数学の王道

数学研究会代表 数学プロ主任講師の本音

飯田経夫

2019年07月09日 | 経済

飯田経夫 

飯田経夫 通称 「いいつね」

名古屋大学経済学部 経済原論Ⅰ 担当教授

名大の2年生から3年の前期までおこなわれた1年6か月の講義の担当教授


いろいろな伝説があった。

名大 経済学部首席で卒業(おそらくtrue)

日本の経済学者のトップ5に入る切れ者(true)


経済学部生にとって経済原論Ⅰ 通称(原Ⅰ)は卒業のための必須科目だった。


 なにより「いいつね」の凄かったのは経済学部生の8割は単位をくれなかったことだ。

必須科目にも関わらず。

留年は日常茶飯事だった。

京都大学にも教えに行っていたが京大生 全員 不可にした強者だ。


しかし、京大は恵まれていた。

「いいつねの講義は選択であったことだ。


口癖は「バカは社会にでるな!」


岐阜県庁に内定が決まっていた1学年上の先輩も「原Ⅰ」が不可になったので

留年することになり、ビックリした母親が「いいつね」に「何とか卒業させてください」

と頼んだところ、「母親が出てくるなど言語道断」と切り捨てた。


その先輩はショックで自殺した!(おそらくtrue)etc



しかし講義は面白かった!

この講義だけは、一度も休んだことはなかった!


今の日銀総裁は「バカ」と平気で言う強者だった。


「いいつね」のお蔭で経済学部生の絆は深まった。


今でも 同窓会になると「いいつね」強烈な個性は話題になるくらい

僕にとっても最強の強者だった。



私の履歴書 No2

2019年07月09日 | 日記

スポ根マンガ「巨人の星」の星一徹のような親父だった。

そんな親父が唯一 優しかった(いや、普通)だったのはスキーに連れて行ってくれたことだ。

 

親父はスキーでは準指導員と言って (学校で言うなら先生 教頭先生)の資格を持っていた。

 

正月3日間は スキーに連れて行ってくれた。 

しかし、その指導はスパルタで、小学校の時は本当にスキーに行くのが嫌だった。


中学生になり、 スキーが上手くなっていくと、次第にスキーが面白くなっていった。

何よりも良かったのは、親父がスキーに関してうるさく言わなくなった事だ。


今思うに、親父の技術と僕の技術の差がなくなってきたので、

親父も教えることがなくなってきたからだった。


話を戻そう.


僕は中学の時 クラブ活動は卓球部だった。

当時、日本の卓球は強く、1学年に30人ぐらい部員がいた。

中学校の卓球台は4台しかなく、当然先輩が使っていた。

そのため、卓球部という名の「陸トレクラブ 」だった。


うさぎ跳びは,もちろん、1500m持久走

400 mダッシュ20本

腹筋50回 背筋50回 スクワット100回

しかも水は一切飲ませてもらえなかった。

よく脱水しなかった(笑)


卓球台で打てたのは、2年生の秋から3年生の郡大会までの1年間だけだった.。


しかし、このハードな陸トレのお陰で陸上競技大会が楽しみだった。

ライバルはサッカー部 バスケットボール部 野球部ぐらいだった。


リレーの選手にも選ばれ、陸上競技大会は本当に楽しかった。 


続きは次回書きます。