枕詞「刈薦の」についてはほとんどわかっていない(注1)。一般には、刈り取った薦は乱雑になりやすいから「乱れ」にかかり、恋の思いに乱れにもまつわるから「心」にもかかるのだと説明されている。しかし、刈り取った植物が散乱することは薦に限ったことではない。
薦(菰)とは今にいうマコモのことである。水辺に群生するイネ科の多年草で、横に張る太い地下茎があり、葉と茎を叢生させる。茎は円柱状で中空、高さは1~3mに達する。長い茎や葉は生活に利用された。筵のように編まれ、薦畳(注2)、薦枕など寝具に使われることも多かった。次の歌はそれを指しており、枕詞ではない。
刈薦の〔苅薦能〕 一重を敷きて さ寝れども 君とし寝れば 寒けくもなし(万2520)
秋につける果実(菰米)は、東アジアでは中国でわずかに救荒作物として食べられたに過ぎず、食用としたのはむしろ茎の部分である。茎の先に黒穂病菌のウスティラゴ・エスキュレンタ・ヘニングスが感染して肥大化し、白っぽくて柔らかな筍に似たものが9~10月ごろにできて食べられている。マコモタケ、コモノコ、コモノネ、カンヅルなどと呼ばれ、漢名を茭白筍という。古語に、菰角といい、和名抄に、「菰〈菰首付〉 本草に云はく、菰は一名に蒋といふ〈上の音は孤、下の音は将、古毛〉。弁色立成に茭草〈一に菰蒋草と云ふ、上の音は穀肴反〉と云ふ。七巻食経に云はく、菰首、味は甘、冷といふ。〈古毛不豆路、一名に古毛都乃〉」とある。そうなるかならないかは栽培種と野生種の違いによるともされている。
マコモタケを放置すると黒い胞子が充満して食べられなくなるが、その胞子を集めて塗料とすることもあった。真菰墨と呼ばれるもので、お歯黒や眉墨のほか、絵の具として、また、彫刻した漆器を塗るのにも使われた。直径が6~9μと粒ぞろいのため、美しく表現できるという。
マコモ(ベランダ園芸にて栽培。食用にする大きな菰角は逸したが、タケの節状の様子は確認された。節の部分からは葉が伸びており、見やすくするために剥いでいる。タケ・ササ類でいえば皮(葉鞘)に当たるものが残る形態をとっており、それはシノ(篠)の性質と一致する。)
おもしろいことになっている。「刈薦」という言葉で表されるものは、コモだと言って刈ってきているのであるが、どうしてもコモだとは思われない代物でなぜか食べられたりしている。タケノコとアスパラガスの間のような食感でおいしい。そこで、また刈ってきてねと頼んでみると、時期が外れてもはや食べることはできず、その茎や葉は筵(畳)に作られてしまう。
食べられると聞いていた。だから筵(畳)になっているのをむしりほどいてコモを取り出してみるが、一向に食べられそうにない。敷物は乱れ、心も乱れてしまう。それがカリコモである。実際にマコモの生えているところを目にしていない人、すなわち、刈りとってきた状態でしか知らない人たちの心は乱れるばかりであった。よって、枕詞「刈薦の」は「乱れ」にかかる。言葉それ自体で聞いておもしろいから枕詞に使われた。
笹葉に 打つや霰の たしだしに 率寝てむ後は 人は離ゆとも 愛しと さ寝しさ寝てば 刈薦の〔加理許母能〕 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば(記79)
草枕 旅にし居れば 刈薦の〔苅薦之〕 乱れて妹に 恋ひぬ日は無し(万3176)
飼飯の海の 庭よくあらし 刈薦の〔苅薦乃〕 乱れて出づ見ゆ 海人の釣船(万256)
飼飯の海の 又曰く、刈薦の〔可里許毛能〕 乱れて出づ見ゆ 海人の釣船(万3609「柿本朝臣人麻呂歌曰」)
吾が聞きに かけてな言ひそ 刈薦の〔苅薦之〕 乱れて思ふ 君が直香そ(万697)
妹がため 命遺せり 刈薦の〔苅薦之〕 思ひ乱れて 死ぬべきものを(万2764)
吾妹子に 恋ひつつあらずは 刈薦の〔苅薦之〕 思ひ乱れて 死ぬべきものを(万2765)
都辺に 行かむ船もが 刈薦の〔可里許母能〕 乱れて思ふ 言告げやらむ(万3640)
単に「乱れ」という語を接続するための修辞表現として「刈薦の」と使われているかといえば、それだけではなさそうである(注3)。記79歌謡・万3176番歌では、寝ることと関係して出ている。薦枕、畳薦が念頭にあるらしい。万256・3609番歌は、「飼飯」という地名が出ている。ケ(笥)+ヒ(飯)に聞こえているから食卓に上るマコモタケのことを連想するのにかなっている。万697番歌は、好きな人の本当の姿とは何なのかわからないということを、マコモの変幻する姿にかけて示そうとしている。万2764・2765番歌は、ひょっとしたらまた好いてくれる時が来るかもしれないことを、越年して翌秋になってまた食べられるようになるかもしれないことにかけて示そうとしている。この場合は刈り残った根株のほうを指していることになる。万3640番歌は、都へ調を運ぶのに、薦で作った筵に巻いて運んだことを底流に描いているようである。
もうひとつ、「心もしのに」にかかる例がある。
古ゆ 言ひ続ぎけらく 恋すれば 苦しきものと 玉の緒の 継ぎては言へど 処女らが 心を知らに 其を知らむ 因の無ければ 夏麻引く 命かたまけ 刈薦の〔借薦之〕 心もしのに 人知れず もとなそ恋ふる 息の緒にして(万3255)
「刈薦の」のコモはマコモタケ、菰角のことを指している。食用になるマコモタケは、その名のとおり、タケノコ(筍)のような形状で食感もまた同じである。すなわち、シノ(篠)によく似ている。シノという言葉を含んだ「心もしのに」という言い方は慣用化している(注4)から、それを導くいわゆる枕詞となっているのであった(注5)。
(注)
(注1)そもそも「枕詞」とは何かから問われなければならない。枕詞とは何かについては、「枕詞」を修辞の一つとしてまとめる際に、それこそ話の枕として問われながらも、さしてかんばしい説明を得るには至っていない。その理由としては、現段階において、大きな議論をするのに堪えるほど個々の言葉について味わえていないという点があげられよう。見えている魚は釣れない状態にある。そんななか、廣岡2005.は、地名にかかる枕詞の本質を言語遊戯に求めている。画期的な展望が期待できるものであるが、必ずしも賛同を得ているわけでもないようである。大浦2021.は、「様式性を帯びた枕詞と、一回的・言語遊戯的な枕詞とが連続的に存在するのが枕詞のありようで……、前者を核とし、その周辺を無数の後者が取り巻く星雲のような様相を呈している」(104頁)としている。万葉集に一回しか出て来ないと一回で、万葉集に何回か出て来たら様式性を帯びていると見てとることははたして正しいのだろうか。万葉集に採られなかった歌は数知れずあったと思われ、万葉集に二回目だとどうして数えられるのかもわからない。
思うに、我々が枕詞としか考えられない言葉は、叙述にひとつの様式を与えているからそう捉えているのであるが、よくわからないからそれで済ませているばかりである。どうしてそのような芸当が当時においてかなったか。それは当該枕詞が、言語遊戯性を獲得している言葉で、人々におもしろいと思われたから利用されていたのだろう。大浦氏は、「社会的古文脈」に様式性を帯びた枕詞は置かれているとしている。だが、コロケーションの長短によるだけで、それを「文脈」に当たるか否かということにしているのではないか。役割を進んで引き受けることは「一役買う」、他人のために本気で力を貸すことは「一肌脱ぐ」と、様式化された常套句になっている。「一役買う」や「一肌脱ぐ」、「一泡吹かせる」に廣岡氏が枕詞にみた言語遊戯性はない。もう少し重いかかり方を発案して、歌に歌いやすい5音を中心にいろいろと考えめぐらせた言葉、それが枕詞なのであろう。使用例が一回しか残らないものでも、周到な文脈依存性を帯びているかもしれず、そうでなければ発案して発表して受容されるという事態には至らない。むろん、失敗作や駄作がなかったということではない。
また、西郷1995.に、特定の語を喚起する力を持っている枕詞について、その現象面を「詩学」として解明しようとする向きがある。枕詞の意味や淵源の解明は等閑視して、現に歌のなかで枕詞が担っている機能、力を詩の問題として解明していこうというのである。確かに我々は個々の枕詞の深い味わいを知り得ていないが、上代の人たちが知らないままに使っていたとは考えにくい。「一役買う」や「一肌脱ぐ」、「一泡吹かせる」が我々にとってほとんど映像として思い浮かぶのと同じように、上代の人は枕詞を使っていた、または、使えるのではないかと提唱していたのではないか。何か他の目的のために丸暗記するための語呂合わせとして「なんと素敵な平城京」と唱えるように、「あをによし奈良」と言っていたわけではなかろう。
このように考えてくれば、我々は、枕詞とは何かを問うてみたり、歌のなかで枕詞というシステムが様式性を確立しているから、そこからそのシステムについて解明しようといった方策は、実はあまり用を足さないと理解されよう。それぞれの枕詞はそれぞれに使われている。我々は、どうしてそのようにかかって次の言葉を導くのかの理由がわかり、文脈的に見ても居心地よく使われている事情が納得されなければその言葉はわかったことになっていないと直観的に思っている。日常的に言葉を使い、その言葉をもってわかる、わからないを決めているから直観が働くのである。すなわち、個々の枕詞についての問いに一つずつ答えられなければ、何ごとかわかった気になることなどできないのである。大きな議論ヘ向かうよりも、個々の枕詞の意味や淵源の解明こそが、すなわち、あ、おもしろい言い方をしているな、と気づくことだけが、我々にヤマトコトバの豊饒さを教えてくれるものである。そして、その意味や淵源なるものは、言語のなかにあるとしか言えない。なぜといって当時の人はヤマトコトバを使っているにすぎない。そのヤマトコトバの情況は、識字能力としては“片言”程度でしかなく、ほぼ無文字時代のものであった。その点を念頭に置けば、枕詞はブリコラージュ的に作られたとしか考えられない。廣岡氏が説かれたように言語遊戯のなかにある。言葉に対する感性が、我々のものとは違っており、別世界の異文化になっている。ヤマトコトバ、すなわち、上代人の思考の枠組みを知るためには、ひとつひとつパズルを解いていくことが必要とされる。王道はなく、それを拒絶しているのがヤマトコトバである。
(注2)「薦畳」、「畳薦」といった言葉からは、筵のように経糸一本ずつの、組織としては平織りのものではなく、畳のように経糸二本ずつに織っていたのではないかとも考えられるが詳細は不明である。
(注3)枕詞がどこまでを修辞しているかについては難しい問題である。白井2005.参照。
(注4)拙稿「「心もしのに」探究」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/f8f4a36774d4b3483ae9c62458d2c865参照。
(注5)枕詞「夏麻引く」は、①ウナカミ、ウナヒにかかる、②命にかかる、の二つのかかり方がある。①は夏麻を引いてそれを績むから、ウにかかるとする説と、夏麻を畑の畝から引いてくるから、ウナにかかるとみる説がある。わざわざ「夏麻」と季節を限っているところからは、畝を作って育てないと梅雨時に水浸しになって駄目になるからかとも思われる。また、海上潟にかかっているところから考えると、夏の麻から取った麻糸を釣糸にしていたこともあるかと考える。
②は万3255番歌の例で、夏麻を引いて糸に作るという意から、糸を意味するイにかかるとする説と、イノチにかかるのではなく、麻を傾けて刈るところからカタマケにかかるとする説もある。上の釣糸説からすれば、イノチ(命)は長く伸びるものとしてヲ(緒)とも呼ばれ、「己が命を 盗み殺せむと……」(記22)とある。釣りのヲ(緒)はヲ(麻)を使ったとても長い釣糸のことで、イノチ(命)という語がイ(息)+ノ(助詞)+チ(霊)の意と考えられることとよく適合しており、糸のことを考えに入れた前者の方向性がふさわしいと思われる。
(引用・参考文献)
大浦2017. 大浦誠士「枕詞と様式」『上代文学』第108号、上代文学会、2017年。
大浦2021. 大浦誠士「枕詞とは何か」上野誠・鉄野昌弘・村田右富実編『万葉集の基礎知識』KADOKAWA、令和3年。
西郷1995. 西郷信綱『古代の声 増補版』朝日新聞社、1995年。
白井2005. 白井伊津子『古代和歌における修辞』塙書房、2005年。
廣岡2005. 廣岡義隆『上代言語動態論』塙書房、2005年。
レヴィ=ストロース1976. クロード・レヴィ=ストロース著、大橋保夫訳『野生の思考』みすず書房、1976年。
薦(菰)とは今にいうマコモのことである。水辺に群生するイネ科の多年草で、横に張る太い地下茎があり、葉と茎を叢生させる。茎は円柱状で中空、高さは1~3mに達する。長い茎や葉は生活に利用された。筵のように編まれ、薦畳(注2)、薦枕など寝具に使われることも多かった。次の歌はそれを指しており、枕詞ではない。
刈薦の〔苅薦能〕 一重を敷きて さ寝れども 君とし寝れば 寒けくもなし(万2520)
秋につける果実(菰米)は、東アジアでは中国でわずかに救荒作物として食べられたに過ぎず、食用としたのはむしろ茎の部分である。茎の先に黒穂病菌のウスティラゴ・エスキュレンタ・ヘニングスが感染して肥大化し、白っぽくて柔らかな筍に似たものが9~10月ごろにできて食べられている。マコモタケ、コモノコ、コモノネ、カンヅルなどと呼ばれ、漢名を茭白筍という。古語に、菰角といい、和名抄に、「菰〈菰首付〉 本草に云はく、菰は一名に蒋といふ〈上の音は孤、下の音は将、古毛〉。弁色立成に茭草〈一に菰蒋草と云ふ、上の音は穀肴反〉と云ふ。七巻食経に云はく、菰首、味は甘、冷といふ。〈古毛不豆路、一名に古毛都乃〉」とある。そうなるかならないかは栽培種と野生種の違いによるともされている。
マコモタケを放置すると黒い胞子が充満して食べられなくなるが、その胞子を集めて塗料とすることもあった。真菰墨と呼ばれるもので、お歯黒や眉墨のほか、絵の具として、また、彫刻した漆器を塗るのにも使われた。直径が6~9μと粒ぞろいのため、美しく表現できるという。
マコモ(ベランダ園芸にて栽培。食用にする大きな菰角は逸したが、タケの節状の様子は確認された。節の部分からは葉が伸びており、見やすくするために剥いでいる。タケ・ササ類でいえば皮(葉鞘)に当たるものが残る形態をとっており、それはシノ(篠)の性質と一致する。)
おもしろいことになっている。「刈薦」という言葉で表されるものは、コモだと言って刈ってきているのであるが、どうしてもコモだとは思われない代物でなぜか食べられたりしている。タケノコとアスパラガスの間のような食感でおいしい。そこで、また刈ってきてねと頼んでみると、時期が外れてもはや食べることはできず、その茎や葉は筵(畳)に作られてしまう。
食べられると聞いていた。だから筵(畳)になっているのをむしりほどいてコモを取り出してみるが、一向に食べられそうにない。敷物は乱れ、心も乱れてしまう。それがカリコモである。実際にマコモの生えているところを目にしていない人、すなわち、刈りとってきた状態でしか知らない人たちの心は乱れるばかりであった。よって、枕詞「刈薦の」は「乱れ」にかかる。言葉それ自体で聞いておもしろいから枕詞に使われた。
笹葉に 打つや霰の たしだしに 率寝てむ後は 人は離ゆとも 愛しと さ寝しさ寝てば 刈薦の〔加理許母能〕 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば(記79)
草枕 旅にし居れば 刈薦の〔苅薦之〕 乱れて妹に 恋ひぬ日は無し(万3176)
飼飯の海の 庭よくあらし 刈薦の〔苅薦乃〕 乱れて出づ見ゆ 海人の釣船(万256)
飼飯の海の 又曰く、刈薦の〔可里許毛能〕 乱れて出づ見ゆ 海人の釣船(万3609「柿本朝臣人麻呂歌曰」)
吾が聞きに かけてな言ひそ 刈薦の〔苅薦之〕 乱れて思ふ 君が直香そ(万697)
妹がため 命遺せり 刈薦の〔苅薦之〕 思ひ乱れて 死ぬべきものを(万2764)
吾妹子に 恋ひつつあらずは 刈薦の〔苅薦之〕 思ひ乱れて 死ぬべきものを(万2765)
都辺に 行かむ船もが 刈薦の〔可里許母能〕 乱れて思ふ 言告げやらむ(万3640)
単に「乱れ」という語を接続するための修辞表現として「刈薦の」と使われているかといえば、それだけではなさそうである(注3)。記79歌謡・万3176番歌では、寝ることと関係して出ている。薦枕、畳薦が念頭にあるらしい。万256・3609番歌は、「飼飯」という地名が出ている。ケ(笥)+ヒ(飯)に聞こえているから食卓に上るマコモタケのことを連想するのにかなっている。万697番歌は、好きな人の本当の姿とは何なのかわからないということを、マコモの変幻する姿にかけて示そうとしている。万2764・2765番歌は、ひょっとしたらまた好いてくれる時が来るかもしれないことを、越年して翌秋になってまた食べられるようになるかもしれないことにかけて示そうとしている。この場合は刈り残った根株のほうを指していることになる。万3640番歌は、都へ調を運ぶのに、薦で作った筵に巻いて運んだことを底流に描いているようである。
もうひとつ、「心もしのに」にかかる例がある。
古ゆ 言ひ続ぎけらく 恋すれば 苦しきものと 玉の緒の 継ぎては言へど 処女らが 心を知らに 其を知らむ 因の無ければ 夏麻引く 命かたまけ 刈薦の〔借薦之〕 心もしのに 人知れず もとなそ恋ふる 息の緒にして(万3255)
「刈薦の」のコモはマコモタケ、菰角のことを指している。食用になるマコモタケは、その名のとおり、タケノコ(筍)のような形状で食感もまた同じである。すなわち、シノ(篠)によく似ている。シノという言葉を含んだ「心もしのに」という言い方は慣用化している(注4)から、それを導くいわゆる枕詞となっているのであった(注5)。
(注)
(注1)そもそも「枕詞」とは何かから問われなければならない。枕詞とは何かについては、「枕詞」を修辞の一つとしてまとめる際に、それこそ話の枕として問われながらも、さしてかんばしい説明を得るには至っていない。その理由としては、現段階において、大きな議論をするのに堪えるほど個々の言葉について味わえていないという点があげられよう。見えている魚は釣れない状態にある。そんななか、廣岡2005.は、地名にかかる枕詞の本質を言語遊戯に求めている。画期的な展望が期待できるものであるが、必ずしも賛同を得ているわけでもないようである。大浦2021.は、「様式性を帯びた枕詞と、一回的・言語遊戯的な枕詞とが連続的に存在するのが枕詞のありようで……、前者を核とし、その周辺を無数の後者が取り巻く星雲のような様相を呈している」(104頁)としている。万葉集に一回しか出て来ないと一回で、万葉集に何回か出て来たら様式性を帯びていると見てとることははたして正しいのだろうか。万葉集に採られなかった歌は数知れずあったと思われ、万葉集に二回目だとどうして数えられるのかもわからない。
思うに、我々が枕詞としか考えられない言葉は、叙述にひとつの様式を与えているからそう捉えているのであるが、よくわからないからそれで済ませているばかりである。どうしてそのような芸当が当時においてかなったか。それは当該枕詞が、言語遊戯性を獲得している言葉で、人々におもしろいと思われたから利用されていたのだろう。大浦氏は、「社会的古文脈」に様式性を帯びた枕詞は置かれているとしている。だが、コロケーションの長短によるだけで、それを「文脈」に当たるか否かということにしているのではないか。役割を進んで引き受けることは「一役買う」、他人のために本気で力を貸すことは「一肌脱ぐ」と、様式化された常套句になっている。「一役買う」や「一肌脱ぐ」、「一泡吹かせる」に廣岡氏が枕詞にみた言語遊戯性はない。もう少し重いかかり方を発案して、歌に歌いやすい5音を中心にいろいろと考えめぐらせた言葉、それが枕詞なのであろう。使用例が一回しか残らないものでも、周到な文脈依存性を帯びているかもしれず、そうでなければ発案して発表して受容されるという事態には至らない。むろん、失敗作や駄作がなかったということではない。
また、西郷1995.に、特定の語を喚起する力を持っている枕詞について、その現象面を「詩学」として解明しようとする向きがある。枕詞の意味や淵源の解明は等閑視して、現に歌のなかで枕詞が担っている機能、力を詩の問題として解明していこうというのである。確かに我々は個々の枕詞の深い味わいを知り得ていないが、上代の人たちが知らないままに使っていたとは考えにくい。「一役買う」や「一肌脱ぐ」、「一泡吹かせる」が我々にとってほとんど映像として思い浮かぶのと同じように、上代の人は枕詞を使っていた、または、使えるのではないかと提唱していたのではないか。何か他の目的のために丸暗記するための語呂合わせとして「なんと素敵な平城京」と唱えるように、「あをによし奈良」と言っていたわけではなかろう。
このように考えてくれば、我々は、枕詞とは何かを問うてみたり、歌のなかで枕詞というシステムが様式性を確立しているから、そこからそのシステムについて解明しようといった方策は、実はあまり用を足さないと理解されよう。それぞれの枕詞はそれぞれに使われている。我々は、どうしてそのようにかかって次の言葉を導くのかの理由がわかり、文脈的に見ても居心地よく使われている事情が納得されなければその言葉はわかったことになっていないと直観的に思っている。日常的に言葉を使い、その言葉をもってわかる、わからないを決めているから直観が働くのである。すなわち、個々の枕詞についての問いに一つずつ答えられなければ、何ごとかわかった気になることなどできないのである。大きな議論ヘ向かうよりも、個々の枕詞の意味や淵源の解明こそが、すなわち、あ、おもしろい言い方をしているな、と気づくことだけが、我々にヤマトコトバの豊饒さを教えてくれるものである。そして、その意味や淵源なるものは、言語のなかにあるとしか言えない。なぜといって当時の人はヤマトコトバを使っているにすぎない。そのヤマトコトバの情況は、識字能力としては“片言”程度でしかなく、ほぼ無文字時代のものであった。その点を念頭に置けば、枕詞はブリコラージュ的に作られたとしか考えられない。廣岡氏が説かれたように言語遊戯のなかにある。言葉に対する感性が、我々のものとは違っており、別世界の異文化になっている。ヤマトコトバ、すなわち、上代人の思考の枠組みを知るためには、ひとつひとつパズルを解いていくことが必要とされる。王道はなく、それを拒絶しているのがヤマトコトバである。
(注2)「薦畳」、「畳薦」といった言葉からは、筵のように経糸一本ずつの、組織としては平織りのものではなく、畳のように経糸二本ずつに織っていたのではないかとも考えられるが詳細は不明である。
(注3)枕詞がどこまでを修辞しているかについては難しい問題である。白井2005.参照。
(注4)拙稿「「心もしのに」探究」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/f8f4a36774d4b3483ae9c62458d2c865参照。
(注5)枕詞「夏麻引く」は、①ウナカミ、ウナヒにかかる、②命にかかる、の二つのかかり方がある。①は夏麻を引いてそれを績むから、ウにかかるとする説と、夏麻を畑の畝から引いてくるから、ウナにかかるとみる説がある。わざわざ「夏麻」と季節を限っているところからは、畝を作って育てないと梅雨時に水浸しになって駄目になるからかとも思われる。また、海上潟にかかっているところから考えると、夏の麻から取った麻糸を釣糸にしていたこともあるかと考える。
②は万3255番歌の例で、夏麻を引いて糸に作るという意から、糸を意味するイにかかるとする説と、イノチにかかるのではなく、麻を傾けて刈るところからカタマケにかかるとする説もある。上の釣糸説からすれば、イノチ(命)は長く伸びるものとしてヲ(緒)とも呼ばれ、「己が命を 盗み殺せむと……」(記22)とある。釣りのヲ(緒)はヲ(麻)を使ったとても長い釣糸のことで、イノチ(命)という語がイ(息)+ノ(助詞)+チ(霊)の意と考えられることとよく適合しており、糸のことを考えに入れた前者の方向性がふさわしいと思われる。
(引用・参考文献)
大浦2017. 大浦誠士「枕詞と様式」『上代文学』第108号、上代文学会、2017年。
大浦2021. 大浦誠士「枕詞とは何か」上野誠・鉄野昌弘・村田右富実編『万葉集の基礎知識』KADOKAWA、令和3年。
西郷1995. 西郷信綱『古代の声 増補版』朝日新聞社、1995年。
白井2005. 白井伊津子『古代和歌における修辞』塙書房、2005年。
廣岡2005. 廣岡義隆『上代言語動態論』塙書房、2005年。
レヴィ=ストロース1976. クロード・レヴィ=ストロース著、大橋保夫訳『野生の思考』みすず書房、1976年。