古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

烏の羽に書いた文字を読んだ王辰爾

2022年11月22日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 敏達紀に、高麗の外交文書を王辰爾という人だけが読み解いたという話が載っている。本稿では、その記事の読解について問題にしたい。

 丙辰に、天皇、高麗こま表䟽ふみを執りたまひて、大臣に授けたまふ。諸のふひとを召しつどへて読み解かしむ。是の時に、諸の史、三日みかの内に皆読むこと能はず。爰に船史ふねのふひとおや王辰爾わうじんに有りて、能く読み釈きつかへまつる。是に由りて、天皇と大臣と倶に為讃美めたまひて曰はく、「いそしきかな辰爾、きかな辰爾。いまし、若しまなぶことをこのまざらましかば、誰か能く読み解かまし。今より始めて、殿のうち近侍はべれ」とのたまふ。既にして、東西やまとかふちの諸の史に詔して曰はく、「汝等、習へるわざ、何故からざる。汝等おほしと雖も、辰爾にかず」とのたまふ。又、高麗のたてまつれる表䟽ふみ、烏のに書けり。、羽の黒きままに、既にひと無し。辰爾、乃ち羽をいひに蒸して、ねりきぬを以て羽にし、ことごとくに其の字を写す。朝庭みかどのうちふつくあやしがる。(敏達紀元年五月)

 西暦572年のことである。この記事については、特に歴史学の立場から検討が加えられている。例えば、大橋2019.に、「高句麗からもたらされた烏の羽にかかれた上表を、てこずる東西諸史に替わって鮮やかに解読する王辰爾に、天皇と大臣が「勤しきかな辰爾。懿きかな辰爾」と讃嘆の声をあげたとする著名な記述は、古代文字文化の普及に果たした渡来人の役割を典型的に示すものであろう。」(334~335頁)とある(注1)。そこから、どのような目的で書かれた記述なのか推測されている。
 筆者は、渡来人の役割についてではなく、文章の読解について疑問を持つ。
 文の前半は、高麗(高句麗)の表䟽を諸史に読み解かせたが、三日経っても誰も読むことができず、船史の祖である王辰爾は能く読み釈いた。それで天皇と大臣はともに讃めて、お前が学ぶことをしていなかったら誰も読み解けなかっただろう、今後は殿中に近侍せよ、と言い、他方、東西の諸史に対しては、お前たちが習っているワザはどうして身についていないのか、数ばかり多くても王辰爾一人にかなわないではないか、と言ったということである。
 文の後半は、高句麗の表䟽は烏の羽に書いてあり、文字は羽の黒さにまぎれて識別できる者がいなかった。王辰爾は、羽を飯炊きの蒸気にあてて布帛を羽に押し当ててものの見事に写し取った。朝庭の人たちは皆あやしがった、としている。
 前半と後半をつなぐ部分には、「又」と接続詞が入っている。したがって、前半と後半は本来別のことを記述したものであると考えられる。同じことを二様に記していると考えられないこともないが、そうなると分けて書いた理由は不明ということになる。
 高句麗の表䟽が烏の羽に墨書されていたというのは興味をひく話である。それを王辰爾はワザを使って読み取った。皆あやしがることである。東西の諸史が読み取れなかったとしても、天皇や大臣から叱責されるものではあるまい。
 文の前半では、顕彰と叱責の文中に、「学」と「習」とが使い分けられている。王辰爾は「学」び、東西諸史は「習」うことをしていた。それが高句麗の表䟽を読めるか読めないかの違いだったのであろう。
 「まなぶ」と「ならふ」とは類義語であるが少し違う。さまざまに解説されているが、「まなぶ」が「まね(真似)」という語と、「ならふ」が「なれ(慣・馴)」という語と同根であり、意味が通底している点は強調されてよいだろう。「まなぶ」は「まねぶ」ともいうこともあり、真似をすることで獲得するところに力点が置かれ、「ならふ」は習うより慣れろと言われるように、反復しているうちに自然と身につくことに重きが置かれている(注2)
 すると、「ならふ」ことには学習姿勢において受動的なところがあり、よって得られる答案には100点を取ることは可能だがそれ以上はない。他方、「まなぶ」ことには自ら似せようとする能動的な姿勢があり、よって得られる解答には120点を取ることがあり得ることになる。
 高句麗の表䟽を渡されて、東西諸史は読むことができず、王辰爾だけができた。前半の文章だけで考えた時、二つの可能性が考えられる。一つは文章の構文が不明瞭であったということ、もう一つは書いてある文字が不明確であったということである。朝鮮半島においても、漢文を自国語風にアレンジしたものが使われていた。高句麗は古代の朝鮮半島のなかでは早くから統一国家となっており、その傾向が強く、5世紀前半の中原高句麗碑では漢字で書いてありながら漢文としては正格ではないところが見られる。当時の高句麗語、ないしは新羅語に“訛った”漢文であるとされている。そういうものが倭国への上表文としてもたらされたとも考えられる。ただ、その場合、東西諸史がまるで読めないというわけではなく、ある程度は読めたであろうし、そのうえで失敬な奴だとでも思ったのではないか(注3)。失敬だから読めないふりをしたということも考えられないわけではないが、そこまでひねくれる必要もないだろう。
 もう一つほうが可能性は高い。すなわち、高句麗の上表文は、東西諸史が習っていて慣れ親しんでいた文字ではなかったから読むことができず、王辰爾はそのような文字を解読するために、自ら真似をする学習姿勢を身に着けていたから読むことができた、というものである。そんなことがあるかといえば、漢字の歴史によく知られることがある。書体の変化である。
 中国で漢字の書体は甲骨文、金文、小篆、隷書、楷書へと続いている。南北朝期に楷書が使われるようになり今日に続いている。ただ、隷書に馴染んでいた人が楷書を目にしたからといって読めないということはない。篆書だと読めない字もあるものの、東西諸史がお手上げで王辰爾だけが読めた理由をそこに見出すことはできない(注4)
四體千字文(篆書・隷書・楷書・草書、梁・周興嗣撰、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2538621/9をトリミング)
 書体の違いにはこれとは別に、字が崩されて書かれる行書や草書がある。楷書に慣れ親しんでいる現代人にとっても、行書であれば少しわかりにくいことはありながらも読めないとまではならない。しかし、草書となると一気に解読率は低下する。その草書は隷書を略化したスタイルとして漢代に始まった(注5)。草書の名立たる使い手は王義之の名をおいて他にない。遠藤2006.に、「王羲之の草書で特徴的なことは、草書の使用が尺牘(せきとく)つまり手紙に限られるということです。これは草書の始まりから、使用の目的が手紙であったことに由来すると思いますが、逆に言えば手紙は、草書に限られるということなのでしょう。わたしは王羲之『十七帖(じゅうしちじょう)』を見たときに、こんな手紙をやりとりしていて本当に間違いなく意志が伝わるのだろうか、大丈夫だろうかと心配なのですが、どうもそうではなくて手紙の使用書体は草書でなくてはならない、ここに“実用と美の一致を見る”ということらしいのです。」(http://yurinsha.net/emchosaku/framekanzinogotai019.html)とある。
王羲之・十七帖(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1104805/2・4をトリミング接合)
 いま問題にしている高麗の表䟽は手紙である。だからそれは草書で書かれていた。楷書や隷書ばかりに慣れ親しんでいた東西諸史には判読できなかったが王辰爾は読むことができたということであろう(注6)。草書を読むためにはその書き方の癖のようなものを知る必要がある(注7)。王辰爾が読めたというのは、すでに草書を目にしていた、あるいは隷書を自分で速書きしていた、ないし、その気になっていたということではないか。日本書紀は、そのことを「ならふ」と「まなぶ」の違いによって表しているのであろう(注8)
 同じ字を隷書、または楷書と、草書とを比べれば、形は崩れているがまったく違うというのではなく、似ていると言えば似ているものである。つまり、もとの字を真似ている。草書だけしか知らず、草書ばかり書く人はいない。真似をしてみれば似ているとわかる。そしてまた、書の基本は臨書にあり、お手本の字に限りなく似るように写していく。それはまさに真似ることである。草書の達人の筆運び、墨蹟を見ながら真似て練習する。王羲之のしていたとおり、トン・スー・トンのリズムで書いていく(注9)。もとの字の真似である草書を再び真似るという二つの意味で、草書を会得することとは真似ることを熟達するということである。古語でいう「まなぶ」、「まねぶ」ことの本義にかなっている。
参考図:陸機・平復帖(西晋時代、章草の例、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/平復帖)
 敏達紀の前半の文章は、高麗の上表文は草書だったために読み解くのに難儀したということだろう。ほとんど暗号文に近い。諜報機関の行うようなことである(注10)。だからいかにも創ったような話が後半の文章につづいている。烏の羽に墨書したものを転写して読み取ったとある。書写と言うように、字は写すものだという奥義を王辰爾は知っていたという話になっている。そんな尾鰭のついた話に対して、前半の話は身に当たるのであり、草書で書いてあったことを裏付けている。
 地が黒く字が見えないものは他にもたくさんあろう。カラスの羽が持ち出されているのは、それが鳥だからと考えられる。書いてあるはずなのはフミである。ヤマトコトバに文字のことをフミという理由については、早く釈日本紀・巻第十六・秘訓一に解釈が載る。「○問。書字乃訓於不美フミ読。其由如何。○答。師説。昔新羅所上之表。其言詞太不敬。仍怒擲地而踏。自其後訓云不美フミ也。今案。蒼頡見鳥踏地而所往之跡文字不美フミ云訓依此而起歟。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991097/379)である。鳥の足跡説の、踏むからフミであるという説が広まっていたとすれば、上書きして文字の読み取れない黒い対象物にふさわしいものとして烏の羽は捉えられたのであろう。
 「辰爾乃蒸羽於飯気、以帛印羽、悉写其字。」というのが解読方法であった。
 何と書いてあるかよくわからないとは、どう言ったらいいかわからないということである。「ひ」(ヒは甲類)がわかるために「いひ」(ヒは甲類)の気を用いて対処している(注11)。相手が「烏」なのだから「枯らす」ことが問題だと知って蒸気によって湿らせている。目には目を、歯には歯を、で知るところとなっている。そのワザは、「写す」ことである。文字は書き写すことをもって伝えられるものであった。白川1995.に、「しやはもと寫に作り、べんせきとに従う。宀は廟屋、舃は儀礼のときに用いるくつでその象形字。〔説文〕七下に「物を置くなり」とし、形声とする。〔玉篇〕に「盡く」「除く」の訓がある。履をぬぐので除の訓があり、すべてものを他の器に移すことを寫という。」(154~155頁)と解説する。すなわち、写したら鳥の足の形そのものではないが、ゲソ痕はわかるから犯人の名(「」)はわかるというのである。
 説文にはまた、「吐 寫なり。口に从ひ土声」ともある。吐瀉の意である。ヤマトコトバにハクである。shoes もなぜか知らないが、ハク(履)ものである。取調室で吐いた言葉が自供である。「いひ」と「ひ」とが同根であるように、口から出すもの、出すこととしてハクという語もこじつけて考えられたのではないか。ハク(吐)とハク(履)とに通じるところがあるという意味である。ハク(吐)ことが「寫(写)」だと舶来の権威ある字書に定義されているのを参考にして、ハク(履)ものだと推定していったわけである。もたらされた「表䟽ふみ」は「高麗こま」からのものである。「高麗こま」は「こまこま)」と同音であったと考える(注12)。「こま」は子馬こうまの約である。「表䟽ふみ」は「み」と同音で、関連づけられて思われていた。馬が足に履くものは、馬の草鞋(わらじ)である。草を編んで作る。したがって、コマのフミは草なのである。草書体で書かれていた(注13)
馬に草鞋を履かせる(渓斎英泉・木曽街道板橋之駅、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1306225/1をトリミング)
草鞋状の編物出土状況(大阪市長原遺跡、6~7世紀、『長原遺跡東部地区発掘調査報告I』財団法人大阪市文化財協会、1998年。https://sitereports.nabunken.go.jp/4460の図版11をトリミング)
 「まなぶ」ことの基本は真似ることにあった。音声言語での口真似の語呂合わせも「まなぶ」ことに他ならないというのが、無文字時代の爛熟期にあった飛鳥時代の思潮であったようである。そして、後半の王辰爾の奇談は、「まなぶ」ことをしなければ読み取ることなどできないことを表すのに打ってつけの話として仕上げられているのである。暗号化するための秘法にもなる草書について、ヤマトコトバの音義にかなうように案出されたのだろう。
 話の命は伝わることによって保たれる。言(こと)と事(こと)とが違わなければ、今日考えられている“真偽”は二の次のことであった。敏達紀のような展開になっているのは、文字というものについての当時の人の認識、感じ方によっている。長らく無文字文化であったヤマトコトバは、漢字という文字に触れて、その圧倒的な文明力に多くのことを教えられつつ国作りを進めてきた。その際、言葉には文字という書記されたものがあることを知らされている。ところが、それは漢字であるからヤマトコトバにそのまま通用するものではなかった(注14)。太安万侶が古事記の序で言うとおり、無理して書き表そうとするとそぐわない側面があった。しかも、一般民が暮らしていくのに知らないからといって支障を来すものではないこともわかっていた(注15)。専門家のふひとに読み解かせて話させ、耳に聞いたなら理解できるからである。話し言葉から話し言葉への外国語翻訳はをさ、書き言葉から話し言葉へはふひとを置いておけば済んだのである。
 敏達紀の記事でも、天皇や大臣は文字を読むことはできないし、しようとする意思もない(注16)。高麗の表䟽は、それが外交文書であるということはわかっても、何が書いてあるかは史に読ませてからしか知ることはできないのである。一文字も読めないからといって、別に恥ずかしいことでも何でもなかった。読めた王辰爾を褒め、読めない史を貶している。文字の読み書きは専門家の仕事だった。
 そんな状況下において、専門家であるべき史に、文字を読める史と読めない史がいて、読める史が同定した字について、そう言われてみればそう書いてあると、読めない史が納得したとするなら、両者の違いは「まなぶ」「まねぶ」能力を身につけて学習していた者と「ならふ」ことによって学習していた者との差ということになる。そのことをヤマトコトバに的確に表して記している。そして、文字を読む専門集団の上に立つ立場の天皇や大臣は、能力の違いを見事に見抜いていたということになる。管理職は技術自体を知っている必要はなく、役に立つか立たないか査定できればよいのである。

(注)
(注1)船史氏の家記に基づいた作文であるとの考えは、加藤2002.にも「明らか」(293頁)なこととされている。また、関1996.では、「烏の羽の話が事実でないことは明らかである。」(16頁)とされている。筆者には、敏達紀が書かれた時点で船氏の家記があったかどうかさえわからないのにどうして「明らか」と言えるのか、カラスの羽に墨書して判読に手こずる密書的国書があり得ないとは言えないのにどうして「明らか」と決めつけるのか疑問である。考えるべきことは、懐風藻に「高麗上表して、烏冊を鳥文に図す。……辰爾終に教を訳田に敷く。」などとおもしろがられて記憶されるほどの叙述を試みた、述作者のクリエーティブな側面についてであろう。仮にフェイクニュースであったとしても、なぜそのような興味深い話に仕立てているのかという点を考察しなければならない。
(注2)古典基礎語辞典の「解説」は的確である。「まなぶ」については、「マネブ(学ぶ)と同根。」(1123頁)とし、「まねぶ」は、「名詞マネ(真似、動作などを似せることの意)に、…のようにする意の動詞化する働きをもつ接尾語ブが付いて成った語。対象をそっくりそのままの形で再現しようとする意。口まねをする、そのままを語り伝えるところから、伝言の使者の動作などにも用いられた。口頭の場合のほか、文章に移し記す場合にもいう。また、言葉に移すことに限らず、事柄をものに似せて同じように再現しようとする意。そこから学習の意にもいう。」(1125頁)、「ならふ」については、「ナル(馴る)・ナラス(馴らす)と同根。一つの物事に繰り返しよく接する意が原義で、経験を繰り返すことによって自分の習慣になる意。いつもそうであることによって、それを当然と扱う意。また、決まっている方式に従う、模倣するの意でも用いる。……他動詞は技術を繰り返し経験することによって身につける意。楽器の演奏や書の練習、読経、作詩など、練習を重ねて習得する意。類義語マナブ(学ぶ)・マネブ(真似ぶ)は、対象をそっくりそのまま再現しようとする意。」(905頁、以上、筒井ゆみ子)としている。
(注3)「二十八年の秋九月に、高麗のきみ、使をまだして朝貢みつきたてまつる。因りてふみたてまつれり。其の表に曰く、「高麗の王、日本国やまとのくにに教ふ」といふ。時に太子菟道稚郎子うぢのわきいらつこ其の表を読みて、怒りて、高麗の使を責むるに、表のかたちゐや無きことを以てして、則ち其の表をやりすつ。」(応神紀二十八年九月)とある。
(注4)高句麗の広開土王碑、中原高句麗碑、新羅の真興王巡狩碑、蔚珍鳳坪碑、百済の武寧王陵買地券、砂宅智積堂塔碑などを見る限り、それが碑文であるためか読むのに難しくない。
(注5)石川1996.に、「現在、我々が考えるような、筆・紙・墨の関係に生じる表現にあって、文字は楷書・行書・草書がセットで存在するものだと考えられる書の構造は、……西暦三五〇年頃の中国六朝期から、宋代一一〇〇年頃までの七五〇年くらいをかけてゆっくりと出来上がったものだと考えるのがいちばんいいように思われる。そのうち、おおよそ三五〇年頃から六五〇年頃までが前期、比喩的に名づければ「王羲之の時代」であり、六五〇年頃から一一〇〇年頃までが後期、「脱王羲之の時代」と名づけると、書の歴史が生き生きと見えてくるのではないだろうか。
 発生的には、楷書をくずして生まれた書体が草書ではなく、逆に草書が硬書化して生まれたものが楷書である。また、楷書体、行書体、草書体という区別……は相互に歴史的に複雑なからみ合いの構造にあるのであって、それぞれの書体をはっきりと形状の上から定義づけられるようなものではない。」(98頁)とある。なお、草書の発生は木簡・竹簡に始まっている。
広地南部永元五年至七年官兵釜磑月言及四時簿(中央研究院歴史語言研究所(台湾)所蔵)(ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/居延漢簡)
 我が国において早い時期、と言っても天平8年(736)頃の行書の例に次のような出土木簡がある。行書であって草書とは呼べない。
行書風の文字で記した藁の借用依頼の手紙の木簡(「牒東宅司所藁卅束右物依数 九月二日大友真君 暫借明日報納故牒」、平城京木簡、SD5300出土、京3-4517、赤外線写真、平城宮跡資料館「地下の正倉院展─平城木簡年代記─」展展示品、木簡庫(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFFJD29000207)参照のこと)
 とはいえ、木簡に荷札木簡が多数存在していることは、王辰爾が「愛於学」する機会に恵まれていたことを示唆している。王辰爾については欽明紀にも記述がある。

 蘇我大臣稲目宿禰、勅を奉りて王辰爾を遣して、船のみつきを数へ録さしむ。即ち王辰爾を以て船長ふねのつかさとす。因りて姓を賜ひて船史ふねのふひととす。今の船連ふねのむらじおやなり。(欽明紀十四年七月)

 「数‐録船賦」については、船に関する税のこととされているが、船荷を点検して数えては記録することが役目であったろう。朝鮮半島諸国から届いた荷物には荷札木簡が付いており、草書風に書かれたものも目にしていたということではないか。
謹直な隷書に付された別筆の草書「今言府請令就醫」(報告を受けた官署の指示内容)(藤田2022.15頁図(3))
 中国漢代の木簡は居延から大量に出土している。藤枝1959.に、「書類の草稿、急ぎの書類、重要でない書類[、]同輩間の私信などには、……盛んに草体を使った。草体と言っても、この頃の草体は、後世のものの様なつゞけ書きした草体、いわゆる連綿草ではなく、一字一字独立してくずした、いわゆる章草体である。」(29頁)とある。どのような草体であったかは、「簡牘字典─史語所蔵居延漢簡資料庫─」https://wcd-ihp.ascdc.sinica.edu.tw/woodslip/から、藤枝氏があげている例の「□自在數蒙貰下守候力不足檄」なども検索、参照されたい。
(注6)高句麗では、中国の楽浪・帯方郡の影響を強く受け、「漢代の書写スタイルを保持していた」(馬場2018.288頁)としたら書風もその傾向にあったと言えよう。馬場氏は高句麗の古墳壁画の3点の絵画資料から、右手に筆、左手に一定の堅さのある書写媒体を持って宙に浮かせた状態で書いている様子を見てとっている。今日見られる漢代の木簡の書体からさらに草書の度合いを深めていたものが表䟽とされていたとしたら、荷札木簡を一度も目にしたことのない東西諸史に解読できなかったことはよくわかることである。
(注7)佐野1996.参照。行書や草書は隷書や篆書を母体として生まれ、その後3世紀ごろになって楷書が生まれた。楷書を基準に草書の特徴を見てみると、筆順の違い、点画の省略や増加、また書き方や位置の違い、そして、やや繁雑で似通った形を特定の形へパターン化したところがあるといった点があげられる。隷書の時代に生まれたのだから隷書や篆書の筆順に従うことが多く、また、速書きに便利なように接近した点画は連続して書くことも起こっている。速く美しく書けるように編み出されたものだから、点画を省き減らしたり、特定の形への簡略化も見られている。
(注8)ワザの習得については、哲学や心理学、教育学、身体論などで盛んに論じられてきた。ここでは、王辰爾がどのような過程を経て草書を読むに至れたのかに限ってのことなので、(近代になってからの再認識のための)膨大な研究史については深入りしない。ひとつの参考例として、漢字の成り立ちを探究するために甲骨文字をトレースし、古代人の考え方をなぞることで近づいた白川静氏の偉業のことを挙げておく。時空を超えて事物のなかに潜入する(dwell in)(М・ポランニー)ようになり、ハビトゥス(habitus)(М・モース)化の状態に至ったということであろう。ヤマトコトバに直せば「ならふ」ではなく「まなぶ」ことをされたということに当たると考える。
 王辰爾を評した言は、「天皇与大臣倶為讃美曰」となっている。実際に天皇と大臣が異口同音に言ったということではなく、紀の執筆者が話をまとめたものと捉えるのが穏当だろう。
(注9)王辰爾が「能読解」ことができるようになったという「愛於学」とは、真似ることをよくしたということと考えられる。技法の伝達には擬態語が使われることが多い。まさにその動きは、トン、スーといった擬態語で表されている。彼が王氏であったことは、王羲之とのつながりを示唆するものとなっている。
(注10)太平洋戦争中、米海軍極東言語学校(US Navy Oriental Language School)では、日本軍の文書が解読できるよう、活字以外に草書まで読めるように訓練されていたという。
(注11)口にするもの、ことをイヒ(飯・言)と表していて、両語は同根の語であろうと考えられている。
(注12)時代別国語大辞典は、「巨麻尓思吉」(万3465)の例や、九州土着民の「肥人こまひと」との違いからコを乙類であるとしているが、「高麗」を「狛」とも記しているのでコは甲類であったとする岩波古語辞典の説をとる。なぜなら、我が国へ馬をもたらしたのは、朝鮮半島の北辺から侵入して建国した遊牧民、高句麗によるところが大であったからである。犬のような大きさの駒(狛)を船に乗せて来て、さてどうするのかと見ていると、飼葉を与えてどんどん大きくして、やがてはそれに騎乗し闊歩していたのである。
(注13)我が国への馬の到来とは、飼う方法、使う方法など、まるごと渡来人がもたらしたものである。フットケアの方法も知っていて、砂利道や凍結したところを荷物を載せて進ませるには蹄を保護する必要があることもわかっていたに違いない。人が履く草鞋類については、和名抄には、「屩 同注に云はく、屩〈居灼反、脚と同じ、字は亦、〓〔尸+彳+甘+冂+半〕に作る、和良久豆(わらぐつ)〉は草屝なりといふ。」と見える。草鞋も渡来人によってもたらされたものかもしれない。一方、説文・序に、「漢興りて草書有り」と記されており、草書という名称があったことが知られている。
(注14)アルファベットを使って日本語を記しても、単にローマ字書きしただけである。
(注15)学校教育で二次方程式や三角関数、微積分を学ぶが、日常生活を送るのに必要なのは四則演算程度である。労働はロボットが代行してくれるようになる日も近く、古代の大王や豪族のもっていた感覚に近づいているのかもしれない。
(注16)今日では、書き言葉から書き言葉への外国語翻訳をする翻訳家がいるが、飛鳥時代に行われていたとは考えにくい。漢語の訓みを万葉仮名で書き直したものといえば、例えば新撰字鏡のほんの一部に訓が見られるが、網羅的なものは見られない。話し言葉としてのヤマトコトバ内で十分に意思疎通が図れたからである。律令制が敷かれて文書行政が行われるようになってから文字文化は著しく進展したものと考えられるが、その多くは「ならふ」ことで獲得されたものであったと思われる。自らの着想を文字化しようと試みた可能性のある万葉集では、表記されたもののなかに「まなぶ」過程を経ていると目されるものがしばしば見られる。

(引用・参考文献)
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佐野2017. 佐野光一編『木簡小字典 拡大版 新装版』雄山閣出版、平成29年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
関1996. 関晃『古代の帰化人』吉川弘文館、平成8年。
田中2009. 田中一生「王羲之以前の文字造形~簡牘にみられる文字より~」(学位論文)2009年3月。奈良教育大学学術リポジトリhttp://hdl.handle.net/10105/918
冨谷2010. 冨谷至『文書行政の漢帝国』名古屋大学出版会、2010年。
馬場2018. 馬場基『日本古代木簡論』吉川弘文館、2018年。
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藤田2022. 藤田高夫「字体分析による中国木簡学の可能性」『KU-ORCASが開くデジタル化時代の東アジア文化研究:オープン・プラットフォームで浮かび上がる、新たな東アジアの姿』関西大学アジア・オープン・リサーチセンター、2022年3月、関西大学学術リポジトリhttp://doi.org/10.32286/00026578

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