ストリーミングがMusicの主流になっている今だからこそ
この3枚のコンセプトアルバムは最高に傑作だと思います。
是非 聴いてください!
英語 ITスキル
数学(プログラミング)
歴史 政治
そして経済
時代は凄いスピードで変化している。
勉強しないと取り残される!
みんな 一緒に頑張ろう!!
数学研究会
代表 大橋 克利
中学2年までは友人 先生にも恵まれた。
今でもFacebookで交流がある。
さて、僕の転機となった事件がある。
1971年8月15日 ニクソンショックだ。
当時 親父か信用取引で株をやっていたとは知らなかった。
そこに、ニクソンショックが日本を襲った!
一夜で 親父は財産を失い、しかも追証が発生したから借金生活だ。
しかし、幸いにも、まだ高度成長だったので、酒屋で何とか生活できた。
もちろん 家業の酒屋の無賃金労働は厳しさが増したが、なんとか食べていける
経済状況だった。
さて、中学3年になって受験勉強しないといけない時期になった。
僕は長男で、メンターとなる人が身近にいなかった。
それで、お袋の兄弟の息子 つまり、僕にとっていとこにあたる「ヒロジ君」に会いに
常滑までバスに乗って、勉強の仕方 受験の仕組を聞きにいった。
「ヒロジ君」は八百屋の次男で、小学校時代
鮮魚のゴム長靴で小学校に通っていた強者だ!
叔母にあたるヒロジ君の母は「将来 やくざにならないかマジで心配していた」
その「ヒロジ君」が中学から猛勉強を初めて 明和高校に合格していた!
「ヒロジ君」は僕のメンターになり、受験勉強のやり方を聞きに行った訳だ。
「ヒロジ君」の勉強法は凄くて 「眠らずにどれくらい勉強できるかor何時間勉強し続けるか」という
人間の限界に挑戦する方法だった。
この方法を聞いた時、僕には絶対無理だなと思った。
しかし、メンターから神の一言があった。
「明和高校は結構 補習なども厳しい。同級生で半田高校に入学した連中は青春を謳歌している!」
この一言で、半田高校に進学することに決めた!
さて、成績だが、定期テストの順位は10番~30番台で合格圏内だった。
しかし、模試(中部統一試験)の結果は50番を超えることも多く
先生には、「実力がないから半田は危ない」と言われていた。
愛知県は内申書もあるので5教科以外で成績アップを目指さないといけなかった。
教科で最大のネックは美術だ。
1年の時は2 3年になっても3がマックスだった。
酒屋で終わるのは絶対嫌だったので勉強した。
でも、時間的には3時間くらいだった。
しかし、やり方を考えた!
「いかに勉強せずに成績を上げるか!」
これには時間をかけいろいろ試してみた。
結果 少しずつ成績も上がっていき 3年の学年末テストは2位になった。
「中統」の結果も10番台に上がっていった。
内申書は43で高校入試本番を迎えた!
国語の記述問題は書かなかった(中統で書いたが正解は一度もなかったので)
数学 英語は満点だった。
入試が終わった、その夜 志賀高原行のJRで1年上の先輩とスキーに行った。
志賀の宿で、夜 話をしていた。
「受験番号は書いたか? 普通科と書いたか?」と
一瞬 聞き間違いかと思った。
なんと 僕は普通科と書く欄に 国語は国語科 数学は数学科 英語は英語科
と書いてしまった。
次の朝 志賀高原から、慌てて担任の先生に電話した。
担任の先生は、「そんな奴は始めてだ。不合格かもしれない」と
冷たく言われた。
合格発表の前日 スキー場から帰ってきた。
合格発表の日 ドキドキしながら発表を見にいった。
受験番号342番 合格だった!
次回また書きます。
飯田経夫
飯田経夫 通称 「いいつね」
名古屋大学経済学部 経済原論Ⅰ 担当教授
名大の2年生から3年の前期までおこなわれた1年6か月の講義の担当教授
いろいろな伝説があった。
名大 経済学部首席で卒業(おそらくtrue)
日本の経済学者のトップ5に入る切れ者(true)
経済学部生にとって経済原論Ⅰ 通称(原Ⅰ)は卒業のための必須科目だった。
なにより「いいつね」の凄かったのは、経済学部生の8割は単位をくれなかったことだ。
必須科目にも関わらず。
留年は日常茶飯事だった。
京都大学にも教えに行っていたが、京大生 全員 不可にした強者だ。
しかし、京大は恵まれていた。
「いいつね」の講義は選択であったことだ。
口癖は「バカは社会にでるな!」
岐阜県庁に内定が決まっていた1学年上の先輩も「原Ⅰ」が不可になったので
留年することになり、ビックリした母親が「いいつね」に「何とか卒業させてください」
と頼んだところ、「母親が出てくるなど言語道断」と切り捨てた。
その先輩はショックで自殺した!(おそらくtrue)etc
しかし、講義は面白かった!
この講義だけは、一度も休んだことはなかった!
今の日銀総裁は「バカ」と平気で言う強者だった。
「いいつね」のお蔭で経済学部生の絆は深まった。
今でも 同窓会になると「いいつね」の強烈な個性は話題になるくらい
僕にとっても、最強の強者だった。
スポ根マンガ「巨人の星」の星一徹のような親父だった。
そんな親父が唯一 優しかった(いや、普通)だったのはスキーに連れて行ってくれたことだ。
親父はスキーでは準指導員と言って (学校で言うなら先生 教頭先生)の資格を持っていた。
正月3日間は スキーに連れて行ってくれた。
しかし、その指導はスパルタで、小学校の時は本当にスキーに行くのが嫌だった。
中学生になり、 スキーが上手くなっていくと、次第にスキーが面白くなっていった。
何よりも良かったのは、親父がスキーに関してうるさく言わなくなった事だ。
今思うに、親父の技術と僕の技術の差がなくなってきたので、
親父も教えることがなくなってきたからだった。
話を戻そう.
僕は中学の時 クラブ活動は卓球部だった。
当時、日本の卓球は強く、1学年に30人ぐらい部員がいた。
中学校の卓球台は4台しかなく、当然先輩が使っていた。
そのため、卓球部という名の「陸トレクラブ 」だった。
うさぎ跳びは,もちろん、1500m持久走
400 mダッシュ20本
腹筋50回 背筋50回 スクワット100回
しかも水は一切飲ませてもらえなかった。
よく脱水しなかった(笑)
卓球台で打てたのは、2年生の秋から3年生の郡大会までの1年間だけだった.。
しかし、このハードな陸トレのお陰で陸上競技大会が楽しみだった。
ライバルはサッカー部 バスケットボール部 野球部ぐらいだった。
リレーの選手にも選ばれ、陸上競技大会は本当に楽しかった。
続きは次回書きます。
僕は酒屋の長男として生まれた。
小学校2年生から、毎日、キリンレモンとラガービールの配達の助手が日課だった。
この当時 キリンは圧倒的なシェアを持っていた。
今のように、缶ビールではなくビンビールだった。
ビンは重く、配達して終わりではなく、帰りには空きビンを持って帰らなくてはならなかった。
夏休みは毎日 強制的に配達の助手としてこき使われた。
特に 友達と遊びたいときは、本当に嫌だった。
中学生に入学するとクラブ活動後 先輩の鞄持ち 家に帰れば酒・ビールの片付け
本当にクタクタで勉強どころではなかった。
その割には、成績が悪いと親父は
「中卒で酒屋を継げ!」とマジで言っていた。
サラリーマンの家庭の友人が羨ましかった。
この頃から 将来こんな生活から早く抜け出したいと本気で思っていた。
それが、僕が勉強する一番のモチベーションになった。
今 思えば10年くらいまえのASEAN諸国と全く同じだ。
とにかく、「将来酒屋は絶対嫌でもっとちがう仕事をしてみたい!」
しかし、親父は家業が優先で 中学3年の時 やっと少し解放された。
今度は、受験勉強が待っていた。
続きは次回書きます。
U2はいい!!
U2 - With Or Without You (U2 At The BBC)
初夏の夕暮れ
この1曲
確かにカート・コバーンは病んでいた。
しかし、この曲作れと言われても作れない
そういう意味では傑作!
Nirvana - Smells Like Teen Spirit (Official Music Video)
映画ボヘミアンラプソディー借りてきました。
映画館でも見たのですが、個人的にはこの曲がNo1です!
Queen - Don't Stop Me Now (Official Video)
センター試験の後継となる大学共通テストに採用される民間試験で
TOEICが参加取りやめると発表
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TOEICの参加取りやめで、大学受験生への影響は大きい❗
W杯で例えるなら ブラジルが不参加くらいのインパクトがある。