夫の大己貴命と少彦名命と、力を戮せ心を一にして、天下を経営る。復顕見蒼生及び畜産の為は、其の病を療むる方を定む。又、鳥獣・昆虫の災異を攘はむが為は、其の禁厭むる法を定む。是を以て、百姓、今に至るまで、咸に恩頼を蒙れり。(神代紀第八段一書第六)
ここにある「恩頼」は「ミタマノフユ」と訓まれてきた。意味は、加護、恩沢のことをいう。ミタマについては「霊」の字をそう訓み、「恩」や「頼」と直接関係する字ではないから、どうしてそういう古訓が付されてあるのかよくわかっていない。そのうえ、根本的な問題として、フユと訓まれる言葉の意味が理解されていない。
日本書紀私記に、「蒙恩頼甞 美陁万乃不由乎加々不礼里」とあり、「甞」は後文の「嘗大己貴命謂少彦名命曰……」の冒頭が紛れて記されたもの、「蒙恩頼 美陁万乃不由乎加々不礼里 」と訓むべしということである。また、名義抄に、「頼 ミタマノフエ(ユ)」とある。そう訓むことはわかっているが、どうしてそう訓むのか、その理由がわからないのである。
谷川士清・日本書紀通証に、「景行紀ニ皇霊之威、亦訓二美太末乃夫由一。蓋御賜之殖也。後転レ義為二御魂之冬一。取二於鎮魂祭一也。」、河村秀根・書紀集解に、「尚書大禹謨ニ曰、万世永頼、䟽ニ曰、万代常ニ所二恃頼一。」、伴信友・比古婆衣に、「按ふに、ミタマは、霊を尊びたる辞、フユは、フルフの義にて、神の霊の威震ひて、ことさらに、幸ひ給ふを、辱なみ、称へて、ミタマノフユと云へるなり。」などとある。意を尽くしているとは言えず、今日まで未詳のままである。
上代語タマ(魂・霊)はタマ(玉・珠)と同根の語である。具体物であるタマには球体のもの、時に真珠のことを指すことがあり、霊妙なるものの接頭語としても使われた。また、精霊の意味では人間や動植物、器物に宿るもの、また浮遊したり憑依したりするものとして考えられていた。玉は霊の憑代とされていたからと推測されているが、それならば身につける装飾品とされて然るべきである。その候補に文化的所産として特徴的に現れる勾玉があげられる。勾玉を媒介として、タマという語が玉・珠と霊・魂の意に共用され、誰しもが了解していたと考えられる。
勾玉の形状はヤマノイモの零余子 によく似ている。そう見立てて捉え返されることがあった。上代の人たちが無文字社会に暮らしていた時、思考は具体的なものの裏づけを持たなければ成り立たなかったであろう。タマは目に見えない霊のことであるとだけ考えることは、無文字時代においては人々に共有され難い。具体的な対応物を見てはじめて互いに認識し合うことができる。その際、当時の人たちは、タマのことを、笑みを浮かべながら零余子をもってありありと感じることができたということである。
「ミタマノフユ」という、一見、抽象語のような雰囲気を漂わせた語についても、零余子のことと関連して把握していたであろう。そして、「本つるぎ 末ふゆ」(記47)の「ふゆ」という語が、冬が旬となる「冬薯蕷葛」、すなわち、ヤマノイモ、自然薯のことを指していると考えられることから、「ミタマノフユ」という語も、地上の零余子をもって地中に隠れているヤマノイモ本体を見つけることができ、掘り取るに至ることを表していると悟ることができる。小さな手がかりから大きな恩恵を蒙ることができるということが、抽象的な意味合いとパラレルに具体的な体験レベルで追認し得る仕掛けを有しており、〝野生の思考〟においてよく語義を説明づけるものである。
人類の言語活動において、文字を持たない時代に抽象語が独り歩きすることは、言葉というものが互いに共有されなければ成り立たない点からあり得ない。そしてまた、言葉を確かに共有し合うために、言葉自体が当該の言葉をトートロジカルに説明することが、自得に至る追認の方法として行われていた。認知プロセスとして見たとき上代的思惟の特徴と言えるもので、そのような箇所が見られるなら、上代語として存した確たる証拠でもある。
具体的に日本書紀で「ミタマノフユ」という語に該当する箇所を確かめる。古訓で「ミタマノフユ」と訓まれたり、それと類似する文章には次のようなものがある。
A.大系本に古訓「ミタマノフユ」が付された例
①是を以て、百姓、今に至るまで、咸に恩頼を蒙れり。(是以百姓至今、咸蒙恩頼。)(神代紀第八段一書第六)
②然るに聖帝の神霊に頼りて、僅に還り来ること得たり。(然頼聖帝之神霊、僅得還来。)(垂仁紀九十九年明年三月)
③臣、天皇の神霊に頼りて、兵を以て一たび挙げて、頓に熊襲の魁帥者を誅して、悉に其の国を平けつ。(臣頼天皇之神霊、以兵一挙、頓誅熊襲之魁帥者、悉平其国。)(景行紀二十八年二月)
④嘗、西を征ちし年に、皇霊の威に頼りて、三尺剣を堤げて、熊襲国を撃つ。(嘗西征之年、頼皇霊之威、堤三尺剣、撃熊襲国。)(景行紀四十年七月)
⑤今亦神紙の霊に頼り、天皇の威を借りて、往きて其の境に臨みて、示すに徳教を以てせむに、猶服はざること有らば、即ち兵を挙げて撃たむ。(今亦頼神祇之霊、借天皇之威、往臨其境、示以徳教、猶有不服、即挙兵撃。)(景行紀四十年七月、④と同じ会話文中、❸へ続く)
⑥吾、神祇の教を被け、皇祖の霊を頼りて、滄海を浮渉りて、躬ら西を征たむとす。(吾被神祇之教、頼皇祖之霊、浮渉滄海、躬欲西征。)(神功前紀仲哀九年四月、❻から続く)
⑦上は神祇の霊を蒙り、下は群臣の助に藉りて、兵甲を振して嶮き浪を度り、艫船を整へて財土を求む。(上蒙神祇之霊、下藉群臣之助、振兵甲而度嶮浪、整艫船以求財土。)(神功前紀仲哀九年四月)
⑧百済国、属既に亡びて、倉下に聚み憂ふと雖も、実に天皇の頼に、更其の国を造せり。(百済国、雖属既亡、聚憂倉下、実頼於天皇、更造其国。)(雄略紀二十一年三月)
⑨又皇天の翼け戴ふ頼によりて、凶党を浄ひ除きつ。(又頼皇天翼戴、浄除凶党。)(武烈前紀仁賢十一年十二月)
⑩今寡人、汝と力を戮せ心を幷せて、天皇の頼に翳れば、任那必ず起らむ。(今寡人与汝戮力幷心、翳頼天皇、任那必起。)(欽明紀二年四月)
⑪猶尚し玆の若くせば、必ず上天擁き護る福を蒙り、亦可畏き天皇の霊に頼らむ。(猶尚若玆、必蒙上天擁護之福、亦頼可畏天皇之霊也。)(欽明紀十三年五月、❾から続く)
⑫天皇独りのみましますと雖も、臣高市、神祇の霊に頼り、天皇の命を請けて、諸将を引率て征討たむ。(天皇雖独、則臣高市、頼神祇之霊、請天皇之命、引率諸将而征討。)(天武紀元年六月、⓰から続き、⓱へ続く)
⑬願ふ、三宝の威に頼りて、身体、安和なることを得むとす。(願、頼三宝之威、以身体欲得安和。)(天武紀朱鳥元年六月)
B.よく似た字面として葛西2021.が挙げる例
❶若かじ、退還りて弱きことを示して、神祇礼び祭ひて、背日神の威を負ひたてまつりて、影の随に圧ひ躡みなむには。(不若、退還示弱、礼祭神祇、背負日神之威、随影圧躡。)(神武紀)
❷頼るに皇天の威を以てして、凶徒就戮されぬ。(頼以皇天之威、凶徒就戮。)(神武前紀己未年三月)
❸今亦神紙の霊に頼り、天皇の威を借りて、往きて其の境に臨みて、示すに徳教を以てせむに、猶服はざること有らば、即ち兵を挙げて撃たむ。(今亦頼神祇之霊、借天皇之威、往臨其境、示以徳教、猶有不服、即挙兵撃。)(景行紀四十年七月、⑤から続く)
❹則ち神の恩を被り、皇の威に頼りて、叛く者、罪に伏ひ、荒ぶる神、自づからに調ひぬ。(則被神恩、頼皇威、而叛者伏罪、荒神自調。)(景行紀四十年是歳、❺へ続く)
❺則ち神の恩を被り、皇の威に頼りて、叛く者、罪に伏ひ、荒ぶる神、自づからに調ひぬ。(則被神恩、頼皇威、而叛者伏罪、荒神自調。)(景行紀四十年是歳、❹から続く)
❻吾、神祇の教を被け、皇祖の霊を頼りて、滄海を浮渉りて、躬ら西を征たむとす。(吾被神祇之教、頼皇祖之霊、浮渉滄海、躬欲西征。)(神功前紀仲哀九年四月、⑥へ続く)
❼而るを忍びて陵墓壌たば、誰を人主としてか天の霊に奉へまつらむ。(而忍壌陵墓、誰人主以奉天之霊。)(顕宗紀二年八月、寛文九年版本左傍訓「ミタマノフユ」)
❽夫れ任那の国建つること、天皇の威を仮らずは、誰か能く建てむ。(夫建任那之国、不仮天皇之威、誰能建也)(欽明紀五年二月)
❾猶尚し玆の若くせば、必ず上天擁き護る福を蒙り、亦可畏き天皇の霊に頼らむ。(欽明紀十三年五月、⑪へ続く)
❿天皇の威霊を蒙りて、月の九日の酉時を以て、城を焚きて抜りつ。(蒙天皇威霊、以月九日酉時、焚城抜之。)(欽明紀十五年十二月)
⓫方に今、前の過を悛めて悔ひて、神の宮を脩ひ理めて、神の霊を祭り奉らば、国昌盛えぬべし。(方今悛悔前過、脩理神宮、奉祭神霊、国可昌盛。)(欽明紀十六年二月)
⓬臣等、若し盟に違はば、天地の諸の神及び天皇の霊、臣が種を絶滅えむ。(臣等若違盟者、天地諸神及天皇霊、絶滅臣種矣。)(敏達紀十年閏二月)
⓭朕も神の護の力を蒙りて、卿等と共に治めむと思欲ふ。(朕復思欲蒙神護力、共卿等治。)(孝徳紀大化二年三月)
⓮然も、素より天皇の聖化に頼みて、旧俗に習へる民、未だ詔らざる間に、必ず当に待ち難かるべし。(然素頼天皇聖化、而習旧俗之民、未詔之間、必当難待。)(孝徳紀大化三年四月)
⓯而も百済国、遥に天皇の護念に頼りて、更に鳩め集めて邦を成す。(而百流国遥頼天皇護念、更鳩集以成邦。)(斉明紀六年十月)
⓰近江の群臣、多なりと雖も、何ぞ敢へて天皇の霊に逆はむや。(近江群臣雖多、何敢逆天皇之霊哉。)(天武紀元年六月、⑫へ続く)
⓱天皇の命を請けて、諸将を引率て征討たむ。(請天皇之命、引率諸将而征討。)(天武上元年六月、⑫から続く)
葛西2021.は、⑧⑨⑩の三例は「ミタマノフユ」と訓むことに不適切とする。逆に、❷❸は「ミタマノフユ」と訓んだ方がいいとしている。その理由は、「頼」字を中心に字面を捉えた時、その賓語(目的語)に天皇・皇祖・神霊等を置く傾向を見てとり、その構文に絡んであらわれる「恩頼」、「神霊」、「霊」、「威」といった名詞相当語に対して「ミタマノフユ」という訓が当てられるべきであろうと考えられるからであるとする。ヤマトコトバとしての「ミタマノフユ」の語義を確かめないまま議論を進めている。
「ミタマノフユ」と古訓が付けられた文は①を除いてすべて会話文である。日本語会話文(ヤマトコトバ会話文)を漢文調に書くことは、柳田国男の文章を英訳するように難しいところがある。訳した際に文法的に誤っていると言われても、逐語的に訳していたら意味に通じないところが出てくる。その特徴が表れやすいのは、散文より韻文、平叙文よりも会話文である。漢文書きにするのに試行錯誤、暗中模索していたものと思われる。語義がわからないままに文の構造や単語の表れ方からそれを「ミタマノフユ」と訓むに値するかどうかなど、判断できるはずはない。
「ミタマノフユ」という古訓が付けられたAの①~⑬の例では、その文の主語、特に発話者自身が、自分の力では到底不可能なことに関して、神祇など超人的な力を有する存在からの助力を得、事業を成し遂げることができるようになった、あるいは、なるであろう、という文脈で用いられている。話者が臣下の立場にあるなら天皇に対してへりくだり、天皇のことを持ち上げて言う場合にも用いられている。すなわち、主語は話者当人であり、「ミタマノフユ」は「被(蒙)」るものである。そう捉えた時、これら13例の「ミタマノフユ」は、まことに適切な訓が与えられていると気づかされる。一方、Bの❶~⓱の場合、話者自身が主語となって自らの非力さを述べつつ助力を得て物事が成就したという言い回しの例は見られない。すなわち、「ミタマノフユ」とは訓まないということであり、それぞれの付訓に従って正しいと理解される。
「ミタマノフユ」とは、零余子を見つけることでヤマノイモの在り処を知ることができて恩恵を蒙るように、すなわち、小さな存在から芋蔓をたどっていくとうまい具合に大きな収穫が得られるというように、望外な恩沢にあずかること、とてもありがたい恵みに至ることを指す言葉である。自らは零余子ほどに小さな存在でどうあがいても成果は得られなかったであろうけれども、うまい具合に栽培することによってヤマノイモの巨大な根を収穫することができるようになっている。③の例で考えるなら、「臣」は自分には力が不足していて到底できそうもなかったことであるけれど、「天皇」のご加護の賜物で其の国を平定することができた、と言っている。「神祇」や「天皇」は零余子を百倍、千倍、万倍にしてヤマノイモにする力のあるものとの頓智から生まれた言葉、それが「ミタマノフユ」であった。
(注)
注1 近年の専論に、葛西2021.がある。
日本書紀を含む上代文献に「ミタマノフユ」の仮名書き例は確認されないため、上代語としての存在に疑念が残るが、後述する通り、同様の古訓を持つ類例を日本書紀に求めて考えれば、その訓義は天神・皇祖・天皇の加護・恩沢を指すものと考えられる。訓義そのものに関する考察は本節の目的から外れるため措くとしても、まずは漢字表記としての「恩頼」が意味するところを確認する必要がある。そもそも漢籍や仏典に「恩頼」と熟した例を見出すことは難しい[。](152頁)
不思議な研究方法が採られている。漢籍に見られない熟字に対して、訓義そのものは措いておいて大体のところ想定される訓義から古訓が当てはまるか解釈を進めようというのである。恐れ入る。
葛西氏は、日本書紀の語句に関して対象語句を漢語として解釈する視点と、当時の和語や訓読語から解釈する視点とがあり、古訓や訓読の示す解釈と漢語との間に齟齬があるから注意すべきであるとする。そして、古訓「ミタマノフユ」を日本書紀の漢文風文脈の数々の例のなかで互いに参照し、その訓を当てることが適切かどうか見極めようとしている。具体的には「頼」字をもって検証の便に当てているが、その手法がどれほど有効かは、日本書紀における「頼」字の構文上の位置づけを漢文のそれと同一視できるかにかかる。「ミタマノフユ」という古訓にまつわる箇所の語(漢字)を見ると必ずしも整ってはおらず、古訓が独り歩きして紛れ、本来当たらないところにも付されている可能性があると葛西氏は見ている。
だが、そもそも日本書紀の〝漢文〟を漢文として信じられるかという問題がある。当初の書記に当たって編纂執筆者がどう書いたらいいかわからず、執筆担当者の個性あるなんちゃって漢文になっているのではないか。その場合、語順や漢語を基にいくら考察を進めても埒が開かない。日本書紀区分論を翼賛するために未詳の語「ミタマノフユ」を弄び操り、日本書紀の編集方針に転換があったことの示唆になると勢い込んでみても、何ら建設的ではない。
なお、日本書紀古訓と漢文訓読語とを比較検討した論考としては、小林2022.ほかいくつも見られる。
注2 「薢」と「地」の洒落については、拙稿「垂仁記の諺「地得ぬ玉作」について」参照。
注3 文化人類学の知見による。
注4 拙稿「吉野国主歌、応神記歌謡(記47)の「本つるぎ 末ふゆ」について」参照。
注5 葛西2021.は、「訓読的思惟」(瀬間2011.)や「表記体」(乾2017.)といった概念を前提に「ミタマノフユ」にまつわる「頼」字を読解しようとしているが、それら自体、現代的な発想の殻から出ることはない。「ミタマノフユ」という言葉の語義を探ろうとしないのと同等のことである。これらと立場を異にし、古訓自体の、神秘ともいえる上代人の深い思慮をたどった労作としては、神田1983.があげられる。神田氏は、上代的思惟に寄り添うことができていた。
注6 絵巻物や屏風絵を見て、何が書いてあるのかわからないがうまく描けている、と評されることがある。もちろん抽象画ではない。あるいは、達筆な書に、何という字かわからない作品もある。今、言葉について検討している。取り扱い方は美術ではなくて国語(日本語)である。
注7 このとき、零余子は「殖ゆ」の意の、数が増えるのではなく、量的に増える、かさが増すことかとも考えられはするが、上代に「殖ゆ」の例は知られない。「冬」と「殖ゆ」と語が、語源的にだけでなく駄洒落的にも、関係するのか不明である。
注8 「ミタマノフユ」が会話文に多く用いられている点は、その比喩表現の独自性から推し量ることができる。例外の①では、冒頭に記したとおり、人畜の病に処すべき民間療法や、鳥害、獣害、虫害に対して伝えられて行われている方法を述べている。それによって人民は大きな便益を得ているという語りの部分である。登場する神も、パプリックなアマテラスなどではなくて、オホアナムチとスクナビコナである。俗語的表現の「ミタマノフユ」が使われていて言説にかなっていると認められる。
(引用・参考文献)
乾2017. 乾善彦『日本語書記用文体の成立基盤』塙書房、2017年。
葛西2021. 葛西太一「「頼」字の古訓と解釈」『日本書紀段階編修論─文体・注記・語法からみた多様性と多層性─』花鳥社、2021年。
神田1983. 神田喜一郎「日本書紀古訓攷證」『神田喜一郎全集 第二巻』同朋舎出版、昭和58年。
小林2022. 小林芳規「日本書紀古訓と漢籍の古訓読」『小林芳規著作集 第三巻 上代文献の訓読』汲古書院、令和4年。
瀬間2011. 瀬間正之『風土記の文字世界』笠間書院、平成23年。
ここにある「恩頼」は「ミタマノフユ」と訓まれてきた。意味は、加護、恩沢のことをいう。ミタマについては「霊」の字をそう訓み、「恩」や「頼」と直接関係する字ではないから、どうしてそういう古訓が付されてあるのかよくわかっていない。そのうえ、根本的な問題として、フユと訓まれる言葉の意味が理解されていない。
日本書紀私記に、「蒙恩頼甞 美陁万乃不由乎加々不礼里」とあり、「甞」は後文の「嘗大己貴命謂少彦名命曰……」の冒頭が紛れて記されたもの、「蒙恩頼 美陁万乃不由乎加々不礼里 」と訓むべしということである。また、名義抄に、「頼 ミタマノフエ(ユ)」とある。そう訓むことはわかっているが、どうしてそう訓むのか、その理由がわからないのである。
谷川士清・日本書紀通証に、「景行紀ニ皇霊之威、亦訓二美太末乃夫由一。蓋御賜之殖也。後転レ義為二御魂之冬一。取二於鎮魂祭一也。」、河村秀根・書紀集解に、「尚書大禹謨ニ曰、万世永頼、䟽ニ曰、万代常ニ所二恃頼一。」、伴信友・比古婆衣に、「按ふに、ミタマは、霊を尊びたる辞、フユは、フルフの義にて、神の霊の威震ひて、ことさらに、幸ひ給ふを、辱なみ、称へて、ミタマノフユと云へるなり。」などとある。意を尽くしているとは言えず、今日まで未詳のままである。
上代語タマ(魂・霊)はタマ(玉・珠)と同根の語である。具体物であるタマには球体のもの、時に真珠のことを指すことがあり、霊妙なるものの接頭語としても使われた。また、精霊の意味では人間や動植物、器物に宿るもの、また浮遊したり憑依したりするものとして考えられていた。玉は霊の憑代とされていたからと推測されているが、それならば身につける装飾品とされて然るべきである。その候補に文化的所産として特徴的に現れる勾玉があげられる。勾玉を媒介として、タマという語が玉・珠と霊・魂の意に共用され、誰しもが了解していたと考えられる。
勾玉の形状はヤマノイモの零余子 によく似ている。そう見立てて捉え返されることがあった。上代の人たちが無文字社会に暮らしていた時、思考は具体的なものの裏づけを持たなければ成り立たなかったであろう。タマは目に見えない霊のことであるとだけ考えることは、無文字時代においては人々に共有され難い。具体的な対応物を見てはじめて互いに認識し合うことができる。その際、当時の人たちは、タマのことを、笑みを浮かべながら零余子をもってありありと感じることができたということである。
「ミタマノフユ」という、一見、抽象語のような雰囲気を漂わせた語についても、零余子のことと関連して把握していたであろう。そして、「本つるぎ 末ふゆ」(記47)の「ふゆ」という語が、冬が旬となる「冬薯蕷葛」、すなわち、ヤマノイモ、自然薯のことを指していると考えられることから、「ミタマノフユ」という語も、地上の零余子をもって地中に隠れているヤマノイモ本体を見つけることができ、掘り取るに至ることを表していると悟ることができる。小さな手がかりから大きな恩恵を蒙ることができるということが、抽象的な意味合いとパラレルに具体的な体験レベルで追認し得る仕掛けを有しており、〝野生の思考〟においてよく語義を説明づけるものである。
人類の言語活動において、文字を持たない時代に抽象語が独り歩きすることは、言葉というものが互いに共有されなければ成り立たない点からあり得ない。そしてまた、言葉を確かに共有し合うために、言葉自体が当該の言葉をトートロジカルに説明することが、自得に至る追認の方法として行われていた。認知プロセスとして見たとき上代的思惟の特徴と言えるもので、そのような箇所が見られるなら、上代語として存した確たる証拠でもある。
具体的に日本書紀で「ミタマノフユ」という語に該当する箇所を確かめる。古訓で「ミタマノフユ」と訓まれたり、それと類似する文章には次のようなものがある。
A.大系本に古訓「ミタマノフユ」が付された例
①是を以て、百姓、今に至るまで、咸に恩頼を蒙れり。(是以百姓至今、咸蒙恩頼。)(神代紀第八段一書第六)
②然るに聖帝の神霊に頼りて、僅に還り来ること得たり。(然頼聖帝之神霊、僅得還来。)(垂仁紀九十九年明年三月)
③臣、天皇の神霊に頼りて、兵を以て一たび挙げて、頓に熊襲の魁帥者を誅して、悉に其の国を平けつ。(臣頼天皇之神霊、以兵一挙、頓誅熊襲之魁帥者、悉平其国。)(景行紀二十八年二月)
④嘗、西を征ちし年に、皇霊の威に頼りて、三尺剣を堤げて、熊襲国を撃つ。(嘗西征之年、頼皇霊之威、堤三尺剣、撃熊襲国。)(景行紀四十年七月)
⑤今亦神紙の霊に頼り、天皇の威を借りて、往きて其の境に臨みて、示すに徳教を以てせむに、猶服はざること有らば、即ち兵を挙げて撃たむ。(今亦頼神祇之霊、借天皇之威、往臨其境、示以徳教、猶有不服、即挙兵撃。)(景行紀四十年七月、④と同じ会話文中、❸へ続く)
⑥吾、神祇の教を被け、皇祖の霊を頼りて、滄海を浮渉りて、躬ら西を征たむとす。(吾被神祇之教、頼皇祖之霊、浮渉滄海、躬欲西征。)(神功前紀仲哀九年四月、❻から続く)
⑦上は神祇の霊を蒙り、下は群臣の助に藉りて、兵甲を振して嶮き浪を度り、艫船を整へて財土を求む。(上蒙神祇之霊、下藉群臣之助、振兵甲而度嶮浪、整艫船以求財土。)(神功前紀仲哀九年四月)
⑧百済国、属既に亡びて、倉下に聚み憂ふと雖も、実に天皇の頼に、更其の国を造せり。(百済国、雖属既亡、聚憂倉下、実頼於天皇、更造其国。)(雄略紀二十一年三月)
⑨又皇天の翼け戴ふ頼によりて、凶党を浄ひ除きつ。(又頼皇天翼戴、浄除凶党。)(武烈前紀仁賢十一年十二月)
⑩今寡人、汝と力を戮せ心を幷せて、天皇の頼に翳れば、任那必ず起らむ。(今寡人与汝戮力幷心、翳頼天皇、任那必起。)(欽明紀二年四月)
⑪猶尚し玆の若くせば、必ず上天擁き護る福を蒙り、亦可畏き天皇の霊に頼らむ。(猶尚若玆、必蒙上天擁護之福、亦頼可畏天皇之霊也。)(欽明紀十三年五月、❾から続く)
⑫天皇独りのみましますと雖も、臣高市、神祇の霊に頼り、天皇の命を請けて、諸将を引率て征討たむ。(天皇雖独、則臣高市、頼神祇之霊、請天皇之命、引率諸将而征討。)(天武紀元年六月、⓰から続き、⓱へ続く)
⑬願ふ、三宝の威に頼りて、身体、安和なることを得むとす。(願、頼三宝之威、以身体欲得安和。)(天武紀朱鳥元年六月)
B.よく似た字面として葛西2021.が挙げる例
❶若かじ、退還りて弱きことを示して、神祇礼び祭ひて、背日神の威を負ひたてまつりて、影の随に圧ひ躡みなむには。(不若、退還示弱、礼祭神祇、背負日神之威、随影圧躡。)(神武紀)
❷頼るに皇天の威を以てして、凶徒就戮されぬ。(頼以皇天之威、凶徒就戮。)(神武前紀己未年三月)
❸今亦神紙の霊に頼り、天皇の威を借りて、往きて其の境に臨みて、示すに徳教を以てせむに、猶服はざること有らば、即ち兵を挙げて撃たむ。(今亦頼神祇之霊、借天皇之威、往臨其境、示以徳教、猶有不服、即挙兵撃。)(景行紀四十年七月、⑤から続く)
❹則ち神の恩を被り、皇の威に頼りて、叛く者、罪に伏ひ、荒ぶる神、自づからに調ひぬ。(則被神恩、頼皇威、而叛者伏罪、荒神自調。)(景行紀四十年是歳、❺へ続く)
❺則ち神の恩を被り、皇の威に頼りて、叛く者、罪に伏ひ、荒ぶる神、自づからに調ひぬ。(則被神恩、頼皇威、而叛者伏罪、荒神自調。)(景行紀四十年是歳、❹から続く)
❻吾、神祇の教を被け、皇祖の霊を頼りて、滄海を浮渉りて、躬ら西を征たむとす。(吾被神祇之教、頼皇祖之霊、浮渉滄海、躬欲西征。)(神功前紀仲哀九年四月、⑥へ続く)
❼而るを忍びて陵墓壌たば、誰を人主としてか天の霊に奉へまつらむ。(而忍壌陵墓、誰人主以奉天之霊。)(顕宗紀二年八月、寛文九年版本左傍訓「ミタマノフユ」)
❽夫れ任那の国建つること、天皇の威を仮らずは、誰か能く建てむ。(夫建任那之国、不仮天皇之威、誰能建也)(欽明紀五年二月)
❾猶尚し玆の若くせば、必ず上天擁き護る福を蒙り、亦可畏き天皇の霊に頼らむ。(欽明紀十三年五月、⑪へ続く)
❿天皇の威霊を蒙りて、月の九日の酉時を以て、城を焚きて抜りつ。(蒙天皇威霊、以月九日酉時、焚城抜之。)(欽明紀十五年十二月)
⓫方に今、前の過を悛めて悔ひて、神の宮を脩ひ理めて、神の霊を祭り奉らば、国昌盛えぬべし。(方今悛悔前過、脩理神宮、奉祭神霊、国可昌盛。)(欽明紀十六年二月)
⓬臣等、若し盟に違はば、天地の諸の神及び天皇の霊、臣が種を絶滅えむ。(臣等若違盟者、天地諸神及天皇霊、絶滅臣種矣。)(敏達紀十年閏二月)
⓭朕も神の護の力を蒙りて、卿等と共に治めむと思欲ふ。(朕復思欲蒙神護力、共卿等治。)(孝徳紀大化二年三月)
⓮然も、素より天皇の聖化に頼みて、旧俗に習へる民、未だ詔らざる間に、必ず当に待ち難かるべし。(然素頼天皇聖化、而習旧俗之民、未詔之間、必当難待。)(孝徳紀大化三年四月)
⓯而も百済国、遥に天皇の護念に頼りて、更に鳩め集めて邦を成す。(而百流国遥頼天皇護念、更鳩集以成邦。)(斉明紀六年十月)
⓰近江の群臣、多なりと雖も、何ぞ敢へて天皇の霊に逆はむや。(近江群臣雖多、何敢逆天皇之霊哉。)(天武紀元年六月、⑫へ続く)
⓱天皇の命を請けて、諸将を引率て征討たむ。(請天皇之命、引率諸将而征討。)(天武上元年六月、⑫から続く)
葛西2021.は、⑧⑨⑩の三例は「ミタマノフユ」と訓むことに不適切とする。逆に、❷❸は「ミタマノフユ」と訓んだ方がいいとしている。その理由は、「頼」字を中心に字面を捉えた時、その賓語(目的語)に天皇・皇祖・神霊等を置く傾向を見てとり、その構文に絡んであらわれる「恩頼」、「神霊」、「霊」、「威」といった名詞相当語に対して「ミタマノフユ」という訓が当てられるべきであろうと考えられるからであるとする。ヤマトコトバとしての「ミタマノフユ」の語義を確かめないまま議論を進めている。
「ミタマノフユ」と古訓が付けられた文は①を除いてすべて会話文である。日本語会話文(ヤマトコトバ会話文)を漢文調に書くことは、柳田国男の文章を英訳するように難しいところがある。訳した際に文法的に誤っていると言われても、逐語的に訳していたら意味に通じないところが出てくる。その特徴が表れやすいのは、散文より韻文、平叙文よりも会話文である。漢文書きにするのに試行錯誤、暗中模索していたものと思われる。語義がわからないままに文の構造や単語の表れ方からそれを「ミタマノフユ」と訓むに値するかどうかなど、判断できるはずはない。
「ミタマノフユ」という古訓が付けられたAの①~⑬の例では、その文の主語、特に発話者自身が、自分の力では到底不可能なことに関して、神祇など超人的な力を有する存在からの助力を得、事業を成し遂げることができるようになった、あるいは、なるであろう、という文脈で用いられている。話者が臣下の立場にあるなら天皇に対してへりくだり、天皇のことを持ち上げて言う場合にも用いられている。すなわち、主語は話者当人であり、「ミタマノフユ」は「被(蒙)」るものである。そう捉えた時、これら13例の「ミタマノフユ」は、まことに適切な訓が与えられていると気づかされる。一方、Bの❶~⓱の場合、話者自身が主語となって自らの非力さを述べつつ助力を得て物事が成就したという言い回しの例は見られない。すなわち、「ミタマノフユ」とは訓まないということであり、それぞれの付訓に従って正しいと理解される。
「ミタマノフユ」とは、零余子を見つけることでヤマノイモの在り処を知ることができて恩恵を蒙るように、すなわち、小さな存在から芋蔓をたどっていくとうまい具合に大きな収穫が得られるというように、望外な恩沢にあずかること、とてもありがたい恵みに至ることを指す言葉である。自らは零余子ほどに小さな存在でどうあがいても成果は得られなかったであろうけれども、うまい具合に栽培することによってヤマノイモの巨大な根を収穫することができるようになっている。③の例で考えるなら、「臣」は自分には力が不足していて到底できそうもなかったことであるけれど、「天皇」のご加護の賜物で其の国を平定することができた、と言っている。「神祇」や「天皇」は零余子を百倍、千倍、万倍にしてヤマノイモにする力のあるものとの頓智から生まれた言葉、それが「ミタマノフユ」であった。
(注)
注1 近年の専論に、葛西2021.がある。
日本書紀を含む上代文献に「ミタマノフユ」の仮名書き例は確認されないため、上代語としての存在に疑念が残るが、後述する通り、同様の古訓を持つ類例を日本書紀に求めて考えれば、その訓義は天神・皇祖・天皇の加護・恩沢を指すものと考えられる。訓義そのものに関する考察は本節の目的から外れるため措くとしても、まずは漢字表記としての「恩頼」が意味するところを確認する必要がある。そもそも漢籍や仏典に「恩頼」と熟した例を見出すことは難しい[。](152頁)
不思議な研究方法が採られている。漢籍に見られない熟字に対して、訓義そのものは措いておいて大体のところ想定される訓義から古訓が当てはまるか解釈を進めようというのである。恐れ入る。
葛西氏は、日本書紀の語句に関して対象語句を漢語として解釈する視点と、当時の和語や訓読語から解釈する視点とがあり、古訓や訓読の示す解釈と漢語との間に齟齬があるから注意すべきであるとする。そして、古訓「ミタマノフユ」を日本書紀の漢文風文脈の数々の例のなかで互いに参照し、その訓を当てることが適切かどうか見極めようとしている。具体的には「頼」字をもって検証の便に当てているが、その手法がどれほど有効かは、日本書紀における「頼」字の構文上の位置づけを漢文のそれと同一視できるかにかかる。「ミタマノフユ」という古訓にまつわる箇所の語(漢字)を見ると必ずしも整ってはおらず、古訓が独り歩きして紛れ、本来当たらないところにも付されている可能性があると葛西氏は見ている。
だが、そもそも日本書紀の〝漢文〟を漢文として信じられるかという問題がある。当初の書記に当たって編纂執筆者がどう書いたらいいかわからず、執筆担当者の個性あるなんちゃって漢文になっているのではないか。その場合、語順や漢語を基にいくら考察を進めても埒が開かない。日本書紀区分論を翼賛するために未詳の語「ミタマノフユ」を弄び操り、日本書紀の編集方針に転換があったことの示唆になると勢い込んでみても、何ら建設的ではない。
なお、日本書紀古訓と漢文訓読語とを比較検討した論考としては、小林2022.ほかいくつも見られる。
注2 「薢」と「地」の洒落については、拙稿「垂仁記の諺「地得ぬ玉作」について」参照。
注3 文化人類学の知見による。
注4 拙稿「吉野国主歌、応神記歌謡(記47)の「本つるぎ 末ふゆ」について」参照。
注5 葛西2021.は、「訓読的思惟」(瀬間2011.)や「表記体」(乾2017.)といった概念を前提に「ミタマノフユ」にまつわる「頼」字を読解しようとしているが、それら自体、現代的な発想の殻から出ることはない。「ミタマノフユ」という言葉の語義を探ろうとしないのと同等のことである。これらと立場を異にし、古訓自体の、神秘ともいえる上代人の深い思慮をたどった労作としては、神田1983.があげられる。神田氏は、上代的思惟に寄り添うことができていた。
注6 絵巻物や屏風絵を見て、何が書いてあるのかわからないがうまく描けている、と評されることがある。もちろん抽象画ではない。あるいは、達筆な書に、何という字かわからない作品もある。今、言葉について検討している。取り扱い方は美術ではなくて国語(日本語)である。
注7 このとき、零余子は「殖ゆ」の意の、数が増えるのではなく、量的に増える、かさが増すことかとも考えられはするが、上代に「殖ゆ」の例は知られない。「冬」と「殖ゆ」と語が、語源的にだけでなく駄洒落的にも、関係するのか不明である。
注8 「ミタマノフユ」が会話文に多く用いられている点は、その比喩表現の独自性から推し量ることができる。例外の①では、冒頭に記したとおり、人畜の病に処すべき民間療法や、鳥害、獣害、虫害に対して伝えられて行われている方法を述べている。それによって人民は大きな便益を得ているという語りの部分である。登場する神も、パプリックなアマテラスなどではなくて、オホアナムチとスクナビコナである。俗語的表現の「ミタマノフユ」が使われていて言説にかなっていると認められる。
(引用・参考文献)
乾2017. 乾善彦『日本語書記用文体の成立基盤』塙書房、2017年。
葛西2021. 葛西太一「「頼」字の古訓と解釈」『日本書紀段階編修論─文体・注記・語法からみた多様性と多層性─』花鳥社、2021年。
神田1983. 神田喜一郎「日本書紀古訓攷證」『神田喜一郎全集 第二巻』同朋舎出版、昭和58年。
小林2022. 小林芳規「日本書紀古訓と漢籍の古訓読」『小林芳規著作集 第三巻 上代文献の訓読』汲古書院、令和4年。
瀬間2011. 瀬間正之『風土記の文字世界』笠間書院、平成23年。