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古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

お練り供養と当麻曼荼羅 其の一

2021年05月19日 | 上古・中古・中世・近世
 当麻寺は不思議な寺院である。伝来する仏像、遺物から七世紀後半に創始すると考えられている。塑造弥勒仏坐像を安置する金堂ならびに講堂が南面して建つ。その南に二つの塔があり、その間に門がありそうなもののその形跡はないという。向こう側は小高い山である。塔の相輪は八輪である。伽藍の東側の仁王門から入り、金堂などを通過して西進した先に現在の本堂、曼荼羅堂が建ち、綴織当麻曼荼羅を本尊とする。狭い伽藍に弥勒と阿弥陀の信仰が併存している。綴織当麻曼荼羅の発願者として中将姫伝説が伝わっているが、その実在は信じられていない。春には来迎絵、いわゆるお練り供養の行事が執り行われる。ここを発祥地としてお練り供養をする寺院が全国的に広がりはするが、その数は散見される程度である。
 本稿では、とりたてて宗教・宗派について検討することはない。用いられている言葉について理解を深め、当麻曼荼羅とは何か、お練り供養とは何か、その両者の関係性について一つの仮説を導き出すことを展望とする。

お練り供養についての現状認識と疑問

 お練り供養(迎講(むかえこう)、来迎会、迎接会(ごうしょうえ))がいつ頃から行われていたかについて、確かなところはわからない。文献としては、栄花物語(1024~1028頃)・巻第十五・うたがひに、「六波羅蜜寺、雲林院(うりむゐん)の菩提講などの折節の迎講などにもおぼし急がせ給ふ。」、大日本国法華経験記(1040~1044頃)・巻下・八三に、「弥陀迎接の相を構へて、極楽荘厳の儀を顕すせり。〈世に迎講と云ふ、〉」などとある。そして、古事談(1212~1215頃)・巻三・二七に、「迎講は、恵心僧都の始め給ふ事也、三寸の小仏を脇足(けふそく)の上に立てて、脇足の足に緒を付けて、引き寄せ引き寄せして啼泣(ていきふ)し給ひけり。寛印供奉それを見て智発して、丹後の迎講をば始め行ふ。云々」とある。これら文献と、仮面の残存物などから、発起人として源信の名が取り沙汰されている。關2013年a.は、「「迎講むかえこう」とは、後世「来迎会」「ねり供養」などと呼ばれる行事のもととなった野外・仮面・宗教劇で、恵心僧都源信(九四二~一〇一七)が始めた。……この[極楽往生の]一連の描写を脚本として演じたものが迎講であり、絵画化すると〝阿弥陀聖衆来迎図〟となる。迎講は、命が尽きてから極楽浄土で目が開くまでの不安に満ちた旅、この世からあの世への時空を越えて移り住むという壮大な旅の予行演習として、ベストセラー作家源信が考案したと考えられる。」(134頁)と断定している。源信という仏教パフォーマンスのプロデューサーによって、お練り供養という行事が新規に作り出されたとするのである。さらに、關2013b.に次のようにある。

 [岡山県牛窓の]弘法寺の行事は、先に見た木版画などに「踟供養ねりくよう」と書かれていることから、この名称が使われている。おもしろいのは、地元の方々が、この難しい「踟」の字を普通に誰でも読めると思っておられることで、行事の時期には「踟供養」と書いたのぼりがそこここに立つ。私が知る限り、現在もこの字を使っている所はほかに無い。しかし、一般によく目にする「練供養」は実は当て字(同音の漢字を借りた仮借)で、「踟供養」か「邌供養」が正しいのである。「踟」は、〝たちもとほる〟〝ためらう〟、「邌」は〝おもむろ〟〝ゆっくり〟という意味なので、迎講のゆっくり歩くという行為を的確に表している。當麻寺の行事をはじめ、歴史的にはこのどちらかが使われていた。弘法寺の行事は、[彦根のひこにゃんやディズニーランドのミッキーのような一種の着ぐるみで]阿弥陀像が出御されるという点でも、伝統的に忠実だが、名称の点でも伝統を守っているのである。(97頁)
 大和では、この時期に、[當麻寺のほか]矢田寺や久米寺でも同様の行事が行われ、それらも「れんぞ」と呼ばれている。さらに、この時期に神社で行われる行事もれんぞと呼ばれており、れんぞは、春の野に出てお弁当を食べる農家の休日、と理解されていた。つまり、このような骨休めの時期に合わせて、人々を阿弥陀浄土へいざなう行事が定着したと考えられる。れんぞの語源は、折口信夫説の「練道」ではなく、「連座」説を支持したい。(90~91頁)
 源信は、……阿弥陀仏の一行があの世からこの世へ死者を迎えに来る「来迎」の有様を戸外で演じ、「往生」のためのよすがにしようとした。それが、「迎講むかえこう」である。ちなみに、同じテーマを絵画化したものが「阿弥陀聖衆しょうじゅ来迎図」、通称「来迎図」である。(92頁)
 源信が始めた頃の来迎劇は、主役の阿弥陀仏も、脇役の聖衆(観音菩薩や勢至菩薩をはじめとするもろもろの菩薩や比丘のこと。後世は二十五菩薩と呼ぶことが多い)も面をかぶり、仲間同士で演じ合うような小規模のものだったが、次第に専門の楽人が加わって楽器を演奏するなど、規模が拡大した。開催目的が、自分たちが往生を確信するためのイメージトレーニング、いわば臨終の予行演習から、布教へと変化し、娯楽性も加味されたのである。(92頁)
 面を付けて橋の上を歩くのは危ない上に、菩薩に扮装した人の中には、「お迎え」を願って参加された高齢者もおられ、みな介添え人に手を引かれている。(102頁)
(お練り供養、当麻寺、1990年代)
 筆者の疑問は言葉にある。ネリクヨウ、レンゾといった言葉は、どこからか、誰からか言われ出し、続いている。源信一人が創作して広めようとしたとすると、宣伝効果を考え、キャッチフレーズは端的に一言でまとめられたはずである。「迎講」と呼んだのか、「来迎会」と呼んだのか、「迎接会」と呼んだのか、それを民衆に理解させるために「お練り供養」と訳したのか不明である。お祭りのタイトル名があやふやということにはならないであろう。当初は仲間同士で行う小規模なものであったとあるが、何によっているのか不明である。また、誰がどのように大規模化させたのか、どのような史料があるのか不明である。
 他の文献では、今昔物語集(平安末期頃)・巻第十五、丹後国迎講を始めし聖人、往生せる語(こと)第廿三に、「[丹後の国の聖人、大江清定と云ふ其の国の]守(かみ)に値(あひ)て云はく、『此の国に迎講と云ふ事をなむ始めむと思ひ給ふるを、己が力一つにては難叶(かなへがた)くなむ侍る。然れば、此の事、力を令加(くはへしめ)給ひなむや』と。」、また、拾遺往生伝(1111頃)・巻下・二六、永観伝にも、「これより先、中山の吉田寺において、迎接(がうせふ)の講を修せり。その菩薩の装束廿具、羅縠(らこく)錦綺を裁(た)ちて、丹青朱紫を施せり。これ乃ち、四方に馳せ求めて、年ごとに営み設けたるものなり。」とあり、とても準備が大変なことを物語っている。フェスティバル実行委員会をたち上げて、首尾よく手配を重ねないと、なかなか滞りなくはできない大行事である。源信というお坊さんが考えて実施した、と一括りで語ることは難しい。古事談の記事は鵜呑みにすることはできない。
 ネリクヨウの漢字について、踟供養、練供養のいずれが適正な文字であるかと発想し、踟は、踟躕、たちもとほることを表すからそれが正しいという考えは、逆言すれば、迎講のゆっくり歩くという行為をしか名称が表現しておらず、他の含みを残さない物言いに陥る。地域差、時代差はあれ、それらの文字をいずれも使っていたのが史実である。そして、漢字を体系的に読めるわけではない一般民衆のことを考えれば、ネリクヨウという音こそが注目すべき課題であろう。
 レンゾという言葉に至っては、民俗宗教との習合や、民衆の知恵のもつれのようなことがあったと想定しなければ、およそ現れない言葉であろう。レンゾという風習にかぶさる形でお練り供養は行われたか、あるいは、人々がお練り供養をレンゾと言い当てたその呼称であるとして考察する必要がある。語源説は反証が不可能なため、何を言っても許されるが、「連座」とは同席に連なり座ることも指すものの、令義解・獄令・公坐相連条に、「凡そ公坐相連(くざさうれん)。〈謂はく、律に依る。同司、公坐を犯す者は、即ち四等連坐に為(つく)れといふ。〉」とある。皆で休めば怖くないという屁理屈をもって春の休日の名に選んだと考えるのはあまりにセンスが悪い。日本民俗大辞典には次のように解説されている。

 奈良盆地を中心にして行われる春先の農休みのこと。れんどとも呼ぶ。地域によって日が異なるが、大体三月から五月にかけての特定の一日を休みとする。たいてい、その地域の寺社の祭礼に合わせてれんぞの日が決まっている。たとえば法隆寺れんぞは三月二十二日、おおやまとれんぞは四月一日、神武さんれんぞは四月三日、三輪れんぞは四月九日、お大師さんれんぞは四月二十一日、矢田れんぞは四月二十三・二十四日、八十八夜れんぞは五月二日、久米れんぞは五月八日、当麻れんぞは五月十四日である。これらはすべて寺社の祭礼の日に因んで広域にわたり、農休みとしている。特に当麻れんぞは、当麻寺にて二十五菩薩が極楽堂から娑婆堂へ行列する来迎練供養らいごうねりくようと呼ばれる行事がある。れんぞということばは、一説にはこの練供養のなまったものではないかといわれる。このれんぞの日、親戚に御馳走したり、餅や団子をこしらえて持って行ったりする。また、嫁入りした者は、夫や子供を連れて里帰りもする。また、この日の餅を「れんぞの苦餅にがもち」とも呼び、これからいよいよ水田の苦労が待ち受けているためにこう呼ぶ。水田の耕作が始まろうとする一つの節目で、このようにれんぞということばで明確に水田耕作の開始を意識する地方も珍しい。(814頁、この項、浦西勉。)

当麻曼荼羅についての検討

 当麻寺に関しては、当麻曼荼羅がとみに特徴的である。本尊の当麻曼荼羅(浄土変相図・観経曼荼羅)は綴織りに織られている。中国唐時代、八世紀の伝来品である可能性が濃厚とされる。尾形2013.に、「當麻曼荼羅が綴織りであることを追確認し、織組織を二十倍のマイクロスコープで観察調査して、正倉院裂と比較することによって、中国中原の優れた技術で作られた渡来品であると判断した。この、絹糸遣いが優れている絵画のように精緻な大型の綴織りは、八世紀の末頃に中国で製作され日本へ将来されたと考えられる。」(244頁)とある。浄土教自体は、中国では晋代に、廬山の慧遠(334~416)による白蓮社に多数の信奉者を得ている。仏典では、無量寿経・阿弥陀如来四十八願、来迎引接願、観無量寿経・阿弥陀如来十六願に、九品来迎が記される。浄土教の考えを図解した綴織当麻曼荼羅将来以降、当麻寺に、今日見られるようなお練り供養が行われるようになったとされている。ただし、いわゆる「お迎え」というものについて、信仰心や真偽を問うこととは無関係に、単にお祭り好きがお祭というだけで参加するという側面も強いと考えられる。この世からあの世への“引っ越し”(橋渡り)に関心を集約させられるほど、浄土教的な考えが一般に根づいていた、換言すれば、民衆の大多数が浄土思想に洗脳されていたとは考えにくい。皆がどっぷり浸っていたのなら、逆に布教目的の来迎図は要らないことになる。
 むろん、浄土教の思想、「厭離穢土、欣求浄土」の考えは流行っていたと認められる。おそらく、法華経も華厳経も流行っていたのであろう。そうなると、流行り廃りの問題であるとも思われる。死ぬのが嫌であるとか、怖いとか、地獄へ行くのは勘弁してほしいというのは肌感覚としてよくわかるが、病気や怪我、災害が今日とは比べ物にならないほど日常茶飯事であった時代にあって、極楽へ行きたいとは願っても、それは行ければいいのであって、その途中の“引っ越し”(渡り方)に焦点が絞られる点が腑に落ちない。「この世からあの世への時空を越えて移り住むという壮大な旅」とは、死出の旅路、冥途の旅(last journey)のことであろう。ヤマトコトバのタビ(旅・羈旅)の原義は、それを含むものではない。last journey が練り歩くような鈍行である点も疑問である。今日のお盆行事に、馬に乗ってはやく訪れ、牛に乗ってゆっくり帰るといった程度のことであろうか。
 我が国に伝来した仏教においても、阿弥陀仏による西方(さいほう)極楽浄土以外に、弥勒菩薩による兜率天(とそつてん)浄土、釈迦による霊山(りょうぜん)浄土、維摩居士による妙喜(みょうぎ)浄土、観音による補陀落浄土などといろいろである。なぜ極楽浄土がもてはやされたかについては、多くの議論が行われている。それらの観念を受け入れて信じたかどうかについて、何を以て信じていたことの証左とするのかは実は確かではない。奈良時代以降に発願した写経は多く残り、それによって功徳を積むことになったとの見解もかなり正しいのであろう。しかし、字の書けない庶民レベルでどうであったか、知る由のないことである。
 もともとの民俗宗教で他界観に近い形のものほど、民衆にはわかりやすくて受け入れやすかったと推測されるが、それがはたして「常世国(とこよのくに)」と呼ばれるものであったのか、また、常世国とはどのようなものか、それもまた不明瞭である。記では、「少名毘古那神は、常世国に度(わた)りき。」(記上)、「御毛沼命(みけぬのみこと)は、浪の穂を跳(ふ)みて常世国に渡り坐し、」(記上)、「名は多遅摩毛理(たぢまもり)を以て、常世国に遣して、ときじくのかくの木実(このみ)を求めしめき。」(垂仁記)などとある。「常世」としては、「常世の長鳴鳥(ながなきどり)」(記上)、「常世の思金神(おもひかねのかみ)」(記上)などともある。また、皇極紀三年七月条には、アゲハの幼虫を「常世の神」と崇めた似非宗教の逸話が載る。万葉集では、万650番歌の「大伴宿禰三依の離(さか)りてまた逢ふを歓ぶ歌一首」に、「常世国」、万1740・1741番歌の「水江(みづのえ)の浦島の子を詠める一首併せて短歌」に、「常世」、「常世辺(とこよへ)」とある。それらが、今日一般にいわれる“あの世”のことなのか、よくわからない。時間はかかっているが、還ってきてしまっているからである。

 田道間守(たぢまもり)、是に泣(いさ)ち悲歎(なげ)きて曰(まを)さく、「命(おほみこと)を天朝(みかど)に受(うけたまは)りて、遠くより絶域(はるかくに)に往(まか)る。万里(とほ)く浪を蹈(ほ)みて、遥(はるか)に弱水(よわのみづ)を度(わた)る。是の常世国は、神仙(ひじり)の秘区(かくれたるくに)、俗(ただひと)の臻(いた)らむ所に非ず。是を以て、往来(ゆきかよ)ふ間に、自づかに十年に経(な)りぬ。豈期(おも)ひきや、独り峻(たか)き瀾(なみ)を凌ぎて、更(また)本土(もとのくに)に向(まうでこ)むといふことを。然るに、聖帝(ひじりのみかど)の神霊(みたまのふゆ)に頼りて、僅(わづか)に還り来(まうく)ること得たり。……」とまをす。(垂仁紀九十九年明年三月)

 多遅摩毛理(田道間守)の「往来」とは、journey ではなく、travel なのであろうか。これを脚本とした橋渡り行事は、管見にして不明である。行って還ってくる逸話には、お練り供養と共通点があるような気がしないでもない。
 五来2010.では、「迎講というのは、はじめは生きた人の長寿と健康と安楽死と、そして死後の往生を願うものであった。これが浄土教の浸透とともに死者の往生だけになり、近世・近代にはショー化してしまった。……大和の人々が「当麻のレンゾ」に物に憑かれたように集まっていくのも、この古い迎講の擬死再生に結縁して現世の幸福や来世の安楽をねがった、祖先以来の心意伝承にうながされたものと私は見ている。」(150頁)、五来2008.では、「従来、恵心僧都が始めたとか、丹後天橋立の普甲寺の僧がはじめたとか、二河白道が元であるとかいわれたこの儀礼も、その源は日本固有宗教の山岳信仰にある。たまたま当麻寺には当麻曼荼羅があったためにこれが浄土教化して、迎講の形をとったのである。しかしその宗教意識はあくまでも擬死再生で、いまも厄年のものが菩薩の衣装と面をつけて橋がかり往来すれば、厄が落ちるという滅罪信仰がある。これが平安時代には曼陀羅道にはいって蓮座に乗って坐り、光背を立ててもらえば、「往生した」という擬死儀礼を表現したとおもわれる。これを平安時代と推定できるのは、発見された多数の蓮座と光背が、平安中期または末期の様式をもっているからにほかならない。しかしここで光背が擬往生者の背に立てられたのは、むしろ山岳信仰で教理化された即身成仏の表現ではなかったかともおもわれる。」(67~68頁)としている。さらに、五来2013.には次のようなまとめがある。

 当麻寺には白鳳の仏像、天平の建築や曼荼羅があるのに、藤原時代の文献にあらわれない不思議な寺である。藤原時代に入れば外護者の当麻氏はおとろえたが、それに代る支持者がなければ、鎌倉時代まで存続することはできなかったであろうし、いわんや現在われわれがこの寺や曼荼羅を見ることはなかったであろう。その支持者はおそらく記録をのこさぬ聖(ひじり)や庶民であったらしく、その信仰の遺品とおぼしきいものが曼荼羅堂の屋根裏にのこっていた。それらは、平安中期と推定される立像用船型挙身光背六十面と、坐像用挙身光背十面と台座三十台ほどであった。これらには枘穴(ほぞあな)がないので仏像の光背や台座でないことはあきらかである。文字がついてないから、その形態や類似の儀礼から類推するほかはないが、これを当麻寺の迎講(むかえこう)と関連づけるならば、往生者または成仏者がこの上に坐る儀礼があったことを想定される。……平安中期の光背と台座は、橋掛りをわたって曼荼羅堂へ入った信者が、蓮台座に坐り、光背を立てられて往生者となる儀礼にもちいられたものであろうと思われる。これは逆修(ぎゃくしゅ)という儀礼に相当するもので、生きているあいだに一旦死んだことにして葬式供養をおこない、それから再生すれば、一切の罪穢は消滅して、健康で長生きするばかりでなく、死ねば往生疑いなしという信仰であった。私はこれを擬死再生(ぎしさいせい)儀礼と名づけているが、迎講では彼岸に極楽浄土がなければならないので、曼荼羅堂や阿弥陀堂がこれにあてられたのである。(43~44頁)

 この議論について、「常世国」との関係から魅力を感じるものの、その信憑性は定かでない。お練り供養の行列がもともと、本堂、娑婆堂のどちらを出発点にしてどちらを折り返し点にしていたのか、記録にわからない。
 いずれにせよ、諸々総合して考えると、源信一人の手によってお練り供養が創作されて人々の間に定着していったとする言説はやはり怪しいと言える。人々の価値観、世界観が一世代の間にドラスティックに変わる現代とは違い、また、カルト宗教でもなさそうなので、かりそめにも他界観を含んだ宗教劇がすぐに馴染んでいくとは考えにくい。生真面目な考察は何でもありの当麻寺にはそぐわないように思われる。お練り供養のような劇場参加型の村祭りを企画したら、面白いから来年もまたやろうということになった、という程度の自然発生的な経緯を含めて考えるべき事柄ではないか。何かしら人々に“受ける”ドラマと思われたから、お金を払ってまで演じたいと感じられたのであろうし、しらけることもなく連綿と続けられてきたのであろう。宗教哲学を大上段に振りかざして国分寺・国分尼寺跡が各国に残った、というのと異なり、なぜか列島のなかに点々と残っているばかりの不思議なお祭りである。人々に何が受けたのかが、探求されてしかるべき要点である。おもしろいと思われるに最大の特徴は、頭にすっぽりとお面を被ることにあるのだろう(注1)

当麻曼荼羅図をめぐって─ナムとしての理解へ

 当麻寺に関しては、宗派が真言宗と浄土宗の並立になっていることや、開山が聖徳太子の異母弟の麻呂古王と伝えられている点、金堂にはみごとな弥勒仏坐像が安置され、奈良時代建立の東塔、奈良~平安時代建立の西塔がそびえるなど、整理のつかない点が多い。本尊の綴織当麻曼荼羅は、観無量寿経を絵解きした変相図であるとされている(注2)。中央に阿弥陀浄土図、左端に韋提希婦人(いだいけぶにん)が釈迦に極楽浄土を願う物語(序分義)、右端に極楽浄土を阿弥陀如来を観想するための十三の方法(定善義)、下端に生前の行いによって分かれる九品九生の極楽浄土(散善義)ならびに縁起文が描かれている。唐代の善導(613~681)の著した観無量寿経疏の考えと一致するとされている。周囲にめぐらされたコママンガがそれを示している。主眼は絵解きにあるのではなく、阿弥陀浄土を観想するための曼荼羅である。すなわち、実際に死んでいく際に「お迎え」が来るところを表した阿弥陀来迎図、山越阿弥陀図、二十五菩薩来迎図などとは絵のモチーフが異なる。来迎引接の劇的な瞬間を描いて強くアピールするものではないのである。お面をかぶって行列して行うパフォーマンスと、直接にはつながらない曼荼羅ということになる。
 日本美術全集の解説文に、「日本では浄土教の広がりとともに、観経変の中でも九品往生の説話が大きく取り上げられて来迎図(らいごうず)として発展したが、やがて鎌倉時代に入り、浄土宗西山派の証空(しょうくう)(1177~1247)などがこの当麻曼陀羅の存在を大きく取り上げて宣揚し、図像解説書や『当麻曼陀羅縁起』なども作られて、再び大いに流布転写されるようになった。」(221頁、この項、百橋明穂)と指摘されている。縮刷版が出回った。お練り供養を跡づける来迎図と、当麻曼荼羅図とは、歴史的に見ても図像として別の流れである。来迎の考えに縛られることなく当麻曼荼羅は拝まれていたに違いあるまい(注3)。そこへにわかに迎講が行われることとなった。そう考えると、レンゾという言葉は蓮華座をいう「蓮座」説もありうることになるが、筆者の関心の中心は漢字音にではなく、ヤマトコトバの音にある。
当麻曼荼羅図と、その向かって左側の「樹下会」部分(鎌倉時代、14世紀、東博展示品、人見楽子氏寄贈)
 この当麻曼荼羅図をよくよくみると、とても四角い。周囲はコマ漫画である。人見楽子氏寄贈東博本(列品番号A-1141)の場合は、さらにその外側に結縁者の記名欄もあるが、右側途中で終っている。中央の一全体図は、智光曼荼羅や清海曼荼羅と呼ばれる浄土変相図の類種ではあるが、中央の阿弥陀三尊像の、まわりに控えている三十四菩薩像の描かれ方が気になる。たくさんの菩薩が描かれていてとても賑やかである。菩薩たちの姿は、三尊同様、お顔やはだけた上半身は黄金色に塗られている。綴織当麻曼荼羅の金糸使いを、金泥を使って模写したところが当麻曼荼羅図の新しさなのであろう。頭髪や着衣、輪郭、背景はそれに対比して暗色に描かれており、全体的にみると縦縞模様になっている。菩薩たち一躰一躰は顔を右に左に向け、また、上体までも傾けくねらせており、互いに話をしている様が動的に描かれている。倶会楽を表しているのであろう。その結果、三尊の周りを黄と黒の縦縞模様の頭を振り振りしているトラが周回しているように見えてくる。ヘレン・バンナーマンの『ちびくろサンボ』では、トラが椰子の木の周りを回ってバターができたという話になっている。
 当麻曼荼羅は、極楽浄土を観想するためにある。観想することで、極楽往生のよすがになると考えられている。さらに簡便にした浄土教の思想、信仰は、南無阿弥陀仏という六字名号(ろくじのみょうごう)を心に思い、口で唱えることである。念仏を行えば極楽往生できるとされている。「南無(なむ)」とは、それにつづける対象に、心から帰依して身も心もおすがりすること、帰命(きみょう)することである。霊異記・上・第三十に、「観音の名号と称礼して曰く、『南无(なむ)、銅銭万貫、白米万石、好き女(をみな)多(あまた)、徳施せよ』といふ。」とある。今日でも、お仏壇の前でナームーと手を合わせてお参りしている。この南無習慣こそ、一般民衆を含めた多くの人々にとって、日本浄土教の真髄ではないかと筆者は考える。すべてはナムの話なのではないか。
 ナムという語は、上代に、並(竝)の意と、嘗(舐)の意とがあった。並(竝)の用例は、万葉集に、「舟並(なめ)て」(万36)、「馬並て」(万239)、記に、「たたなめて」(記14歌謡)といった例が見られる。嘗(舐)の用例は、推古紀に「塩酢の味(あぢはひ)、口に在れども嘗めず。」(推古紀二十九年二月)などとある。当麻曼荼羅の菩薩たちは並んでいるし、宴会を催していて飲み食いしているようでもある。どうやら、ナムとは、酔っ払っているように頭を左右に揺らすトラ、それは、ネコの小さな体に大きな頭のついた動物についてよく表している言葉のようである。酒を嘗めるように呑み、肴を舌なめずりする。
ネコの水飲み(99girsl様「猫が水を飲む時の様子がよくわかる動画」https://www.youtube.com/watch?v=elEtwpWMNkIをトリミング)
 そしてまた、ナムという語は、皮をなめす(鞣・滑)という意味にも使われたのではないか。鞣し革の技法は、現在では薬品処理にて行われているが、のび2009.によると、「獣皮加工の要点は(イ)腐敗防止 (ロ)柔軟化 (ハ)収縮変形防止にある。化学的には皮蛋白(コラーゲン蛋白質組織)の安定化、すなわち①膠質の除去、②脱脂にあった。しかしながら……前近代日本の皮革業は、今日でいう語の正確な意味での鞣しは部分的にしか成立せず、専ら獣皮組成を物理的に加工(叩く・擦る・揉むの繰り返し)することをもって鞣しと呼んできた(「皮革業」『部落史用語辞典』)。これらをも鞣しと呼んでいいとすれば中世皮革の鞣し技術の一般的到達点は……板目皮[生皮(きがわ)]作りであったということができるのである。」(56頁)。「現在の視点をもって生皮と鞣革を峻別しておかなければならない。広義の鞣しを段階を追って示せば①腐敗防止 ②不可逆性(革が皮に戻らない) ③軟化処理 ④鞣製の四つがある。現実には毛皮と脱毛皮、染色工程なども不可欠なものとして加わるので、種々の組み合わせが起きるが、原理としては右の四段階を考えることができる。「生皮干皮」は①②段階を経たものと位置づけられる。またそれで当時の牛馬皮需要の要求に応えられるものであった」(273頁)とある。鎧に大量に使用される小札作りには、生皮を藍染め・燻し・漆塗りした。色付けのための二次加工が、結果的に皮の鞣し工程に含まれてしまうことになっていたとされている。
 仁賢紀、養老令や延喜式には次のようにある。

 六年の秋九月の己酉の朔の壬子に、日鷹吉士(ひたかのきし)を遣して、高麗(こま)に使して巧手者(てひと)を召さしめたまふ。……是歳、日鷹吉士、高麗より還りて、工匠(てひと)須流枳(するき)・奴流枳(ぬるき)等を献る。今、倭国の山辺郡の額田邑(ぬかたのむら)の熟皮高麗(かはをしのこま・にひりのこま)は、是れ其の後なり。(仁賢紀六年条)
 凡そ官の馬牛死なば、各皮、脳(なづき)、角、胆(い)を収(と)れ。若し牛黄得ば、別(こと)に進(たてまつ)れ。(養老令・厩牧令)
 牛の皮一張〈長さ六尺五寸、広さ五尺五寸〉、毛を除(おろ)すに一人、膚肉(たなしし)を除すに一人、水に浸し潤し釈(くた)すに一人、曝(ほ)し涼(さら)し踏み柔(やわら)ぐるに四人。皺文(ひきはだ)に染むる革一張〈長広は上に同じくせよ〉、樫の皮を採るに一人、麹・塩を合せ和(か)ちて染め造るに四人。鹿の皮一張〈長さ四尺五寸、広さ三尺〉、毛を除し、曝し涼すに一人、膚宍(たなしし)を除し、浸し釈すに一人、削り曝し、脳(なずき)を和(か)ちて搓(たも)み乾かすに一人半。皂(くり)に染むる革一張〈長広は上に同じくせよ〉、焼き柔げ熏烟(くすぶ)るに一人、染め造るに二人。(延喜式・内蔵寮式)
 韉(したぐら)裏馬革〈表皮に准へ寮に在る者を用ゐよ〉。馬皮を熟す油〈枚別一合三尺、主殿寮に請へ〉。(同・左右馬式)
 革を作る料、油一合、塩三合、糟三升。(同・内匠寮式)

 小林1962.や前沢1976.、永瀬1992.、松井2003.に、脳漿鞣しの技術が行われていたことが述べられている(注4)。油鞣しもあったことが延喜式記事からわかる。何の油かは未詳である。
 筆者は、今、大きな頭をした虎の毛皮の鞣しについて考えている。脳漿鞣しが行われて脳が鞣しに使われた。そのことから推測すれば、頭骨ともども取られて空洞になった毛皮、虎のトロフィーができている。

頭の大きな被り物

 飛鳥時代のヤマトの人たちは、毛皮、皮革を利用している。応神紀に、鹿子水門(かこのみなと)の地名譚と日向(ひむか)の諸県君牛(もろがたのきみうし)の女(むすめ)髪長媛(かみながひめ)貢上譚との合体説話が割注形式で記されている。

 時に天皇、淡路島に幸して、遊猟(かり)したまふ。是に、天皇、西(にしのかた)を望(みそなは)すに、数十(とをあまり)の麋鹿(おほしか)、海に浮きて来たれり。便ち播磨の鹿子水門に入りぬ。天皇、左右(もとこひと)に謂(かた)りて曰(のたま)はく、「其(かれ)、何(いか)なる麋鹿ぞ。巨海(おおうみ)に泛びて多(さは)に来る」とのたまふ。爰(ここ)に、左右共に視(み)て奇(あやし)びて、則り使を遣して察(み)しむ。使者(つかひ)至りて見るに、皆人なり。唯だ角著(つ)ける鹿(か)の皮を以て、衣服とせらくのみ。問ひて曰く、「誰人(たれ)ぞ」といふ。対へて曰(まを)さく、「諸県君牛、是れ年耆(お)いて、致仕(まかりさ)ると雖も、朝(みかど)を忘るること得ず。故、己が女、髪長媛を以て貢上(たてまつ)る」とまをす。(応神紀十三年三月)

 この記事を素直に読めば、角のついた鹿の頭部を含めた毛皮を被り着ていたということになる。地球は丸いから、岸から少しばかり離れると、海に少しばかり浮かぶ船の姿は見えなくなり、船上の麋鹿の上体の姿だけしか見えず、泳いでいるように見えたとして何ら不思議なことはない。動物の毛皮を剥いで、腐敗防止や軟化処理する鞣し技法が古くから行われていた。そして、諸県君牛という人は、「牛」は地方長官の「大人(うし)」の意であろうが、牛が麋鹿に代わることの面白さを逸話に含ませている。麋鹿とあるのは、第一に、ヤクシカのような小型の鹿の頭部では人は頭に被れないからであろうし、第二に、頭が体に比して大きかったことを示唆するものでもあろう。被り物の様子を指しているらしい。つまり、被り物のご当地キャラクターのようなものになっている。体に比して頭が大きくなっている(注5)
 ヤマトの人は、牛馬鹿などの死体から毛皮、皮革を作り出して利用している。人間は同じ動物の仲間と思いつつ、家畜として使役する。かわいそうな気持ちがあるから、六道に畜生道は下位に位置づけられている。ナームーという気持ちになる。言葉として適っている。ただ、鞣しに関しては、特殊技能集団の民俗語であるし、皮肉なことに、仏教の殺生の戒律との関係から、タブー視されたり、その職業が視される傾向があり、文献にほとんど見られない。新撰字鏡に、「啜 士悦反、入、又市𦭁反、去。嚼也、奈牟(なむ)、又阿支比利比(あきひりひ)」とある。
 皮を鞣すことは、別の語で、ネル(練・錬・煉)ともいう。このネルという語は、①絹・木・皮・金属をしなやかになめらかに使い勝手の良いようにすることと、②練り歩く意味とが兼ねて用いられている。鍛錬と徐歩との関係を一つの語に含めて了解する背景は、管見ながら、これまでのところ指摘されているようには見えない(注6)
 筆者は、トラ(虎)をもって、鍛錬と徐歩との通義を理解する。トラという動物は、本性としてなわばりを確かなものとするために、あの縦縞模様(動物学的には横縞)を揺らしながら、同じ道を行ったり来たりする(注7)。檻に入れられると狭いために他にはけ口がなく、常同行動と呼ばれる行動になる。ヤマトの人たちは、中国や朝鮮半島の人たちからトラの様子を聞き知っていたのであろうが、彼らのトラ観は、トラを檻に入れて観察したところによる点も大きかったと思われる(注8)。論語・季氏に、「虎兕(こぢ)柙(かふ)より出で(虎兕出於柙)」とあり、白川1985.に、「饕餮は虎を文様化した、左右の展開図である。……金文の図象に虎形を用いるものがあるのは、古く虎の飼養に関与した部族がいたのであろう。」(275頁)とある。万葉集には、「…… 韓国(からくに)の 虎といふ神を 生取りに 八頭(やつ)取り持ち来(き) その皮を ……」(万3885)、また、紫式部日記に、「宮は、殿抱きたてまつりたまひて、御佩刀(みはかし)小少将の君、虎の頭(かしら)宮の内侍とりて、御さきにまゐる。」とあって、産湯に浸かる時の無病息災のおまじないに、虎の頭の毛皮か張りぼてのようなものを使っている。
饕餮文甗(青銅、中国、西周時代、前11~10世紀、東博展示品、坂本キク氏寄贈)
 トラはネコの仲間であるが、頭と体の比率がネコよりも大きく感じられる。右に左に頭を振りながら、すなわち、オモネリ(阿、面+練)ながら往還する。縞模様の付き方が顔の部分と胴体とでは異なるので、お面を被っているように感じられる。お練り供養で二十五菩薩が、橋の上を獣道のごとく往還するのと対照される光景である。天武紀朱鳥元年四月条に、新羅からの調に、「虎豹皮(とらなかつかみのかは)」が入っている。輸入されて珍重されていた。トラの毛皮は見事なデザインである。敷物として、また、馬具の障泥(あおり)にもよく用いられた。行きつ戻りつするところから、きちんと帰って来られるようにとのお呪いの意味もあったのではなかろうか。続日本紀に、「文武(ぶんぶ)百寮(ひゃくれう)六位已下、虎・豹・羆の皮と金・銀とを用ゐて、鞍の具、并せて横刀の帯の端に飾ることを禁(いさ)む。」(霊亀元年(715)九月己卯朔日)とある。正倉院には、熊の毛皮で作られた障泥や、海豹(アザラシ)とされていたがそうではなくてネコ科のトラやヒョウではないかとの意見のある毛皮を使った韉などが残る(注9)
戟に逃げ惑う虎(画像石、後漢時代、1~2世紀、東博展示品)
虎の毛皮(犬追物図屏風、桃山時代、17世紀、東博展示品)
村上貞助筆、東韃地方紀行から「舩廬中置酒」(文化8年(1811)、国立公文書館蔵展示品。左上のクマ毛皮上の人物が間宮林蔵。ほか華人(?)はトラの毛皮に座る。)

トラという言葉

 虎(とら、トは甲類)というヤマトコトバは、トラという生物を実見しないままに名づけられている。毛皮の輸入品を目にし、どういう生き物であるか、その大きさ、鳴き声、生態を話に聞き、虎(コ)と伝えられたにも関わらず、ヤマトの人は、トラと命名している。語源をめぐっては苦しい解釈が行われている。吉田2001.に、「トラ(虎)は、朝鮮から中国周辺部にかけての大陸語で、それが日本に伝わり、古くいわれたタイラを和語で解釈するようになった。すなわち、獲物に忍び寄ってぱっと捕らえる猛獣をトラ(取ら)だと考えたのは、猫をトラといったり、蠅取りグモをトラといったりする地方があることからも類推できるという。朝鮮語起源の語に日本的解釈を施した二重構造の語源説を認めざるをえないであろう。」(173~174頁)とある。tiger → タイラ → トラ & 取ら、という説らしい。
 筆者は、トラ(虎)という語は、トネリ(舎人)同様、いわゆる和訓であると考える(注10)。名の由来としては、蕩(とら)かせるものとしてトラと名づけられたのであろう。トラク・トラカス(蕩)には、①ばらばらになること、金属などを高熱によって溶解すること、②惑わされて本心を失わせたり、心をやわらげてうっとりさせたり、舌に甘く感じておいしいときの形容にいう、の二義が挙げられている。ネル(練・錬・煉)に見た二義の兼ね合わせとよく対照している。新撰字鏡に、「仳 疋視反、平、別也、分也、醜面也、和加留(わかる)、又止良久(とらく)」とあり、神武紀には意味深長な例が載る。

 初めて、天皇、天基(あまつひつぎ)を草創(はじ)めたまふ日に、大伴氏の遠祖(とほつおや)道臣命(みちのおみのみこと)、大来目部(おほくめら)を帥ゐて、密(しのび)の策(みこと)を奉承(う)けて、能く諷歌(そへうた)倒語(さかしまごと)を以て、妖気(わざはひ)を掃(はら)ひ蕩(とらか)せり。(神武紀元年正月)

 トラ(虎)は、銅鑼(どら)のように驚くほど大きな声を発し、凶暴に襲い掛かってくるが、ふだんは行ったり来たりを繰り返している。そして、ネコ型ロボット以上に頭が大きくて、左右に阿っている。酔っぱらいのことをトラと称するのは、通説にいう動物の名から取られた語ではない。酔っぱらいの左右に頭を揺らし倒しながら大声をあげてみたり、喧嘩っぱやくなったりすること、それは蕩(とら)けている状態である。酔っぱらいをトラという語に譬えたのが先で、それを後からよく似ていると伝えられたので動物のコ(虎)に当ててみたということであろう。左右にかしげている当麻曼荼羅の菩薩たちの描かれ方とは、大宴会の席の酔っぱらいとも、虎の皮毛の縦縞斑模様とも同じである。菩薩の肌の黄金色と、それ以外の暗黒色との縦縞が阿っている。そして、口のなかで味わうときに舌を使ってぐるぐるっと回す仕草をするのは、ナム(嘗・舐)でも、ナメス(鞣・滑)でも、トラカス(蕩)でもある。今日でも、とろけるマグロの大トロを、なめるようにして食べ、左手には酒杯を抱きながら、俗人は同じ口で、ナム(南無)と唱えて極楽往生を願っている。ナムの音は、嘗めるような口使い、舌使いで発せられる。お練り供養で菩薩のお面を着けるなり被るなりすると、頭の大きさが身体に比べて一回り大きくなる。気持ちまで大きくなってネコがトラになるわけである。そして、連なって、ナム(竝・並)ことになっている。すなわち、ナム(竝・並・嘗・舐・鞣・滑・南無)という語も、二義を兼ね合わせて成立している。食レポの起源は、お練り供養(迎講・来迎会・迎接会)にある。
 源氏物語・鈴虫に、「うしろの方に法花のまだらかけ奉りて」とあるマダラは曼荼羅の音便脱落である。法華曼荼羅は、霊山で法華経を説く会座を図示した図で仏菩薩が蓮華の開いた形に配されている。曼荼羅は斑(まだら)模様と見立てられているのであろう。推古紀二十年是歳条に、「斑白(まだら)」、「斑皮(まだら)」、「白斑(しろまだら)」とある。虎の毛皮は縦縞斑模様としてとても素敵である。和名抄に、「斑瓜 兼名苑に云はく、虎蹯、一名、貍首〈末太良宇利(まだらうり)〉は、黄斑文瓜也といふ。」、「幔 唐韻に云はく、幔〈莫半反、俗名は字の如し、本朝式に斑の読みは万太(図書寮本名義抄により「不」字を「太」の誤りと見る通説に従う)良万久(まだらまく)〉は帷幔也といふ。」などとある。幔については、運動会や卒業式で用いられる紅白幕や、歌舞伎の定式幕のように、縦のストライプが続くものをいう。斑瓜という語は、新来のスイカに取って代わられてほとんど見られなくなっている。ほかには、地層や貝殻文、マダラカマドウマ、アサギマダラに垣間見られるものの、今日でも規制線に用いられるほどインパクトのある黄色と黒色の縞々は、虎柄を措いてほかにない。筆者は、両界曼荼羅図ほかにではなく、当麻曼荼羅図に黄色い菩薩の並み座る、あるいは来迎図に並み進む様子にこそ、マダラのマダラたる本質として虎の縦縞斑柄、虎斑(とらふ)を見出す。「とらふ(捕・捉)」である。本邦において、儀軌を離れて曼荼羅という言葉が多様に用いられた理由の一端は、マダラという音による連想にあるのであろう。
 お練り供養を行う日を、奈良盆地にレンゾといった。「久米レンゾ」(久米寺)、「釜の口レンゾ」(長岳寺)、「松尾レンゾ」(松尾寺)、「多レンゾ」(多神社)などが知られている。ラ行始まりの言葉が飛鳥時代に遡るとは通常説明しづらく、「練道」説、「連座」説、また、「蓮座」説があげられる。しかしながら、なお、頭音の脱落形かもしれない点を指摘しておきたい。漢語ではなく、ヤマトコトバに起源する可能性である。お練り供養は春の農休み一般を包含するものではないが、お練り供養から言葉が生れたと仮定するならば、怠け者の節供働きを戒めるところから生れたのかもしれない。すなわち、きちんと休まなければ、稔りの秋になっても穫るものもトラレヌゾと言って、トラを略してレヌゾとなり、レンゾに音便化した。掛詞の戒め語とする戯れである。稲架の様子は、遠目に見れば、トラ(虎)の縦縞模様に見える。大切なもののことをいう虎の子、すなわち、舎利(米粒を含んだ籾)を懐いている。筆者は、稲架はトネリコとの関係から、須賀の宮に垣根、釘貫と同様と見、仏教に伝え聞く欄楯の譬えではないかと提起している(注11)。その際、回廊化して櫺(連子)窓をもつようになったことも指摘した。レンジとレンゾは音がよく似ている。
稲架(キヌヒカリ、生田緑地。左へ進むトラに見える。)
アムールトラ(シズカ号、多摩動物公園)
旧山田寺回廊復元連子窓の様子(飛鳥資料館)
 我々はここに至って、重大な事実に気づかされる。当麻寺にはレンゾはあるが、レンジ窓がないのである。古代の大寺院、飛鳥寺、山田寺、斑鳩寺、また、白鳳期の東大寺、各地の国分寺に見られる回廊を持たない。金堂、講堂、二つの塔、鐘楼、山門を抱えながら、それを取り囲むべき回廊がない。山懐に抱かれるばかりである。これこそ、実は、当麻寺の最大の不思議さなのかもしれない。「伽藍(てら)」(孝徳紀大化五年三月・白雉元年二月)になっていないということである。その代わりと言っては何であるが、レンゾが行われることになって近在の人々は参集している。すなわち、レンゾが行われ始めたのは、語学的には、曼荼羅堂が建てられて当麻曼荼羅が祀られる以前からのことであったと考えられるのである。和名抄に、「櫺子 四声字苑に云はく、櫺子〈郎丁反、字は亦、櫺に作る。礼迩之(れにし)〉は窓の櫺子也といふ。考声切韻に云はく、欄檻及び窓の間子也といふ。」とある。虎の練り歩きのようなお祭りを行うのは、伽藍を囲まれずに囚われていなくてもそこがテラ(寺)であり、トラの養生地であると確かめることでもあった。
 当麻寺のお練り供養が春の水田稲作農耕の始まりの前日に行われるのは、秋の豊作、稲架の並んだ姿を二十五菩薩の連なりのうちに思い描いたということなのではないか。農作業の終わった翌日に実見できるものである。米粒を嘗めること、つまり、新嘗祭の予祝として、レンゾは存在したということになる。米は蒸して食べられていたのか、炊いて食べられていたのか意見が分かれているが、ジャポニカ種の粘り気のあるものの話で、バターの話に似てねばねばしていて、ナム(嘗)と表現されて然るべきものと感じられたようである。仏教の浄土信仰のパフォーマンス、お練り供養とは、欄楯、稲架ともに、内に舎利を秘めたものである。民俗の観念、知恵との合作であったらしい。状況から言っても、ひとり源信に負うものではなかった。当麻寺のそれに中将姫が出てきたり、弘法寺の迎講に阿弥陀仏像本体が動いたり、バリエーションに富むのは、それぞれの地方のそれぞれの人びとが、それなりの信仰、伝承、アイデアをもって適宜臨んできたことを示すものである。
 なお、奈良盆地の西の山に当たる信貴山の張子の虎については、その縁起が著名である。聖徳太子の毘沙門天の話である。時代的にすべて飛鳥時代に遡るもので、お練り供養とは別の思考、観念の産物によって虎が登場していると考えるのが穏当である。それでも、張子である点に関しては、共通点を見出すことができる。お面を被って歩くと介添え役「と練り」歩く結果となる(注10)。それとともに、そのお面は、軽量化が図られなければならない。自然と、張子、張りぼてが求められることになる(注12)。仏像の制作技法として、奈良時代を盛期として乾漆像が多く採用された。日本美術史事典の「乾漆」の項に、中国での乾漆技法、夾紵(きょうちょ)についての解説に、「夾紵像は石、塑、金属像と比べて軽量であり、そのわりに耐久性に富む。漢代以来の伝統的な夾紵技法が、仏像を奉じて練り歩くための行道像や皇帝の偉業を記念する等身像の製作に用いられたことは、目的にかなった合理的な技術の採用であり、これらに夾紵像発生の一因が求められよう」(216頁、この項、副島弘道。)とある。そして、日本の乾漆仏像の技法として、「この[法華堂金剛力士の乾漆像製作途中、その張子像の]表面を漆に細かい植物繊維(杉の葉をついた抹香かともいうが不明。現在ではヒノキの挽き粉を用いる)を混ぜてペースト状にした木屍冠に木屎漆(こくそうるし)を用いて塑形する。」(217頁)としている。
 ペースト状の木屎漆とは、ヤマトコトバで表現するなら、練られた漆ということになる。ねりかね、ねりぎぬ、などと同じである。新撰字鏡に、「錬 力見反、練字同、又鐗二字同。▲(金偏に㔫の下に日)也。冶金也。䤻也。祢利加祢(ねりかね)」、和名抄に、「練 蒋詞切韻に云はく、練〈郎旬反、祢利岐沼(ねりきぬ)〉は熟絹也といふ」とある。乾漆の仏像、伎楽面の充填材料に用いられている黒褐色の何かを混ぜた漆については、「これとよく似た性質をもつ充塡材料としては、東寺兜跋毘沙門天像、同観智院五大虚空蔵菩薩像、清涼寺釈迦如来像その他の中国から舶来されたの木彫像に多く用いられている「練物(ねりもの)」の例がある。……法隆寺伎楽面の製作年代が大陸からの影響力の強い時期であったことを考えると、それに用いられた漆地粉が、日本製の「練物」として新たに造り出された可能性も、一概には否定はできない。」(中里1994.256頁)とのことである。ネリモノといっても蒲鉾の類ではないが、よく似た感触があるから同じ言葉に収められている。言葉とは、そういうものである。
 他にも、紙を丈夫にするサイズ剤として、和紙には、ねりが加えられた。広辞苑に、「ねり【粘剤】和紙の流し漉くきのため、紙料に混ぜる植物粘液。繊維を均等に分散して漂浮させ、美しく強い紙を造るのに有効に作用する。粘液を抽出する植物は主としてトロロアオイとノリウツギ。」(2179頁)とある。このネリという粘剤の利用について、また、古代の紙漉き技術一般については、さまざまな議論がある(注13)
 いずれの場合も、特殊、魔法的なネリを加えることにより、材料は、人々の利用にとってしっくりきてすばらしいものに仕上がっている。つまり、仏像や浄土思想、行道面、お練り供養なども、よく練られた、巧みに構成された、うまくできたモノであり、コトであったことを語っている。現実の虎を知らないで済んでいる限りにおいて、それはまた、実際の死というものを誰も知ることができない限りにおいて、恐いぞと脅されて怯えてはいるものの、その正体たるや張子や正体をなくした酔っぱらいであって、まあ、そういうことならいいじゃないか、といった頓智話であると締めくくることができる。春のれんぞであの世の舎利を演技したり見物したりし、秋の稲架でこの世の舎利に出会える。それもこれも一緒に練り歩いてくれる舎人や、トネリコの木が畦道に側立っているおかげである。ゆたかな人生とは、ひょっとして、神仏よりもトネリに感謝しなければならないものかもしれない。張子や稲を干すように、気持ちも軽く生きて行くことを諭されているように感じられる。
(つづく)

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