古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

垂仁紀の諺「神の神庫も樹梯の随に」について 其の二

2020年08月26日 | 古事記・日本書紀・万葉集
(承前)
(注)
(注1)記紀には、「天つ神の御所(みもと)」(記上)、「天照大御神の営田(つくりた)」(記上)、「日神(ひのかみ)の田(みた)」(神代紀第七段一書第三)、「大屋毘古神(おほやびこのかみ)の御所(みもと)」(記上)、「天照大御神・高木神の御所」(記上)、「綿津見神(わたつみのかみ)の宮」(記上)、「海神(わたつみ)の宮」(神代紀第十段本文)、「伊勢大神(いせのおほかみ)の宮」(崇神記)、「諸神の社」(垂仁紀二十七年八月)、「神の宮」(斉明紀五年是歳)とある。万葉集でも、「神の宮」(万1740)、「神の社」(万404・558・2660・2662・4011)、「神山」(万2178)、「神岳(かみをか)の山」(万159・1678)、「神宮(かむみや)」(万199)などとある。
(注2)太田1984.は、現代にみられる家屋から検討を始めている。

 屋根の構架法についてみると、市街地の住宅では、切妻でも、寄棟でも、人母屋(いりもや)でも、構造法は同じで、いわゆる和小屋という、梁の上に束を立てる方式である。しかし農家をみると、切妻のものを別として、寄棟のものでは、合掌に構架法をとっている……。寄棟に重要な隅木は、この場合そう大きな役目を果していない。このような構造方式の違いは、決して現在に近い時代に生じたものではなく、よほど古い時代からの伝統によるものであろう。……民家における合掌(三本の叉首(さす)によって構成される)型の小屋組は、神社にはみられない。神社は束あるいは柱によって棟木を支える。このような構造方式の違いは、単なる形とは違って、簡単に変わるものではないから、その起源は非常に古いとみなければならない。(12~13頁)

 筆者は、構造方式不変説に異を唱えたい。むしろ、表面上の見てくれは同じにして、構造を丈夫にすることが多くあるように思われる。家屋に関する人々の観念が移ろいを拒むケースである。今日、戸建て住宅において、軸組工法か、2×4か、軽量鉄骨造か、外見上は大差なく仕上げられている。従来の瓦に似せた軽量金属瓦をわざわざ拵えて屋根を葺いていることもある。太陽光パネルも、いかに屋根になじむようにするかの見た目にポイントが置かれている。通念となっている「家」らしくしようと思う癖があるらしい。そういう視点から物事を捉えるなら、神社の屋根が実はその昔、「農家の小屋組」形式であったのが、外からはわからないように中だけ変えて、梁から立つ束に棟木を乗せるように変えたと言えないだろうか。伊勢神宮に、古くは暴風に倒壊することが頻繁にあった記録が残されており、後世には倒壊しにくくなってきている。先にあげた茅葺き屋根の小屋組でも、「オダチ組」、「サス組」に大別されつつその折衷型もよく見られる。小屋組の構造は外からはわからない。みな一律に“茅葺き屋根”である。見た目重視でそれらしさを追究して、神明造の建築様式に棟持柱が残存していると考えられる。用の美ではなく無用の美である。
(注3)「工匠(たくみ)」の記述に、「天皇、木工(こだくみ)闘鶏御田(つけのみた)……に命(みことおほ)せて、始めて楼閣(たかどの)を起(つく)りたまふ。是に、御田、楼(たかどの)に登りて、四面(よも)に疾走(はし)ること、飛び行くが若きこと有り。」(雄略紀十二年十月)とある。この記事を表面的に読むと、今日、遺跡に復元されている弥生時代や縄文時代の高殿は何であるか、疑問が浮かぶであろう。筆者は、工匠の登場とは、専門職として仕口をきれいに鑿で穿り、梁や束を伴った建築技法が確立したことを表すと考えている。仕口に隙間なく材が納まり、自立して揺るがないことは、巧みな技と言えよう。ロープで棟木や軒などの部材を結わいただけで全体バランスのもとに支えていた場合、楼上で疾走したら揺れて他の作業員に迷惑であったと思われる。大中姫命が怖がっていた棟木の不安定さがなくなったということである。
(注4)川添2010.に、「伊勢神宮では妻がころんでいないから、棟持柱の必要はなさそうであるが、そうとばかりはいえない。試みに厚紙を二つに折って屋根型にふせ、上から力を加えると、紙は左右にひらいていくであろう。つまり屋根の重みは、妻側から見た場合、柱や壁体を左右に開く方向に力をあたえる。そこで屋根を棟持柱で支えるとともに、左右の柱に梁をわたして互いに引っぱり合わせてつなぎとめておく必要があるが、この梁は、引っぱり材であるから、一本の通ったものでなければならない。平安時代になると、柱を水平材が貫通する貫(ぬき)の構法が開発されたが、奈良朝以前は、それはなかった。したがって棟持柱と梁とを同一平面におくことが出来なかった。」(79~80頁)とある。伊勢神宮の建物を中心に据えて建造物の構法を考えている。そう考える限りにおいて、「棟持柱は米倉の名残り」であるとされよう。埴輪に見ると切妻屋根、入母屋屋根、寄棟屋根、片流屋根といろいろある。そのなかで神明造は切妻屋根のものを採用したに過ぎず、その切妻高床式倉庫の屋根が棟持柱によって支えられていたのを、後から梁に束を立てて棟木を支えるようにしたということによって“名残り”と見立てられるというばかりではないか。
 筆者はヤマトコトバのクラを中心に考えている。蔵造りの要点は、耐火性、防雨性、防鼠性、定温管理などである。蔵に置屋根のものが残る。屋根を別にもう一重加えて遮熱効果を高めている。屋根を建屋と別造りにする点は、もちろん建築設計上の由来は異なるが、棟持柱で屋根を支える姿に結構似ている。相似する特徴を一言で言い表すなら、それはクラである。
(注5)兼右本には、神武前紀、天武紀三年八月条はホクラと傍訓があるが、垂仁紀八十八年七月条の「神府」にはミクラとある。必ずホクラと訓まれたかどうか、すなわち、ホクラというヤマトコトバに漢字をあてがったものかどうか、訓詁的には確かめられない。本稿では、語学的にホクラと訓まれて正しいことを論証している。
(注6)和名抄に、「梁 唐韻に云はく、梁〈音は良、宇都波利(うつはり)〉は棟梁也といふ。爾雅注に云はく、杗廇〈亡霤の二音〉は大梁也といふ。」、「梲 爾雅に云はく、梁の上の柱は之れを梁〈音は拙、和名は宇太知(うだち)、楊氏は蜀柱と云ふ〉と謂ふといふ。孫焱曰く、梁の上の柱は侏儒也といふ。」、また、新撰字鏡に、「枘 宇太知(うだち)、又宇豆波利(うつはり)」とある。新撰字鏡の、枘、梲、梁を一緒くたにした記述は、鑿をもって枘穴を抉り、梁や束柱をすえて梲を作ったことが新しいことであったからかもしれない。「卯建が上がらない」という慣用句は、もともと、富の象徴として、妻壁を屋根の高さより一段高くしたことに発するとされ、のち、瓦や土壁で塗り固めるようになって防火壁の機能を持つようになったと言われている。しかし、埴輪に卯建形のものが見られつつ、古字書の解説は不分明のままである。棟持柱で屋根を吊る方式から、梁の上に立てた束柱で支える方式へと変更したところに画期を見出して、そのような慣用句が生れた可能性も残されている。ただし、文献上の用例に古いものは見られない。
(注7)「ままに」の形は、上代語に他に確例がなく、平安時代に「まにまに」が撥音便化したものとされている。筆者は、本例をもって「ままに」が上代語においても存在していたと考える。
(注8)稲田2013.は、ハシノコのコは、「〝木の葉〟などと同様、<木>の古形」(22頁)とする。文献例に乏しく不明である。一般に「梯子」と記され、「梯木」と書かれることは管見にしてみられない。縄梯子もあったと思われる。筆者にはほかにもいくつか疑問がある。「[梯子という]道具発生の主因は「木登り」にあったと考えられる。」(22頁)とし、また、梯子の原型として、アノニマス・デザインという概念を導入して、「自然に生えていた立木の枝を、ある長さに切り落としたそのままのもので、見事にそうした形態を示していて興味深いものの一つである。」(27頁)とする。
梯子の原型イメージ(石器時代の火打石鉱山模式図、National Museum of Denmark「Flint mining – a risky business」https://en.natmus.dk/historical-knowledge/denmark/prehistoric-period-until-1050-ad/the-neolithic-period/polished-axes-of-flint/flint-mining-a-risky-business/)
 「道具発生の主因」なる観点は主客が逆転している。人間には「文化」があり、他の霊長類の行わないことをして「道具」を獲得している。機能に限ってみれば、眼の延長上にメガネがあり、望遠鏡があり、顕微鏡があり、電子顕微鏡があり、CTスキャナーがあるが、それらは譬えにすぎない。直線的に進歩するものでもない。仮にそれまで縄梯子を使っていたところにより安定する梯子をかけようと思いつき、立木を石斧で倒して枝先を切ったとしても、大きすぎて重たくてそこから運べなかったら、その先にある崖に立てかけるまでもなく、道を塞いで崖下にさえ行けなくなってしまうこともある。そんな失敗をくり返しながら進んできたのが人類の発明の歴史である。その時点においてすでに、早くも梯子には、登ったり越えたりするための機能ばかりでなく、大捕物や檻の機能が顕在化している。生易しくない両義性を越えて行くことで、ようやく「道具」という文化的産物が人間の手中におさまる。「アノニマス・デザイン」とは、名のあるデザイナーが関与しないデザイン、集合無意識の産物のことかと思われるが、前近代において、世の中のほとんど99%のものは、アノニマス・デザインで成り立っている。今日、モノは規格化された「商品」でしかなくなりつつあるが、現代的な視座から考古遺物や民具を捉えても人間の知恵に迫ることはできない。
なお、稲田2013.にあるように、「少なくとも日本では、梯子の参考文献は見当たらないのが現状である。これだけ重要な人間のための道具(装置)に関する研究書が見当たらないことは、実に不思議に思えるのである。」(11頁)のは事実である。労を多としたい。なぜないか。当たり前のことは書かない、それが“作文”の基本だからである。
(注9)植木2013.に、弥生時代、古墳時代、さらに飛鳥時代へと続く建築形式の変遷が考古学資料から説明されている。「掘立柱建築の構造の変遷」図として、柱跡からみた建物の類型を示されて時代ごとに落とし込まれている。そこには、弥生時代に「独立棟持柱構想」、「内部1本柱構造」、「総束柱構造」がすでにあり、古墳時代になっても「独立棟持柱構想」、「総束柱構造」は続いてゆき、また、「内部棟持柱構造」が加わってくる。古墳時代中期に、「差掛け庇構造」が加わって飛鳥時代へと続いて行き、反対に、「独立棟持柱構造」は古墳時代中期まで、「内部棟持柱構造」は「棟持柱・母屋桁柱構造」という折衷型として残りながら飛鳥時代の初めまでで終わっている。
 筆者は、垂仁紀八十七年条の「神の神庫も樹梯の随に」という諺は、屋根のてっぺんに登るには、覚束なく、もやもやもあらず、の状態であったと考えて行論した。わざわざ後世に言葉として語り継ごうという意思があった時期の産物として、この「諺」は捻られたと考える。その時期は、棟持柱だけでは危ないから、母屋桁柱を立てようとし始めた古墳時代中期の建築技法上の画期、ないしその直前に求められるのではないか。ただし、棟持柱が建物の内部にあるか外部にあるかという分類がどれほど有効なものであるか、筆者は判断を保留したい。むしろ、その弥生時代中期に柱をたくさん立てて建物を造っていくように変化していることにこそ、当時の人々の“気持ち”があらわれているのではないかと思う。そしてそれを「諺」につくって伝えようとした。
 身舎・庇構造の成立について、植木2013.に解説されている。

 内部棟持柱が用いられるようになると、構造的により安定化を図るため、あわせて母屋桁柱を用いるようになった。梁行きを拡大化すると棟木と側柱上の側桁を繋ぐ垂木が長大なものとなるため、中間に棟木と平行に母屋桁とよぶ構造材を入れて垂木を中間で支えるようにしたものである。当初は補助的なものであったと思われる。この母屋桁を支えるのが母屋桁柱であり、最初は棟持柱の梁行き方向の両側に立ち、母屋桁の両端を支えていたと思われる。さらに構造的な安定性を高め、また大規模化を図るため、母屋桁の中間を支える位置にも柱が加わったものが現れた。これは柱配置からみると棟持柱と母屋桁柱を身舎、周囲の柱を庇柱とした身舎・庇構造である。この構造が発展して、母屋桁の位置で上下の垂木を別部材として繋ぐことにより身舎の大屋根と庇を別構造とし、身舎・庇構造が成立したのである。この構造では大屋根を小さくし梁を短くすることができ、また垂木も短いものですむことから、屋根の荷重を軽量化することができた。また強風、地震などの横方向の力にも有利であり、合理的な構造であった。6世紀代には棟持柱構造は少なくなるが、6世紀末〜7世紀前期の阿倍丘陵遺跡で破格に巨大な平面の建物を建設するために用いられている。これを最後に、棟持柱構造は用いられなくなる。(92頁)

 解説としてはそういうことであるが、古墳時代は長く、3世紀半ば頃から6世紀末頃までを指している。垂仁天皇の時代は、現在考えられている時代区分からすると古墳時代前期に当たる。該当例が少ないのかわからないが、「総束柱構造」においても異様にたくさんの柱の立つ樽味四反地遺跡の例が示されている。筆者の推測に過ぎないが、棟持柱構造の建物に地震などで大きな事故があり、設計の変更を迫られた時期ではないかと考える。犬が人に噛みついても話題にならないが、人が犬に噛みつくと検索数ははね上がるであろう。すなわち、筆者は、「諺」ニュースにするほどの出来事が、「神の神庫も樹梯の随に」の背景にあったと考える。言葉というものに対する感覚を研ぎ澄まさないと、上代の無文字文化のなかにいる人たちの声は聞こえない。なお、掘立柱建築物の地域差について筆者は検討していない。
(注10)本文に、「捕熊(くまをとる)〈熊の一名子路。〉 熊は必大樹の洞中に住みてよく眠る物なれば丸木を藤かづらにて格子のごとく結たるを以て洞口を閉塞し、さて木の枝を切て其洞中へ多く入るれば、熊其枝を引入れ引入れて洞中を埋、終におのれと洞口にあらはるを待て、美濃の国にては竹鎗、因幡に鎗、肥後には鉄鉋、北国にてはなたきといへる薙刀のごとき物にて或は切、或は突ころす。何れも月の輪の少上を急所とす。……」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2575827?tocOpened=1(38/45)、ルビは省き、適宜句読点を打った。)とある。これは熊の皮や熊の胆などを得るために殺してしまう狩りである。子熊を飼う場合の檻の形状と異なる。見世物として晒し者にする場合とは、柵の仕方が自ずと異なってくる。
(注11)和名抄に、「獄 四声字苑に云はく、獄〈語欲反、比度夜(ひとや)〉は罪人を牢する所也といふ。唐韻に云はく、囹圄〈霊語の二音〉は獄の名也といふ。」とある。また、「檻(をり)穽(ししあな)を造ること、及(また)機槍(ふみはなち)等の類を施(お)くこと莫(まな)」(天武紀四年四月)とある。ここの檻は、「押機(おし)」(神武記)、「機(おし)」(神武前紀戊午年八月)のような、石などを括りつけて重くし、倒れ掛かって圧死させる仕掛けを指すものかと思われる。
 ヲリ(檻)という語は、ヲリ(居)と同根である。ヲル(居)という語は、自己の動作については卑下、他者の動作については蔑視の意味を込めて使う。「神の神庫」という言い方が、例えば狼の檻のことを指すのは、「神庫、此云保玖羅。」という訓注をわざわざ付していることからも理解される。木村1988.の指摘するとおり、訓注は、「神庫」と書いてホクラとはふつう訓めないことからも存在意義がある。さらに、念の入った記述をして「諺」を発表している。当時の人にとって、話としてとても面白かったからであろう。集落や神社にどんなクラがあるかという確定の事実ではなく、概念として、ヲリ(檻)もクラ(倉、庫)であると見なすことができると言っている。笑える頓智と思われた。それを、副詞的な補いを必要とする助詞モによって表している。上代の言語活動は巧みである。
 なお、ニホンオオカミを手なずけて飼っていたことは知られない。猟犬やペットの犬については、東南アジアの方にいたものが共通の祖先と考えられている。
(注12)鷹狩の鷹や鵜飼の鵜は、捕獲されてから檻に入れられて食べ物を与えずにお腹を空かせられる。その後、人から食べ物を貰うようになると、人間のことをありがたがるようになり、なついてくる。そして調教して人の思うままに猟をするようになる。獲物を取ってもそれに代わる小さな餌で満足するようになる。
(注13)ハサが歴史上いつからあるか不明である。類聚三代格第八・承和八年(841)閏九月二日太政官符「稲を乾す器を設くべき事」に、「大和国宇陀郡人、田中に木を構へ種穀を懸曝(かけほ)せり。其の穀の𤍜(かは)くこと火炎に当るに似たり。俗名、之れを稲機(いなばた)と謂ふ。今、諸国往々有る所在り。宜しく諸国に仰せて広く此の器を備はすべし。専ら人を利する縁なり。疎略なるを得ず。(原漢文)」とある。
(注14)ホクラにホス(干)+クラ(倉)という義の可能性について、究極の傍証をあげておく。古今著聞集に、「後鳥羽院(の)御時、伊与(の)国をふてらの島といふ所に、天竺の冠者といふものありけり。件(くだんの)島に山あり。その山のうへに、家をつくりてすみけり。かしこに又ほこらをかまへて、其(その)内に母が死(しに)たるを、腹のうちの物をとりすてゝほしかためて、うへをうるしにて塗(ぬり)て、いはひてを(お)きたりけり。山のすそに八間の屋をつくりて、拜殿と名付(なづけ)て、八乙女(やをとめ)以下(いげ)、かぐらお(を)とこなどをすへ(ゑ)たりけり。……」(巻第十二・四二四話・後鳥羽院御時伊予国の博奕者天竺の冠者が事)とある。ミイラを「ほこら」に置いたことが記されている。日本のピラミッドは“ほこら”のようである。

(引用・参考文献)
稲田2013. 稲田愿『梯子・階段の歴史』井上書院、2013年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』岩波書店、1974年。
植木2013. 植木久「建物の構造」一瀬和夫・福永伸哉・北條芳隆編『古墳時代の考古学6―人々の暮らしと社会―』同成社、2013年。
太田1984. 太田博太郎『日本住宅史の研究―日本建築史論集Ⅱ―』岩波書店、1984年。
大野1993. 大野晋『係り結びの研究』岩波書店、1993年。
岡村2014. 岡村渉『弥生集落像の原点を見直す―登呂遺跡―』新泉社、2014年。
川添2010. 川添登『伊勢神宮―木と水の建築―』筑摩書房、2010年。
木村1988. 木村徳国『上代語にもとづく日本建築史の研究』中央公論美術出版、昭和63年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①・②』小学館、1994・1996年。
大系本日本書紀 大系本日本書紀 坂本太郎・井上光貞・家永三郎・大野晋校注『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1980年。
日本国語大辞典 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部『日本国語大辞典 第二版 第三巻』小学館、2001年。
日本史大事典 『日本史大辞典 第五巻』平凡社、1993年。
濱2010. 濱定史「『干して仕舞う』小屋のかたち」安藤邦廣+筑波大学安藤研究室『小屋と倉―干す・仕舞う・守る 木組のかたち―』建築資料研究会、平成22年。
若林1986. 若林弘子『高床式建物の源流』弘文堂、昭和61年。

(English Summary)
I considered hidden fact of the proverb "Shinto shrine warehouse as well as a ladder" (Kamï nö hokura mö hasitate nö mamani) stated in text of Nihon Shoki Emperor Suinin.
1. The ladder was used not only for climbing but also for tools and cages of captures.
2. 'Hokura (Hokora)' representing shrine building meant the drying warehouse 'hosukura'.
3. In ancient times, Japanese deities 'kamï' also included wild animals such as wolves 'ohokamï'.

※本稿は、2016年12月稿、2017年12月稿を改稿したものである。

この記事についてブログを書く
« 垂仁紀の諺「神の神庫も樹梯... | トップ | 允恭紀、淡路島の狩りの逸話... »