新元号「令和」の出典として、万葉集巻五「梅花歌三十二首」の「序」の「于レ時初春令月、気淑風和。」があげられている。本稿では、その「序」を記した大伴旅人の真意について検討し、元号の出典秘話を紹介する。
梅の花の歌三十二首〈并せて序〉
天平二年正月十三日、帥老の宅に萃まりて宴会を申ぶ。時に初春令月、気は淑く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。加以、曙は嶺に雲を移し、松は羅を掛けて蓋を傾け、夕の岫に霧を結び、鳥は縠に封されて林に迷ふ。庭には新蝶舞ひ、空には故雁帰る。是に天を蓋にし地を坐にし、膝を促け觴を飛ばす。言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然として自ら放にし、快然として自ら足る。若し翰苑にあらずは、何を以ちてか情を攄べむ。詩は落梅の篇を紀す。古今夫れ何そ異ならむ。宜しく園梅を賦して、聊かに短詠を成すべし。
梅花歌卅二首幷序
天平二年正月十三日、萃二于帥老之宅一、申二宴會一也。于レ時初春令月、氣淑風和。梅披二鏡前之粉一、蘭薫二珮後之香一。加以、曙嶺移レ雲、松掛レ羅而傾レ盖、夕岫結レ霧、鳥封レ縠而迷レ林。庭舞二新蝶一、空歸二故鴈一。於レ是盖レ天坐レ地、促レ膝飛レ觴。忘二言一室之裏一、開二衿煙霞之外一。淡然自放、快然自足。若非二翰苑一、何以攄レ情。詩紀二落梅之篇一、古今夫何異矣。宜下賦二園梅一聊成中短詠上。
正月立ち 春の来らば かくしこそ 梅を招きつつ 楽しき経め 大弐紀卿(万815)
梅の花 今咲ける如 散り過ぎず 我が家の園に ありこせぬかも 少弐小野大夫(万816)
梅の花 咲きたる園の 青柳は 蘰にすべく 成りにけらずや 少弐粟田大夫(万817)
春されば まづ咲く屋戸の 梅の花 独り見つつや 春日暮らさむ 筑前守山上大夫(万818)
世の中は 恋繁しゑや かくしあらば 梅の花にも 成らましものを 豊後守大伴大夫(万819)
梅の花 今盛りなり 思ふどち 挿頭にしてな 今盛りなり 筑後守葛井大夫(万820)
青柳 梅との花を 折りかざし 飲みての後は 散りぬともよし 笠沙弥(万821)
我が園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも 主人(万822)
梅の花 散らくは何処 しかすがに この城の山に 雪は降りつつ 大監伴氏百代(万823)
梅の花 散らまく惜しみ 我が園の 竹の林に 鶯鳴くも 少監阿氏奥島(万824)
梅の花 咲きたる園の 青柳を 蘰にしつつ 遊び暮らさな 少監土氏百村(万825)
打ち靡く 春の柳と 我が屋戸の 梅の花とを 如何にか分かむ 大典史氏大原(万826)
春されば 木末隠れて 鶯そ 鳴きて去ぬなる 梅が下枝に 少典山氏若麿(万827)
人ごとに 折りかざしつつ 遊べども いや愛づらしき 梅の花かも 大判事丹氏麿(万828)
梅の花 咲きて散りなば 桜花 継ぎて咲くべく なりにてあらずや 薬師張氏福子(万829)
万代に 年は来経とも 梅の花 絶ゆることなく 咲き渡るべし 筑前介佐氏子首(万830)
春なれば 宜も咲きたる 梅の花 君を思ふと 夜寐も寝なくに 壱岐守板氏安麿(万831)
梅の花 折りてかざせる 諸人は 今日の間は 楽しくあるべし 神司荒氏稲布(万832)
年の端に 春の来らば かくしこそ 梅をかざして 楽しく飲まめ 大令史野氏宿奈麿(万833)
梅の花 今盛りなり 百鳥の 声の恋しき 春来たるらし 少令史田氏肥人(万834)
春さらば 逢はむと思ひし 梅の花 今日の遊びに 相見つるかも 薬師高氏義通(万835)
梅の花 手折りかざして 遊べども 飽き足らぬ日は 今日にしありけり 陰陽師磯氏法麿(万836)
春の野に 鳴くや鶯 懐けむと 我が家の園に 梅が花咲く 算師志氏大道(万837)
梅の花 散り乱ひたる 岡傍には 鶯鳴くも 春かた設けて 大隅目榎氏鉢麿(万838)
春の野に 霧り立ち渡り 降る雪と 人の見るまで 梅の花散る 筑前目田氏真人(万839)
春柳 蘰に折りし 梅の花 誰か浮べし 酒坏の上に 壱岐目村氏彼方(万840)
鶯の 声聞くなへに 梅の花 我ぎ家の園に 咲きて散る見ゆ 対馬目高氏老(万841)
我が屋戸の 梅の下枝に 遊びつつ 鶯鳴くも 散らまく惜しみ 薩摩目高氏海人(万842)
梅の花 折りかざしつつ 諸人の 遊ぶを見れば 都しぞ思ふ 土師氏御通(万843)
妹が家に 雪かも降ると 見るまでに ここだも乱ふ 梅の花かも 小野氏国堅(万844)
鶯の 待ちかてにせし 梅が花 散らずありこそ 思ふ子がため 筑前掾門氏石足(万845)
霞立つ 長き春日を かざせれど いや懐かしき 梅の花かも 小野氏淡理(万846)
梅は中国から移入された樹木であることがわかっている(注1)。弥生時代には来ていたようである。ここで問題なのは、人々は梅の花に関心がなかったらしい点である。記に「梅」字は皆無、紀には音仮名として多く用いられる。唯一例外は、「夜半を以て、梅を衘みて城を穿ちて、劇に営の中に入る。」(天武紀元年七月)とある部分であるが、口に咬ませる枚のことである。梅の木のことではない。
梅花の宴イメージジオラマ(大宰府展示館展示品)
「梅花歌三十二首」で、関心のない花を愛でて歌にしている。しかも正月半ばの宴で歌会として行われている。多くの注釈書に指摘されているとおり、王羲之が永和九年(353)三月三日に、会稽の蘭亭に名士や一族を招いて総勢42名で曲水の宴を開いたことを真似しようとした行事である(注2)。馴染みのないことをして、馴染みのない花をモチーフに歌会をしている。当然、「序」をもって説明しなければ、集中において意味不明の歌群になってしまう。くだくだしい「序」は必須である。歌会のお題として「序」は提示されていると考えられる。
「序」の内容と歌に歌われた事柄とを比較してみると、「序」にある蘭や鳥や蝶や雁は歌われていない。梅が主役である。ただし、梅の花の表現として考えた場合、おおむね凡作と言わざるを得ない(注3)。親しみがない花だから思い入れに欠け、情感あふれる表現ができなかったとも考えられるが、ならばわざわざ三十二首も記録する必要はない。宴会が開かれ歌が作られ、その一首一首に趣きがあるということではなく、宴会の席でお題が与えられて歌を作り合ったという出来事そのこと自体がおもしろく、全体をひっくるめて記録するに足ると思われたから万葉集に採録されていると考えることができる。
梅の花を歌うにあたり、他の景物との絡みがあるものは、蘰や挿頭にする青柳をからめるもの(万817・820・821・825・826・840)、梅の花が散るのを雪の降るのに見立てるように歌ったもの(万822・823・839・844)、梅に鶯の取り合わせを歌ったもの(万824・837・838・841・842・845)、梅の次は桜というもの(万829)、多くの鳥の声を歌うもの(万834)、酒を飲むことを絡めるもの(万821・833・840)がある。また、梅の花の咲いていること、盛りであることを主眼とするもの(万816・817・818・820・825・830・831・834・837)と、散っていくことを主眼とするもの(万822・823・824・838・839・842・844)がある。会稽蘭亭の曲水の酒宴に同じなのだから、歌詞に酒を取り込むことは不思議ではない。教養をひけらかして示そうとしている「序」なのだから、蘭亭つながりであることをわかりやすいように「蘭」を登場させているようにも見受けられる。実際、「序」の「蘭薫二珮後之香一。加以、曙嶺移レ雲、松掛レ羅而傾レ盖、夕岫結レ霧、鳥封レ縠而迷レ林。庭舞二新蝶一、空帰二故鴈一。」部分に関わりのある歌は作られていない。
自然を観察したとき、梅の花とともにウグイスの姿を目にすることはない。見かけるのはメジロである。ホーホケキョというウグイスの鳴き声を聞くのも、梅の花が終わってからが常である。別名を春告鳥とも呼ばれるウグイスが鳴いている場所は、「我が園の竹の林」(万824)、「春の野」(万837)、「岡傍」(万838)、「我が屋戸の梅の下枝」(万842)を特定され、万841・845番歌では不明である。鶯の鳴き声には、「ひとく」(古今集1011)と聞いて「人来」と掛詞とする例が見られるが、この歌群の解釈には当てはまりそうにない。和名抄に、「鸎 陸詞に曰はく、鸎〈烏茎反、漢語抄に春鳥子は宇久比須と云ふ〉は春鳥なりといふ。」とある。序に記されているお題に、「于レ時初春令月」の初春であることをもって鶯がとり上げられていると考えられる(注4)。初春にして令き月なる時というものを想定しているらしいと捉えられている。
このことは、青柳をとり上げた歌にも当てはまる。さまざまな樹木のうち、春一番に花咲くのは梅、芽吹くのは柳であり、柔らかい枝ゆえ蘰にするのによくかなっている。冬場には青々した植物は乏しいから、装身具に事欠いていたのが、春となってようやくおしゃれを楽しめるということから選ばれていると考えられる。むろん、実際に青柳として芽吹くのはもう少し後のことである。「于レ時初春令月」と言っているから、それに合わせて想像しているのである。
梅の花を愛でるという風習がなく、漢籍の知識を得て頭でっかちに作り上げているのが、正月十三日の宴での歌会である。問題は、梅の花は咲くことを重点に置くのがふさわしいか、散ることを重点に置くのがふさわしいかである。歌会のお題となる「序」の終盤に決意表明が書かれている。「詩紀二落梅之篇一、古今夫何異矣。宜下賦二園梅一聊成中短詠上。」。中国の詩に「落梅之篇」がある。それを意識して「短詠」しようというのだから、散ることに重点が置かれた歌が求められているはずである(注5)。そして、この「序」は、宴会の主催者が考えたものとするのが適当である(注6)。歌群中には、万822番歌に「主人」の歌が載る。太宰帥であった大伴旅人である。万849~852番歌の「後追和二梅歌一四首」も旅人の作と考えられている。歌会のお題を作成した人物が歌を詠じているのだから、その諸歌を吟味すれば、「序」に謂わんとしていた歌会のお題の趣意を見定めることができるはずである。
我が園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも 主人(万822)
後に追ひて梅の歌に和へたる四首
残りたる 雪に交れる 梅の花 早くな散りそ 雪は消ぬとも(万849)
雪の色を 奪ひて咲ける 梅の花 今盛りなり 見む人もがも(万850)
我が屋戸に 盛りに咲ける 梅の花 散るべくなりぬ 見む人もがも (万851)
梅の花 夢に語らく 風流びたる 花と吾思ふ 酒に浮べこそ〈一に云はく、いたづらに 吾を散らすな 酒に浮べこそ〉(万852)
万851番歌に、「盛りに咲ける梅の花散るべくなりぬ」とある。咲くことよりも散ることを重点に歌うことが求められていたとわかる。そのことは、万822・849・850番歌に、梅の花を雪と譬えることに知れる。梅の花が散るさまと雪が降るさまとを同じ白い切片が空中を舞い落ちることと捉えている。天平二年正月十三日は、太陽暦では2月8日に当たるとされる。実際には散るにはまだ早いかもしれないが、観念の遊びとして蘭亭の曲水の宴を真似て風雅の楽しみをしているのだから、機知的にそう考えている。「于レ時初春令月」なのである。
諸注釈書には、一様に、「令月」をよき月のことと解釈されている。以下に見られるように例があるから、「令月」をよき月と捉えることに問題はないように感じられるかもしれない。
令月吉日、始加二元服一。(儀礼・士冠礼)
今、令月吉日、宗三-祀光武皇帝於二明堂一、以配二五帝一。(後漢書・明帝紀・二年正月)
令月簡二吉日一、啓殯将二祖行一。(北堂書鈔巻九十二・挽歌三十三・繆襲・挽歌辞)
嘉辰令月歓無レ極 万歳千秋楽未レ央〈雑言詩 謝偃〉(和漢朗詠集・祝(773))
しかし、「序」のこの部分の典拠として、諸注釈書に、文選に所載の張衡・帰田賦があげられている。
於レ是仲春令月、時和気清。(帰田賦)
于レ時初春令月、気淑風和。(序)
これは典拠である。帰田賦の「令月」の意味は、二月は仲陽だから令月というのが妥当である(注7)。「仲春」はそれだけで二月のことである。「仲春令月」=「二月令月」とだぶっているのだから、仲陽の説明付加形容として加えられていると考えられる。他にも例はある。
夾鐘二月 伏以、節応二佳辰一、時登二令月一。和風払迴、椒気浮レ空(昭明太子・錦帯書・十二月啓)
すると、「序」に「初春令月」とするのは、ちょっとした矛盾、ないしは、トリックであると理解される。会稽蘭亭の曲水宴は、三月三日、上巳に行われた。王羲之・蘭亭序には、「永和九年、歳在二癸丑一。暮春之初、会二于会稽山陰之蘭亭一。修二禊事一也。群賢畢至、少長咸集。此地有二崇山峻嶺、茂林脩竹一。又有二清流激湍一、映二-帯左右一。引以為二流觴曲水一、列二-坐其次一。雖レ無二糸竹管絃之盛一、一觴一詠、亦足三以暢二-叙幽情一。是日也、天朗気清、恵風和暢。……」とある。対して大伴旅人が開いた宴席はまだ正月十三日、禊をする行事の日でもなく、寒い日に短詠をするという。冗談のような設定だから、深い訳があって行われていると考えるべきである。蘭亭序に、「暮春之初」の「暮春」は三月、「初」は三日を表す。それが「初春令月」となっている。曰く因縁を感じなければならない。芸文類聚では、晋・王讚・三月三日詩に、「招揺啓レ運、寒暑代新。亹亹不レ舎、如二彼行雲一。猗猗季月、穆穆和春。……」、晋・張華・上巳篇に、「仁風導二和気一、勾芒御二昊春一。姑洗応二時月一、元巳啓二良辰一。密雲蔭二朝日一、零雨灑二微塵一。飛軒遊二九野一、置酒会二衆賓一。」とある。零るのは雨である。
大伴旅人は、二月ではないのに「令月」であると言っておもしろがっている。「令」は「零」に通じる。漢書に「丁令」とあるのは「丁零」とも記される。陳湯伝の顔師古注に「令与レ零同。」とある。丁霊とも、後には勅勒とも書くモンゴル北方の地である。つまり、「令」=「零」とは、雪が「零る」意である。正月が令月で梅の花を詠むのであれば、雪の零ることに譬えることこそ、もっともお題にかなった歌ということができる。雪を使った歌は、自作の万822番歌のほか、万823・839・844番歌に見られ、「後追和二梅歌一四首」にも、万849・850番歌の2首に見られる。それがお題に対して完全に正解の歌ということになる。
「令月」=「零月」にして「落梅之篇」と言っているのだから、雪のように梅の花びらが「零る」ことを歌うべきで、咲くことを歌っていた人たちはお題にかなっていない不正解の作ということになる(注8)。それを正して謎解きするために、「我が屋戸に盛りに咲ける梅の花散るべくなりぬ見む人もがも」(万851)と歌っている。もちろん、出席して歌を披露した人からは、そりゃないよという反論が起こるであろう。おそらくはあまり咲いてもいない梅の花について歌を作らされたのであろうからである。洒落がきつ過ぎないか。
旅人はこう答えている。わかってないね、すべては空想の産物だ。文明のある中国から新しく梅の木が入ってきていて、貴人の邸宅などの庭に囲って植えられている。花を愛でて漢詩に代わるヤマトコトバの歌を作らなくて何としよう。それが風雅というものだろう。目の前の梅の花の咲きっぷりなど最初から問題ではないのだ。絵空事だって? そうさ、すべては頭の中の知識の問題だ。夢の中の風流、会稽蘭亭の曲水の酒宴になぞらえた宴を催したのだから。
梅の花 夢に語らく 風流びたる 花と吾思ふ 酒に浮べこそ〈一に云はく、いたづらに 吾を散らすな 酒に浮べこそ〉(万852)
梅の花を擬人化して最後の歌として締めくくっている。雪の零る様は直接には表されていないが、おそらくこれは濁り酒で酒粕の浮き沈むところを雪が舞うことに見立てたものと思われる。それまでの歌の凡庸さを一気に突き抜けて、異次元の出来となっている。風流を歌おうとしたお題の設定、枠組(frame)を再確認するために据えられている。
これらの歌群には後日談のような歌がもう一首ある。事の次第を記した大伴旅人の手紙を受け取った吉田宜がこたえた歌である。
宜、啓す。伏して四月六日の賜書を奉り、跪きて封函を開き、拝みて芳藻を読む。心神は開朗にして泰初が月を懐くに似、鄙懐除袪して楽広が天を披くが若し。辺城に羈旅し、古旧を懐ひて志を傷ましめ、年矢停らず。平生を憶ひて涙を落すが若きに至りては、但達人の排に安みし、君子の悶無きのみ。 伏して冀はくは、朝には翟を懐けし化を宣べ、暮には亀を放ちし術を存し、張趙を百代に架え、松喬を千齢に追はむを。兼ねて垂示を奉るに、梅苑の芳席に群英の藻を摛べ、松浦の玉潭に仙媛の贈答せるは、杏壇各言の作に類し、衡皐税駕の篇に疑ふ。耽読吟諷し、戚謝歓怡す。宜が主を恋ふる誠は、誠、犬馬に逾え、徳を仰ぐ心は、心葵藿に同じ。而も碧海は地を分ち、白雲は天を隔て、徒らに傾延を積む。何に労緒を慰めむ。孟秋節に膺り、伏して願はくは万祐の日に新たならむを。今相撲部領使に因りて、謹みて片紙を付す。宜、謹みて啓す。 不次。
諸人の梅花の歌に和へ奉れる一首
後れ居て 長恋ひせずは 御園生の 梅の花にも ならましものを(万864)
この歌は、文法的に「ズハ」の構文であるとされてきたが、誤りである(注9)。全体の構造は、助詞「ハ」によって、P≒Qであることを示している。
「後れ居て長恋ひせず」ハ「(梅の花にならませば)御園生の梅の花にもならまし」モノヲ
構造上の意味は、置いてけぼりを食わされて宴に参加できずに、長く慕いつづけることがなく無関心になるのは、どういうことかというと、もし仮に自分が梅の花になるのであれば、もちろんそんなことはないし、望んでもいないけれど、よりによって御屋敷の庭の梅の花になりたいものだなあ、というのと同じことである、ということである。
歌の作者の吉田宜は、梅花を詠ずる歌宴に参加できなかった。後日、手紙で宴の模様を知り、こたえる歌として作っている。
吉田宜が手紙を受け取った時には、設定として散りつつあるとされていた大伴旅人邸の梅の花は、もうみな散ってしまったものと考えなければならない。実際にどうであるかは別問題で、旅人が設定したお題に従って考えるならという意味である。宴から日が経っている今、完全に散ってしまって見る影もないはずである。ウメの特徴として、サクラのように花が咲いた後にすぐに葉が出てくるわけではなく、一時的ではあるがまるで枯れたかのような風情となる。風流ぶって楽しむことなどできない。歌会の設定にない他のところの梅は、ちょぼちょぼとでも咲いていたのであろう。すなわち、今、旅人邸の「御園生の梅の花」は梅の花として最悪の花なのである。そんなみじめな梅の花にはなりたくない。
したがって、歌の真意は、「ハ」の前後、PとQの双方を反転させたものである。宴に参加したかったのに参加できずに残念でした。季節をわきまえずに散ってしまったご邸宅のお庭の梅の花になどならないで、咲いているのを愛でられて楽しめるものになりたいです、と言っている。花が咲いていれば人目につく。出席できずにお目にかかることがなかったことへの詫びにもなっている。万862番歌は、大伴旅人の「梅花歌」の歌会を見事に承けた歌となっている。
以上が、「梅花歌三十二首〈并序〉」の「序」に書いてある「于レ時初春令月、気淑風和。」の真意である。この部分が、西暦2019年5月から本邦において元号として用いられている「令和」の出典とされている。日本政府は、「令和」の英訳に Beautiful Harmony と説明している。古典を換骨奪胎しながら新しい意味に作りかえることは詩文の伝統である。そのもととなった万葉集の「序」において、大伴旅人は令が零に通じることを意図して作文していた。大伴旅人的「令和」の英訳は、The snow flickers and the wind calms down. が正しいといえる(注10)。
(注)
(注1)澤瀉1959.に、「梅花の作は既に巻三に五首、巻四に三首見えたが、作歌年月から云へば、その最初に出てゐた大伴百代の作(三・三九二)とここの作とが相前後するものと思はれ、他はむしろ後の作と考へてよいであらう。今集中の梅花を詠み入れた作の数を見ると、……数に於いては植物としては萩に次ぐ多数であるが、巻一、二の古い巻や巻十一乃至十六の古歌謡や民謡を含む巻には一首もないといふ事は、この植物が舶来のものであつて、まだ十分国民になじまなかつた事を示すものである。その梅がまづ漢土に近い太宰府に移植せられ、この一聯の作となつた事は当然であり、巻十七にある六首の如きもこの折の追憶の作である事が注意せられる。」(97頁、漢字の旧字体は改めた。)とある。
(注2)ほかに、この「序」には、構成面や語句では初唐の詩序の影響も指摘されているが、基本、蘭亭序に倣うものである。やっていることが酒宴での歌会だからである。伊藤1996.に、席次の推定が行われている。
(注3)表現に幅がないのは、宴会の席での歌会のモチーフが「梅花」と決まっているからで、語句や発想が類似、重複するのは当然のこととする指摘がある。しかし、歌会のあり方がお題に忠実に正解となる答えを出そうとするもの、いわばクイズに答えようとするものであったとすると、必然的に表現が収斂していくことも予想される。
(注4)日本文学に頻出する梅と鶯の取り合わせは、万842番歌を嚆矢とするものか。ただし、それは今日から振り返って見てとれるということである。「これら三十二首の梅花の歌によって、和歌が花鳥風月や雪月花の美学を獲得してゆく過程が知られよう。」(辰巳2020.145頁)と評するのは、この歌群の解釈からははみ出したもので、クイズの答えを探って間違えていただけである。
(注5)梶川2013.に、「三十二首はしばしば〈散る梅〉が詠まれているが、……「落梅の篇」……に応じたもので、楽府……の「梅花落」の詩群を基にしたものだとされる。つまり、現実にウメが散っていようがいまいが、この日の趣向としては、そう詠むべきものだったのだ。」(167頁)と指摘するが、そうでない歌が詠まれていることについて残念賞であるとは指摘していない。辰巳1987.に、「この「梅花の歌」の多くが梅の花の「散る」ことを詠むという事実」から、「中国楽府「梅花落」を前提とする、共通の知識を以てこの歌宴に臨んだと考えることは間違いあるまい。」(364頁)とするが、間違いである。
(注6)「序」の作者を大伴旅人以外に求める意見もあるが、「主人」とある太宰帥が「序」を作って管轄下の役人らを招いた宴席を開いていると考えるのが自然である。
(注7)文選の解説書にこのように記されるものは管見に入らない。
(注8)柳が登場するのでは「風和」に沿わないし、「故雁」ならともかく鶯など意味不明で、いずれも論外である。なお、万葉集で「零」字をフルと訓む例はとても多い。
(注9)拙稿「万葉集「恋ひつつあらずは」の歌について─「ズハ」の用法を中心に─」参照。
(注10)「令和」という元号が国書を典拠としていることに、殊更な意味合いがあるとは考えられない。天武朝に「朱鳥」とする元号があり、訓読みしている。
(引用文献)
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 三』集英社、1996年。
澤瀉1959. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 第五』中央公論社、昭和34年。
梶川2013. 梶川信行『万葉集の読み方─天平の宴席歌─』翰林書房、2013年。
辰巳1987. 辰巳正明『万葉集と中国文学』笠間書院、昭和62年。
辰巳2020. 辰巳正明『大伴旅人─「令和」を開いた万葉集の歌人─』新典社、2020年。
※本稿は、2019年8月稿を2021年3月に補足し、2023年8月に万852番歌部分を追加してルビ化したものである。
梅の花の歌三十二首〈并せて序〉
天平二年正月十三日、帥老の宅に萃まりて宴会を申ぶ。時に初春令月、気は淑く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。加以、曙は嶺に雲を移し、松は羅を掛けて蓋を傾け、夕の岫に霧を結び、鳥は縠に封されて林に迷ふ。庭には新蝶舞ひ、空には故雁帰る。是に天を蓋にし地を坐にし、膝を促け觴を飛ばす。言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然として自ら放にし、快然として自ら足る。若し翰苑にあらずは、何を以ちてか情を攄べむ。詩は落梅の篇を紀す。古今夫れ何そ異ならむ。宜しく園梅を賦して、聊かに短詠を成すべし。
梅花歌卅二首幷序
天平二年正月十三日、萃二于帥老之宅一、申二宴會一也。于レ時初春令月、氣淑風和。梅披二鏡前之粉一、蘭薫二珮後之香一。加以、曙嶺移レ雲、松掛レ羅而傾レ盖、夕岫結レ霧、鳥封レ縠而迷レ林。庭舞二新蝶一、空歸二故鴈一。於レ是盖レ天坐レ地、促レ膝飛レ觴。忘二言一室之裏一、開二衿煙霞之外一。淡然自放、快然自足。若非二翰苑一、何以攄レ情。詩紀二落梅之篇一、古今夫何異矣。宜下賦二園梅一聊成中短詠上。
正月立ち 春の来らば かくしこそ 梅を招きつつ 楽しき経め 大弐紀卿(万815)
梅の花 今咲ける如 散り過ぎず 我が家の園に ありこせぬかも 少弐小野大夫(万816)
梅の花 咲きたる園の 青柳は 蘰にすべく 成りにけらずや 少弐粟田大夫(万817)
春されば まづ咲く屋戸の 梅の花 独り見つつや 春日暮らさむ 筑前守山上大夫(万818)
世の中は 恋繁しゑや かくしあらば 梅の花にも 成らましものを 豊後守大伴大夫(万819)
梅の花 今盛りなり 思ふどち 挿頭にしてな 今盛りなり 筑後守葛井大夫(万820)
青柳 梅との花を 折りかざし 飲みての後は 散りぬともよし 笠沙弥(万821)
我が園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも 主人(万822)
梅の花 散らくは何処 しかすがに この城の山に 雪は降りつつ 大監伴氏百代(万823)
梅の花 散らまく惜しみ 我が園の 竹の林に 鶯鳴くも 少監阿氏奥島(万824)
梅の花 咲きたる園の 青柳を 蘰にしつつ 遊び暮らさな 少監土氏百村(万825)
打ち靡く 春の柳と 我が屋戸の 梅の花とを 如何にか分かむ 大典史氏大原(万826)
春されば 木末隠れて 鶯そ 鳴きて去ぬなる 梅が下枝に 少典山氏若麿(万827)
人ごとに 折りかざしつつ 遊べども いや愛づらしき 梅の花かも 大判事丹氏麿(万828)
梅の花 咲きて散りなば 桜花 継ぎて咲くべく なりにてあらずや 薬師張氏福子(万829)
万代に 年は来経とも 梅の花 絶ゆることなく 咲き渡るべし 筑前介佐氏子首(万830)
春なれば 宜も咲きたる 梅の花 君を思ふと 夜寐も寝なくに 壱岐守板氏安麿(万831)
梅の花 折りてかざせる 諸人は 今日の間は 楽しくあるべし 神司荒氏稲布(万832)
年の端に 春の来らば かくしこそ 梅をかざして 楽しく飲まめ 大令史野氏宿奈麿(万833)
梅の花 今盛りなり 百鳥の 声の恋しき 春来たるらし 少令史田氏肥人(万834)
春さらば 逢はむと思ひし 梅の花 今日の遊びに 相見つるかも 薬師高氏義通(万835)
梅の花 手折りかざして 遊べども 飽き足らぬ日は 今日にしありけり 陰陽師磯氏法麿(万836)
春の野に 鳴くや鶯 懐けむと 我が家の園に 梅が花咲く 算師志氏大道(万837)
梅の花 散り乱ひたる 岡傍には 鶯鳴くも 春かた設けて 大隅目榎氏鉢麿(万838)
春の野に 霧り立ち渡り 降る雪と 人の見るまで 梅の花散る 筑前目田氏真人(万839)
春柳 蘰に折りし 梅の花 誰か浮べし 酒坏の上に 壱岐目村氏彼方(万840)
鶯の 声聞くなへに 梅の花 我ぎ家の園に 咲きて散る見ゆ 対馬目高氏老(万841)
我が屋戸の 梅の下枝に 遊びつつ 鶯鳴くも 散らまく惜しみ 薩摩目高氏海人(万842)
梅の花 折りかざしつつ 諸人の 遊ぶを見れば 都しぞ思ふ 土師氏御通(万843)
妹が家に 雪かも降ると 見るまでに ここだも乱ふ 梅の花かも 小野氏国堅(万844)
鶯の 待ちかてにせし 梅が花 散らずありこそ 思ふ子がため 筑前掾門氏石足(万845)
霞立つ 長き春日を かざせれど いや懐かしき 梅の花かも 小野氏淡理(万846)
梅は中国から移入された樹木であることがわかっている(注1)。弥生時代には来ていたようである。ここで問題なのは、人々は梅の花に関心がなかったらしい点である。記に「梅」字は皆無、紀には音仮名として多く用いられる。唯一例外は、「夜半を以て、梅を衘みて城を穿ちて、劇に営の中に入る。」(天武紀元年七月)とある部分であるが、口に咬ませる枚のことである。梅の木のことではない。
梅花の宴イメージジオラマ(大宰府展示館展示品)
「梅花歌三十二首」で、関心のない花を愛でて歌にしている。しかも正月半ばの宴で歌会として行われている。多くの注釈書に指摘されているとおり、王羲之が永和九年(353)三月三日に、会稽の蘭亭に名士や一族を招いて総勢42名で曲水の宴を開いたことを真似しようとした行事である(注2)。馴染みのないことをして、馴染みのない花をモチーフに歌会をしている。当然、「序」をもって説明しなければ、集中において意味不明の歌群になってしまう。くだくだしい「序」は必須である。歌会のお題として「序」は提示されていると考えられる。
「序」の内容と歌に歌われた事柄とを比較してみると、「序」にある蘭や鳥や蝶や雁は歌われていない。梅が主役である。ただし、梅の花の表現として考えた場合、おおむね凡作と言わざるを得ない(注3)。親しみがない花だから思い入れに欠け、情感あふれる表現ができなかったとも考えられるが、ならばわざわざ三十二首も記録する必要はない。宴会が開かれ歌が作られ、その一首一首に趣きがあるということではなく、宴会の席でお題が与えられて歌を作り合ったという出来事そのこと自体がおもしろく、全体をひっくるめて記録するに足ると思われたから万葉集に採録されていると考えることができる。
梅の花を歌うにあたり、他の景物との絡みがあるものは、蘰や挿頭にする青柳をからめるもの(万817・820・821・825・826・840)、梅の花が散るのを雪の降るのに見立てるように歌ったもの(万822・823・839・844)、梅に鶯の取り合わせを歌ったもの(万824・837・838・841・842・845)、梅の次は桜というもの(万829)、多くの鳥の声を歌うもの(万834)、酒を飲むことを絡めるもの(万821・833・840)がある。また、梅の花の咲いていること、盛りであることを主眼とするもの(万816・817・818・820・825・830・831・834・837)と、散っていくことを主眼とするもの(万822・823・824・838・839・842・844)がある。会稽蘭亭の曲水の酒宴に同じなのだから、歌詞に酒を取り込むことは不思議ではない。教養をひけらかして示そうとしている「序」なのだから、蘭亭つながりであることをわかりやすいように「蘭」を登場させているようにも見受けられる。実際、「序」の「蘭薫二珮後之香一。加以、曙嶺移レ雲、松掛レ羅而傾レ盖、夕岫結レ霧、鳥封レ縠而迷レ林。庭舞二新蝶一、空帰二故鴈一。」部分に関わりのある歌は作られていない。
自然を観察したとき、梅の花とともにウグイスの姿を目にすることはない。見かけるのはメジロである。ホーホケキョというウグイスの鳴き声を聞くのも、梅の花が終わってからが常である。別名を春告鳥とも呼ばれるウグイスが鳴いている場所は、「我が園の竹の林」(万824)、「春の野」(万837)、「岡傍」(万838)、「我が屋戸の梅の下枝」(万842)を特定され、万841・845番歌では不明である。鶯の鳴き声には、「ひとく」(古今集1011)と聞いて「人来」と掛詞とする例が見られるが、この歌群の解釈には当てはまりそうにない。和名抄に、「鸎 陸詞に曰はく、鸎〈烏茎反、漢語抄に春鳥子は宇久比須と云ふ〉は春鳥なりといふ。」とある。序に記されているお題に、「于レ時初春令月」の初春であることをもって鶯がとり上げられていると考えられる(注4)。初春にして令き月なる時というものを想定しているらしいと捉えられている。
このことは、青柳をとり上げた歌にも当てはまる。さまざまな樹木のうち、春一番に花咲くのは梅、芽吹くのは柳であり、柔らかい枝ゆえ蘰にするのによくかなっている。冬場には青々した植物は乏しいから、装身具に事欠いていたのが、春となってようやくおしゃれを楽しめるということから選ばれていると考えられる。むろん、実際に青柳として芽吹くのはもう少し後のことである。「于レ時初春令月」と言っているから、それに合わせて想像しているのである。
梅の花を愛でるという風習がなく、漢籍の知識を得て頭でっかちに作り上げているのが、正月十三日の宴での歌会である。問題は、梅の花は咲くことを重点に置くのがふさわしいか、散ることを重点に置くのがふさわしいかである。歌会のお題となる「序」の終盤に決意表明が書かれている。「詩紀二落梅之篇一、古今夫何異矣。宜下賦二園梅一聊成中短詠上。」。中国の詩に「落梅之篇」がある。それを意識して「短詠」しようというのだから、散ることに重点が置かれた歌が求められているはずである(注5)。そして、この「序」は、宴会の主催者が考えたものとするのが適当である(注6)。歌群中には、万822番歌に「主人」の歌が載る。太宰帥であった大伴旅人である。万849~852番歌の「後追和二梅歌一四首」も旅人の作と考えられている。歌会のお題を作成した人物が歌を詠じているのだから、その諸歌を吟味すれば、「序」に謂わんとしていた歌会のお題の趣意を見定めることができるはずである。
我が園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも 主人(万822)
後に追ひて梅の歌に和へたる四首
残りたる 雪に交れる 梅の花 早くな散りそ 雪は消ぬとも(万849)
雪の色を 奪ひて咲ける 梅の花 今盛りなり 見む人もがも(万850)
我が屋戸に 盛りに咲ける 梅の花 散るべくなりぬ 見む人もがも (万851)
梅の花 夢に語らく 風流びたる 花と吾思ふ 酒に浮べこそ〈一に云はく、いたづらに 吾を散らすな 酒に浮べこそ〉(万852)
万851番歌に、「盛りに咲ける梅の花散るべくなりぬ」とある。咲くことよりも散ることを重点に歌うことが求められていたとわかる。そのことは、万822・849・850番歌に、梅の花を雪と譬えることに知れる。梅の花が散るさまと雪が降るさまとを同じ白い切片が空中を舞い落ちることと捉えている。天平二年正月十三日は、太陽暦では2月8日に当たるとされる。実際には散るにはまだ早いかもしれないが、観念の遊びとして蘭亭の曲水の宴を真似て風雅の楽しみをしているのだから、機知的にそう考えている。「于レ時初春令月」なのである。
諸注釈書には、一様に、「令月」をよき月のことと解釈されている。以下に見られるように例があるから、「令月」をよき月と捉えることに問題はないように感じられるかもしれない。
令月吉日、始加二元服一。(儀礼・士冠礼)
今、令月吉日、宗三-祀光武皇帝於二明堂一、以配二五帝一。(後漢書・明帝紀・二年正月)
令月簡二吉日一、啓殯将二祖行一。(北堂書鈔巻九十二・挽歌三十三・繆襲・挽歌辞)
嘉辰令月歓無レ極 万歳千秋楽未レ央〈雑言詩 謝偃〉(和漢朗詠集・祝(773))
しかし、「序」のこの部分の典拠として、諸注釈書に、文選に所載の張衡・帰田賦があげられている。
於レ是仲春令月、時和気清。(帰田賦)
于レ時初春令月、気淑風和。(序)
これは典拠である。帰田賦の「令月」の意味は、二月は仲陽だから令月というのが妥当である(注7)。「仲春」はそれだけで二月のことである。「仲春令月」=「二月令月」とだぶっているのだから、仲陽の説明付加形容として加えられていると考えられる。他にも例はある。
夾鐘二月 伏以、節応二佳辰一、時登二令月一。和風払迴、椒気浮レ空(昭明太子・錦帯書・十二月啓)
すると、「序」に「初春令月」とするのは、ちょっとした矛盾、ないしは、トリックであると理解される。会稽蘭亭の曲水宴は、三月三日、上巳に行われた。王羲之・蘭亭序には、「永和九年、歳在二癸丑一。暮春之初、会二于会稽山陰之蘭亭一。修二禊事一也。群賢畢至、少長咸集。此地有二崇山峻嶺、茂林脩竹一。又有二清流激湍一、映二-帯左右一。引以為二流觴曲水一、列二-坐其次一。雖レ無二糸竹管絃之盛一、一觴一詠、亦足三以暢二-叙幽情一。是日也、天朗気清、恵風和暢。……」とある。対して大伴旅人が開いた宴席はまだ正月十三日、禊をする行事の日でもなく、寒い日に短詠をするという。冗談のような設定だから、深い訳があって行われていると考えるべきである。蘭亭序に、「暮春之初」の「暮春」は三月、「初」は三日を表す。それが「初春令月」となっている。曰く因縁を感じなければならない。芸文類聚では、晋・王讚・三月三日詩に、「招揺啓レ運、寒暑代新。亹亹不レ舎、如二彼行雲一。猗猗季月、穆穆和春。……」、晋・張華・上巳篇に、「仁風導二和気一、勾芒御二昊春一。姑洗応二時月一、元巳啓二良辰一。密雲蔭二朝日一、零雨灑二微塵一。飛軒遊二九野一、置酒会二衆賓一。」とある。零るのは雨である。
大伴旅人は、二月ではないのに「令月」であると言っておもしろがっている。「令」は「零」に通じる。漢書に「丁令」とあるのは「丁零」とも記される。陳湯伝の顔師古注に「令与レ零同。」とある。丁霊とも、後には勅勒とも書くモンゴル北方の地である。つまり、「令」=「零」とは、雪が「零る」意である。正月が令月で梅の花を詠むのであれば、雪の零ることに譬えることこそ、もっともお題にかなった歌ということができる。雪を使った歌は、自作の万822番歌のほか、万823・839・844番歌に見られ、「後追和二梅歌一四首」にも、万849・850番歌の2首に見られる。それがお題に対して完全に正解の歌ということになる。
「令月」=「零月」にして「落梅之篇」と言っているのだから、雪のように梅の花びらが「零る」ことを歌うべきで、咲くことを歌っていた人たちはお題にかなっていない不正解の作ということになる(注8)。それを正して謎解きするために、「我が屋戸に盛りに咲ける梅の花散るべくなりぬ見む人もがも」(万851)と歌っている。もちろん、出席して歌を披露した人からは、そりゃないよという反論が起こるであろう。おそらくはあまり咲いてもいない梅の花について歌を作らされたのであろうからである。洒落がきつ過ぎないか。
旅人はこう答えている。わかってないね、すべては空想の産物だ。文明のある中国から新しく梅の木が入ってきていて、貴人の邸宅などの庭に囲って植えられている。花を愛でて漢詩に代わるヤマトコトバの歌を作らなくて何としよう。それが風雅というものだろう。目の前の梅の花の咲きっぷりなど最初から問題ではないのだ。絵空事だって? そうさ、すべては頭の中の知識の問題だ。夢の中の風流、会稽蘭亭の曲水の酒宴になぞらえた宴を催したのだから。
梅の花 夢に語らく 風流びたる 花と吾思ふ 酒に浮べこそ〈一に云はく、いたづらに 吾を散らすな 酒に浮べこそ〉(万852)
梅の花を擬人化して最後の歌として締めくくっている。雪の零る様は直接には表されていないが、おそらくこれは濁り酒で酒粕の浮き沈むところを雪が舞うことに見立てたものと思われる。それまでの歌の凡庸さを一気に突き抜けて、異次元の出来となっている。風流を歌おうとしたお題の設定、枠組(frame)を再確認するために据えられている。
これらの歌群には後日談のような歌がもう一首ある。事の次第を記した大伴旅人の手紙を受け取った吉田宜がこたえた歌である。
宜、啓す。伏して四月六日の賜書を奉り、跪きて封函を開き、拝みて芳藻を読む。心神は開朗にして泰初が月を懐くに似、鄙懐除袪して楽広が天を披くが若し。辺城に羈旅し、古旧を懐ひて志を傷ましめ、年矢停らず。平生を憶ひて涙を落すが若きに至りては、但達人の排に安みし、君子の悶無きのみ。 伏して冀はくは、朝には翟を懐けし化を宣べ、暮には亀を放ちし術を存し、張趙を百代に架え、松喬を千齢に追はむを。兼ねて垂示を奉るに、梅苑の芳席に群英の藻を摛べ、松浦の玉潭に仙媛の贈答せるは、杏壇各言の作に類し、衡皐税駕の篇に疑ふ。耽読吟諷し、戚謝歓怡す。宜が主を恋ふる誠は、誠、犬馬に逾え、徳を仰ぐ心は、心葵藿に同じ。而も碧海は地を分ち、白雲は天を隔て、徒らに傾延を積む。何に労緒を慰めむ。孟秋節に膺り、伏して願はくは万祐の日に新たならむを。今相撲部領使に因りて、謹みて片紙を付す。宜、謹みて啓す。 不次。
諸人の梅花の歌に和へ奉れる一首
後れ居て 長恋ひせずは 御園生の 梅の花にも ならましものを(万864)
この歌は、文法的に「ズハ」の構文であるとされてきたが、誤りである(注9)。全体の構造は、助詞「ハ」によって、P≒Qであることを示している。
「後れ居て長恋ひせず」ハ「(梅の花にならませば)御園生の梅の花にもならまし」モノヲ
構造上の意味は、置いてけぼりを食わされて宴に参加できずに、長く慕いつづけることがなく無関心になるのは、どういうことかというと、もし仮に自分が梅の花になるのであれば、もちろんそんなことはないし、望んでもいないけれど、よりによって御屋敷の庭の梅の花になりたいものだなあ、というのと同じことである、ということである。
歌の作者の吉田宜は、梅花を詠ずる歌宴に参加できなかった。後日、手紙で宴の模様を知り、こたえる歌として作っている。
吉田宜が手紙を受け取った時には、設定として散りつつあるとされていた大伴旅人邸の梅の花は、もうみな散ってしまったものと考えなければならない。実際にどうであるかは別問題で、旅人が設定したお題に従って考えるならという意味である。宴から日が経っている今、完全に散ってしまって見る影もないはずである。ウメの特徴として、サクラのように花が咲いた後にすぐに葉が出てくるわけではなく、一時的ではあるがまるで枯れたかのような風情となる。風流ぶって楽しむことなどできない。歌会の設定にない他のところの梅は、ちょぼちょぼとでも咲いていたのであろう。すなわち、今、旅人邸の「御園生の梅の花」は梅の花として最悪の花なのである。そんなみじめな梅の花にはなりたくない。
したがって、歌の真意は、「ハ」の前後、PとQの双方を反転させたものである。宴に参加したかったのに参加できずに残念でした。季節をわきまえずに散ってしまったご邸宅のお庭の梅の花になどならないで、咲いているのを愛でられて楽しめるものになりたいです、と言っている。花が咲いていれば人目につく。出席できずにお目にかかることがなかったことへの詫びにもなっている。万862番歌は、大伴旅人の「梅花歌」の歌会を見事に承けた歌となっている。
以上が、「梅花歌三十二首〈并序〉」の「序」に書いてある「于レ時初春令月、気淑風和。」の真意である。この部分が、西暦2019年5月から本邦において元号として用いられている「令和」の出典とされている。日本政府は、「令和」の英訳に Beautiful Harmony と説明している。古典を換骨奪胎しながら新しい意味に作りかえることは詩文の伝統である。そのもととなった万葉集の「序」において、大伴旅人は令が零に通じることを意図して作文していた。大伴旅人的「令和」の英訳は、The snow flickers and the wind calms down. が正しいといえる(注10)。
(注)
(注1)澤瀉1959.に、「梅花の作は既に巻三に五首、巻四に三首見えたが、作歌年月から云へば、その最初に出てゐた大伴百代の作(三・三九二)とここの作とが相前後するものと思はれ、他はむしろ後の作と考へてよいであらう。今集中の梅花を詠み入れた作の数を見ると、……数に於いては植物としては萩に次ぐ多数であるが、巻一、二の古い巻や巻十一乃至十六の古歌謡や民謡を含む巻には一首もないといふ事は、この植物が舶来のものであつて、まだ十分国民になじまなかつた事を示すものである。その梅がまづ漢土に近い太宰府に移植せられ、この一聯の作となつた事は当然であり、巻十七にある六首の如きもこの折の追憶の作である事が注意せられる。」(97頁、漢字の旧字体は改めた。)とある。
(注2)ほかに、この「序」には、構成面や語句では初唐の詩序の影響も指摘されているが、基本、蘭亭序に倣うものである。やっていることが酒宴での歌会だからである。伊藤1996.に、席次の推定が行われている。
(注3)表現に幅がないのは、宴会の席での歌会のモチーフが「梅花」と決まっているからで、語句や発想が類似、重複するのは当然のこととする指摘がある。しかし、歌会のあり方がお題に忠実に正解となる答えを出そうとするもの、いわばクイズに答えようとするものであったとすると、必然的に表現が収斂していくことも予想される。
(注4)日本文学に頻出する梅と鶯の取り合わせは、万842番歌を嚆矢とするものか。ただし、それは今日から振り返って見てとれるということである。「これら三十二首の梅花の歌によって、和歌が花鳥風月や雪月花の美学を獲得してゆく過程が知られよう。」(辰巳2020.145頁)と評するのは、この歌群の解釈からははみ出したもので、クイズの答えを探って間違えていただけである。
(注5)梶川2013.に、「三十二首はしばしば〈散る梅〉が詠まれているが、……「落梅の篇」……に応じたもので、楽府……の「梅花落」の詩群を基にしたものだとされる。つまり、現実にウメが散っていようがいまいが、この日の趣向としては、そう詠むべきものだったのだ。」(167頁)と指摘するが、そうでない歌が詠まれていることについて残念賞であるとは指摘していない。辰巳1987.に、「この「梅花の歌」の多くが梅の花の「散る」ことを詠むという事実」から、「中国楽府「梅花落」を前提とする、共通の知識を以てこの歌宴に臨んだと考えることは間違いあるまい。」(364頁)とするが、間違いである。
(注6)「序」の作者を大伴旅人以外に求める意見もあるが、「主人」とある太宰帥が「序」を作って管轄下の役人らを招いた宴席を開いていると考えるのが自然である。
(注7)文選の解説書にこのように記されるものは管見に入らない。
(注8)柳が登場するのでは「風和」に沿わないし、「故雁」ならともかく鶯など意味不明で、いずれも論外である。なお、万葉集で「零」字をフルと訓む例はとても多い。
(注9)拙稿「万葉集「恋ひつつあらずは」の歌について─「ズハ」の用法を中心に─」参照。
(注10)「令和」という元号が国書を典拠としていることに、殊更な意味合いがあるとは考えられない。天武朝に「朱鳥」とする元号があり、訓読みしている。
(引用文献)
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 三』集英社、1996年。
澤瀉1959. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 第五』中央公論社、昭和34年。
梶川2013. 梶川信行『万葉集の読み方─天平の宴席歌─』翰林書房、2013年。
辰巳1987. 辰巳正明『万葉集と中国文学』笠間書院、昭和62年。
辰巳2020. 辰巳正明『大伴旅人─「令和」を開いた万葉集の歌人─』新典社、2020年。
※本稿は、2019年8月稿を2021年3月に補足し、2023年8月に万852番歌部分を追加してルビ化したものである。