(承前)
日本書紀に、地名や人名、物名などの縁起を示すために取られる「号二○○一曰(謂)二△△一」の形のうち、○○にコノ、ソノといった指示詞が入るケースは全部で47例ある。そのうちのほとんど、43例は指示詞が「其」である。
故号二彼地一曰二竹屋一。(神代紀第九段一書第三)
因改号二其津一曰二盾津一。(神武前紀戊午年四月)
時人因号二其地一曰二母木邑一。(〃)
時人因号二其処一曰二雄水門一。(〃)
因号二其所至之処一曰二菟田穿邑一。(神武前紀戊午年六月)
故号二其地一曰二菟田血原一。(神武前紀戊午年八月)
因改号二其邑一曰二葛城一。(神武前紀己未年二月)
因以号二其山一曰二那羅山一。(崇神十年九月)
故時人改号二其河一曰二挑河一。(〃)
故号二其処一曰二羽振苑一。(〃)
故時人号二其脱レ甲処一曰二伽和羅一。(〃)
故時人号二其墓一謂二箸墓一也。(〃)
故号二其処一曰二角鹿一也。(垂仁紀二年十月)
故号二其国一謂二彌摩那国一。(〃)
号二其名謂二倭日向武日向彦八綱田也(垂仁紀五年十月)
故号二其地一謂二墮国一。(垂仁紀十五年八月)
仍号二是土物一謂二埴輪一。(垂仁紀三十二年七月)
故号二其二王一曰二大碓小碓一也。(景行紀二年三月)
故号二其処一曰レ京也。(景行紀十二年九月)
故号二其石一曰二蹈石一也。(景行紀十二年十月)
故号二其国一曰二日向一也。(景行紀十七年三月)
故号二其嶋一曰二水嶋一也。(景行紀十八年四月)
故号二其国一曰二阿蘇一。(景行紀十八年六月)
故時人号二其忘レ盞処一曰二浮羽一。(景行紀十八年八月)
故号二其剱一曰二草薙一也。(景行紀四十年是歳)
故号二其処一曰二焼津一。(〃)
故時人号二其海一曰二馳水一也。(〃)
故号二其泉一曰二居醒泉一也。(〃)
故時人号二是三陵一曰二白鳥陵一。(〃)
故時人号二其処一曰二御笠一也。(神功前紀仲哀九年三月)
故号二其処一曰レ安也。(〃)
故時人号二其処一曰二梅豆羅国一。(神功前紀仲哀九年四月)
故時人号二其溝一曰二裂田溝一也。(〃)
故時人号二其産処一曰二宇瀰一也。(神功前紀仲哀九年十二月)
故号二其処一曰二逢坂一也。(神功紀元年三月)
是以時人号二其著レ岸之処一曰二鹿子水門一也。(応神紀十三年九月)
故号二其養レ馬之処一曰二厩坂一也。(応神紀十五年八月)
因以号二其水一曰二堀江一。(仁徳紀十一年十月)
故時人号二其両処一曰二強頸断間衫子断間一也。(〃)
即号二其処曰二小橋也。(仁徳紀十四年十一月)
是以号二其地一曰二玉代一。(仁徳紀四十年是歳)
百済俗号二此鳥曰二倶知。(仁徳紀四十三年九月)
故時人号二其養レ鷹之処一曰二鷹甘邑一也。(仁徳紀四十三年九月是月)
故号二其処一曰二百舌鳥耳原一者其是之縁也。(仁徳紀六十七年十月)
故号二其水一曰二県守淵一也。(仁徳紀六十七年是歳)
時人号二其人一曰二路子工一。(推古紀二十年是歳)
指示詞が入らない例として、「又号二叩頭之処一曰二我君一。」(崇神紀十年九月)、「昔筑紫俗号レ盞曰二浮羽一。」(景行紀十八年八月)、「唐国号二妹子臣一曰二蘇因高一。」(推古紀十六年四月)といった例がある。後2例で明らかなように、こちらとしては自明であることを、よそでは別に言うことから生じた表記である。第1例の崇神紀の例は、平身低頭した場所を名づけてアギというという不思議な物言いである。後2例から勘案するに、自分たちのところではノミ(叩頭、祈、稽首、ノは乙類、ミは甲類)と言うけれど、よその幼児語風な甘え口調のまかり通っている地方では、ねえあなたの意で、アギ(我君、ギは甲類)と言っていると指し示す物言いであろう。
人名や地名に固有名を冠することは、その名に負うような事跡としてあったゆえそう名づけられるわけであり、いったんそう名づけられたらその名のとおり従うことが期待された。わかりやすくて納得できるからである。言霊信仰の、言=事という原則に合致してくれる。と同時に、名づけられるということは、対象として認められることが基底にある。他とは異なる特別な存在として選ばれている。その意味が固有名である。そのとき、その地やその人は、数多あるくさぐさのどうでもいい存在から、輝きをもって迎えられる。
一般的な名づけの場合、それまで当たり前のこととして放って置かれたソノ対象について、新たに名づけるからこそ地名譚などへとまとめられる。よって、「号○○曰(謂)△△」の言い方の○○の指示詞は、「其」と指示してクローズアップを行うことが多用される。
例外的に、「其」以外の指示詞が入るケースが見られる。
号二彼地一曰二竹屋一。(神代紀第九段一書第三)
号二是土物一謂二埴輪一。(垂仁紀三十二年七月)
号二是三陵一曰二白鳥陵一。(景行紀四十年是歳)
百済俗号二此鳥一曰二倶知一。(仁徳紀四十三年九月)
神代紀の「竹屋」が「彼地」とあるのは、訓み方としてはソノトコロである。上代語にカノという語はまだない。「彼」字が用いられているのは、竹刀を遠くへ投げ捨てたことや立ち入って行くことが難しい遠いところを表わそうとする意識が働いて、漢字の意味に近しいと考えたからであろう。景行紀の「白鳥陵」は、順を追って明示してきた3つの陵の総称を示そうとしている。今話している当該の物的対象3つに限る意図があるから、「是の」がふさわしい。仁徳紀の鷹の百済名「倶知(クチ)」は外国語の紹介である。聞き手に文脈的な解釈を求めることは難しく、「此の」というのがふさわしい。
「是○○」という言い方には、当該のものに限定するというニュアンスが含まれる。
爰(ここ)に天皇問ひて曰はく、「是れ何の樹ぞ」とのたまふ。一の老夫(おきな)有りて曰さく、「是の樹は歴木(くぬぎ)といふ。嘗(むかし)、未だ僵(たふ)れざる先に、朝日の暉(ひかり)に当りて、則ち杵嶋山(きしまのやま)を隠しき。夕日の暉に当りては、亦、阿蘇山(あそのやま)を覆(かく)しき」とまをす。天皇曰はく、「是の樹は神(あや)しき木なり。故、是の国を御木国(みけのくに)と号(よ)べ」とのたまふ。(景行紀十八年七月条)
天皇が筑紫後国の御木へ巡幸した時の問答である。天皇は、これは何の樹かと聞いているが、クヌギという樹種名を尋ねているものではない。当該の一本の巨木、「是れ」、「是の樹」は何か、と哲学的な問答が執り行われている。落ち着く先は、「御木国」という名であった。クヌギが生えていたらどこでも「御木国」になるものではない。
では、野見宿禰の言った「是土物」と、地の文にある「其土物」、「是土物」、天皇の言の「是土物」はどのような関係にあるのだろうか。
野見宿禰の言った「是土物」は「人・馬及種種物形」のことである。それを承けて地の文では、「其土物」と言っている。日葉酢媛命の墓に立てると言っていて、その実景を以て「是土物」と言っており、天皇は「是土物」と言い放っている。今、話題にとり上げているのは、終始「人・馬及種種物形」である。「埴輪」や「立物」と命名したと述べられている。それ以外の、それまで作られていた、今日、円筒埴輪や朝顔形埴輪と呼ばれる代物については触れられていない。また、命名の由来について、「是埴物」と地の文で語られているのは、現前する当該の、野見宿禰が献上した「人・馬及種種物形」のことを指示している。今後、それを陵墓に立てるように天皇は命令しているが、「埴輪」ないし「立物」を立てよとは発言していない。「是埴物」を立てよと言っている。つまり、文章構成として、「埴輪」ないし「立物」という命名譚は、一口話として不意に挿入されたにすぎない。その点を逸して、逆に「埴輪」という語を中心に据え、この記事を、今日的な概念規定にのっとった埴輪の起源と読み替えることは、読解の試験に不合格である。土師氏が始祖を顕彰するために後代に作り上げたものであるなどと当て推量して日本書紀を読むことは、正攻法で真っ当に活写している日本書紀筆録者の意図に相容れず、甚だしい曲解となっている。落語のオチ(サゲ)を以て落語のストーリー展開を説いても仕方がないではないか。
「立物」という言い方については、埴輪が立つためには土台部分が大事であるとの強調からの言であると考えられる。殉死者が埋め立てられていた代わりだからというので立者ならぬ立物であるとしたのかもしれない。埴輪製作の立役者、土師氏が付き従った野見宿禰は、相撲の得意な人物であった。出雲国にいたので土部に先んじて呼び寄せられている。その名が「野」+「見」とある点に、相撲の記事に野見宿禰が登場している理由もある(注13)。
白川1995.は、「野」は、「広々としていて、人の住まない土地、農耕などの及んでいないところ、野原をいう。区別していえば、原とは広々として平らなところ、野は山裾などの、ゆるい起伏のある傾斜地をいい、野山・裾野のようにいう。」(594~595頁)とする。水がかりが悪く農耕に適さない。よって生きている人は住まない。人工的に造られた「野」に、古墳の墳丘がある。京都の埋葬地は、化野、鳥部野、蓮台野、紫野など、「野」の地が選ばれている。野見宿禰の「野見」という言葉は、野辺送りの「野(の、ノは甲類)」の意味と、それを墓守として守る意味の「見(み、ミは甲類)」の続いた名と捉えることができる(注14)。彼の名前は、お墓と関係のある名であると感じられる。人の「住まひ」は、スクラップ・アンド・ビルド的な性質を持つ。古く掘立柱形式の民家は、柱が20年ぐらいで腐るからそのたびに建て直していた。伊勢神宮の遷宮に儀式化されている。人の寿命も健康体であれ人生50年と言われていた。対して、墓の場合は半永久的に「住まひ」の状態にできる。「住まひ」という語は、スム(住)+フ(反復・継続の意)の意とされ、ずっと住むことを暗示している。万葉集の「住まふ」の例は、長く住むことを言っている。
つれも無き 佐太(さだ)の岡辺(をかべ)に 帰り居ば 島の御階(みはし)に 誰か住まはむ(万187)
…… 布細(しきたへ)の 宅(いへ)をも造り あらたまの 年の緒長く 住まひつつ 座(いま)しものを ……(万460)
天地(あめつち)と 共に久しく 住まはむと 念(おも)ひて有りし 家の庭はも(万578)
天(あま)ざかる 鄙(ひな)に五年(いつとせ) 住まひつつ 都の風俗(てぶり) 忘らえにけり(万880)
三国山 木末(こぬれ)に住まふ むささびの 鳥待つが如 吾待ち痩せむ(万1367)
今に“古墳”時代と言っている。半永久的な「住まひ」施設が作られた。だから、野見という名の人は、「住まひ」に長じており、「相撲(すまひ)」にも長けた人と考えられたのである。
野見宿禰と当摩蹶速の記事は伝承である。実際に行われた相撲の行事は、天武紀や持統紀にある。
大隅(おほすみ)の隼人(はやひと)と阿多(あた)の隼人と、朝廷(みかど)に相撲(すまひと)る。大隅隼人勝つ。(天武紀十一年七月)
隼人の相撲(すまひ)を西の槻(つき)の下(もと)に観(みそこなは)す。(持統紀九年五月)
なぜか隼人が相撲をとっている。宮廷で、護衛、警護の役割を担っていた。古語に、抵抗する、拒否する、身をもってこばむことを、「拒(すま)ひ」という。その語から生れた「相撲(すまひ)」をさせている。ドクターストップの患者さん以外、誰でも相撲をとって構わない(注15)。それを隼人に限っているのは、単なる洒落であろう。当時、熊襲地域の人の身長は、ヤマトの人に比較して低かったらしく、今日の大相撲を見るような感じではなく、また、野見宿禰と当摩蹶速の力比べのような様相はなかったと推測される。警備員の身体が小さくても、単に異常を知らせる係として、いわば警報機、侵入者センサーとして勤めていたと考えられる。隼人は犬が吠えるように吠えた(注16)。当時の犬の体高は40~50㎝程度とされている(注17)。
隼人の相撲は大相撲ではなく、子供相撲、もっと言えば後代の紙相撲の類のおちゃらかしであった。トントン相撲ならば、当摩蹶速のように肋骨を折られて死ぬようなこともない。殉死者に代えて埴輪を立てたというのとよく似ていてパラレルな表現となっている。彼らの使っていた楯が平城宮跡から出土している。楯を立てている。隼人はもともとヤマト朝廷の隷属民である。有力者を人間の楯となって守っていた。その流れで、人間の代りになるのはタテであると考えられ、だから殉死者に代わる土物のことを「立物」と名づけたともいえる。警備や護衛を実行するのは彼らではなく、形象埴輪の人物として作られもした武人である(注18)。隼人の使った楯の逆S字の文様は、弥生時代の吉備地方の特殊器台に描かれる弧帯文のミラー映像のようである。偶然の一致なのか、イメージの連絡があるものか。この点に関しては、語学的な検証が及ばないのでこれ以上言及しない。
埴輪の製作者とされる土師氏は、紀に、神代紀第六段本文の天穂日命が「祖」、第七段一書第三にその「遠祖」とする記事がある。なぜ関係づけられているのか。天穂日命は、天照大神と素戔嗚尊の誓祈(うけひ)の際に、八坂瓊(やさかに)の五百箇(いほつ)の御統(みすまる)から生まれている。その名義ホヒ(ヒは甲類)は不詳である(注19)。ホには、穂、秀、帆、ヒ(甲類)には、日、杼(梭)、氷、霊、檜などの義がある。天穂日命が次に登場するのは、葦原中国を平定するために派遣されるときである。八十諸神(やそもろかみたち)から「天穂日命、是れ神の傑(いさを)なり。」と推奨されて平定に向っている。ところが、「然れども此の神、大己貴神(おほあなむちのかみ)に侫(おもね)り媚(こ)びて、三年に比成(な)るまで、尚し報聞(かへりことまを)さず。」(神代紀第九段本文)結果に終わっている。オモネルとは、面(おも)+練(ねる)の意、顔を相手の動きに合わせて右に左に向けるように、相手の意向に従い媚びへつらうことを指す。そのように繰り返し向きが左右に行き来するものといえば、東から昇り西に沈む日がある。また機織りにおいて緯糸を通すために右に左に走らせる杼(梭)がある。おそらく、天穂日命の名義は、そんな右に左に行き来することを象徴したものであろう。
以上見てきたとおり、垂仁紀の埴輪説話は、墓所に置いた土製の焼物のことを、「埴輪」「立物」と名づけた経緯について述べたものである。日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の墓に「人・馬及種種物形」に造作した「土物」だったがゆえに、ヒ(日・杼(梭))やハス(蓮)から思い起こされる丸い形を、「土物」に作る際の台座の輪の形に見据えたのであった。今日の人たちは、この話を、いわゆる埴輪の発祥物語と措定して、考古学的事実と食い違うと退けていた。文章読解の基礎が疎かであった。事物についての言葉が生み出される過程を考慮すれば、それまでは認識の枠組みさえ抱いていなかった盲点のような箇所に思いが至り、なるほどこれは○○と表わされるべきものであると、“新発見”がなされて命名されて名前がつく。「埴輪」の場合、今日いわゆる形象埴輪の誕生のきっかけとなった野見宿禰の逸話を盛り込んで、日葉酢媛命の墓への飾り物とされたことが「埴輪」という言葉の誕生となったことが述べられている。事物があればそれには名前があったはずであっても、言葉とは恣意的なものであり、言葉どうしは関係(négativité)としてあって、人々に使われることで培われてゆくものである。言葉の誕生を伝える垂仁紀の説話を、事物自体、それは今日、円筒埴輪と呼ばれるが、それがすでに存していたことと齟齬を起こすからとして、すべてフィクションであると片づけてしまっていた。言葉は実体(positivité)としてあるのではない。言葉とは何かについて、もう一度ソシュールのおさらいをする必要があるようである(注20)。
(つづく)
日本書紀に、地名や人名、物名などの縁起を示すために取られる「号二○○一曰(謂)二△△一」の形のうち、○○にコノ、ソノといった指示詞が入るケースは全部で47例ある。そのうちのほとんど、43例は指示詞が「其」である。
故号二彼地一曰二竹屋一。(神代紀第九段一書第三)
因改号二其津一曰二盾津一。(神武前紀戊午年四月)
時人因号二其地一曰二母木邑一。(〃)
時人因号二其処一曰二雄水門一。(〃)
因号二其所至之処一曰二菟田穿邑一。(神武前紀戊午年六月)
故号二其地一曰二菟田血原一。(神武前紀戊午年八月)
因改号二其邑一曰二葛城一。(神武前紀己未年二月)
因以号二其山一曰二那羅山一。(崇神十年九月)
故時人改号二其河一曰二挑河一。(〃)
故号二其処一曰二羽振苑一。(〃)
故時人号二其脱レ甲処一曰二伽和羅一。(〃)
故時人号二其墓一謂二箸墓一也。(〃)
故号二其処一曰二角鹿一也。(垂仁紀二年十月)
故号二其国一謂二彌摩那国一。(〃)
号二其名謂二倭日向武日向彦八綱田也(垂仁紀五年十月)
故号二其地一謂二墮国一。(垂仁紀十五年八月)
仍号二是土物一謂二埴輪一。(垂仁紀三十二年七月)
故号二其二王一曰二大碓小碓一也。(景行紀二年三月)
故号二其処一曰レ京也。(景行紀十二年九月)
故号二其石一曰二蹈石一也。(景行紀十二年十月)
故号二其国一曰二日向一也。(景行紀十七年三月)
故号二其嶋一曰二水嶋一也。(景行紀十八年四月)
故号二其国一曰二阿蘇一。(景行紀十八年六月)
故時人号二其忘レ盞処一曰二浮羽一。(景行紀十八年八月)
故号二其剱一曰二草薙一也。(景行紀四十年是歳)
故号二其処一曰二焼津一。(〃)
故時人号二其海一曰二馳水一也。(〃)
故号二其泉一曰二居醒泉一也。(〃)
故時人号二是三陵一曰二白鳥陵一。(〃)
故時人号二其処一曰二御笠一也。(神功前紀仲哀九年三月)
故号二其処一曰レ安也。(〃)
故時人号二其処一曰二梅豆羅国一。(神功前紀仲哀九年四月)
故時人号二其溝一曰二裂田溝一也。(〃)
故時人号二其産処一曰二宇瀰一也。(神功前紀仲哀九年十二月)
故号二其処一曰二逢坂一也。(神功紀元年三月)
是以時人号二其著レ岸之処一曰二鹿子水門一也。(応神紀十三年九月)
故号二其養レ馬之処一曰二厩坂一也。(応神紀十五年八月)
因以号二其水一曰二堀江一。(仁徳紀十一年十月)
故時人号二其両処一曰二強頸断間衫子断間一也。(〃)
即号二其処曰二小橋也。(仁徳紀十四年十一月)
是以号二其地一曰二玉代一。(仁徳紀四十年是歳)
百済俗号二此鳥曰二倶知。(仁徳紀四十三年九月)
故時人号二其養レ鷹之処一曰二鷹甘邑一也。(仁徳紀四十三年九月是月)
故号二其処一曰二百舌鳥耳原一者其是之縁也。(仁徳紀六十七年十月)
故号二其水一曰二県守淵一也。(仁徳紀六十七年是歳)
時人号二其人一曰二路子工一。(推古紀二十年是歳)
指示詞が入らない例として、「又号二叩頭之処一曰二我君一。」(崇神紀十年九月)、「昔筑紫俗号レ盞曰二浮羽一。」(景行紀十八年八月)、「唐国号二妹子臣一曰二蘇因高一。」(推古紀十六年四月)といった例がある。後2例で明らかなように、こちらとしては自明であることを、よそでは別に言うことから生じた表記である。第1例の崇神紀の例は、平身低頭した場所を名づけてアギというという不思議な物言いである。後2例から勘案するに、自分たちのところではノミ(叩頭、祈、稽首、ノは乙類、ミは甲類)と言うけれど、よその幼児語風な甘え口調のまかり通っている地方では、ねえあなたの意で、アギ(我君、ギは甲類)と言っていると指し示す物言いであろう。
人名や地名に固有名を冠することは、その名に負うような事跡としてあったゆえそう名づけられるわけであり、いったんそう名づけられたらその名のとおり従うことが期待された。わかりやすくて納得できるからである。言霊信仰の、言=事という原則に合致してくれる。と同時に、名づけられるということは、対象として認められることが基底にある。他とは異なる特別な存在として選ばれている。その意味が固有名である。そのとき、その地やその人は、数多あるくさぐさのどうでもいい存在から、輝きをもって迎えられる。
一般的な名づけの場合、それまで当たり前のこととして放って置かれたソノ対象について、新たに名づけるからこそ地名譚などへとまとめられる。よって、「号○○曰(謂)△△」の言い方の○○の指示詞は、「其」と指示してクローズアップを行うことが多用される。
例外的に、「其」以外の指示詞が入るケースが見られる。
号二彼地一曰二竹屋一。(神代紀第九段一書第三)
号二是土物一謂二埴輪一。(垂仁紀三十二年七月)
号二是三陵一曰二白鳥陵一。(景行紀四十年是歳)
百済俗号二此鳥一曰二倶知一。(仁徳紀四十三年九月)
神代紀の「竹屋」が「彼地」とあるのは、訓み方としてはソノトコロである。上代語にカノという語はまだない。「彼」字が用いられているのは、竹刀を遠くへ投げ捨てたことや立ち入って行くことが難しい遠いところを表わそうとする意識が働いて、漢字の意味に近しいと考えたからであろう。景行紀の「白鳥陵」は、順を追って明示してきた3つの陵の総称を示そうとしている。今話している当該の物的対象3つに限る意図があるから、「是の」がふさわしい。仁徳紀の鷹の百済名「倶知(クチ)」は外国語の紹介である。聞き手に文脈的な解釈を求めることは難しく、「此の」というのがふさわしい。
「是○○」という言い方には、当該のものに限定するというニュアンスが含まれる。
爰(ここ)に天皇問ひて曰はく、「是れ何の樹ぞ」とのたまふ。一の老夫(おきな)有りて曰さく、「是の樹は歴木(くぬぎ)といふ。嘗(むかし)、未だ僵(たふ)れざる先に、朝日の暉(ひかり)に当りて、則ち杵嶋山(きしまのやま)を隠しき。夕日の暉に当りては、亦、阿蘇山(あそのやま)を覆(かく)しき」とまをす。天皇曰はく、「是の樹は神(あや)しき木なり。故、是の国を御木国(みけのくに)と号(よ)べ」とのたまふ。(景行紀十八年七月条)
天皇が筑紫後国の御木へ巡幸した時の問答である。天皇は、これは何の樹かと聞いているが、クヌギという樹種名を尋ねているものではない。当該の一本の巨木、「是れ」、「是の樹」は何か、と哲学的な問答が執り行われている。落ち着く先は、「御木国」という名であった。クヌギが生えていたらどこでも「御木国」になるものではない。
では、野見宿禰の言った「是土物」と、地の文にある「其土物」、「是土物」、天皇の言の「是土物」はどのような関係にあるのだろうか。
野見宿禰の言った「是土物」は「人・馬及種種物形」のことである。それを承けて地の文では、「其土物」と言っている。日葉酢媛命の墓に立てると言っていて、その実景を以て「是土物」と言っており、天皇は「是土物」と言い放っている。今、話題にとり上げているのは、終始「人・馬及種種物形」である。「埴輪」や「立物」と命名したと述べられている。それ以外の、それまで作られていた、今日、円筒埴輪や朝顔形埴輪と呼ばれる代物については触れられていない。また、命名の由来について、「是埴物」と地の文で語られているのは、現前する当該の、野見宿禰が献上した「人・馬及種種物形」のことを指示している。今後、それを陵墓に立てるように天皇は命令しているが、「埴輪」ないし「立物」を立てよとは発言していない。「是埴物」を立てよと言っている。つまり、文章構成として、「埴輪」ないし「立物」という命名譚は、一口話として不意に挿入されたにすぎない。その点を逸して、逆に「埴輪」という語を中心に据え、この記事を、今日的な概念規定にのっとった埴輪の起源と読み替えることは、読解の試験に不合格である。土師氏が始祖を顕彰するために後代に作り上げたものであるなどと当て推量して日本書紀を読むことは、正攻法で真っ当に活写している日本書紀筆録者の意図に相容れず、甚だしい曲解となっている。落語のオチ(サゲ)を以て落語のストーリー展開を説いても仕方がないではないか。
「立物」という言い方については、埴輪が立つためには土台部分が大事であるとの強調からの言であると考えられる。殉死者が埋め立てられていた代わりだからというので立者ならぬ立物であるとしたのかもしれない。埴輪製作の立役者、土師氏が付き従った野見宿禰は、相撲の得意な人物であった。出雲国にいたので土部に先んじて呼び寄せられている。その名が「野」+「見」とある点に、相撲の記事に野見宿禰が登場している理由もある(注13)。
白川1995.は、「野」は、「広々としていて、人の住まない土地、農耕などの及んでいないところ、野原をいう。区別していえば、原とは広々として平らなところ、野は山裾などの、ゆるい起伏のある傾斜地をいい、野山・裾野のようにいう。」(594~595頁)とする。水がかりが悪く農耕に適さない。よって生きている人は住まない。人工的に造られた「野」に、古墳の墳丘がある。京都の埋葬地は、化野、鳥部野、蓮台野、紫野など、「野」の地が選ばれている。野見宿禰の「野見」という言葉は、野辺送りの「野(の、ノは甲類)」の意味と、それを墓守として守る意味の「見(み、ミは甲類)」の続いた名と捉えることができる(注14)。彼の名前は、お墓と関係のある名であると感じられる。人の「住まひ」は、スクラップ・アンド・ビルド的な性質を持つ。古く掘立柱形式の民家は、柱が20年ぐらいで腐るからそのたびに建て直していた。伊勢神宮の遷宮に儀式化されている。人の寿命も健康体であれ人生50年と言われていた。対して、墓の場合は半永久的に「住まひ」の状態にできる。「住まひ」という語は、スム(住)+フ(反復・継続の意)の意とされ、ずっと住むことを暗示している。万葉集の「住まふ」の例は、長く住むことを言っている。
つれも無き 佐太(さだ)の岡辺(をかべ)に 帰り居ば 島の御階(みはし)に 誰か住まはむ(万187)
…… 布細(しきたへ)の 宅(いへ)をも造り あらたまの 年の緒長く 住まひつつ 座(いま)しものを ……(万460)
天地(あめつち)と 共に久しく 住まはむと 念(おも)ひて有りし 家の庭はも(万578)
天(あま)ざかる 鄙(ひな)に五年(いつとせ) 住まひつつ 都の風俗(てぶり) 忘らえにけり(万880)
三国山 木末(こぬれ)に住まふ むささびの 鳥待つが如 吾待ち痩せむ(万1367)
今に“古墳”時代と言っている。半永久的な「住まひ」施設が作られた。だから、野見という名の人は、「住まひ」に長じており、「相撲(すまひ)」にも長けた人と考えられたのである。
野見宿禰と当摩蹶速の記事は伝承である。実際に行われた相撲の行事は、天武紀や持統紀にある。
大隅(おほすみ)の隼人(はやひと)と阿多(あた)の隼人と、朝廷(みかど)に相撲(すまひと)る。大隅隼人勝つ。(天武紀十一年七月)
隼人の相撲(すまひ)を西の槻(つき)の下(もと)に観(みそこなは)す。(持統紀九年五月)
なぜか隼人が相撲をとっている。宮廷で、護衛、警護の役割を担っていた。古語に、抵抗する、拒否する、身をもってこばむことを、「拒(すま)ひ」という。その語から生れた「相撲(すまひ)」をさせている。ドクターストップの患者さん以外、誰でも相撲をとって構わない(注15)。それを隼人に限っているのは、単なる洒落であろう。当時、熊襲地域の人の身長は、ヤマトの人に比較して低かったらしく、今日の大相撲を見るような感じではなく、また、野見宿禰と当摩蹶速の力比べのような様相はなかったと推測される。警備員の身体が小さくても、単に異常を知らせる係として、いわば警報機、侵入者センサーとして勤めていたと考えられる。隼人は犬が吠えるように吠えた(注16)。当時の犬の体高は40~50㎝程度とされている(注17)。
隼人の相撲は大相撲ではなく、子供相撲、もっと言えば後代の紙相撲の類のおちゃらかしであった。トントン相撲ならば、当摩蹶速のように肋骨を折られて死ぬようなこともない。殉死者に代えて埴輪を立てたというのとよく似ていてパラレルな表現となっている。彼らの使っていた楯が平城宮跡から出土している。楯を立てている。隼人はもともとヤマト朝廷の隷属民である。有力者を人間の楯となって守っていた。その流れで、人間の代りになるのはタテであると考えられ、だから殉死者に代わる土物のことを「立物」と名づけたともいえる。警備や護衛を実行するのは彼らではなく、形象埴輪の人物として作られもした武人である(注18)。隼人の使った楯の逆S字の文様は、弥生時代の吉備地方の特殊器台に描かれる弧帯文のミラー映像のようである。偶然の一致なのか、イメージの連絡があるものか。この点に関しては、語学的な検証が及ばないのでこれ以上言及しない。
埴輪の製作者とされる土師氏は、紀に、神代紀第六段本文の天穂日命が「祖」、第七段一書第三にその「遠祖」とする記事がある。なぜ関係づけられているのか。天穂日命は、天照大神と素戔嗚尊の誓祈(うけひ)の際に、八坂瓊(やさかに)の五百箇(いほつ)の御統(みすまる)から生まれている。その名義ホヒ(ヒは甲類)は不詳である(注19)。ホには、穂、秀、帆、ヒ(甲類)には、日、杼(梭)、氷、霊、檜などの義がある。天穂日命が次に登場するのは、葦原中国を平定するために派遣されるときである。八十諸神(やそもろかみたち)から「天穂日命、是れ神の傑(いさを)なり。」と推奨されて平定に向っている。ところが、「然れども此の神、大己貴神(おほあなむちのかみ)に侫(おもね)り媚(こ)びて、三年に比成(な)るまで、尚し報聞(かへりことまを)さず。」(神代紀第九段本文)結果に終わっている。オモネルとは、面(おも)+練(ねる)の意、顔を相手の動きに合わせて右に左に向けるように、相手の意向に従い媚びへつらうことを指す。そのように繰り返し向きが左右に行き来するものといえば、東から昇り西に沈む日がある。また機織りにおいて緯糸を通すために右に左に走らせる杼(梭)がある。おそらく、天穂日命の名義は、そんな右に左に行き来することを象徴したものであろう。
以上見てきたとおり、垂仁紀の埴輪説話は、墓所に置いた土製の焼物のことを、「埴輪」「立物」と名づけた経緯について述べたものである。日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の墓に「人・馬及種種物形」に造作した「土物」だったがゆえに、ヒ(日・杼(梭))やハス(蓮)から思い起こされる丸い形を、「土物」に作る際の台座の輪の形に見据えたのであった。今日の人たちは、この話を、いわゆる埴輪の発祥物語と措定して、考古学的事実と食い違うと退けていた。文章読解の基礎が疎かであった。事物についての言葉が生み出される過程を考慮すれば、それまでは認識の枠組みさえ抱いていなかった盲点のような箇所に思いが至り、なるほどこれは○○と表わされるべきものであると、“新発見”がなされて命名されて名前がつく。「埴輪」の場合、今日いわゆる形象埴輪の誕生のきっかけとなった野見宿禰の逸話を盛り込んで、日葉酢媛命の墓への飾り物とされたことが「埴輪」という言葉の誕生となったことが述べられている。事物があればそれには名前があったはずであっても、言葉とは恣意的なものであり、言葉どうしは関係(négativité)としてあって、人々に使われることで培われてゆくものである。言葉の誕生を伝える垂仁紀の説話を、事物自体、それは今日、円筒埴輪と呼ばれるが、それがすでに存していたことと齟齬を起こすからとして、すべてフィクションであると片づけてしまっていた。言葉は実体(positivité)としてあるのではない。言葉とは何かについて、もう一度ソシュールのおさらいをする必要があるようである(注20)。
(つづく)