数学の王道

数学研究会代表 数学プロ主任講師の本音

私の履歴書 No3

2019年07月10日 | 日記

中学2年までは友人 先生にも恵まれた。

今でもFacebookで交流がある。

 

さて、僕の転機となった事件がある。

1971年8月15日 ニクソンショックだ。

 

当時 親父か信用取引で株をやっていたとは知らなかった。

そこに、ニクソンショックが日本を襲った!

 

一夜で 親父は財産を失い、しかも追証が発生したから借金生活だ。

しかし、幸いにも、まだ高度成長だったので、酒屋で何とか生活できた。

もちろん 家業の酒屋の無賃金労働は厳しさが増したが、なんとか食べていける

経済状況だった。

 

さて、中学3年になって受験勉強しないといけない時期になった。

僕は長男で、メンターとなる人が身近にいなかった。

 

それで、お袋の兄弟の息子 つまり、僕にとっていとこにあたる「ヒロジ君」に会いに

常滑までバスに乗って、勉強の仕方 受験の仕組を聞きにいった。

 

「ヒロジ君」は八百屋の次男で、小学校時代

鮮魚のゴム長靴で小学校に通っていた強者だ!

 

叔母にあたるヒロジ君の母は「将来 やくざにならないかマジで心配していた」

 

その「ヒロジ君」が中学から猛勉強を初めて 明和高校に合格していた!

「ヒロジ君」は僕のメンターになり、受験勉強のやり方を聞きに行った訳だ。

 

「ヒロジ君」の勉強法は凄くて 「眠らずにどれくらい勉強できるかor何時間勉強し続けるか」という

人間の限界に挑戦する方法だった。

 

この方法を聞いた時、僕には絶対無理だなと思った。

 

しかし、メンターから神の一言があった。

「明和高校は結構 補習なども厳しい。同級生で半田高校に入学した連中は青春を謳歌している!」

 

この一言で、半田高校に進学することに決めた!

 

さて、成績だが、定期テストの順位は10番~30番台で合格圏内だった。

しかし、模試(中部統一試験)の結果は50番を超えることも多く

先生には、「実力がないから半田は危ない」と言われていた。

 

愛知県は内申書もあるので5教科以外で成績アップを目指さないといけなかった。

教科で最大のネックは美術だ。

1年の時は2 3年になっても3がマックスだった。

 

酒屋で終わるのは絶対嫌だったので勉強した。

でも、時間的には3時間くらいだった。

 

しかし、やり方を考えた!

「いかに勉強せずに成績を上げるか!」

これには時間をかけいろいろ試してみた。

 

結果 少しずつ成績も上がっていき 3年の学年末テストは2位になった。

「中統」の結果も10番台に上がっていった。

内申書は43で高校入試本番を迎えた!

 

国語の記述問題は書かなかった(中統で書いたが正解は一度もなかったので)

数学 英語は満点だった。

 

入試が終わった、その夜 志賀高原行のJRで1年上の先輩とスキーに行った。

 

志賀の宿で、夜 話をしていた。

「受験番号は書いたか? 普通科と書いたか?」と

 

一瞬 聞き間違いかと思った。

 

なんと 僕は普通科と書く欄に 国語は国語科 数学は数学科 英語は英語科

と書いてしまった。

 

次の朝 志賀高原から、慌てて担任の先生に電話した。

担任の先生は、「そんな奴は始めてだ。不合格かもしれない」

冷たく言われた。

 

合格発表の前日 スキー場から帰ってきた。

合格発表の日 ドキドキしながら発表を見にいった。

 

受験番号342番 合格だった!

 

次回また書きます。