将軍塚古墳は地元では通称「王山」と言われている。近年たびたび氾濫危険水位になる井野川の北岸の小高くなった台地の上にある。年に2回町内会総出で草刈りをし、桜の季節には花見をする人も多い。
古墳の上に登ると、特に南側、岩鼻、藤岡、倉賀野、山名方面の見晴らしがよい。時代は逆になるかもしれないが、岩鼻には巨大な前方後円墳の観音山古墳、藤岡には白石稲荷山古墳や七輿山古墳、倉賀野には浅間山古墳があり、山名には上野三碑がある。
考古学者の若狭徹氏によると、将軍塚古墳は、古墳時代の最初期に東海方面から現在の静岡、神奈川、房総を経由して利根川水系を遡って進出してきた勢力が、北関東、東北地域の在来勢力とのせめぎ合いの中で、くさびのように打ち立てた橋頭堡のようなものだと、たしか著書の中で指摘されていた。この勢力がやがて井野川を遡り、三ッ寺遺跡や保渡田古墳群をつくっていったということらしい。
そうだとすれば上毛野氏の始祖伝承の東山道や蝦夷を征服する将軍という(だいぶ時はくだるが征夷大将軍という役職の東国における意味は象徴的だ)位置付けは、何らかの史的な裏付けをもったものかもしれない。
もうひとつ注目すべきは、これも時代がやや降るが、6世紀?に榛名二ッ岳の噴火で被災し鎧を身に纏ったまま発見された古墳人は、おそらく通常であれば古墳に埋葬されるべき首長級の人物であり、骨のDNA鑑定?の結果、信州伊那方面から移ってきた渡来系の人物であろうとの研究成果は大変興味深いものだ。