垂仁紀の諺と梯子のこと
「神之神庫随二樹梯一」は「諺」とされている。
八十七年の春二月の丁亥の朔辛卯に、五十瓊敷命(いにしきのみこと)、妹(いろも)大中姫(おほなかつひめ)に謂りて曰く、「我は老いたり。神宝(かむだから)を掌(つかさど)ること能はず。今より以後(のち)は、必ず汝(いまし)主(つかさど)れ」といふ。大中姫命、辞(いな)びて曰さく、「吾は手弱女人(たわやめ)なり。何ぞ能く天(あめ)の神庫(ほくら)に登らむ」とまをす。神庫、此には保玖羅(ほくら)と云ふ。五十瓊敷命、曰く、「神庫高しと雖も、我能く神庫の為に梯(はし)を造(た)てむ。豈、庫(ほくら)に登るに煩はむや」といふ。故、諺に曰く、「神(かみ)の神庫(ほくら)も樹梯(はしたて)の随(まま)に」といふは、此れ其の縁(ことのもと)なり。然して遂に大中姫命、物部十千根大連(もののべのとをちねのおほむらじ)に授けて治めしむ。故、物部連等、今に至るまで石上の神宝を治むるは、是れ其の縁なり。(垂仁紀八十七年二月)
新編全集本日本書紀には難渋な解説が載る。「説話どおり解すると、高い神庫でもはしごがあれば昇れる、の意。しかしこの諺は、神の座(くら)もその依代(よりしろ)になる梯(はし)しだいだ、という意で、神はその梯に依り降臨されるということを表現した。「樹梯」は「梯立」に同じ。定本の原文「神之神庫」を、熱田本の「天之神庫」に作るのは後世のさかしらによる改変。」(①331頁頭注)とある。神さまが関係する梯子は、「天の浮橋」(神代紀第九段本文)、「天の椅立(はしだて)」(丹後風土記逸文)のように「天の」と冠される。「天の」ではなく「神の」と冠するとテキストクリティークされている。「神宮」はカミノミヤ(カムミヤ)で神さまがいらっしゃる場所であるが、「神の神庫」とあるのは、何の謂いか検討が必要であり、この「諺」の真意に通じることにつながるだろう。(注1)。
この問答には疑問点がある。大中姫は「天の神庫」といい、諺では「神の神庫」と言っている。ホクラ違いが生じている。しかも、諺の示唆するとおりには事は運んでいない。諺を無視して大中姫命は物部十千根に業務委託している。それで話が解決している。あやしいと言わざるを得ない。高い神庫でも梯子さえあれば誰でも登れるという表面上の理解は、古代の「諺」=コト(言・事)+ワザ(技・業・態)の内実を理解しているとはいえない。
新撰字鏡に、「梯 波志(はし)」とあり、和名抄・道路具に、「梯 郭知玄に曰く、梯〈音は低、加介波之(かけはし)〉は木の堦にて高きに登る所以也といふ。唐韻に云はく、桟〈音は笇、一音に賎、訓みは上に同じ〉は板木、険(さが)しきに構へて道と為(す)る也といふ。」、同・屋宅具に、「堦 考声切韻に云はく、堦〈音は皆、俗に階字に為(つく)る、波之(はし)、一に之奈(しな)と訓む〉は堂を登る級也といふ。兼名苑に云はく、砌、一名に階〈砌の音は細、訓美岐利(みぎり)〉といふ。」とある。弥生~古墳時代の高床式倉庫、あるいは、高床式住居のための梯子は、各地の集落跡から数多く出土している。板や丸太に刻みを入れ、片一方から抉り削いだ形状をしている。一本梯子(雁木(がんぎ)梯子)と呼ばれる。板に刻みを入れた梯子は高床式の建物用のもので、人が昇り降りするときに使われ、また、荷物を下ろすときには裏面を使ってスロープにして滑らせたと考えられている。高床式の建物がさほど珍しいものでなく、当り前に梯子をあてがって生活していた。そのとき、長い梯子さえあれば、いくら高い所でも登れると考えることは安直である。誰でも言えることは、「諺」と呼ぶにふさわしくない。そもそも、女性が梯子をかけても登れそうもない高さの倉庫が造られていたのか疑問である。出雲大社の神殿仮説(大林組)のように100メートルにも高ければ怖いが、その場合、男女を問わず怖くて登れない人が出てくる。大中姫命の訴えを注意して聞く必要がある。
左:梯子の出土状況(鳥取県教育文化財団「平成27年度大桷遺跡」http://kyo-bun.sakura.ne.jp/hakkutugenbakara/sokuho_daikaku15.htm)、右:長い梯子(長岡京市雲宮遺跡出土、古墳時代後期、長さ約3.6m、幅約20cm、厚さ約5cm、板状の表面に木を切り出して作った7段の足かけ部分あり。後、他の建築部材へと転用か。「古今東西乙訓三島(ときどき伏見山城)」様http://blog.goo.ne.jp/tasket/c/f9a17b85a160eebe0cab0028a1ba1817/2、一部画像加工)
今日、一般的な梯子の形状は、二条の長い材の間に足がかりとなる横木を一定間隔で取り付けたものである。猿梯子とも呼ばれ、木製、竹製、金属製、特に近年は軽量のアルミ製が多い。それを折り畳めるようにしてΛ形にしたのが脚立である。金属製で、スライド式に伸ばして高所へ架ける作業もよく行われている。猿梯子は絵巻物などに描かれているほか、銅鐸の絵に見ることができる。
左:袈裟襷文銅鐸(伝香川県出土、弥生時代、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttp://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0078602)、中:菅生寺の梯子(一遍聖絵写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591574/13)、右:寿老の髪剃り図(酔月斎栄雅筆、絹本着色、江戸時代、18世紀、東博展示品)
高倉倉庫(家屋文鏡、小笠原好彦「首長居館遺跡からみた家屋文鏡と囲形埴輪」https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonkokogaku1994/9/13/9_13_49/_pdf/-char/ja(2/18)をトリミング)
日本史大事典の「梯子」の項に、「奈良県佐味田宝塚(さみだたからづか)古墳出土の家屋文鏡(かおくもんきょう)に一本梯子がかけられた高床倉庫が鋳出されている。しかし丸太を蔓(つる)などで結びつければ使用できる猿梯子は、これよりも古くから存在していたと考えられる。」(786頁、この項、小泉和子。)とある。適切な見解である。なぜなら、高床式建物の地面から高い床に達するための一本梯子が作られるためには、何よりも高床式建物を作らなければならない。高い床どころではない高い屋根に達する梯子がなければ、屋根を葺いたり直したりすることはできない。不安定な高所へ渡す一本梯子はあっても危険だから、猿梯子を架けて仕事がされた。ふつうは登らない高い所へも平気で登り、遠いところで遠近法的に小さくなってちょこまか動き回る様は、猿が屋根に登って動き回っている様子とよく似ている。猿梯子という名はうまく言い当てている。猿梯子の二条の棒に横木を取り付けることは、屋根を作る際、幾条もの垂木に一定の間隔で横木(木舞)をわたしていって下地を作ることと同じである。今日に伝わる茅葺き屋根の例は近世以降のもので、古代の草葺きと構法技術が連続するものではないかもしれないが、参考にするに十分である。
小屋組の類型(左:オダチ組、右:サス組、日進市HPhttp://www.city.nisshin.lg.jp/material/files/group/92/140726meitanteikominkasiryou.pdf(4/4))
茅葺屋根の葺き替え(左:屋根組、右:葺き始め、相模原市HPhttps://www.city.sagamihara.kanagawa.jp/kurashi/kyouiku/bunkazai/1010296/1014806.html)
左:倉(プ)模型(北海道アイヌ、木製、19世紀、ウィーン万国博覧会事務局引継、東博展示品)、中:家屋模型(メラネシア、ニューギニア島、木製、20世紀初め、田中梅吉氏寄贈、東博展示品)、右:北海道アイヌの家族と倉(「鳥居龍蔵とその世界」http://torii.akazawa-project.jp/cms/photo_archive/photo_index.html#chishima(1044))
棟持柱の建物
弥生時代の集落にどのように建物が建てられていたかについて、岡村2014.に次のようにある。
これまでにみつかっている掘立柱建物跡の一・五倍以上ある大型の掘立柱建物跡(一間×三間、三・八メートル×六・九メートル)が、居住域の東部でみつかった……。そこは区画溝を南側に移し、居住域を広げた部分にあたる。建物の端から北に三メートル離れた主軸線上に、主柱穴より浅い柱穴がある。反対側は戦時中の土取り工事で深く削られているため、柱穴の存在を確かめることができなかったが、近隣の小黒(おぐろ)遺跡や汐入(しおいり)遺跡でみつかった独立棟持柱付き掘立柱建物跡(独立棟持柱建物)と類似することから、同じ独立棟持柱をもつ構造と考えられる。独立棟持柱が建物本体から遠く離れていること、小黒遺跡例での柱穴内の礎板の傾きおよび主軸方向に長い柱穴の形状などから、棟持柱は垂直ではなく内傾していた可能性が高い。銅鐸(どうたく)に描かれた建物の棟持柱は垂直であるが、兵庫県の養久山(やくやま)・前地(まえじ)遺跡出土の絵画土器の建物では棟持柱が傾いて描かれているため、両タイプがあってもよいだろう……。
柱穴の深さや大きさは倉庫と大差ないが、すべてに礎板が敷かれている。床高は、倉庫と同じなのか、大きさに比例して少し高いのか、それとも別の構造のため低いのか、意見が分かれるところである。別の遺構から幅・厚さとも普通の倍もある大型の板梯子緒が出土しているため、大きさに比例した床高になってもいいように思う。……
以上、この建物は、規模や構造の特殊性と出土遺物から、祭祀的性格をもつ建物(祭殿)と考えられる……。これまで集落はふだんの生活と生産に関係する住居と倉庫だけで構成されると考えられていたので、このような建物がみつかったことは、集落像に大きな変更をせまるものとなった。こうした祭祀的な建物は、弥生時代後期には登呂のように居住域の内部に配置されていたが、古墳時代になると汐入遺跡や小黒遺跡のように、居住域から完全に独立した空間に配置されるようになると考えられる。(40~42頁)
左:祭殿ないし“神庫”(静岡市登呂遺跡復元建物、「wonderyama のマニアックな世界」様https://blogs.yahoo.co.jp/wonderyama2000/14765229.html)、右:倒壊しかけた棟持柱倉庫(熊本地震後の塚原古墳群復元建物、壁は校倉のようである。向かって左側、壁に屋根の荷重がかかっていないことがわかる。「地図を楽しむ・古代史の謎」様http://tizudesiru.exblog.jp/23881953/)
古代においては、高床式建物の屋根の棟木は、その両端に位置する掘立柱(棟持柱)によって支えられる構造であったらしい(注2)。
左:復元された高床式倉庫の小屋裏、右:骨格模型(大阪歴史博物館庭展示、法円坂倉庫群跡)
神明造(折置組)のイメージ(神宮司庁「伊勢神宮HP」https://www.isejingu.or.jp/about/architecture/index.htmlから抜粋)
稲作文化との兼ね合いから、古代日本の高床式建物の構法を東南アジアの建築技法に求めたものに、若林1986.がある。
[タイ国の山岳少数民族の倭族の高床式住宅において、]その軸組構法で特筆すべき点は、床・壁を構成する軸部の構造と、小屋組(屋根組)を構成する構造とが分離していることである。というのは、屋根組の骨子である棟木の荷重を軸部としての躯体が受けるのではなく、棟持柱自身が受けていることである。つまり棟持柱は地中に掘っ立てられて独立し、棟木だけを支えている。棟木の方も棟持柱だけに支えられているといえる。その形式の中には棟持柱と併用して叉首(さす)や棟束(真束)を使っているものもあるが、叉首は棟持柱を補助する材で、棟持柱の脇役をしている程度である。(24頁)
倭族の小屋組の基本は、水平な棟木を垂直な棟持柱が支持するところにあり、わが国古来からの和小屋組の祖形ではないかと思う。叉首(さす)などの斜め材も使われてはいるが、それは棟持柱の補助材である。斜め材の中には、叉首組のものと合掌組のものとがあり、前者は各部族に散見され、後者はラワ族だけに見られた。叉首組とは二本の斜め材を使って梁を底辺とする三角形を組み、その頂部を交差させてできる谷で棟木を支える構法である。合掌組とは叉首が叉首尻を梁の上で桁に突張って立つ形式とは異なり、尻が桁に突っ張らず、垂木状に桁上をのぼる形式で、ここでは叉首と区別する用語として使うことにした。……わが国の小屋組は棟持柱の支え方に大別して二系統があり、一つは斜め材による叉首組、もう一つは垂直材による和小屋組である。これについて叉首組はもともと棟持柱を持たない小屋組、和小屋はもともと棟持柱をもつ小屋組からの変化発展形式だと考えるが、前者は縄文的、後者は弥生的伝統をくむものではないかと思っている。(31頁)
貯貝器(雲南省晋寧県石寨山12号墓出土、前漢時代、前2~前1世紀、青銅製、「人民中国」http://www.peopleschina.com/maindoc/html/teji/200701/15teji-3.htm)
棟持柱のない寺院建築は、梁のうえに束が立ち、棟木を支えている。躯体が屋根を支えなければ、重い瓦を載せることはできない。高床式倉庫の正倉院にして然りである。一方、棟持柱があるのは、屋根の棟木をそれで支えていたからである。前漢時代の高床式建物でも、今日の東南アジアのリゾート地に見られる載せただけのような屋根も、本邦へは南方から稲作などとともに高床式建物の形式として伝わり、タイの山岳少数民族に誰でもが造るように誰でもが建てたのであろう。それが大型化した際、工夫を凝らして梁に束の立つ仕組みに細工、改変したということではなかろうか。仕口を巧みに仕上げなくてはならず、手に技を具えた職人としての大工さんが登場した。鉄製の鑿をうまく扱う匠(注3)が現れた。今日のプレハブ住宅には失われつつある技術が求められた。
タイの山岳少数民族の高床式倉庫は、見てくれにおいて伊勢神宮の建築様式ととてもよく似ている。日本の神社の形式は、それが全般にわたるものかどうかはともかく、クラ(倉)になりうる高床式の建物の形式から出発したものと考えられる。竪穴式の建物からの発展形ではない。クラ(座・鞍・倉)とは、高い位置に鎮座すべきところを表わしている。すなわち、棟持柱で棟木を高く支えるところに発生した。埴輪に切妻造で切妻屋根の妻側上方が突き出る、いわゆる妻が転ぶ状態のものがある。突き出しているところが曲線美を描いている。雨の降りこみを防ぐために突出させたとされている。棟持柱だけで棟木を支えれば、屋根を葺いたら荷重で撓み、棟木が反って若干とも両端が高くなることは想定される。ならばいっそのこと、妻を転ばせて大袈裟にする方が、雨除けにも煙出しにも有利になる(注4)。下に示した家形埴輪は、それがクラであることを印象づけている。馬に装着して人が乗るためのクラ(鞍)の形にとてもよく似ている。ここに、古代建築は、建築学や考古学の推測の域から解き放たれ、語学的論証の領域にたどり着く。クラというヤマトコトバに、意味が込められている。
左:家形埴輪・切妻式倉庫(古墳時代、5世紀、伊勢崎市赤堀茶臼山古墳出土、東博展示品)、右:馬のお土産各種の鞍
クラ(倉)とは何か。それは、クラ(鞍)であり、クラ(座)である。アグラ(胡坐)をかくことができるような一段高く座れる場所である。地べたに這いつくばる姿勢ではなく、上から目線でものが言える高さである。高床式の上、馬の上、椅子の上である。生活レベルにおける大きな転換である。それまで貯蔵するには地面に穴を掘って埋めていた。座るのも土座であった。その貯蔵や安座の位置が一気に宙に浮いている。それをクラと呼んでいる。倉がクラと呼ばれる限りにおいて、それは馬や椅子に足が高いように高床式でありつつ、屋根の上が馬の背に当たるかに思われる被せ覆った造りになっていたと考えられる。だから、同じ言葉(音)として通用している。文字を持たない人にとって、その訳が分かるようになっている。以上が、垂仁紀八十七年条の前提である。
手弱女(たをやめ)が身屋(もや)に登るのは覚束(おほつか)ない
五十瓊敷命の言葉に、ツカサドル(掌・主)という語が出てくる。ツカサ(司・宰)とは、高いところを意味するツカ(塚)に接尾辞のサをつけた言葉と考えられている。管掌する者は、高いところから部下に号令をかける。ヒエラルキーで高い位置を占める者という意味合いになる。ただ、言が事である言霊信仰のなかにあったヤマトコトバの時代、観念的に高いところを占めるという意味合いは後付けである。実際に、高いところに登れなければツカサドルことにはならない。神宝を祭ることをツカサドルためには、その神宝を納める倉を具体的にツカサドルことをしなければ、神宝を管理しているとは言えない。文字記号を持たない言葉はいまだ「具体的操作段階」(J.ピアジェ)にあった。つまり、倉のツカサたる高い所を取ることができなければならない。高い所は、屋根の嶺である。馬に鞍を置いて乗るように、モヤ(身舎)に登って跨がれなければ、ツカサドルことには当たらない。けれども、その屋根の建築構法が、棟木を棟持柱で両端を支えるに過ぎないとすれば、倉を大きくすればするほど棟木は長くなり、棟持柱も高くなり、ゆらゆら揺れて安定せず、乗れば折れたり倒れたりする可能性が出てくる。とても登る気にならない。
大中姫命は言っている。「吾は手弱女人(たわやめ)なり」。この「手弱女」には、古訓にタヲヤメとある。和名抄に、「婦人 日本紀私記に云はく、手弱女人〈太乎夜女(たをやめ)〉は婦人〈婦人、訓みは上に同じ〉といふ。」とあり、万葉集に、「多和也女(たわやめ)」(万3753)とあるから、どちらで訓まれたか確かではない。新編全集本日本書紀はタワヤメとルビを振っている。「「多和也女(たわやめ)」(万三七五三)の仮名書きによる。タヲヤカ(しなやかなの意)なる女がもとの意味。「手弱(たよわ)」の字は、編者の一種の語源解釈による表記。『和名抄』の「太乎夜女(たをやめ)」は少し後世的な語形。」(①330~331頁頭注)としている。しかし、万葉集に、「手弱女」(万379・543・935・1982・3223)とあるから、紀の編者の語源解釈ではなさそうであり、また、万葉集の例から考えれば、タワヤメが古い形、タヲヤメは「少し後世的」な形とも言えない。万葉集にタワヤメと訓む例は、以下に示す万935番歌と、万3753番歌の仮名書きに負って便宜的にそう訓んでいるのであるが、タヲヤカなる女がもとの意味なら、タヲヤメが古い形かもしれない。いずれ不毛の議論である。
話は、梯子をどんどん登って云々、の事柄である。屋根の棟木が両端で支えられているだけなら、跨って荷重をかければ棟木はしない曲がって撓む。古語に、タワム、タヲム、ともに用例がある。また、山の嶺のたわみへこんだ鞍部のことを、タワ、タヲリ、ともにいう。今日、枝に実がたくさん成ってしなうことを、たわわに実るというが、古語では擬声語として、タワタワという形がある。また、女性のなよなよした曲がりしなう様をタヲヤカという語で表す。
…… 手弱女(たわやめ)の 思ひたわみ(多和美)て 徘徊(たもとほ)り 吾はそ恋ふる 船梶を無み(万935)
力ある王(おほきみ)見て、手拍(う)ち攢(たを)みて、石を取りて投ぐ。(霊異記・上・三)
……山のたわ(多和)より、御船を引き越して逃げ上り行きき。(垂仁記)
あしひきの 山道(やまぢ)も知らず 白橿の 枝もとををに 雪の降れれば〈或に云はく、枝もたわたわ(多和多和)〉(万2315)
婀娜(たをやかにして)……参差(たをやかにして)……依々(たをやかなること)……窈窕(たをやかにして)……逶迤(たをやかにして)(遊仙窟)
つまり、垂仁紀の「手弱女人」は、タワヤメ、タヲヤメ、いずれであってもヤマトコトバとして論理的に合致する。大中姫命はきっとメタボな女性だったのであろう。手(腕力、握力)が絶対的に弱いのではなく、妊娠しているわけではないがお腹が大きいから相対的に弱くなる。だから、オホナカツヒメにしてタワヤメ(タヲヤメ)である。強いてどちらかといえば、タヲヤメの訓がふさわしい。タ(接頭辞)+ヲヤ(小屋)+メ(女)の意を含意する。ヲヤ(小屋)とは、屋根の小屋組を示唆する。吊り橋が渡されているような小屋になっている。今にも壊れそうなボロ屋の意味でも、ヲヤ(小屋)という語は使われている。
彼方(をちかた)の 赤土(はにふ)の少屋(をや)に こさめ降り 床さへ濡れぬ 身に副へ吾妹(わぎも)(万2683)
玉敷ける 家も何せむ 八重葎(やへむぐら) 覆へる小屋も 妹とし居らば(万2825)
さし焼かむ 小屋の醜屋(しこや)に かき棄(う)てむ 破薦(やれこも)を敷きて うち折らむ 醜の醜手を さし交へて ……(万3270)
史跡池上曽根遺跡の「いずみの高殿」復元建物(大阪府和泉市)
問題は、高床式倉庫の躯体にあるのではなく、小屋組の頂に架けられた長い棟木にある。とても登る気になれない。家の棟のことは、モヤ(身屋)ともいう。廂を張り出した部分やはなれの隠居所ではなく、母屋(おもや)の主建造物の屋根のことである。今日の建築用語では、小屋組において、棟木や桁と平行に、梁から束を立てた上に載せる材も母屋(もや)と呼んでいる。昔は束が立っておらず木舞にすぎなかったから、そんなところに登るのは、まったくモヤモヤした気分である。古語に、モヤモヤ、ないし、モヤモヤモアラズとは、不安定で落ち着かないという意味である。
御所(おはしますところ)遠(とほざか)り居(はべ)りては、政(まつりごと)を行はむに不便(もやもや)にして、近き処に御すべし。(天武紀元年六月)
其れ永(ひたふる)に狭(せば)き房(むろ)に臥して、久しく老い疾(やまひ)に苦ぶる者は、進止(ふるまひ)不便(もやもや)にして、浄地(いさぎよきところ)亦穢(けが)る。(天武紀八年十月)
時代別国語大辞典に、「【考】モもヤも疑問・推量の意の助詞で、これを重ねて心許ない確かでないさまをいう名詞となったものという。「不便・不予」の古訓として、モヤモヤナラズ・モヤモヤモアラズというのもある。」(750頁)として、「不便」(景行紀四年二月、允恭前紀、顕宗紀元年二月是月)、「不予」(欽明紀三十二年四月)の例をあげている。そして、「前掲の例とこれらとを比べると、モヤモヤとモヤモヤナラズ・モヤモヤモアラズと同義であることがわかる。おそらくこの否定は、モヤモヤのもつ不分明・心許ない・不安などの否定的な意をさらに強めるためのもので、モヤモヤを否定したものではあるまい。たとえばケシカリとケシカラズ、オボロケナリとオボロケナラズと同様の関係にある。」(750頁)と解説する。不確実性を表わすのに、まず、助詞単体でモ・ヤがあり、それを続けてモヤとなり、さらに重ねてモヤモヤとなり、強調するために否定形をつけてモヤモヤモアラズなどへと展開している。大系本日本書紀では、景行紀の部分に、「甚だ不便であるの意。モヤは、疑問・推量の意を表わすモと、質問の意を表わすヤとを重ねた語。不確かなので問い質したい意を表わす。そのモヤモヤすらも不能だの意から、「ああかこうかと問いただすこともできず、不便だ」の意。転じてここでは無用の意。」((二)63頁)と解釈する。大系本では一貫してモヤモヤに否定形のアラズを付けた形で訓んでいる。筆者は時代別国語大辞典の立場による。返事の言葉にハイがあるが、「はい、わかりました」と「はいはい、わかりました」では含意が異なる。後者には反抗の意思が感じられる。だから、「ハイは1回でいい」とさらに叱られることになる。モヤモヤモアラズという畳み掛けには、モヤモヤという言い方に、ハイハイ同様気持ちの裏腹性が感じられる。そこで否定の言葉を続けようと考えられている。
いずれにせよ、モヤ(身舎)には、モヤモヤ(=モヤモヤモアラズ)的な不安定さがある。長ければ長いほどモヤモヤ的に不安定化する。両端の棟持柱に架かっているだけだからである。そういう屋根形式から脱するには、躯体に荷重をかける仕組みに改めなければならない。柱・梁・束の軸組の上に棟木を載せるのである。それまでは、束がないから覚束ない。オホツカナシは、心もとないという意味とはっきりしないという意味に用いる言葉であるが、屋根を葺いてしまえば、外見からでは束があるのかないのかわからないから、どちらも同じ意味であるという古代的な解釈が理屈として成り立つ。したがって、屋根の棟木に登るのは物騒である。特に、それが倉庫建築の場合、クラ感をより表そうとして、棟を上へと張り出して、まるで馬上に置くクラ(鞍)のように作られている。一見、馬乗りになるのにふさわしそうであるが、しなりたわんでいて、下手に荷重をかければいつ折れても不思議ではない。登るのは控えた方が賢明である。
水鳥の 鴨の羽色の 春山の おほつかなく(於保束無)も 思ほゆるかも(万1451)
春されば 樹(き)の木(こ)の暮れの 夕月夜(ゆふづくよ) おほつかなし(鬱束無)も 山陰にして(万1875)
今夜の おほつかなき(於保束無)に 霍公鳥(ほととぎす) 鳴くなる声の 音の遥(はる)けさ(万1952)
オホニ(疎・鬱・髣髴)という語も、ぼんやりと、いいかげんに、という意味で、内実が見えないことの謂いである。小屋組の内部の束が無ければ、オホ+ツカナシとは、さらに強調された言葉であることがわかる。モヤモヤモアラズと同様に強調語である。以上で、神庫をツカサドルことをオホナカツヒメが固辞した理由が理解された。
沖永良部の高倉とその内部(鹿児島県大島郡和泊町、寄棟造、茅葺、19世紀後期、桁行2.7m、梁行2.5m、日本民家園。この倉の床は高床だが、床面がすでに屋根下端である。屋根下地に“梯子”が組まれているが、台風でも飛ばないように屋根上地も“梯子”が覆っている。)
ホクラ(神庫)は「ホ(美称)+クラ(倉)」、「ホコ(鉾)+クラ(倉)」
次に、クラのなかでも特に武器倉庫に当たるホクラ(神庫)に関して考える。河村秀根・益根の書紀集解に、「神庫〈神庫は正殿の右に在り。木を架けて之れを造る。社司曰く、中に唐櫃有り。相伝へて封を発せず、といふ。〉(原漢文)」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1157899/147)とある。刀剣類をしまうのに、木製の唐櫃などが用いられた。倉庫内に棚が設けられ、箱に宝物となる武器刀剣類を入れて棚ごとに置かれていたとも考えられる。それに対して、穀物、なかでも稲籾を収蔵する米蔵の場合、後の時代ならば稲藁を利用した米俵に籾を込めて入れておいたとするのが一般的であろう。しかし、穂首刈りや手扱きで毟っていた時代、藁をどれぐらい利用していたか不明である。また、立体的な円柱状の俵が開発される前に、叺(かます)のような平面的なものを袋として活用していた可能性もある。いずれにせよ、米蔵の中には、唐櫃のような木製の角張ったものや、それに収まりきらずに鑓や矛を立てておいたままの状態で収蔵されているわけではなく、植物製の袋が積み重なった状態になっていたと思われる。つまり、屋根に登って棟木が折れて落下した場合でも、クッションが効いて怪我せずに済む。他方、武器倉庫はごつごつしたり、尖っているものが多く、必ず怪我をする。刀剣類が剥き出しで収蔵されていたことも、神武紀の例が示している。
明旦(くつるあした)に、夢の中の教に依りて庫(ほくら)を開きて視るに、果して落ちたる剣有りて、倒(さかしま)に庫の底板(しきいた)に立てり。(神武前紀戊午年六月)
ホクラ(神庫)という語の意味について、ホ(美称)+クラ(倉)とする説が根強い。ホは高くつき出たものを指すから、倉自体の形状を表わすようにも考えられている。筆者は、語源という立場に立たない。垂仁紀が著された当時の人々の語感をこそ大事にしたい。万葉集の言葉遊びは、無文字文化華やかなりし頃の独自な言語活動の傾向であるとみている。木村1988.に、「[垂仁紀八十七年二月条の「神庫、此をば保玖羅といふ」という]訓注の存在は、「神庫」のみではホクラと訓み難いこと(ホクラ以外のクラが、当時の神社に存在していた?)と、その実体が倉庫にほかならなかったこととを、物語っていたのである。」(494頁)とある。そして、神武前紀戊午年六月条の「高倉下(たかくらじ)」の「庫」、垂仁紀八十八年七月条の「出石(いづし)の「刀子(かたな)の為に祠を立つ」、天武紀三年八月条の「石上神宮(いそのかみのかみのみや)」の「神府」をも、ホクラと訓むことを指摘する。共通する「内的理由とは、奉祀されるものが刀子であったことである。」(496頁)という。神剣フツノミタマ、出石刀子、石上神宮の神宝、と共通項があるから、みなホクラで正しかろうということである(注5)。そして、「イ ホクラは神と直接しており ロ ほこらと転じて、現代なお生きており ハ 建築的実体は高倉であり ニ 「祠」を媒介としてヤシロとも深くかかわる 等の諸点で、古代の神社、特にその神殿建築を考える場合、忘れ得ぬ存在となし得るであろう。」(495頁)という特徴点をあげている。
しかし、「ホクラの神殿的性格と、その伝統の弥生時代にさかのぼり得るであろう可能性」(498頁)があるとしか言及されていない。ホクラのホは、イナホ(稲穂)、ナミノホ(波穂)、クニノホ(国秀)、ホノホ(炎・焔)などのホと同じで、高くひいでて目立つところをいうとされている。そのため、ホクラという語をホ+クラという語構成であるとのみ考えてしまいがちである。むろん、間違いというわけではないが、高くつき出た形の倉の形態は、祇園祭に登場する高くつき出たホコ(鉾)、山鉾と見紛う。ホクラ=ホコ(鉾)+クラ(倉)と考えて何ら不自然ではない。木村1988.の「イ ホクラは神と直結しており」という意味合いもさらに兼ねてわかりやすくなる。
そのとき、「神の神庫も樹梯の随に」という言い方の主部と述部が、はじめて理解されることになる。白川1995.に、「〔集韻〕に「鉾は鋒なり」とする。夆(ほう)は神杉のような木の頂に神が降りつくことを意味する。わが国の山鉾(やまぼこ)の類は、山車(だし)の上に高い木の飾りものを樹てるが、それは神を迎えるためのものであろう。銅鉾の類を特に尊んだのも、そのような儀器として用いたものと思われる。……「ほこ」によって神霊の所在を示したものが「ほこら」で、神社形式の発達を、神籬(ひもろき)・桙(ほこ)・祠(ほこら)・社(やしろ)の四段階とみなすような考え方もある。」(675~676頁)とある。日葡辞書に、「Focora.ホコラ(祠) 神(Camis)の乗物〔神輿〕の形をした一種の小さな家で、道のほとりに建っているもの.」(255頁)とある。今、五十瓊敷命は、神庫のために梯(はし)を造(た)てようと言っている。梯子をたてるにせよ、棟持柱をたてるにせよ、意味合いとしてホクラらしくはなるが、屋根の強度が増すわけではない。江戸時代、白川郷に現われた尖った屋根の合掌造は、雪をすべり落しやすくするとともに、屋根裏を養蚕に利用しようという思惑から作られたとされる。養蚕棚のために屋根を高くするぐらいなのだから、神宝を収める棚を何段にも拵えるためにホクラも屋根を高くしたのかも知れないと考えられる。
急峻な屋根を設ければ、屋根の面積は同じ高さの倉と比べて大きくなる。切妻造で同じ奥行の建物を想定すると、傾斜が60°の屋根は、45°の屋根に比して高さは1.73倍、屋根面積は1.41倍になる。屋根面積が大きくなれば重量も重くなり、棟木がたわむ。あまり負荷はかけたくない。屋根は掌を合わせたように葺かれており、倉庫管理責任者としてツカサドル(掌・主)こととは長官に就任するということで、位(くらゐ)に就くとはクラ(座)+ヰ(居)、つまり、鞍の上に座ることでくらくらしてしまうことである。そいう物言いが無文字時代のヤマトコトバである。モヤモヤにしてクラクラである。内部に梁があって束で支えられていると主張されても、本当に梁(うつはり)があるのか、偽・詐(いつはり)ではないかと疑いたくなる(注6)。登りたくない。
述部のハシダテノママニは、樹梯(梯立)が高床に架けるのと同じ角度で屋根に架け渡す状態を示している。鉾のような高屋根だから同じになる。五十瓊敷命の言い分は、梯子があるのだから、高床に上がるのと同じ角度の梯子で屋根まで上ることも同じことであろう、という含意を入れ込んでいる。「随」字には、傍訓にママニとあり、別の個所でマニマニともある。同じ意味であるが、ニュアンスにこの部分はママニと限る傍訓がよい。それなりの意味がある(注7)。ママには、崖、急斜面の意味がある。
石橋の まま(間々)に生ひたる 貌花(かほばな)の 花にしありけり ありつつ見れば(万2288)
足柄(あしがり)の 崖(まま、麻万)の小菅(こすげ)の 菅枕(すがまくら) あぜか巻かさむ 子ろせ手枕(たまくら)(万3369)
万2288番歌の「まま(間々)」は、枕詞「石橋の」がかかっている。梯子段と飛び石とは歩の進め方が同じである。踏み外さぬように歩を確かめるべき場所である。つまり、神庫の急斜面に梯子が架けられているから、崖を登るように屋根に登ってツカサドルことはできる、という意である。
問題は、主部と述部をつなぐ助詞のモである。大野1993.に、「モは上に来ている語を、不確定な、仮定の、未定の、非限定的な対象、つまりこれ一つではない対象として取り扱う。」(47頁)とし、「万葉時代には、ハとモとは助詞だけによって、今日の副詞を伴う意味までも表現していたのである。」(50頁)といい、「古典語のモを見ると題目をそれだけと限定・特定しないだけでなく、不確定として提示するところに特質がある。」(64頁)、「上代ではその題目は、不確定、非限定、仮定的なものであり、他に多くのものが潜在的に存在する中からの不特定の例としての提示であることの方が多い。」(64頁)ながら、なかには、「確かに題目として併立して肯定的に提示する例もある……。これは使用数からは、上代では文中に使われるモの五分の一ほどにあたる。」(87頁)として、万葉集に「モの文末」が「否定・推測・願望など」を表わすものが71%、「肯定・確定など」を表わすものが29%であったのが、「室町時代末……『どちりなきりしたん』では、否定表現に使われたモの割合は二割」(88頁)と増え、現代に至っては、「モは肯定的表現に使われるのが中心となった。」(88頁)とある。
「神の神庫も樹梯の随に」という上代の用法による「諺」の意味を捉えるとき、試訳するなら、もし神のホクラなどというものがあるとするなら、梯子をたてたものそのままになるように思われる、とか、人のホクラはもとより、神のホクラも梯子をたてたものそのままであることよ、ということになる。日本国語大辞典に、「(高く近寄りがたい所でも、はしごをかければのぼれるの意から)どんな困難なことでも、適切な手段を用いれば成し遂げることができるということ。」(③975頁)とある語釈は誤りであろう。本文中に、大中姫命の話し言葉として、「天の神庫」とあったのが、諺に、「神の神庫」へと変化している。「天の神庫」は眼前に見えている石上神宮の神宝を収める倉庫のことである。「神の神庫」は、仮定のこと、不確定なものであるが、書紀集解に「架レ木造レ之」とあった。神さまを収める倉庫は、木を架けて梯子を組んでできていると解釈されている。一枚の板に刻みをつけて登れるようにした一本梯子に対応するものではなく、屋根に登る際に用いたであろう猿梯子を前提としている。
五十瓊敷命は、大中姫命に対して、神庫は高いと言っても、神庫に合うように梯子をたてるから、神庫に登ることは面倒ではないよ、と説いている。ツカサドル用の梯子とは屋根に登る梯子である。高床に登るための一枚の板に刻みをつけた一本梯子と、屋根に登る際に用いたであろう猿梯子のことの混同をおもしろがって話としている。梯子のことはハシノコともいい、ハシノコとは、梯子のことと梯子の一段一段のことをともに表す(注8)。段々ごとに一定幅のある梯子の印象がある。大中姫命に登ることはたやすいと言っているのだから、手(た)が使える幅の広い猿梯子が想定される。さらに梯子の段の間隔を狭くすれば、ちょっとずつ上に登って行くことができる。切妻屋根の側面全体にハシ(梯・階)が架かるように幅いっぱいに造ってしまえば、神職が階を登るときにする儀礼の横向き登りをせずとも、斜めに女坂調に登れば良い。最大にすれば、クラの側面がすべて梯子ということもできる。
このように「神の神庫」を想定すると、面としてのハシ(梯)になる。これは仮定の話だから助詞モが登場しているが、けっして不自然な想定ではない。クラの屋根自体、垂木と木舞で面として梯子を組んだように造って上から茅などで葺いている。それが地面から続いているのだから、どんなに高くても誰でも登ることができる。高床式倉庫の屋根の骨組そのものを梯子だと言っている。ただし、その梯子段は猿梯子と呼ばれるように、手足四肢を全部使って登るもので、「手弱女人」が使えるようなものとは言いがたい。「手弱女人」にふさわしいのは足だけ使う一本梯子だと大中姫命は言いたいのであろう。そして、棟木が棟持柱に載せ架けてあるだけで、屋根全体がそれにぶら下がる形だから不安定、不確実なこと極まりない(注9)。助詞モを使いたくなる場面である。
枕詞「はしたての」
枕詞「はしたての」は、①サガシ(険・阻・嶮)、②クラハシ(倉椅)、③クマキ(熊来)にかかる。
梯立(はしたて)の 嶮(さが)しき山も 我妹子(わぎもこ)と 二人越ゆれば 安蓆(やすむしろ)かも(紀61)
梯立の 倉椅山(くらはしやま)を 嶮(さが)しみと 岩懸(か)きかねて 我が手取らすも(記70)
梯立の 倉椅山は 嶮しけど 妹と登れば 嶮しくもあらず(記71)
橋立(はしたて)の 倉椅山に 立てる白雲 見まく欲り 我がするなへに 立てる白雲(万1282)
橋立の 倉椅川の 石の橋はも 壮子時(をざかり)に 我が渡りてし 石の橋はも(万1283)
橋立の 倉椅川の 河のしづ菅 余(わ)が刈りて 笠にも編まぬ 川のしづ菅(万1284)
堦楯(はしたて)の 熊来(くまき)のやらに 新羅斧 落し入れ ……(万3878)
堦楯の 熊来酒屋に 真罵(まぬ)らる奴(やつこ) ……(万3879)
時代別国語大辞典の「はしたての 枕詞」に、「【考】枕詞のかかり方は、①の嶮(サガ)シキ山はすなわち天ノハシタテであり、また②の倉橋(クラハシ)はクラ(倉(クラ)・座(クラ))へ上るハシで、それもハシタテ、すなわち立てられたハシであるから、同義の表現を重ねたものといえよう。③は、クマキの意味がわからないので、かかり方も不明。別に、ハシを特に神のよりしろと考え、その神を祭るためにそれを立てたので、その立てられた場所である①嶮シキ山や、③隈(クマ)にかかり、神のよりしろ、すなわち座(クラ)であるところから②クラハシにかかるとする説もある。」(577~578頁)とある。新編全集本日本書紀には、記の用例に関して、「この場合の「梯立の」は「倉」にかかる枕詞。元来、梯立はY字形の叉木(またぎ)で、それを立てて神の宿る神座(かみくら)としたことに基づく。」(②58頁頭注)とある。しかし、股木が特徴なのは、股矛なのではないか。Y字形の叉木に座っているのは明恵上人像ぐらいしか知られない。沖縄の人が途中から二股になった梯子を使っていたとされるが、ヤマトコトバのハシの基本は一本の線である。
枕詞というのは、言語遊戯である。洒落がわからなければかかり方もわからない。洒落を成り立たせるのは小理屈ではなく、屁理屈である。サガシ(険・阻・嶮)、クラハシ(倉椅)、クマキ(熊来)のすべてのかかり方が解明されなければ、洒落の壺がわかっておらず理解されたことにならない。これまで見てきたように、梯立は屋根の骨組に同じ構造であった。峻嶮で急勾配の「神庫」なる倉の屋根に思い致せば、クマキ(熊来)にかかることも容易に理解される。
左:「捕洞中熊」(蔀関月著・法橋関月画図・日本山海名産図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2575827/40)、中:捕縛の図(凶悪犯のはしご捕り)(徳川幕府刑事図譜、明治大学図書館https://www.meiji.ac.jp/museum/criminal/keijizufu/contents.html?mt=nm&hl=ja)、右:「子熊を養育する図」(松田伝十郎・北夷談、国立公文書館http://www.archives.go.jp/exhibition/permanentpopup/002_04_02.html)(注10)
熊が来たら捕まえるための柵の使い方は、熊の棲む洞穴にあてがって逃げられないようにしておき、鎗などで急所を一突きにして仕留めるのである。クマキ(熊来)にかかるハシタテノとは、この大きな木組であって、それは屋根の骨組に同じである。犯罪者を捕縛する場合にも梯子は使われた。梯子とは、登る道具であるだけでなく、逃げられなくする道具であった。そして、動物を入れておく檻は、梯子の応用である。幅広いものを作っておいて、それを四方の地面からたてて結び、天井にもかけてしまう。五十瓊敷命考案の梯子は檻ではないかと、大中姫命は嫌がっている。
すると、カミノホクラ(神の神庫)といっていた「神」とは、オホカミ(狼)のようなカミであるとも捉え得ることが知れる。岩波古語辞典に、「かみ【神】……①《上代以前では、人間に対して威力をふるい、威力をもって臨むものは、すべてカミで、カミは人間の怖れと畏みの対象であった。人間はこれに多くの捧げ物をして、これがおだやかに鎮まっていることを願うのが基本的な対し方であった》①雷・虎・狼・蛇など、荒れると人間に対して猛威をふるうもの。」(327頁)とある。白川1995.には、「かみ〔神〕 神秘な力をもつ神聖なものをいう。すべての自然物や獣畜の類、また雷鳴のようなものも、神威のものとして神とされた。」(253頁)ととてもシンプルな語釈がある。神の神庫とは、狼のような獰猛な獣を入れる檻のことを言っているらしいとわかる。
伊香保嶺(いかほね)に 雷(可未(かみ))な鳴りそね 我が上(へ)には 故はなけども 子らによりてそ(万3421)
天雲の 八重雲隠れ 鳴る神の 音のみにやも 聞き渡りなむ(万2658)
…… 韓国(からくに)の 虎とふ神を 生取りに 八頭(やつ)取り持ち来(き) その皮を ……(万3885)
陛下(きみ)、譬へば犲狼(おほかみ)に異(け)なること無し。(雄略紀五年二月)
犲狼〈獥附〉 兼名苑に云はく、狼は一名に犲〈音は戈〉といふ。説文に云はく、狼〈音は良、於保加美(おほかみ)〉は犬に似て銑頭にして白頬なる者也といふ。爾雅に獥〈音は叫〉は狼の子也といふ。(和名抄)
……豹尾(なかつかみのを)珥(さ)せる者(ひと)二騎(ふたうま)、……(欽明紀十四年十月)
豹 説文に云はく、豹〈補教反、日本紀私記に奈賀豆可美(なかつかみ)と云ふ〉は虎に似て円い文なる者也といふ。(和名抄)
素戔嗚尊、蛇(をろち)に勅(みことのり)して曰はく、「汝(いまし)は是れ可畏(かしこ)き神なり。敢へて饗(みあへ)せざらむや」とのたまふ。(神代紀第八段一書第二)
枕詞ハシタテノがかかるサガシという語には、サガス(涼)の連用形もある。観智院本名義抄(1241)に、「凉 呂長反、スズシ、コホル、サム(目?)、サムシ、凉上俗、下正、サガス、タスク、カナシフ、和リヤウ」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2586895/27)、書陵部本名義抄(1081頃)に、「清涼 ホシサガサシム」とある。涼(さが)すとは、広げて日に干すことをいう。日に干して晒すことによって、曝け出すようにすることとは、探し物を見つけることができるようになることである。そこから今日の探査、探索の義へと展開した語のようである。干すことに用いる「干」の字は、干渉のようにヲカス(冒)の意、干潟のようにホス(乾)の意、干戈のようにタテ(盾)の意、干支のように兄弟の意、干闌とは南方民族が樹上に作る住居の意(貯貝器上の建物のような類)、また、竿や岸に通ずる。いま、高床式の建物について、兄と妹とが言い争っていて、神宝や神庫の有り難さを冒している。兄はタテル(造)と言っていて、高く稲を干したり、干し柿でも乾かすような桟がたくさんある小屋組の話になっている。妹は支えがないから嫌だと言っている。とても急峻なサガシ(険・阻)い崖(まま)のような屋根をかけることが問題である。ガケをカケる。幅が広すぎて、段々の物干竿のようなものと化している。横倒しして囲ってしまえば、まるで牢屋のように見える。
牢獄の略図(徳川幕府刑事図譜https://www.meiji.ac.jp/museum/criminal/keijizufu/contents.html?mt=nm&hl=ja)
檻や牢を格子状にした場合、縦木と横木を縄で括るのではほどかれてしまう。内側に捕らえた囚人や猛獣が、取っ掛かりとして登られて天上から脱出するかもしれない。江戸期の牢獄などには縦の柱を主にしながら横貫の柵になっていることがある。貫や溶接などの柵でなければ、単なる格子では檻にはむしろ適さない。ここでは、ホクラが高床式住居に近しい倉庫のことであったのが、「天の神庫」→「神の神庫」となって、ヒトヤ(獄、牢)や猛獣の檻の話へと転変しているといえる(注11)。狼か何かわからないが猛獣を入れた「神の神庫」なる檻では、入れられた猛獣は干されて腹が空いたであろう。日葡辞書に、「Farauo fosu.l,nodouo fosu.(腹を干す.または,喉を干す)何ひとつ飲みも食いもしないでいて,からからになっている.」(266頁)とある。飲食物を与えないで弱らせながら手なずけて、サーカスにも使おうということであろうか。実地に使ったものとして、鷹狩用の鷹や鵜飼用の鵜が知られている(注12)。意味合いとして、梯子状の段々に稲や柿を吊るし干すことと同じことである。落語のような珍問答がこの諺の真骨頂といえる。
高ハサ(「アルピーヌの日常」様2019/12/15記事http://www.janis.or.jp/users/hpalpine/alpine-nichijyo-2012.htm)
「神の神庫」というあり得ない仮定は、特に稲干しのハサ(稲架)(注13)の高くたてられたものから連想されたものと思われる。天日干しの美味しさを求める需要や、自然農法を目指す人によって、ハサで乾燥されたお米は高級品として扱われている。高ハサに稲の干された様は、まことに高床式建物の屋根に等しく見受けられる。すなわち、この諺が作られた背景には、安定的な水田稲作農耕の技術が高床式の建物、わけてもその倉庫形態と一緒に伝来し、根づいたことを物語っている。色葉字類抄(1177~81)に、「凉 サガス 曝凉米也」とある。サガシ(嶮)なところで稲を干し、おいしい米を得る術について、後々まで伝えていく無文字時代のうまいやり方、言葉の中に意味を込めてしまう秘伝法まで読み取れる。すなわち、ホクラとは、ホス(干)+クラ(座・鞍・倉)の意と受け取れる。ハサ(稲架)を含めた干して貯蔵する術の謂いである。
ホクラ(神庫)は「ホス(干)+クラ(倉)」とまとめ
濱2010.に、高床式の倉の機能について完璧な言い得ている。
木造建築は内部を乾燥させるのに適した「干す」つくりで、日本における民家建築の本質ともいえる。高温多湿のアジアモンスーン気候に属する日本において、湿度の高い夏をいかに過ごすかは重大な問題で、高床にして通風を確保し、窓を開け放つ住宅の形式が伝統的な民家として発展してきた。この問題は食料の貯蔵においても同様である。そのため生産過程における乾燥は重要な作業であり、害虫やカビ等が発生しないよう食料を干してから仕舞うのである。さらに小屋や倉には仕舞っている間、湿度を防ぎ、通風を取るなどの「干す」形が見られる。(49頁)
そして、「そのまま干す」。「屋根をかけて干す」、「干しながら仕舞う小屋」、「干す小屋」、「干してから仕舞う小屋」といった工夫の諸例が紹介され、穀類の説明として次のようにある。
……収穫時の乾燥が不十分であったりすると、穀類の味が落ちるだけでなく、カビが生え、害虫を発生させ腐らせてしまう。また穀類は収穫物そのものが次の栽培の種でもある。腐らせたり、雨にさらして芽が出てしまったりすると、次年度の収穫をなくし、経済的な損失だけではなく生命をつなぐことすら危うくする。そのため風を通してこもらないようにすることが必要であり、高床にして地面から離して湿気を防ぎ、壁面の通気性を持たせた構法を選択している。一方「干しながら仕舞う小屋」には、干すこと以外に貯蔵という重要な役割があり、貯蔵には盗難やネズミに対する構えが必要である。……小屋と倉は高温多湿な気候の中で、干すことと仕舞うことの組み合わせで様々な生業に対応し、開放して通気を確保することと閉鎖して防犯・防鼠することのバランスをとりながら、「干して仕舞う」構法を木材によってつくりあげてきたのである。(50~51頁)
石上神宮の倉は、刀剣などの宝物を収めるものであった。両者の間にずれた頓智を巻き起こして面白味が増す。「神庫」で刀剣を干すとは、鉄器の刀剣を錆びから守るという意味を帯びてくる。刀の虫干しである。蓋を開けてみたら錆びていて使い物にならなかったというのではお話にならない。武器倉庫の刀剣を管理すること、ツカサドル(掌・主)こととは、クラでホスことが肝要ということになる。だから、ホクラは猛獣の姿のカミを干し晒す倉なのである。高ハサも高床式倉庫の屋根も、江戸時代の罪人の晒し場の小屋掛けにまでもよく似ている(注14)。
晒し場所の小屋掛け(ウィキペディア「晒(刑罰)」、グーテンベルクネットプロジェクト様「不貞による晒し刑。幕末」https://ja.wikipedia.org/wiki/晒 (刑罰))
以上、多義性の中にうごめく頓珍漢な言葉の技について見てきた。今日言う「諺」と上代の「諺」とは示す意味合いが異なる。何か諭す目的があって言い含めているのではない。コト(言・事)+ワザ(技・業・態)によって何が言いたいのかといった問いは、問い自体が誤りである。言葉の変化球が言葉に戻って来て、言葉自体が自己撞着していること、言葉が継手の腰掛け鎌継ぎのような仕口に納まっているところ、それが上代の「諺」である。それ以上でもそれ以下でもない。「神の神庫も樹梯の随に」という諺の生れた由縁は、確かに五十瓊敷命と大中姫命とのやりとりにおいてであった。そして、その「諺」は“生かされる”ことなく、ただちに大中姫命は申し出を断り、物部十千根に委託してしまっている。
この言葉遊びのような逸話が作られるきっかけとしては、漢字を図として見て「干」の字を学んで面白がったことに端を発したのかもしれないが、文字資料からは確かめることはできない。「干」は盾の意であるが、タテをタテても「干」の形では隙間があって攻撃を防ぐことはできない。梯子に同じく隙間だらけである。それでも、四方から攻めたてれば捕り物に用いることができ、捕らえたら捕らえたで天井にもめぐらして結いつければ、猛獣としての「神」を入れて干させる檻としての機能を果たすことができる。茅を葺けば屋根にも遮蔽にも稲干しにも変身する。そういう梯子の多用途性について、高床のクラの屋根の展開とともに興味がもたれてヤマトコトバになるほどと納得された。結果、言葉が言葉に変化球として返ってくる「↺」形の自己循環、ブーメラン構造を呈した。それを言葉の技、コトワザと呼んでいる。うまいネタが披露されている。
(つづく)
「神之神庫随二樹梯一」は「諺」とされている。
八十七年の春二月の丁亥の朔辛卯に、五十瓊敷命(いにしきのみこと)、妹(いろも)大中姫(おほなかつひめ)に謂りて曰く、「我は老いたり。神宝(かむだから)を掌(つかさど)ること能はず。今より以後(のち)は、必ず汝(いまし)主(つかさど)れ」といふ。大中姫命、辞(いな)びて曰さく、「吾は手弱女人(たわやめ)なり。何ぞ能く天(あめ)の神庫(ほくら)に登らむ」とまをす。神庫、此には保玖羅(ほくら)と云ふ。五十瓊敷命、曰く、「神庫高しと雖も、我能く神庫の為に梯(はし)を造(た)てむ。豈、庫(ほくら)に登るに煩はむや」といふ。故、諺に曰く、「神(かみ)の神庫(ほくら)も樹梯(はしたて)の随(まま)に」といふは、此れ其の縁(ことのもと)なり。然して遂に大中姫命、物部十千根大連(もののべのとをちねのおほむらじ)に授けて治めしむ。故、物部連等、今に至るまで石上の神宝を治むるは、是れ其の縁なり。(垂仁紀八十七年二月)
新編全集本日本書紀には難渋な解説が載る。「説話どおり解すると、高い神庫でもはしごがあれば昇れる、の意。しかしこの諺は、神の座(くら)もその依代(よりしろ)になる梯(はし)しだいだ、という意で、神はその梯に依り降臨されるということを表現した。「樹梯」は「梯立」に同じ。定本の原文「神之神庫」を、熱田本の「天之神庫」に作るのは後世のさかしらによる改変。」(①331頁頭注)とある。神さまが関係する梯子は、「天の浮橋」(神代紀第九段本文)、「天の椅立(はしだて)」(丹後風土記逸文)のように「天の」と冠される。「天の」ではなく「神の」と冠するとテキストクリティークされている。「神宮」はカミノミヤ(カムミヤ)で神さまがいらっしゃる場所であるが、「神の神庫」とあるのは、何の謂いか検討が必要であり、この「諺」の真意に通じることにつながるだろう。(注1)。
この問答には疑問点がある。大中姫は「天の神庫」といい、諺では「神の神庫」と言っている。ホクラ違いが生じている。しかも、諺の示唆するとおりには事は運んでいない。諺を無視して大中姫命は物部十千根に業務委託している。それで話が解決している。あやしいと言わざるを得ない。高い神庫でも梯子さえあれば誰でも登れるという表面上の理解は、古代の「諺」=コト(言・事)+ワザ(技・業・態)の内実を理解しているとはいえない。
新撰字鏡に、「梯 波志(はし)」とあり、和名抄・道路具に、「梯 郭知玄に曰く、梯〈音は低、加介波之(かけはし)〉は木の堦にて高きに登る所以也といふ。唐韻に云はく、桟〈音は笇、一音に賎、訓みは上に同じ〉は板木、険(さが)しきに構へて道と為(す)る也といふ。」、同・屋宅具に、「堦 考声切韻に云はく、堦〈音は皆、俗に階字に為(つく)る、波之(はし)、一に之奈(しな)と訓む〉は堂を登る級也といふ。兼名苑に云はく、砌、一名に階〈砌の音は細、訓美岐利(みぎり)〉といふ。」とある。弥生~古墳時代の高床式倉庫、あるいは、高床式住居のための梯子は、各地の集落跡から数多く出土している。板や丸太に刻みを入れ、片一方から抉り削いだ形状をしている。一本梯子(雁木(がんぎ)梯子)と呼ばれる。板に刻みを入れた梯子は高床式の建物用のもので、人が昇り降りするときに使われ、また、荷物を下ろすときには裏面を使ってスロープにして滑らせたと考えられている。高床式の建物がさほど珍しいものでなく、当り前に梯子をあてがって生活していた。そのとき、長い梯子さえあれば、いくら高い所でも登れると考えることは安直である。誰でも言えることは、「諺」と呼ぶにふさわしくない。そもそも、女性が梯子をかけても登れそうもない高さの倉庫が造られていたのか疑問である。出雲大社の神殿仮説(大林組)のように100メートルにも高ければ怖いが、その場合、男女を問わず怖くて登れない人が出てくる。大中姫命の訴えを注意して聞く必要がある。
左:梯子の出土状況(鳥取県教育文化財団「平成27年度大桷遺跡」http://kyo-bun.sakura.ne.jp/hakkutugenbakara/sokuho_daikaku15.htm)、右:長い梯子(長岡京市雲宮遺跡出土、古墳時代後期、長さ約3.6m、幅約20cm、厚さ約5cm、板状の表面に木を切り出して作った7段の足かけ部分あり。後、他の建築部材へと転用か。「古今東西乙訓三島(ときどき伏見山城)」様http://blog.goo.ne.jp/tasket/c/f9a17b85a160eebe0cab0028a1ba1817/2、一部画像加工)
今日、一般的な梯子の形状は、二条の長い材の間に足がかりとなる横木を一定間隔で取り付けたものである。猿梯子とも呼ばれ、木製、竹製、金属製、特に近年は軽量のアルミ製が多い。それを折り畳めるようにしてΛ形にしたのが脚立である。金属製で、スライド式に伸ばして高所へ架ける作業もよく行われている。猿梯子は絵巻物などに描かれているほか、銅鐸の絵に見ることができる。
左:袈裟襷文銅鐸(伝香川県出土、弥生時代、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttp://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0078602)、中:菅生寺の梯子(一遍聖絵写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591574/13)、右:寿老の髪剃り図(酔月斎栄雅筆、絹本着色、江戸時代、18世紀、東博展示品)
高倉倉庫(家屋文鏡、小笠原好彦「首長居館遺跡からみた家屋文鏡と囲形埴輪」https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonkokogaku1994/9/13/9_13_49/_pdf/-char/ja(2/18)をトリミング)
日本史大事典の「梯子」の項に、「奈良県佐味田宝塚(さみだたからづか)古墳出土の家屋文鏡(かおくもんきょう)に一本梯子がかけられた高床倉庫が鋳出されている。しかし丸太を蔓(つる)などで結びつければ使用できる猿梯子は、これよりも古くから存在していたと考えられる。」(786頁、この項、小泉和子。)とある。適切な見解である。なぜなら、高床式建物の地面から高い床に達するための一本梯子が作られるためには、何よりも高床式建物を作らなければならない。高い床どころではない高い屋根に達する梯子がなければ、屋根を葺いたり直したりすることはできない。不安定な高所へ渡す一本梯子はあっても危険だから、猿梯子を架けて仕事がされた。ふつうは登らない高い所へも平気で登り、遠いところで遠近法的に小さくなってちょこまか動き回る様は、猿が屋根に登って動き回っている様子とよく似ている。猿梯子という名はうまく言い当てている。猿梯子の二条の棒に横木を取り付けることは、屋根を作る際、幾条もの垂木に一定の間隔で横木(木舞)をわたしていって下地を作ることと同じである。今日に伝わる茅葺き屋根の例は近世以降のもので、古代の草葺きと構法技術が連続するものではないかもしれないが、参考にするに十分である。
小屋組の類型(左:オダチ組、右:サス組、日進市HPhttp://www.city.nisshin.lg.jp/material/files/group/92/140726meitanteikominkasiryou.pdf(4/4))
茅葺屋根の葺き替え(左:屋根組、右:葺き始め、相模原市HPhttps://www.city.sagamihara.kanagawa.jp/kurashi/kyouiku/bunkazai/1010296/1014806.html)
左:倉(プ)模型(北海道アイヌ、木製、19世紀、ウィーン万国博覧会事務局引継、東博展示品)、中:家屋模型(メラネシア、ニューギニア島、木製、20世紀初め、田中梅吉氏寄贈、東博展示品)、右:北海道アイヌの家族と倉(「鳥居龍蔵とその世界」http://torii.akazawa-project.jp/cms/photo_archive/photo_index.html#chishima(1044))
棟持柱の建物
弥生時代の集落にどのように建物が建てられていたかについて、岡村2014.に次のようにある。
これまでにみつかっている掘立柱建物跡の一・五倍以上ある大型の掘立柱建物跡(一間×三間、三・八メートル×六・九メートル)が、居住域の東部でみつかった……。そこは区画溝を南側に移し、居住域を広げた部分にあたる。建物の端から北に三メートル離れた主軸線上に、主柱穴より浅い柱穴がある。反対側は戦時中の土取り工事で深く削られているため、柱穴の存在を確かめることができなかったが、近隣の小黒(おぐろ)遺跡や汐入(しおいり)遺跡でみつかった独立棟持柱付き掘立柱建物跡(独立棟持柱建物)と類似することから、同じ独立棟持柱をもつ構造と考えられる。独立棟持柱が建物本体から遠く離れていること、小黒遺跡例での柱穴内の礎板の傾きおよび主軸方向に長い柱穴の形状などから、棟持柱は垂直ではなく内傾していた可能性が高い。銅鐸(どうたく)に描かれた建物の棟持柱は垂直であるが、兵庫県の養久山(やくやま)・前地(まえじ)遺跡出土の絵画土器の建物では棟持柱が傾いて描かれているため、両タイプがあってもよいだろう……。
柱穴の深さや大きさは倉庫と大差ないが、すべてに礎板が敷かれている。床高は、倉庫と同じなのか、大きさに比例して少し高いのか、それとも別の構造のため低いのか、意見が分かれるところである。別の遺構から幅・厚さとも普通の倍もある大型の板梯子緒が出土しているため、大きさに比例した床高になってもいいように思う。……
以上、この建物は、規模や構造の特殊性と出土遺物から、祭祀的性格をもつ建物(祭殿)と考えられる……。これまで集落はふだんの生活と生産に関係する住居と倉庫だけで構成されると考えられていたので、このような建物がみつかったことは、集落像に大きな変更をせまるものとなった。こうした祭祀的な建物は、弥生時代後期には登呂のように居住域の内部に配置されていたが、古墳時代になると汐入遺跡や小黒遺跡のように、居住域から完全に独立した空間に配置されるようになると考えられる。(40~42頁)
左:祭殿ないし“神庫”(静岡市登呂遺跡復元建物、「wonderyama のマニアックな世界」様https://blogs.yahoo.co.jp/wonderyama2000/14765229.html)、右:倒壊しかけた棟持柱倉庫(熊本地震後の塚原古墳群復元建物、壁は校倉のようである。向かって左側、壁に屋根の荷重がかかっていないことがわかる。「地図を楽しむ・古代史の謎」様http://tizudesiru.exblog.jp/23881953/)
古代においては、高床式建物の屋根の棟木は、その両端に位置する掘立柱(棟持柱)によって支えられる構造であったらしい(注2)。
左:復元された高床式倉庫の小屋裏、右:骨格模型(大阪歴史博物館庭展示、法円坂倉庫群跡)
神明造(折置組)のイメージ(神宮司庁「伊勢神宮HP」https://www.isejingu.or.jp/about/architecture/index.htmlから抜粋)
稲作文化との兼ね合いから、古代日本の高床式建物の構法を東南アジアの建築技法に求めたものに、若林1986.がある。
[タイ国の山岳少数民族の倭族の高床式住宅において、]その軸組構法で特筆すべき点は、床・壁を構成する軸部の構造と、小屋組(屋根組)を構成する構造とが分離していることである。というのは、屋根組の骨子である棟木の荷重を軸部としての躯体が受けるのではなく、棟持柱自身が受けていることである。つまり棟持柱は地中に掘っ立てられて独立し、棟木だけを支えている。棟木の方も棟持柱だけに支えられているといえる。その形式の中には棟持柱と併用して叉首(さす)や棟束(真束)を使っているものもあるが、叉首は棟持柱を補助する材で、棟持柱の脇役をしている程度である。(24頁)
倭族の小屋組の基本は、水平な棟木を垂直な棟持柱が支持するところにあり、わが国古来からの和小屋組の祖形ではないかと思う。叉首(さす)などの斜め材も使われてはいるが、それは棟持柱の補助材である。斜め材の中には、叉首組のものと合掌組のものとがあり、前者は各部族に散見され、後者はラワ族だけに見られた。叉首組とは二本の斜め材を使って梁を底辺とする三角形を組み、その頂部を交差させてできる谷で棟木を支える構法である。合掌組とは叉首が叉首尻を梁の上で桁に突張って立つ形式とは異なり、尻が桁に突っ張らず、垂木状に桁上をのぼる形式で、ここでは叉首と区別する用語として使うことにした。……わが国の小屋組は棟持柱の支え方に大別して二系統があり、一つは斜め材による叉首組、もう一つは垂直材による和小屋組である。これについて叉首組はもともと棟持柱を持たない小屋組、和小屋はもともと棟持柱をもつ小屋組からの変化発展形式だと考えるが、前者は縄文的、後者は弥生的伝統をくむものではないかと思っている。(31頁)
貯貝器(雲南省晋寧県石寨山12号墓出土、前漢時代、前2~前1世紀、青銅製、「人民中国」http://www.peopleschina.com/maindoc/html/teji/200701/15teji-3.htm)
棟持柱のない寺院建築は、梁のうえに束が立ち、棟木を支えている。躯体が屋根を支えなければ、重い瓦を載せることはできない。高床式倉庫の正倉院にして然りである。一方、棟持柱があるのは、屋根の棟木をそれで支えていたからである。前漢時代の高床式建物でも、今日の東南アジアのリゾート地に見られる載せただけのような屋根も、本邦へは南方から稲作などとともに高床式建物の形式として伝わり、タイの山岳少数民族に誰でもが造るように誰でもが建てたのであろう。それが大型化した際、工夫を凝らして梁に束の立つ仕組みに細工、改変したということではなかろうか。仕口を巧みに仕上げなくてはならず、手に技を具えた職人としての大工さんが登場した。鉄製の鑿をうまく扱う匠(注3)が現れた。今日のプレハブ住宅には失われつつある技術が求められた。
タイの山岳少数民族の高床式倉庫は、見てくれにおいて伊勢神宮の建築様式ととてもよく似ている。日本の神社の形式は、それが全般にわたるものかどうかはともかく、クラ(倉)になりうる高床式の建物の形式から出発したものと考えられる。竪穴式の建物からの発展形ではない。クラ(座・鞍・倉)とは、高い位置に鎮座すべきところを表わしている。すなわち、棟持柱で棟木を高く支えるところに発生した。埴輪に切妻造で切妻屋根の妻側上方が突き出る、いわゆる妻が転ぶ状態のものがある。突き出しているところが曲線美を描いている。雨の降りこみを防ぐために突出させたとされている。棟持柱だけで棟木を支えれば、屋根を葺いたら荷重で撓み、棟木が反って若干とも両端が高くなることは想定される。ならばいっそのこと、妻を転ばせて大袈裟にする方が、雨除けにも煙出しにも有利になる(注4)。下に示した家形埴輪は、それがクラであることを印象づけている。馬に装着して人が乗るためのクラ(鞍)の形にとてもよく似ている。ここに、古代建築は、建築学や考古学の推測の域から解き放たれ、語学的論証の領域にたどり着く。クラというヤマトコトバに、意味が込められている。
左:家形埴輪・切妻式倉庫(古墳時代、5世紀、伊勢崎市赤堀茶臼山古墳出土、東博展示品)、右:馬のお土産各種の鞍
クラ(倉)とは何か。それは、クラ(鞍)であり、クラ(座)である。アグラ(胡坐)をかくことができるような一段高く座れる場所である。地べたに這いつくばる姿勢ではなく、上から目線でものが言える高さである。高床式の上、馬の上、椅子の上である。生活レベルにおける大きな転換である。それまで貯蔵するには地面に穴を掘って埋めていた。座るのも土座であった。その貯蔵や安座の位置が一気に宙に浮いている。それをクラと呼んでいる。倉がクラと呼ばれる限りにおいて、それは馬や椅子に足が高いように高床式でありつつ、屋根の上が馬の背に当たるかに思われる被せ覆った造りになっていたと考えられる。だから、同じ言葉(音)として通用している。文字を持たない人にとって、その訳が分かるようになっている。以上が、垂仁紀八十七年条の前提である。
手弱女(たをやめ)が身屋(もや)に登るのは覚束(おほつか)ない
五十瓊敷命の言葉に、ツカサドル(掌・主)という語が出てくる。ツカサ(司・宰)とは、高いところを意味するツカ(塚)に接尾辞のサをつけた言葉と考えられている。管掌する者は、高いところから部下に号令をかける。ヒエラルキーで高い位置を占める者という意味合いになる。ただ、言が事である言霊信仰のなかにあったヤマトコトバの時代、観念的に高いところを占めるという意味合いは後付けである。実際に、高いところに登れなければツカサドルことにはならない。神宝を祭ることをツカサドルためには、その神宝を納める倉を具体的にツカサドルことをしなければ、神宝を管理しているとは言えない。文字記号を持たない言葉はいまだ「具体的操作段階」(J.ピアジェ)にあった。つまり、倉のツカサたる高い所を取ることができなければならない。高い所は、屋根の嶺である。馬に鞍を置いて乗るように、モヤ(身舎)に登って跨がれなければ、ツカサドルことには当たらない。けれども、その屋根の建築構法が、棟木を棟持柱で両端を支えるに過ぎないとすれば、倉を大きくすればするほど棟木は長くなり、棟持柱も高くなり、ゆらゆら揺れて安定せず、乗れば折れたり倒れたりする可能性が出てくる。とても登る気にならない。
大中姫命は言っている。「吾は手弱女人(たわやめ)なり」。この「手弱女」には、古訓にタヲヤメとある。和名抄に、「婦人 日本紀私記に云はく、手弱女人〈太乎夜女(たをやめ)〉は婦人〈婦人、訓みは上に同じ〉といふ。」とあり、万葉集に、「多和也女(たわやめ)」(万3753)とあるから、どちらで訓まれたか確かではない。新編全集本日本書紀はタワヤメとルビを振っている。「「多和也女(たわやめ)」(万三七五三)の仮名書きによる。タヲヤカ(しなやかなの意)なる女がもとの意味。「手弱(たよわ)」の字は、編者の一種の語源解釈による表記。『和名抄』の「太乎夜女(たをやめ)」は少し後世的な語形。」(①330~331頁頭注)としている。しかし、万葉集に、「手弱女」(万379・543・935・1982・3223)とあるから、紀の編者の語源解釈ではなさそうであり、また、万葉集の例から考えれば、タワヤメが古い形、タヲヤメは「少し後世的」な形とも言えない。万葉集にタワヤメと訓む例は、以下に示す万935番歌と、万3753番歌の仮名書きに負って便宜的にそう訓んでいるのであるが、タヲヤカなる女がもとの意味なら、タヲヤメが古い形かもしれない。いずれ不毛の議論である。
話は、梯子をどんどん登って云々、の事柄である。屋根の棟木が両端で支えられているだけなら、跨って荷重をかければ棟木はしない曲がって撓む。古語に、タワム、タヲム、ともに用例がある。また、山の嶺のたわみへこんだ鞍部のことを、タワ、タヲリ、ともにいう。今日、枝に実がたくさん成ってしなうことを、たわわに実るというが、古語では擬声語として、タワタワという形がある。また、女性のなよなよした曲がりしなう様をタヲヤカという語で表す。
…… 手弱女(たわやめ)の 思ひたわみ(多和美)て 徘徊(たもとほ)り 吾はそ恋ふる 船梶を無み(万935)
力ある王(おほきみ)見て、手拍(う)ち攢(たを)みて、石を取りて投ぐ。(霊異記・上・三)
……山のたわ(多和)より、御船を引き越して逃げ上り行きき。(垂仁記)
あしひきの 山道(やまぢ)も知らず 白橿の 枝もとををに 雪の降れれば〈或に云はく、枝もたわたわ(多和多和)〉(万2315)
婀娜(たをやかにして)……参差(たをやかにして)……依々(たをやかなること)……窈窕(たをやかにして)……逶迤(たをやかにして)(遊仙窟)
つまり、垂仁紀の「手弱女人」は、タワヤメ、タヲヤメ、いずれであってもヤマトコトバとして論理的に合致する。大中姫命はきっとメタボな女性だったのであろう。手(腕力、握力)が絶対的に弱いのではなく、妊娠しているわけではないがお腹が大きいから相対的に弱くなる。だから、オホナカツヒメにしてタワヤメ(タヲヤメ)である。強いてどちらかといえば、タヲヤメの訓がふさわしい。タ(接頭辞)+ヲヤ(小屋)+メ(女)の意を含意する。ヲヤ(小屋)とは、屋根の小屋組を示唆する。吊り橋が渡されているような小屋になっている。今にも壊れそうなボロ屋の意味でも、ヲヤ(小屋)という語は使われている。
彼方(をちかた)の 赤土(はにふ)の少屋(をや)に こさめ降り 床さへ濡れぬ 身に副へ吾妹(わぎも)(万2683)
玉敷ける 家も何せむ 八重葎(やへむぐら) 覆へる小屋も 妹とし居らば(万2825)
さし焼かむ 小屋の醜屋(しこや)に かき棄(う)てむ 破薦(やれこも)を敷きて うち折らむ 醜の醜手を さし交へて ……(万3270)
史跡池上曽根遺跡の「いずみの高殿」復元建物(大阪府和泉市)
問題は、高床式倉庫の躯体にあるのではなく、小屋組の頂に架けられた長い棟木にある。とても登る気になれない。家の棟のことは、モヤ(身屋)ともいう。廂を張り出した部分やはなれの隠居所ではなく、母屋(おもや)の主建造物の屋根のことである。今日の建築用語では、小屋組において、棟木や桁と平行に、梁から束を立てた上に載せる材も母屋(もや)と呼んでいる。昔は束が立っておらず木舞にすぎなかったから、そんなところに登るのは、まったくモヤモヤした気分である。古語に、モヤモヤ、ないし、モヤモヤモアラズとは、不安定で落ち着かないという意味である。
御所(おはしますところ)遠(とほざか)り居(はべ)りては、政(まつりごと)を行はむに不便(もやもや)にして、近き処に御すべし。(天武紀元年六月)
其れ永(ひたふる)に狭(せば)き房(むろ)に臥して、久しく老い疾(やまひ)に苦ぶる者は、進止(ふるまひ)不便(もやもや)にして、浄地(いさぎよきところ)亦穢(けが)る。(天武紀八年十月)
時代別国語大辞典に、「【考】モもヤも疑問・推量の意の助詞で、これを重ねて心許ない確かでないさまをいう名詞となったものという。「不便・不予」の古訓として、モヤモヤナラズ・モヤモヤモアラズというのもある。」(750頁)として、「不便」(景行紀四年二月、允恭前紀、顕宗紀元年二月是月)、「不予」(欽明紀三十二年四月)の例をあげている。そして、「前掲の例とこれらとを比べると、モヤモヤとモヤモヤナラズ・モヤモヤモアラズと同義であることがわかる。おそらくこの否定は、モヤモヤのもつ不分明・心許ない・不安などの否定的な意をさらに強めるためのもので、モヤモヤを否定したものではあるまい。たとえばケシカリとケシカラズ、オボロケナリとオボロケナラズと同様の関係にある。」(750頁)と解説する。不確実性を表わすのに、まず、助詞単体でモ・ヤがあり、それを続けてモヤとなり、さらに重ねてモヤモヤとなり、強調するために否定形をつけてモヤモヤモアラズなどへと展開している。大系本日本書紀では、景行紀の部分に、「甚だ不便であるの意。モヤは、疑問・推量の意を表わすモと、質問の意を表わすヤとを重ねた語。不確かなので問い質したい意を表わす。そのモヤモヤすらも不能だの意から、「ああかこうかと問いただすこともできず、不便だ」の意。転じてここでは無用の意。」((二)63頁)と解釈する。大系本では一貫してモヤモヤに否定形のアラズを付けた形で訓んでいる。筆者は時代別国語大辞典の立場による。返事の言葉にハイがあるが、「はい、わかりました」と「はいはい、わかりました」では含意が異なる。後者には反抗の意思が感じられる。だから、「ハイは1回でいい」とさらに叱られることになる。モヤモヤモアラズという畳み掛けには、モヤモヤという言い方に、ハイハイ同様気持ちの裏腹性が感じられる。そこで否定の言葉を続けようと考えられている。
いずれにせよ、モヤ(身舎)には、モヤモヤ(=モヤモヤモアラズ)的な不安定さがある。長ければ長いほどモヤモヤ的に不安定化する。両端の棟持柱に架かっているだけだからである。そういう屋根形式から脱するには、躯体に荷重をかける仕組みに改めなければならない。柱・梁・束の軸組の上に棟木を載せるのである。それまでは、束がないから覚束ない。オホツカナシは、心もとないという意味とはっきりしないという意味に用いる言葉であるが、屋根を葺いてしまえば、外見からでは束があるのかないのかわからないから、どちらも同じ意味であるという古代的な解釈が理屈として成り立つ。したがって、屋根の棟木に登るのは物騒である。特に、それが倉庫建築の場合、クラ感をより表そうとして、棟を上へと張り出して、まるで馬上に置くクラ(鞍)のように作られている。一見、馬乗りになるのにふさわしそうであるが、しなりたわんでいて、下手に荷重をかければいつ折れても不思議ではない。登るのは控えた方が賢明である。
水鳥の 鴨の羽色の 春山の おほつかなく(於保束無)も 思ほゆるかも(万1451)
春されば 樹(き)の木(こ)の暮れの 夕月夜(ゆふづくよ) おほつかなし(鬱束無)も 山陰にして(万1875)
今夜の おほつかなき(於保束無)に 霍公鳥(ほととぎす) 鳴くなる声の 音の遥(はる)けさ(万1952)
オホニ(疎・鬱・髣髴)という語も、ぼんやりと、いいかげんに、という意味で、内実が見えないことの謂いである。小屋組の内部の束が無ければ、オホ+ツカナシとは、さらに強調された言葉であることがわかる。モヤモヤモアラズと同様に強調語である。以上で、神庫をツカサドルことをオホナカツヒメが固辞した理由が理解された。
沖永良部の高倉とその内部(鹿児島県大島郡和泊町、寄棟造、茅葺、19世紀後期、桁行2.7m、梁行2.5m、日本民家園。この倉の床は高床だが、床面がすでに屋根下端である。屋根下地に“梯子”が組まれているが、台風でも飛ばないように屋根上地も“梯子”が覆っている。)
ホクラ(神庫)は「ホ(美称)+クラ(倉)」、「ホコ(鉾)+クラ(倉)」
次に、クラのなかでも特に武器倉庫に当たるホクラ(神庫)に関して考える。河村秀根・益根の書紀集解に、「神庫〈神庫は正殿の右に在り。木を架けて之れを造る。社司曰く、中に唐櫃有り。相伝へて封を発せず、といふ。〉(原漢文)」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1157899/147)とある。刀剣類をしまうのに、木製の唐櫃などが用いられた。倉庫内に棚が設けられ、箱に宝物となる武器刀剣類を入れて棚ごとに置かれていたとも考えられる。それに対して、穀物、なかでも稲籾を収蔵する米蔵の場合、後の時代ならば稲藁を利用した米俵に籾を込めて入れておいたとするのが一般的であろう。しかし、穂首刈りや手扱きで毟っていた時代、藁をどれぐらい利用していたか不明である。また、立体的な円柱状の俵が開発される前に、叺(かます)のような平面的なものを袋として活用していた可能性もある。いずれにせよ、米蔵の中には、唐櫃のような木製の角張ったものや、それに収まりきらずに鑓や矛を立てておいたままの状態で収蔵されているわけではなく、植物製の袋が積み重なった状態になっていたと思われる。つまり、屋根に登って棟木が折れて落下した場合でも、クッションが効いて怪我せずに済む。他方、武器倉庫はごつごつしたり、尖っているものが多く、必ず怪我をする。刀剣類が剥き出しで収蔵されていたことも、神武紀の例が示している。
明旦(くつるあした)に、夢の中の教に依りて庫(ほくら)を開きて視るに、果して落ちたる剣有りて、倒(さかしま)に庫の底板(しきいた)に立てり。(神武前紀戊午年六月)
ホクラ(神庫)という語の意味について、ホ(美称)+クラ(倉)とする説が根強い。ホは高くつき出たものを指すから、倉自体の形状を表わすようにも考えられている。筆者は、語源という立場に立たない。垂仁紀が著された当時の人々の語感をこそ大事にしたい。万葉集の言葉遊びは、無文字文化華やかなりし頃の独自な言語活動の傾向であるとみている。木村1988.に、「[垂仁紀八十七年二月条の「神庫、此をば保玖羅といふ」という]訓注の存在は、「神庫」のみではホクラと訓み難いこと(ホクラ以外のクラが、当時の神社に存在していた?)と、その実体が倉庫にほかならなかったこととを、物語っていたのである。」(494頁)とある。そして、神武前紀戊午年六月条の「高倉下(たかくらじ)」の「庫」、垂仁紀八十八年七月条の「出石(いづし)の「刀子(かたな)の為に祠を立つ」、天武紀三年八月条の「石上神宮(いそのかみのかみのみや)」の「神府」をも、ホクラと訓むことを指摘する。共通する「内的理由とは、奉祀されるものが刀子であったことである。」(496頁)という。神剣フツノミタマ、出石刀子、石上神宮の神宝、と共通項があるから、みなホクラで正しかろうということである(注5)。そして、「イ ホクラは神と直接しており ロ ほこらと転じて、現代なお生きており ハ 建築的実体は高倉であり ニ 「祠」を媒介としてヤシロとも深くかかわる 等の諸点で、古代の神社、特にその神殿建築を考える場合、忘れ得ぬ存在となし得るであろう。」(495頁)という特徴点をあげている。
しかし、「ホクラの神殿的性格と、その伝統の弥生時代にさかのぼり得るであろう可能性」(498頁)があるとしか言及されていない。ホクラのホは、イナホ(稲穂)、ナミノホ(波穂)、クニノホ(国秀)、ホノホ(炎・焔)などのホと同じで、高くひいでて目立つところをいうとされている。そのため、ホクラという語をホ+クラという語構成であるとのみ考えてしまいがちである。むろん、間違いというわけではないが、高くつき出た形の倉の形態は、祇園祭に登場する高くつき出たホコ(鉾)、山鉾と見紛う。ホクラ=ホコ(鉾)+クラ(倉)と考えて何ら不自然ではない。木村1988.の「イ ホクラは神と直結しており」という意味合いもさらに兼ねてわかりやすくなる。
そのとき、「神の神庫も樹梯の随に」という言い方の主部と述部が、はじめて理解されることになる。白川1995.に、「〔集韻〕に「鉾は鋒なり」とする。夆(ほう)は神杉のような木の頂に神が降りつくことを意味する。わが国の山鉾(やまぼこ)の類は、山車(だし)の上に高い木の飾りものを樹てるが、それは神を迎えるためのものであろう。銅鉾の類を特に尊んだのも、そのような儀器として用いたものと思われる。……「ほこ」によって神霊の所在を示したものが「ほこら」で、神社形式の発達を、神籬(ひもろき)・桙(ほこ)・祠(ほこら)・社(やしろ)の四段階とみなすような考え方もある。」(675~676頁)とある。日葡辞書に、「Focora.ホコラ(祠) 神(Camis)の乗物〔神輿〕の形をした一種の小さな家で、道のほとりに建っているもの.」(255頁)とある。今、五十瓊敷命は、神庫のために梯(はし)を造(た)てようと言っている。梯子をたてるにせよ、棟持柱をたてるにせよ、意味合いとしてホクラらしくはなるが、屋根の強度が増すわけではない。江戸時代、白川郷に現われた尖った屋根の合掌造は、雪をすべり落しやすくするとともに、屋根裏を養蚕に利用しようという思惑から作られたとされる。養蚕棚のために屋根を高くするぐらいなのだから、神宝を収める棚を何段にも拵えるためにホクラも屋根を高くしたのかも知れないと考えられる。
急峻な屋根を設ければ、屋根の面積は同じ高さの倉と比べて大きくなる。切妻造で同じ奥行の建物を想定すると、傾斜が60°の屋根は、45°の屋根に比して高さは1.73倍、屋根面積は1.41倍になる。屋根面積が大きくなれば重量も重くなり、棟木がたわむ。あまり負荷はかけたくない。屋根は掌を合わせたように葺かれており、倉庫管理責任者としてツカサドル(掌・主)こととは長官に就任するということで、位(くらゐ)に就くとはクラ(座)+ヰ(居)、つまり、鞍の上に座ることでくらくらしてしまうことである。そいう物言いが無文字時代のヤマトコトバである。モヤモヤにしてクラクラである。内部に梁があって束で支えられていると主張されても、本当に梁(うつはり)があるのか、偽・詐(いつはり)ではないかと疑いたくなる(注6)。登りたくない。
述部のハシダテノママニは、樹梯(梯立)が高床に架けるのと同じ角度で屋根に架け渡す状態を示している。鉾のような高屋根だから同じになる。五十瓊敷命の言い分は、梯子があるのだから、高床に上がるのと同じ角度の梯子で屋根まで上ることも同じことであろう、という含意を入れ込んでいる。「随」字には、傍訓にママニとあり、別の個所でマニマニともある。同じ意味であるが、ニュアンスにこの部分はママニと限る傍訓がよい。それなりの意味がある(注7)。ママには、崖、急斜面の意味がある。
石橋の まま(間々)に生ひたる 貌花(かほばな)の 花にしありけり ありつつ見れば(万2288)
足柄(あしがり)の 崖(まま、麻万)の小菅(こすげ)の 菅枕(すがまくら) あぜか巻かさむ 子ろせ手枕(たまくら)(万3369)
万2288番歌の「まま(間々)」は、枕詞「石橋の」がかかっている。梯子段と飛び石とは歩の進め方が同じである。踏み外さぬように歩を確かめるべき場所である。つまり、神庫の急斜面に梯子が架けられているから、崖を登るように屋根に登ってツカサドルことはできる、という意である。
問題は、主部と述部をつなぐ助詞のモである。大野1993.に、「モは上に来ている語を、不確定な、仮定の、未定の、非限定的な対象、つまりこれ一つではない対象として取り扱う。」(47頁)とし、「万葉時代には、ハとモとは助詞だけによって、今日の副詞を伴う意味までも表現していたのである。」(50頁)といい、「古典語のモを見ると題目をそれだけと限定・特定しないだけでなく、不確定として提示するところに特質がある。」(64頁)、「上代ではその題目は、不確定、非限定、仮定的なものであり、他に多くのものが潜在的に存在する中からの不特定の例としての提示であることの方が多い。」(64頁)ながら、なかには、「確かに題目として併立して肯定的に提示する例もある……。これは使用数からは、上代では文中に使われるモの五分の一ほどにあたる。」(87頁)として、万葉集に「モの文末」が「否定・推測・願望など」を表わすものが71%、「肯定・確定など」を表わすものが29%であったのが、「室町時代末……『どちりなきりしたん』では、否定表現に使われたモの割合は二割」(88頁)と増え、現代に至っては、「モは肯定的表現に使われるのが中心となった。」(88頁)とある。
「神の神庫も樹梯の随に」という上代の用法による「諺」の意味を捉えるとき、試訳するなら、もし神のホクラなどというものがあるとするなら、梯子をたてたものそのままになるように思われる、とか、人のホクラはもとより、神のホクラも梯子をたてたものそのままであることよ、ということになる。日本国語大辞典に、「(高く近寄りがたい所でも、はしごをかければのぼれるの意から)どんな困難なことでも、適切な手段を用いれば成し遂げることができるということ。」(③975頁)とある語釈は誤りであろう。本文中に、大中姫命の話し言葉として、「天の神庫」とあったのが、諺に、「神の神庫」へと変化している。「天の神庫」は眼前に見えている石上神宮の神宝を収める倉庫のことである。「神の神庫」は、仮定のこと、不確定なものであるが、書紀集解に「架レ木造レ之」とあった。神さまを収める倉庫は、木を架けて梯子を組んでできていると解釈されている。一枚の板に刻みをつけて登れるようにした一本梯子に対応するものではなく、屋根に登る際に用いたであろう猿梯子を前提としている。
五十瓊敷命は、大中姫命に対して、神庫は高いと言っても、神庫に合うように梯子をたてるから、神庫に登ることは面倒ではないよ、と説いている。ツカサドル用の梯子とは屋根に登る梯子である。高床に登るための一枚の板に刻みをつけた一本梯子と、屋根に登る際に用いたであろう猿梯子のことの混同をおもしろがって話としている。梯子のことはハシノコともいい、ハシノコとは、梯子のことと梯子の一段一段のことをともに表す(注8)。段々ごとに一定幅のある梯子の印象がある。大中姫命に登ることはたやすいと言っているのだから、手(た)が使える幅の広い猿梯子が想定される。さらに梯子の段の間隔を狭くすれば、ちょっとずつ上に登って行くことができる。切妻屋根の側面全体にハシ(梯・階)が架かるように幅いっぱいに造ってしまえば、神職が階を登るときにする儀礼の横向き登りをせずとも、斜めに女坂調に登れば良い。最大にすれば、クラの側面がすべて梯子ということもできる。
このように「神の神庫」を想定すると、面としてのハシ(梯)になる。これは仮定の話だから助詞モが登場しているが、けっして不自然な想定ではない。クラの屋根自体、垂木と木舞で面として梯子を組んだように造って上から茅などで葺いている。それが地面から続いているのだから、どんなに高くても誰でも登ることができる。高床式倉庫の屋根の骨組そのものを梯子だと言っている。ただし、その梯子段は猿梯子と呼ばれるように、手足四肢を全部使って登るもので、「手弱女人」が使えるようなものとは言いがたい。「手弱女人」にふさわしいのは足だけ使う一本梯子だと大中姫命は言いたいのであろう。そして、棟木が棟持柱に載せ架けてあるだけで、屋根全体がそれにぶら下がる形だから不安定、不確実なこと極まりない(注9)。助詞モを使いたくなる場面である。
枕詞「はしたての」
枕詞「はしたての」は、①サガシ(険・阻・嶮)、②クラハシ(倉椅)、③クマキ(熊来)にかかる。
梯立(はしたて)の 嶮(さが)しき山も 我妹子(わぎもこ)と 二人越ゆれば 安蓆(やすむしろ)かも(紀61)
梯立の 倉椅山(くらはしやま)を 嶮(さが)しみと 岩懸(か)きかねて 我が手取らすも(記70)
梯立の 倉椅山は 嶮しけど 妹と登れば 嶮しくもあらず(記71)
橋立(はしたて)の 倉椅山に 立てる白雲 見まく欲り 我がするなへに 立てる白雲(万1282)
橋立の 倉椅川の 石の橋はも 壮子時(をざかり)に 我が渡りてし 石の橋はも(万1283)
橋立の 倉椅川の 河のしづ菅 余(わ)が刈りて 笠にも編まぬ 川のしづ菅(万1284)
堦楯(はしたて)の 熊来(くまき)のやらに 新羅斧 落し入れ ……(万3878)
堦楯の 熊来酒屋に 真罵(まぬ)らる奴(やつこ) ……(万3879)
時代別国語大辞典の「はしたての 枕詞」に、「【考】枕詞のかかり方は、①の嶮(サガ)シキ山はすなわち天ノハシタテであり、また②の倉橋(クラハシ)はクラ(倉(クラ)・座(クラ))へ上るハシで、それもハシタテ、すなわち立てられたハシであるから、同義の表現を重ねたものといえよう。③は、クマキの意味がわからないので、かかり方も不明。別に、ハシを特に神のよりしろと考え、その神を祭るためにそれを立てたので、その立てられた場所である①嶮シキ山や、③隈(クマ)にかかり、神のよりしろ、すなわち座(クラ)であるところから②クラハシにかかるとする説もある。」(577~578頁)とある。新編全集本日本書紀には、記の用例に関して、「この場合の「梯立の」は「倉」にかかる枕詞。元来、梯立はY字形の叉木(またぎ)で、それを立てて神の宿る神座(かみくら)としたことに基づく。」(②58頁頭注)とある。しかし、股木が特徴なのは、股矛なのではないか。Y字形の叉木に座っているのは明恵上人像ぐらいしか知られない。沖縄の人が途中から二股になった梯子を使っていたとされるが、ヤマトコトバのハシの基本は一本の線である。
枕詞というのは、言語遊戯である。洒落がわからなければかかり方もわからない。洒落を成り立たせるのは小理屈ではなく、屁理屈である。サガシ(険・阻・嶮)、クラハシ(倉椅)、クマキ(熊来)のすべてのかかり方が解明されなければ、洒落の壺がわかっておらず理解されたことにならない。これまで見てきたように、梯立は屋根の骨組に同じ構造であった。峻嶮で急勾配の「神庫」なる倉の屋根に思い致せば、クマキ(熊来)にかかることも容易に理解される。
左:「捕洞中熊」(蔀関月著・法橋関月画図・日本山海名産図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2575827/40)、中:捕縛の図(凶悪犯のはしご捕り)(徳川幕府刑事図譜、明治大学図書館https://www.meiji.ac.jp/museum/criminal/keijizufu/contents.html?mt=nm&hl=ja)、右:「子熊を養育する図」(松田伝十郎・北夷談、国立公文書館http://www.archives.go.jp/exhibition/permanentpopup/002_04_02.html)(注10)
熊が来たら捕まえるための柵の使い方は、熊の棲む洞穴にあてがって逃げられないようにしておき、鎗などで急所を一突きにして仕留めるのである。クマキ(熊来)にかかるハシタテノとは、この大きな木組であって、それは屋根の骨組に同じである。犯罪者を捕縛する場合にも梯子は使われた。梯子とは、登る道具であるだけでなく、逃げられなくする道具であった。そして、動物を入れておく檻は、梯子の応用である。幅広いものを作っておいて、それを四方の地面からたてて結び、天井にもかけてしまう。五十瓊敷命考案の梯子は檻ではないかと、大中姫命は嫌がっている。
すると、カミノホクラ(神の神庫)といっていた「神」とは、オホカミ(狼)のようなカミであるとも捉え得ることが知れる。岩波古語辞典に、「かみ【神】……①《上代以前では、人間に対して威力をふるい、威力をもって臨むものは、すべてカミで、カミは人間の怖れと畏みの対象であった。人間はこれに多くの捧げ物をして、これがおだやかに鎮まっていることを願うのが基本的な対し方であった》①雷・虎・狼・蛇など、荒れると人間に対して猛威をふるうもの。」(327頁)とある。白川1995.には、「かみ〔神〕 神秘な力をもつ神聖なものをいう。すべての自然物や獣畜の類、また雷鳴のようなものも、神威のものとして神とされた。」(253頁)ととてもシンプルな語釈がある。神の神庫とは、狼のような獰猛な獣を入れる檻のことを言っているらしいとわかる。
伊香保嶺(いかほね)に 雷(可未(かみ))な鳴りそね 我が上(へ)には 故はなけども 子らによりてそ(万3421)
天雲の 八重雲隠れ 鳴る神の 音のみにやも 聞き渡りなむ(万2658)
…… 韓国(からくに)の 虎とふ神を 生取りに 八頭(やつ)取り持ち来(き) その皮を ……(万3885)
陛下(きみ)、譬へば犲狼(おほかみ)に異(け)なること無し。(雄略紀五年二月)
犲狼〈獥附〉 兼名苑に云はく、狼は一名に犲〈音は戈〉といふ。説文に云はく、狼〈音は良、於保加美(おほかみ)〉は犬に似て銑頭にして白頬なる者也といふ。爾雅に獥〈音は叫〉は狼の子也といふ。(和名抄)
……豹尾(なかつかみのを)珥(さ)せる者(ひと)二騎(ふたうま)、……(欽明紀十四年十月)
豹 説文に云はく、豹〈補教反、日本紀私記に奈賀豆可美(なかつかみ)と云ふ〉は虎に似て円い文なる者也といふ。(和名抄)
素戔嗚尊、蛇(をろち)に勅(みことのり)して曰はく、「汝(いまし)は是れ可畏(かしこ)き神なり。敢へて饗(みあへ)せざらむや」とのたまふ。(神代紀第八段一書第二)
枕詞ハシタテノがかかるサガシという語には、サガス(涼)の連用形もある。観智院本名義抄(1241)に、「凉 呂長反、スズシ、コホル、サム(目?)、サムシ、凉上俗、下正、サガス、タスク、カナシフ、和リヤウ」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2586895/27)、書陵部本名義抄(1081頃)に、「清涼 ホシサガサシム」とある。涼(さが)すとは、広げて日に干すことをいう。日に干して晒すことによって、曝け出すようにすることとは、探し物を見つけることができるようになることである。そこから今日の探査、探索の義へと展開した語のようである。干すことに用いる「干」の字は、干渉のようにヲカス(冒)の意、干潟のようにホス(乾)の意、干戈のようにタテ(盾)の意、干支のように兄弟の意、干闌とは南方民族が樹上に作る住居の意(貯貝器上の建物のような類)、また、竿や岸に通ずる。いま、高床式の建物について、兄と妹とが言い争っていて、神宝や神庫の有り難さを冒している。兄はタテル(造)と言っていて、高く稲を干したり、干し柿でも乾かすような桟がたくさんある小屋組の話になっている。妹は支えがないから嫌だと言っている。とても急峻なサガシ(険・阻)い崖(まま)のような屋根をかけることが問題である。ガケをカケる。幅が広すぎて、段々の物干竿のようなものと化している。横倒しして囲ってしまえば、まるで牢屋のように見える。
牢獄の略図(徳川幕府刑事図譜https://www.meiji.ac.jp/museum/criminal/keijizufu/contents.html?mt=nm&hl=ja)
檻や牢を格子状にした場合、縦木と横木を縄で括るのではほどかれてしまう。内側に捕らえた囚人や猛獣が、取っ掛かりとして登られて天上から脱出するかもしれない。江戸期の牢獄などには縦の柱を主にしながら横貫の柵になっていることがある。貫や溶接などの柵でなければ、単なる格子では檻にはむしろ適さない。ここでは、ホクラが高床式住居に近しい倉庫のことであったのが、「天の神庫」→「神の神庫」となって、ヒトヤ(獄、牢)や猛獣の檻の話へと転変しているといえる(注11)。狼か何かわからないが猛獣を入れた「神の神庫」なる檻では、入れられた猛獣は干されて腹が空いたであろう。日葡辞書に、「Farauo fosu.l,nodouo fosu.(腹を干す.または,喉を干す)何ひとつ飲みも食いもしないでいて,からからになっている.」(266頁)とある。飲食物を与えないで弱らせながら手なずけて、サーカスにも使おうということであろうか。実地に使ったものとして、鷹狩用の鷹や鵜飼用の鵜が知られている(注12)。意味合いとして、梯子状の段々に稲や柿を吊るし干すことと同じことである。落語のような珍問答がこの諺の真骨頂といえる。
高ハサ(「アルピーヌの日常」様2019/12/15記事http://www.janis.or.jp/users/hpalpine/alpine-nichijyo-2012.htm)
「神の神庫」というあり得ない仮定は、特に稲干しのハサ(稲架)(注13)の高くたてられたものから連想されたものと思われる。天日干しの美味しさを求める需要や、自然農法を目指す人によって、ハサで乾燥されたお米は高級品として扱われている。高ハサに稲の干された様は、まことに高床式建物の屋根に等しく見受けられる。すなわち、この諺が作られた背景には、安定的な水田稲作農耕の技術が高床式の建物、わけてもその倉庫形態と一緒に伝来し、根づいたことを物語っている。色葉字類抄(1177~81)に、「凉 サガス 曝凉米也」とある。サガシ(嶮)なところで稲を干し、おいしい米を得る術について、後々まで伝えていく無文字時代のうまいやり方、言葉の中に意味を込めてしまう秘伝法まで読み取れる。すなわち、ホクラとは、ホス(干)+クラ(座・鞍・倉)の意と受け取れる。ハサ(稲架)を含めた干して貯蔵する術の謂いである。
ホクラ(神庫)は「ホス(干)+クラ(倉)」とまとめ
濱2010.に、高床式の倉の機能について完璧な言い得ている。
木造建築は内部を乾燥させるのに適した「干す」つくりで、日本における民家建築の本質ともいえる。高温多湿のアジアモンスーン気候に属する日本において、湿度の高い夏をいかに過ごすかは重大な問題で、高床にして通風を確保し、窓を開け放つ住宅の形式が伝統的な民家として発展してきた。この問題は食料の貯蔵においても同様である。そのため生産過程における乾燥は重要な作業であり、害虫やカビ等が発生しないよう食料を干してから仕舞うのである。さらに小屋や倉には仕舞っている間、湿度を防ぎ、通風を取るなどの「干す」形が見られる。(49頁)
そして、「そのまま干す」。「屋根をかけて干す」、「干しながら仕舞う小屋」、「干す小屋」、「干してから仕舞う小屋」といった工夫の諸例が紹介され、穀類の説明として次のようにある。
……収穫時の乾燥が不十分であったりすると、穀類の味が落ちるだけでなく、カビが生え、害虫を発生させ腐らせてしまう。また穀類は収穫物そのものが次の栽培の種でもある。腐らせたり、雨にさらして芽が出てしまったりすると、次年度の収穫をなくし、経済的な損失だけではなく生命をつなぐことすら危うくする。そのため風を通してこもらないようにすることが必要であり、高床にして地面から離して湿気を防ぎ、壁面の通気性を持たせた構法を選択している。一方「干しながら仕舞う小屋」には、干すこと以外に貯蔵という重要な役割があり、貯蔵には盗難やネズミに対する構えが必要である。……小屋と倉は高温多湿な気候の中で、干すことと仕舞うことの組み合わせで様々な生業に対応し、開放して通気を確保することと閉鎖して防犯・防鼠することのバランスをとりながら、「干して仕舞う」構法を木材によってつくりあげてきたのである。(50~51頁)
石上神宮の倉は、刀剣などの宝物を収めるものであった。両者の間にずれた頓智を巻き起こして面白味が増す。「神庫」で刀剣を干すとは、鉄器の刀剣を錆びから守るという意味を帯びてくる。刀の虫干しである。蓋を開けてみたら錆びていて使い物にならなかったというのではお話にならない。武器倉庫の刀剣を管理すること、ツカサドル(掌・主)こととは、クラでホスことが肝要ということになる。だから、ホクラは猛獣の姿のカミを干し晒す倉なのである。高ハサも高床式倉庫の屋根も、江戸時代の罪人の晒し場の小屋掛けにまでもよく似ている(注14)。
晒し場所の小屋掛け(ウィキペディア「晒(刑罰)」、グーテンベルクネットプロジェクト様「不貞による晒し刑。幕末」https://ja.wikipedia.org/wiki/晒 (刑罰))
以上、多義性の中にうごめく頓珍漢な言葉の技について見てきた。今日言う「諺」と上代の「諺」とは示す意味合いが異なる。何か諭す目的があって言い含めているのではない。コト(言・事)+ワザ(技・業・態)によって何が言いたいのかといった問いは、問い自体が誤りである。言葉の変化球が言葉に戻って来て、言葉自体が自己撞着していること、言葉が継手の腰掛け鎌継ぎのような仕口に納まっているところ、それが上代の「諺」である。それ以上でもそれ以下でもない。「神の神庫も樹梯の随に」という諺の生れた由縁は、確かに五十瓊敷命と大中姫命とのやりとりにおいてであった。そして、その「諺」は“生かされる”ことなく、ただちに大中姫命は申し出を断り、物部十千根に委託してしまっている。
この言葉遊びのような逸話が作られるきっかけとしては、漢字を図として見て「干」の字を学んで面白がったことに端を発したのかもしれないが、文字資料からは確かめることはできない。「干」は盾の意であるが、タテをタテても「干」の形では隙間があって攻撃を防ぐことはできない。梯子に同じく隙間だらけである。それでも、四方から攻めたてれば捕り物に用いることができ、捕らえたら捕らえたで天井にもめぐらして結いつければ、猛獣としての「神」を入れて干させる檻としての機能を果たすことができる。茅を葺けば屋根にも遮蔽にも稲干しにも変身する。そういう梯子の多用途性について、高床のクラの屋根の展開とともに興味がもたれてヤマトコトバになるほどと納得された。結果、言葉が言葉に変化球として返ってくる「↺」形の自己循環、ブーメラン構造を呈した。それを言葉の技、コトワザと呼んでいる。うまいネタが披露されている。
(つづく)