(承前)
(注)
(注1)欽明紀五年三月条には、「熟観所作、都無怖畏。」とある。「熟(つらつら)作(す)る所を観るに、都(かつ)て怖(お)ぢ畏(おそ)るること無し。」と訓んでいる。作(な)せるを観るに、所作(すらく)を観るに、などの訓がふさわしいと考える。「所」をどう訓むかについては、拙稿「上代における漢文訓読に由来する「所(ところ)」訓について」でも考察した。
(注2)春日1985.に、「作(せ)ラク」(93頁)とある。
(注3)古典全書本に、「所作(せむすべ)を知らず。何の事かある」(五、43頁)などとあるほか、かつてはそのように訓まれていたことがある。
(注4)井上1987.に、「鞍作のために天孫(あめみま)(神々の後裔である皇族)が滅びるということがあってよいものでしょうか」(195頁)、宇治谷1988.に、「鞍作をもって天子に代えられましょうか」(154頁)、遠山1993.に、「どうして天孫一族を鞍作ごときに代えることができましょうか」(4頁)、倉本2015.に、「鞍作のために天孫〔皇孫〕が滅びることがあってよいものでしょうか」(135頁)、森2016.に、「どうして天孫を入鹿に代えられましょうか」(54頁)、坂2018.に、「入鹿のために天孫が滅びることがあってもよいのでしょうか」(17頁)と訳している。これらはみな誤訳である。主客を取り違えている。
漢文調で書かれている原文は、下の第一の文であり、第二の文ではない。
豈以二天孫一代二鞍作一乎。
豈以二鞍作一代二天孫一乎。
第二の文章であれば、鞍作が天孫の地位をおびやかして取って代わるということになるが、そうはなっておらず、中大兄はそうは言っていない。森2011.が指摘するような「語法の誤り」(230頁)ではない。あくまでも第一の文のように、どうして天孫を以てして、鞍作に代えることなんてありましょうか、と言っている。鞍作は蘇我入鹿の別名で、綽名、通称である。通称であるが、言葉として名づけられているからには、その意味を持っていると考えなければならない。実際に馬の鞍を製作する職人さんの意味を有している。すなわち、
Why do you want to work for saddle-making by people of the imperial family?
Why do imperial people have to take over the saddle-making job?
The saddle-making work cannot be replaced by imperial people.
といった意味が示されていると考えられる。
したがって、この記述についての評価である、北山1961.に、中大兄「の激語は、この不意の惨劇に色を失った人々の胸を射抜いたであろう。これ以上の政治的効果をあげえたセリフはちょっと考えられまい。」(59頁)、坂2018.に、「入鹿斬殺の場面は、時代小説さながらの迫真の記述である。」(17頁)といった解説、ならびに、後代に日本書紀をまとめる段階で作文されたものであるとする見解についても、再考されなければならない。
(注5)拙稿「天の石屋の、瓦と河原」参照。
(注6)高橋1985.に、「[開口装置は]扉形式のみであることと、内部空間を仕切る建具のなかったことは、ともに広く奈良時代建築の歴史的特質といえよう。」(10頁)とあり、間仕切りは仮設されるものであった。それを「障子」といい、「障子の最も古い形式は、細い木製の格子を骨組としてその両面に布または紙を貼り、衝立式に台脚の上に立てたものであった。」(23頁)とある。
筵の製作には、民俗に莚機も使われており、大量生産するにはその方が便利であろう。その場合、莚はオル(織)ことによって作られている。ただし、莚は必ずしも莚機に負うものではない。縄文時代以来、衣服用のクロス同様、編布(あんぎん)の方法で莚は作られ続けてきた。藁製の包みである薦(こも)は、こもげた、こもあみなどと呼ばれる器具を使い、つつろとも呼ばれる錘を使って作られていた。
こもを編む(「お茶ガイド 動画部屋」様https://www.youtube.com/watch?v=XXBEHvY9cGc)
莚も同じように作られることが多く、語学的には、アム(編)ことによって作られていたと言える。宮崎1985.に、有明地域一帯の状況が報告されている。「古くは、コモゲタを組んだ道具……によって、莚や俵(トウラ・タワラ)が編まれた。このコモゲタが姿を消すのはおよそ明治二三(一八九〇)年以降で、このころより、左右からワラを一本ずつ差込んで二人の共同作業によって莚を織り始めた……。編む莚から織る莚への転換であった。」(240頁)。
(注7)大極殿という名称は、中国の魏晋南北朝以来の宮殿正殿の太極殿に由来するものとされている。太極とは北極星のことで云々、といった説明が谷川士清・日本書紀通證・巻二十九に見える。「太安殿見二天武紀及続日本紀一倭名鈔ニ曰太極殿朝堂院ノ正殿ノ名也。拾芥鈔ニ曰八省院ハ天子臨朝即位諸司告朔ノ所、或ハ号二朝堂院一。左経記ニ曰、案太極殿ノ體非レ寝非レ堂所レ謂廟作也。丹湯記ニ曰、太極殿ハ周ノ制路寝也。秦漢曰二前殿一、今称二太極一為二前殿路宮之号一、始レ自レ魏。魏志ノ註至二明帝ノ時一始起二太極殿一徐広晋紀ニ曰、太極殿高八丈長二十七丈広十丈。」(国文学資料館日本古典籍総合目録データベースhttp://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0099-041203&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80%E9%80%9A%E8%A8%BC%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=900(900/1082))。
すでに定説化しているが、本当にそうなのか、単純に大陸から文化移入したに過ぎないものなのか、不明である。筆者は、ひと捻りあったものと考える。「太」字にあった点がなくなっている。大宰府≒太宰府に同じというだけでは証明にならない。「太」を「大」にして唐朝との軋轢を避けたのであるとのうがった説も見られるが、証拠はない。訳者が意図的に「大」字に改めた可能性がある。その際、天皇は神であり、中国の天子―皇帝の関係とは違うとする考え方もある。やはり証明はできない。筆者は、フトアムドノではなく、オホアムドノにしたかったから、大極殿と記したと考えている。本邦はヤマトコトバファーストの訓読大国であったと考える。
(注8)人は呼ばれることによって命名される。人々にそう呼ばれたのが名前である。坊や、や、お嬢ちゃん、に、特徴的な点が目についたら、人々はそれをもって呼ぶようになる。名前とは本来、綽名である。認識を共通しあうことによって言葉は成り立つ。入鹿がどうして入鹿と呼ばれたのか、海のイルカが潮を吹くのと関係があるような気もする。威勢よく気炎を吐いている。話としては、イルカを捕まえるには大きな網が必要であり、よって大極殿(あほあむどの)という網の権化のような場所で捕らえられたというオチにつながっているといえよう。
(注9)和名抄では元和本に、「於波之萬(おばしま)」とある。オホシマと読んで納得している点については、拙稿「和名抄の(文選)「読」について 其の三」参照。
(注10)アリ・ヲリの尊敬語のマシマスの意、すなわち、(どこどこの場所)にいらっしゃるの用法では、オバシマが付いていることを謳うものではないことになる。マシマスには、補助動詞的に、形状語を丁寧にいう場合、すなわち、(なになにの状態)でいらっしゃるの用法も多い。いくつか例をあげる。
天皇、台(たかどの)の上に居(ましま)して、遠(はるか)に望(みのぞ)みたまふに、烟気(けぶり)多(さは)に起(た)つ。(仁徳紀七年四月、前田本)
天皇、耳梨の行宮(かりみや)に居(ましま)す。(推古紀九年五月、岩崎本)
既にして宮室(おほみや)を菟道(うぢ)に興(た)てて居(ましま)す。(仁徳前紀、前田本)
吾が主(あろじ)大伴公(おほとものきみ)、何処(いづく)に在(ましま)す(雄略紀九年三月、前田本)
是に、男大迹天皇(をほどのすめらみこと)、晏然(しづか)に自若(つねのごとく)して、胡床(あぐら)に踞坐(ましま)す。陪臣(さぶらふひと)を斉(ととの)へ列(つら)ねて、既に帝(すめらみこと)の坐(ましま)すが如し。(継体紀元年正月、前田本)
是の皇子、初め上宮(かみつみや)に居(ましま)しき。(用明紀元年正月、書陵部本)
……東宮(みこのみや)に位居(ましま)す。(用明紀元年正月、書陵部本)
天上(あめ)に神有(ましま)す。地(つち)に天皇有(ましま)す。(推古紀八年是歳、岩崎本)
……、王(みこ)の在(ましま)す所を高向臣国押に述(かた)りて曰く、(皇極紀二年十一月、岩崎本)
自づからに平安(さき)くましませ。(神代紀第七段一書第三、弘安本)
天皇、幼(いときな)くて聡明(さと)く叡智(さか)しくまします。(仁徳前紀、前田本)
大王(きみ)は、風姿岐㠜(みやびいこよか)にまします。(仁徳前紀、前田本)
是に、天皇、皇后の不在(ましまさぬとき)を伺ひて、八田皇女を娶(め)して、……(仁徳紀三十年九月、前田本)
天皇、岐㠜(かぶろ)にましますより総角(あげまき)に至るまでに、……(允恭前紀、書陵部本)
長(このかみ)にして仁孝(ひとをめぐみおやにしたがふみち)まします(允恭前紀、書陵部本)
貴(かしこ)き者(ひと)にましまさむといふことを知りたてまつらず(允恭紀二年二月、書陵部本)
長(ひととな)りて伉健(たけく)ましましきこと、人に過ぎたまへり。(雄略前紀、書陵部本)
徳(おむおむ)しく有(ましま)す天皇なり(雄略紀四年二月、前田本)
大(はなは)だ悪(あ)しくますます天皇なり(雄略紀十一年十月、前田本)
悪行(あ)しくまします主(きみ)なり(雄略紀十一年十月、前田本)
……意(みこころ)豁如(ゆたか)にまします。(継体前紀、前田本)
至徳(いきほひ)まします天皇なり(皇極紀元年八月、岩崎本)
仁徳紀七年四月条の、「台」に欄干がなかったら危ないとする意見もあろうが、台に登って起って見眺めていて、動きがある。静かでない。オハシマスは玉座に座っているように動きがないことについて言うようである。
付言しておくが、日本書紀の古訓自体、後の時代に付けられたものであり、さらに補読の場合も多いため、筆者の仮説は完全な証明に至らない可能性も大きい。今昔物語集では、「有」は「アリ」を表記し、「在」は「マシマス」を表記するという使い分けがあるとされている(佐藤2009.)が、日本書紀でそのように証明することは困難を極める。岩崎本でも、平安時代中期末点にオハシマスとあっても、室町時代点にマシマスと記されている例がある。宙を舞っている言葉は、都市伝説に近いところがある。
(注11)ほかに、大慈恩寺三蔵法師伝・巻第三に、「雕(ゑ)れる楹(はしら)、鏤(ちりば)めたる檻(おばしま)、玉の礎(いしずゑ)、文(かざ)れる棍(のきすけ)あり。(雕楹鏤檻玉礎文棍)」と、文選、張衡の西京賦のようにある。
(注12)藤氏家伝に、日本書紀とよく似た文章が記されている。どちらが種本なのか、筆者には判断できない。履の件は家伝にのみ見える。入鹿が庭にいたことが履の件でさらに強調されている。沖森ほか1999.の漢語を含んだ訓みを一部ルビを省いて下に示すが、少なくとも会話文に漢語を用いてあるのは不自然である。日本書紀と異なる「帝臨軒」を何と訓むべきか。内裏式・七日会式に、「内侍、東檻に臨て大臣に授く。(内侍臨二東檻一授二大臣一。)奏銓擬郡領式に、「巳午の間、内侍、檻に臨て大臣を喚ぶ。(巳午間、内侍臨レ檻喚二大臣一。)とある。「軒」は「軒檻」のことである。「帝(みかど)、軒(おばしま)に臨(いでま)す。」と訓むか。オハシマスの体である。
戊申、帝臨軒。古人大兄侍焉。使舎人急喚入々鹿々、起立著履、々三廻不著。入鹿心忌之。将還彷徨。舎人頻喚。不得已而馳参。……鞍作恠問曰、何故慄戦。山田臣曰、近侍御前、不覚流汗。中大兄、見古麻呂等、畏入鹿威、便旋不進、咄嗟之。即与古麻呂、出其不意、以剣打傷入鹿頭肩。入鹿驚起。古麻呂運手揮剣、斬其一脚。入鹿起就御座、叩頭曰、臣不知罪、乞垂審察。天皇大驚、詔中大兄曰、不知所作、有何事邪。中大兄伏地奏曰、鞍作尽滅王宗、将傾天位。豈以帝子、代鞍作乎。天皇起入於殿中。
戊申(つちのえさるのひ)に、帝(みかど)軒(けん)に臨(のぞ)みたまひき。古人大兄侍りたまふ。舎人(とねり)をして急(すみやか)に入鹿を喚(め)さしめたまふ。入鹿、起立(た)ちて履(くつ)を著(は)かむとするに、履三たび廻(かへ)りて著(つ)かず。入鹿心に忌む。還らむとして彷徨(たたず)む。舎人頻(しきり)に喚す。已むこと得ずして馳せ参る。……鞍作恠(あやし)びて問ひて曰(い)はく、「何の故にか慄(ふる)ひ戦(わなな)く」といふ。山田臣曰はく、「御前(おほみまへ)に近く侍れば、覚えずして汗流(い)づ」といふ。中大兄、古麻呂(こまろ)らの、入鹿が威(いきほひ)を畏りて、便旋(めぐ)りて進まぬを見て、「咄嗟(や)」といひたまふ。即ち古麻呂と与(とも)に、其の不意(ふい)に出で、剣を以て入鹿が頭・肩を打ち傷(やぶ)る。入鹿驚きて起つ。古麻呂手を運(めぐ)らし剣を揮(ふ)きて、其の一脚(かたあし)を斬る。入鹿起ちて御座(おほみもと)に就きて、叩頭(の)みて曰(まを)さく、「臣(やつこ)罪を知らず、乞はくは、審察(しむさつ)を垂れたまへ」とまをす。天皇大きに驚きて、中大兄に詔して曰ひたまはく、「作(な)す所(すべ)を知らず、何事か有る」といひたまふ。中大兄地(つち)に伏して奏(まを)して曰ひたまはく、「鞍作、尽く王宗(わうそう)を滅して、天位(てんゐ)を傾けむとす。豈(あに)帝子(ていし)を以て、鞍作に代へむや」といひたまふ。天皇起ちて殿の中(うち)に入りたまふ。(164~174頁)
蘇我入鹿はオバシマにすがりついて訴えている。この姿態には中国の故事が意識されているのかもしれない。
前漢の成帝のとき、政治腐敗を諫言しても意に介さなかった皇帝に対して、朱雲がなお諫言した際の出来事である。皇帝が聞かずに朱雲を下げさせて死罪を言い渡しているのに、朱雲はオバシマにすがりついて諫言をやめなかった。なお引き立てたため、オバシマが折れた。折檻という語の起こりとされている。漢書・楊胡朱梅云伝に、「上大いに怒りて曰く、「小臣下に居りて上を訕り、廷にて師伝を辱す。罪死すとも赦さず」と。御史、雲を将きて下る。雲、殿檻を攀ず。檻折る。雲呼(おら)びて曰く、「臣、下りて龍逢・比干に従ひて、地下に遊ぶを得ば足らん。未だ聖朝の何如を知らざるのみ」と。(上大怒曰、小臣居下訕上、廷辱師伝。罪死不赦。御史将雲下。雲攀殿檻。檻折。雲呼曰、臣得下従龍逢・比干、遊於地下、足矣。未知聖朝何如耳。)」とある。この故事が知られていたのなら、入鹿が天皇に訴えているのは、その情景のパロディであるといえる。入鹿の場合、オバシマは折れずに体の方が斬れた。オバシマと心中している。
(注13)天皇や皇族などの御座に関しては、延喜式・掃部寮式に、「元正には前(さきだ)つこと一日に、御の座を大極殿(だいごくでん)の高御座(たかみくら)に設けよ。……」(26条)、「天皇の即位には、御の座を大極殿に設けよ。元日の儀と同じくせよ。」(51条)、「凡そ御の座は、清涼・後涼等の殿には錦の草墪(さうとん)を設けよ。〈高麗(こま)錦の表、薫地(たきぢ)錦の縁、緋(あけ)の東絁(あづまぎぬ)の裏。〉紫宸殿には黒柿の木の倚子を設けよ。行幸には赤漆の床子〈並(みな)錦の褥(しとみ)を敷け〉。其れ神事并びに仁寿殿等の座には、短帖を設くること常儀の如くせよ。中宮の草墪も亦、御に同じくせよ。」(52条)、「凡そ座を設くるには、皇太子は錦の草墪〈襪(したうづ)の錦の表、長副の錦の縁、縹(はなだ)の東絁の裏〉、并びに白木の倚子〈錦の褥を敷け〉。殿上并びに行幸も並(みな)通はし用ゐよ。親王并びに大臣は両面の草墪〈葡萄の滅紫(けしむらさき)の両面の表・縁、紺の調布の裏〉、赤漆の小床子〈褥を敷け。殿上・行幸も通はし用ゐよ〉。……」(53条)、弾正台式に、「凡そ庁の座は、親王及び中納言已上は倚子、五位以上は漆塗りの床子、自余は素木(しらき)の床子。」(148条)と定められている。木製の椅子に着席するのである。その作り方については、木工寮式に、「大倚子(いし)一脚〈高さ一尺三寸、長さ二尺、広さ一尺五寸〉の料、切釘(きりくぎ)十二隻〈各長さ一寸五分〉、膠一両。長功は七人、中功は八人、短功は九人。小倚子一脚〈高さ一尺三寸、長さ一尺五寸、広さ一尺三寸〉の料、切釘十二隻〈各長さ一寸五分〉、膠一両。長功は五人、中功は六人、短功は七人。大床子(しゃうじ)一脚〈長さ四尺五寸、広さ二尺四寸、高さ一尺三寸〉の料、切釘三十隻〈四隻は各長さ二寸、二十六隻は各長さ一寸五分〉、膠一両。長功は八人、中功は十人、短功は十二人。小床子一脚〈高さ一尺三寸、長さ二尺、広さ一尺五寸〉の料、切釘八隻〈各長さ一寸五分〉、膠一両。長功は四人、中功は四人半、短功は五人。檜の床子一脚〈長さ四尺、広さ一尺四寸、高さ一尺三寸〉の料、切釘二十六隻〈四隻は長さ各二寸、二十二隻は長さ各一寸五分〉、膠一両。長功は三人、中功は三人半、短功は四人。」(8条)とあって、釘で止めるばかりでなく膠を接着剤に用いている。
(注14)光景は、焼火箸で鼻緒の穴をあけているところであるが、囲炉裏場に作業をするのは、膠を使った製作の水溶(材質によるが60~70℃のものがある)のためであったり、接着面の温めによって接着力が強くなることとも関係があるかもしれない。
(注15)下駄には、歯と台を一木を刳りぬいて作る連歯下駄、台に別材の歯を差し入れて作る差歯下駄がある。差歯の材料には、カシ、ケヤキ、ホオなど硬い木が用いられることが多い。差歯の枘が台の表面まで現れているものを露卯(ろぼう)、隠れているものを陰卯(いんぼう)といい、今日ではほぼ陰卯ばかりであるが、江戸時代までは露卯のものも一般的であった。
(注16)天孫(あめみま)は、皇孫(すめみま)と同じ対象を指す呼称である。野口1978.に、「若干の例外……を見るとはいへ、『書紀』巻二の天海両章に登場する火瓊瓊杵尊、火火出見尊二神が、皇孫、天孫両指称用語を以て各々規則正しく―火瓊瓊杵尊が、地文の中で指称される場合には皇孫、天神系神格を発言者とする会話文の中で指称される場合には皇孫、国神系神格を発言者とする会話文の中で指称される場合には天孫、と各々表記されているのに対して、火火出見尊が地文の中で指称される場合には天孫、国神系神格乃至はそれに準ずるものを発言者とする会話文の中で指称される場合には天孫、と各々表記されている……―表記されている」(383~384頁、漢字の旧字体は改めた。)と整理されている。中大兄の口頭語に、スメミマでは通じず、アメミマでなければならなかったからそう発せられたと考える。
(注17)「水無しに飴(たがに)を造らむ。」(神武前紀戊午年九月)とあり、大系本に、「タガネは、掌と指とで握り固める意。「杖をタガネ」などと使う。タガニと傍訓する古写本があるが、祢の旁(つくり)の尓を尓(ニ)の仮名と認めた誤読に基づくものであろうか。タガニは、水無しで握り固めた飴。」((一)221頁)と解説されている。筆者は、兼右本にあるタガネよりも古いとされる熱田本、北野本のタガニという訓を信ずる。本稿で見たヤマトコトバの数珠つながりを考慮すれば、下駄の概念的な始原は今日、田下駄と呼ばれるものと考えられる。泥田において足を取られずに行き来できる方策を、田にいる蟹のそれと類同であると見極めたとみる。蟹同様の複合材で田下駄=タガニ(田蟹)を構成するからくりの本質は、紐で緊結するのではなく、粘着、結着させることである。そのような接着剤は、溶けたり固まったりする飴に他ならない。
神武紀の例は、「天皇、又因りて祈(うけ)ひて曰はく、「吾今当(まさ)に八十平瓮(やそひらか)を以て、水無しに飴を造らむ。飴成らば、吾必ず鋒刃(つはもの)の威(いきほひ)を仮らずして、坐(ゐ)ながら天下(あめのした)を平(む)けむ」とのたまふ。乃ち飴を造りたまふ。飴即ち自づから成りぬ。」という祈(うけひ)の個所である。天香山の土(つち)で作った八十平瓮を使って飴を作るのに水を使わないでできるなら、坐ながらにして天下を平定できるだろうというのである。どこに坐るのか。腰掛の上に坐る。地べたに莚を敷いた上ではない。そして、漢字に飴と書いてあるとおり、丸い平瓮を楕円盤状の形をした粢(しとぎ)のようなものに変更したということであろう。時代別国語大辞典に、「「米餅[たがね]」は米粉を搗いた餅(シトギ)のようにも思われる。」(411頁)とある。天香山の土で造られた平瓮は捏ねただけで焼いたものではなく、まだ乾燥しきってもおらずになお水気を含んでいて、縁の反りや円形を楕円形に変形できたらしい。その楕円形は、とりもなおさず田下駄の形に他ならない。田蟹を横歩きと捉えるのではなく、楕円の長辺の方向に進んでいると見なされている。
田蟹(manii 777様「2013 6 25サワガニの住む田んぼ!!」https://www.youtube.com/watch?v=yW1NOA_tH78&feature=youtu.be)
(引用・参考文献)
井上1987. 井上光貞『日本書紀 下』中央公論社、昭和62年。
宇治谷1988. 宇治谷孟『全現代語訳 日本書紀』講談社(講談社学術文庫)、1988年。
沖森ほか1999. 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉『藤氏家伝 鎌足・貞慧・武智麻呂伝 注釈と研究』吉川弘文館、平成11年。
春日1985. 春日政治『春日政治著作集別巻 西大寺本金光明最勝王経古点の国語学的研究』勉誠社、昭和60年。
門脇1991. 門脇禎二『「大化改新」史論 上巻』思文閣出版、1991年。
北山1961. 北山茂夫『大化の改新』岩波書店(岩波新書)、1961年。
倉本2015. 倉本一宏『蘇我氏―古代豪族の興亡―』中央公論社(中公新書)、2015年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
古典全書本 武田祐吉校註『日本古典全書 日本書紀 五』朝日新聞社、昭和31年。
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時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典上代編』三省堂、1967年。
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新編全集本 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集4 日本書紀③』小学館、1998年。
大系本 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
大系本 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(四)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
高橋1985. 高橋康夫『建具のはなし』鹿島出版会、昭和60年。
築島1963. 築島裕『平安時代の漢文訓読語につきての研究』東京大学出版会、1963年。
遠山1993. 遠山美都男『大化改新―六四五年六月の宮廷革命―』中央公論社(中公新書)、1993年。
西川2019. 西川明彦『正倉院宝物の構造と技法』中央公論美術出版、令和元年。
野口1978. 野口武司『古事記及び日本書紀の表記の研究』桜楓社、昭和53年。
坂2018. 坂靖『蘇我氏の古代学―飛鳥の渡来人―』新泉社、2018年。
宮崎1985. 宮崎清『藁(わら)Ⅰ』法政大学出版会、1985年。
森2011. 森博通『日本書紀成立の真実―書き換えの主導者は誰か―』中央公論新社、2011年。
森2016. 森公章『天智天皇』吉川弘文館、2016年。
(注)
(注1)欽明紀五年三月条には、「熟観所作、都無怖畏。」とある。「熟(つらつら)作(す)る所を観るに、都(かつ)て怖(お)ぢ畏(おそ)るること無し。」と訓んでいる。作(な)せるを観るに、所作(すらく)を観るに、などの訓がふさわしいと考える。「所」をどう訓むかについては、拙稿「上代における漢文訓読に由来する「所(ところ)」訓について」でも考察した。
(注2)春日1985.に、「作(せ)ラク」(93頁)とある。
(注3)古典全書本に、「所作(せむすべ)を知らず。何の事かある」(五、43頁)などとあるほか、かつてはそのように訓まれていたことがある。
(注4)井上1987.に、「鞍作のために天孫(あめみま)(神々の後裔である皇族)が滅びるということがあってよいものでしょうか」(195頁)、宇治谷1988.に、「鞍作をもって天子に代えられましょうか」(154頁)、遠山1993.に、「どうして天孫一族を鞍作ごときに代えることができましょうか」(4頁)、倉本2015.に、「鞍作のために天孫〔皇孫〕が滅びることがあってよいものでしょうか」(135頁)、森2016.に、「どうして天孫を入鹿に代えられましょうか」(54頁)、坂2018.に、「入鹿のために天孫が滅びることがあってもよいのでしょうか」(17頁)と訳している。これらはみな誤訳である。主客を取り違えている。
漢文調で書かれている原文は、下の第一の文であり、第二の文ではない。
豈以二天孫一代二鞍作一乎。
豈以二鞍作一代二天孫一乎。
第二の文章であれば、鞍作が天孫の地位をおびやかして取って代わるということになるが、そうはなっておらず、中大兄はそうは言っていない。森2011.が指摘するような「語法の誤り」(230頁)ではない。あくまでも第一の文のように、どうして天孫を以てして、鞍作に代えることなんてありましょうか、と言っている。鞍作は蘇我入鹿の別名で、綽名、通称である。通称であるが、言葉として名づけられているからには、その意味を持っていると考えなければならない。実際に馬の鞍を製作する職人さんの意味を有している。すなわち、
Why do you want to work for saddle-making by people of the imperial family?
Why do imperial people have to take over the saddle-making job?
The saddle-making work cannot be replaced by imperial people.
といった意味が示されていると考えられる。
したがって、この記述についての評価である、北山1961.に、中大兄「の激語は、この不意の惨劇に色を失った人々の胸を射抜いたであろう。これ以上の政治的効果をあげえたセリフはちょっと考えられまい。」(59頁)、坂2018.に、「入鹿斬殺の場面は、時代小説さながらの迫真の記述である。」(17頁)といった解説、ならびに、後代に日本書紀をまとめる段階で作文されたものであるとする見解についても、再考されなければならない。
(注5)拙稿「天の石屋の、瓦と河原」参照。
(注6)高橋1985.に、「[開口装置は]扉形式のみであることと、内部空間を仕切る建具のなかったことは、ともに広く奈良時代建築の歴史的特質といえよう。」(10頁)とあり、間仕切りは仮設されるものであった。それを「障子」といい、「障子の最も古い形式は、細い木製の格子を骨組としてその両面に布または紙を貼り、衝立式に台脚の上に立てたものであった。」(23頁)とある。
筵の製作には、民俗に莚機も使われており、大量生産するにはその方が便利であろう。その場合、莚はオル(織)ことによって作られている。ただし、莚は必ずしも莚機に負うものではない。縄文時代以来、衣服用のクロス同様、編布(あんぎん)の方法で莚は作られ続けてきた。藁製の包みである薦(こも)は、こもげた、こもあみなどと呼ばれる器具を使い、つつろとも呼ばれる錘を使って作られていた。
こもを編む(「お茶ガイド 動画部屋」様https://www.youtube.com/watch?v=XXBEHvY9cGc)
莚も同じように作られることが多く、語学的には、アム(編)ことによって作られていたと言える。宮崎1985.に、有明地域一帯の状況が報告されている。「古くは、コモゲタを組んだ道具……によって、莚や俵(トウラ・タワラ)が編まれた。このコモゲタが姿を消すのはおよそ明治二三(一八九〇)年以降で、このころより、左右からワラを一本ずつ差込んで二人の共同作業によって莚を織り始めた……。編む莚から織る莚への転換であった。」(240頁)。
(注7)大極殿という名称は、中国の魏晋南北朝以来の宮殿正殿の太極殿に由来するものとされている。太極とは北極星のことで云々、といった説明が谷川士清・日本書紀通證・巻二十九に見える。「太安殿見二天武紀及続日本紀一倭名鈔ニ曰太極殿朝堂院ノ正殿ノ名也。拾芥鈔ニ曰八省院ハ天子臨朝即位諸司告朔ノ所、或ハ号二朝堂院一。左経記ニ曰、案太極殿ノ體非レ寝非レ堂所レ謂廟作也。丹湯記ニ曰、太極殿ハ周ノ制路寝也。秦漢曰二前殿一、今称二太極一為二前殿路宮之号一、始レ自レ魏。魏志ノ註至二明帝ノ時一始起二太極殿一徐広晋紀ニ曰、太極殿高八丈長二十七丈広十丈。」(国文学資料館日本古典籍総合目録データベースhttp://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0099-041203&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80%E9%80%9A%E8%A8%BC%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=900(900/1082))。
すでに定説化しているが、本当にそうなのか、単純に大陸から文化移入したに過ぎないものなのか、不明である。筆者は、ひと捻りあったものと考える。「太」字にあった点がなくなっている。大宰府≒太宰府に同じというだけでは証明にならない。「太」を「大」にして唐朝との軋轢を避けたのであるとのうがった説も見られるが、証拠はない。訳者が意図的に「大」字に改めた可能性がある。その際、天皇は神であり、中国の天子―皇帝の関係とは違うとする考え方もある。やはり証明はできない。筆者は、フトアムドノではなく、オホアムドノにしたかったから、大極殿と記したと考えている。本邦はヤマトコトバファーストの訓読大国であったと考える。
(注8)人は呼ばれることによって命名される。人々にそう呼ばれたのが名前である。坊や、や、お嬢ちゃん、に、特徴的な点が目についたら、人々はそれをもって呼ぶようになる。名前とは本来、綽名である。認識を共通しあうことによって言葉は成り立つ。入鹿がどうして入鹿と呼ばれたのか、海のイルカが潮を吹くのと関係があるような気もする。威勢よく気炎を吐いている。話としては、イルカを捕まえるには大きな網が必要であり、よって大極殿(あほあむどの)という網の権化のような場所で捕らえられたというオチにつながっているといえよう。
(注9)和名抄では元和本に、「於波之萬(おばしま)」とある。オホシマと読んで納得している点については、拙稿「和名抄の(文選)「読」について 其の三」参照。
(注10)アリ・ヲリの尊敬語のマシマスの意、すなわち、(どこどこの場所)にいらっしゃるの用法では、オバシマが付いていることを謳うものではないことになる。マシマスには、補助動詞的に、形状語を丁寧にいう場合、すなわち、(なになにの状態)でいらっしゃるの用法も多い。いくつか例をあげる。
天皇、台(たかどの)の上に居(ましま)して、遠(はるか)に望(みのぞ)みたまふに、烟気(けぶり)多(さは)に起(た)つ。(仁徳紀七年四月、前田本)
天皇、耳梨の行宮(かりみや)に居(ましま)す。(推古紀九年五月、岩崎本)
既にして宮室(おほみや)を菟道(うぢ)に興(た)てて居(ましま)す。(仁徳前紀、前田本)
吾が主(あろじ)大伴公(おほとものきみ)、何処(いづく)に在(ましま)す(雄略紀九年三月、前田本)
是に、男大迹天皇(をほどのすめらみこと)、晏然(しづか)に自若(つねのごとく)して、胡床(あぐら)に踞坐(ましま)す。陪臣(さぶらふひと)を斉(ととの)へ列(つら)ねて、既に帝(すめらみこと)の坐(ましま)すが如し。(継体紀元年正月、前田本)
是の皇子、初め上宮(かみつみや)に居(ましま)しき。(用明紀元年正月、書陵部本)
……東宮(みこのみや)に位居(ましま)す。(用明紀元年正月、書陵部本)
天上(あめ)に神有(ましま)す。地(つち)に天皇有(ましま)す。(推古紀八年是歳、岩崎本)
……、王(みこ)の在(ましま)す所を高向臣国押に述(かた)りて曰く、(皇極紀二年十一月、岩崎本)
自づからに平安(さき)くましませ。(神代紀第七段一書第三、弘安本)
天皇、幼(いときな)くて聡明(さと)く叡智(さか)しくまします。(仁徳前紀、前田本)
大王(きみ)は、風姿岐㠜(みやびいこよか)にまします。(仁徳前紀、前田本)
是に、天皇、皇后の不在(ましまさぬとき)を伺ひて、八田皇女を娶(め)して、……(仁徳紀三十年九月、前田本)
天皇、岐㠜(かぶろ)にましますより総角(あげまき)に至るまでに、……(允恭前紀、書陵部本)
長(このかみ)にして仁孝(ひとをめぐみおやにしたがふみち)まします(允恭前紀、書陵部本)
貴(かしこ)き者(ひと)にましまさむといふことを知りたてまつらず(允恭紀二年二月、書陵部本)
長(ひととな)りて伉健(たけく)ましましきこと、人に過ぎたまへり。(雄略前紀、書陵部本)
徳(おむおむ)しく有(ましま)す天皇なり(雄略紀四年二月、前田本)
大(はなは)だ悪(あ)しくますます天皇なり(雄略紀十一年十月、前田本)
悪行(あ)しくまします主(きみ)なり(雄略紀十一年十月、前田本)
……意(みこころ)豁如(ゆたか)にまします。(継体前紀、前田本)
至徳(いきほひ)まします天皇なり(皇極紀元年八月、岩崎本)
仁徳紀七年四月条の、「台」に欄干がなかったら危ないとする意見もあろうが、台に登って起って見眺めていて、動きがある。静かでない。オハシマスは玉座に座っているように動きがないことについて言うようである。
付言しておくが、日本書紀の古訓自体、後の時代に付けられたものであり、さらに補読の場合も多いため、筆者の仮説は完全な証明に至らない可能性も大きい。今昔物語集では、「有」は「アリ」を表記し、「在」は「マシマス」を表記するという使い分けがあるとされている(佐藤2009.)が、日本書紀でそのように証明することは困難を極める。岩崎本でも、平安時代中期末点にオハシマスとあっても、室町時代点にマシマスと記されている例がある。宙を舞っている言葉は、都市伝説に近いところがある。
(注11)ほかに、大慈恩寺三蔵法師伝・巻第三に、「雕(ゑ)れる楹(はしら)、鏤(ちりば)めたる檻(おばしま)、玉の礎(いしずゑ)、文(かざ)れる棍(のきすけ)あり。(雕楹鏤檻玉礎文棍)」と、文選、張衡の西京賦のようにある。
(注12)藤氏家伝に、日本書紀とよく似た文章が記されている。どちらが種本なのか、筆者には判断できない。履の件は家伝にのみ見える。入鹿が庭にいたことが履の件でさらに強調されている。沖森ほか1999.の漢語を含んだ訓みを一部ルビを省いて下に示すが、少なくとも会話文に漢語を用いてあるのは不自然である。日本書紀と異なる「帝臨軒」を何と訓むべきか。内裏式・七日会式に、「内侍、東檻に臨て大臣に授く。(内侍臨二東檻一授二大臣一。)奏銓擬郡領式に、「巳午の間、内侍、檻に臨て大臣を喚ぶ。(巳午間、内侍臨レ檻喚二大臣一。)とある。「軒」は「軒檻」のことである。「帝(みかど)、軒(おばしま)に臨(いでま)す。」と訓むか。オハシマスの体である。
戊申、帝臨軒。古人大兄侍焉。使舎人急喚入々鹿々、起立著履、々三廻不著。入鹿心忌之。将還彷徨。舎人頻喚。不得已而馳参。……鞍作恠問曰、何故慄戦。山田臣曰、近侍御前、不覚流汗。中大兄、見古麻呂等、畏入鹿威、便旋不進、咄嗟之。即与古麻呂、出其不意、以剣打傷入鹿頭肩。入鹿驚起。古麻呂運手揮剣、斬其一脚。入鹿起就御座、叩頭曰、臣不知罪、乞垂審察。天皇大驚、詔中大兄曰、不知所作、有何事邪。中大兄伏地奏曰、鞍作尽滅王宗、将傾天位。豈以帝子、代鞍作乎。天皇起入於殿中。
戊申(つちのえさるのひ)に、帝(みかど)軒(けん)に臨(のぞ)みたまひき。古人大兄侍りたまふ。舎人(とねり)をして急(すみやか)に入鹿を喚(め)さしめたまふ。入鹿、起立(た)ちて履(くつ)を著(は)かむとするに、履三たび廻(かへ)りて著(つ)かず。入鹿心に忌む。還らむとして彷徨(たたず)む。舎人頻(しきり)に喚す。已むこと得ずして馳せ参る。……鞍作恠(あやし)びて問ひて曰(い)はく、「何の故にか慄(ふる)ひ戦(わなな)く」といふ。山田臣曰はく、「御前(おほみまへ)に近く侍れば、覚えずして汗流(い)づ」といふ。中大兄、古麻呂(こまろ)らの、入鹿が威(いきほひ)を畏りて、便旋(めぐ)りて進まぬを見て、「咄嗟(や)」といひたまふ。即ち古麻呂と与(とも)に、其の不意(ふい)に出で、剣を以て入鹿が頭・肩を打ち傷(やぶ)る。入鹿驚きて起つ。古麻呂手を運(めぐ)らし剣を揮(ふ)きて、其の一脚(かたあし)を斬る。入鹿起ちて御座(おほみもと)に就きて、叩頭(の)みて曰(まを)さく、「臣(やつこ)罪を知らず、乞はくは、審察(しむさつ)を垂れたまへ」とまをす。天皇大きに驚きて、中大兄に詔して曰ひたまはく、「作(な)す所(すべ)を知らず、何事か有る」といひたまふ。中大兄地(つち)に伏して奏(まを)して曰ひたまはく、「鞍作、尽く王宗(わうそう)を滅して、天位(てんゐ)を傾けむとす。豈(あに)帝子(ていし)を以て、鞍作に代へむや」といひたまふ。天皇起ちて殿の中(うち)に入りたまふ。(164~174頁)
蘇我入鹿はオバシマにすがりついて訴えている。この姿態には中国の故事が意識されているのかもしれない。
前漢の成帝のとき、政治腐敗を諫言しても意に介さなかった皇帝に対して、朱雲がなお諫言した際の出来事である。皇帝が聞かずに朱雲を下げさせて死罪を言い渡しているのに、朱雲はオバシマにすがりついて諫言をやめなかった。なお引き立てたため、オバシマが折れた。折檻という語の起こりとされている。漢書・楊胡朱梅云伝に、「上大いに怒りて曰く、「小臣下に居りて上を訕り、廷にて師伝を辱す。罪死すとも赦さず」と。御史、雲を将きて下る。雲、殿檻を攀ず。檻折る。雲呼(おら)びて曰く、「臣、下りて龍逢・比干に従ひて、地下に遊ぶを得ば足らん。未だ聖朝の何如を知らざるのみ」と。(上大怒曰、小臣居下訕上、廷辱師伝。罪死不赦。御史将雲下。雲攀殿檻。檻折。雲呼曰、臣得下従龍逢・比干、遊於地下、足矣。未知聖朝何如耳。)」とある。この故事が知られていたのなら、入鹿が天皇に訴えているのは、その情景のパロディであるといえる。入鹿の場合、オバシマは折れずに体の方が斬れた。オバシマと心中している。
(注13)天皇や皇族などの御座に関しては、延喜式・掃部寮式に、「元正には前(さきだ)つこと一日に、御の座を大極殿(だいごくでん)の高御座(たかみくら)に設けよ。……」(26条)、「天皇の即位には、御の座を大極殿に設けよ。元日の儀と同じくせよ。」(51条)、「凡そ御の座は、清涼・後涼等の殿には錦の草墪(さうとん)を設けよ。〈高麗(こま)錦の表、薫地(たきぢ)錦の縁、緋(あけ)の東絁(あづまぎぬ)の裏。〉紫宸殿には黒柿の木の倚子を設けよ。行幸には赤漆の床子〈並(みな)錦の褥(しとみ)を敷け〉。其れ神事并びに仁寿殿等の座には、短帖を設くること常儀の如くせよ。中宮の草墪も亦、御に同じくせよ。」(52条)、「凡そ座を設くるには、皇太子は錦の草墪〈襪(したうづ)の錦の表、長副の錦の縁、縹(はなだ)の東絁の裏〉、并びに白木の倚子〈錦の褥を敷け〉。殿上并びに行幸も並(みな)通はし用ゐよ。親王并びに大臣は両面の草墪〈葡萄の滅紫(けしむらさき)の両面の表・縁、紺の調布の裏〉、赤漆の小床子〈褥を敷け。殿上・行幸も通はし用ゐよ〉。……」(53条)、弾正台式に、「凡そ庁の座は、親王及び中納言已上は倚子、五位以上は漆塗りの床子、自余は素木(しらき)の床子。」(148条)と定められている。木製の椅子に着席するのである。その作り方については、木工寮式に、「大倚子(いし)一脚〈高さ一尺三寸、長さ二尺、広さ一尺五寸〉の料、切釘(きりくぎ)十二隻〈各長さ一寸五分〉、膠一両。長功は七人、中功は八人、短功は九人。小倚子一脚〈高さ一尺三寸、長さ一尺五寸、広さ一尺三寸〉の料、切釘十二隻〈各長さ一寸五分〉、膠一両。長功は五人、中功は六人、短功は七人。大床子(しゃうじ)一脚〈長さ四尺五寸、広さ二尺四寸、高さ一尺三寸〉の料、切釘三十隻〈四隻は各長さ二寸、二十六隻は各長さ一寸五分〉、膠一両。長功は八人、中功は十人、短功は十二人。小床子一脚〈高さ一尺三寸、長さ二尺、広さ一尺五寸〉の料、切釘八隻〈各長さ一寸五分〉、膠一両。長功は四人、中功は四人半、短功は五人。檜の床子一脚〈長さ四尺、広さ一尺四寸、高さ一尺三寸〉の料、切釘二十六隻〈四隻は長さ各二寸、二十二隻は長さ各一寸五分〉、膠一両。長功は三人、中功は三人半、短功は四人。」(8条)とあって、釘で止めるばかりでなく膠を接着剤に用いている。
(注14)光景は、焼火箸で鼻緒の穴をあけているところであるが、囲炉裏場に作業をするのは、膠を使った製作の水溶(材質によるが60~70℃のものがある)のためであったり、接着面の温めによって接着力が強くなることとも関係があるかもしれない。
(注15)下駄には、歯と台を一木を刳りぬいて作る連歯下駄、台に別材の歯を差し入れて作る差歯下駄がある。差歯の材料には、カシ、ケヤキ、ホオなど硬い木が用いられることが多い。差歯の枘が台の表面まで現れているものを露卯(ろぼう)、隠れているものを陰卯(いんぼう)といい、今日ではほぼ陰卯ばかりであるが、江戸時代までは露卯のものも一般的であった。
(注16)天孫(あめみま)は、皇孫(すめみま)と同じ対象を指す呼称である。野口1978.に、「若干の例外……を見るとはいへ、『書紀』巻二の天海両章に登場する火瓊瓊杵尊、火火出見尊二神が、皇孫、天孫両指称用語を以て各々規則正しく―火瓊瓊杵尊が、地文の中で指称される場合には皇孫、天神系神格を発言者とする会話文の中で指称される場合には皇孫、国神系神格を発言者とする会話文の中で指称される場合には天孫、と各々表記されているのに対して、火火出見尊が地文の中で指称される場合には天孫、国神系神格乃至はそれに準ずるものを発言者とする会話文の中で指称される場合には天孫、と各々表記されている……―表記されている」(383~384頁、漢字の旧字体は改めた。)と整理されている。中大兄の口頭語に、スメミマでは通じず、アメミマでなければならなかったからそう発せられたと考える。
(注17)「水無しに飴(たがに)を造らむ。」(神武前紀戊午年九月)とあり、大系本に、「タガネは、掌と指とで握り固める意。「杖をタガネ」などと使う。タガニと傍訓する古写本があるが、祢の旁(つくり)の尓を尓(ニ)の仮名と認めた誤読に基づくものであろうか。タガニは、水無しで握り固めた飴。」((一)221頁)と解説されている。筆者は、兼右本にあるタガネよりも古いとされる熱田本、北野本のタガニという訓を信ずる。本稿で見たヤマトコトバの数珠つながりを考慮すれば、下駄の概念的な始原は今日、田下駄と呼ばれるものと考えられる。泥田において足を取られずに行き来できる方策を、田にいる蟹のそれと類同であると見極めたとみる。蟹同様の複合材で田下駄=タガニ(田蟹)を構成するからくりの本質は、紐で緊結するのではなく、粘着、結着させることである。そのような接着剤は、溶けたり固まったりする飴に他ならない。
神武紀の例は、「天皇、又因りて祈(うけ)ひて曰はく、「吾今当(まさ)に八十平瓮(やそひらか)を以て、水無しに飴を造らむ。飴成らば、吾必ず鋒刃(つはもの)の威(いきほひ)を仮らずして、坐(ゐ)ながら天下(あめのした)を平(む)けむ」とのたまふ。乃ち飴を造りたまふ。飴即ち自づから成りぬ。」という祈(うけひ)の個所である。天香山の土(つち)で作った八十平瓮を使って飴を作るのに水を使わないでできるなら、坐ながらにして天下を平定できるだろうというのである。どこに坐るのか。腰掛の上に坐る。地べたに莚を敷いた上ではない。そして、漢字に飴と書いてあるとおり、丸い平瓮を楕円盤状の形をした粢(しとぎ)のようなものに変更したということであろう。時代別国語大辞典に、「「米餅[たがね]」は米粉を搗いた餅(シトギ)のようにも思われる。」(411頁)とある。天香山の土で造られた平瓮は捏ねただけで焼いたものではなく、まだ乾燥しきってもおらずになお水気を含んでいて、縁の反りや円形を楕円形に変形できたらしい。その楕円形は、とりもなおさず田下駄の形に他ならない。田蟹を横歩きと捉えるのではなく、楕円の長辺の方向に進んでいると見なされている。
田蟹(manii 777様「2013 6 25サワガニの住む田んぼ!!」https://www.youtube.com/watch?v=yW1NOA_tH78&feature=youtu.be)
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