古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

「さやけし」考─キヨシ(clean)とサヤケシ(clear)の違いをめぐって─

2022年10月17日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 「さやけし」という語については、岩波古語辞典のように明晰に定める見解(注1)と、時代別国語大辞典のようにキヨシとの違いをはっきり説明しきれないとする見解(注2)がある。筆者の立場は前者にある。簡潔に言えば、キヨシは clean を、サヤケシは clear を言っている(注3)。視覚的にも聴覚的にも、また、認識的にも、それらの複合的にも用いられる語である。

 大夫ますらをが 得物矢さつや手挟たばさみ 立ち向かひ 射る円方まとかたは 見るにさやけし〔大夫之得物矢手挿立向射流圓方波見尓清潔之〕(万61)

 この歌は、三河行幸の折の歌として追記される三首の歌の最後である。前二首が夜の時間帯を歌うのに対して、朝になって明るくなっていることを歌っている(注4)。四句目の「円方」は松阪市東部の地名とされ、そこまでが「円方」を導く序詞である。弓矢で射的をするのに的がよく見えないのでは話にならないから、明るい時間帯に行われる。すなわち、「見るにさやけし」とは、見るからにすがすがしいという景色の風情を述べるのではなく、見るのにはっきりしている、ちゃんと見えている、的の星もしっかりと見えているということである。そうでなくてどうして射的のことを序に長々と話すだろう。射手と的との間に雑草が生い茂って見えにくいことも、霧がかかってぼんやりすることもない。一点の曇りもないということを「さやけし」で表している。用字に「清潔」とあるのは、弓矢で射るとき、それが狩猟である場合には、鹿や猪が保護色で周囲に紛れることがあるが、そのようなことがなくクリアに見えていて、獣のほうも射るなら射てみよと堂々と潔く立ち向かっていることを示唆している。三句目の射手の姿勢の「立ち向かひ」に真っ向から対する姿であったということである。

 …… 神風かむかぜの 伊勢の国は 国見ればしも 山見れば 高くたふとし 川見れば さやけく清し 水門みなとなす 海も広し 見渡す 島も名高し ……〔……神風之伊勢乃國者國見者之毛山見者高貴之河見者左夜氣久清之水門成海毛廣之見渡嶋名高之……〕(万3234)

 これは、川をみると、見る途中に木々が生い茂って見えないということもなくクリアによく見えて、その川はクリーンにきれいであったということである。あきらかにきれいであった、明々白々としてきれいであった、ということである。

 同じき天皇[景行]、行幸いでましし時、此の山の行宮かりみやいまして、徘徊たちもとほり、よもを望みますに、四方よも分明さやけし。因りて分明さやけの村と曰ふ。分明を佐夜介志さやけしと謂ふ。今はよこなまりて狭山郷さやまのさとと謂ふ。(肥前風土記・養父郡)

 これだけの記事である。ところが、現状では言葉から遊離した解説が行われている。「景行天皇が巡幸し、眺望がよい場所(「四方分明かりき」)であったために「分明の村」と名付けられたという。天皇の巡幸には、巡行する神が優れた土地を見いだす巡行叙事の論理が蔵されており、サヤケシが聖性を帯びた讃美の語であったことを示している。」(『万葉語誌』169頁、この項、塩沢一平)とある。
 単なる命名譚である。天皇はどこか見晴らしのいいところはないかと探し回り、うまい具合のところを見つけたのでそこから四方を見渡した。天気も良くてよく見えた。「徘徊四望、四方分明。」とあるのだから、見えた先がグッドやナイスな所に見えたといったことではなく、見晴らしがよくて四方がクリアに見えたということである。

 この頃の 秋の朝明あさけに 霧隠きりがくり 妻呼ぶ雄鹿しかの 声のさやけさ〔比日之秋朝開尓霧隠妻呼雄鹿之音之亮左〕(万2141)

 秋になって夜明けに霧の中で妻を呼ぶ牡鹿の声がはっきりと聞こえるという歌である。霧に隠れていたらはっきりとは見えないが、声のほうばかりははっきりと聞こえるという対比をなしている。声の良し悪しは関係ない。

 …… 立つ霧の 思ひすぐさず 行く水の 音もさやけく 万代よろづよに 言ひ継ぎ行かむ 川し絶えずは(万4003)

 立山のことを言い伝えていこうというのが歌の主旨である。その最後の部分で、霧が流れ消えるように忘れることなく、流れて行く水の音がきちんと聞こえるように、末永く言い伝えてゆこう、川が絶えない限りは、と言っている。「行く水」は「川」の流れのことである。川が絶えないのだからそのように、ずっとずっと伝えていくと言っていて、それは川の水の流れる音が途切れることがないのと同じことなのである。その際、音量や音質は特に問題ではない。音が継続していることをもって続けていくということに譬えている。はっきりと音がするように、はっきりと次の世代へ伝えていくということである。音曲の優美さを問うものではない。

 はねかづら 今する妹を うら若み いざ率川いざかはの 音のさやけさ〔波祢蘰今為妹乎浦若三去来率去河之音之清左〕(万1112)

 「はねかづら」については連凧ではないかとする説を呈示している(注5)。凧あげをしようよ、しようよとせっついて来る少女の言葉にいうイザと名に負っている率川は、イザ、イザと音を立てて流れている。そのように声を立てているからそういう名に呼ばれているのだ、音がはっきり聞こえるのは自明のことだ、ということを「さやけさ」で示している。

 さざれ波 磯越道いそこしぢなる 能登瀬川のとせがは 音のさやけさ たぎつ瀬ごとに〔小浪礒越道有能登湍河音之清左多藝通瀬毎尓〕(万314)

 音がはっきり聞こえるのは、川路が狭くなったり高低差ができたりして急流となっている場所で、流れが速いからザーザー音がしている。そんな瀬になっている個所ごとに、音がはっきりしていると言っている。山中の川のことである。流れが速い所と緩慢な所とがある。その川沿いにひらかれている道筋に歩を進めていく時、もちろん川が見える所もあれば隠れる所もあるわけだが、折に触れてザーザーいっている所が現れるのである。ああ、能登瀬川が流れているのだなあとそのたびに思われる。「激つ瀬ごとに」澄んだ音が聞こえるのではなく、「激つ瀬ごとに」音がはっきりと聞こえてくるのである。「激つ瀬」でない所では聞こえなくなる時もある。「さやけし」は、視覚や聴覚の対象が澄明であるということではなく、感覚において分明であることを指している。

 淵も瀬も 清くさやけし 博多川 千歳を待ちて 澄める川かも〔布知毛世毛伎与久佐夜気志波可多我波知止世乎万知天須売流可波可母〕(続紀・称徳天皇・宝亀元年三月)

 「淵」はどうかというと流木が何かに引っ掛かってとどまってゴミが集まるような汚い所ではない。そんなことになっているとそこはもはや淵ではなくなって「淀(よど)」や「溜(たまり)」や「洲(す)」になりかねない。そのようなことはなくはっきりと「淵」であり、「瀬」はどうかというとそれも同様であるという意である。どうしてそのような言辞になるかといえば、そこがハカタガハだからで、墓(はか)があるのではないかと思われている。墓は死者を葬る場所である。遺骸が埋められていればそこで腐敗していく。汚い所ではないかと感じられたのであろう。とはいえ千年も経てば朽ち果てきってしまい、晴れて澄んだ川になるのではないかと歌に戯れている。「淵」や「瀬」はきれいで、また、たしかにフチやセの性質を堅持して言葉どおりなので「さやけし」という言葉が使われている。
 この歌の解釈としては、千年経てば澄んだ川になるといった予祝的な歌であるとする見方や、高松2007.のように、今がその千年経った時なのだとする説がある。後者の高松氏の説が比較的正しいであろうが、その意味するところは、いつとは知れぬはるか昔に「博多川」と名づけられ、それが今となっては「千歳」経っているから澄んだ川になっているのだなあ、と詠嘆しているのである。地名に名づけられたのは千年以上前のことだろうということである。

 大海の 水底みなそことよみ 立つ波の 寄らむと思へる 磯のさやけさ〔大海之水底豊三立浪之将依思有礒之清左〕(万1201)

 この歌は、磯のはっきりとあることを言っている。どんなに大きな波が起こって来ようとも、それに対応するであろう荒々しく大きな磯がそこにあるのである。そして、それをイソと呼んでいることについて分明であるとしている。
 磯(いそ、ソは甲類)とは、イとソ(甲類)という音のつながりでできている。イは、馬のいななきの声、ソ(甲類)は馬を追う声である(注6)。馬が暴れ、その馬を制御する、その対応をイソという言葉は表している。どんな荒々しさにも対応するもの、それがイソのイソたる由縁ということになる。完全に明らかだから「さやけし」という言葉で形容されている。この場合、視覚的、あるいは聴覚的にはっきりわかるということではなく、認識的に明瞭であるという意である。

 今日けふもかも 明日香あすかの川の 夕さらず 河蝦かはづ鳴く瀬の さやけくあるらむ 或る本の歌の発句はじめのくに云はく、明日香川 今もかもとな 〔今日可聞明日香河乃夕不離川津鳴瀬之清有良武或本歌發句云明日香川今毛可毛等奈〕(万356)

 「今日もかも」はアスを導いて「明日香の川」にかかり、それら全体は「夕さらず」、毎夕ごとにを導いている。結句で「さやけくあるらむ(さやけかるらむ)」と推量しているのは、発句の「今日もかも」に対応している。「今日もかも……らむ」の形は他にも見られる。

 くしろつく 答志たふしさきに 今日けふもかも 大宮人の 玉藻たまも刈るらむ(万41)

 今日も……しているのだろうか、の意である。そのため、万356番歌の解釈として、かつて見た過去の様子と同様に今日もまた、の意と捉えられることがある(注7)。飛鳥古京のことを言っているからそう考えられなくもないが、それでは歌意が台無しである。
 歌は、「明日香の川」の明日を基準点にしている。明日、カハヅが鳴くといい、「夕さらず」、毎夕ごとに鳴くというのなら、今日もまた鳴くということなのだろうか、と戯れている。時制的に未来から現在へ推量するという、とぼけたことを言うからには、カハヅが鳴くか鳴かないかということに論点を集中させるのではなく、カハヅが鳴く場所である「瀬」があるかどうかということへ焦点を移している。そんな「瀬」は本当にあるのだろう、明確にあるのだろう、厳然とあるのだろう、という言い分として、「さやけくあるらむ」と言っている。「瀬」の様子がさわやかであるとか、すがすがしく感じられるとか、すがすがしい音を立てているとかいうことではない。言葉のあやとして帰納法的論証を試みた歌なのである。

 剣大刀つるぎたち いよよぐべし いにしへゆ さやけく負ひて にしその名そ(万4467)

 大伴家持が同族の大伴古慈斐宿禰の解任事件に憤慨して作った歌である。大伴氏の誇りを歌っている。オホトモとは大きな鞆(とも)、弓を射るときに弦の跳ね返りで怪我をしないように左手首に着ける防具のことである。そういう名を負っているのが大伴氏だから、武人として正統な氏族なのだと自負している。だから、刀剣類はますます研ぐのがいい、古来より名を負ってきたその名なのだから、という言い分である。「さやけく負ひて」は、通説のように、けがれなく負っているという意ではない。名を負うことに正邪を問うているのではなく、いつからなのか知られないほど昔から名づけられている。それほど古くから名前を持っていて由緒正しいのである。そして、名前に表れていることは明らかなことである。名前(氏)を持たない人たちがたくさんいるし、後から付けた人も知られるなか、大伴氏はものすごく昔から明白なる名を負って代々続いている。そのさまを「さやけし」と言っている。

 大滝おほたぎを 過ぎて菜摘なつみに 近くして 清き川瀬を 見るがさやけさ〔大瀧乎過而夏箕尓傍為而浄川瀬見何明沙〕(万1737)

 三句目が難訓である。原文に「傍為而」とあり、旧訓にソヒテヰテとしていたが、「為而」はシテと訓まれるのが通例である。現在、チカクシテと訓まれることが多い。二句目に「菜摘」という吉野地方の地名が出てくる。原文に「夏箕」とあり、また、「夏身」(万1736)、「夏実」(万375)とあって、ミは乙類である。今当てている「菜摘」ではミが甲類になって音が異なる。地名としては後の当て字で同所かもしれないが、万葉人の心に迫ることの支障となっている。
 ナツミ(ミは乙類)という言い方は、「浦廻(うらみ、ミは乙類)」、「磯廻」、「隈廻」、「里廻」などに似せて解されていたのではないか。すなわち、「夏廻(なつみ)」とは、夏が入り曲がっためぐりのこと、閏月の謂いと察せられたのである。旧暦の夏、四~六月に梅雨がある。ウルフとは、濡れる、湿る、潤うの意である。機知に富んだ万葉人の心中を察すれば、夏の閏月は梅雨時のことだと得意になっていること請け合いである(注8)

 女の不浄ほとどころを観るときに沾湿うるへる者は殺す。湿うるへざる者はからめて官婢つかさやつことす。(武烈紀八年三月)
 ……づる汗、身をうるひて、声乱れ手わななく。(皇極紀四年六月)
 沃 宇留不(うるふ)(金光明最勝王経音義)

 万1737番歌の歌詞のつながりは、大滝のしぶきを浴びたままにナツミまで進んできたが着衣は濡れていて、そのままに清らかな川の早瀬を見てみると、肌の感覚として水があると知れているから、映像として目にもはっきりしていると歌っているのである。三句目の「傍為而」は、ソホニシテと訓むのであろう。現在でも「そぼ降る」、「そぼ濡れる」などと用いられている。

 弥彦いやひこ おのれ神さび 青雲の たなびく日すら 小雨こさめそほ降る〔霂曽保零〕 一に云はく、あなに神さび(万3883)
 …… 玉笥たまけには さへ盛り 玉盌たまもひに 水さへ盛り 泣きそほち行くも〔儺岐曽褒遅喩倶謀〕 影媛あはれ(紀94)
 添山、此には曽褒里能耶麻そほりのやまと云ふ。(神代紀第九段一書第六)
 故、其の少名毘古那神をあらはし白しし所謂ゆる久延毘古くえびこは、今には山田の曽富騰そほどぞ。此の神は、足は行かねども、尽く天の下の事を知れる神ぞ。(記上)
 仏造る 真朱まそほ足らずは〔真朱不足者〕 水たまる 池田の朝臣あそが 鼻の上を掘れ(万3841)

 第三例は、新羅の王都、徐伐(sio-por)を音訳したものであろうとされている。訓に音訳である。「添」は「副」などと同じくソフと訓む。サンズイの字であり、雨にそぼ濡れる様を表していると思われる。第四例は案山子のことである。ソホドの語源は知られないが、雨に濡れても歩かないさまを言っているのではないか。第五例は、赤い顔料のことである。ソホが濡れることと赤い顔料のことを兼ねて指しているのは、着衣が濡れて体にまつわりついた時、肌赤の色が浮かびあがるところを着色に見立てているからと思われる。ハダカ(裸)はハダ(肌・膚)+アカ(赤)の約かとされている。再度掲げる。

 大滝を 過ぎて夏廻なつみに そほにして 清き川瀬を 見るがさやけさ〔大瀧乎過而夏箕尓傍為而浄川瀬見何明沙〕(万1737)

 大滝を通り過ぎ、 夏廻(なつみ)というところに着いた。ナツミと聞けば2度めぐってきたような梅雨のことが思われてウルフがごとく我が身はそほ濡れた。清らかな川の瀬を見ると濡れ心地からもたしかに川の瀬を見ていると知れるのだ。

 以上、上代語「さやけし」について見てきた。「さやけし」は clear 、ないしは、it is clear that ……を表す語であることが確かめられた。
 キヨシとサヤケシが同じ「清」という字に当てられるようになったのは、ヤマトコトバにあって漢語にはなかった語の区別があったからとは言い難い。新撰字鏡に、「懭怳 分明也、寛明也、佐也介志(さやけし)、又何[阿?]支良介之(あきらけし)」、日本書紀に「其の声、寥亮さやかにして悲し。」(仁徳紀三十八年七月)、法華経単字では「月」、「明」、「白」字にサヤケシという訓を記している。万葉集の用字に、サヤケシ(サヤケサ、サヤニ)のために「清」字を使うことが偏重的に多い。書き癖と見たほうが外れないのかもしれない。後考を俟ちたい。

(注)
(注1)「【分明し・亮し】……《サエ(冴)と同根。冷たく、くっきりと澄んでいる意。視覚にも聴覚にも使う。類義語キヨシは、汚れのない意》①さえて、はっきりしている。……②くっきりと際立っている。」(590頁)
(注2)「明るく清らかである。明るくはっきりしている。すがすがしい。サヤカからの派生。……【考】類義の語にキヨシがあって、同じ漢字で表記され、ほぼ同様な対象の描写に用いられる。……この二語の違いをはっきり説明することは困難であるが、キヨシが対象の汚れのない状態をいうことが多いのに対して、サヤケシはその対象から受けた主体の情意・感覚についていうことが多い。」(342頁)
(注3)本稿では、基本となる語彙について確かめることを優先し、語幹「さや」からの語生成については論じない。「さやけし」に讃美・讃辞を説く野田1995.や霊威や畏怖に基づくものとする『万葉語誌』には多くの誤りがあると考える。
(注4)万57番歌の前に「二年壬寅に、太上天皇の参河国みかはのくにに幸しし時の歌」という題詞があり、作者名の長忌寸奥麻呂ながのいみきおきまろと高市連黒人を左注にする歌を一首ずつ載せ、さらに作者名を題詞とする下の三首がつづいて並んでいる。

  誉謝女王よさのおほきみの作る歌
 ながらふる 妻吹く風の 寒きに 吾が背の君は 独りからむ(万59)
  長皇子の御歌
 宵に逢ひて あしたおも無み 名張なばりにか 長き妹が いほりりせりけむ(万60)
  舎人娘子とねりのをとめ従駕おほみともにして作る歌
 大夫ますらをが 得物矢さつや手挟たばさみ 立ち向かひ 射る円方まとかたは 見るにさやけし(万61)

(注5)拙稿「万葉集の「はねかづら」の歌」参照。連凧について当時の文献に確例が見られず、遺物等が出土したわけでもないので筆者の不安は尽きないが、万葉集を「読む」立場からは読めてしまっているので引き下がることができないでいる。
(注6)「たらちねの 母が飼ふの 繭隠まよごもり いぶせくもあるか〔馬聲蜂音石花蜘蟵荒鹿〕 妹に逢はずして」(万2991)、「…… 我が大君を 霞立つ 春の日暮らし まそ鏡〔喚犬追馬鏡〕 見れど飽かねば ……」(万3324)とある。いわゆる義訓である。
(注7)注釈336頁、全注231頁、新全集211頁、和歌大系214頁などに見られる。
(注8)閏月はおよそ5年に2回、19年に7回訪れ、1年となるよう調整している。「わが国には漢語の「閏(ん じゆ)」にあたる観念がなかったので、その読みようがなかったが、同音の「潤(ん じゆ)」の字は、ぬれる・しめるの意で、ウルフと読むから、それを転用して「閏」の読みとした。」(岩波古語辞典198頁)とある。

(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新全集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集6 萬葉集①』小学館、1994年。
全注 西宮一民『萬葉集全注 巻第三』有斐閣、昭和59年。
高松2007. 高松寿夫『上代和歌史の研究』新典社、2007年。(「由義宮歌垣の歌謡─「淵も瀬も」歌謡の解釈を中心に─」『萬葉』第182号、平成14年10月初出。萬葉学会・学会誌『萬葉』アーカイブhttps://manyoug.jp/memoir/2002)
注釈 澤瀉久孝『萬葉集注釈 巻第三』中央公論社、昭和33年。
野田1995. 野田浩子『万葉集の叙景と自然』新典社、平成7年。
『万葉語誌』 多田一臣編『万葉語誌』筑摩書房、2014年。
和歌大系 稲岡耕二『和歌文学大系1 萬葉集(一)』明治書院、平成9年。
トリーニ2010. アルド・トリーニ「上古・中古時代の「さやけし」と「さや」語群をめぐって」『教育研究プロジェクト特別講義』第20号、2010年9月。ヴェネツィア・カフォスカリ大学調査報告書https://arca.unive.it/handle/10278/29595

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