允恭紀に、淡路島へ狩りに出かける記事が載る。しかし、嶋の神の祟りで一向に獲られず、神の言にしたがって赤石(明石)の海底の真珠を捧げる話になっている。
十四年の秋九月の癸丑の朔にして甲子に、天皇、淡路嶋に猟したまふ。時に、麋鹿・猨・猪、莫々紛々に、山谷に盈てり。焱のごと起ち蠅のごと散く。然れども終日に一の獣をだも獲たまはず。是に、猟止めて更に卜ふ。嶋の神、祟りて曰はく、「獣を得ざるは、是我が心なり。赤石の海の底に真珠有り。其の珠を我に祠らば、悉に獣を得しめむ」とのたまふ。爰に更に処々の白水郎を集へて、赤石の海の底を探かしむ。海深くして底に至ること能はず。唯し一の海人有り。男狭磯と曰ふ。是、阿波国の長邑の人なり。諸の白水郎に勝れたり。是、腰に縄を繋けて海の底に入る。差須臾ありて出でて曰さく、「海の底に大蝮有り。其の処光れり」とまをす。諸人、皆曰はく、「嶋の神の請する珠、殆に是の蝮の腹に有るか」といふ。亦入りて探く。爰に男狭磯、大蝮を抱きて泛び出でたり。乃ち息絶えて、浪の上に死りぬ。既にして縄を下して海の深さを測るに、六十尋なり。則ち蝮を割く。実に真珠、腹の中に有り。其の大きさ、桃子の如し。乃ち嶋の神を祠りて猟したまふ。多に獣を獲たまひつ。唯、男狭磯が海に入りて死りしことをのみ悲びて、則ち墓を作りて厚く葬りぬ。其の墓、猶今まで存。(允恭紀十四年九月)
この説話は淡路島の民間伝承として捉えられ、そういう話があったという以上の議論は得られていない。淡路島は狩りの盛んな猟場であった。
秋九月の辛巳の朔にして丙戌に、天皇、淡路嶋に狩したまふ。是の嶋は海に横りて、難波の西に在り、峯巌紛ひ錯りて、陵谷相続けり。芳しき草薈く蔚くして、長き瀾潺き湲る。亦、麋鹿・鳧・鴈、多に其の嶋に在り。故、乗輿、屢遊びたまふ。(応神紀二十二年九月)
「是嶋者横レ海、在二難波之西一」とある点は注意を要する。国生み説話に、アハヂシマとは虻蜂取らずの島という意である(注1)。ヤマト朝廷の側の玄関港、難波から見て西に横たわっている。敵軍が西方から海路を進んできたとき、明石海峡から来るか、鳴門海峡から来るか、定められないから防御しにくい。両方防ごうとすれば防ぎ切れないことになる。その譬えとして abu+hati なる洒落が罷り通っている。丘陵を構成しているから鳥獣が豊富であろうことは予測される。応神紀では狩りに支障はなかったが、允恭紀に支障が出ている点は不思議である。虻蜂取らず状態が起こっていると考えられる。意図があって創られた話として読みこむ必要がある。
神が祟って贖物を要求するという考え方は行われていた。
時に皇后、天皇の神の教に従はずして早く崩りたまひしことを傷みたまひて、以為さく、祟れる神を知りて、財宝の国を求めむと欲す。(神功前紀仲哀九年二月)
河神、祟りて、吾を以て幣とせり。(仁徳紀十一年十月)
辛亥に、蘇我大臣、患疾す。卜者に問ふ。卜者対へて言はく、「父の時に祭りし仏神の心に祟れり」といふ。大臣、即ち子弟を遣して、其の占状を奏す。詔して曰はく、「卜者の言に依りて、父の神を祭ひ祠れ」とのたまふ。大臣、詔を奏りて、石像を礼び拝みて、寿命を延べたまへと乞ふ。是の時に、国に疫疾行りて、民死ぬる者衆し。(敏達紀十四年二月)
戊寅に、天皇の病を卜ふに、草薙剣に祟れり。即日に、尾張国の熱田社に送り置く。(天武朱鳥元年六月)
……ふとまにに占相ひて何れの神の心ぞと求めしに、爾の祟りは出雲大神の御心なりき。(垂仁記)
これらの例に、祟っている神は、「所レ祟之神」≒墨江大神、「河神」、「仏神」、「草薙剣」、「出雲大神」である。時代がかった神さまが登場している。解除するには「禱む」だけではなく、祓をして幣を以て「祠る」ことが必要とされている。気持ちだけでは不十分で、何かを神に捧げて代償しなければ収まらないということである。代償が支払われない限り、祟りは続くことになっている。
允恭紀の場合、「嶋神」が祟っている。この嶋の神は淡路国津名郡伊佐奈伎神社の祭神のこととする説がある(注2)が、記されているわけではないから真偽のほどは定かではない。
赤石(明石)の海底の真珠を祠れば狩りはうまくいくという。そこで各地から白水郎(海人)を集めてきたけれど、海が深くて海底まで潜れなかった。一人だけ、阿波国長邑の男狭磯というものだけが潜ることができて、大きな蝮を引き上げて中にあった真珠を得ることができた。嶋の神に祀ると猟はうまく行くようになった。男狭磯は潜水病で息絶えたため、手厚く葬り、今日に至るまでその墓が残っているとしている。
嶋の神は淡路島の由緒を正さんとしている。アハヂがアハヂに本当になっているか、ということである。アハがチ(霊)を持っているからアハヂというはずである。だから、タマ(霊)がなければならない。しかし、ないから、海底のアハビ(蝮、ビは甲類)から霊を取ろうというのである。アハがヒ(霊、ヒは甲類)を持っているのがアハビ(蝮)である。このタマ(霊)の移動を可能にしたのは、アハ(阿波)出身の海人である。ナガノムラ(長邑)と断りながら、名をヲサシ(男狭磯)と定めている。ヲサシは、和名抄に、「魥 唐韻に云はく、魥〈音は怯、今案ふるに乎佐之、一に与知乎佐之と云ふ〉は竹を以て魚を貫く、復州の界より出づるなりといふ。」とある(注3)。ヲ(尾)+サシ(刺)の意かとされ、今言う目刺しのこととされるが、干物のこと全般をいうのであろう。蝮(鰒)の干物と言えば熨斗鰒である。神饌に供された。生の鰒をうすく削いで長い刺身を作り伸ばし、それを熱い湯でふやかしておいてから干して作る。ヲ(緒)+サシ(刺)の意である。
左:熨斗鰒づくり、右:大身取鰒・小身取鰒・玉貫鰒(鳥羽市HP「ノシアワビのこと」https://www.city.toba.mie.jp/material/files/group/39/ama46-47.pdf、海の博物館編『目で見る鳥羽・志摩の海女』同発行、2009年。)
古代に、真珠は多く鰒から採られた(注4)。阿波国の長邑の男狭磯は、潜ってアハビを採り、陸で加工して熨斗鰒を作るのに長けた人物だったのであろう。長く伸びた緒のような刺身にしてから干物にした、熨斗鰒作りの長のように目されている。そんな名に負う人物のおかげでアハにチ(霊)が授けられた。アカシ(赤石)の海底から採られたタマ(霊)なのだから、証となるほどに確かである。アハヂという場所は、アハ(淡)+ツチ(土)と連想され、消えてなくなりそうな不確かな場所と思われた。それが確かな大地へと生まれ変わっている。だから、狩りに際しても、獲物があるかないか紛うような状態、「時麋鹿・猨・猪、莫々紛々盈二于山谷一。」の「莫々紛々」状態から解放されている。本当に「山谷に盈てり。」となっている。古訓のアリノマガヒとは、アリ(有)+ノ(助詞)+マガヒ(紛)の意である。と同時に、アリ(蟻)+ノ(助詞)+マガヒ(紛)のニュアンスを兼ねたものであろう。蟻のようでいて蟻のようでないとは、羽蟻のことである。なぜ羽蟻が思い浮かんでいるかと言えば、記紀の国生み章において、アハヂシマ(淡路嶋)は虻蜂取らずの島であると洒落を言っていた(注1)。どっちつかずの島ということである。虻も蜂もとれないというところから、虻でも蜂でもないが似たような存在、羽蟻が思い浮かんでいる。蟻は地面を歩いているが、羽蟻は地面にばかりおらずに空中へ飛んでいく。地面に見えていた足が唐突になくなるのである。麋鹿、猨、猪といった四足歩行動物が、唐突に姿を消すことの言い表しとして絶妙の表現であるといえる(注5)。
真珠を奉納することで、アリノマガヒ状態は解消した。蟻が有りの状態、すなわち、地面に足がたくさん見えるようになった。だから狩りはうまく行って鹿猪が取れている。真珠を採るために男狭磯が探り潜った赤石の海の深さは「六十」尋であった。尋常ではない長さである。当初、「是腰繋レ縄入二海底一。」とあり、腰縄をつけて潜っている。そして、「差須臾之出曰、於二海底一有二大蝮一。其処光也。」と報告している。それに対して、「諸人皆曰、嶋神所請之珠、殆有二是蝮腹一乎。」と騒いでいる。それを受けて、男狭磯は「亦入而探之。」している。
この潜り方について記述にはないが、一回目は「繋レ縄」とあるが、着けていては届かない海底に大蝮があって、そこが光っていると言っているのであろう。だから、二回目に潜る時には、縄を外して潜ったものと思われる。海底に達することができ、「抱二大蝮一而泛出之。」のであるが、「乃息絶」して浪の上に死んでしまった。縄で引き上げられたのではないから、「以死二浪上一。」しているのである。オキ(沖・奥)まで行って深い海底へ潜り、浮上しはしたが「息」絶えてしまった。そこで海の深さがどのくらいなのか気になり、「既而下レ縄測二海深一、六十尋。」と計測している。海人(白水郎)は危険防止のために腰につける縄の長さが一定に定められていて、それ以上深くは潜らないように安全策が講じられていた。
では、その「六十尋」という長さは何を表しているのであろうか。一つには、男狭磯が熨斗鰒作りの達人であったと推されるところから、ものすごく大きな鰒の肉をかつら剥きのように剥ぎそいでいったら、長さが六十尋になったということに当たるのだろう。それをふやかしてから干し、そのあと切って束にして熨斗鰒とする。本来ならそれが捧げものになるのであろうが、求められていたのは真珠であった。本末転倒である。本末転倒なことは他にもある。漁場はアカシで「赤石」と記されている。なのに、真珠が求められている。赤くなくて白いもの、石というより玉と言えるもの、琥珀ではなくて真珠が求められている(注6)。
珠 白虎通に云はく、海より明珠〈日本紀私記に真珠を之良太万と云ふ〉出づといふ。(和名抄)
虎魄 瑿〈仁諝に音は於鶏反。虎魄は千年して瑿に変為す。瑿の状は玄玉に似たり。高昌人、木瑿と名づけ、玄きを石瑿と為。〉一名に紅珠〈兼名苑に出づ〉。一名に明玉神珠〈丹口訣に出づ〉。和名は阿加多末。一名に阿末多末。(本草和名)
赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装し 貴くありけり(記7)
この本末転倒ぶりは必要なことである。アハビ(鰒、ビは甲類)からアハヂ(淡路)へとタマ(珠)が移動している。白川1995.に、「ち〔霊(靈)〕 自然物がもつ、ある霊的な力。原始的な呪術はその力を用いる方法であった。「をろち」「かぐつち」のように、その力をもつものの名の下につけて用いる。……「たま」とも、また「ひ」ともいう。「たま」は霊として遊離し、また他に憑依することのできるもの、「ひ」は機能を主としていう語である。」(494頁)とある。すなわち、意味的に通じるもの、互換性のあるものとしてヒ(甲類)とチがあり、内実はタマだから入れ替わって充実するに至っている。アハヂ(淡路)というのだから、アハビタマ(鰒玉)、シラタマ(真珠)がお供えにされなければならない。
…… 御食つ国 日の御調と 淡路の 野島の海人の 海の底 奥つ海石に 鰒珠 多に潜き出 船並めて 仕へ奉るし 貴し見れば(万933)
珠洲の海人の 沖つ御神に い渡りて 潜き採るといふ 鰒珠 五百箇もがも ……(万4101)
沖つ島 い行き渡りて 潜くちふ 鰒珠もが 包みて遣らむ(万4103)
磯の上に 爪木折り焚き 汝がためと 吾が潜き来し 沖つ白玉(万1203)
海の底 沖つ白玉 縁を無み 常かくのみや 恋ひ渡りなむ(万1323)
帰るさに 妹に見せむに わたつみの 沖つ白玉 拾ひて行かな(万3614)
玉の浦の 沖つ白玉 拾へれど またそ置きつる 見る人を無み(万3628)
紀の国の 浜に寄るとふ 鰒珠 拾はむと云ひて 妹の山 背の山越えて 行きし君 何時来まさむと 玉桙の 道に出で立ち 夕卜を 吾が問ひしかば 夕卜の 吾に告らく 吾妹子や 汝が待つ君は 沖つ波 来寄る白珠 辺つ波の 寄する白珠 求むとそ 君が来まさぬ 拾ふとそ …… (万3318)
海の底 奥を深めて 吾が思へる 君には逢はむ 年は経ぬとも(万676)
海の底 奥を深めて 生ふる藻の 最も今こそ 恋はすべなき(万2781)
…… 奈呉の海の 奥を深めて さどはせる 君が心の ……(万4106)
大野山 霧立ち渡る 吾が嘆く 息嘯の風に 霧立ち渡る(万799)
鳰鳥の 息長川は 絶えぬとも 君に語らむ 言尽きめやも(万4458)
オキ(キは甲類)という語には、沖、奥という同根の語ばかりか、息という同音の語も頭の隅に置きながら歌われることもある。水深の深い沖のほうで真珠を採るには、息の長く続くことが求められ、心の奥底に思いを込めていることを綴っている。そして、オキ(置、キは甲類)は、万3628番歌のように供えるの意で使われることもある。嶋の神に真珠を奉納している。このようにぐるぐると言葉をめぐらせることの多いオキであるから、本末転倒はシャッフルされて正しい状態に落ち着くことになる。漁場のことをニハといい、狩猟の場のこともニハという(注7)。ニハが正しく機能するようにタマが奉られた。いわば、仏を作って魂を入れたことになっている。すなわち、尋常ならざる「六十」尋が解消されて、「十六」に収まっている。これが「六十」にこだわった二つ目の理由である。万葉集の用字に、「十六」はシシと訓み、「鹿猪」に当てる例(万239・379・926・1804・3278)が見られる。九九掛け算の知識による戯書である。結果、獣は獲られるようになった。
以上、允恭紀の、淡路島での狩りの逸話における赤石の真珠譚について論じた。なぜこのような逸話が紀のこの部分に採録されているかについて、構造的、構成的、構想的な解釈はほぼ無意味であろう。読み取れるのは、同時代において、鰒が採取されて真珠や熨斗鰒が得られていたという事実、ならびに、輪をかけて重要なことは、ヤマトコトバが上に述べてきたように用いられていたという事実である。記紀所載の説話は多岐多様である。それらをひとつひとつ丹念に読むことによってのみ、当時の人々が使っていたヤマトコトバを再構成することができる。言葉をきちんと理解する以外に、上代の人々の豊かな知恵に迫ることはできない。人は言葉で考えるからである。言葉によって精神史を繙くことこそ、どんな人たちがどんな考え方をしてどんな暮らしを営んでいたかを知ることができる唯一の方法である。現代人の考え方、すなわち、記紀万葉の外側からアニミズムの概念をあてがうことや、出土品をもってのみ科学的に類推することとは異質の接近法である。そして、時代や地域の違いで異なる人がいることを理解することは、人文科学においてばかりか我々の人生において、最も大切な目的のひとつでさえある(注8)。
(注)
(注1)拙稿「蜻蛉・秋津島・ヤマトの説話について─国生み説話の多重比喩表現を中心に─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/f8c4a358f3a4f5bac8c9f8c456c96077参照。
(注2)「石の寝屋」兵庫県立歴史博物館『歴史博物館ネットミュージアムひょうご歴史ステーション』https://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/legend/html/016/016-tx.html参照。
(注3)ヨチヲザシのヨチの義の解釈に、「〔補注〕性器、特に女性の性器の意とする説もある。」(日本国語大辞典⑬640頁)とある。鰒が女性性器と準えられることがある(同①698頁参照)。ヨチヲザシは熨斗鰒のことを特に指していたのかもしれない。
(注4)アコヤガイによる真珠養殖は明治時代に始まる。
(注5)新編全集本日本書紀②123頁に、「莫々紛々」と漢語読みをし、出典を文選かと注し、文選のチリマガフテという訓みを載せている。紀巻十三の現存最古の伝本である書陵部本には、「莫々汾々」(書陵部所蔵画像資料目録・画像公開システムhttps://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000077430003/ff3835455be04c60bc29a03c678d0c2d(23/33)参照)とある。
「紛」ではなく「汾」字が使われている。「汾」に、多くて盛んなさま、水のめぐるさま、の意がある。淡路島が、地面に続く路が淡くて消えてしまう島のことと思えば、多く盛んであったであろう獣が通る獣道が消えてしまい、もともといたかどうかも分からなくなる意、それは島自体の存在が淡くて水がめぐってしまうようなところという意に捉え返すことができる。上撰された紀の原本に複数本あったであろうことが考えられており、そのうちの一本は、この「汾」による巧みな言い表しを目指していたのであろう。紀には多く、漢籍の文章表現を活用していることが多いが、ヤマトコトバが先にあり、それを書き表すために漢籍を例文に使っているケースがほとんどである。漢籍が引用されているから修文のために挿入されていて音読みしていただろうと考えることは、新編全集本日本書紀の賢しらな姿勢による。和魂漢才でなければならない理由は、編纂を命じた天武朝が国粋主義的な風潮にあった点ばかりでなく、そもそもいちいち問い質さなければならない文章とは一体何かという問題に直面する。書いたことになっていないのである。トキニオホシカサルヰ、バクバクフンフンニサンコクニミチ、……と聞いて何が理解できよう。出典を文選かと推理しているが、文選の和訓をとることもなく、文選読みの方法、「莫々紛々」をバクバクフンフントチリマガフテと読むこともしない。文選読みなる二重の読みが平安時代にどうして生まれたかと言えば、聞いても一瞬にはわからないからであろう。それより遡ること百年以上前の、まともな漢詩が一つも作られていない飛鳥時代に、現代の漢文読みで理解されるはずはないから行われていようはずはない。河村秀根・書紀集解は、出典論を研究した最初期のものであるが、古訓のアリノマガヒをきちんと記している(愛知県図書館貴重和書デジタルライブラリーhttps://websv.aichi-pref-library.jp/wahon/pdf/1103263912-001.pdf(28/38)参照)。字面の出典とヤマトコトバとは別物と把握していた。
(注6)白いタマである真珠を、鰒から神のもとへと移すことが重要視されている。アハビのヒ(甲類)は霊、日の意味である。光り輝く。赤石の海底に埋もれていては日が満ち渡らず、辺りが暗くて見えないから狩りがうまくいかない。文字通り赤い石、琥珀では困るのは、後述の万933番歌に「海石」とあるように、暗いことを連想させて狩りの成果は改善しないからである。
(注7)「武庫の海の 庭よくあらし 漁する 海人の釣船 波の上ゆ見ゆ」(万3609)、「猟場の楽は、膳夫をして鮮を割らしむ。」(雄略紀二年十月)とある。
(注8)紀の古訓は、ここはこう訓むのが正解だ! とひらめいた人によって付されているものが多い。紀の書記が、ここはそう書くのが正解だ! とひらめいた人と時代を超えて邂逅している。
(引用・参考文献)
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
大系本日本書紀 坂本太郎・井上光貞・家永三郎・大野晋校注『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
日本国語大辞典 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版 第一巻・第十三巻』小学館、2000・2002年。
※本稿は、2020年8月稿を2023年12月にルビ形式にしたものである。
十四年の秋九月の癸丑の朔にして甲子に、天皇、淡路嶋に猟したまふ。時に、麋鹿・猨・猪、莫々紛々に、山谷に盈てり。焱のごと起ち蠅のごと散く。然れども終日に一の獣をだも獲たまはず。是に、猟止めて更に卜ふ。嶋の神、祟りて曰はく、「獣を得ざるは、是我が心なり。赤石の海の底に真珠有り。其の珠を我に祠らば、悉に獣を得しめむ」とのたまふ。爰に更に処々の白水郎を集へて、赤石の海の底を探かしむ。海深くして底に至ること能はず。唯し一の海人有り。男狭磯と曰ふ。是、阿波国の長邑の人なり。諸の白水郎に勝れたり。是、腰に縄を繋けて海の底に入る。差須臾ありて出でて曰さく、「海の底に大蝮有り。其の処光れり」とまをす。諸人、皆曰はく、「嶋の神の請する珠、殆に是の蝮の腹に有るか」といふ。亦入りて探く。爰に男狭磯、大蝮を抱きて泛び出でたり。乃ち息絶えて、浪の上に死りぬ。既にして縄を下して海の深さを測るに、六十尋なり。則ち蝮を割く。実に真珠、腹の中に有り。其の大きさ、桃子の如し。乃ち嶋の神を祠りて猟したまふ。多に獣を獲たまひつ。唯、男狭磯が海に入りて死りしことをのみ悲びて、則ち墓を作りて厚く葬りぬ。其の墓、猶今まで存。(允恭紀十四年九月)
この説話は淡路島の民間伝承として捉えられ、そういう話があったという以上の議論は得られていない。淡路島は狩りの盛んな猟場であった。
秋九月の辛巳の朔にして丙戌に、天皇、淡路嶋に狩したまふ。是の嶋は海に横りて、難波の西に在り、峯巌紛ひ錯りて、陵谷相続けり。芳しき草薈く蔚くして、長き瀾潺き湲る。亦、麋鹿・鳧・鴈、多に其の嶋に在り。故、乗輿、屢遊びたまふ。(応神紀二十二年九月)
「是嶋者横レ海、在二難波之西一」とある点は注意を要する。国生み説話に、アハヂシマとは虻蜂取らずの島という意である(注1)。ヤマト朝廷の側の玄関港、難波から見て西に横たわっている。敵軍が西方から海路を進んできたとき、明石海峡から来るか、鳴門海峡から来るか、定められないから防御しにくい。両方防ごうとすれば防ぎ切れないことになる。その譬えとして abu+hati なる洒落が罷り通っている。丘陵を構成しているから鳥獣が豊富であろうことは予測される。応神紀では狩りに支障はなかったが、允恭紀に支障が出ている点は不思議である。虻蜂取らず状態が起こっていると考えられる。意図があって創られた話として読みこむ必要がある。
神が祟って贖物を要求するという考え方は行われていた。
時に皇后、天皇の神の教に従はずして早く崩りたまひしことを傷みたまひて、以為さく、祟れる神を知りて、財宝の国を求めむと欲す。(神功前紀仲哀九年二月)
河神、祟りて、吾を以て幣とせり。(仁徳紀十一年十月)
辛亥に、蘇我大臣、患疾す。卜者に問ふ。卜者対へて言はく、「父の時に祭りし仏神の心に祟れり」といふ。大臣、即ち子弟を遣して、其の占状を奏す。詔して曰はく、「卜者の言に依りて、父の神を祭ひ祠れ」とのたまふ。大臣、詔を奏りて、石像を礼び拝みて、寿命を延べたまへと乞ふ。是の時に、国に疫疾行りて、民死ぬる者衆し。(敏達紀十四年二月)
戊寅に、天皇の病を卜ふに、草薙剣に祟れり。即日に、尾張国の熱田社に送り置く。(天武朱鳥元年六月)
……ふとまにに占相ひて何れの神の心ぞと求めしに、爾の祟りは出雲大神の御心なりき。(垂仁記)
これらの例に、祟っている神は、「所レ祟之神」≒墨江大神、「河神」、「仏神」、「草薙剣」、「出雲大神」である。時代がかった神さまが登場している。解除するには「禱む」だけではなく、祓をして幣を以て「祠る」ことが必要とされている。気持ちだけでは不十分で、何かを神に捧げて代償しなければ収まらないということである。代償が支払われない限り、祟りは続くことになっている。
允恭紀の場合、「嶋神」が祟っている。この嶋の神は淡路国津名郡伊佐奈伎神社の祭神のこととする説がある(注2)が、記されているわけではないから真偽のほどは定かではない。
赤石(明石)の海底の真珠を祠れば狩りはうまくいくという。そこで各地から白水郎(海人)を集めてきたけれど、海が深くて海底まで潜れなかった。一人だけ、阿波国長邑の男狭磯というものだけが潜ることができて、大きな蝮を引き上げて中にあった真珠を得ることができた。嶋の神に祀ると猟はうまく行くようになった。男狭磯は潜水病で息絶えたため、手厚く葬り、今日に至るまでその墓が残っているとしている。
嶋の神は淡路島の由緒を正さんとしている。アハヂがアハヂに本当になっているか、ということである。アハがチ(霊)を持っているからアハヂというはずである。だから、タマ(霊)がなければならない。しかし、ないから、海底のアハビ(蝮、ビは甲類)から霊を取ろうというのである。アハがヒ(霊、ヒは甲類)を持っているのがアハビ(蝮)である。このタマ(霊)の移動を可能にしたのは、アハ(阿波)出身の海人である。ナガノムラ(長邑)と断りながら、名をヲサシ(男狭磯)と定めている。ヲサシは、和名抄に、「魥 唐韻に云はく、魥〈音は怯、今案ふるに乎佐之、一に与知乎佐之と云ふ〉は竹を以て魚を貫く、復州の界より出づるなりといふ。」とある(注3)。ヲ(尾)+サシ(刺)の意かとされ、今言う目刺しのこととされるが、干物のこと全般をいうのであろう。蝮(鰒)の干物と言えば熨斗鰒である。神饌に供された。生の鰒をうすく削いで長い刺身を作り伸ばし、それを熱い湯でふやかしておいてから干して作る。ヲ(緒)+サシ(刺)の意である。
左:熨斗鰒づくり、右:大身取鰒・小身取鰒・玉貫鰒(鳥羽市HP「ノシアワビのこと」https://www.city.toba.mie.jp/material/files/group/39/ama46-47.pdf、海の博物館編『目で見る鳥羽・志摩の海女』同発行、2009年。)
古代に、真珠は多く鰒から採られた(注4)。阿波国の長邑の男狭磯は、潜ってアハビを採り、陸で加工して熨斗鰒を作るのに長けた人物だったのであろう。長く伸びた緒のような刺身にしてから干物にした、熨斗鰒作りの長のように目されている。そんな名に負う人物のおかげでアハにチ(霊)が授けられた。アカシ(赤石)の海底から採られたタマ(霊)なのだから、証となるほどに確かである。アハヂという場所は、アハ(淡)+ツチ(土)と連想され、消えてなくなりそうな不確かな場所と思われた。それが確かな大地へと生まれ変わっている。だから、狩りに際しても、獲物があるかないか紛うような状態、「時麋鹿・猨・猪、莫々紛々盈二于山谷一。」の「莫々紛々」状態から解放されている。本当に「山谷に盈てり。」となっている。古訓のアリノマガヒとは、アリ(有)+ノ(助詞)+マガヒ(紛)の意である。と同時に、アリ(蟻)+ノ(助詞)+マガヒ(紛)のニュアンスを兼ねたものであろう。蟻のようでいて蟻のようでないとは、羽蟻のことである。なぜ羽蟻が思い浮かんでいるかと言えば、記紀の国生み章において、アハヂシマ(淡路嶋)は虻蜂取らずの島であると洒落を言っていた(注1)。どっちつかずの島ということである。虻も蜂もとれないというところから、虻でも蜂でもないが似たような存在、羽蟻が思い浮かんでいる。蟻は地面を歩いているが、羽蟻は地面にばかりおらずに空中へ飛んでいく。地面に見えていた足が唐突になくなるのである。麋鹿、猨、猪といった四足歩行動物が、唐突に姿を消すことの言い表しとして絶妙の表現であるといえる(注5)。
真珠を奉納することで、アリノマガヒ状態は解消した。蟻が有りの状態、すなわち、地面に足がたくさん見えるようになった。だから狩りはうまく行って鹿猪が取れている。真珠を採るために男狭磯が探り潜った赤石の海の深さは「六十」尋であった。尋常ではない長さである。当初、「是腰繋レ縄入二海底一。」とあり、腰縄をつけて潜っている。そして、「差須臾之出曰、於二海底一有二大蝮一。其処光也。」と報告している。それに対して、「諸人皆曰、嶋神所請之珠、殆有二是蝮腹一乎。」と騒いでいる。それを受けて、男狭磯は「亦入而探之。」している。
この潜り方について記述にはないが、一回目は「繋レ縄」とあるが、着けていては届かない海底に大蝮があって、そこが光っていると言っているのであろう。だから、二回目に潜る時には、縄を外して潜ったものと思われる。海底に達することができ、「抱二大蝮一而泛出之。」のであるが、「乃息絶」して浪の上に死んでしまった。縄で引き上げられたのではないから、「以死二浪上一。」しているのである。オキ(沖・奥)まで行って深い海底へ潜り、浮上しはしたが「息」絶えてしまった。そこで海の深さがどのくらいなのか気になり、「既而下レ縄測二海深一、六十尋。」と計測している。海人(白水郎)は危険防止のために腰につける縄の長さが一定に定められていて、それ以上深くは潜らないように安全策が講じられていた。
では、その「六十尋」という長さは何を表しているのであろうか。一つには、男狭磯が熨斗鰒作りの達人であったと推されるところから、ものすごく大きな鰒の肉をかつら剥きのように剥ぎそいでいったら、長さが六十尋になったということに当たるのだろう。それをふやかしてから干し、そのあと切って束にして熨斗鰒とする。本来ならそれが捧げものになるのであろうが、求められていたのは真珠であった。本末転倒である。本末転倒なことは他にもある。漁場はアカシで「赤石」と記されている。なのに、真珠が求められている。赤くなくて白いもの、石というより玉と言えるもの、琥珀ではなくて真珠が求められている(注6)。
珠 白虎通に云はく、海より明珠〈日本紀私記に真珠を之良太万と云ふ〉出づといふ。(和名抄)
虎魄 瑿〈仁諝に音は於鶏反。虎魄は千年して瑿に変為す。瑿の状は玄玉に似たり。高昌人、木瑿と名づけ、玄きを石瑿と為。〉一名に紅珠〈兼名苑に出づ〉。一名に明玉神珠〈丹口訣に出づ〉。和名は阿加多末。一名に阿末多末。(本草和名)
赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装し 貴くありけり(記7)
この本末転倒ぶりは必要なことである。アハビ(鰒、ビは甲類)からアハヂ(淡路)へとタマ(珠)が移動している。白川1995.に、「ち〔霊(靈)〕 自然物がもつ、ある霊的な力。原始的な呪術はその力を用いる方法であった。「をろち」「かぐつち」のように、その力をもつものの名の下につけて用いる。……「たま」とも、また「ひ」ともいう。「たま」は霊として遊離し、また他に憑依することのできるもの、「ひ」は機能を主としていう語である。」(494頁)とある。すなわち、意味的に通じるもの、互換性のあるものとしてヒ(甲類)とチがあり、内実はタマだから入れ替わって充実するに至っている。アハヂ(淡路)というのだから、アハビタマ(鰒玉)、シラタマ(真珠)がお供えにされなければならない。
…… 御食つ国 日の御調と 淡路の 野島の海人の 海の底 奥つ海石に 鰒珠 多に潜き出 船並めて 仕へ奉るし 貴し見れば(万933)
珠洲の海人の 沖つ御神に い渡りて 潜き採るといふ 鰒珠 五百箇もがも ……(万4101)
沖つ島 い行き渡りて 潜くちふ 鰒珠もが 包みて遣らむ(万4103)
磯の上に 爪木折り焚き 汝がためと 吾が潜き来し 沖つ白玉(万1203)
海の底 沖つ白玉 縁を無み 常かくのみや 恋ひ渡りなむ(万1323)
帰るさに 妹に見せむに わたつみの 沖つ白玉 拾ひて行かな(万3614)
玉の浦の 沖つ白玉 拾へれど またそ置きつる 見る人を無み(万3628)
紀の国の 浜に寄るとふ 鰒珠 拾はむと云ひて 妹の山 背の山越えて 行きし君 何時来まさむと 玉桙の 道に出で立ち 夕卜を 吾が問ひしかば 夕卜の 吾に告らく 吾妹子や 汝が待つ君は 沖つ波 来寄る白珠 辺つ波の 寄する白珠 求むとそ 君が来まさぬ 拾ふとそ …… (万3318)
海の底 奥を深めて 吾が思へる 君には逢はむ 年は経ぬとも(万676)
海の底 奥を深めて 生ふる藻の 最も今こそ 恋はすべなき(万2781)
…… 奈呉の海の 奥を深めて さどはせる 君が心の ……(万4106)
大野山 霧立ち渡る 吾が嘆く 息嘯の風に 霧立ち渡る(万799)
鳰鳥の 息長川は 絶えぬとも 君に語らむ 言尽きめやも(万4458)
オキ(キは甲類)という語には、沖、奥という同根の語ばかりか、息という同音の語も頭の隅に置きながら歌われることもある。水深の深い沖のほうで真珠を採るには、息の長く続くことが求められ、心の奥底に思いを込めていることを綴っている。そして、オキ(置、キは甲類)は、万3628番歌のように供えるの意で使われることもある。嶋の神に真珠を奉納している。このようにぐるぐると言葉をめぐらせることの多いオキであるから、本末転倒はシャッフルされて正しい状態に落ち着くことになる。漁場のことをニハといい、狩猟の場のこともニハという(注7)。ニハが正しく機能するようにタマが奉られた。いわば、仏を作って魂を入れたことになっている。すなわち、尋常ならざる「六十」尋が解消されて、「十六」に収まっている。これが「六十」にこだわった二つ目の理由である。万葉集の用字に、「十六」はシシと訓み、「鹿猪」に当てる例(万239・379・926・1804・3278)が見られる。九九掛け算の知識による戯書である。結果、獣は獲られるようになった。
以上、允恭紀の、淡路島での狩りの逸話における赤石の真珠譚について論じた。なぜこのような逸話が紀のこの部分に採録されているかについて、構造的、構成的、構想的な解釈はほぼ無意味であろう。読み取れるのは、同時代において、鰒が採取されて真珠や熨斗鰒が得られていたという事実、ならびに、輪をかけて重要なことは、ヤマトコトバが上に述べてきたように用いられていたという事実である。記紀所載の説話は多岐多様である。それらをひとつひとつ丹念に読むことによってのみ、当時の人々が使っていたヤマトコトバを再構成することができる。言葉をきちんと理解する以外に、上代の人々の豊かな知恵に迫ることはできない。人は言葉で考えるからである。言葉によって精神史を繙くことこそ、どんな人たちがどんな考え方をしてどんな暮らしを営んでいたかを知ることができる唯一の方法である。現代人の考え方、すなわち、記紀万葉の外側からアニミズムの概念をあてがうことや、出土品をもってのみ科学的に類推することとは異質の接近法である。そして、時代や地域の違いで異なる人がいることを理解することは、人文科学においてばかりか我々の人生において、最も大切な目的のひとつでさえある(注8)。
(注)
(注1)拙稿「蜻蛉・秋津島・ヤマトの説話について─国生み説話の多重比喩表現を中心に─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/f8c4a358f3a4f5bac8c9f8c456c96077参照。
(注2)「石の寝屋」兵庫県立歴史博物館『歴史博物館ネットミュージアムひょうご歴史ステーション』https://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/legend/html/016/016-tx.html参照。
(注3)ヨチヲザシのヨチの義の解釈に、「〔補注〕性器、特に女性の性器の意とする説もある。」(日本国語大辞典⑬640頁)とある。鰒が女性性器と準えられることがある(同①698頁参照)。ヨチヲザシは熨斗鰒のことを特に指していたのかもしれない。
(注4)アコヤガイによる真珠養殖は明治時代に始まる。
(注5)新編全集本日本書紀②123頁に、「莫々紛々」と漢語読みをし、出典を文選かと注し、文選のチリマガフテという訓みを載せている。紀巻十三の現存最古の伝本である書陵部本には、「莫々汾々」(書陵部所蔵画像資料目録・画像公開システムhttps://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000077430003/ff3835455be04c60bc29a03c678d0c2d(23/33)参照)とある。
「紛」ではなく「汾」字が使われている。「汾」に、多くて盛んなさま、水のめぐるさま、の意がある。淡路島が、地面に続く路が淡くて消えてしまう島のことと思えば、多く盛んであったであろう獣が通る獣道が消えてしまい、もともといたかどうかも分からなくなる意、それは島自体の存在が淡くて水がめぐってしまうようなところという意に捉え返すことができる。上撰された紀の原本に複数本あったであろうことが考えられており、そのうちの一本は、この「汾」による巧みな言い表しを目指していたのであろう。紀には多く、漢籍の文章表現を活用していることが多いが、ヤマトコトバが先にあり、それを書き表すために漢籍を例文に使っているケースがほとんどである。漢籍が引用されているから修文のために挿入されていて音読みしていただろうと考えることは、新編全集本日本書紀の賢しらな姿勢による。和魂漢才でなければならない理由は、編纂を命じた天武朝が国粋主義的な風潮にあった点ばかりでなく、そもそもいちいち問い質さなければならない文章とは一体何かという問題に直面する。書いたことになっていないのである。トキニオホシカサルヰ、バクバクフンフンニサンコクニミチ、……と聞いて何が理解できよう。出典を文選かと推理しているが、文選の和訓をとることもなく、文選読みの方法、「莫々紛々」をバクバクフンフントチリマガフテと読むこともしない。文選読みなる二重の読みが平安時代にどうして生まれたかと言えば、聞いても一瞬にはわからないからであろう。それより遡ること百年以上前の、まともな漢詩が一つも作られていない飛鳥時代に、現代の漢文読みで理解されるはずはないから行われていようはずはない。河村秀根・書紀集解は、出典論を研究した最初期のものであるが、古訓のアリノマガヒをきちんと記している(愛知県図書館貴重和書デジタルライブラリーhttps://websv.aichi-pref-library.jp/wahon/pdf/1103263912-001.pdf(28/38)参照)。字面の出典とヤマトコトバとは別物と把握していた。
(注6)白いタマである真珠を、鰒から神のもとへと移すことが重要視されている。アハビのヒ(甲類)は霊、日の意味である。光り輝く。赤石の海底に埋もれていては日が満ち渡らず、辺りが暗くて見えないから狩りがうまくいかない。文字通り赤い石、琥珀では困るのは、後述の万933番歌に「海石」とあるように、暗いことを連想させて狩りの成果は改善しないからである。
(注7)「武庫の海の 庭よくあらし 漁する 海人の釣船 波の上ゆ見ゆ」(万3609)、「猟場の楽は、膳夫をして鮮を割らしむ。」(雄略紀二年十月)とある。
(注8)紀の古訓は、ここはこう訓むのが正解だ! とひらめいた人によって付されているものが多い。紀の書記が、ここはそう書くのが正解だ! とひらめいた人と時代を超えて邂逅している。
(引用・参考文献)
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
大系本日本書紀 坂本太郎・井上光貞・家永三郎・大野晋校注『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
日本国語大辞典 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版 第一巻・第十三巻』小学館、2000・2002年。
※本稿は、2020年8月稿を2023年12月にルビ形式にしたものである。