スマートスピーカーが各社から発売され活況を呈している。しかし、どうやら簡単にハッキングされ、プライバシーが盗まれているらしい。この手の問題はイタチごっこで、解決策は見つからないだろう。しかも、AIでの会話は決められたものに対しては良く反応するが、あまり期待しすぎるとつまらない会話に終わる。結局、飽きて使わなくなるのなら、一層やめた方が良いかもしれない。後数年は待ってAIたるものお本質を見極めた方がよさそうだ。
1億総活躍社会を目指すという構想が掲げられた。名目的には、若者から高齢者、障害者を含めて全ての国民が活躍し生き生きと人生を送ること、とある。しかし、現実には高齢者が働き続けることはごく一部に限られ、障害者はさらに難しい。また、若者も非正規社員の比率が高まり、低所得者が多くなっている。企業は、内部留保でためることしか考えておらず、利益を社会に還元しようなどとはサラサラ考えていない。国は公共事業に明け暮れ、借金を返す意思も感じられない。では、1億総活躍社会とは何を意味するのかと言う疑問が生じる。答えは、戦前の日本にある。戦前の日本は国民はお国のために働けと言って教育された。お国のためとは、戦争に行って死んで来いという意味である。
今、政府が進めていることは、憲法改正である。現行の憲法では日本は武力行使が禁止されており、戦争をすることができない。そこで、憲法を改正して武力行使が可能とする。
すると、お国のために働くの意味が明確になる。すなわち、社会で役に立たない国民は、核弾頭を積んだ爆撃機に乗って敵地に突っ込めということである。それなら、高齢者でも、障害者でも可能なわけで、先の大戦のように若者を送り出すことはせず、金のかかる人からお国のために働けと言って戦地へ送り込まれる。訓練何て必要ない。ただ、突っ込めば良いだけである。そうすれば、1億総活躍社会の意味がハッキリしてくる。現在の日本が抱える構造的な高齢、少子化も社会保障費の増大も一気に解決できる。先の戦争で日本が行ってきたことであるから、そんなことはいとも簡単にできるはずである。1億総活躍社会とは、先の戦争で言われたお国のために命を捧げることと等しい。
東京オリンピック、天皇の退位、と国が新しく生まれ変わろうとしている。その時こそが、本当の意味で1億総活躍社会が始動する。それまでは、放置しておけば自然と働けないものの数は減少していく。米国では、イラク戦争の時に職業軍人と言うのが募集され、お金のない人は志願して戦争に行けば報酬が得られ、帰国できれば安定した地位が約束された。これも、方法論として同じ事だろう。適地は、隣国となろう。
オーストラリアでは、中国人留学生が国の法律を脅かすということで、遂に政府が厳しく取り締まることとした。
最近の中国の侵略の手口は、海外留学生として入国させ、国家機密を盗み出したり、土地を買い占めたりしているケースが多い。海外留学生だと国の警戒心が緩くなることを利用した手口である。最終的には周りに多くの中国人が入国し、そこを起点に侵略していくというものである。カナダのバンクーバーがもはや中国人に乗っ取られた。米国では、中国、韓国系の移民が多くなってきており、入国制限を設けたほどである。日本は管理が甘く、簡単に入られてしまう。そして、いろいろな手口で現金やら機密情報やらを盗まれている。さらには、国土が爆買いされ、富良野あたりが買い占められている。大量に中国人が入り込んだら、その町は乗っ取られる。そして、農産物やら、魚介物などが本国に贈られる。リゾートが建設され、大量の中国人が押しかけて来る。そして、さらい土地を拡大してついには社会問題となる。誰もこのことを議題として取り上げないのは摩訶不思議である。政府は、爆買いツアーと言って喜んでいるが、そんな簡単なことでは済まなくなる。内部から取り崩されたら、暴力団も中国マフィアには敵わない。警察もこれまでの装備では間に合わなくなり、いずれ銃社会の到来となる。早く気付けよ馬鹿政府。
あの時ああしていたら、今頃はどうなっていたかと考えたりすることがある。今、まっしぐらに自分の道を進んでいる人や成功した人には無縁のものかもしれない。しかし、誰もが長い人生においてあの時、アアシテいたらと思うことが必ずある。欲張りかもしれないが、あの時あそこで告白していたら、あの子と付き合えたかもしれない。あの時、あの学校へ行っていたら別の世界があったかもしれない、など。しかし、最後にたどり着く結論はどの道同じところに行く付く。もう少し努力していたら、頑張っていたら、辞めていなければ、考えたらいくら時間があっても足りない。現状に満足していないからだろうが、現状を変えることは実はよほどのことがない限り、実は相当難しいのである。なぜなら、現状とは、そこに行きつく過程をたどってたどり着いたところだから、それまでの蓄積の上に成り立っている。それを変えるということは、それまでの蓄積を捨てるということにもなる.要するにしっかりした土台がないところに新しいものを築こうとしても失敗する確率の方が高い。
だから、あの時ああしていれば確かに違っていたかもしれないが、実際にはそうぢなかったか、できなかったので所詮同じところに行き着く。堂々巡りの旅と言うこと。
北朝鮮は本当に危機なのだろうか。
①北朝鮮がミサイル飛ばしているのに選挙に突入した。しかも、国難選挙
②選挙で圧勝したら、涼しい顔してゴルフに外遊
本当に国難で危機ならば総理大臣がこんなことしてたらとんでもないことである。
北朝鮮の危機を煽れば、国民は簡単に騙されると思っているのである。
戦時中は、戦況が危なくなっても、戦況は有利であると嘯いて国民を欺いていた。結局、後の祭り、戦争で負けて原爆受けたのは国民なのである。
為政者は、時として身近なことを題材にして危機を煽り、自分が意図する方向へと誘導する。
まさに、国難選挙がそのよい例である。それにしては、防衛が疎かだと思わないだろうか。危機を煽れば、自衛隊が必要と考える。戦争も仕方がないと思うようになる。すると、憲法改正が大義名分になる。
森友・加計の問題も、時間が経てば熱が冷めるだろうと、丁寧に説明すると言っておきながら、終わったら、丁寧に説明してきたと過去形になってしまった。まんまと騙されたんである。
国会も憲法も軽視しているのだから、日本国民なんかはどうでも良いのであろう。