暇人のぐうたら日記

暇人がぐうたらな日々をつづる

人生の選択と運

2019-05-05 15:55:43 | たわごと
運が良い人、悪い人はいつの時代にもいる。だから、正月になると願掛けに神社を訪れておみくじなんかで運良く生きていける事を願う。運と言うと何だか天災の様なものとして捉えられているが、実は選択によるものなのだと思う気がする。選択も自分では避けようがない選択も多いだろうから、あの時、こうしておけば良かったと後悔してもどうしようもない事もある。人生は多くの選択の過程で成り立っている。必ずしも大きな選択ばかりではなく日常的にも多くの選択を知らぬ間に行っている。連休中に風邪を引いてしまった。何時もの病院が開いてないから、開いてる病院へ飛び込んだ。取り敢えず処方された薬を飲んだが一向に良くならない。こんな事なら、薬局で風邪薬💊買っておけば良かったと思う。事故、病気の類は自らの選択ではなく起こるが、その時に何らかの選択を行っている。運とは巡り合わせで、巡り合わせは選択により生まれる。人生は選択の連続である。何もしないのも選択肢。風邪を引いてしまったらゆっくり寝て過ごすのもありかな。長い連休は困る。令和になっても変わるのは元号だけなのになぁ。

自衛隊違憲論争と憲法改正

2019-03-03 12:08:15 | たわごと

自衛隊は違憲だという議論があるから憲法で自衛隊を明記しようと政権側の主張がある。そもそも政権が自衛隊を違憲だ言うこと自体論理が破綻している。何故なら

自衛隊法という法律があるし、自衛隊には多額の防衛費という形で税金が投入されている。これは政府が予算を提出し国会で決議されなければ認められない。ならば自衛隊が違憲であるということを政府が言うこと自体が論理が破綻している。自ら予算を提出している以上、政府も国会も合憲と認めているからである。

では、何故憲法改正をしてまで当たり前の自衛隊を明記しようとする必要があるのか。憲法では先の大戦の反省から陸海空のいっさいの戦力を保持しないと定められている。すなわち、軍事的戦力を保持しないというという解釈が成り立つ。ということは、憲法に自衛隊を明記するということは、軍事的戦力として位置づけることを認めるということになる。しかも内閣総理大臣を総指揮官とするということになれば、政権の意図するままに軍事力を行使できることになり、もはや先の大戦を正当化するものになり、戦力行使が可能となる。

自衛隊員は事実上、軍人となり、政権の意のままに戦力を行使しなければならなくなる。自衛隊員は軍人となる。

さて、憲法改正は国民投票により決せられる。仮に憲法改正がなされた場合、国民が認めたこととなり、国民の責任となる。

憲法は米軍が作ったと言っており、時代にそぐわないから変える必要があると言っているが、何がどう変わったからこう変えるという具体的な説明は一切ない。このような案に賛成することは、契約書に無条件に判を押すことと同じである。

具体的な説明がない以上、無信任投票は止めた方が良い。非常に危険な行為であるとともに自己責任が後で付いてくることになる。

 

 


無駄を排除した後に残るもの

2019-01-01 17:47:22 | たわごと
やることも無く暇なので今年の課題でも考えてみようと思った。特に自分の事でなくとも何かしら暇つぶしができれば良い。すると、社会の問題として排除と言う言葉が昨年来の課題として未だ答えが得られていないことを思い出した。排除とは、社会に必要にないものは切り捨てると言う考えである。理屈として排除は理にかなっている様に思えるから、支持も得られやすい。恐らく今年もこの考えは優先課題として実効されることだろう。しかし、果たして無駄を排除した社会に何が残るのかと言う疑問が浮かんだ。人が生きるのもある期間であるから、生きる為の活動に価値はない。人が生きる上で必ず廃棄物が放出されるのだから。経済も自然を破壊するという観点からすれば排除に値する。人は人の為に生きるのだとすれば、排除の理屈が矛盾する。何故なら、前提として社会に必要ないものが排除の対象だからである。となると、排除の理論とはある人たち、例えば、健康で元気でお金持ち、の観点から観た一方的な観点であることがわかる。しかし、彼らもいずれは排除される側に回るのだから自己矛盾を内包している。となれば、排除と言う課題は事故みたいに偶然、偶発的なもので、そこにたまたま当たった人の災難みたいなものだ。答えがない課題は、永久に解が得られないから、課題として残るのだろう。無駄を排除したらやはり何も残らないのだろう。今年も無駄な人たちが、排除されて消えて行く事になる。今年は誰が消えていなくなるのだろうか。?それが課題た!

1年の経は元旦にあり二〇一九

2019-01-01 14:33:27 | たわごと
年が明けた!2019 年が始まった。早々に初詣でを済まし、さて何をしようかと想いを巡らす。しかしながら、何が変わった訳でもなく、また歳を重ねるだけであり、特に目標みたいなものもない。というか、目標を立てて達成感を味わうほど若くはないのだ。今年は元号が代わり、新しい元号が始まる。また、暦の計算がややこしくなる。更に、消費税がややこしくなり、全てがややこしい年になりそうだ。何か1つでも良い方に行けば良いと思いたいが、益々面倒臭い年になるのだろうか。恐らく昨年のツケが新しい年に回ってくる事は間違いなかろう。元日は晴天で福袋に群がる人の群れが多いのだろう。世間は景気が良いみたいだが、自分には関係ない。毎年恒例の自家製お節を突付きつつ、安い酒でも呑んでひと眠りするのが至極。静かに時が流れる年に一度の機会だ。明けましておめでとうございます、誰も言う相手がいないが、慣例に従って挨拶しとくか

電気自動車の行方

2018-12-24 16:18:26 | たわごと

電気自動車の開発が世界的に進められている。かつてはラジコンカーというおもちゃが大流行した時代がある。電気自動車と聞くとラジコンカーを思い出す。電池で動くのだからラジコンカーの大きいサイズとも思える。

ところで電気自動車は環境対策として開発が進められているが、果たして本当に環境対策になるかは疑問である。なぜならば、車体や内装、電池に至るまで石油製品で占められている。鉄も石炭で高炉を回して製造され、プラスティックは石油化学製品である。電池も化学製品で大量の資源を消費する。単にCO2を廃棄しないというだけで良いように思えるが、製造過程でのCO2発生は避けられない。

便利な道具は所詮外見を良くしても中身は同じであり、それに巨額資金を投じてもあまり意味がないと思える。

コンピュータは大型がパーソナルと小型化したが台数が爆発的に増えたことにより、資源、プラスティックの消費が増え、CO2は出さなくても発熱量は爆発的に増大した。同じことである。Co2を出さなくても発熱している限り、地球の温度は上がる。廃棄物が増える。

電気自動車がデパートのおもちゃ売り場や家電量販店で売られるようになるだけである。それにしてもおもちゃにどれだけのお金を支払うのだろうか。せいぜい十数万円が妥当なところだろう。