうダブル・バインドもパラドックスの一形態である。
ベイトソンのダブル・バインド理論とは、「①非対称の人間関係の場において、②一定のメッセージが与えられ、③しかもそのメッセージを否定するメタ・メッセージが同時に与えられ、④そして犠牲者がその場を逃れることができない状況をダブル・バインド状況といい、⑤それが反復されると弱者の側に分裂病[統合失調症]を生むというものである。」(43頁)。聖徳太子と橘大女郎との間柄は、夫婦である以上に、師と弟子のような関係にあったのであろう。そういった一定の相補的、非対称的、支配被支配的な関係性のなかで、繰り返し「世間虚仮 唯仏是真」と言われ続けて刷り込まれてしまい、しかも太子が亡くなるというあり得ないようなメタ・メッセージが科されてしまった。同じ穴のムジナである膳妃まで太子と共に亡くなってしまって慰め合うこともできず、斑鳩宮から逃れることもできない。完全にダブル・バインド状況に置かれている。この事態は、統合失調症に侵される瀬戸際にあるといえる。訳が分からなくなって、事もあろうか、祖母である推古天皇に啓上に及んだのであった。
ベイトソンのいう学習の類型において、「学習Ⅱ[習慣形成、性格形成のように、コンテクスト自体が変更されるシステム、選択肢集合自体が変更されていくプロセス]以前の状態から学習Ⅲ[習慣化した前提を問い質し、解釈図式の変革を迫るもの。換言すれば、それまでの自己の行為(言明)のコンテクストのそのまたコンテクストを眼中に収めながら行為(言明)するすべを習得すること。自己システム全体が組み替えられること]への移行は、自己システム全体の変容をもたらす。この時、システムを閉じた個人と捉えてはいけない。」(41頁)と説かれている。これは重要なことである。橘大女郎も、自己システム全体の変容が、偉大なる推古お婆ちゃん帝との、繍帳を介した関係のなかにおいて起こったと思われる。
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学習の システムの 行為論的に見た 認識理論的に見た 具体例
類 型 論理階型 論理階型 論理階型
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学習Ⅲ 自己システ 選択可能な選択肢集合 コンテクストのコ 覚醒・回心
ムの組み替 群がなすシステムその ンテクスト(関係
え ものが修正される変化 パターン)の変化
学習Ⅱ 自己・習慣 選択肢集合自体が変更 コンテクストの変 習慣形成
・性格の形 されていくプロセスの 化
成 名
学習Ⅰ 行為の変化 同一選択肢集合内で選 メッセージの選択 古典的条件
択されるプロセスの名 づけ
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▶生物による学習Ⅳの可能性はベイトソンによって否定されている.ただ,個体
発生上の変化を変化させる系統発生上の変化(進化プロセス)は,学習Ⅳに踏み
込んでおり,これをエコシステムの変化として捉えることができるかもしれな
い.しかし,そうすると自己言及のパラドックス問題に逢着することになる.(37頁)
続けると、「コミュニケーション・システムとしての人間が、本質的に、関係に自己言及するコミュニケーション・システムとして存立していると考えるとき、これまでの学習と呼ばれているものは、すべてコミュニケーション・システムの自己変容として捉えることができる。一般には覚醒を、個人の内面に生じる劇的事態と捉える思考に慣らされているが、私たち[矢野先生や亀山佳明先生ら]は、コミュニケーション論に基づき、コンテクストとメッセージとのパラドックスによってもたらされる関係のダイナミックな自己変容としてそれをみることを主張する。関係が人間の最深部の無意識のレベルで、人間の世界にたいする構えを規定しているとき、関係そのものを意識的努力によって変容させることは、原理的に不可能だと言ってよい。このことが、覚醒と呼ばれる事態がまれにしか生起しない理由を示している。」(41頁)とある。確かに、橘大女郎は、自分の力だけでは、世界にたいする構えを変容させることはできなかった。そして、太子の言葉である「世間虚仮 唯仏是真」について、自分と同程度、ないしそれ以上に理解のある人物が誰かいないか探してみた。一人いた。推古天皇である。太子の仏教講筵を聞いて、感激して、「播磨国水田百町施二于皇太子一」していた。しかし、いくらなんでも「畏」れ多い。他にいないか。いない。仕方がない。「雖レ恐」だけれどかかづらわりあいたい。
さらに続けると、「ところで、関係の自己言及による矛盾によって、関係の自己変容をもたらすものに対話がある。ソクラテスが、非連続的な覚醒をもたらす優れた対話者であることはよく知られている。そして、彼の対話の特徴として、パラドックス、アイロニー、ユーモア、メタファーがあることもよく知られている。これらの特徴は、すべてコミュニケーションの論理階型の混乱と秩序化に関係しており、このような対話の在り方にこそ、関係を変容させ、覚醒をもたらすソクラテス的対話の秘密があると考えられる。」(42頁)とある。推古天皇は聞いて弱った。「悽然」としてしまった。「世間虚仮 唯仏是真」って、マジで言っているわ。「皇太子亦講二法華経於岡本宮一」のとき、あの子、いくつだったっけ? しょうがないわねぇ。
私、「天皇」(注20)やっているの。立場上、対話はできないのよ。公に役人を使うこともできないわ。でも、何とかしなくちゃ。急ぐわね。彼女は、「天寿国」に「大王住生之状」を「観」るためのよすがとして、「図像」があると助かると言っていた。そしたら、彼女がそれを見て覚醒、つまり、世界にたいする解釈図式において、自己変容を起こさせるようなものを作ってあげたらいいのね。
銅(あかがね)・繍(ぬひもの)の丈六(ぢゃうろく)の仏像(ほとけのみかた)、並に造りまつり竟りぬ。(推古紀十四年四月)
えーっと、仏像なんか作ったってダメよ、いわゆる繍仏も全然ダメ。荘厳なのはダメ。彼女の言っているテムジクニって何だかよくわからないけれど(注21)、まあ、深くは考えないで、テムジクニ全体がすごくハッピーな感じに「観」えるような「図像」にしたらいいってことよ。刺繍は刺繍でもきりりっとしたのは作っちゃダメよ。仏さまがおひとりさまなんて暗くなっちゃう。ちょうどいいわ、あなたたち采女だったら、刺繍下手だからかしこまらなくて。それにあなたたちに頼むなら、大ごとにもならないし。いちばん肝心なことは、彼女が笑うこと。前の素敵な笑顔にもどすこと。袋小路から抜け出させるの。「従遊」なんて言ってたけれど、ただの「遊」でいいのよ。遊戯(ゆげ)よ。テムジクニは遊園地に描くの。味のあるマンガを描く人知らない? 適当に探してきて。ね、わかった、采女たち。超特急で作ってね。頼んだわよ。
仕事を振られた采女らも、最初は戸惑ったことだろう。あるいは、尼さんなんかに聞いたかもしれない。
……又、汝(い)[鞍作鳥]が姨(をば)嶋女(しまめ)、初めて出家(いへで)して、諸の尼の導者(みちびき)として、釈教(ほとけのみのり)を脩行(おこな)はしむ。(推古紀十四年五月)
作り手にとっての最大の謎は、「世間虚仮 唯仏是真」であったろう。その内容もさることながら、その形式においてもである。橘大女郎は、采女同様に字が読めないはずである。読む必要性がないから、読みたいと思うことすらない。けれど、「世間虚仮 唯仏是真」と、お経を読むように読んでいたらしい。どこでそんな文字を覚えたのであろうか。文字を学ぶ初学書は、論語か千字文である。
故、命(みこと)を受けて貢上(たてまつ)りし人の名は、和邇吉師(わにきし)、即ち、論語(ろにご)十巻(とまき)・千字文(せにじもに)一巻(ひとまき)幷(あは)せて十一巻を、是の人に付けて即ち貢進(たてまつ)りき。(応神記)
そうか、四文字ずつ、千字文に違いない。ならば、「天寿国」の「図像」にも四文字ずつ、事の次第をつぶさに記してなかにぶち込んで書いてしまったらいい。亀甲文のなかに亀を描いた図柄が有りなのだから、何だって有りにしてしまおう。橘大女郎が文字を読めないときは、読めなくても、彼女が懐く「天寿国」っぽいし、読めたとしたら、もう笑うしかないじゃないか。<図>に<地>が紛れ込んでいる。橘大女郎の今、現在進行形が、「天寿国」の「図像」のなかに書いてあるのだもの。現在進行形、-ing とは、それこそ太子がよく仰っておられた「遊(ゆ)」ということだろう。彼女に足りないのは、「遊」そのものなのだと天皇も仰っていた。「天寿国」ワンダーランド。そう、「世間虚仮 唯仏是真」をまるごと「虚仮」にしよう。メッセージのメタ・メッセージ化、メタ・メッセージのメタ・メタ・メッセージ化。きっと悟ってくれるさ、反転の反転で。
すなわち、パラドックス、アイロニー、ユーモア、メタファーの豊富な天寿国繍帳を観ることによって、橘大女郎は、世界(世間)とのコミュニケーションの論理階型の混乱状態を再秩序化したのであった。「遊び[=ユ]は日常のコミュニケーションを切断し、解釈枠組みの改変を改変し、不断に意味を生みだし、生に輝きをもたらす。」(122頁)ことに成功した。これは実はたいへんなことで、推古天皇は、天寿国繍帳を介してではあるが、橘大女郎と「関係が対称のときには、パラドックスは真性のダブル・バインド状況とはならない。遊び[(パラドックス、アイロニー、ユーモア、メタファー)]は対称のコミュニケーション・システムのなかで、パラドックスを乗り超える快楽といえる。」(103頁)ことをやってのけた。立場上不可能であるのに、無礼講状況を、寝屋の帳用のカーテン(注22)制作によって成し遂げたのであった。凄い人物であったとわかる。
以上、橘大女郎の精神状態、解釈の<図>と<地>の混乱について、そのまま捉え返された<図>と<地>の区別なき図像に表わされた銘文のフレーム分析を行った。銘文の大枠はこのようなものであった。
「十二月廿一癸酉日入」への疑問
次に、「孔部間人母王」(穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ))の忌日はいつか、銘文中に「歳在辛巳十二月廿一癸酉日入孔部間人母王崩」とあることの意味について考察する。干支表記個所である。「歳在辛巳」とは推古29年のことである。金沢2001.によれば、当時用いられていた元嘉暦では「十二月廿一癸酉」は間違っており、甲戌のはずであるとされる。12月20日が癸酉、21日が甲戌に当たる。そして、後に採用された儀鳳暦においても『日本書紀暦日原典』では同じことになっている。けれども、儀鳳暦の補正値について、複雑な定朔法をマイクロソフト・エクセルのワークシートを使って計算し直してみたところ、推古29年12月朔の干支は一日ずれあがり、21日の干支は「癸酉」になるという。よって、元嘉暦ではなく儀鳳暦が使われた持統朝以降に天寿国繍帳の銘文は記された可能性が高いという。これには批判もあり、野見山2011.に、須賀隆氏からの教授として、推古29年12月21日が「癸酉」になることから証明できるのは、進朔を行わない定朔の暦法が用いられたことだけであり、暦相互変換プログラム when では、儀鳳暦やその次の大桁暦によって計算された場合も干支は癸酉になるという。
話がややこしくなっている。銘文を“読まない”姿勢から起こって、変なところへ関心が向かっている。原文は、違う意味で思った以上に奇妙である。日付の書き方である。亡くなったのは2人ということで銘文の話は進んでいた。2つの日付の記述を比較すると、
歳在辛巳十二月廿一癸酉日入孔部間人母王崩
明年二月廿二日甲戌夜半太子崩
となっている。年月日時間を干支で表したいのか、数字で表したいのか、記述者の意図を量りかねる。下の行は、その次の年の明けて2月22日、十干十二支で表すと甲戌(きのえいぬ)の夜半、太子は崩御された、とシンプルである。しかし、上の行は、歳が辛巳(かのとみ)に在る年の12月21、干支で表すと癸酉(みづのととり)の「日入」に孔部間人母王は崩御されたとある。この部分、上宮聖徳法王帝説に、
歳在辛巳十二月廿一日癸酉日入孔部間人母王崩
となっている。数字で月日を書く時、通例、「○月○日」と書く。法王帝説を記した人の気持ちは理解できる。けれども、勘点文などから、繍帳銘文は、「○月○癸酉日入」が正しいとされる。干支の後に「日」字が離れ、それが「日入」という熟語として解釈されている。岩波書店の思想大系本では、「十二月廿一(じふにぐわちノにじふいち)ノ癸酉(くゐいう)ノ日入(ひぐれ)に」と訓んでいる。東野2013.には、「斉明五年(六五九)七月紀に引く伊吉連博徳書(いきのむらじはかとこしょ)に「十五日日入之時」と見える。」(61頁)とある。けれども、伊吉連博徳書(いきのむらじはかとこがふみ)は、「十五日(とをかあまりいつかのひ)の日入(とり)の時に」という表し方をしている。「日」字が重なっている。なぜ繍帳銘に「十二月廿一癸酉日入」と「日」字をケチって干支を加えた書き方がされているのか、了解されるに至っていない。疑問さえ提起されていないように見受けられる。干支との間の齟齬にばかり目が行って、「不審」という言葉で議論されている。そもそも、繍帳銘の「日入」を日没時間帯と決めてかかっていいのか疑問である。記述の要諦が不明である。以下、筆者の考えを述べる。
元嘉暦であれ儀鳳暦であれ、同21日は癸酉の次、甲戌(きのえいぬ)である。“読む”姿勢を持てば、つまり、“書く”立場の気持ちを汲めば、実にあやしい書き方が施されていると知れる。月日の数字の後に「日」字を挟まない書き方は尋常ではない。銘文を記した人との知恵比べである。実際に孔部間人母王が亡くなられたのは、推古29年12月21日のことであろう。時間帯は未明で、死亡診断書としては、それはほとんど前日の12月20日に算入しても構わないということが、「十二月廿一癸酉日入」という書き方から見て取れる。
なぜ死亡診断書が改竄されなければならないのか。干支を「癸酉」にしたいからである。それは、鎌倉時代に、信如という尼が中宮寺を再考しようとした時、太子の御母堂、穴穂部間人皇女の忌日を知りたがって天寿国繍帳を探したという事柄とリンクしている。聖徳太子の「母王」の名は、「穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)」(用明紀元年正月、推古紀元年四月)、「埿部穴穂部皇女(はしひとのあなほべのひめみこ)」(欽明紀二年三月)、「間人穴太部王(はしひとのあなほべのみこ)」(欽明記)と記される。アナホベノハシヒトという人の表記は、銘文中で、「孔部間人公主」とある(注23)。
銘文の他の登場人物のうち、「尾治王(おはりのみこ)」の「治」字は表意文字で記されているが、その他は、例えば、「阿米久爾意斯波留支比里爾波乃彌己等(あめくにおしはるきひろにはのみこと)」のように、だらだらと一字一音の仮名書きで記されている。だらだら書きが蔓延している中、「孔部間人」と表意文字で記しているのは、名が、事柄内容を表意しているということであろう。名とは何か。呼ばれるものである。名づけられた綽名と言っても過言ではない。
「孔部間人」の意味
アナホベノハシヒトさんは、アナホベノハシヒトというからには、穴に穂が入っていて端っこにいる人というイメージが浮かぶ。穴に穂を入れて端っこに人がいる様子とは、鳥を捕まえるために罠を張って待っている人というニュアンスがある。それは古代、鳥取部(ととりべ)、鳥飼部(とりかひべ)と呼ばれた職掌の人たちがしていた。穴を掘ってそこへ餌を置いてよび込み、蓋して出られなくして捕まえる方法は、小鳥に対しては行われない。地面を掘る必要はない。本職が小鳥を捕まえる場合、霞網などで一網打尽、大量捕獲が可能である。今日では鳥獣保護法でやかましい。雁や白鳥は大きくて力が強く、水辺の穴などに餌を置いて誘い込み、編み籠で蓋して捕まえる。
銘文ではわざわざ、「孔部(あなほべ)」と表記を断っている。「部」とは部曲(かきべ)のことであろう。穴穂天皇(安康天皇)が皇太子時代に設けられた部であるらしい。それが穴穂部間人皇女とどのように関わるか、今となっては実証不可能である。それよりも、ここに、「孔部」と記されてあることに注意を向けたい。説文に、「孔 通る也。乙に从ひ子に从ふ。乙は子を請ひし候鳥也。乙至りて子を得、之れを嘉美する也。古人、名は嘉、字は子孔」とある。「候鳥」とは渡り鳥のことである。気候に合わせて見られる。ここで、ハクチョウ(白鳥=鵠(くぐひ))やガン(雁(かり))、ツバメ(燕)を思い浮かべても、孔(あな)に当たるような頓智は冴えてこない。ヤマトの人が漢字を目にして、その字の解説である説文の文を“悟る”ことを推し進めたなら、あな(孔)が開いて通っていて、しかも渡り鳥になるような事柄が、「孔」という字に必要十分な条件としてあげられていると考えたに相違ない。上代の人たちは知恵が豊かである。そのとき、打ってつけの鳥がいる。タカ(鷹)である。
タカは、鷹狩に利用される。嘴が鋭い。穴を開け穿ち、刳り抜くのにもってこいの鋭利な鉤状をしている。実際、獲物の胸に孔を開け、真っ先に心臓を食べるという。タカは渡り鳥ではないと思われるかもしれないが、“渡り”鳥である。鷹狩に使われるタカは、調教されて、放たれても人のところへ帰るように訓練されている。それを鷹匠用語で、「渡り」と呼ぶ(注24)。自然界のタカは渡り鳥ではないが、鷹狩用のタカは、渡り鳥、候鳥である。
「鷹を馴らす図」(『放鷹』、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213512(226/398)。
よこはま動物園ズーラシア・バードショー(人から人へ“渡り”ます。選ばれればキャッチもできます。)
本邦で鷹狩が始まったことを記す記事は、仁徳天皇時代のこととして描かれている。
四十三年の秋九月の庚子の朔に、依網屯倉(よさみのみやけ)の阿弭古(あびこ)、異(あや)しき鳥を捕りて、天皇に献りて曰(まを)さく、「臣(やつかれ)、毎(つね)に網を張りて鳥を捕るに、未だ曾(かつ)て是の鳥の類を得ず。故、奇(あやし)びて献る」とまをす。天皇、[百済の王(こきし)の族(やから)、]酒君(さけのきみ)を召して、鳥に示(み)せて曰はく、「是、何鳥ぞ」とのたまふ。酒君、対へて言さく、「此の鳥の類、多に百済に在り。馴(なら)し得てば能く人に従ふ。亦、捷(と)く飛びて諸の鳥を掠(と)る。百済の俗(ひと)、此の鳥を号けて倶知(くち)と曰ふ」とまをす。是、今時(いま)の鷹なり。乃ち酒君に授けて養馴(やす)む。幾時(いくばく)もあらずして馴(なつ)くること得たり。酒君、則ち韋(をしかは)の緡(あしを)を以て其の足に著け、小鈴を以て其の尾に著けて、腕(ただむき)の上に居(す)ゑて、天皇に献る。是の日に、百舌鳥野(もづの)に幸(いでま)して遊猟(かり)したまふ。時に雌雉(めきぎし)、多(さは)に起つ。乃ち鷹を放ちて捕らしむ。忽ち数十(あまた)の雉を獲つ。是の月に、甫(はじ)めて鷹甘部(たかかひべ)を定む。故、時人、其の鷹養ふ処を号(なづ)けて、鷹甘邑と曰ふ。(仁徳紀四十三年九月)
この記事を読んで、本邦にそれまでタカがいなかった、百済にはいたから連れて来られたことを示すと捉えるのは、国語能力に欠けた人である。記事には、本邦で今まで網にタカの類がかかったことはないと記されている。渡来人に聞いたところ、人に馴れさせて狩りに使うのを、百済ではクチと言っているという話である。割注に、「是今時鷹也」とあるのは、「今時」、鷹であると言っており、では、往時、何と言っていたかは記していない。クチは百済語である。倭で外来語のクチを採用したわけではなく、タカと言っている。空間的に“渡り”鳥なばかりか、時間的にも“渡り”鳥である。巧みなレトリック表現として“渡り鳥”であることを示唆してくれている。ヤマトコトバのワタル(渡)のワタは海(わた)と関係するようである(注25)。
自然科学による種の同定など古代の人は関知しない。飼い慣らして人間の役に立てる存在になった時、hawk という野生動物がタカとしてありありと人の前に現れる。言葉として立ち上がる。大陸の北方地域には、鷹狩に役立ちやすいタカが棲息していたらしく、中華帝国にも伝えられている。鷹狩用の鷹がその技術とともに伝えられ、すなわち、鷹を捕まえるところから養い育て馴れさせ思いどおりに操れるようにすることができるようになった。それを紀の記事はきちんと伝えてくれている。「是鳥之類」と書いてある。鷹狩に使うのは、オオタカ、ハヤブサ、クマタカ、ハイタカなど、「類」の鳥であって1種ではない。鷹狩に使う鳥を、タカと通称することが言葉の使い方として便利なのである。隼狩という語を造っても混乱が生じるだけである。垂仁記に次のようにある。
故、今高く往く鵠(くぐひ)の音(こゑ)を聞きて、始めて阿芸登比(あぎとひ)為(し)き。爾に山辺之大鶙(やまのへのおほたか)〈此れは人の名ぞ〉を遣して其の鳥を取らしめき。故、是の人、其の鵠を追ひ尋ねて、木国(きのくに)より針間国(はりまのくに)に到り、亦、稲羽国(いなばのくに)に追ひ越えて、即ち、旦波国(たにはのくに)・多遅麻国(たぢまのくに)に到り、東の方に追ひ廻りて、近淡海国(ちかつあふみのくに)に到りて、乃ち三野国(みののくに)に越え、尾張国より伝ひて科野国(しなののくに)に追ひ、遂に高志国(こしのくに)に到りて、和那美(わなみ)の水門(みなと)にして網を張り、其の鳥を取りて持ち上り献りき。故、其の水門を号けて和那美(わなみ)の水門と謂ふ。(垂仁記)
「山辺之大鶙」という人名があるから、タカがいたことは間違いない。「和奈美」という地名は、ワナ(罠)+アミ(網)を示している。ハクチョウを捕まえるのに、颯爽とした鷹狩ではなく、鈍くさい罠・網猟が行われている。仁徳紀と併せて考えれば、本邦の自然界にタカはいたが、鷹狩は行われておらず、仁徳朝になって鷹狩技術が伝えられ、人々の意識の上にタカという語がクローズアップされたということであろう。
鷹狩をする場合、タカを捕まえてから飼い慣らして狩りに使うまでには、かなりの忍耐と努力が必要である。鵜飼に使うウ以上に大変かもしれない。最終的に縄の繋ぎを取り、放ってしまわなければ狩りに用いることはできない。そのとき、野生に帰ってしまわれてはすべての努力は水泡に帰す。捕獲後の扱いは、革製の足皮をつけて拘束し、真っ暗なところで空腹にさせ、人の手から鳩の肉をもらうことから始める。爪も嘴も小刀を使って削り揃える。新修鷹経中に、「攻(ヲサムル)レ觜法」、「攻(ヲサムル)レ爪法」(国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2535853、26~27/39)参照)などが記されている。人に危害を加えさせないこともあるが、鋭利すぎる嘴を失えば、調教の時も、実際の鷹狩の時も、肉を食べるのに時間がかかるため、訓練に役立ち、狩猟時にも獲物の損傷が少ない。鷹狩で大きなハクチョウを捕まえた時、鷹が食べるのに手間取っている間に人が近づき、代わりに持参した鳩肉を与えれば、鷹はおとなしくそれを食べてくれる。
つまり、嘴は、離されているのである(注26)。仁徳紀に鷹の百済語クチが紹介されているのは、洒落を言いたかったのであろう。タカは嘴が特徴的で、それは、言葉を話させるための仕掛けとしても見極められていた。漢字においては鳥は嘴、人は吻であるが、ヤマトコトバにはどちらもクチバシである。鳥のよく響く甲高い鳴き声を、鳥の言葉として認識していた。だから、言語障害の御子の逸話に、オホタカなる名の人が登場している。嘴という器官の持つ意義を見抜き、言葉として成立させている。口は、物を食べることと、言葉を喋ることの両用の役目を果たす。それを得意ならしめているのが嘴である。そして言葉を喋る意において、クチバシは口走ることと緊密な関係にあろう。古辞書にクチバシに関する語は、新撰字鏡に、「觜 之髄反、上、喙也、鳥口也、久知波志(くちばし)」、「誆 九王反、禱也、𧥶也、久知波志留(くちはしる)、又太波己止(たはこと)、又久留比天毛乃云(くるひてもの云)」、和名抄・羽族部・鳥体に、「觜〈喙附〉 説文に云はく、觜〈音斯、久知波之(くちばし)〉は鳥の喙也、喙〈音衛、久知佐岐良(くちさきら)、文選序、鷹の礪の曰ひ也〉は鳥の口也といふ。」、形体部・鼻口類に、「脣吻 説文に、脣吻〈上音旬、久知比留(くちびる)、下音粉、久知佐岐良(くちさきら)〉と云ふ。」ともあり、新訳華厳経音義私記に、「吻 無粉反、脣の両角の頭辺を謂ふ也。口左岐良(くちさきら)」、名義抄には、「呴吽𤘘 クチサキラ」、「話 胡快反、牜、カタリ、アヤマツ、サキラ、コトハル、ウツ、カタラフ、ハチ、ウレフ、マコト、合會善言ヽ調ヽ」とある。つまり、クチバシのクチバシたるものの本質までを決定的に表わすのが、鷹の嘴である。鷹狩のために飼い慣らされた鷹の嘴は、爪觜小刀によって丸く鈍く整えられている。離されているのである。ハナシという言葉は、話であり、離(放)しである。口から意図的に放って離れさせるものが、クチサキラから放すサキラ、つまり、ハナシ(話)である。
以上の考察から、「孔部間人」と用字において表意的に断っているアナホベノハシヒトという言葉は、鷹の嘴に負っている優れた職掌であることを意味しているとわかる。よくお喋りをする明るい方で、人と人とをつなぐ“渡り鳥”的役割を果たす存在だったのであろう。そして、人と人との間を渡る渡り鳥が、鷹狩のために調教された鷹である。鳥を捕まえて献上するのは、「鳥取部(ととりべ)」、「鳥飼部(とりかひべ)」と呼ばれた職掌の人たちである。
是に天皇、其の御子[本牟智和気御子(ほむちわけのみこ)]に因りて、鳥取部・鳥甘部(とりかひべ)・品遅部(ほむぢべ)・大湯坐(おほゆゑ)・若湯坐(わかゆゑ)を定めき。(垂仁記)
十一月の甲午の朔乙未に、湯河板挙(ゆかはたな)、鵠(くぐひ)を献る。誉津別命(ほむつわけのみこと)、是の鵠を弄びて、遂に言語(ものい)ふこと得つ。是に由りて、敦く湯河板挙に賞(たまひもの)す。則ち姓を賜ひて鳥取造(ととりのみやつこ)と曰ふ。因りて亦、鳥取部・鳥養部(とりかひべ)・誉津部(ほむつべ)を定む。(垂仁紀二十三年十一月)
鷹狩図(彩絵磚、甘粛省嘉峪関四号墓、中国、魏晋時代、中国美術全集編輯委員会編『中国美術全集 絵画編12 墓室壁画』文物出版社、1985年、34頁「縦鷹獵兎」)
鷹狩埴輪(群馬県太田市オクマン山古墳出土、6世紀末、新田荘歴史博物館蔵、太田市HP(http://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/bunmazai/otabunka26.html))
なかでも優秀な人たち、それが「鷹甘部(たかかひべ)」(仁徳紀四十三年九月)、後の鷹匠である。養老令・職員令、兵部省のなかに、「主鷹司(しゆゐようし) 正一人。〈掌らむこと、鷹犬調習(でうじふ)せむ事。〉令史一人。使部六人。直丁一人。鷹戸(たかかひへ)。」、官員令別記に、「鷹養(たかかひ)戸、十七戸。倭・河内・津。右経レ年毎レ丁役。為二品部一、免二調役一。」とある。そんじょそこいらの鳥取部ではない。網や罠のような陳腐な道具で大した鳥も貢げない人たちとは違う。大きなハクチョウも捕まえて来る、珍しい、有り難い鳥取部である。
ハクチョウはなかなか捕まえられない。本牟智和気御子(誉津別命)の話に、「今高く往く鵠の音を聞きて、始めて阿藝登比(あぎとひ)為き。爾くして、山辺之大鶙(やまのへのおほたか)を遣して、其の鳥を取らしめき。」(垂仁記)、「時に鳴鵠(くぐひ)有りて、大虚(おほぞら)を度(とびわた)る。皇子仰ぎて鵠を観(みそなは)して曰はく、『是何物ぞ』となたまふ。」(垂仁紀二十三年十月)にあるクグヒ(鵠・鳴鵠)とは、ハクチョウのことである。言葉の話せない御子が、言葉を話せるようになるきっかけを与えるなど、瑞祥中の瑞祥である。そのような鳥を格好よく捕まえる人たちのことを古語で表すなら、「瑞(みづ)の鳥取(ととり)」ということになる(注27)。ミヅノトトリとは、癸酉(みづのととり)に同じ音である。つまり、アナホベノハシヒトさんの忌日は、癸酉の日であって欲しいわけである。それこそ、名を以て体を成すこと、言葉が事柄と同じことになる。言霊信仰の下にある人には、そうであって欲しかった。ところが、「孔部間人公主」という「母王」は、亡くなった日が、少しだけ次の甲戌の日にずれ込んでしまった。1~2時間(?)ぐらいと短いから、まあ、そこは大目に見て、癸酉の日に算入してしまって良いではないか。そのほうが、わかりやすく、覚えやすいし、記念日として供養したくなるじゃないか、亡き人も喜ぶんじゃないか、という発想である。結果、「十二月廿一癸酉日入」なる不思議な表記をもって記されている。
「日入」を古訓に、トリノトキと訓んでいる。酉の刻の意である。酉の刻は午後6時頃、夕暮れ、日の入り時である。すると、上のずれ込み説は当たらないのではないか、算入の意で他に書いた例があるか、とのご指摘もあろうと思う。筆者は、ここにも、銘文を記した人の知恵を見て取る。「日入」と書くと、トリノトキと訓まれるであろうと知っている。それでいい。なおのこと、トリのことが思い浮かぶ。鳥取部のなかでも優秀な鷹飼部のことを思い起こさせる仕掛けになる。銘文の作成者の頭では、孔部間人という人の名は、鷹を使って鳥を捕まえる人のことを表わしているということがすべての先に立っている。それが、アナホベノハシヒトという言葉の、言動一致事項だからである。言霊信仰に従った明晰な表記と言えよう(注28)。
ミヅノトトリを、「瑞の鳥取」と「癸酉」との駄洒落をもって記した。この念の入れようは、銘文において重要な要素、小咄のオチ(サゲ)だからである。ここで笑えない人は、“話(噺・譚・咄)”の通じない人である。そして、ハナシとは、無文字文化の糧のような存在である。しかも、この部分の重要性は、自己言及的にそれを語っている点にある。名義抄に、「話 胡快反、牜、カタリ、アヤマツ、サキラ、……」とあった。話とは、サキラである。クチサキラから上手に話されることである。才気の現れた弁舌である。そういう重要な事柄であると、自ずからきちんと自己言及的に記そうと努めている。すなわち、繍帳の銘文は、無文字文化華やかなりし頃に製作されたことが窺える。文字文化の始まった藤原京以降に下るものでは決してない。古今集でも語呂合わせは多いと思われるかもしれないが、万葉集とは桁が違う。干支との語呂合わせに興じた例があるのだろうか。甲子大黒(きのえねだいこく)、丙午の女、庚申信仰の庚待(かのえまち)といった干支にまつわる言い方はあるが、言葉の洒落、○○と掛けまして☓☓と解く、そのこころは、△△という謎掛けの言語遊戯と関係があるのかわからない。ミヅノトトリの洒落、語呂合わせは、文字文化の時代にはなかなか思い着きにくい発想であろう。
奈良時代に、文字文化の時代の始まっていたことを表す詔が残る。元明天皇代、「畿内と七道との諸国の郡・郷の名は、好き字を着けしむ。」(続紀、和銅六年五月)(713年)とある。いわゆる好字令である。言葉において聴覚を重視する思考が、視覚を重視する思考へと転換していたこと、ないしは、その途上にあることを意味している。両者は文化が違うという言い方がふさわしい。天寿国繍帳の銘文の成立時期は、無文字文化の時代である。大宝律令の制定(701年)や、好字令の詔よりもだいぶ以前である。頭の使い方が違うと見て取れる。次の日だけどミヅノトトリに入れてしまおうよ、ということを考えもし、それを「日入」などと表記してうまいことやってしまうことは、律令官僚から始まって現代の学者に至るまで、住む世界が違うように思われる。町に哲学者あり、の発想である。キティちゃんのようなパッチワークのカーテンを有り難がっていてはいけない。法隆寺の資材帳に繍帳のことが載っていなかったのは、橘大女郎ひとりのために作られた、趣味の民芸品風のものであったからに相違ない。病んでいる人のために急いで作ったから刺繍が塗絵風の直線使いであるし、絹糸なのに風合いを損ねてしまう撚糸を使ったのは、彼女がヨリテユクと言っていたからに他ならない。法隆寺は格式が高まって南都七大寺に数えられてしまう大寺院である。仏像を荘厳するための品にして、このような幼稚なものが飾られていたと想定すること自体、美術史的観点からしても違うのではないか。
その他の付訓
さて、推古天皇の台詞は、二度手間のような重なった言い方になっている。「天皇聞之悽然告曰有一我子所啓誠以為然」とある。発語部分を括弧に入れて返り点を施して示すと、
天皇聞レ之、悽然告曰、「有二一我子一、所レ啓誠、以為然。」
ということになる。「之」は、橘大女郎の言ってきたことである。橘大女郎の言ってきたこととは、言ってきた言葉と言ってきた内容と言ってきた態度と言ってきた状況をすべて含んでいる。はるばる斑鳩から飛鳥まで歩いてきた(?)ことや、朝から門を叩いて聞いて欲しいと嘆願してきた(?)こと、やつれた顔をしていた(?)こと、声が上ずっていた(?)こと、着物は着の身着のままの風情であった(?)こと、鬼気迫る一点凝視の視線(?)や、言葉がまわりくどい言い方になっていたこと(?)など、状況の設定を含んでいると考えられる。今日の選挙でも、言っている内容が同じでも、演説がうまければ、顔が好かれれば、声がかすれて聞き取りにくければそれだけ頑張っているのだと捉えられ、当選することがある。そういったことをすべて含んで「聞レ之」と記されている。
「以為」は、オモフ(思・念)の意で、オモフ、オモミル、オモヘラクなどと訓まれる。紀の例をみると、
刀子(かたな)は献らじと以為(おも)ひて、……。(垂仁紀八十八年七月)
弟媛、以為(おもひみ)るに、夫婦の道は古も今も達(かよ)へる則(のり)なり。(景行紀四年二月)
以為(おもほさく)、祟る所の神を知りて、財宝(たから)の国を求めむと欲(おもほ)す。(神功前紀仲哀九年二月)
天下(あめのした)の万民(おほみたから)と雖も、皆宜しと以為(おも)へり。(允恭即位前紀)
などとある。「然」については、白川1995.に、「しかり〔然・爾〕 「しか、あり」の約。「しか」「しかく」が「さ」に対してかたい語感をもつものであるように、「しかり」にも訓読語のかたさがある。」(381頁)、古典基礎語辞典に、「さ・り 【然り】……副詞のサ(然)に、動詞アリ(有り、ラ変)が付いたサアリが約(つづ)まったもの。上に述べたことを受けて、そうである、そのとおりであると納得をしたり、承認したりするときに用いる。」(573頁、この項、我妻多賀子)とある。上に述べたことを受ける漢文訓読系の語として活躍している。白川1995.は、「〔神代記上[第八段一書第六]〕「唯然(しかり)」、〔神代紀下[第十段一書第一]〕「然歟(しかるか)」などがみえるが、みな応答の語である。」(381頁)と指摘する。ほかにも例がある。
大己貴神(おほあなむちのかみ)の曰はく、「唯然(しか)り。廼(すなは)ち知りぬ、汝(いまし)は是吾が幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり。……」とのたまふ。(神代紀第八段一書第六)
時に高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、其の矢を見(みそなは)して曰はく、「是の矢は、昔我が天稚彦(あめわかひこ)に賜ひし矢なり。血、其の矢に染(ぬ)れたり。蓋し国神(くにつかみ)と相戦ひて然(しか)るか」とのたまふ。(神代紀第九段本文)
「天孫(あめみま)、豈(も)し故郷(もとのくに)に還らむと欲(おもほ)すか」とまをす。対へて曰はく、「然(しか)り」とのたまふ。(神代紀第十段一書第一)
[神武]天皇……「今我(やつかれ)は是日神(ひのかみ)の子孫(うみのこ)にして、日に向ひて虜(あた)を征つは、此天道(あめのみち)に逆(さか)れり。……」とのたまふ。僉(みな)曰(まを)さく、「然り」とまをす。(神武前紀戊午年四月)
同じく応答の言葉に、「諾(う)」、「諾(うべ)なり」といった言葉がある。両者の違いは、ウ・ウベナリが、イナ(否)の対義語であり、英語の yes に当たるのに対し、「然(しか)り」という言葉は、強く言う場合は that’s right、弱く言う場合は that’s so に当たるということであろう。すなわち、橘大女郎のものの考え方として、PならばQ、QならばR、であるならば、PならばRであるという論理演算としては正しいと推古天皇は判断している。そうだねえ、そうだねえ、である。けれども、そもそもの提題のPに勘違いがある。大変な境遇にあって、そう考えるのは仕方がないと思うけれど、私までその考え方に没入する形で賛同することはできない。世界がひっくり返ってしまう。言っていることに虚言妄語はない(「所レ啓誠」)し、そういう論理展開をしたらそういう結論になるのは尤もだとも思う(「以為然」)と言っている。推古天皇は、「有二一我子一」と言いかけながら、孫の橘大女郎の誕生から生い立ち、聖徳太子に嫁いだ時のことなどが、走馬灯のように頭を駆け巡っていたことだろう。そして、ヒトリノワガコアリ、マヲセルハマコトニシテ、オモヘラクシカナリと、30字ほどの文言をゆっくりと喋ったように感じられる。感慨を「告曰」していて、繍帳制作を「勅」している。別言になっている。
以上、天寿国(てむじくに)繍帳の銘文を“読む”こと、すなわち、銘文の内部から、いつ、何のために、繍帳は作られたのかについて論じた。繍帳は、橘大女郎の精神的な危機を救うために、その訴えの言葉をそのままにまるごと受け止めて推古天皇が作らせた、とても心温まるものであった。長々と論じているが、なぞなぞの種明かし、駄洒落の解説に過ぎない。けれども、それは、銘文を“読む”ことそのものである。無文字文化の本質に迫るものであると考える(注29)。
(つづく)
「遊」=ユク
そして、「遊」はユクと訓む。紀では、「遊行」に多く敬語のイデマスを当てるなか、
天孫(あめみま)の前(みさき)に立ちて、遊行(ゆ)き降来(くだ)り、……(神代紀第九段一書第四)
とある。白川1995.に、「ゆく〔行・去・往(徃)〕 四段。目的のところに向かって進行する。歳月などが過ぎゆくことをもいう。持続的に経過してゆく意。死ぬことをいうことがある。」(776頁)とある。万葉仮名で、「遊」はユと呉音に従って訓む。意味として、動詞ユクに限りなく近い。中村2001.は、「ゆ(遊)」の項目を立てて、「①存在する。いる。「倶遊」(ともにいる。)……②…している。住に同じ。Ⓟ viharati ……〔サンスクリット語やパーリ語には、英語の…ing に相当する現在進行形がないから、ⓅⓈ carati ⓅⓈ viharati などをもって現在進行形を示す。したがって、漢訳の「遊」はほぼ現在進行形を意味する。〕③へめぐること。旅をして進んで行くこと。Ⓢ vicarati ……Ⓢ prayāṇa ……④一時、くつろいでとどまること。ⓅⓈ viharati ……〔現代のサンスクリット語およびヒンディー語では、子供たちが遊ぶ遊園地やレジャー・センターのことを vihāra-kendra という。〕」(1682頁)と解説する。今日でも、遊行(ゆぎょう)、遊戯(ゆげ)、遊楽(ゆらく)という呉音読みが残っている。音訓が絲のように撚り合わさってユと読む。
橘大女郎は、太子が母王に従って絲を縒り合せるようにして「ゆ(遊・行・往・逝)」くところを、「天寿国」であると言い出している。持続的、継続的に、…ing として「ゆ」くところ、という意味である。これは、浄土と呼んでいいかもしれないには違いないし、56億7千万年滞在しているのかもしれないけれど、どうも、飛鳥時代の信仰形態の問題以前の問題ではなかろうか。与件として既存の信仰形態を信じるという話ではなさそうである。彼女にとっての念仏(?)・題目(?)は、「世間虚仮 唯仏是真」だけである。浄土について体系化された理念には関知していない。そんな人が、「天寿国」という自己矛盾した形容の架空世界を勝手に思念して、その画像を観想したいから作って欲しいなどと途方もないことを、それを事もあろうに天皇に言ってきた。立場をわきまえぬ直訴であることが、「白『畏天皇前曰敬之雖レ恐懐心難レ止……』」ときちんと記されている。信仰とは別次元の話である。橘大女郎の錯乱、乱心、狂気の様子である。推古天皇は、橘大女郎の「天寿国」空想(幻想、妄想)に付き合ってあげたに過ぎない。
聖徳太子という人は、とてもユーモアのある人であったのであろう。仏教のお話をお話として推古天皇に講義してみることができる人であった。
秋七月に、天皇、皇太子(ひつぎのみこ)に請(ま)せて、勝鬘経(しょうまんぎゃう)を講(と)かしめたまふ。三日に説き竟(を)へつ。(推古紀十四年七月)
是歳、皇太子、亦法華経(ほふくゑきゃう)を岡本宮に講く。天皇、大きに喜びて、播磨国の水田(た)百町(ももところ)を皇太子に施(おく)りたまふ。因りて斑鳩寺に納(い)れたまふ。(推古紀十四年是歳)
天皇はお話として勝鬘経や法華経のことを聞いてみて、よくわかった、ということであろう。仮に、信仰するというレベルでも、この、わかった、のラインで止まるに違いない。そうでないと、現実に生きて行けなくなる。全人民が補陀落渡海を実行したらどうなるか。橘大女郎の場合、真に受けてしまった。フィクションをフィクションとして捉えられなくなった時、その精神はピンチである。孫娘にそういうのが一人いる。孫娘まで「従遊」するようなこと、つまり、後追い自殺された日には堪ったものではない。すぐに何とかしたい。しかし、天皇という職務、それはすなわち、その立場という形式を保つということに他ならないのであるが、それと相容れない。宮を離れて相談に乗ったり、あるいは傾聴したり、ないしは対話したり、さらには添寝するわけには行かない。
どうしたらよいか。「勅二諸采女等一、造二繡帷二張一」である。公式に「繍帷造司」を設けたのではない。采女等に直に「勅」して内々に事を進めた。養老令・後宮職員令に定めのある「縫司(ぬひとのつかさ)」を使ったのではない。精神疾患に対する偏見のようなことは昔からあったであろうから、内々にしか進められないとも思われるし、緊急事態に行政が役に立たないのは昔からのことであろう。下絵にしても、官吏である「画工司(ゑたくみのつかさ)」(養老職員令)に属するような先生は使えない。「画工白加」(ゑかきびゃくか)(崇峻紀元年是歳)、「黄書画師(きふみのゑかき)・山背画師(やましろのゑかき)」(推古紀十二年九月是月)といったプロではなくて、アマチュアながら絵が上手いと聞こえる下々の者を呼んできたに違いあるまい。なにしろ、彼らが絵も字も描くわけではない。刺繍をするのである。その下書きだけである。刺繍もお針子のプロ、「衣縫(きぬぬひ)」(応神紀四十一年二月是月)、「衣縫部(きぬぬひべ)」(雄略紀十四年三月)や「衣縫造(きぬぬひのみやつこ)」(崇峻紀元年是歳)などではなくて、アマチュアの「采女」なのである。材料は適当に見繕って役所の蔵から調達してよいと免許を持たせた。「椋部秦久麻」なる人、あとはよろしく、とのことである。いやに人選が早い。あっという間に進んでいる。事が事だけに急を要している。その事柄について、きわめて正確に記されているのが、天寿国繍帳の銘文である。
結果、できあがった「繍帷二張」を橘大女郎が観て、彼女は、おそらく、いやきっと、気持ちが落ち着き、快方へと向かったものと思われる。使用目的を果たした。そして、法隆寺の蔵に繍帳はしまわれて、長く日の目を見ることはなかった。なにしろ超マンガのB級品である。むしろ、絵本の見開き1ページといったほうが適切かもしれない(注19)。
橘大女郎の病
以下、ベイトソンのダブル・バインド理論について、矢野1996.に倣いながら解説し、橘大女郎の“カルテ”を見ていく。
パラドックスとは、単なる矛盾をいうのではなく、自己言及性と悪循環を含んだ3つの要素から成り立つものである。「行為(言明)」がその「行為(言明)」自身に適用された時、自身を否定してしまい、「行為(言明)」の「意図」の達成を拒んでしまうという自己言及性のある矛盾がパラドックスである。橘大女郎は、「我大王(聖徳太子)」が言っていた「世間虚仮 唯仏是真」に毒されている。太子は亡くなってしまった。まさに「世間虚仮」である。そして、太子は、「唯仏是真」であるところの「仏」になってしまった。すると、「世間(=世界)」を反転させないと訳が分からないことになった。頭蓋骨のなかで、まず口で「世間虚仮 唯仏是真」と唱えながら反転させてみた。「天寿国」なる国を反転世界として仮構したのである。当然、頭蓋骨のなかにある目にも見えて良いはずである。しかし、目には浮かんで来ない。太子の仰っていたことは絶対であるから、見えないはずがないのにできない。「世間虚仮 唯仏是真」という言明を、「世間虚仮 唯仏是真」という言明自身に及ばせてしまったがために、「世間虚仮 唯仏是真」という言明が意図せざる結果に陥ったのである。これは、パラドックスである。ベイトソンのいうダブル・バインドもパラドックスの一形態である。
ベイトソンのダブル・バインド理論とは、「①非対称の人間関係の場において、②一定のメッセージが与えられ、③しかもそのメッセージを否定するメタ・メッセージが同時に与えられ、④そして犠牲者がその場を逃れることができない状況をダブル・バインド状況といい、⑤それが反復されると弱者の側に分裂病[統合失調症]を生むというものである。」(43頁)。聖徳太子と橘大女郎との間柄は、夫婦である以上に、師と弟子のような関係にあったのであろう。そういった一定の相補的、非対称的、支配被支配的な関係性のなかで、繰り返し「世間虚仮 唯仏是真」と言われ続けて刷り込まれてしまい、しかも太子が亡くなるというあり得ないようなメタ・メッセージが科されてしまった。同じ穴のムジナである膳妃まで太子と共に亡くなってしまって慰め合うこともできず、斑鳩宮から逃れることもできない。完全にダブル・バインド状況に置かれている。この事態は、統合失調症に侵される瀬戸際にあるといえる。訳が分からなくなって、事もあろうか、祖母である推古天皇に啓上に及んだのであった。
ベイトソンのいう学習の類型において、「学習Ⅱ[習慣形成、性格形成のように、コンテクスト自体が変更されるシステム、選択肢集合自体が変更されていくプロセス]以前の状態から学習Ⅲ[習慣化した前提を問い質し、解釈図式の変革を迫るもの。換言すれば、それまでの自己の行為(言明)のコンテクストのそのまたコンテクストを眼中に収めながら行為(言明)するすべを習得すること。自己システム全体が組み替えられること]への移行は、自己システム全体の変容をもたらす。この時、システムを閉じた個人と捉えてはいけない。」(41頁)と説かれている。これは重要なことである。橘大女郎も、自己システム全体の変容が、偉大なる推古お婆ちゃん帝との、繍帳を介した関係のなかにおいて起こったと思われる。
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学習の システムの 行為論的に見た 認識理論的に見た 具体例
類 型 論理階型 論理階型 論理階型
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学習Ⅲ 自己システ 選択可能な選択肢集合 コンテクストのコ 覚醒・回心
ムの組み替 群がなすシステムその ンテクスト(関係
え ものが修正される変化 パターン)の変化
学習Ⅱ 自己・習慣 選択肢集合自体が変更 コンテクストの変 習慣形成
・性格の形 されていくプロセスの 化
成 名
学習Ⅰ 行為の変化 同一選択肢集合内で選 メッセージの選択 古典的条件
択されるプロセスの名 づけ
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▶生物による学習Ⅳの可能性はベイトソンによって否定されている.ただ,個体
発生上の変化を変化させる系統発生上の変化(進化プロセス)は,学習Ⅳに踏み
込んでおり,これをエコシステムの変化として捉えることができるかもしれな
い.しかし,そうすると自己言及のパラドックス問題に逢着することになる.(37頁)
続けると、「コミュニケーション・システムとしての人間が、本質的に、関係に自己言及するコミュニケーション・システムとして存立していると考えるとき、これまでの学習と呼ばれているものは、すべてコミュニケーション・システムの自己変容として捉えることができる。一般には覚醒を、個人の内面に生じる劇的事態と捉える思考に慣らされているが、私たち[矢野先生や亀山佳明先生ら]は、コミュニケーション論に基づき、コンテクストとメッセージとのパラドックスによってもたらされる関係のダイナミックな自己変容としてそれをみることを主張する。関係が人間の最深部の無意識のレベルで、人間の世界にたいする構えを規定しているとき、関係そのものを意識的努力によって変容させることは、原理的に不可能だと言ってよい。このことが、覚醒と呼ばれる事態がまれにしか生起しない理由を示している。」(41頁)とある。確かに、橘大女郎は、自分の力だけでは、世界にたいする構えを変容させることはできなかった。そして、太子の言葉である「世間虚仮 唯仏是真」について、自分と同程度、ないしそれ以上に理解のある人物が誰かいないか探してみた。一人いた。推古天皇である。太子の仏教講筵を聞いて、感激して、「播磨国水田百町施二于皇太子一」していた。しかし、いくらなんでも「畏」れ多い。他にいないか。いない。仕方がない。「雖レ恐」だけれどかかづらわりあいたい。
さらに続けると、「ところで、関係の自己言及による矛盾によって、関係の自己変容をもたらすものに対話がある。ソクラテスが、非連続的な覚醒をもたらす優れた対話者であることはよく知られている。そして、彼の対話の特徴として、パラドックス、アイロニー、ユーモア、メタファーがあることもよく知られている。これらの特徴は、すべてコミュニケーションの論理階型の混乱と秩序化に関係しており、このような対話の在り方にこそ、関係を変容させ、覚醒をもたらすソクラテス的対話の秘密があると考えられる。」(42頁)とある。推古天皇は聞いて弱った。「悽然」としてしまった。「世間虚仮 唯仏是真」って、マジで言っているわ。「皇太子亦講二法華経於岡本宮一」のとき、あの子、いくつだったっけ? しょうがないわねぇ。
私、「天皇」(注20)やっているの。立場上、対話はできないのよ。公に役人を使うこともできないわ。でも、何とかしなくちゃ。急ぐわね。彼女は、「天寿国」に「大王住生之状」を「観」るためのよすがとして、「図像」があると助かると言っていた。そしたら、彼女がそれを見て覚醒、つまり、世界にたいする解釈図式において、自己変容を起こさせるようなものを作ってあげたらいいのね。
銅(あかがね)・繍(ぬひもの)の丈六(ぢゃうろく)の仏像(ほとけのみかた)、並に造りまつり竟りぬ。(推古紀十四年四月)
えーっと、仏像なんか作ったってダメよ、いわゆる繍仏も全然ダメ。荘厳なのはダメ。彼女の言っているテムジクニって何だかよくわからないけれど(注21)、まあ、深くは考えないで、テムジクニ全体がすごくハッピーな感じに「観」えるような「図像」にしたらいいってことよ。刺繍は刺繍でもきりりっとしたのは作っちゃダメよ。仏さまがおひとりさまなんて暗くなっちゃう。ちょうどいいわ、あなたたち采女だったら、刺繍下手だからかしこまらなくて。それにあなたたちに頼むなら、大ごとにもならないし。いちばん肝心なことは、彼女が笑うこと。前の素敵な笑顔にもどすこと。袋小路から抜け出させるの。「従遊」なんて言ってたけれど、ただの「遊」でいいのよ。遊戯(ゆげ)よ。テムジクニは遊園地に描くの。味のあるマンガを描く人知らない? 適当に探してきて。ね、わかった、采女たち。超特急で作ってね。頼んだわよ。
仕事を振られた采女らも、最初は戸惑ったことだろう。あるいは、尼さんなんかに聞いたかもしれない。
……又、汝(い)[鞍作鳥]が姨(をば)嶋女(しまめ)、初めて出家(いへで)して、諸の尼の導者(みちびき)として、釈教(ほとけのみのり)を脩行(おこな)はしむ。(推古紀十四年五月)
作り手にとっての最大の謎は、「世間虚仮 唯仏是真」であったろう。その内容もさることながら、その形式においてもである。橘大女郎は、采女同様に字が読めないはずである。読む必要性がないから、読みたいと思うことすらない。けれど、「世間虚仮 唯仏是真」と、お経を読むように読んでいたらしい。どこでそんな文字を覚えたのであろうか。文字を学ぶ初学書は、論語か千字文である。
故、命(みこと)を受けて貢上(たてまつ)りし人の名は、和邇吉師(わにきし)、即ち、論語(ろにご)十巻(とまき)・千字文(せにじもに)一巻(ひとまき)幷(あは)せて十一巻を、是の人に付けて即ち貢進(たてまつ)りき。(応神記)
そうか、四文字ずつ、千字文に違いない。ならば、「天寿国」の「図像」にも四文字ずつ、事の次第をつぶさに記してなかにぶち込んで書いてしまったらいい。亀甲文のなかに亀を描いた図柄が有りなのだから、何だって有りにしてしまおう。橘大女郎が文字を読めないときは、読めなくても、彼女が懐く「天寿国」っぽいし、読めたとしたら、もう笑うしかないじゃないか。<図>に<地>が紛れ込んでいる。橘大女郎の今、現在進行形が、「天寿国」の「図像」のなかに書いてあるのだもの。現在進行形、-ing とは、それこそ太子がよく仰っておられた「遊(ゆ)」ということだろう。彼女に足りないのは、「遊」そのものなのだと天皇も仰っていた。「天寿国」ワンダーランド。そう、「世間虚仮 唯仏是真」をまるごと「虚仮」にしよう。メッセージのメタ・メッセージ化、メタ・メッセージのメタ・メタ・メッセージ化。きっと悟ってくれるさ、反転の反転で。
すなわち、パラドックス、アイロニー、ユーモア、メタファーの豊富な天寿国繍帳を観ることによって、橘大女郎は、世界(世間)とのコミュニケーションの論理階型の混乱状態を再秩序化したのであった。「遊び[=ユ]は日常のコミュニケーションを切断し、解釈枠組みの改変を改変し、不断に意味を生みだし、生に輝きをもたらす。」(122頁)ことに成功した。これは実はたいへんなことで、推古天皇は、天寿国繍帳を介してではあるが、橘大女郎と「関係が対称のときには、パラドックスは真性のダブル・バインド状況とはならない。遊び[(パラドックス、アイロニー、ユーモア、メタファー)]は対称のコミュニケーション・システムのなかで、パラドックスを乗り超える快楽といえる。」(103頁)ことをやってのけた。立場上不可能であるのに、無礼講状況を、寝屋の帳用のカーテン(注22)制作によって成し遂げたのであった。凄い人物であったとわかる。
以上、橘大女郎の精神状態、解釈の<図>と<地>の混乱について、そのまま捉え返された<図>と<地>の区別なき図像に表わされた銘文のフレーム分析を行った。銘文の大枠はこのようなものであった。
「十二月廿一癸酉日入」への疑問
次に、「孔部間人母王」(穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ))の忌日はいつか、銘文中に「歳在辛巳十二月廿一癸酉日入孔部間人母王崩」とあることの意味について考察する。干支表記個所である。「歳在辛巳」とは推古29年のことである。金沢2001.によれば、当時用いられていた元嘉暦では「十二月廿一癸酉」は間違っており、甲戌のはずであるとされる。12月20日が癸酉、21日が甲戌に当たる。そして、後に採用された儀鳳暦においても『日本書紀暦日原典』では同じことになっている。けれども、儀鳳暦の補正値について、複雑な定朔法をマイクロソフト・エクセルのワークシートを使って計算し直してみたところ、推古29年12月朔の干支は一日ずれあがり、21日の干支は「癸酉」になるという。よって、元嘉暦ではなく儀鳳暦が使われた持統朝以降に天寿国繍帳の銘文は記された可能性が高いという。これには批判もあり、野見山2011.に、須賀隆氏からの教授として、推古29年12月21日が「癸酉」になることから証明できるのは、進朔を行わない定朔の暦法が用いられたことだけであり、暦相互変換プログラム when では、儀鳳暦やその次の大桁暦によって計算された場合も干支は癸酉になるという。
話がややこしくなっている。銘文を“読まない”姿勢から起こって、変なところへ関心が向かっている。原文は、違う意味で思った以上に奇妙である。日付の書き方である。亡くなったのは2人ということで銘文の話は進んでいた。2つの日付の記述を比較すると、
歳在辛巳十二月廿一癸酉日入孔部間人母王崩
明年二月廿二日甲戌夜半太子崩
となっている。年月日時間を干支で表したいのか、数字で表したいのか、記述者の意図を量りかねる。下の行は、その次の年の明けて2月22日、十干十二支で表すと甲戌(きのえいぬ)の夜半、太子は崩御された、とシンプルである。しかし、上の行は、歳が辛巳(かのとみ)に在る年の12月21、干支で表すと癸酉(みづのととり)の「日入」に孔部間人母王は崩御されたとある。この部分、上宮聖徳法王帝説に、
歳在辛巳十二月廿一日癸酉日入孔部間人母王崩
となっている。数字で月日を書く時、通例、「○月○日」と書く。法王帝説を記した人の気持ちは理解できる。けれども、勘点文などから、繍帳銘文は、「○月○癸酉日入」が正しいとされる。干支の後に「日」字が離れ、それが「日入」という熟語として解釈されている。岩波書店の思想大系本では、「十二月廿一(じふにぐわちノにじふいち)ノ癸酉(くゐいう)ノ日入(ひぐれ)に」と訓んでいる。東野2013.には、「斉明五年(六五九)七月紀に引く伊吉連博徳書(いきのむらじはかとこしょ)に「十五日日入之時」と見える。」(61頁)とある。けれども、伊吉連博徳書(いきのむらじはかとこがふみ)は、「十五日(とをかあまりいつかのひ)の日入(とり)の時に」という表し方をしている。「日」字が重なっている。なぜ繍帳銘に「十二月廿一癸酉日入」と「日」字をケチって干支を加えた書き方がされているのか、了解されるに至っていない。疑問さえ提起されていないように見受けられる。干支との間の齟齬にばかり目が行って、「不審」という言葉で議論されている。そもそも、繍帳銘の「日入」を日没時間帯と決めてかかっていいのか疑問である。記述の要諦が不明である。以下、筆者の考えを述べる。
元嘉暦であれ儀鳳暦であれ、同21日は癸酉の次、甲戌(きのえいぬ)である。“読む”姿勢を持てば、つまり、“書く”立場の気持ちを汲めば、実にあやしい書き方が施されていると知れる。月日の数字の後に「日」字を挟まない書き方は尋常ではない。銘文を記した人との知恵比べである。実際に孔部間人母王が亡くなられたのは、推古29年12月21日のことであろう。時間帯は未明で、死亡診断書としては、それはほとんど前日の12月20日に算入しても構わないということが、「十二月廿一癸酉日入」という書き方から見て取れる。
なぜ死亡診断書が改竄されなければならないのか。干支を「癸酉」にしたいからである。それは、鎌倉時代に、信如という尼が中宮寺を再考しようとした時、太子の御母堂、穴穂部間人皇女の忌日を知りたがって天寿国繍帳を探したという事柄とリンクしている。聖徳太子の「母王」の名は、「穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)」(用明紀元年正月、推古紀元年四月)、「埿部穴穂部皇女(はしひとのあなほべのひめみこ)」(欽明紀二年三月)、「間人穴太部王(はしひとのあなほべのみこ)」(欽明記)と記される。アナホベノハシヒトという人の表記は、銘文中で、「孔部間人公主」とある(注23)。
銘文の他の登場人物のうち、「尾治王(おはりのみこ)」の「治」字は表意文字で記されているが、その他は、例えば、「阿米久爾意斯波留支比里爾波乃彌己等(あめくにおしはるきひろにはのみこと)」のように、だらだらと一字一音の仮名書きで記されている。だらだら書きが蔓延している中、「孔部間人」と表意文字で記しているのは、名が、事柄内容を表意しているということであろう。名とは何か。呼ばれるものである。名づけられた綽名と言っても過言ではない。
「孔部間人」の意味
アナホベノハシヒトさんは、アナホベノハシヒトというからには、穴に穂が入っていて端っこにいる人というイメージが浮かぶ。穴に穂を入れて端っこに人がいる様子とは、鳥を捕まえるために罠を張って待っている人というニュアンスがある。それは古代、鳥取部(ととりべ)、鳥飼部(とりかひべ)と呼ばれた職掌の人たちがしていた。穴を掘ってそこへ餌を置いてよび込み、蓋して出られなくして捕まえる方法は、小鳥に対しては行われない。地面を掘る必要はない。本職が小鳥を捕まえる場合、霞網などで一網打尽、大量捕獲が可能である。今日では鳥獣保護法でやかましい。雁や白鳥は大きくて力が強く、水辺の穴などに餌を置いて誘い込み、編み籠で蓋して捕まえる。
銘文ではわざわざ、「孔部(あなほべ)」と表記を断っている。「部」とは部曲(かきべ)のことであろう。穴穂天皇(安康天皇)が皇太子時代に設けられた部であるらしい。それが穴穂部間人皇女とどのように関わるか、今となっては実証不可能である。それよりも、ここに、「孔部」と記されてあることに注意を向けたい。説文に、「孔 通る也。乙に从ひ子に从ふ。乙は子を請ひし候鳥也。乙至りて子を得、之れを嘉美する也。古人、名は嘉、字は子孔」とある。「候鳥」とは渡り鳥のことである。気候に合わせて見られる。ここで、ハクチョウ(白鳥=鵠(くぐひ))やガン(雁(かり))、ツバメ(燕)を思い浮かべても、孔(あな)に当たるような頓智は冴えてこない。ヤマトの人が漢字を目にして、その字の解説である説文の文を“悟る”ことを推し進めたなら、あな(孔)が開いて通っていて、しかも渡り鳥になるような事柄が、「孔」という字に必要十分な条件としてあげられていると考えたに相違ない。上代の人たちは知恵が豊かである。そのとき、打ってつけの鳥がいる。タカ(鷹)である。
タカは、鷹狩に利用される。嘴が鋭い。穴を開け穿ち、刳り抜くのにもってこいの鋭利な鉤状をしている。実際、獲物の胸に孔を開け、真っ先に心臓を食べるという。タカは渡り鳥ではないと思われるかもしれないが、“渡り”鳥である。鷹狩に使われるタカは、調教されて、放たれても人のところへ帰るように訓練されている。それを鷹匠用語で、「渡り」と呼ぶ(注24)。自然界のタカは渡り鳥ではないが、鷹狩用のタカは、渡り鳥、候鳥である。
「鷹を馴らす図」(『放鷹』、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213512(226/398)。
よこはま動物園ズーラシア・バードショー(人から人へ“渡り”ます。選ばれればキャッチもできます。)
本邦で鷹狩が始まったことを記す記事は、仁徳天皇時代のこととして描かれている。
四十三年の秋九月の庚子の朔に、依網屯倉(よさみのみやけ)の阿弭古(あびこ)、異(あや)しき鳥を捕りて、天皇に献りて曰(まを)さく、「臣(やつかれ)、毎(つね)に網を張りて鳥を捕るに、未だ曾(かつ)て是の鳥の類を得ず。故、奇(あやし)びて献る」とまをす。天皇、[百済の王(こきし)の族(やから)、]酒君(さけのきみ)を召して、鳥に示(み)せて曰はく、「是、何鳥ぞ」とのたまふ。酒君、対へて言さく、「此の鳥の類、多に百済に在り。馴(なら)し得てば能く人に従ふ。亦、捷(と)く飛びて諸の鳥を掠(と)る。百済の俗(ひと)、此の鳥を号けて倶知(くち)と曰ふ」とまをす。是、今時(いま)の鷹なり。乃ち酒君に授けて養馴(やす)む。幾時(いくばく)もあらずして馴(なつ)くること得たり。酒君、則ち韋(をしかは)の緡(あしを)を以て其の足に著け、小鈴を以て其の尾に著けて、腕(ただむき)の上に居(す)ゑて、天皇に献る。是の日に、百舌鳥野(もづの)に幸(いでま)して遊猟(かり)したまふ。時に雌雉(めきぎし)、多(さは)に起つ。乃ち鷹を放ちて捕らしむ。忽ち数十(あまた)の雉を獲つ。是の月に、甫(はじ)めて鷹甘部(たかかひべ)を定む。故、時人、其の鷹養ふ処を号(なづ)けて、鷹甘邑と曰ふ。(仁徳紀四十三年九月)
この記事を読んで、本邦にそれまでタカがいなかった、百済にはいたから連れて来られたことを示すと捉えるのは、国語能力に欠けた人である。記事には、本邦で今まで網にタカの類がかかったことはないと記されている。渡来人に聞いたところ、人に馴れさせて狩りに使うのを、百済ではクチと言っているという話である。割注に、「是今時鷹也」とあるのは、「今時」、鷹であると言っており、では、往時、何と言っていたかは記していない。クチは百済語である。倭で外来語のクチを採用したわけではなく、タカと言っている。空間的に“渡り”鳥なばかりか、時間的にも“渡り”鳥である。巧みなレトリック表現として“渡り鳥”であることを示唆してくれている。ヤマトコトバのワタル(渡)のワタは海(わた)と関係するようである(注25)。
自然科学による種の同定など古代の人は関知しない。飼い慣らして人間の役に立てる存在になった時、hawk という野生動物がタカとしてありありと人の前に現れる。言葉として立ち上がる。大陸の北方地域には、鷹狩に役立ちやすいタカが棲息していたらしく、中華帝国にも伝えられている。鷹狩用の鷹がその技術とともに伝えられ、すなわち、鷹を捕まえるところから養い育て馴れさせ思いどおりに操れるようにすることができるようになった。それを紀の記事はきちんと伝えてくれている。「是鳥之類」と書いてある。鷹狩に使うのは、オオタカ、ハヤブサ、クマタカ、ハイタカなど、「類」の鳥であって1種ではない。鷹狩に使う鳥を、タカと通称することが言葉の使い方として便利なのである。隼狩という語を造っても混乱が生じるだけである。垂仁記に次のようにある。
故、今高く往く鵠(くぐひ)の音(こゑ)を聞きて、始めて阿芸登比(あぎとひ)為(し)き。爾に山辺之大鶙(やまのへのおほたか)〈此れは人の名ぞ〉を遣して其の鳥を取らしめき。故、是の人、其の鵠を追ひ尋ねて、木国(きのくに)より針間国(はりまのくに)に到り、亦、稲羽国(いなばのくに)に追ひ越えて、即ち、旦波国(たにはのくに)・多遅麻国(たぢまのくに)に到り、東の方に追ひ廻りて、近淡海国(ちかつあふみのくに)に到りて、乃ち三野国(みののくに)に越え、尾張国より伝ひて科野国(しなののくに)に追ひ、遂に高志国(こしのくに)に到りて、和那美(わなみ)の水門(みなと)にして網を張り、其の鳥を取りて持ち上り献りき。故、其の水門を号けて和那美(わなみ)の水門と謂ふ。(垂仁記)
「山辺之大鶙」という人名があるから、タカがいたことは間違いない。「和奈美」という地名は、ワナ(罠)+アミ(網)を示している。ハクチョウを捕まえるのに、颯爽とした鷹狩ではなく、鈍くさい罠・網猟が行われている。仁徳紀と併せて考えれば、本邦の自然界にタカはいたが、鷹狩は行われておらず、仁徳朝になって鷹狩技術が伝えられ、人々の意識の上にタカという語がクローズアップされたということであろう。
鷹狩をする場合、タカを捕まえてから飼い慣らして狩りに使うまでには、かなりの忍耐と努力が必要である。鵜飼に使うウ以上に大変かもしれない。最終的に縄の繋ぎを取り、放ってしまわなければ狩りに用いることはできない。そのとき、野生に帰ってしまわれてはすべての努力は水泡に帰す。捕獲後の扱いは、革製の足皮をつけて拘束し、真っ暗なところで空腹にさせ、人の手から鳩の肉をもらうことから始める。爪も嘴も小刀を使って削り揃える。新修鷹経中に、「攻(ヲサムル)レ觜法」、「攻(ヲサムル)レ爪法」(国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2535853、26~27/39)参照)などが記されている。人に危害を加えさせないこともあるが、鋭利すぎる嘴を失えば、調教の時も、実際の鷹狩の時も、肉を食べるのに時間がかかるため、訓練に役立ち、狩猟時にも獲物の損傷が少ない。鷹狩で大きなハクチョウを捕まえた時、鷹が食べるのに手間取っている間に人が近づき、代わりに持参した鳩肉を与えれば、鷹はおとなしくそれを食べてくれる。
つまり、嘴は、離されているのである(注26)。仁徳紀に鷹の百済語クチが紹介されているのは、洒落を言いたかったのであろう。タカは嘴が特徴的で、それは、言葉を話させるための仕掛けとしても見極められていた。漢字においては鳥は嘴、人は吻であるが、ヤマトコトバにはどちらもクチバシである。鳥のよく響く甲高い鳴き声を、鳥の言葉として認識していた。だから、言語障害の御子の逸話に、オホタカなる名の人が登場している。嘴という器官の持つ意義を見抜き、言葉として成立させている。口は、物を食べることと、言葉を喋ることの両用の役目を果たす。それを得意ならしめているのが嘴である。そして言葉を喋る意において、クチバシは口走ることと緊密な関係にあろう。古辞書にクチバシに関する語は、新撰字鏡に、「觜 之髄反、上、喙也、鳥口也、久知波志(くちばし)」、「誆 九王反、禱也、𧥶也、久知波志留(くちはしる)、又太波己止(たはこと)、又久留比天毛乃云(くるひてもの云)」、和名抄・羽族部・鳥体に、「觜〈喙附〉 説文に云はく、觜〈音斯、久知波之(くちばし)〉は鳥の喙也、喙〈音衛、久知佐岐良(くちさきら)、文選序、鷹の礪の曰ひ也〉は鳥の口也といふ。」、形体部・鼻口類に、「脣吻 説文に、脣吻〈上音旬、久知比留(くちびる)、下音粉、久知佐岐良(くちさきら)〉と云ふ。」ともあり、新訳華厳経音義私記に、「吻 無粉反、脣の両角の頭辺を謂ふ也。口左岐良(くちさきら)」、名義抄には、「呴吽𤘘 クチサキラ」、「話 胡快反、牜、カタリ、アヤマツ、サキラ、コトハル、ウツ、カタラフ、ハチ、ウレフ、マコト、合會善言ヽ調ヽ」とある。つまり、クチバシのクチバシたるものの本質までを決定的に表わすのが、鷹の嘴である。鷹狩のために飼い慣らされた鷹の嘴は、爪觜小刀によって丸く鈍く整えられている。離されているのである。ハナシという言葉は、話であり、離(放)しである。口から意図的に放って離れさせるものが、クチサキラから放すサキラ、つまり、ハナシ(話)である。
以上の考察から、「孔部間人」と用字において表意的に断っているアナホベノハシヒトという言葉は、鷹の嘴に負っている優れた職掌であることを意味しているとわかる。よくお喋りをする明るい方で、人と人とをつなぐ“渡り鳥”的役割を果たす存在だったのであろう。そして、人と人との間を渡る渡り鳥が、鷹狩のために調教された鷹である。鳥を捕まえて献上するのは、「鳥取部(ととりべ)」、「鳥飼部(とりかひべ)」と呼ばれた職掌の人たちである。
是に天皇、其の御子[本牟智和気御子(ほむちわけのみこ)]に因りて、鳥取部・鳥甘部(とりかひべ)・品遅部(ほむぢべ)・大湯坐(おほゆゑ)・若湯坐(わかゆゑ)を定めき。(垂仁記)
十一月の甲午の朔乙未に、湯河板挙(ゆかはたな)、鵠(くぐひ)を献る。誉津別命(ほむつわけのみこと)、是の鵠を弄びて、遂に言語(ものい)ふこと得つ。是に由りて、敦く湯河板挙に賞(たまひもの)す。則ち姓を賜ひて鳥取造(ととりのみやつこ)と曰ふ。因りて亦、鳥取部・鳥養部(とりかひべ)・誉津部(ほむつべ)を定む。(垂仁紀二十三年十一月)
鷹狩図(彩絵磚、甘粛省嘉峪関四号墓、中国、魏晋時代、中国美術全集編輯委員会編『中国美術全集 絵画編12 墓室壁画』文物出版社、1985年、34頁「縦鷹獵兎」)
鷹狩埴輪(群馬県太田市オクマン山古墳出土、6世紀末、新田荘歴史博物館蔵、太田市HP(http://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/bunmazai/otabunka26.html))
なかでも優秀な人たち、それが「鷹甘部(たかかひべ)」(仁徳紀四十三年九月)、後の鷹匠である。養老令・職員令、兵部省のなかに、「主鷹司(しゆゐようし) 正一人。〈掌らむこと、鷹犬調習(でうじふ)せむ事。〉令史一人。使部六人。直丁一人。鷹戸(たかかひへ)。」、官員令別記に、「鷹養(たかかひ)戸、十七戸。倭・河内・津。右経レ年毎レ丁役。為二品部一、免二調役一。」とある。そんじょそこいらの鳥取部ではない。網や罠のような陳腐な道具で大した鳥も貢げない人たちとは違う。大きなハクチョウも捕まえて来る、珍しい、有り難い鳥取部である。
ハクチョウはなかなか捕まえられない。本牟智和気御子(誉津別命)の話に、「今高く往く鵠の音を聞きて、始めて阿藝登比(あぎとひ)為き。爾くして、山辺之大鶙(やまのへのおほたか)を遣して、其の鳥を取らしめき。」(垂仁記)、「時に鳴鵠(くぐひ)有りて、大虚(おほぞら)を度(とびわた)る。皇子仰ぎて鵠を観(みそなは)して曰はく、『是何物ぞ』となたまふ。」(垂仁紀二十三年十月)にあるクグヒ(鵠・鳴鵠)とは、ハクチョウのことである。言葉の話せない御子が、言葉を話せるようになるきっかけを与えるなど、瑞祥中の瑞祥である。そのような鳥を格好よく捕まえる人たちのことを古語で表すなら、「瑞(みづ)の鳥取(ととり)」ということになる(注27)。ミヅノトトリとは、癸酉(みづのととり)に同じ音である。つまり、アナホベノハシヒトさんの忌日は、癸酉の日であって欲しいわけである。それこそ、名を以て体を成すこと、言葉が事柄と同じことになる。言霊信仰の下にある人には、そうであって欲しかった。ところが、「孔部間人公主」という「母王」は、亡くなった日が、少しだけ次の甲戌の日にずれ込んでしまった。1~2時間(?)ぐらいと短いから、まあ、そこは大目に見て、癸酉の日に算入してしまって良いではないか。そのほうが、わかりやすく、覚えやすいし、記念日として供養したくなるじゃないか、亡き人も喜ぶんじゃないか、という発想である。結果、「十二月廿一癸酉日入」なる不思議な表記をもって記されている。
「日入」を古訓に、トリノトキと訓んでいる。酉の刻の意である。酉の刻は午後6時頃、夕暮れ、日の入り時である。すると、上のずれ込み説は当たらないのではないか、算入の意で他に書いた例があるか、とのご指摘もあろうと思う。筆者は、ここにも、銘文を記した人の知恵を見て取る。「日入」と書くと、トリノトキと訓まれるであろうと知っている。それでいい。なおのこと、トリのことが思い浮かぶ。鳥取部のなかでも優秀な鷹飼部のことを思い起こさせる仕掛けになる。銘文の作成者の頭では、孔部間人という人の名は、鷹を使って鳥を捕まえる人のことを表わしているということがすべての先に立っている。それが、アナホベノハシヒトという言葉の、言動一致事項だからである。言霊信仰に従った明晰な表記と言えよう(注28)。
ミヅノトトリを、「瑞の鳥取」と「癸酉」との駄洒落をもって記した。この念の入れようは、銘文において重要な要素、小咄のオチ(サゲ)だからである。ここで笑えない人は、“話(噺・譚・咄)”の通じない人である。そして、ハナシとは、無文字文化の糧のような存在である。しかも、この部分の重要性は、自己言及的にそれを語っている点にある。名義抄に、「話 胡快反、牜、カタリ、アヤマツ、サキラ、……」とあった。話とは、サキラである。クチサキラから上手に話されることである。才気の現れた弁舌である。そういう重要な事柄であると、自ずからきちんと自己言及的に記そうと努めている。すなわち、繍帳の銘文は、無文字文化華やかなりし頃に製作されたことが窺える。文字文化の始まった藤原京以降に下るものでは決してない。古今集でも語呂合わせは多いと思われるかもしれないが、万葉集とは桁が違う。干支との語呂合わせに興じた例があるのだろうか。甲子大黒(きのえねだいこく)、丙午の女、庚申信仰の庚待(かのえまち)といった干支にまつわる言い方はあるが、言葉の洒落、○○と掛けまして☓☓と解く、そのこころは、△△という謎掛けの言語遊戯と関係があるのかわからない。ミヅノトトリの洒落、語呂合わせは、文字文化の時代にはなかなか思い着きにくい発想であろう。
奈良時代に、文字文化の時代の始まっていたことを表す詔が残る。元明天皇代、「畿内と七道との諸国の郡・郷の名は、好き字を着けしむ。」(続紀、和銅六年五月)(713年)とある。いわゆる好字令である。言葉において聴覚を重視する思考が、視覚を重視する思考へと転換していたこと、ないしは、その途上にあることを意味している。両者は文化が違うという言い方がふさわしい。天寿国繍帳の銘文の成立時期は、無文字文化の時代である。大宝律令の制定(701年)や、好字令の詔よりもだいぶ以前である。頭の使い方が違うと見て取れる。次の日だけどミヅノトトリに入れてしまおうよ、ということを考えもし、それを「日入」などと表記してうまいことやってしまうことは、律令官僚から始まって現代の学者に至るまで、住む世界が違うように思われる。町に哲学者あり、の発想である。キティちゃんのようなパッチワークのカーテンを有り難がっていてはいけない。法隆寺の資材帳に繍帳のことが載っていなかったのは、橘大女郎ひとりのために作られた、趣味の民芸品風のものであったからに相違ない。病んでいる人のために急いで作ったから刺繍が塗絵風の直線使いであるし、絹糸なのに風合いを損ねてしまう撚糸を使ったのは、彼女がヨリテユクと言っていたからに他ならない。法隆寺は格式が高まって南都七大寺に数えられてしまう大寺院である。仏像を荘厳するための品にして、このような幼稚なものが飾られていたと想定すること自体、美術史的観点からしても違うのではないか。
その他の付訓
さて、推古天皇の台詞は、二度手間のような重なった言い方になっている。「天皇聞之悽然告曰有一我子所啓誠以為然」とある。発語部分を括弧に入れて返り点を施して示すと、
天皇聞レ之、悽然告曰、「有二一我子一、所レ啓誠、以為然。」
ということになる。「之」は、橘大女郎の言ってきたことである。橘大女郎の言ってきたこととは、言ってきた言葉と言ってきた内容と言ってきた態度と言ってきた状況をすべて含んでいる。はるばる斑鳩から飛鳥まで歩いてきた(?)ことや、朝から門を叩いて聞いて欲しいと嘆願してきた(?)こと、やつれた顔をしていた(?)こと、声が上ずっていた(?)こと、着物は着の身着のままの風情であった(?)こと、鬼気迫る一点凝視の視線(?)や、言葉がまわりくどい言い方になっていたこと(?)など、状況の設定を含んでいると考えられる。今日の選挙でも、言っている内容が同じでも、演説がうまければ、顔が好かれれば、声がかすれて聞き取りにくければそれだけ頑張っているのだと捉えられ、当選することがある。そういったことをすべて含んで「聞レ之」と記されている。
「以為」は、オモフ(思・念)の意で、オモフ、オモミル、オモヘラクなどと訓まれる。紀の例をみると、
刀子(かたな)は献らじと以為(おも)ひて、……。(垂仁紀八十八年七月)
弟媛、以為(おもひみ)るに、夫婦の道は古も今も達(かよ)へる則(のり)なり。(景行紀四年二月)
以為(おもほさく)、祟る所の神を知りて、財宝(たから)の国を求めむと欲(おもほ)す。(神功前紀仲哀九年二月)
天下(あめのした)の万民(おほみたから)と雖も、皆宜しと以為(おも)へり。(允恭即位前紀)
などとある。「然」については、白川1995.に、「しかり〔然・爾〕 「しか、あり」の約。「しか」「しかく」が「さ」に対してかたい語感をもつものであるように、「しかり」にも訓読語のかたさがある。」(381頁)、古典基礎語辞典に、「さ・り 【然り】……副詞のサ(然)に、動詞アリ(有り、ラ変)が付いたサアリが約(つづ)まったもの。上に述べたことを受けて、そうである、そのとおりであると納得をしたり、承認したりするときに用いる。」(573頁、この項、我妻多賀子)とある。上に述べたことを受ける漢文訓読系の語として活躍している。白川1995.は、「〔神代記上[第八段一書第六]〕「唯然(しかり)」、〔神代紀下[第十段一書第一]〕「然歟(しかるか)」などがみえるが、みな応答の語である。」(381頁)と指摘する。ほかにも例がある。
大己貴神(おほあなむちのかみ)の曰はく、「唯然(しか)り。廼(すなは)ち知りぬ、汝(いまし)は是吾が幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり。……」とのたまふ。(神代紀第八段一書第六)
時に高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、其の矢を見(みそなは)して曰はく、「是の矢は、昔我が天稚彦(あめわかひこ)に賜ひし矢なり。血、其の矢に染(ぬ)れたり。蓋し国神(くにつかみ)と相戦ひて然(しか)るか」とのたまふ。(神代紀第九段本文)
「天孫(あめみま)、豈(も)し故郷(もとのくに)に還らむと欲(おもほ)すか」とまをす。対へて曰はく、「然(しか)り」とのたまふ。(神代紀第十段一書第一)
[神武]天皇……「今我(やつかれ)は是日神(ひのかみ)の子孫(うみのこ)にして、日に向ひて虜(あた)を征つは、此天道(あめのみち)に逆(さか)れり。……」とのたまふ。僉(みな)曰(まを)さく、「然り」とまをす。(神武前紀戊午年四月)
同じく応答の言葉に、「諾(う)」、「諾(うべ)なり」といった言葉がある。両者の違いは、ウ・ウベナリが、イナ(否)の対義語であり、英語の yes に当たるのに対し、「然(しか)り」という言葉は、強く言う場合は that’s right、弱く言う場合は that’s so に当たるということであろう。すなわち、橘大女郎のものの考え方として、PならばQ、QならばR、であるならば、PならばRであるという論理演算としては正しいと推古天皇は判断している。そうだねえ、そうだねえ、である。けれども、そもそもの提題のPに勘違いがある。大変な境遇にあって、そう考えるのは仕方がないと思うけれど、私までその考え方に没入する形で賛同することはできない。世界がひっくり返ってしまう。言っていることに虚言妄語はない(「所レ啓誠」)し、そういう論理展開をしたらそういう結論になるのは尤もだとも思う(「以為然」)と言っている。推古天皇は、「有二一我子一」と言いかけながら、孫の橘大女郎の誕生から生い立ち、聖徳太子に嫁いだ時のことなどが、走馬灯のように頭を駆け巡っていたことだろう。そして、ヒトリノワガコアリ、マヲセルハマコトニシテ、オモヘラクシカナリと、30字ほどの文言をゆっくりと喋ったように感じられる。感慨を「告曰」していて、繍帳制作を「勅」している。別言になっている。
以上、天寿国(てむじくに)繍帳の銘文を“読む”こと、すなわち、銘文の内部から、いつ、何のために、繍帳は作られたのかについて論じた。繍帳は、橘大女郎の精神的な危機を救うために、その訴えの言葉をそのままにまるごと受け止めて推古天皇が作らせた、とても心温まるものであった。長々と論じているが、なぞなぞの種明かし、駄洒落の解説に過ぎない。けれども、それは、銘文を“読む”ことそのものである。無文字文化の本質に迫るものであると考える(注29)。
(つづく)